英未2015

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

英未2015

吉永英未の復旦大學留学生日記

2015年の瀬に
2015/12/26

2015年の瀬に  吉永英未
 
年の瀬というのに、大学の中に住んでいると、全くその気配を感じない。というのも、ここ中国では旧正月を過ごすので、日本のようなわくわくとした慌ただしさはない。日本で見るクリスマスのイルミネーションを懐かしく思った。

12月18日、住み慣れた南京を離れる日が来た。9月25日に南京に来て、10月はホームシックになり、上海に帰る日を指折りに数えていた。

そんな日々を乗り越え、論文の構成発表を終えて帰ってきた南京には、待ってくれている友達がいて、帰る場所があった。

南京はすでに、わたしの二番目の家になっていた。そしていよいよ、上海に帰る日が来てしまったのだ。

もともとは、12月31日までいる予定だったが、復旦大学で行われる日中韓女性史会議のため、18日に上海に戻ることになった。それは、思いがけないことだった。

会議への通訳としての参加は、担任の先生からのお誘いがきっかけだった。11月の後半、

「来月歴史学部で女性史についての日中韓シンポジウムがあります。えみにぜひ、中日の通訳をお願いしたいのだけど」

わたしは、初めは戸惑った。アルバイトで中国人旅行客の通訳をした経験はあったが、学術的な会議での通訳をしたことは一度もなかった。

しかし、自分の所属する歴史学部から頼まれた仕事。きっと引き受けたいと思った。

その後、18本もの論文とその概要が送られてきた。会議までに目を通しておくこととのことだった。

テーマは、慰安婦問題から中国文学まで、多岐にわたった。

わたしは一つ一つに目を通し始めた。それは、大量の時間と、根気のいる作業だった。

一本の論文に目を通したあとは、南京大学の友達に分からない中国語の表現の意味を聞き、討論をした。

とても情けないのだが、中国に来て初めて短期間でこんなにもたくさんの論文と向き合った。なんですべて漢字で書かれているんだ!と拗ねたこともあった。

12月18日午前11時。南京大学の食堂の大きなテーブルを囲み、わたしはお世話になった友達と南京で最後の食事をした。

バドミントン、盲学校のボランティア、わたしの教えている日本語の授業などで知り合った友達同士は、この場で初めて顔を合わせた。

お昼の後は、そのままみんなでわたしの家に行き、家を出る手続きを済ませた。

午後1時半、復旦大学の学友の方、現北京科学研究所教授で現在南京支部にお勤めしている楊先生が車で迎えに来てくださった。

この楊先生とは、バドミントンで知り合い、お話をする中で、名古屋大学の修士と博士を出て、アメリカで14年間働き、また学部は復旦大学卒業ということで、様々な共通点も重なり、連絡先を交換させていただいたのだ。

その楊先生は、私が復旦大学に帰ることを知り、南京駅まで送って下さることになったのだ。

地下鉄の駅には、南京大学で知り合った大切な友達が見送りに来てくれた。

ひとり、また一人から手紙とプレゼントをもらった。

友達からの手紙には、「南京大学はえみの家だよ。また帰ってくるのをいつでも待っているからね。」と書いてあった。

また、バドミントンで知り合い、弟のように慕っていた後輩からは、「始めたあった日のことが昨日のことのようだ。

えみがいなくなると心の中に穴があいてしまったみたいだ。」と書いてあった。

南京で知り合った日本人の友達や歴史学部の友達。一人ひとりにさよならを告げるには、少なすぎる時間だった。あっという間に、車は出発しなければならなくなった。

わたしも準備していた手紙を一人ひとりに渡し、みんなとハグをして、車に乗った。

15時5分、高速列車は上海へと向かってゆっくりと動き出した。私を大きく成長させてくれた南京は、だんだんと遠くに、そして小さくなっていった。

12月19日、一息つく暇もなく、会議前日ということで、浦东国際空港に、翌日から始まるシンポジウムの報告をする日本人の先生方をお迎えに行った。

午後2時半に空港に到着してしまった私は、午後6時前にようやく成田から到着された先生にお会いすることができた。

復旦の先生は、私に日本人の先生のお迎えを、そして韓国人留学生には韓国人の先生方のお迎えを頼んでいた。私たちは二手に別れ、それぞれの国から復旦に来られたお客様の接待に当たった。

12月20日、いよいよシンポジウムが始まった。この女性史シンポジウムは、一年ごとに韓国、中国、日本で行われている。

今年は中国の復旦大学で開催されることになった。私にとっては、初めての会議での通訳という大きな挑戦であった。

通訳は全部で4人。すべて復旦大学の修士、博士課程の学生である。日本人と韓国人の学生が一人ずつと、日本語と韓国語を専門とする中国人学生が二人である。私たち4人は当日に初めて顔を合わせた。

仕事分担として、中国人学生は、日本語もしくは中国語を中国語に訳す。そして、日本語はまず中国語に訳され、その後韓国語に訳される。韓国語も中国語を経て日本語へと訳される。

わたしと、韓国人の学生は、中国語をそれぞれの母語に訳す。この複雑な作業に、先生からは「あなたはとりあえず中国語に出会ったらそれを日本語に訳せばいいのよ。」とアドバイスをいただいた。

報告者が一言、もしくは一センテンス話した直後にそれを二人の学生がそれぞれの言語に訳す。そのため会議は普通の3倍の時間がかかる。

一日目の一本目で、私はいきなり窮地に陥った。一番目の報告者は韓国人の先生である。わたしは、韓国人の先生の発表する原稿を中国語に訳したものを当日発表開始10分前に手にした。

20日前に、すべての先生の論文はメールにて手元に送られてきていたが、韓国語で書かれた論文はさすがに目を通すことができなかった。

そもそも南京にいた私は、韓国語は担当ではないと思っていたからである。先生と通訳の学生同士で直接交流するチャンスが会議当日までなかったため、私は会議の流れをあまり理解できていなかった。

そのとき初めて、韓国語が中国語に訳された後、それを私が日本語に訳さねばならないことを悟った。

実際にプレゼンが始まると、私は頭の中が真っ白になった。みんなが注目し、マイクが目の前に用意される中で、韓国語はポカーンと聴いていたが、中国語が話され、周りの全員が私の日本語の通訳を待っているとき、私は動転した。

何を言っているのか、まったく聞き取れない。。。論文に目を通したことがなく、その内容も大変深く入り込んだ専門的なものであり、とても即席通訳などできなかった。私には、その能力がなかった。

私は、左側にある韓国語担当の中国人学生の用意した中国語で訳された原稿を必死で目で追い、できる限り話した。

緊張と戸惑いで、何を話していたか覚えていない。すると、見るに見かねたある大学の先生が、私の隣に座ってくださった。

日本語がわかる中国人の先生であったため、私が話した後に日本語で補足を加えてくださった。

正確に言えば、私の通訳できる内容はほんの少しに満たなくて、残りのほとんどをその先生が訳してくださったのだ。こうしてその修羅場はなんとかくぐり抜けることができた。

冷や汗をかいた私は、その後午前中の三時間は緊張で背中はかたまり、日本語も正しく話せなかった。ようやく午前の部が終了したとき、ふにゃふにゃになってしまった。

私は即座に日本人の先生方のもとへ行って、お詫びを申し上げた。「本当につたない通訳で申し訳ありませんでした。」先生方は、「大丈夫よ。お疲れさま。ありがとうね。」と言ってくださった。それが何よりも心の支えになった。

