清末民初に活躍した人々と革命団体

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

清末民初に活躍した人々と革命団体

1870年頃~1930年頃まで

物語

以下・ストーリー仕立て。↓

梁啓超 (1873~1929)

井波律子著
奇人と異才の中国史より
 
梁啓超(りょけいちょう)は清末から中華民国初期にかけて活躍した大ジャーナリストである。

広東省神会県の旧家に生まれた彼は、幼くして神童のの誉れ高く、光緒十五年(1889)17歳の若さで郷試(科挙の地方試験)に合格した。

彼を大きく変えたには1890年、当時、急激な改革論者だった康有為に師事し、新しい学問方法や西欧に関する知識を学んだことだった。

1895年、日清戦争の敗北によって知識人の間に危機感が高まり、康有為は北京に居た選挙人1200人に呼びかけ連盟で、光緒帝に上書し変法(政治改革)の必要性を訴えようとした。

梁啓超も名を連ね康有為を、補佐して奔走した。

1898年康有為ら改革派知識人は光緒帝のもとに結集し、政治、経済、社会機構の抜本的改革を図った。

いわゆる「戊戌の変法」運動である。梁啓超もこれに参加しおおいに力を尽くすが、この運動は西太后の率いる保守派の巻き返しにより、わずか3ヶ月余りで圧殺された。

このとき、梁啓超の友人譚嗣同は処刑され、梁啓超自身はかろうじて日本への亡命を果たした。このとき梁啓超の首には十万両の賞金がかけられていたという。

辛亥革命によって清が滅亡した翌年、1912年、13年におよんだ亡命生活を終えて帰国、清末から民国初期の転換期を生きた梁啓超鋭敏な現実感覚の持ち主であり、多種多様の分野に関心をもつ天性のジャーナリストだった。

梁啓超の詩より

雖成少許   成すこと少でも
不敢自軽   会えて卑下しまい
不有少兮   少なければ
多許奚自生 多も生まれない

陳天華 ちんてんか

晴海ゆり子さんの「鷹の歌」
陳天華の伝記)より 
☆陳星台の人柄を示すエピソードを少々

「激情の革命宣伝家」というイメージの強い陳天華だが、平生は無口で物静かだったらしい。あばた顔を「陳麻子」(=あばたの陳)とからかわれても、怒りもしなかったとか。また、爆弾テロで死んだ呉?(安徽省の人)はほとんど友人のいない孤独な人だったが、その数少ない親しい友(三人)のひとりとして「湖南の陳天華」が挙げられてもいる。

その人柄をよく表す文章がある。宮崎滔天の「亡友録」だ。それに拠ると、1905年12月6日、陳星台は宮崎と会っている。その前に滔天から招かれたことへの答礼で、彼は秘蔵のさざえの殻の盃でふるまった。滔天は彼の印象を次のように記す。

彼とはしばしば酒を飲み交わす機会をもったが、彼の寡言と言語不通ゆえに、「乾杯々々」の一語だけで会話はないのが常だった。(普通は筆談でいくらでも会話すると思うのだが)「彼は蛮骨稜々で眼光に力あり、一見してきかぬ気の人である事が分る。」

しかし、相対していると「謙遜優美の徳が溢るゝばかりで、何時ともなく、慕はしく恋しく、而して忘れ難き感情を惹起されるのであった。」

彼は手腕や陰謀とは無縁の、「高尚優美なる心情を有せる文士的先駆者」だった。(「亡友録/陳天華君」『宮崎滔天全集』第2巻)

また、革命家たちの詩の結社「南社」のメンバーだった曼昭がこんな逸話を記している。1905年、孫文、黄興と陳星台とが革命について論じ合っていたとき、星台の湖南弁を孫文が解さなかったため黄興が通訳した。星台がこれを大いに恥じて大泣きしたため、ふたりで交々なぐさめたと。

役者の揃え方といい状況の語られ方といい、とても事実とは思えず、単なる噂話に過ぎないと思われる。けれども、こんな話がまことしやかに語られるところに、当時の知識人たちが抱いていた「陳天華」のイメージがうかがわれる。

すなわち、憂愁と激情とを有する、愛すべき純情な田舎者。同じ文章で曼昭は、同じく踏海した湖南人革命家の楊毓麟と較べて、名望は陳天華が上だが文学的には楊のほうが優れているともいう。(楊毓麟は革命を志す前は科挙エリートだった)こういったあたり、前述の石陶鈞の言、「君は感情を以て、我は理知を以て」とも併せて、割り切れないものを感じる。

解説 辛亥革命への道

小島晋治・丸山松幸 著
中国近現代史 岩波新書336より
              p57~p72

●清朝の新政
1901年一月、西太后は「外国の長所をとり中国の短所を去って富強を図る」として、高官たちに国政に関する意見の具申を命じた。

これを出発点として、清朝は生き延びる為の新政を開始した。新政の推進者は袁世凱・劉坤一・帳之洞らだった。

その主な内容は
「科挙の廃止」1905年
留学生の外国、特に日本への派遣、これらによる新型官僚の養成などであった。

清朝の列強への従属が決定的になった時期にようやく行われたこの新政はさまざまの変化を中国社会にもたらし、それが清朝の墓穴を掘ることとなった。(略)

とくに日本留学生は、亡命革命家や改良派たちとの接触、また日本語訳のヨーロッパ近代思想の吸収、そして、維新以後の日本の発展と中国の現状との対比などを通じて、急速に立憲や革命の思想を受け入れていった。

 *日本留学生は1901年の280人から1905年約8000人、1906年には 
 1万8860余人と激増した。

他方,新政は、さしあたって民衆になんの直接的利益ももたらさなかった。それはかれらにとっては、べらぼうな重税を意味しただけだった。(略)

農民や都市貧民層は反税闘争や米騒動、を各地でくりひろげた。(略)

それは清朝の支配を弱め、ゆるがす大きな原動力となった。

辛亥革命

近代中国は日本がつくった

黄 文雄 
ワック株式会社

中国革命の担い手は日本で育まれた

腐敗した清国を転覆し、三百年近くにわたる中国統治に終止符を打たせたのが1911年の辛亥革命である。

・・・・・ それを推進した(略)その担い手が、若き清国の留学生たちだった。

・・・・ことに梁啓超が1902年に東京で創刊した『新民叢報』は,特に多くの留学生を立憲思想に目覚めさせている。

・・・・ 当時の彼は中国の福沢諭吉さながらだっ た。(略)彼の指摘は「中国には家族の倫理はあっても社会倫理はない」というものだったが、

・・・・・まさに中国の倫理の本質を暴くものである。
『新民叢報』は三万部を越えたこともあり、中国本国では海賊版まで出たほどである。


胡適は、
「梁啓超の文章を読んで血を沸かせない者はなかった」
と当時をを回想している。郭沫若も毛沢東も『新民叢報』の熱心な愛読者だった。

清国政府は国家の再興のために留学生を派遣しながら,かえって国家の逆賊を拡大再生産する形となった。

それほど留学生たちが日本から眺める故国の腐敗、弱体,後進ぶりは深刻だったのである。

1905年7月、 
孫文が約1年半の世界漫遊の旅から根拠地としていた日本へ帰った。
革命の闘士として孫文は、留学生の間では相当尊敬されていたようだ。

・・・・・・ 横浜に出迎えた留学生の代表は百名におよんだ。黄興の八起で八月に開かれた留学生による歓迎会には、千人以上が殺到し、会場外にも人が溢れる盛況だった。

・・・・ このような状況を見た孫文ら革命派は、在京の留学生だけで革命運動結社が作れるとの自信を深め、結成されたのが「中国革命同盟会」である。

孫文らの「興中会」
黄興や宋教仁らの「華興会」
章炳麟らの「光復会」
以上の革命三派が合同した。

在京留学生のほとんどがこれに加盟したといわれているが、成立後三年間におけるメンバーで記録が残る380名のほとんどが留学生だった。

・・・・・ 「軍国民」ブームの中で留学生たちは、当時日本国内に普及していた青年練成機関「体育会」にも通い始めた。その一番乗りが革命派の軍事的指導者になる黄興だった。

黄興は東京で大森体育会を作り、革命派留学生に軍事体操学を教えている。

・・・・ 黄興は毎日射撃を練習し、競技会では常にメダルを取るほど腕を磨いた。
また軍事教官について戦術も相当学んでいる。

後年、黄興が辛亥革命勃発直後に漢陽での戦闘を指揮していた時、背後から拳銃を構えた敵便衣兵(平服を着たゲリラ)が近づいた。

・・・・・ 日本人同士の萱野長知が「危ない」と叫んだ刹那、黄興は携えていた日本刀で紫電一閃、相手を額から唐竹割りに斬り下している。

これも日本で剣道を修めた成果である。

辛亥革命の南京城攻略戦において、

日本刀で敵の首級多数をあげたとされる黄興の長男・黄一欧は革命前夜、学生を集めて「野球界」を結成して、ボール投げをつうじて爆弾の投擲動作を訓練していた。

日本を拠点にした孫文 

・・・・・・孫文は今日でも中国共産党からは『中国革命の父』、台湾の中国国民党からは「国父」と称えられ、
全世界の中国人から尊敬されているが、その革命家生活40年のうちのおよそ三分の一は日本を活動拠点としていた。

・・・・・ 孫文は1866年11月12日、
広東省香山県(現在、彼の号「中山」をとって中山県と改称)に生まれた。
15歳でハワイに渡り、民主主義に触れて中国の後進性を知ったようだ。

一般には興中会は孫文がハワイで創設した反清革命結社とされているが、それは孫文自身が書き換えた「神話」である。

神話はともかく、孫文の実際の生涯は、孤独な「革命老人」の生涯だった。

・・・・・・ 十回蜂起して十回失敗し、三度政府を作って三度失敗している失敗だらけの人生で、逆に彼が関与しなかった革命はたいてい成功したなどと言われている。

辛亥革命にしろ、彼は一切関与していなかった。ただ他に有名人がいないとの理由だけで、三ヶ月ほど中華民国臨時大総統に就任していたに過ぎない。

ただ辛亥革命と前後して、中国を揺るがす騒乱を起こしつづけていたことは事実である。

・・・・・・・ 1895年10月、
日清戦争後の混乱に乗じ、孫文率いる興中会が広州で武装蜂起を計画した。

とはいっても、兵力は幇会と、にわかに募られた市井の無頼漢の数百人という無茶なものであり、たちまち発覚して弾圧された。

・・・・・・ そこで孫文はまず日本に逃れ、そこから米国、欧州へと革命宣伝の旅に出た。英国では清国公使館に捕らえられたものの、

小説ばかりの脱出劇を演じたために、「革命家」としてその名は世界に知られるようになった。

その彼が再起を期しての帰国途中、立ち寄ったのが日本である。意外にも日本には中国革命への同情者が多かった。

・・・・・ そしてそうした民間志士から庇護と援助を受けることができたため、この「革命浪人」はようやく日本という革命の拠点、策源地を得たのである。

・・・・・・ 彼は日本人同志を心から信頼した。1900年 、再び広東での蜂起を計画して以来、辛亥革命、第二、第三革命に至るまで、資金も参謀も持たない彼は、それらを主に日本人に依存している。

孫文革命のモデルも明治維新だった。

・・・・・ 清末の中国人は近代改革のモデルとして、明治維新を捕えていたが、孫文の場合は中国革命のモデルとして明治維新に注目してした。

・・・・・・ 彼は終生、「日本の明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である。両者は相互関連の関係にある」との信念を持ち続けていた。

・・・・・・・・孫文の革命生涯を眺めると、彼の数々の挙兵計画には現実状況を度外覗した、思いつきとも言うべき杜撰さが目立つ。

それでいて極めて自己中心的で他者の意見に従うことを嫌い、しかも、それでありながら常に他力本願である。

そんな孫文を梁啓超は「犬の遠吠え」と揶揄した。
 ・・・・・・陳炯明は「孫大砲(孫の大ホラ吹き)」と非難した。

・・・・・ 常に片腕となって働いた黄興ですら、実際は孫文を信頼していたわけではなく、ただ革命の大局的な判断から付き従っていたに過ぎない。

・・・・・・孫文の「中山」なる号はこの頃からのものだった犬養に日本での滞留許可の取り付けを依頼していた時のことである。孫文は平山周の案内で数寄屋橋外の旅館対鶴館に泊ることになった。