午後の部は、少しだけ慣れてきて、少しだけ自信をもって話すことができた。

しかし日本語のできる先生は私の隣に座り、引き続きわたしを支えてくださった。こうして一日目のシンポジウムは終了した。これまでに経験したことのない疲労で肩が下がった。

自分の中国語の力不足と、努力の足りなさ、精神的にも大きなダメージを受けた。私が戸惑っている間、韓国人学生はしっかりと一言一言を韓国語に訳していた。

学部から復旦大学の歴史学部であるという彼女は、リスニング力に長けていて、日本語の先生の報告の中国語の原稿もすべてあらかじめ手に入れてそれを韓国語に訳して準備していた。

そのためほぼ完ぺきに、自分の仕事をこなすことができていた。それに比べてわたしは、、、。私は自分が情けなくなった。

もちろん、準備をしていなかったわけではない。しかし、こんなにたくさんの論文をたった20日間で読めるはずがない、、、と弱腰だった自分のことが否めない。

自分に甘えて、完ぺきに準備を整えることができなかった。私の昔からの「なんとかなるさ」精神は、逐次通訳の場ではなんとかならないことを改めて深く実感した。

会議二日目。最終日であり、復旦大学の先生の報告ということで、私も気合を入れなおした。

今回の論文はしっかりと目を通してあり、また南京で討論も重ねてきた内容であったため、最初から最後までほぼ一人でしっかりと通訳をすることができた。

しかし韓国語での報告の即時通訳は先生方の助けを貸していただくしかなかった。

こんな半人前とも言えない私を、様々な方が支えてくださった。

そして会議の終わりには、「通訳大変だったでしょう。お疲れさま。」と温かい声をいただいた。

最後の主催者側の挨拶からも、「通訳のみなさんは本当にお疲れ様でした。」という言葉をいただいた。

こうして一日と、半日の日中韓女性史会議は幕を閉じた。

私たちはその報酬として、3千元、日本円で6万円をいただいた。私は、会議が終わるまでまさかこんなにたくさんの報酬があるとは思ってもいなかった。

この二日間は、全力を尽くしたが、やはり自分の力不足を痛感し、この大金が独り歩きしているような感じがした。

先生方は、韓国人の学生を褒めたたえた。私も、同じ年である彼女を尊敬のまなざしで見ていた。

復旦人は、与えられた任務は、絶対にやってこなす。たとえ通訳する内容が前日にメールで送られてきても、それにしっかりと目を通し、訳した文章を持ってくる。それは私以外の三人の通訳に共通したことだった。

この二日間の会議を通して、一番の収穫は、自分の弱点、実力のなさに改めて気づくことができたことである。

私はまだ、周りのレベルに達していないことは明らかだった。それなのに私は、本当に自分に甘い。

少し努力すると、その気になって、まだ任務を完成させていないのに、平気であきらめてしまう。つまり自分の中で限界を決めてしまっているのである。

本当に、情けない限りである。これから一層の努力が必要であると身にしみて感じた。

もう一つの収穫は、この韓国人の彼女との出会いである。復旦に来てから、初めての韓国人の友達である。

同じ91年生まれの彼女は、将来東アジア共同体を研究したいという目的があり、日本語も勉強するつもりということだった。

そこで、私たちはこれから毎週一時間ずつ韓国語と日本語の相互学習をすることを決めた。同じ目標を持つよき友達、ライバルができたことは、私にとってとても心から嬉しいことだった。
 
さて、クリスマスをさみしく一人で過ごした私だが、いよいよ冬休みの旅に入ることになる。

1月8日、上海からタイのバンコクに飛び、それからカンボジア、ベトナム、インドネシア、台湾を周ることになる。東南アジアは初めてで、不安も多少はあるが、またとないこの機会を精いっぱい大切にしたいと思う。

カンボジアでは、平和活動平和教育を行っているオーストラリアのNGO団体を訪問する。

これから始まる一か月以上に及ぶ東南アジアの旅に、まだ心の準備は整ってはいないが、学部時代に続き一人旅は初めてではないので、心を決めて、勇気をもって、熱帯の東南アジアへ飛び出していきたいと思う。

最後になりましたが、日本の皆様、2015年は大変お世話になりました。三歩進んで二歩下がる。一歩ずつゆっくりでも、確実に前に進んでいけるようにこれからも努力していきます。

そして、年の瀬に学ぶことができた自分の弱さ、まずは正直に受け止めて、そして少しずつ周りの方たちに追いついていけたらと思います。

2015年は決して平和な年ではありませんでした。2016年が一人でも多くの人にとって幸せな年になれますように。そして、平和な年でありますように。

2015年12月26日 復旦大学留学生寮にて 吉永英未より

知恩報恩 南京大学の想い出
2015/12/03

知恩報恩

吉永英未 2015.12.2(水)

11月16日、二つ目の自宅になる南京の家(住まい)に戻ってきた。

復旦大学で、論文の構成発表とバドミントンの試合に参加し、笑顔と元気を補給して、第二の家に帰ってきた。

私が南京に帰ってきたことを友達に告げると、「やっと帰ってきたんだね、短い間だったけど会いたかったよ。今夜ご飯食べに行こう!」と優しい言葉をかけてくれたのは、バドミントンで知り合った樊士庆である。

そしてひとり、またひとりと、再会の食事をする約束を交わした。食事は、コミュニケーションをとるためにとても大切な場である。とくに中国では、食衣住というように、食事に重きを置いている。それは食事の文化であり、人と人の交流に欠かせないものだからなのである。

顔見知りの友達、一緒に授業を受ける友達と、一度でも食事を共にしたことのある友達は、そうでない人たちとは距離感が全く異なる。

私たちは食堂で、1食7元程度の食事を食べながら、お互いの事について話をする。そこにはデザートも無ければ、お酒もない。しかし、向かい合って食べる目の前のこの友達と過ごす時間こそが何よりも意義があるのだ。

復旦でも南京大学でも、バドミントンを通して知り合った友達は少なくない。スポーツを通して知り合った友達だが、バドミントンの後は勉強の話もするし、家族のこと、恋愛の話もする。

バドミントンの強さ弱さはさておき、学問においては、二つの学校のどちらの学生も私にとってはお手本であり、彼らは先生である。

南京大学に来て、繰り広げられる日々の物語(つまり生活)は、復旦では全く想像もできないものだった。私は、南京大学をすごくすごく好きになった。当然、南京という土地自体もとってもとっても好きになった。それは、ここに住む人の温かさそのものだった。

11月20日、南京大学で行われたバドミントンの試合に参加することになった。

わたしは、南京大学第二チームに入れられた。そして、南京漢方大学や南京師範大学などと戦った。11月7日に復旦大学で行われた試合で優勝してしまった私は、自分に少なからず自信を持っていたに違いない。

そして、参加する一つ一つの試合で必ず、いい成績を残したいと思っていた。その思いを、他大学で参加する試合でむき出しにしてはいけないと思い気をつけていたのだが、ある出来事をきっかけに、わたしのバドミントンにかける熱すぎる情熱はむき出しになってしまった。そして、苦い思い出を残すことになる。

団体戦のチームリーダーは試合がはじまる前に、誰がシングルに出て、誰がダブルスに出るか参加項目を紙に書き入れ、提出しなければならない。私たちは午前中の試合はすべて勝ち、みんなでごはんを食べたあと、対戦相手のレベルも上がる午後の試合に備えた。

午後の試合の一回戦、これまで女子シングルスに出ていた私は、何も疑うことなく、今回もシングルスに出るものと思っていた。
しかし、コートに出て行ったのは私ではなく、別な女の子であった。対戦相手はなかなかの腕。こちらといえば、その相手に敵ないそうにない女の子。私は焦った。