宿帳をつける際、日本人名を名乗ったほうが安全だと判断した平山は、少し前に日比谷の中山侯爵邸の前を通ったことを思い出し「中山」という姓を書いた。
 
日本人がお膳立てした中国革命派の大同団結。

・・・・・1905年 、中国同盟会が東京で発足したが、…この年、欧州から日本へ帰った孫文と黄興を引き合わせ、団結を促したのが宮崎滔天と末永節である。

・・・・・・湖南での革命に敗れて日本へ逃げ、革命派留学生のリーダー格となった黄興は、かって漢訳え読んだ『三十三年の夢』の著者宮崎滔天を訪ね、同志の契りを結んでいる。

また黄興は末永節とも意気投合し、平山周から二十発の手投げ爆弾の提供を受けたりしている。 

1911年10月10日

武昌(今の武漢)に駐屯していた清朝の際精鋭部隊,新建陸軍の革命運動を支持する将兵の反乱に始まる辛亥革命には・・・・

日本人で一番乗りは大連から駆けつけた末永節で、その直後に現地入りした黄興と、ともに戦闘に加わり、外交問題の処理の当った。

黄興は武昌の隣、漢陽における清政府軍との戦いを指揮していた萱野長知に打電し、日本人志士の来援を要請した。
 
萱野長知は孫文の最も古い日本人同士で・・・・・辛亥革命の報を米国にいた孫文に伝え、帰国を促したのも彼である。

湖北陸軍の顧問として現地にいた寺西秀武中佐も革命軍を指揮した。

革命軍が江岸停車付近での戦闘に大敗すると、寺西は全軍を召集して逆襲を命じ、武昌新軍の旅団長黎元洪と黄興にはそれぞれ軍刀を与え「死を以って事に従う」ことを誓わせている。

また黄興を総指揮官として、日本人の林大尉をその補佐とした。

漢陽の戦いは結局、内心、革命に乗り気でなかった黎元洪が援軍を派遣しなかった為革命軍の敗退で終わった。

黄興は撤退の折、黎元洪に武昌入城を阻止され、日本人志士たちに守られながら上海へ落ちた。

ドイツの軍艦が清政府軍を支持したことから、漢口の外国人は「これでは日独戦争だ」などと評した。

漢陽で敗れた黄興は、次は南京の攻略を企てた。・・・・・・・・・・・南京は12月2日、革命軍の手に落ちた。ここでの戦闘で活躍したのが当時二十歳を越えたばかりの黄興の長男、黄一欧である。

日本刀で三十六人もの敵の首を刎ねたと言われているが、いずれにしてもこの勇者の周りにはつねに日本人が付き添っていた。

漢陽が陥落する二日前、萱野長知は二通の電報を打っている。

一通は「早く帰って事態の収拾を。黄興、黎元洪だけではだめだ。」と 米国滞在中の孫文に帰国を求めたものである。もう一通は

『革命が成功しても人物がいないので誰か来て欲しい」とする、日本の頭山満、犬養毅に宛てた来援要請だった。

前者については、孫文はすぐには帰国しなかった長年革命の指導を夢見ながら、結局自分の出る幕がなかった彼は、少しでも面子が立てられるよう、米国から欧州へと資金集めの旅を続けたのである。

これに対して頭山、犬養らは上海に渡り、革命支援本部を設けた。

頭山は古島一雄、松平康国、中野正剛を引き連れていた。
当時、大元帥になっていた黄興はこのアジアの巨人の来訪を心から喜び、日本政府の動向について三時間に及ぶ協議を行った。その後、帰国した孫文も、頭山、犬養の手を取って感激のあまり泣き出したという。

井波律子著
  奇人と異才の中国史より

秋 瑾 

1875-1907 

清末の革命家秋瑾は浙江省紹興市の出身。祖父や父が挙人の資格で地方長官となったため、少女時代の秋瑾は廈門、台湾、湖南など各地に移り住む。1896年、22歳のとき、親の意向で湖南の富豪の息子王廷鈞と結婚、三年後の1899年、夫が官職を買い取ったため、北京に転居する。北京でのお嬢さん育ちの秋瑾を大きく変えた。

彼女が北京に移る前年の1898年、前述した康有為ら改革派の「戊戍の変法」運動が鎮圧され、北京に移った翌年の1900年には、外国勢力との対決をめざす「義和団運動」がおこるなど、騒然たる状況のなかで、秋瑾は政治意識の高い呉芝瑛なる女性との知り合い、大いに啓発された。一方、夫の王廷鈞は箸にも棒にもかからない金持ちのドラ息子であり、愛想をつかした彼女は離別を決意するに至る。

かくして1904年、秋瑾は8歳の長男をのこし、2歳の長女だけ連れて、日本に留学する(まもなく長女は付き添いの女性とともに帰国)。

日本語を学んだあとに、実践女学校に通学しつつ、政治集会に参加して陶成章や徐錫麟など多くの革命家と知合い、浙江出身者を核とする革命的秘密結社「光復会」、および孫文の率いる「同盟会」のメンバーとなる。天性のアジテーターである秋瑾が日本刀をひっさげて壇上に登り、異民族王朝清を痛烈に非難する姿には鬼気迫るものがあったという。

1906年、帰国。呉興県(浙江省)の女学校教師となるが、革命思想を宣伝すると非難され、えあずか二ヶ月で退職、上海に移って女性雑誌「中国女報」を創刊する。

秋瑾は革命家であると同時に、少女時代から騎馬や武術をマスターし、北京時代から好んで男装するなど、果敢に女性としての限界づけに挑戦してきた筋金入りのフェミニストでもあった。

翌1907年、故郷の紹興にもどり、「光復会」の中心人物である徐錫麟らが創設した大通体育学堂の校長になり、ここを拠点に徐錫麟と密に連携して軍事蜂起の準備をすすめる。しかし、この年7月6日、安慶(安徽省)で徐錫麟らが蜂起、安徽巡撫(総督)を刺殺したものの、蜂起じたいは失敗し、徐錫麟らは清軍に包囲され討ち死にしてしまう。

この結果、秋瑾の蜂起計画も発覚し、一週間後の7月13日に逮捕され、翌日未明に処刑された。このとき、秋瑾は「秋風秋雨 人を愁殺す」というあまりにも有名な一句をのこし、平然と刑に服したのだった。ときに33歳。

同郷人の魯迅の短篇小説「薬」は、この秋瑾の処刑にまつわる事件を描いた作品にほかならない。秋瑾は外国勢力によって半植民地化された清末の状況に憤りを発し、否定の化身となってはげしく抗い、短い生涯を燃焼しつくした。けっして妥協しないその生の軌跡は、先にとりあげた四人の女性、謝道蘊、魚玄機、李清照、柳如是と深いところで通底するものといえよう。

秋瑾の詩より「宝刀歌」(部分)

 白鬼 西より来りて 警鐘を做し
                白鬼西来做警鐘

 漢人 驚破す 奴才の夢
                漢人驚破奴才夢

 主人 我れに贈る 金錯刀
                主人贈我金錯刀

 我れ 今 此れを得て 心雄豪たり
                我今得此心雄豪

白人どもが西からやって来て警鐘を鳴らし、漢人は(満洲人の)奴隷に甘んじる夢から目覚めさせられた。主人は私に黄金作りの刀を贈ってくれ、それを手にした私は今や英雄の気概に満ちあふれる。

以下・史実に忠実に ↓

●辛亥革命 しんがいかくめい

1911年(宣統3)10月10日中国湖北省武昌(現在の武漢市)でおこった軍隊の蜂起をきっかけとし,清朝の専制政体を打ち倒し共和国中華民国を成立させた革命。陰暦辛亥の年におこったのでこの名で呼ばれる。

広義には,清朝内部で憲法制定ヘの試みが始められ,一方,革命を推進しようとする諸勢力が結集して中国同盟会を成立させるなどの動きがあった1905年(光緒31)から,袁世凱による帝制復活の策謀が封じられた1916年(民国5)までをさす。

1911年10月の革命を第1革命とし,1913年に入って袁の反動的諸政策に反対した広東・安徽・福建などでおこった反袁独立運動を第2革命,1916年におこった袁の帝制復活阻止のための護国軍蜂起を第3革命とする場合もある。

1905年8月,それ以前から革命運動を行っていた興中会・華興会・光復会

左2番目黄興‐孫文‐宋教仁

などの各地の革命派が結集して東京で中国革命同盟会を結成した。当時東京には1万人前後の中国人留学生が集まっており,彼らのあいだには革命思想が普及していた。同盟会は孫文を総理とし,彼の提唱した三民主義を綱領に,機関誌「民報」を発行した。

革命思想の宣伝活動を行い梁啓超ら改良派が刊行していた「新民叢報」と論争を展開したほか,中国国内で数次の武装蜂起を敢行し,新軍・秘密結社にはたらきかけた。彼らのめざした中国の革命は,農民・労働者の利害を主観的にではあるが代弁しつつ,彼らを民族ブルジョワジーが指導して行う性格のものであった。

これより先清朝は1905年に憲政視察団を外国に派遣し,翌1906年には9年後に立憲制を実施するという「予備立憲」の上諭を発布して,将来立憲制を採用する考えを示した。

さらに1908年には「欽定憲法大綱」を発布して大日本帝国憲法の模倣にもとづく君主権力の強い憲法制定の方針を明らかにした。各省の議会や中央の国会を開設する準備段階として,1909年,10年には各省に諮議局,中央に資政院という諮問機関を発足させ,このほかに地方議会を準備したり,各都市に商会を設置することを認めるなどし,1911年になって内閣制を発足させ,権力機構の再編成をめざした。

これら一連の立憲準備は,皇帝の権力を強化し,革命に対抗するために行われたもので,資政院・諮議局などの権限は限定された弱いものであったが,憲法制定による清朝の改革をめざす立憲派の人々は,それらの機関を政治的発言の場として利用し,1910年には全国各省諮議局連合会が3度にわたる国会早期開設の請願を行った。

一方,1905年,アメリカでの中国人移民禁止を定めた移民法に反対してアメリカ商品に対するボイコット運動がおこり,つづいて1908年には日本船第2辰丸の武器密輸事件や安奉鉄道改修問題をめぐって示された日本の高圧的外交に抗議して対日ボイコット運動が展開された。

これらの運動は多くの場合立憲派系の郷紳や商人によって指導されたが,その背後には成長をみせはじめた中国ナショナリズムの担い手としての広汎な人民大衆が運動に対し自覚的に参加したことがあった。

各地の農民や労働者・小商工業者は,重税に反対する「抗捐抗税」闘争を組織し,長江流域などでは,農民にとって伝統的反権力闘争手段の抗租(小作料不払い)闘争が発生し抗糧(土地税不払い)闘争もたたかわれるなどし,民衆の反権力闘争が社会の諸局面で噴出した。

1911年5月,清朝は日本の内閣制にならって慶親王奕キョウ※注5※を首相に内閣を発足させたが,この内閣は全閣僚13名のうち首相以下9名が満州族モンゴル族の王侯貴族で占められていたほか,軍の最高権力もすべて清朝の皇族が独占しており,清朝がめざしていた立憲政体がいかなるものであったかを暴露した。

このため清朝に期待を寄せていた立憲派は失望し,その他の漢族の官僚・地主にも不満を抱かせる結果となった。同じ5月に,清朝は幹線鉄道の国有令を下し,民営による建設途上にあった川漢鉄道と粤漢鉄道を国有化することにした。

この施策は,帝国主義列強から借款を引き出すために鉄道の権利をいわば抵当に入れるためのものであった。これに対し四川・湖北・湖南などの株主や民衆は,保路同志会などを結成して鉄道国有化反対運動を展開した。

とくに四川では納税拒否や商店・学生のストライキに発展し,9月四川総督は運動の中心であった諮議局議長らを逮捕し,彼らの釈放を要求する民衆100余名を射殺した。保路同志会は各地で保路同志軍を結成して清朝政府軍と衝突し,四川は内乱状態に陥った。

清朝支配の反民族的・専制的本質が暴露されると同時に,皇帝の政府が決定を下した政策に公然と反対する運動が郷紳・資本家・労働者・農民・学生など社会のあらゆる階層の一致によって行われたことで,清朝の権威失墜はだれの目にも明らかとなった。

こうしたなか,長江中流の政治・経済・軍事などの要衝で湖北省の省都武昌において,革命派の指導をうけた新軍による武装蜂起計画が練られていた。武昌に司令部を置く新軍の下士官・兵士のあいだには同盟会の影響を受けた革命団体文学社・共進会が組織されており,彼らは10月9日に蜂起する計画をたてていた。

この計画は事前に露見して指導部は逃走したり処刑されたりした。しかし革命派の下士官・兵士は1911年10月10日に武装蜂起を決行し,旅団長黎元洪を都督にすえて湖北軍政府を組織した。武昌蜂起の成功により革命は全国に波及し,12月には清朝は華北・東北の2,3の省を押さえるにすぎなくなった。

革命派は,清朝から独立した各省の代表者によって臨時参議院を組織し,孫文を臨時大統領に選出し1912年1月1日南京に中華民国臨時政府が発足した。臨時政府は大統領制を採用し,閣僚に黄興などの革命派幹部や立憲派のチョウケン※注6※などをあてた。

清朝はこれより先1911年11月に袁世凱を内閣総理大臣に任命し,革命派に軍事的圧力を加えるとともに交渉による妥協の途をさぐった。中国に権益をもつイギリスなど列強の思惑や干渉もあり,革命派内部にも事態の早期収束を求める考えが台頭したことなどもあって,皇帝宣統帝の退位とひきかえに袁を臨時大統領とすることで妥協が成立した。

革命派は袁に権力を譲るにさいし,主権在民・国民平等などを内容とする「中華民国臨時約法」を制定し,袁の専制化を防止しようと企図していた。

皇帝の退位による清朝の滅亡とアジアで最初の共和国の出現は,南京臨時政府が実施した賤民身分の廃止・纏足の禁止・太陽暦の採用など一連の社会風俗の改良政策とあいまって中国の人々に明るい未来を予感させるものであった。

ただし,革命派は大衆のエネルギーを有効に組織しえず,逆に各地の農民運動を弾圧し,封建的土地所有関係を解消する問題への取り組みにも熱心ではなかった。

同盟会は袁大総統のもとでの議会政党へと転換し,1912年夏国民党と改称する一方,三民主義の一つ民生主義の核心であった「平均地権」を綱領から削除するなどした。これらのことに革命失敗の原因がひそんでいた。

1912年末の総選挙において国民党は国会で第1党となり,同盟会から国民党への改組を推進した宋教仁を首班とする内閣が組織されうる情勢となった。

袁は事局の推移から,自己が象徴的国家元首に祭り上げられてしまう危険を感得して,1913年3月部下に宋を暗殺させ,4月には国会を無視して経済建設のためと称するイギリス・フランス・ドイツ・ロシア・日本の5国借款国と2,500万ポンドの借款契約を結んだが,実際は国民党を弾圧するための軍事費や議員の買収資金に用いられた。

袁が国民党系都督を罷免したのち,7月,孫文らは反袁武装蜂起を行い,第2革命が勃発した。

しかし,袁の軍事力の前に革命派は各地で敗れ孫文らは日本に亡命した。袁は国会を事実上廃止し,1914年臨時約法を破棄し,大総統に権力を集中させた別の臨時約法を制定した。

孫文ら中国ブルジョワ革命派は袁との闘争を継続し,第3革命をへて,多くの失敗を経験しつつ,やがて明確な反帝国主義・反封建の綱領を獲得し,それを人民大衆の前に堤示して彼らの革命への支持を得るべく革命運動をつづけた。

その意味で辛亥革命は,中国革命の出発点となった。

この革命がどのような勢力を中心として行われたか,また,革命によって中国社会にいかなる変化があったかについては,異なるいくつかの見解がある。

辛亥革命は中国のそれ以前の王朝が交代したのと同じく社会に大きな変革をもたらしたものではなかったとするもの,この革命による変革は半植民地・半封建コースに沿ったものであり,半植民地状況下での絶対主義が成立したものであるとするもの,ブルジョワジーによって専制王朝体制が打倒されたブルジョワ民主主義革命ではあるが,反帝国主義・反封建主義の点では不徹底な結果に終わったとするものなどである。.

●陳天華 ちんてんか

1875~1905 中国,清末の革命家。字は星台。号は思黄・過庭。湖南省新化県の人。日本に留学し,留日学生界の積極分子として拒俄義勇隊(反ロシア)に参加したり,湖南系の革命結社華興会に属するなどした。

湖南グループを代表する革命家。革命宣伝用のパンフレットとして,白話文で執筆された『猛回頭』や『警世鐘』がある。それらのパンフレットが,排外反満思想を吹聴するものであったことはもちろんであるが,康有為・梁啓超などの変法維新派に牛耳られつつあった留学生界に新風を吹きそそいだこともみのがせない

中国同盟会が結成されるにあたっては,孫文の民権主義を根幹とする革命論に共鳴するようになったため,湖南グループの代表格として参加し,機関誌『民報』の編集員として多くの排満共和の革命論文を発表している。当時の日本では,留日学生界が一つの大きな政治団体となりつつあった。

そこで清朝は,反清にかたむきつつある留学生達の行動を規制すべく,日本政府に要求し「清国留学生取締規則」を提示させたが,陳天華は,そのことに反発し,また愛国運動に無頓着な留学生を譴責する意図から,東京の大森海岸で投身自殺をとげている。ときに31歳であった。

●梁啓超 りょうけいちょう

 1873~1929 中国,清末民国初の啓蒙思想家・ジャーナリスト・政治家。広東省新会県の人。字は卓如・任公,号は新民子・飲冰室主人。康有為の万木草堂に学び,変法派の理論的機関誌『時務報』を創刊している。

また康有為の片腕として,戊戌変法を積極的に推進した。戊戌政変により日本に亡命し,より多くの近代思想に触れ,『清議報』『新民叢報』などを発刊し,精力的に西洋近代思想の紹介につとめた。とくに「新民説」は,中国の封建専制政治を痛烈に批難するとともに中国人一人一人に生存競争の世界に生き残るための国民としての自覚を喚起させるものであり,学生や青年知識人に多大の影響力を与えた。

梁啓超は,植民地国と化してしまった中国が再興するには,革命という急激な手段よりは現存の政治機構を温存したままでのおだやかな改革を最良としたため,終始一貫して立憲運動を推進した。

中華民国成立後は,袁世凱政権下で司法総長や財政総長を歴任したが,袁世凱の帝制運動には反対し,憲法研究会を組織するなど政治活動に奔走した。政界から引退後は著作に専念した。それらの成果として,『中国歴史研究法』や『清代学術概論』がある。

●戊戌政変 ぼじゅつせいへん

1898年(光緒24)9月,西太后(慈禧皇太后)が戊戌変法といわれる政治改革を圧殺した清国の宮廷政変。干支紀年では戊戌の年にあたるので,こう呼ばれる。1895年(光緒20・明治27)の日清戦争敗北によって,1860年代以来,曽国藩や李鴻章らがすすめてきた洋務政策の無効が明らかとなり,その上列強の対中国侵略はいっそう激しくなった。

そこで,康有為らを指導者とした新しい政治改革の主張(変法論)と,その採用を求める活動(変法運動)が高まった。彼らの主張は,直面している民族的危機を打開し,民族の独立と富強化をはかるためには軍備の増強・近代化だけではなく,政治制度と政策の全面的な改革を実施して,近代的国家体制を樹立する以外にはない,というものであった。

光緒帝は彼ら変法派の改革意見を採用し,1898年6月11日に政治改革の実施を宣布し,康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)らを採用して改革に着手した。

改革は,産業・軍事・教育・法制・行政機構など多方面な分野での近代化をすすめ,日本の明治維新を模範として立憲君主制の近代国家の樹立をめざす大改革であった。

しかし,当時はなお保守派が圧倒的に根強い勢力をもっていて,改革は容易ではなかった。もともと今文公羊学の立場にたって当時の主流の儒学思想を批判した康有為の学説は,学界の強い非難をあび,その著書は発売を禁止されたこともあった。

まして,その学説にもとづいた政治改革論は強い抵抗にあい,日清戦争直後からの数回の上奏も,そのほとんどが政府高官にはばまれて皇帝に届かず却下された。彼らが北京・上海に設けた強学会も禁止され,1898年4月に設立した保国会も非難を受けて停会のやむなきにいたった。

光緒帝が康有為らの参画を得て大改革に着手するや,西太后を先頭とした保守派官僚の反発をひきおこし,改革派とのあいだに激しい権力争いが発生した。光緒帝は皇帝の位についてはいたが,実権は西太后に握られていた。

早くも,光緒帝が改革着手を宣布した4日後,西太后は光緒帝の信任の厚い改革推進の最有力者オウドウワ※注1※から戸部尚書・軍機大臣などの官職を剥奪して本籍地へ追放する,新任の2品以上の大臣に西太后に対して「謝恩」の礼をとらせる,彼女の信任厚い保守派の有力者栄禄を直隷総督に任命したうえ,袁世凱の指揮下の新建陸軍などの最精鋭軍を統率させる,などの措置をとって公然たる改革妨害対策をうち出した。

また,改革支持者に対するさまざまな圧力も加えられ,工部尚書ソンカダイ※注2※を中心とする中央の改革派官僚や,改革に協力していたただ一人の湖南巡撫陳宝箴もしだいに康有為から遠ざかり,康有為自身も上海の『時務官報』の監督に任命されて,上海に左遷されようとした。

光緒帝はいっそう改革に積極的となり,9月初めには改革に反対した礼部の尚書・侍郎など高官の免職,改革に協力しない李鴻章など地方長官への叱責など保守派へ攻撃を加え,他方,譚嗣同ら優秀な若手改革派を軍機処へ登用して改革の促進をはかった。

しかし,中央・地方とも保守勢力が根強く,改革の実効は望めなかった。苦境の打開を焦った改革派は袁世凱に頼って非常手段に訴えて局面の好転をはかろうとし,保守派の領袖栄禄の殺害と,軍隊による西太后の居所頤和園の包囲を依頼した。

ところが,袁世凱はこれを栄禄に密告し,改革派弾圧の密計に加わった。ついに9月21日早朝,西太后の指示のもと政変がおこされた。光緒帝を中南海の一室に閉じこめ,西太后自らが「訓政」にあたることが宣され,改革派への決定的な弾圧が行われ始めた。康有為・梁啓超は事前に察知して前日に北京を離れ,康は上海をへて香港へ,梁は天津をへて日本へ亡命し,その後,海外で改革運動をつづけることとなった。

譚嗣同ら6人は「大逆不道」の罪名で逮捕されて,28日に処刑された(戊戌六君子と呼ばれる)。陳宝箴・黄遵憲ら改革派官僚数十人は免職となり,官界から改革派は一掃された。国政の全面的近代化をめざした改革は完全に挫折させられた。

〔参考文献〕矢野仁一「戊戌の変法及び政変」史林8―1・2・3

●袁世凱 えんせいがい

1859~1916(咸豊9~民国5)北洋軍閥の巨頭。中華民国の初代大総統。河南省項城県の人。字は慰享。号は容庵。李鴻章幕下の淮軍中より身をおこし,朝鮮で壬午の変・甲申の変を鎮圧。東学党の乱に際し朝鮮通商大臣として清軍の出兵を要請,日清戦争を誘発した。