「ちょっと待って。シングルスはあの子がでるの?」

しかし、提出した参加項目の紙は書き換えることはできない。試合は予想通り、女子シングルスは相手に余裕で勝たせる結果となっていしまった。

わたしは納得いかなかった。

一つは、同じチームとして、チームメイトに相談することなく参加項目を決めてしまったことが理解できなかった。

そしてもう一つに、シングルスで自分が出れば落とすことはなかったとこれまで経験したことのない悔しさとやるせなさで胸が熱くなったからである。

大人げないわたしは、3つも4つも年下のチームメイトを前に、はらけてしまった。

「なんでわたしに出させてくれなかったの?」

この時のわたしに、自分が復旦大学の学生で、チームメイトのお陰でこの試合に出させてもらっていること、リーダーはわたしの体力を考慮して、ほかの女子にシングルスを出させたことなど、考える余裕などなかった。

ただ、悔しさとやるせなさ、そしてこれまで試合に負けることのなかった私にとって、「自分の実力を発揮しないまま」負けた試合は、耐え難いものだった。そのやるせなさは、リーダーへの疑問と怒りへと変わってしまった。

コートの片隅でひとり、失望している私に、リーダーは近寄ってきた。

「相手がこんなに強いとは思っていなかったんだ。僕はえみの体力も考慮して、ほかの子に出てもらったんだよ。そんなに怒らないで。僕はえみに謝りに来たんだ。」

中国で、謝罪をすることは少ない。面子を重んじる中国社会では、よっぽどのことのない限り、正式に謝ることはない。それは、学生も、社会人も同じである。そんな中国でわたしは、自分の情緒をコントロールすることができず、彼に謝らせてしまったのだ。

彼が面と向かって謝ってきたとき、わたしは改めて自分の過ちに気づいた。そもそも、試合に参加したのは友情のため。友情第一、試合第二というスローガンのもと参加した試合で、わたしはなんと同じチームメイトに怒りをぶつけてしまっていたのだ。

次の試合が始まる前、わたしはリーダーに謝りに行った。

「さっきはごめんね。感情化して、自分の気持ちをコントロールすることができなかったんだ。」

私たちは、和解した。

今回の試合は私に、体力的、それ以上に精神的に大きなダメージを与えた。
それは、自分に対する失望と、反省であった。

「勝つ」ことに対する固執、傲慢、そして仲間を信じることができなかったこと。自分の情緒をコントロールすることができず、仲間を傷つけてしまったこと。あとから冷静になって考えてみると、自分が犯した過ちに深く反省した。

そして、わたしは、「バドミントンから距離を置こう」と決心した。

それからというもの、友達が「えみ、今夜一緒にバドミントンをしようよ!」と誘ってきても、様々な理由を探して断るようになった。

自分にとって、この休みが必要であると考えたからだ。そして、そんなわたしの気持ちに合わせるかのように、参加することが決まっていた学部対抗戦にも参加できないことが分かった。その理由は、私が他大学の学生だからであった。

わたしはこの現実をすんなりと受け入れることができた。というのも、当たり前の結果だと思ったからである。仲間からは、「試合には参加できなくても一緒にバドミントンは楽しもうね。」と励まされた。

しかし、わたし本人以上にこの結果に納得できない仲間たちがいた。それは、同じ歴史学部の学生であった。

彼らは、私が歴史学部の学生として試合に参加することを心から願っていた。そして、試合前日に知らされたその結果に、納得できないどころか、なんと主催者側に抗議を始めたのだ。

わたしは、「わたしは南京大学の学生ではないし、ほかの学部の学生にとって不公平になるなら、参加したくないよ。」と行って学部の主将を説得したのだが、彼は強く私が試合に参加することを望んだ。

彼らは、過去にサッカーの試合で留学生もひとつの学部を代表して参加したことを例に出し、また南京で行われた学校対抗の試合に私が南京大学の学生として参加したことのあることを強調し、主催者側を説得した。

そして、その主催者側の一人であり、わたしの大切な友達の天睿は、深夜にまで渡って先輩を説得して、この私を試合に出させてくれるように頼み込んだ。

その壮絶なやり取りを知る余地も無かったわたしは、試合前日に、わたしが試合に参加できることになったという知らせにただ驚きを隠せなかった。

それは、交換留学でも何でもない、なんの籍もない他大学の留学生が、南京大学の歴史学部を代表して試合に参加するという前代未聞のケースとなったのだ。

その背景は、歴史学部のメンバーの努力と、わたしの親友とも呼べる天睿が一生懸命先輩にお願いして叶った、「人情」の賜物であった。

本部からの最終決定は、「南京大学に籍があるなしに関わらず、いま南京大学で学んでいるのなら、南京大学の学生に変わりはない。国際友人の参加を大いに歓迎したい。」というものであった。私はその温かさに感動し、目頭が熱くなった。

いつものバドミントンの帰り道、樊士庆はいつものようにわたしを校門まで送ってくれた。彼は、私が南京に来たばかりのとき、夜の南京大学を案内してくれて以来、いつもわたしを見つけては、笑顔で手を振ってくれる。わたしのことを心から気遣ってくれる大切な友達の一人である。

私はバトミントンの帰り道、そんな彼に相談を始めた。

上海に戻って行った論文の構成発表では、前に進むどころか、私はゼロに戻ってしまった。

先生方からは、研究方法と研究方向を大掛かりに変えなければならないと指摘をいただいた。率直に言えば、もう一度書き直しなさいということであった。

私はがっかりを、隠しきれなかった。前に進んでいたはずが、また振り出しに戻ってしまったのだ。そして現在、南京に居ながら、次の目標を見つけることができなくなってしまった。

言い訳を探すことは簡単だが、私の努力不足以外に何でもない。しかし、方向性を見失った今、努力する目標を見つけられずにいる自分がいた。

そして、生活面の問題。中国の大学では、図書館や食堂、全てにおいて学生カードが必要である。その南京大学の学生カードのないわたしは、どこに行くにもあまり便利ではなかった。

食堂では、注文をしてから食券を買いに行き、その券を手渡すことでやっと食事ができた。

図書館は復旦大学の学生証を見せるほか、本を借りるときは必ず南京大学の学生にお世話になった。そんな私のお願いを、みんな快く受け入れ、手伝ってくれた。しかし、そのこともだんだんとしんどくなった。

それは、体力的にではなく、カードが必要なその度に、自分がこの大学の学生ではないという疎外感を少なからず感じていたからだ。わたしは、気分が良い日に食堂で頼んだごはんをタッパーに入れて持ち帰っては、それを温めて食べていた。そうすることで、食堂に行く回数を削減することができた。
そんな日々の中で、3日前に詰めたごはんを食べてお腹を壊してしまったこともあった。

彼は私の話をずっと聞いてくれていた。

そして、勉強面のアドバイスから、一つ一つ丁寧に私に話をしてくれた。

ひとつ年下の彼は修士課程一年生だが、修士論文を学部時代に書き上げ、主席で同大学院に入った。

彼は、「誰もがきっと、英未のような問題にぶつかったことがあると思うよ。一つ一つできることからやっていくこと。まず、論文で何を書きたいのか明確に決めること。そして例えば、第一章が書けないなら、第二章、第三章から書く。そうやって繋げていけば、いいんだよ。」

私たちは理系と文系で専攻は全く異なるが、指導教員との接し方など、様々なアドバイスをもらった。

そして、私の学生カードについて彼は、「なんでもっと早く言ってくれなかったの?僕が明日思い当たる人に聞いてみて、えみのためにカードを借りるよ。」と言ってくれた。

彼は続けた。「自分ひとりでは解決できない問題も、友達に相談したらきっと解決することができる。たとえ解決することができなくても、話すだけで心がほっとするでしょ。大学で知り合った友達は、他の友達と全く違うんだ。困ったときはお互いに助け合うこと。何年後に集まったって、やっぱり昔のようにたわいのない話が出来るんだ。だからえみも、この大学の友達のこと、もっと頼っていいんだよ。」と。

わたしはその言葉を聞いたとき、涙が出そうになった。彼は、私のことをこんなにも理解してくれていたのだ。わたしはもう、ひとりぼっちではないのだと心から思えた。

私たちは、夜の歩道を照らすライトの下で、話し続けた。というより、彼がずっとわたしを励ましてくれた。

「カードが手に入ったらすぐに、えみに連絡するからね。」と言って手を振った彼は、二日後にはカードを使わなくなった友達から借りたカードを私に手渡してくれた。

南京大学にいる間はずっと使っていいという。わたしは本当に、南京大学の学生になった。

12月1日、復旦大学のクラスの担任の先生から、連絡が来た。

12月19日から21日まで、歴史学部で国際学術会議があり、日本語の通訳をぜひ私に担当してほしいということであった。

国際会議は聴きに行ったことがあるが、自分がマイクを持ったことはなかった。ましては、発表者の通訳を担当することなど想像したこともなかった。自分の学部で開催される国際会議、わたしはもちろんその仕事を引き受けた。担当の先生からは感謝の言葉と、応援を受けた。

しかし、この晴れ晴れしいチャンスのもう片方では、わたしが南京と別れを告げなければならないことも意味していた。

もともと一学期間、南京大学で学ぶことになっていたわたしは、12月末に授業が終わるとともに上海へ帰るつもりだった。しかし、この国際会議のため、10日早く復旦大学へ戻ることが求められた。

それは、南京でお世話になった愛おしい友達に、あと十数日で別れを告げなければならないということでもあった。

12月2日 南京大学仙林キャンパス図書館にて 吉永英未

南京大学1ヶ月の想い出
2015/11/05

南京大学 日記

―2015.11.1日 一月(ひとつき)振りに戻って来た復旦大学から―emiより

自分の部屋のドアを開けるとき、嬉しさで手が震えた。自分の部屋があること、部屋の中にトイレやお風呂が付いていること、学生カードで図書館にすんなりと入れること、食堂でご飯が食べれること、そして何より、これまで友情を育んできた友達と、再会できること。

いままで当たり前のように過ごしてきた日々に、何気なく通り過ぎていたことに、限りない嬉しさを感じた。それは決して大げさなことではない。

それは、言葉で簡単に言い表すことができないほど様々な感情に満ちていた南京での日々が私に気づかせてくれた、大切なものだった。

7月20日に南京大学を初めて訪れ、次の学期から南京大学で学ぶことが決まってから、わたしはこれからはじまる南京での生活を心から楽しみにしていた。

一年間住み慣れた上海での生活から離れ、新しい環境、新しい友達、新しい学び、新しい生活が始まることにとてもワクワクしていた。

しかし、実際の生活は、わたしの想像していたような美しいものではなかった。

私は、友達の紹介で南京大学の目の前のアパートに毎月500元(日本円で一万円程度)の家を借りた。

南京大学仙林校区は、南京市内からは地下鉄で約40分と、離れたところにある。

この地区一帯は、ほとんどが大学で、「大学城」と呼ばれているほどだ。南京大学は三つのキャンパスがあり、2009年に建てられたこの仙林キャンパスが一番広く、ほとんどの学部がこのキャンパス内にある。

そんな南京大学に到着してすぐ、わたしは平和学会などに参加し、とても有意義な一週間を過ごした。

それは、私を受け入れてくださった劉成先生が下さったチャンスだった。

その一週間が過ぎると、中国は国慶節で一週間の休みに入った。

そして、『孤独―loneliness-の7日間』がはじまった。

観光地は人で賑わい、学生のほとんどは故郷の家に帰り、学校はシーンと静まり返った。そして私は、この七日間を上海に戻らず南京で過ごすことを決意した。

それは、まだ来たばかりの南京で、この7日間を過ごすことが自分にとって必要だと思ったからである。

それが、私の「孤独」との戦いになると分かっていたならば、まだ、覚悟が足りなかったように思う。

国慶節の半ば、私はそんな孤独に耐えられなくなってしまった。

2、3人しかいない友達もみんな実家に帰り、わたしはひとり、この広い大学城に残されてしまった。もちろん、やるべきことは山ほどある。

それは承知でも、一日中誰とも話さない、食堂でおかずを注文するときにこれとこれ」と話すこと以外、人と会話する機会が全く無くなってしまっていた

また、食堂で食券を買うたびに、この大学の学生ではないのだという疎外感も少なからず感じた。

復旦の食堂が寮から歩いて1分の距離にあるのに比べて、南大食堂は大通りを挟んでいるため、自転車で10分弱かかった。

私は、一日のほとんどを自分の部屋で勉強して過ごしていたため、食事のためにわざわざ一人で食堂まで行く気持ちも無くなってしまった。

また、わたしの住んでいるアパートはシェアルームで台所が共同のため、決して清潔とは言えず、とても料理なんてする気にはなれなかった。

そこで、5元で3日分の麺を買い、ステンレス製の鍋に入れ、麺を湯で、日本から持ってきた味噌汁をかけて食べることにした。

何日かすると味噌汁も底をつき、今度はスーパーで買った冷凍餃子を食べることにした。そんな生活が続いていた。

午前中は、イヤホンで英語の会話をひたすら聞きながら、自転車でサイクリングをした。仙林の通りは緑に囲まれ、とても気持ちが良かった。

何より、いい気分転換になった。南京漢方大学やスーパーや市場や湖のある公園など、毎日新しい発見があった。それからというもの、毎朝起きると7時には自転車に乗り、同じコースを辿った。