戦後は天津付近で新建陸軍の訓練にあたり,北洋新軍の基盤をつくる。戊戌政変では西太后側に組し,のち山東巡撫として義和団を弾圧。1901年(光緒27)李鴻章を継ぎ直隷総督兼北洋大臣,1907年(光緒33)軍機大臣となるが,新帝即位とともに罷免された。

辛亥革命がおこると清朝より出馬を懇請され革命派の平定にあたるが,革命派と和議を結び清帝退位を条件に臨時大総統に就任,民国の実権を握った。1913年(民国2)第二革命鎮圧後正式に大総統となる。

1915年(民国4)日本の二十一カ条要求を受諾。反日気運の世論に乗じ帝制復活を画策したが反帝討袁の第三革命の高潮によって1916年(民国5)3月やむなく帝制を取り消し,6月病死した。

●譚嗣同 たんしどう

1865~98 字は復生,号は壮飛。湖南省瀏陽の人。父の譚継洵は1889年(光緒15)に湖北巡撫となった。嗣同は幼年より任侠を好み,古典や詩文も学んだ。だが6度郷試を受けたがついに及第せず,1894年(光緒20,明治27)の日清戦争を転機に科挙のための学問や考証学を捨てた。

以前より『墨子』の自己犠牲の精神や王船山の思想にひかれていたが,これを契機に西欧政治思想や西洋自然科学,康有為の変法論,仏学思想を取り入れて理論形成をし,『仁学』(1897,光緒23)を著し,政治制度改革の合理性,儒教道徳の批判を説いた。

他方,1895年(光緒21)湖南に強学分会設立を企て,のち金陵測量会(南京)・戒纏足会(上海)に参加した。また汽船・鉱山・鉄道の設立準備を通して湖南の開発につとめ,算学格致館や南学会・保衛局の設置など湖南変法運動を推進した。1898年(光緒24)6月に開始される戊戌変法では軍機章京となり,西太后のクーデタで挫折すると日本への亡命を拒否してすすんで捕われ,自らの鮮血をもって改革運動の高揚をねがった。

●華興会 かこうかい

清末の民族主義的革命団体。1904年(光緒30)2月15日に長沙で成立したといわれ,黄興を会長とし,宋教仁・劉揆一らが副会長となる。会員は陳天華ら約500名であっだ。留日留学生ら知識人により構成。

綱領では〈駆除タツリョ※注1※,恢復中華〉をかかげ,各省起義方式の革命をめざしていたが,西太后以下を暗殺する,いわゆる甲辰長沙の役を計画し,劉揆一は会党首領馬福益を加えて同仇会を結成,哥老会10万を五路軍隊に編成した。

11月16日(西太后70歳の誕生日)を期して蜂起し長沙を占領する予定であったが,事前に計画がもれ官憲が検挙を始めたため,黄興らは上海にのがれ挽回をはかったが成功せず日本に亡命する。翌1905年7月黄興は宮崎滔天の仲介で来日した孫文と会見し,中国革命同盟会結成へとむかう。

●黄興 こうこう

1874~1916 辛亥革命の指導者。湖南省善化県の人。原名は軫(ちん)。のち名を興,字を克強と改めた。武昌の両湖書院・東京の弘文学院速成師範科に学び,1903年(光緒29)帰国し革命活動を始める。拒俄義勇隊(のち軍国民教育会)を結成。

1904年(光緒30)長沙で華興会を組織し会長となる。長沙蜂起に失敗し,翌年東京で孫文とともに中国同盟会を結成した。以後広州・雲南各地で武装蜂起を指導,1911年(宣統3)趙声らと広州総督府を襲撃するが失敗(黄花岡の役)。

同年10月武昌蜂起が勃発するや,戦時総司令に就任,1912年(民国1)南京臨時政府の成立とともに陸軍総長となり,政府北遷後は南京留守府をあずかる。第二革命では江蘇討袁軍総司令となるが失敗,日本に逃れた。

亡命後孫文と意見が合わず,孫文の中華革命党に加入せず,新しい革命勢力の培養につとめ,資金調達と宣伝のため渡米。第三革命では孫文に呼応。袁世凱の死後上海に帰るが,10月病死した

●中国同盟会 ちゅうごくどうめいかい

清末の中国ブルジョワ革命派の統一的団体。孫文らを中心とする興中合,黄興らを中心とする華興会,章炳麟らを中心とする光復会が合同し,1905年(光緒31)孫文を総理として東京で結成。その規約によれば〈駆除韃虜,恢復中華,創立民国,平均地権〉を基本綱領とし,孫文によって民族主義・民権主義・民生主義のいわゆる三民主義が提起された。

留学生・秘密結社員・華僑を会員とし,中国国内・東南アジア・アメリカなどに支部を置く一方,機関誌「民報」を発行して宣伝に努め,また,1906年(民国32)の萍瀏醴起義など数次の蜂起を戦った。

革命諸団体の大同団結によって本格的革命運動開始の基盤となるなど重要な意義をもつが,清朝の支配に反対する民族主義を除けば必ずしも会内で意思統一ができていたとは言えず,辛亥革命の直接のきっかけとなる1911年湖北省の武昌蜂起でも組織的主導権を発揮できなかった。1912年統一共和党などと合同して国民党の結成をみた。

●興中会 こうちゅうかい

1894年(光緒20)ハワイで孫文らによって結成された政治結社。1911年(民国1)の辛亥革命にいたるブルジョワ民主主義革命運動の初期に,思想面・実践面で組織的基盤となった。

結成時の宣言文は,列強による中国分割の危機を訴え,清朝による漢民族支配反対を主張。入会時には,〈韃虜(満洲人=清朝)を駆除し,中華を回復し,合衆政府を創立する〉という誓いのことばを唱えた。

のち,香港に総本部を置き広東省広州や日本の横浜など海外に支部を設けた。華僑や秘密結社の会員をおもな構成員とし,1895年(光緒21)に広州で蜂起を計画したが事前に露見して挫折。1900年(光緒26)には広東省恵州で蜂起をおこしたが清朝の軍隊に鎮圧された。

ほぼ同時期に結成された穏健な改良主義を主張する康有為・梁啓超らの保皇会と競合し,華僑からは多くの支持を集めることができなかったが,革命気運を昂揚させつつあった在日中国人留学生の支持を得るようになり,彼らの組織していた華興会・光復会と合同して1905年(光緒31)中国同盟会の結成をみた。

●孫文 そんぶん

 1866~1925 近代中国のブルジョワ民主主義革命の推進者,政治家。字は徳明。号は逸仙・中山。中山樵・高野長雄の日本名をも使用。広東省香山県(現中山県)生まれ。

1878年兄孫眉を頼ってハワイに渡り教育を受ける。一時帰郷し,1883年以降香港で医学などを学ぶ。1894年李鴻章に上書して政治改革を訴えるが受け入れられず,ハワイで革命組織興中会を結成。1895年香港でも興中会を組織し,広州蜂起を計画するが不発に終わる。

日本・アメリカを経て,1896年ロンドンで清国公使館に捕えられたが,香港時代の旧師カントリーなどの助けで釈放され,“Kidnapped in London”をを著し,中国の革命運動家の存在を内外に知らしめた。大英博物館などで学んだ後,1897年来日。横浜で宮崎滔天と会う。

以後,犬養毅ら日本人との関係をもつ。彼らの仲介により康有為・梁啓超らと合作をめざすが挫折。1900年恵州蜂起,失敗。1905年華興会・光復会と合同して中国同盟会を結成し,総理となる。機関紙『民報』で三民主義を提唱。1906年の萍瀏醴蜂起以後数次の武装蜂起に失敗。

1911年黄花岡蜂起にも失敗後,武昌で辛亥革命勃発。アメリカで革命宣伝活動中であったが,イギリス・フランスなどで引き続き活動後帰国。1912年南京で中華民国臨時大総統に就任。北方の袁世凱政権と交渉の結果譲位。

革命により三民主義のうちの民族主義・民権主義は達成されたとし,地権の平均,鉄道の国有などを内容とする民主主義実現に力を注いだ。1913年宋教仁が暗殺されたことにより第二革命を発動。1914年東京で中華革命党を結成し反袁闘争を指揮。1915年宋慶齢と結婚。同年袁の帝制復活に反対して雲南で挙兵した護国軍の第三革命に呼応。

1919年中国国民党結成。陳烱明等軍閥と戦う一方コミンテルン・ソヴィエトと接近し,中国共産党員を国民党に入党させ,また,革命を主体としての労働者・農民に注目し国民党改組により国共合作を進め,1924年中国国民党第1回全国代表大会を開催し,いわゆる「連ソ・容共・扶助労農」の政策を確立。1925年北京で病没。

青少年期にハワイなどのミョションスクールで欧米流の教育を受け,1885年の清仏戦争後から政治問題に関心を抱くようになる。ただし当初から明確に革命を志向したのではない。

李鴻章への上書は,人材養成・農業・工鉱業の振興による改革を提議したもので,改良主義的性格をもっており,興中会の結成とその組織に拠っておこした武装蜂起により,初めて清朝を倒すという考え方と行動の一致をみた。さらに,一応の革命理論としての三民主義の原型は,清国公使館監禁事件後のロンドン滞在時に着想されたが,明確に提起されたのは中国同盟会の綱領としてであった。

同盟会結成後,革命は外国の介入を招くとし立憲君主制を主張する改良派の言論に反対し,土地問題に関し,地価の上昇分に課税することなどを内容とする地権の平均を唱えた。第二革命,第三革命を戦い,袁の死後軍閥が各地に割拠する状態になったが,1917年のロシア革命,1919年の五四運動に刺激を受けた後,帝国主義に対してこれ以前に見せることの多くなかった非妥協的態度をとり始めた。

国民党一全大会でのソ連と提唱し共産(党)主義を受け入れ労働者・農民を援助するという方針は,そのような転換の総決算であり,土地問題に関しても,「耕者有其田」(土地を耕す者=農民がその土地をもつ)に発展し,三民主義は本質的変化をみせた。

また,革命の実践経験に基づき,本質的革命理解の必要性を訴える(「知難行易」説)とともに,国家建説のプランとして「建国大綱」・「五権憲法」を発表した。

存命中理想とする政治をついに実現することはできなかったが,革命の実践による理論の構築と理論に基づく再実践,さらにその実践経験による理論の再構築を終生続け,反帝国主義・反封建主義のために戦い,中国革命の象徴的在在となった。

●第三革命 だいさんかくめい

中華民国成立後,1915年,袁世凱の帝制復活・帝位就任に反対し,雲南からおこった運動。1911年の武昌蜂起を発端とする狭義の辛亥革命を第一革命,1913年に発生した袁による宋教仁の暗殺および江西都督李烈釣・広東都督胡漢民などの免職をめぐる反袁運動を第二革命とする場合の呼称。護国軍起義・雲南護国運動などともいう。

【袁世凱と第二革命】袁世凱は,第二革命にたちあがった南京・江西・広東・安徽・福建などの反対勢力を圧倒的軍事力で鎮圧した。そののち,国会において自らを正式の大総統とする選挙を強行し,国民党を解党させ,1914年には臨時約法(旧約法)を停止し,大総統の権力強化をねらった新約法を制定した。

これら一連の経過により反対派は分裂・沈黙し,袁に政治上・軍事上の権力が集中し,辛亥革命によって達成するかにみえた共和国新中国への希望は完全に破壊され,革命の失敗が明白なものとなった。袁は儒教の国教化をはかる尊孔運動を行い,思想統制をめざすなど種々の反動的諸政策を次々とうちだした。

また,1915年にはアメリカ人顧問グッドノーに,中国における共和制の実施を不可とし,君主制復活を行うべきことを内容とする論文を発表させ,また,楊度に籌安会を組織させて世論形成を演出し,自らが皇帝になる準備を着々と進めた。

同年12月初めには,民意をくみとることをよそおうため国民代表大会を結成し,そこでの投票による推戴を応諾するというかたちで,翌1916年1月に即位式を行い,年号を洪憲とすることを決定した。

ところが袁の皇帝推戴受諾後の12月下旬,雲南都督唐継・らはこれに反対の意志表示を行い,麾下の軍事勢力を護国軍と改称して雲南の独立を宣言した。

1916年に入って貴州・広西・広東などがこの動きに呼応し,北方の袁を中心とする北京政府と,これに反対する南方の諸勢力の対抗関係が形成された。袁は南方の動きに対し,3月に帝制取消しの声明を発表するなどして事態の鎮静化をはかったが,6月病死した。

この後,北方では黎元洪が大総統となり段祺瑞が内閣を組織し,旧約法の回復などが南方とのあいだで合意され,南北の統一がはかられた。これで共和国の理想が再び輝きをとりもどすかにみえたが,北方派の内部分裂などをへて,軍閥が無原則な連合と,なりふりかまわぬ抗争を繰り返す暗黒の時期へと突入する。

【反袁運動と第三革命】第三革命を発動した中心勢力は,雲南都督唐継・の統括下にあった新軍,とくに中華民国成立以後の諸状況下で革命的な民主主義思想を受け入れた中下級の士官たちであり,

その周辺に,第二革命以来中華革命党を組織して反袁運動を継続していた孫文などや袁によって解散させられた国民党系勢力,唐の前任者で雲南の新軍に影響力をもった蔡鍔,蔡と人脈関係を有した進歩党系の梁啓超などがいた。

ただし彼らは袁の帝制復活に反対するという一点において結集したのであって,たとえば梁は,共和制下の立憲政治を求めるという考え方がその底にはあったにせよ,皇帝としての袁に反対はしても,中華民国大総統としての袁に反対する考え方はもっていなかった。

南方派は勢力の結集をはかって1916年5月,臨時政府としての性格をもつ軍務院を梁の構想にもとづき組織する。だが,袁が死去し南北の妥協が進展し始めると,梁は軍務院の解消を画策して,南方派勢力の結集を継続していこうとした国民党系の勢力と対立した。

袁の死によって結果的に帝制復活の阻止は達成されたが,成果はそれだけに終わり,社会変革への道は容易に切り開かれなかった。このような運動の不徹底性は,これをになった勢力が寄り合い所帯的であったことを背景とし,梁と国民党系との対立にみられたように,

それぞれが袁の帝位就任阻止という大目的以外はさまざまな思惑を包持していたこと,当時昂揚をみせつつあった民衆の運動の熱気を革命へ向けて組織化しえなかったこと,または,それへの取り組みが立ち遅れたことに起因している。

●宋教仁 そうきょうじん

1883~1913(光緒9~民国2)中国の清朝末期から中華民国初期の革命運動家・政治家。字は遯初。号は漁父。湖南省桃源県生まれ。1903年(光緒29)湖北省の武昌文普通学堂で学び革命思想をいだく。湖南省長沙で組織された革命団体華興会に加入したのち,長沙での蜂起に失敗して日本に渡り早稲田大学などで学び,1905年中国同盟会の結成に参加した。1910年(宣統2),上海で『民立報』によって革命宣伝を行い,翌年,同盟会中部総会を譚人鳳らと組織して長江流域での革命運動に従事。辛亥革命後,1912年(民国1)には南京臨時政府の法政院院長となり,さらに袁世凱の権力掌握下で唐紹儀内閣の農村総長をつとめたのち辞任し,孫文を理事長とする国民党を成立させ,事実上の党首として活動する。第1回国会選挙における国民党の勝利に貢献し,民主的議会政治確立をめざしたが,1913年,上海で袁の刺客に暗殺され第二革命のきっかけとなった。著書に,豆満江下流間島の帰属問題を扱った『間島問題』,日記『我之歴史』がある。

●宮崎滔天 みやざきとうてん

 1870~1922(明治3~大正11)中国革命に献身した革命家・大陸浪人の一人。本名寅蔵。戸籍上は虎蔵。熊本県玉名郡荒尾村(現荒尾市)生まれ。長兄の宮崎八郎や自由民権思想の影響を受け徳富蘇峰主宰の大江義塾に入る。後,東京専門学校・長崎のミッション=スクール「カブリ校」などで学ぶ。兄弥蔵の感化によって中国革命を志し,1891年(明治24)上海,1894年(明治27)タイへ渡る。弥蔵の死後1897年(明治30)横浜で孫文と出会った。この前後,金玉均と交わりフィリピン独立運動を援助した。1900年(明治33)恵州蜂起失敗後,革命運動に関係した日本人間の対立により一時活動から身を引き浪曲師となる。1906年(明治39)東京で萱野長知などと月刊新聞「革命評論」刊行。犬養毅ら日本の政財界人と革命運動の橋渡しの役割を果たすなど,終生,孫文・黄興らの思想を理解しその運動に参画した。1922年(大正11)東京で病没。著書に,半生記『三十三年の夢』『狂人譚』『支那革命軍談』その他新聞・雑誌掲載

●章炳麟 しょうへいりん

1869~1936 中国,清末民国初の革命家・学者。浙江省余杭の人。字は枚叔,号は太炎。孫文・黄興とともに辛亥革命の三尊の一人とされる。清朝考証学の集大成者ユエツ※注1※に『春秋左氏伝』を学び,音韻学・仏教学・史学にも精通した。初め康有為などの変法派に接近し,戊戌政変後ともに日本に亡命している。しかし,今文派・公羊学者とは根本的に相容れず,伝統的な郷紳知識層の民族主義の見地から,夷狄(満州族)を駆逐し中華を再興するという,いわゆる滅満興漢の種族革命思想を堤唱した。数度にわたる日本亡命では,孫文と提携するとともに,ようやく増加しはじめた中国人留日学生に古典学を講義しながら,民族主義をも鼓吹するなどして,多大の影響力を与えた。中国同盟会の結成にも積極的に参加し,機関誌「民報」の編集長として健筆をふるった。しかしながら,光復という伝統的な種族革命論にあくまで固執する章炳麟は,西欧的な民権の確立を第一とする孫文とは,根本的に相容れない思想の持ち主でもあった。ために,孫文ともしだいに疎遠となった。辛亥革命後は,南京臨時政府の枢密顧問・大総統府高等顧問などに就任した。しかるに第二革命後は,志を得ないまま政界から引退し,上海にあって学問に没頭し,『文始』『新方言』などで「小学」の概念を樹立した。

●三民主義 さんみんしゅぎ

中国民主主義革命の指導者孫文によって1905年(光緒31)に提唱された思想。ロシア革命の成功,辛亥革命,五四運動の経験などをへて厳密化され,1923年(民国12),国民党と共産党による統一戦線にあたり,綱領的な役割を果たした。この段階で“三民主義”は,反帝国主義にもとづく民族の解放・独立,世界の被圧迫民族との連帯をめざす(民族主義),政治を治権(行政権)と政権に分け,政府には治権を,人民には政府を監督・チェックする権限を与える(民権主義),土地改革による「耕者有其田」の実現と資本節制による重要産業の国有化(民生主義)ヘと発展し,ここから国民革命の3大政策“連ソ・容共・労農扶助”が生まれた。孫文の死後,国民党と共産党は分裂し,国民党は“三民主義”に儒教的解釈を加えて反共理論的内容を与え,一方,毛沢東は『新民主主義論』(1940)のなかで,“三民主義”は中共の新民主主義と基本的には一致すると述べた。

●光復会 こうふくかい

中国,清末の革命団体。浙江省紹興県出身の留日学生や亡命客または会党などを中心に結成された。光復会とは,文字通り失われた漢族の中国を満州族から奪回し再興することを大目的としたものであり,排満種族革命の思想を濃厚に備える秘密結社である。会長は,蔡元培。会員には,章炳麟・陶成章・秋瑾などがいた。会結成の源流は,1902年(明治35・光緒28)に東京で章炳麟の主催で開かれた「支那亡国242年紀念会」にもとめられる。ついでこれが,東京では拒俄(ロシア)義勇運動などともあいまって青年会・軍国国民教育会に発展する。一方,上海にあっても中国青年会・愛国学社が組織され,機関誌的なものとして『蘇報』が光復といういわゆる排満を標榜する革命論を宣伝しており,1904年(光緒30)の『蘇報』事件後に,上海で正式に結成された。1905年(光緒31)の中国革命同盟会の結成は,広東系の興中会・湖南系の華興会などとともにこの浙江系の光復会を基盤に結成された。

●陳独秀 ちんどくしゅう

1879~1942中国,民国の思想家。中国共産党初期の指導者。安徽省懐寧県の人。字は仲甫。号は実庵。抗州求是書院,東京高等師範学校に学び,口語新聞の発行,岳王会の組織など排満革命運動に従事。安徽都督府秘書長として辛亥革命に参加したが,第2革命後日本に逃れた。1915年(民国4)上海で「青年雑誌」(翌年「新青年」と改称)を創刊。儒教批判・文学革命を説き新文化運動の旗手となり,青年学生に大きな影響を与えた。1917年(民国6)からは北京大学文科学長として胡適など進歩的人材を結集するが,1919年(民国8)逮捕投獄され辞任。上海で共産党の組織に着手し,1921年(民国10)の創立大会では総書記に選ばれ,以後党の最高指導者となった。国共合作以後はコミンテルンの指導により,右傾化する国民党との提携維持につとめたため,1927年(民国16)右翼日和見主義者と批判され,1929年(民国18)トロツキストとして党を除名された。1932年(民国21)国民党に逮捕され,1937年(民国26)に釈放。1942年(民国31)四川省で病死した。

●蔡元培 さいげんばい

 1867~1940 中華民国の教育家・思想家。浙江省紹興県の人。字は鶴卿,号は孑民(げつみん)。清朝の進士,翰林院編集となるが戊戌政変後辞職。1902年(光緒28)章炳麟らと中国教育会を設立,愛国学社・愛国女学を創設,1904年(光緒30)陶成章らと光復会を組織するなど革命活動に投じた。1907年(光緒33)ドイツ留学。革命後帰国し,初代教育総長として教育改革に着手するが,袁世凱の専権に反対し渡欧。中仏教育会を組織し勤工倹学運動の基礎をつくる。1916年(民国5)帰国,北京大学校長となった。学問の自由を提唱し,胡適・陳独秀など進歩的知識人をも教授に迎え,科挙時代の遺風の一掃,五四連動では学生の擁護につとめた。国共合作期には中央監察委員など国民党政府の要職につき,また大学院院長,中央研究院院長をも勤めるが,1932年(民国21)宋慶齢・魯迅らと中国民権保障同盟を結成し,蒋介石政府の反動政治に反対した。1937年(民国26)日中戦争で上海陥落後香港に移り,1940年(民国29)香港で死去。

清末期・人名辞典

孫文(1866~1925)
宋教仁(1882~1913)
袁世凱(1860~1916)
黄興(1874~1916)
蔡鍔(1882~1916)
蘇曼殊(1884~1918)
劉師培(1884~1919)
譚人鳳(1860~1920)
厳復(1853~1921)
伍廷芳(1842~1922)
張勲(1854~1923)
呉昌碩(1844~1927)
ル・コック(1860~1930)
劉揆一(1878~1950)
馮国祥(1859~1919)
廖仲愷(1876~1925)
王国維(1877~1927)
李大釗(1888~1927)
陸栄廷(1858~1927)
黎元洪(1866~1928)
張作霖(1873~1928)
梁啓超(1873~1929)
蔡和森(1895~1931)
向忠発(1880~1931)
張宗昌(1882~1932)
陳烱明(1875~1933)
柯邵忞(1850~1934)
孫伝芳(1885~1935)
段祺瑞(1864~1936)
章炳麟(1868~1936)
胡漢民(1886~1936)
陳独秀(1879~1942)
馮玉祥(1880~1948)
閻錫山(1883~1960)