2時間後に自分の部屋に帰ってきた。

午前中は英語に時間を費やし、午後は研究計画書の作成に頭を悩ませた

しかし、気づいたのは、精神面の安定があって初めて、学問が成り立つということである。

復旦では、クラスメイトや日本人の友達、売店のおばちゃんなど、立ち話で5分も話してしまうことがほとんどだった。

しかし、このまだ慣れぬ土地では、そんなたわいない会話も生まれなかった。そして一人になると、考えてもどうしようもないことばかり考えていた。

上海の友達に勇気を持って電話をかけて、弱音を吐いても、結局は「がんばれ」と笑顔をもらえるだけで、会うことはできない。

気がつくと携帯を握りしめてベットの上で子供のように泣いている自分がいた。「こんな孤独はいやだ。上海に帰りたい」そう心が叫んでいた。

涙を流す日が何度もあったが、私はそのたびに、自分は何しにきたのかを自身に問い続けた。

いま思うと、この孤独との戦いは、しっかりと自分に向き合い会話する必要な機会であったのかもしれない。

7日間の休暇が終わり、私は初めて授業に参加した。平和学の授業は火曜日の夜6時半からである。

ついに『孤独からの脱出』が出来た。

100人以上もの学生が受けるこの授業で、劉成先生は私のことを紹介して下さり、質問をする際には私に発言をする機会を与えてくださった。

そのため2時間のその授業は、背筋が伸びっぱなしだった。

そして、新たな友達との出会いも私を勇気づけてくれた。

私は、休日が明けてすぐ、ラケットとシューズを持って体育館へ向かった。 目的はもちろん、バドミントンをするためである。

一人の友達との出会いがまた一人、ひとりと友達を呼び、そして一緒にバドミントンをすることで友達ができた。

そのことが、何よりも嬉しかった。そしてのちに、試合に誘われたり、南京大学のバドミントンチームの練習にも誘われるようになった。

高校時代に必死になって打ち込んだバドミントンが、今花を咲かせてくれたようである。

ある日、数学学部の樊士庆くんに誘われて、バドミントンの後、食堂で一緒に食事をした。

そしてその後、彼の案内のもと学校を見学した。

すでに外は暗くなっていたが、三日月と電灯の光が私たちの行く道を照らしてくれた。

南京大学の敷地内にはなんと、山がある。そして、大気学部や天文学部の研究室はその山の上にあり、まさに自然と一体している。

親切な士慶くんに案内されながら、私たちはその中でも一番低い大気学部の山を登った。

久しぶりに、星を見ることができた。広いキャンパスを見下ろし、南京大学の良さをまた一つ発見した。

バドミントンで知り合った士慶くんは修士一年生で、その優秀さは飛び抜けていて、学部時代にを修士論文をすでに書き上げてしまったそうだ。私たちは、お互いの話をしながら、夜の大学を探険をした。

南京に来て一ヶ月目の10月25日、私は、南京で出会った二人の友達天睿,赵昕と、一足先にささやかな誕生日パーティーを開いた。

小さなケーキを囲い、私たち三人は誕生日を祝った。95年生まれの天睿と、96年生まれの赵昕、そして91年生まれの私。

11月6日、7日、8日にそれぞれ誕生日を迎える私たちは、年齢の壁を越えて、大切な友達となった。

そんな二人は、わたしが論文の構成発表のために、一度上海に戻らなければならないと知り、誕生日会を提案してくれたのだ。

新しい環境で、衣食住を一から整え、人間関係を一から築くこと。それは、決して容易なことではない。

しかし、新しい土地でも、「平和学を学ぶために南京大学に来た」私のことをたくさんの友達が支えてくれる。

いまや、復旦と南大の両方で先生方や友達が支えてくれている。

そして、日本で応援をしてくださっている人たちがいる。

私に、夢を諦める理由なんて一つもないことに気づく。

南京大学で学ぶことのできるこの短い期間で、どれだけ成長できるか分からない。

しかし、今置かれている環境に感謝し、逆風の中でも努力を続けること、そして、逆風も自分の受け止め方次第で順風にさえ変わることを私は学んだ。

それは、わたしが南京大学で過ごしたこの一ヶ月で得ることの出来た、小さな、でもかけがえのない収穫であるのかもしれない。

上海で過ごす残りの二週間、そして戻った先南京で過ごす残りの貴重な学習期間を、大切にしたい。 

 2015年11月1日 一ヶ月ぶりに戻ってきた復旦大学から 吉永英未より

平和トレーニングの想い出(南京大学)
2015/10/09

国際青年平和学会

(南京大学)での英未の回憶

9月25日から、南京大学に来て、1週間が経ったばかりです。

でも、その収穫と感じたことは、その日数に比例しないものでした。

24日に南京に着いたわたしは、劉成先生に招待され、25日の夜食事会に参加しました。

さまざまな国の平和活動をしているNGOの方や、平和学の教授の方に囲まれて一緒に食事をしました。

わたしは、箸を握るよりも、両隣の先生に夢中になって話しかけました。日本でも上海でも、平和学、平和活動をしている外国人の方々と、こんなにも近くで話をすることは、今までありませんでした「こんな貴重すぎるチャンスはない」、とわたしは思い、つたない英語で必死に質問し、交流をしました。

その日の夜、わたしは劉成先生の家に招かれました。

そこで劉成先生とドイツ人学者Egonとの共著である(出版されたばかりの)平和学の本をいただきました。まだ店に出ていない、こんな貴重な本を頂けたことが嬉しすぎて、スキップをして家まで帰りました。

9月26日、南京大学で開催された国際青年平和学会。劉成先生がまさか私に、発言の機会を与えてくださるとは、思ってもいませんでした。

マイクを持たされて、同時通訳の付いている中で、自分の言葉を発しました。

緊張して、脚まで震えたのは高校時代の学生論文発表会以来のことでした。

そしてここで出会ったイギリスのアレン教授、その奥様の高子さまとの出会いは私にとってかけがえのないものになりました。

短い交流の時間に語り合ったことは、これから人生を歩む上で大きな糧となるような、そんな大切な事ばかりでした。そしてふと笑った高子様の横顔を見ると、お母さんのような気がしてなりませんでした。

28日から30日までの二日間は、平和トレーニングに参加しました。

平和トレーニングってなんだ、とお思いになるかもしれませんね。

この平和トレーニングは、American Friends committee というNGO団体が主催する、平和構築、平和維持のモデルを実践的に考える活動のことです。

模擬国連を想像していただけるとわかりやすいと思います。中国全土から、記者や公務員、大学教授など、選抜された20人の方々がここ南京大学に集まり、4日間の平和トレーニングを行います。使用言語は英語で、職業も年齢もバラバラな方々が朝9時から午後5時まで、そして食事も全てともにします。

そしてわたしもなぜか、このトレーニングに参加することになりました。というのも、「講演があるから見にこれば?」と言われて参加したものが、このような大規模なトレーニングだったということを、後になってやっと知ることができたのです。

講演を聞いた後に、「あなたは今日から来たの?」「はい。」と答えると、組み分けされたグループに入れられ、このトレーニングを受ける一人になってしまったのでした。

上海を離れてわずか3日目で、まさかこのような機会に恵まれるとは思ってもいませんでした。

わたしの周りの方々は新聞記者の方や政治学の教授、公務員と立派な大人の方ばかりなのに、わたしだけが最年少の学生ということで、最初はこれでよいものかと戸惑いました。

そんなとき、劉成先生が駆けつけてくださり、私をみんなに紹介をしてくださいました。こうしてわたしは、残り2日間に迫ったこの平和トレーニングに見学者ではない一参加者メンバーとして参加することになったのです。

このトレーニングで学ぶことは、紛争解決や平和構築の方法、それはまさにわたしが学びたいと思っていたことばかりでした。わたしは、始めて聞く内容に、わくわくし、目をキラキラさせて聞いていました。心から幸せに思いました。

しかし、いざ実践的になトレーニングに入ると、言語は全て英語での討論。わたしは、言語の壁にぶつかりました。

自分の専門分野で、討論に参加して自分の意見を伝えたくても、英語でそれを表現する力が私にはありませんでした。

周りの方々は、アメリカで修士課程を修了した方、海外をレポートする記者の方、国際関係の先生など、英語を自由自在に操ります。

わたしは、自分が悔しくなり、また、焦りました。トレーニングが終わって家に帰るとすぐに英語の勉強を始めました。学校までの行き帰りはずっとイヤホンで英語を聞くようにしました。夢の中でも英語を話していました。

30日、トレーニングが終わり、修了証書の授与式があり、みんな一人ずつ感想を述べました。

わたしも始めて、みんなの前で英語を話しました。つたない英語で、でも感謝の気持ちをしっかりと伝えました。

「上海を離れて、一人で南京に来て、はっきりいってとても寂しくなるときがありました。でも、この2日間という短い間で、平和というひとつの、同じ目標を持った方たちに出会い、素晴らしい先生のもと一緒に学ばせて頂くことができて、本当に嬉しかったです。そしてこれからも、劉成先生のもとで平和学を学びたいと思います。こんなわたしを仲間に入れてくださり、本当にありがとうございました。」とお礼の頭を下げた途端会場からの思いがけない大きな拍手にわたしはおどろくと共に目頭がじーんと熱くなりました。

10月1日から、中国は国慶節で一週間の長期休暇に入ります。私は、上海に戻らずここ南京の小さな自分の部屋で過ごすことにしました。集中力の高まるこの部屋で、一人でこもって、英語の勉強と、平和学の勉強をすることに心を決めました。

弱音を吐くと、逃げてしまいたいと思うことも少なからずありました。住み慣れた上海の寮と、親しい友達、復旦の食堂、図書館。心地よい場所を離れ、一人で南京に来て、学校の前の小さなアパートに住み、ご飯は毎回「学生証を忘れました」と言って、歩いて25分かかる南京大学の食堂に向かう日々。まだ友達も少なく、これまで復旦で当たり前のように過ごしていた日々がとても恋しくなりました。

でも、わたしは平和学を学ぶために、ここに来たのです。その平和学を、精一杯に学ぶことのできる環境と、素晴らしい先生がここにいる限り、私は諦めません。どんなに寂しくても。

1月から、カンボジアにボランティアに行くチャンスをいただきました。そのチャンスをくださった、カンボジア在住のオーストラリア人EMMAとの出会いは、本当に貴重なもでのでした。彼女が中国を離れる前に言った,「Emi、今度はカンボジアで会いましょう! Keep make peace !」という言葉を信じて、これからも前に前に進んでいきたいと思います。

10月1日 国慶節1日目。すっかり空っぽになってしまった宿舎から

わたしたち8人の夏(2)
2015/08/19

2015年 私たち8人の夏がはじまった。 

7月28日、学校に来て2日目の朝、私たちはこの小さな村で挨拶回りをした。

学校通常9月から始まるため、現在子供たちは夏休み真っ盛りなのである。

そこで私たちは私たち支教の先生が到着したことを知らせるために、4人ずつ2つのグループに別れ、この小さな村を回った。

最初に学校に駆けつけてくれた3人の男の子を先頭にして、村の人に出会うたびに、「私たちは上海復旦大学からきました。今年の支教の先生です。

もしうちにお子さんがいらっしゃいましたら、ぜひ学校に来てくださいとお伝えください!」と言って回った。

復旦大学からは毎年この学校に支教の学生(ここでは先生)が来ている。そのため、「今年も良く来たね」と歓迎してくれた。

午後は上海から持ってきた3つの血圧計を持って全員で検診に出かけた。

この村では、医者が一人しかいない。また医療費もかかるため、ほとんどの高齢者の方々は定期的に病院に検診に行くことができない。

私たちは、医学部の4人の学生を先頭に、鼓楼と呼ばれる木で出来た人々の集まる場所に行き、おじいさんやおばあさんに声をかけた。

「私たちは復旦大学の医学部の学生です。最近お身体の調子はいかがですか?血圧を測りますね。」私たちは、高齢者の方一人ひとりの血圧を測って周り、医学部の学生はそれぞれ健康に関するアドバイスを行った。お年寄りの方は方言しか話さないため、子供たちに通訳をしてもらった。

この検診は健康診断だけでなく、村の人たちとの警戒を取る大切な交流となった。

3日目の朝、校長先生に学校から離れた小さなスーパーのある町に連れて行ってもらった。私たちは生活に必要なものを買い揃えた。

明日からいよいよ、授業開始である。たくさんの学生たちが集まってくれるだろうか不安を抱えたまま、私たちは授業一日目を待った。

授業一日目

授業は午前中3コマ、午後2コマの5コマである。昼間は暑いため、11時半から14時まで長い昼休みを取るのは、この小学校の習慣に合わせた。

8時半になると、教室いっぱいに子供たちが集まっていた。子供たちが来てくれるか心配していた私たちは思わずほっとした。私たち8人は自己紹介をすると、自分が教える教科の特色などを説明した。わたしは、音楽と道徳を受け持つことになっていた。

子供たちに、自己紹介したあと、午後からは本格的に授業が始まった。

わたしは、音楽の時間に森山直太朗の「さくら」を子供達と一緒に練習した。

子供たちにとって日本語に触れるのは初めてで、日本語で歌を歌えるものだろうか、と思われるだろうが、子供たちの耳は素晴らしく、歌いだすと全く、外国語で歌っているようには聞こえなかった。

わたしは以前に上海で子供たちに日本語を教えるボランティアをしたことがあったため、スムーズに授業を進めることができた。

子供たちは、歌詞を覚えることは難しそうであったが、授業が終わっても、「さくら、さくら」と日本を代表する花の名前はみんな言えるようになっていた。私の2週間の支教生活は、さくらの歌とともに幕を開けた。

支教生活

長い昼休みに、ほかのメンバーがお昼寝しているのをよそに、わたしは毎日子供たちと一緒に山登りに行った。

村を取り囲む山は緑一色で、登る過程で山の湧き水にも触れることができる。

子供たちはその水で喉を潤した。山の上からは、小学校や村全体を見下ろすことができた。

これまでに見たことのない、緑の美しい景色をみるために、わたしは毎回山に登った。

山登りでは、わたしが学生で、子供たちが先生である。「この実は食べられるよ」と言って、野いちごとってくれたり、(たくさん食べていたら、いつの間にか舌が紫になっていた。)

「この葉っぱは~の薬になるから、500グラム10元で売れるよ。」と教えてくれたりと、山に関しての知識は、子供たちの身体に身についていた。わたしは子供たちを先頭に、毎日山登りを楽しんだ。

午後の授業が終わると、みんなで近くの川に行って泳いだ。最初は足をつけるだけだったのだが、子供たちが2メートルほどの崖から飛び降りて川に入っていくのを見て、わたしも挑戦したくなり、2日目にして飛び込んでみた。

勇気を振り絞ってみると、本当に気持ちが良いものである。わたしは子供に戻って、こどもに戻り、無邪気に水遊びを楽しんだ。

夜のミーティングのあと、女子の宿舎に戻ると、おしゃべり会がはじまる。女の子は本当に、おしゃべり好きである。ここでの話の話題のほとんどが、恋愛についてであったため、彼氏のいないわたしはあまり付いていくことができなかった。

でも、一週間も生活を共にしていると、私たちは学年や専攻を越え、お互い信頼できる仲間になっていた。

また、私たち女子の5人部屋には、毎晩様々な虫が挨拶に来た。

たまにねずみも現れた。わたしはそれらのものに対してあまり恐怖心はないのだが、ねずみや特大蜘蛛を目にした部員の叫び声の方に驚いて起きることが何度もあった。

寝る前は女子全員でお手洗いを済ませ、ベットの至るところに虫除けスプレーを振って、タオルケットで身体を覆うようにして寝た。

それでも、毎朝新たな場所が蚊に噛まれていた。

そんな支教も後半一週間にさしかかった頃、 最初は何もかも新鮮であったこの学校での生活を、辛く感じるようになった。

わたしはとっても上海に帰りたくなった。この山の中では、インターネットもなければ携帯電話の電波もない。山の外にいる誰とも連絡が取れない。

かつて当たり前のように身近にあった様々なものが急に恋しくなった。

山の中の学校なので、停電や停水は日常茶飯事で、私たちはそれが同時に停まらないことを祈っていた。

一日三度の食事の他に、間食することはなかった。

というのも、食べる物が何もないためである。毎回の食事は、芋や青野菜などを中心に三種類の野菜と、おかわり自由の白ご飯である。

わたしは、男子学生がおとなしく一杯しか食べていないのをよそに、毎回2杯のごはんを食べていた。

ホームシックになり職員室で泣きべそをかきながらいつものように日記を書いていると、部員の郭继尧はわたしに、「この映画知ってる?」といって話しかけてきた。

それは、日本の映画で、都会から来た主人公の青年が田舎で植木の仕事をする物語であった。

都会との生活のギャップに悪戦苦闘しながらも、最後まで諦めず仕事を続ける青年の姿に感動し、村人たちはだんだん都会から来た彼を仲間として認めるようになっていた。

そして主人公は村の伝統行事に参加することになる。

わたしは主人公と今の自分を重ねた。郭继尧と一緒に見たこの映画は、ホームシックになっていたわたしに、もうひと踏ん張りする勇気を与えてくれた。次の日から、わたしは気持ちを入れ替えて支教に望んだ。