孫文(1866~1925)
字は徳明、号は逸仙、または中山。広東省香山の人。ハワイの兄のもとで教会学校に学ぶ。香港の医学校を卒業。1894年、ハワイで興中会を結成。翌年から清朝打倒を目指して幾度も武装蜂起を試みるが失敗。1905年日本で中国同盟会を結成してその総理となる。三民主義をかかげて、革命勢力の結集を図った。1911年辛亥革命が起こると急遽帰国。翌年、南京を首都とする中華民国の成立を宣言して大総統となった。その後大総統の地位は袁世凱に譲られ、袁の死後も北洋軍閥の後継者たちによって政権がたらい回しにされるようになった。孫文は第二革命を企図して、中華革命党を結成するが、失敗して日本に亡命。1917年以後、広州に中華民国軍政府を樹立し、軍閥打倒(護法の役)を試みるが失敗。1923年第一次国共合作を進め、国民党を改組。1925年馮玉祥の招きで北上し、北京で病没した。「革命いまだ成らず」と言い残したという。『三民主義』、『建国方略』。
宋教仁(1882~1913)
字は遯初、または漁父。湖南省桃源の人。地主の子として生まれた。日本の早稲田大学に留学し、黄興らと華興会を起こした。中国同盟会の会員として活躍。辛亥革命に際し、南京臨時政府の法制院総裁となり、臨時約法を作った。中国同盟会を改組して国民党を組織し、第一回の選挙を勝利にみちびいた。袁世凱の独裁を阻止しようとして、上海で暗殺された。
袁世凱(1860~1916)
字は慰亭、号は容庵。河南省項城の人。郷試に失敗して、軍隊に投じた。淮軍で活躍して、李鴻章の信任をえた。朝鮮で壬午の変が起こると、李鴻章の下で派兵し、朝鮮軍の実権を握った。日清戦争後は新軍の養成に尽力した。戊戌の変法では寝返って保守派についた。1899年山東巡撫となり、同年の義和団事件では、乱の鎮圧と外国人保護に努めて清朝内外の信任を得た。1901年、李鴻章の跡を継ぎ、直隸総督・北洋大臣に就任。1911年、辛亥革命が起こると、孫文と妥協。翌年、宣統帝を退位させて、臨時大総統となった。また翌年、正式に大総統となり、国民党と国会の解散を行って、第二革命を弾圧。1915年、帝政復活運動を起こしてみずから中華帝国洪憲皇帝を号した。反袁の蜂起が相次いで起こり(第三革命)、翌年帝号を取り消し、まもなく憤死した。
黄興(1874~1916)
もとの名は軫。字は慶午、号は克強。湖南省善化の人。1902年、日本の宏文書院に留学し、軍事や教育を学んだ。1904年に劉揆一・陳天華・宋教仁らと華興会を結成し、反清活動に従事した。1905年、孫文・章炳麟らと中国同盟会を結成した。1911年、黄花岡事件の中心人物となる。同年十月には辛亥革命に参加し、武漢攻防戦の総司令をつとめた。南京臨時政府では陸軍総長・参謀総長をつとめた。袁世凱に反対して日本に亡命したが、孫文に絶対的忠誠を誓う中華革命党の綱領に反発して孫文と離反した。渡米して反袁活動を続けた。第三革命に呼応しようと帰国し、湖南督軍に推されたが辞退し、譚延?を推挙した。上海で病没した。孫文・章炳麟とならぶ革命の三尊のひとり。
蔡鍔(1882~1916)
字は松坡。湖南省邵陽の人。戊戌政変では変法派に属した。日本に留学して、陸軍士官学校に学んだ。辛亥革命では、革命派と呼応して雲南で蜂起した。革命後、雲南都督となった。1913年、第二革命に呼応しようと準備していたところを、袁世凱に呼び出されて上京し、陸軍の閑職についた。袁世凱の帝政復辟に際して、秘かに梁啓超と連絡して反袁を約した。1915年末、昆明において、袁世凱討伐・雲南独立を宣言して、自ら護国軍を率いて四川に入り、袁軍と戦った(護国戦争、第三革命)。袁の死後、病気治療のために来日し、福岡で病没した。
蘇曼殊(1884~1918)
名は玄瑛、字は子穀。日本の横浜で生まれ、早稲田大学で学んだ。日中を往来して多くの革命志士と親交を結んだ。サンスクリットをよくし、画に巧みであった。バイロンの詩を翻訳、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を陳独秀と共訳した。『断鴻零雁記』。
劉師培(1884~1919)
またの名を光漢。字は申叔、号は左庵。江蘇省儀徴の人。若くして考証学者として名をあげた。『中国民族志』を撰し、『攘書』などの反清著作をものした。章炳麟と交友し、光復会に加盟した。1907年に渡日し、幸徳秋水らと交友してアナキズムに傾倒し、『天義報』『衡報』を創刊した。『天義報』が発禁となったため帰国すると、突如変節して革命派の同志を密告した。辛亥革命後は裏切者として追求されたが、章炳麟の尽力で釈放された。北京大学教授となり、袁世凱の帝政を支持し、また文学革命に反対して『国故月刊』を創刊した。『劉師培遺書』。
譚人鳳(1860~1920)
字は石屏、号は石叟。湖南省新化の人。1904年に華興会に加わった。1906年、反清蜂起に失敗して日本に亡命し、法政大学に学んだ。中国同盟会に加入。孫文の南方偏重に合わず、1911年に中部同盟会を結成して、総務会議議長となり、武昌蜂起に参加して辛亥革命の直接の原動力を作った。南京臨時政府成立のときには、南北講和に反対して、北伐を主張した。第二革命で湖南で反袁の兵を挙げたが、失敗して日本に亡命。のち上海で没した。『石叟牌詞叙録』。
厳復(1853~1921)
字は又陵、または幾道。福建省侯官の人。十四歳のとき、福州船政廠に付設された船政学堂に入り、航海術を学んだ。1877年、航海術を学ぶため英に留学したが、西欧の政治制度や思想に触れて傾倒した。帰国後、専制政治を批判して、立憲政治を主張した。ミルやスペンサーらの著作を翻訳してその思想を紹介した。晩年は西欧近代思想にしだいに懐疑的になり、籌安会に参加して袁世凱の帝政を支持し、孔子崇拝を唱えて孔教会に名を連ねるなど、かつての名声を失った。『天演論』。
伍廷芳(1842~1922)
字は文爵、号は秩庸。広東省新会の人。シンガポールで生まれた。香港の聖ポール学院を卒業した。1874年、英国に留学。帰国後は香港で法官などをつとめた。1882年、李鴻章の幕下に入り、洋務運動に尽力した。1896年から米国・スペインなどで公使をつとめた。1902年に帰国して、商務大臣・外務部右侍郎などの職を歴任した。沈家本とともに新しい刑法の制定にあたった。1911年、辛亥革命が起こると、陳其美らとともに共和統一会を組織した。まもなく南方民軍全権代表に推されて、南北講和の折衝にあたった。1912年、南京臨時政府が成立すると、司法総長に上った。1916年、段祺瑞内閣の外交総長をつとめた。まもなく広州に下って、護法軍政府の外交部長に任ぜられた。1922年、広東省長となった。
張勲(1854~1923)
江西省奉新の人。袁世凱に従い、1908年に甘肅提督。1911年、江南提督。民国になっても清朝に忠誠を誓い、辨子軍と称された。1913年には第二革命を鎮圧して江蘇督軍。1916年には安徽督軍となった。1917年、対ドイツ参戦問題で黎元洪と段祺瑞の対立が激化したとき、北京で宣統帝の復辟を宣言したが、段祺瑞に敗れて、オランダ公使館に逃げ込んだ。翌年、特赦を受けた。
呉昌碩(1844~1927)
本名は俊卿、号は缶廬。浙江省安吉の人。幼いころ太平天国の乱のために一家は離散した。湖北や安徽を放浪する生活を送った後に故郷に帰った。同治年間に秀才となったが、それ以上の科挙に応じず、金石学を学び、酸寒尉として書画や印鑑を売りながら、また大官の幕客として暮らした。1899年には安東県令となったが、わずか一ヶ月で辞任した。1904年には西冷印社を結成し、1913年にその社長となった。晩年は上海に住んで文墨活動にいそしんだ。1927年中風のため上海で没した。詩・書画・篆刻にすぐれた。
ル・コック(1860~1930)
名はアルベルト。ドイツの人。葡萄商人の家に生まれた。英米に留学し、医学を学んだ。帰国後に家業を手伝うが、ベルリンにうつってオリエント諸語を学んだ。1900年ベルリン民族博物館に入った。1901年から翌年にかけてシリアの探検・発掘にあたった。また1904年11月かせ翌年12月までトルファン・ハミを、1905年12月から1907年4月までクチャ・カラシャール・トルファン・ハミを、1913年6月から翌年2月までクチャ・トムスクを発掘し、トルコ語文献の研究に貢献した。1925年にベルリン民族博物館館長となり、学術展示や図録作成につとめ、西域美術を世界に紹介した。『高昌』、『シナ-トルキスタンの埋もれた財宝』。
劉揆一(1878~1950)
字は霖生。湖南省湘潭の人。1903年、日本に留学した。まもなく湖南に帰り、翌年には華興会に参加して副会長となった。会党と連絡して同仇会を組織し、長沙蜂起を謀ったが、失敗してまた日本に逃れた。1907年、中国同盟会に入り、執行部庶務幹事となり、のちに総理の職務を代行した。衆議を排して、孫文の指導的地位を擁護した。武昌蜂起が起こると帰国して、漢口で参戦した。1912年、袁世凱政府の工商総長に任ぜられた。のち護国運動に参加した。天津で「公民報」を発刊し、帝制に反対した。1916年から1918年にかけて国会議員をつとめた。新中国建国後、湖南省軍政委員会顧問として招聘された。『黄興伝記』。

[中華民国(1912~)]