 
それからの一週間はあっという間に過ぎていったように思う。道徳の授業では、虫や小動物を平気で殺してしまう子供たちに、命の教育を行った。

「私たちにお父さんとお母さんがいるように、虫にもねずみにも家族が居るんだよ。」たくさんの動物の絵を書いてわたしは、すべての命の尊さを訴えた。

また、アメリカの大統領の命の重さも、私たちの命の重さも同じで、命はお金や権利の大きさで図ることができない、すべてが尊いのだということを一生懸命にこどもたちに訴えた。

それから、子供たちと一緒に山に登るたびに、生き物を捕まえた子供たちは私に嬉しそうに見せてくる。

「えみ先生、カエルとったよ!」わたしは一瞬ぞっとするが、「すごいね。畑にに返してあげてね。」と言うと、「うん。お父さんとお母さんの元に返してあげる」といって畑に逃がした。教育の成果を、目に見て感じ取ることができた。

軍隊と平和学と 決して矛盾ではない

子供たちは、元気いっぱいでいつも騒がしいため、ひとりの先生が授業しているとき、だれかがサポーターとして入っていた。

ある郭继尧の中国の軍隊の歴史の授業で、わたしがサポーターを勤めていたときのこと。郭继尧の話す歴史をわたしも熱心に聴いていたのだが、授業も残り30分になったころ、彼はいきなり私の目を見て話しだした。

「みんなも知っているように、えみ先生は日本人だよね。昔、中国と日本は戦争をした。日本を憎いと思っている人もいると思う。

でも、僕はえみ先生のことを心から尊敬しているし、これからも良き友達、仲間でありたいと思っている。

政府間の関係がどうであれ、僕たち民間交流の絆は固くて尊い。切ることができないんだ。えみ先生が君たちに関心を持ってこの学校に来てくれたことをみんな感謝しようね。

そして、残り時間はえみ先生に宛てて、手紙を書いて欲しい。」

わたしは、思わず口をあんぐり開けてしまった。まさか彼が軍隊の歴史の授業で私を取り上げ、日本と中国の民間交流の平和を語るとは思ってもいなかった。

ましてや、最後に私宛に手紙を書いてもらうなんて、サポーターとしてたまたま教室に入った時には想像もしていなかった。

授業の最後、子供たち一人ひとりがわたしに手紙をくれた。心のこもった手紙には、

「えみ先生を一度も外国人の先生として見たことはありませんでした。わざわざ遠くから来てくれてありがとう。」

「過去の歴史がどうであれ、私たちはみんな平和を願う国民です。私たちの最初の日本人の先生になってくれてありがとう。」など、数々の手紙を受け取った。

子供たち一人ひとりにお礼を言うとともに、この授業を繰り広げた軍医大学の郭继尧の温かい言葉に胸が熱くなった。

音楽の授業のボイコット

ある日の音楽の授業のこと。筷子兄弟の「父亲」という歌の歌詞を黒板に書いていると、「その歌知ってる。」と言って、わたしが教える前に、子供たちは歌いだした。

「なんで知っているの?」と聞くと、歌詞がとても感動するからすぐに覚えたという。

私も嬉しくなって、それならば座って歌うのではなくて、後ろの方に全員並んで歌ってみようと言った。私自身が、小中学校の音楽の授業でそう学んできたように。

ところが、後ろに並んでくださいと指示を出したところで、子供たちはいっこうに動こうとしない。

普段木登りや逆立ちなど教室を走り回っているこどもたちが、「後ろに立って並ぶ」という動作をしようとしない。

わたしが何度かお願いすると、子供たちの大半は後ろに並んで「早く歌おうよ!」と言ってくれた。

しかし、ふだん大人しく成績の優秀な学生数名が、いっこうに席を立とうとしない。わたしは一人ひとり歩み寄って、なぜ並んで歌おうとしないのかと尋ねた。

すると、返ってきた答えは、「疲れたから」「並びたくない」であった。

わたしは、先生として盛り上がっていた気持ちが一気に冷めていくのが分かった。

一言で言うと、「ショック」であった。授業は止めることができないため、後ろに並んだ学生だけで引き続き歌を歌ったが、私の頭の中は「なぜ?」という疑問でいっぱいだった。

結局、私に一番なついていた女の子を含む10名弱の学生は、最後まで自分の席から動こうとしなかった。

わたしは音楽の時間を早めに切り上げ、教室の子供たちに話をした。

「今日の出来事は、先生にとって、とても驚いたし、正直、大きなショックを受けました。これまで、この何日間、わたしは、自分が本当の先生なのだと思い込んでいました。

でも、、、私はあなたたちの面倒を2週間しか見ることができない。無責任な先生と思われても仕方がない。

私に対して今日のような態度をとっても、構わない。でも、9月から新しい学期が始まったら、先生に対して、同じような態度をとらないで欲しい。

なぜなら、先生はとっても傷つくだろうから。」私は、思ったことを率直に子供たちに話した。

教室は静かになり、私も静かに教室を出て行った。

誰とも話す気にはなれず、先生をしていた自分がバカバカしくなって、泣きたくなった。

職員室に戻ると、部員に今日あった出来事を話した。ひとり、またひとりと慰めとアドバイスをくれた。

「こういう時には美味しいものを食べて元気を出して。」といって1元のアイスを買って来てくれた部員もいた。

ベットに横になっていると、子供たちがいつものように山登りに行こうと誘ってきた。私は、気持ちを切り替えるために、外に出た。

すると、座って一向に動かなかった学生のひとり、私に最もなついていた女の子も寄ってきた。

「先生ごめんなさい。わざとじゃなかったの」そう言い、私たちと一緒に山に登りたいと言った。

私は、「大丈夫だよ。気にししなくて。」というと、何事もなかったように学校を出発した。

山登りの間、彼女はずっと私の手を握っていた。内気な彼女は本当は山登りなど好きではと以前話していた。

なのに、今日は私たちと一緒に汗びっしょりいなりながら、高く高く登った。

それが彼女の精一杯の誠意だということを、私は心から理解した。

この経験は、これまで順調に授業を進めていた私に立ち止まるきっかけを与えてくれた。

わたしは深く反省した。

いきなりふりだしに引き戻されたような気持ちで、先生としての役割を改めて考えさせられた。

この出来事に悲しみを隠せなかったのは事実である。だが、この経験が、私と彼女を、成長させたことは間違いないだろう。

別れと旅立ち

授業最終日、私はリーダーにもう一度授業をさせてもらえないかと頼んだ。

最後に道徳の授業をしたかった。私は、ボイコットの出来事も含め、これまでの授業で伝えきれなかったことを子供たちに真っ直ぐに伝えたかった。

10歳未満の子供たちには、すこし難しかったかもしれない。でも、いつか大きくなってその言葉の意味が分かるようになったとき、思い出して欲しいと思った。

道徳のある人になること。人のために尽くすこと。すると知らぬ間に、自分が幸せになっていることに気づくでしょう。

命を大切にすること。トンボもねずみも、命あってこの世に生まれてきたということ、そして彼らにも家族がいるのだということ。ありがとう、ごめんなさいをきちんということ。