馮国璋(1859~1919)
字は華甫。直隷省河間の人。北洋武備学堂を卒業。1893年、淮軍に入った。袁世凱が天津で新軍を練兵したとき、督練営務総辧に任ぜられた。義和団の乱の鎮圧に参加。1903年に練兵処が設置されると、軍学司司長となる。1906年、署正黄旗蒙古副都統・陸軍貴胄学堂総辧に上った。王士珍・段祺瑞とともに北洋三傑と称された。辛亥革命のとき、第一軍軍統として鄂州に出兵して鎮圧にあたり、その後は袁世凱に協力して、その政権樹立に尽力した。1912年に直隷都督、1913年に江蘇都督と歴任し、第二革命の鎮圧にあたった。袁の死後、直隷軍閥の首領となり、安徽派の段祺瑞と争った。黎元洪の下で副総統となり、1917年の張勲復辟失敗後に代行大総統となる。翌年、段祺瑞に圧されて下野した。さらに翌年、北京で病死した。
廖仲愷(1876~1925)
もとの名は恩煦。広東省帰善の人。アメリカに生まれた。1902年、日本に留学し、法政大学を卒業。中国同盟会に参加して、孫文と親交を結んだ。辛亥革命後は広東都督府総参議・理財政となった。1914年中華革命党に参加し、財政部副部長をつとめた。第二革命に失敗して、日本に亡命。1920年に帰国。国民党財務部主任・大元帥府財政部長・秘書長・広東省長などをつとめた。国民党左派の指導者として活躍した。1924年、国民党中央常務委員・工人部部長・大本営秘書長・農民部部長。1925年、国民政府委員・軍事委員会委員・国民革命軍総党代表。この年の9月に右派のため暗殺された。
郭松齢(1886~1925)
字は茂辰。遼寧省沈陽の人。北京陸軍大学を卒業した。1916年、張作霖の部下となり、奉天派の将領として転戦した。奉天軍閥内で日本留学派の楊宇霆と対立し、親露的とみなされた。のちに馮玉祥に接近し、1924年の第二次奉直戦争のおりに張作霖に叛旗を翻したが、戦いに敗れて銃殺された。
王国維(1877~1927)
字は静安、号は観堂。浙江省海寧の人。王乃誉の子。1896年、時務報館の書記となった。薄給多忙の中を苦学し、1901年には日本に留学した。はじめドイツ哲学や中国古典文学を学んだ。のちに経学・史学・金石学を研究。羅振玉とともにおこなった甲骨文字の研究は有名である。1916年に帰国して、清華研究院の教授となる。敦煌出土の木簡を通じて漢代史や唐代音韻学にも貢献した。また詞曲の俗文学的研究や蒙古史料の校訂をおこなった。再興の望みのない清朝に絶望して、北京の昆明湖に身を投げて自殺した。『観堂集林』。
李大釗(1888~1927)
字は守常。河北省楽亭の人。幼くして両親を失い、苦学して北洋法政専門学校に学んだ。辛亥革命ではラン※1州起義に加わった。のち日本の早稲田大学に留学。袁世凱の死後に帰国して、北京大学教授となる。『新青年』の編集に参加して、新文化運動を牽引した。1918年以降、マルクス主義に傾斜。陳独秀とともに、五・四運動を指導した。1921年、中国共産党の創立に参加。第一次国共合作に貢献した。党の華北の重鎮だったが、ソ連領事館に匿われていたところを、張作霖軍によって逮捕され、処刑された。
陸栄廷(1858~1927)
字は乾卿。広西省武鳴の人。壮族の出身。1893年に清朝の招撫を受けた。1905年、巡防営統領となった。1907年、鎮南関の蜂起の鎮圧にあたり、総兵に上った。1911年、広西提督となった。辛亥革命が起こると、広西都督となった。勢力を拡大して桂系軍閥の頭目となった。1916年、肇慶軍務院九撫軍のひとりとなった。袁世凱の死後、広東に入り、自ら督軍と称した。まもなく両広巡閲使となった。孫文が護法軍政府を立てると、広州から離れるよう孫文に迫った。1922年、広西軍務督理となった。1924年、桂系軍閥が解体されると、蘇州にうつった。
黎元洪(1866~1928)
字は宋卿。湖北省黄陂の人。1883年、天津の北洋水師学堂に入学した。1888年に卒業し、海軍に入った。日清戦争に従軍。のち張之洞のもと砲兵の練兵にあたった。新軍の編成に参与し、また日本に留学した。1911年、湖北新軍の旅団長であったとき、辛亥革命に遭遇。推されて湖北軍政府を掌握した。翌年、南京臨時政府が成立すると臨時副総統となる。進歩党を組織し、袁世凱を擁して国民党と対立した。湖北において第二革命を弾圧し、革命派の人士や兵員万余人を殺害したといわれる。袁の死後の1916年、北京政府の大総統となったが、国務総理・段祺瑞と対立し、翌年には府院の争を起こして段祺瑞を解任した。しかし、張勲の復辟事件が起こったため辞職した。1921年に再度大総統となったが、1923年曹?に追われて下野した。1928年天津で病没した。
張作霖(1873~1928)
遼寧省海城の人。馬賊より身を起こし、清に帰順。1916年には奉天督軍となり、東北奉天軍閥の首領となった。1920年には直隷派と組んで、安徽派の段祺瑞を逐った(安直戦争)。1922年、直隷派の曹?・呉佩孚らと第一次奉直戦争を争い、敗北して奉天に退き、東北三省の自治を宣言した。1924年、第二次奉直戦争を起こして勝利し、段祺瑞を臨時執政に就けた。日本の支援をえて、1927年には北京で大元帥となる。国民党の北伐軍に敗れ、奉天への帰路に、日本軍による列車爆破のため死んだ。
梁啓超(1873~1929)
字は卓如、号は任公。広東省新会の人。1889年、郷試に及第した。翌年、康有為と出会い、その思想に傾倒した。1895年、会試受験のため上京したが、おりしも日清戦争講和をめぐって公車上書運動が起こり、康有為を扶けてこれに参画した。翌年、黄遵憲らと『時事報』を創刊し、「変法通義」などの論文を発表した。1898年、変法派の百日維新に参加し、戊戌の政変で日本に亡命。横浜で『清議報』を刊行して、清の皇帝の下で封建的専制政治を打破することを唱えた。1902年、『新民叢報』を創刊して、西洋の学説・文化を紹介し、文体の改革を提唱した。立憲君主制を主張して、豪・米を廻って保皇会を組織し、革命派の孫文らに対抗した。辛亥革命後に帰国し、進歩党を結成。北京政府に参加して司法総長となった。袁世凱の帝政運動が進行すると、雲南の護国軍政府に参画した。袁世凱の死後は、護国軍政府を解散し、段祺瑞内閣の財政総長に就き、第一次大戦への参戦を主張した。1919年、パリ講和会議に参加。翌年、政界を退き、以後は著述に専念した。『清代学術概論』、『中国歴史研究法』。
向忠発(1880~1931)
湖北省漢川の人。1922年、共産党に入党した。1926年、湖北省総工会委員長。1928年、モスクワで開かれた第六回中国共産党大会で、瞿秋白の跡を継いで総書記となった。李立三の都市蜂起路線を支持したが、失敗すると自己批判。1931年、李立三の支持者・顧順章によって国民党官憲に売り渡され、処刑された。
蔡和森(1895~1931)
字は潤蓑、号は澤膺。湖南省湘郷の人。湖南第一師範学校卒業。1918年、同窓の毛沢東と「新民学会」を組織した。翌年、勤工倹学に参加して仏に留学した。1921年、仏当局により強制送還された。同年、上海で共産党に入党。1925年、党国際代表団代表。のちに党政治局員となる。1927年、英国当局に逮捕され、広州で陳済棠に引き渡されて処刑された。毛沢東の思想に大きな影響を与えたと言われる人物であった。
廖平(1852~1932)
字は季平、号は六訳。四川省井研の人。光緒年間、進士に及第した。はじめ竜安府学教授に任ぜられた。射洪安岳教諭・綏安府学教授・尊経書院襄校などを歴任した。宋学・古文経学を研究し、康有為の影響を受けて、今文尚書を孔子の真学と論じ、古文尚書に基づく経学を偽学と断じた。辛亥革命後は、四川国学院で教鞭をとった。1921年、高等師範学校・華西大学教授を兼ねた。1924年、故郷に帰って再び世に出なかった。『四益館経学叢書』。
張宗昌(1882~1932)
字は效坤。山東省掖県の人。東北に流れて馬賊となる。辛亥革命のときは上海にいて光復軍団長をつとめた。1913年、馮国璋に投じた。陳其美の暗殺にかかわったほか、馮国璋の侍衛官長などをつとめた。湖南・江西を転戦して敗亡し、1921年に張作霖に投じた。翌年、綏寧鎮守使に任ぜられ、鉄甲軍隊の成立後、奉天派の主要な将領のひとりとなった。1924年の第二次奉直戦争では副軍長・軍長・蘇皖魯三省剿匪総司令として活躍。翌年、山東省軍務督弁となる。李景林とともに直魯聯軍を結成した。1928年、安国軍副司令として北伐軍と戦ったが敗北した。残軍は白崇禧に吸収された。のち、済南駅頭で韓復榘派の人士により暗殺された。
鄧中夏(1890~1933)
もとの名は鄧康。号は仲懈。湖南省宜章の人。五四運動に参加後、労働運動の指導者となった。1922年中国労働組合書記部主任。1925年、香港で反英ストを指導した。1930年、紅軍第二軍団政治委員。1933年、上海で逮捕され、南京の雨花台で処刑された。『中国職工運動簡史』。
陳烱明(1875~1933)
字は競存。広東省海豊の人。1908年、広東政法学堂を卒業。翌年、広東省諮議局議員となり、中国同盟会に参加。辛亥革命後は広東副都督、ついで都督に推された。第二革命に敗れて亡命。1916年恵州に越軍を組織し、自ら総司令となり、福建に進軍した。翌年、孫文を擁して広東軍政府を組織した。1920年、広東省長・越軍総司令。翌年、軍政府陸軍部長・内務部長。1922年、北伐に際して広東にとどまり、以後は孫文と袂を分かった。1933年、福建革命に参加する直前に香港で病没した。
柯邵忞(1850~1934)
字は鳳孫。山東省膠県の人。光緒年間、進士に及第した。翰林院編修・侍読・国子監司業となった。湖南学政・湖北提学使・貴州提学使として赴任した。のち、京師大学堂総監・典礼院学士などを歴任した。『畿輔通志』の編修に参与した。また宣統帝の侍講をつとめた。民国成立後は官に就かず、自宅に隠居し、参政院参政・約法会議議員に選出されたが、就任しなかった。1914年、清史館を設けて総纂兼代館長となり、『清史稿』の本紀を審閲し、儒林・文苑伝を整理し、天文志を撰した。『新元史』を編纂して、日本の東京帝大より文学博士号を受けた。また『釈史補』を著して、洪鈞『元史釈文証補』を補った。1925年、東方文化事業総委員会委員長に任ぜられ、『四庫全書提要』の続修を主持し、経部『易経』類を整理し、提要百五十二則を撰した。経史・金石・天文・目録の学問に長じたが、史学の観点はきわめて守旧的だったという。ほか『新元史考証』、『春秋穀梁伝注』など。
劉復(1890~1934)
仏に留学し、パリ大学で言語学を学んだ。『新青年』の編集にあたり、文学革命で活躍した。中国文字のローマ字化や四声の廃止などを主張した。北京大学教授。
瞿秋白(1889~1935)
号は雄魄、熊伯、鉄柏など。江蘇省常州の人。北京『晨報』の特派員としてソ連に行き、1922年共産党モスクワ支部に加入。陳独秀の通訳・秘書となり、陳とともに帰国。『新青年』などの編集にあたった。1927年第一次国共合作が崩壊すると、陳独秀に代わって共産党総書記となる。翌年、モスクワで批判され失脚。1934年江西ソヴィエト政府の教育部長となるが、翌年国民党に逮捕され死刑に処せられた。左翼作家連盟の指導者でもあった。魯迅を高く評価した。『多余的話』など著作多数。
孫伝芳(1885~1935)
字は馨遠。山東省歴城の人。北洋武備学堂を卒業し、日本に留学して、1908年に陸軍士官学校を卒業した。辛亥革命後は、湖北督軍・王占元の麾下にあった。1920年、直隷派の呉佩孚の下につき、長江上游警備総司令・福建軍務督理などをつとめた。1924年、?浙連軍総司令・?浙巡閲使・浙江軍務督理に上った。翌年、五省連軍総司令となり、南京に鎮し、直隷系軍閥として長江流域に勢力をふるった。1926年、江西で蒋介石の北伐軍に敗れ、天津に逃亡して、張作霖に投じた。安国軍副総司令・五省連軍総司令に任ぜられた。1927年、李宗仁らと竜潭戦役を戦い、軍主力を失った。残軍は閻錫山に吸収され、自らは張学良の顧問となった。1935年に暗殺された。
段祺瑞(1864~1936)
字は芝泉。安徽省合肥の人。1889年、北洋武備学堂を卒業。ついでドイツに留学。帰国後、天津で袁世凱の新軍練兵を扶けた。義和団の乱鎮圧に参加。1902年、北洋軍政司参謀処総辧となる。王士珍・馮国璋とともに北洋三傑と称された。1910年、江北提督に上った。辛亥革命にあたっては鄂州に出兵して鎮圧にあたり、その後は袁世凱の政権樹立に尽力した。1912年、袁世凱政権の陸軍総長。翌年代理国務総理となり、第二革命の鎮圧にあたった。代理湖北都督・湖南都督。1916年、袁の死後に国務総理に上り、北京政府の実権を握った。安徽軍閥の首領として、直隷派・奉天派と争った。親日的な政策をとり、寺内正毅内閣から西原借款による援助を受けた。第一次大戦には連合国側に参戦。しかし、翌年の府院の争により大総統・黎元洪に総理位を解任されたが、張勲の復辟を撃破し、国務総理に返り咲いた。臨時約法と国会の復活を拒否し、民主派を弾圧した。1920年、安直(直皖)戦争に敗れて失脚した。1924年、第二次直奉戦争によって、張作霖らの支持で臨時政府執政となる。翌年、善後会議を召集。1926年、馮玉祥に追われて下野した。のち国民党政府委員をつとめた。1936年に病死した。
章炳麟(1868~1936)
字は枚叔、号は太炎。浙江省余杭の人。兪越に師事して学んだ。はじめ康有為に賛同して変法派に属した。のちに反清運動に転じて、孫文と接近した。1903年には光緒帝を貶して逮捕され、上海の西牢に入獄し、三年を過ごした。出獄後、日本に渡って中国同盟会に参加した。蔡元培と協力して『蘇報』『民報』を発行し、また清朝打倒のため光復会を設立した。やがて孫文と離反して、1910年に光復会を再組織、会長となった。辛亥革命の後は、南京首都・臨時約法に反対して、連邦制・省憲法制定を主張した。袁世凱政府のもとで東三省籌辺使に任ぜられたが、帝政に反対して軟禁された。袁の死後は、ふたたび孫文と協力し、広州大元帥府秘書長をつとめた。のち、講学・執筆に専念した。孫文・黄興とならぶ革命の三尊のひとり。
魯迅(1881~1936)
本名は周樹人。字は豫才。浙江省紹興の人。幼少のころ、家は没落して貧しかった。1902年、官費で日本に留学して、仙台医学専門学校に入るが、中退。文学に転じて、東京で文学活動をはじめた。帰国して郷里で教員をしていたが、辛亥革命後に北京に移住。1918年に処女作「狂人日記」を発表して一躍有名となり、小説・詩・評論・翻訳などの著作活動で活躍した。『阿Q正伝』、『中国小説史略』など多数。
胡漢民(1886~1936)
字は展堂。広東省番禺の人。1902年、日本に留学し、法政大学に入った。1905年、中国同盟会の結成に参加し、評議員・執行部書記となり、『民報』の編集にあたった。1907年、孫文に従って、黄岡・鎮南関の蜂起に参加した。失敗後、シンガポールに渡り、『中興日報』の主筆となり、同盟会の南方総支部長となった。雲南河口の役、広州新軍の蜂起、黄花崗の蜂起に参加した。1911年、辛亥革命が起こると、推されて広東省都督となった。翌年、南京臨時政府の総統府秘書長となった。孫文が退任すると、広東に帰り、広東都督・民政長。翌年、袁世凱により解任された。1914年、中華革命党に参加し、政治部長となる。雑誌『民国』の主編をつとめた。1917年、護法軍政府で交通部長。1924年、国民党改組で中央執行委員、広東省省長。孫文が北伐すると、大元帥の職務を代行した。孫文の死後に訪ソ。1927年、南京国民政府が成立すると、国民政府主席。翌年には国民政府立法院長に就いた。1931年、反蒋の中心人物として職を追われた。1933年、香港で『三民主義月刊』を創刊した。1936年、広州で病没した。『演講集』。
曹锟 (1862~1938)
字は仲珊。直隷省天津の人。北洋武備学堂を卒業した。袁世凱の北洋新軍に入り、第三鎮統制・第三師師長に上った。袁の死後、直隷督軍となり、次いで直隷省長となって、直隷派軍閥の首領の地位を固めた。1920年、奉天派と結んで安直(直皖)戦争を戦い、安徽派の段祺瑞を逐った。1922年、第一次奉直戦争を争い、奉天派の張作霖を逐った。翌年、アメリカの支持を受け、直隷派の覇権を確立し、議員買収選挙(賄選)を行い、北京政府の大総統の地位に就いた。憲法を公布した。1924年、第二次奉直戦争が起こり、そのとき馮玉祥に軟禁され、反直三角同盟に敗れて失脚。のち天津に隠退し、その地で没した。
唐紹儀(1860~1938)
字は少川。広東省香山の人。1874年、官費で米に留学し、コロンビア大学に学んだ。帰国後、天津で税務衙門につとめ、また朝鮮に派遣された。袁世凱の知遇を得て、津海関道・外務部右侍郎・京漢鉄路督辧・郵傳部左侍郎・奉天巡撫などを歴任した。辛亥革命のとき、袁世凱内閣の全権代表として伍廷芳と上海で談判し、南北講和を結んだ。1912年、袁世凱大総統のもと内閣総理をつとめ、中国同盟会にも加入した。袁が総理の職権を侵したので、憤慨して辞任。袁と対立して孫文と結んだ。1917年、護法軍政府に参加し、財政部長。1919年、南方軍政府総代表として、北京政府と和議談判した。のち政界より引退。1931年国民党政府委員となり、上海に住んだ。西南派の要人として活躍したが、蒋介石と対立して国民党特務により暗殺された。
呉佩孚(1872~1939)
字は子玉。山東省蓬莱の人。保定軍官学校に学ぶ。馮国璋の死後、北洋軍閥直隷派の巨頭。1920年、奉天派と結んで安直(直皖)戦争を戦い、安徽派の段祺瑞を逐った。1922年、奉天派の張作霖と第一次奉直戦争を争い、勝利した。翌年、直隷派の覇権を確立して、曹?に大総統の地位に就かせた。そのもとで直魯豫巡閲使となる。1924年第二次奉直戦争に敗れて、国民革命軍に湖南・湖北を侵されて、失脚した。日中戦争では日本軍に協力し、1939年に臨時政府綏靖委員となったが、病死。
徐世昌(1855~1939)
字は卜五、号は菊人。直隷省天津の人。1879年、袁世凱と知り合い、その援助を受けて上京した。1886年、進士に及第した。翰林院編修に任ぜられ、国史館協修・武英殿協修などをつとめた。日清戦争のとき、袁世凱の幕下に入って軍務についた。袁世凱の北洋軍閥結成を助け、その謀士となった。1903年、内閣学士・練兵処提調となる。翌年、兵部左侍郎となり、軍機大臣・巡警部尚書に任ぜられ、まもなく民政部尚書にうつった。1907年、東三省総督となる。1911年、副総理・参謀総長に上った。民国成立後、1914年に北洋政府の国務総理となる。1918年に大総統に選ばれ、北洋軍閥の対立緩和を図ったが、失敗した。1922年、第一次奉直戦争で奉天軍が敗れたため、政界を退いた。天津に隠棲し、1939年に病死した。『清儒学案』、『大清畿輔先哲』。
銭玄同(1887~1939)
字は仲季、または徳潜、号は疑古。浙江省呉興の人。1906年に来日して早稲田大学に学んだ。中国同盟会に参加した。『説文解字』を研究し、1914年には北京大学教授となった。中国語のローマ字化・注音字母の普及をはかった。また顧頡剛らの『古史弁』の編纂、『新青年』の編集を助け、文学革命の推進に功績を残した。
蔡元培(1868~1940)
字は鶴卿、のちに孑民。浙江省紹興の人。1892年に進士に及第し、はじめ翰林院に入ったが、戊戌の新政の失敗を見て辞職。帰郷して新式教育に尽力した。中国教育会を組織して、その会長となる。1905年、中国革命同盟会に加入し、上海分会長となった。1907年、独に留学。辛亥革命後に帰国し、1912年には教育総長。袁世凱の独裁に反対して辞職した。1916年には北京大学学長となり、陳独秀・胡適らを迎えて自由研究の学風を樹立。白話運動にも力を入れた。国民政府が独裁を強めると、教育界から退き、中央研究院長となった。中国新文化の父とされる。『中国倫理学史』。
陳独秀(1879~1942)
もとの名は乾生。字は仲甫、号は突庵。安徽省懐寧の人。科挙を嫌って新学に打ちこみ、日・仏に留学した。故郷の安徽省で辛亥革命に参加。1915年上海で『青年雑誌』を創刊して主宰し、翌年『新青年』と改題した。新文化運動の旗手となった。1917年から北京大学教授、同文科部長。胡適らと文学革命を提唱して、白話運動を主唱。五・四運動を指導した。1921年中国共産党の結成に参加。党中央委総書記となる。国共合作には批判的だったが、コミンテルンの指示でこれを推進。党勢は拡大した。1927年には、反共クーデターの責任を追及され、右翼日和見主義者と批判された。以後、スターリンを批判して、トロツキズムに傾斜した。1929年に共産党を除名された。1932年国民政府に逮捕され、のち釈放されたが孤独のうちに病没した。
馮玉祥(1880~1948)
字は煥章。安徽省巣県の人。直隷省青県に生まれた。早くから淮軍に参加。下級の軍官をつとめた。辛亥革命では蜂起軍の参謀長をつとめた。のち、袁世凱に見出されて軍界を累進。袁の死後は、直隷派に属して転戦した。第十一師師長・陝西督軍・河南督軍・陸軍検閲使・直系第三路軍総司令などを歴任した。1924年、第二次奉直戦争のとき、胡景翼らとともに北京を占領して、直隷派を追放。国民軍総司令・第一軍軍長となった。1926年、直奉連合軍に敗れて下野。モスクワへ行き、帰国後に国民党に加入した。西北軍を率い、北伐に参加した。国民革命軍第二集団軍総司令となった。統一後、行政院副院長・軍政部部長となった。1929年、蒋介石と反目して救国軍総司令となり、反蒋戦争を起こして国民党を除籍された。翌年、閻錫山と連合して再び反蒋戦争を起こしたが、中原大戦に敗れて下野した。満洲事変後に南京に戻り、党籍を回復。抗日を主張したが蒋に容れられなかった。1933年、察綏民衆抗日同盟軍の総司令となるが、蒋の掣肘を受けたため泰山に隠居した。1937年に抗日戦争が開始されると、第三戦区司令長官・第六戦区司令長官を歴任した。抗日戦争後は、国共合作の維持を主張して内戦に反対した。1946年以降、米国ほかの諸国に外遊し、中国和平民主同盟や国民党革命委員会の結成にかかわった。1948年帰国途中に黒海で客船火災に遭遇して没した。孫文の革命思想の影響を受け、またキリスト教を信仰していたため、クリスチャン・ゼネラルと称された。
アンダーソン(1874~1960)
名はヨハン・グンナル。漢名は安特生。スウェーデンの人。1914年、北京にいたり中国地質研究所の顧問となった。1921年、河南省?池県仰韶村で新石器時代の遺跡を発掘し、大量の彩文土器を発見した。また、北京市周口店の旧石器時代遺跡を発見し、ズダンスキーらに発掘を委ねて北京原人の発見のもとを築いた。二年あまりをかけて甘肅・青海・モンゴル・チベットを踏査し、先史時代の遺跡五十余を発見した。1925年、帰国した。ストックホルムの極東博物館館長をつとめた。
閻錫山(1883~1960)
字は百川。山西省五台の人。1904年、日本に留学し、陸軍士官学校に学んだ。翌年、中国同盟会に参加。辛亥革命後、袁世凱の命をうけて山西都督に任ぜられた。以後、山西王として山西省を支配。兵農合一・防共自治を唱えて抗日運動を展開した。日本が降伏すると、旧日本兵を用いて、共産党軍と戦ったという挿話が残されている。1949年、共産党に敗れて台湾に渡った。国民政府の行政院長・国防部長などをつとめた。1952年に軍職を退いた。1960年、台北で病没した。
唐生智(1889~1970)
字は孟瀟。湖南省東安の人。1912年、保定軍官学校に入学。1914年、卒業後に湖南湘軍に属し、反袁の護国戦争に参加した。1923年より衡陽に駐屯し、湘軍の最大実力者に成り上がった。内務司長・湖南省代理省長となる。1926年、国民革命軍の第八軍軍長となり、北伐軍の西路総指揮・第四集団軍総司令などをつとめた。1929年、反蒋戦争において蒋側につき、馮玉祥を討った。のちに汪兆銘と連合し、閻錫山と通じて反蒋側に立ち、護党救国軍総司令となったが、敗れて一時下野した。1932年から軍事参議院院長・軍事委員会執行部主任などをつとめた。抗日戦争のとき、南京衛戌司令長官となったが、南京戦に際して逃亡した。内戦時には隠棲していた。1949年、湖南人民自救委員会主任となり、新中国建国後、湖南省政府副主席・副省長などをつとめた。1970年、長沙で没した