黒板いっぱいに書いた私から伝えられる子供たちへの最後のメッセージを、子供たちはノートに書き留めていた。

最終日の夜、たくさんの学生が、「先生、私の家にご飯に食べに来てください」と誘ってくれた。私たちは、最後のごはんを8人それぞれが違う家で食べることにした。

子供達の住んでいる「家」は、木で作られている。

この「家」の様子は、言葉で表現しがたい。というのも、私たちは、この村の「家」にとにかく驚いてしまったからである。

木で作られたこの「家」は、一階が牛や豚などの動物で、薄い板を挟んで二階に人々が暮らしている。

ベットもなければ、電気すらない。

料理をするときは懐中電灯を持って野菜を炒める。コンロもないので、集めてきた薪で火を起こす。

電気がないので火がくれないうちにごはんを済ませるのである。原始時代にタイムスリップしたような感じがした。

上海からきた私たち部員は、なんの悪気もなく、ただ一言思わず口から出てしまったのは、「これが家。。。?」であった。

それほど、この農村の家は私たちの想像を遥かに超えたものであった。

わたしが招待された女の子の家では、彼女の両親もちょうど出稼ぎから帰ってきていて、精一杯のおもてなしを受けた。

この村で過ごす最後の夜を、温かい家族に包まれて過ごした。

8月11日、早朝の出発だったにも関わらず、たくさんの子供たちが見送りに来てくれた。私たちは、涙をにじませながら、二週間過ごしたこの村を後にした。

2015年夏。湖南省怀化通道县上岩完小学で過ごした支教生活。8人の仲間の支えと、子供たちの笑顔に支えられて、わたしはここまで歩いてこれた。

子供達の笑顔を、仲間たちの優しさを、わたしは一生忘れることがないだろう。

みんなありがとう。

2015 わたしたちの夏(1)
2015/08/19

2015年8月私たちの夏 はじまり 

― 8月16日の午後―

私は20日間留守にしていた上海の部屋に帰ってきた。

鏡には、日焼けして真っ黒になった自分の姿が写っていた。手足は蚊に噛まれた跡が今でも残っている。

でも、決してがっかりはしない。鏡に映る、以前よりも一周り成長した自分を、わたしは誇りに思った。

「支教」とは―大学生が貧困地区の小中学校に短期間滞在し、学校に寝泊まりしながら子供たちに教育を提供するボランティア活動のことである。

かかる費用は派遣先の学校場所によって様々だが、私の場合、交通費と学校での食事や宿泊費を含めて、参加費は2000元弱だった。

都市に住む私達にとって、過酷な環境で過ごす上、費用も学生にとって決して安いとは言えない。しかし、この支教には、毎年たくさんの応募があり、書類審査と面接、訓練を経て選ばれた学生が10人ほどずつ、中国各地の貧困地区の学校に赴く。

私が参加しようと思ったのは、「変形計」というテレビ番組がきかっけである。2012年、当時大連に留学していた私は、初めてこのテレビ番組を見た。

変形計とは、都市に住む子供と、貧困地区に住む子供を7日間交換するというドキュメント番組である。

お互い見知らぬ土地で生活し、その土地に住む人々と出会い、成長していく子供の姿を描いたドキュメント番組は、湖南テレビ局で毎週土曜日に放送されている。

農村の純粋な子供達が大都市のマンモス校に通い、様々な人たちに支えられながら頑張る姿は、知らぬ間に大都市の人たちを感動させた。

大都市のこどもは田舎の暮らしに悪戦苦闘しつつも、だんだんと馴染み、7日後には涙を流しながら村を去る。ここでは長く書けないが、わたしは毎回涙を流しながら見ていた。

その変形計から学び取ることのできる中国の農村の現状は、私の想像を遥かに超えたものであった。

日本にも農村はあるが、全ての子供たちは義務教育を受けることができ、毎日3度の食事を食べることができる。

しかし、中国貧困地区の子供たちは、朝まだ夜が明けないうちに家を出て、薪を拾いながら3時間の道のりを歩き、やっと学校へ着く。

不十分な環境の学校で大好きな勉強をして、昼は芋や野菜の給食を食べる。一日のうち、その1食しか食べることのできない子供たちがほとんどである。

また、子供たちの両親は農村から離れた街に出稼ぎに出て子供たちの学費や生活費を稼いでいる。そのため、両親に会うことができるのは一年に2回だけという子供がほとんどである。

そんな現状を知り、私は、「中国へ留学したら、ぜったい支教に参加する。」と決意した。以下は、私の応募用紙の一部である。

 
「私は、中国人ではない。だから、国語を教えることも、大学受験に合格するための勉強も教えることはできない。

また、たった2週間の支教で、子供たちに十分な教育を提供することもできない。

でも、たったひとつ、私が子供たちに伝えたいことは、『ひとりの外国人が、あなたたちのことに関心を持ち、少しでも力になりたいと思っていること』。

農村に住む子供たちのほとんどは、両親が出稼ぎに行き、おじいさんやおばあさんと生活している。母を失った私は、子供たちの切なさが痛いほどに分かる。

私は子供たちに、私の伝えることのできる「愛」を精一杯に伝えたい。

そして愛や音楽、文化は国境をも超えることができること、努力をすれば夢は必ず叶うのだということを伝えたい。」

私は自らの支教に対する考えと情熱を、応募用紙いっぱいに書いた。「あなたの応募用紙を見て感動しました。ぜひ面接に来てください。」

復旦大学の2つの支教ボランティア団体から面接の知らせが届いた。

面接に合格し、2週間に一回の勉強会と体力テスト、様々な訓練を経て、
いよいよ7月27日出発の日を迎えた。

上海南駅―桂林駅 列車に揺られて

7月27日、登山リュックと二日分の食料と水を入れた手荷物バックを持って、私は上海南駅に到着した。

駅までは、先輩のみずきさんと博士課程の公為明先輩が送ってくださった。これから始まる支教の旅に、どきどきワクワクしながら、ほかのメンバーの到着を待った。

最初に着いていたのは第二軍医大学の郭继尧である。わたしは彼と一緒に切符を取りに行った。

午後4時半の発車時間を前に、仲間たちが次々と駅に到着した。

ここで、2週間の支教を共にした女子5名、男子3名合計8人の仲間たちを紹介したいと思う。

リーダー  劉昭  復旦大学医学部5年制(9月から4年生)
副リーダー 吉永英未 復旦大学歴史学部修士3年制(9月から修士2年生)
経理    郭继尧  第二軍医大学8年制(9月から3年生)
カメラ   丁佳琳  復旦大学学生物化学学部 (9月から2年生)
部員    阿晔岭  復旦大学8年制臨床医学部(9月から2年生)
部員    朱容惠  復旦大学医学部5年制(9月から3年生)
部員    朱奇苗  上海NY大学 国際貿易学部(9月チェコに留学)
部員    Donnie(US) 復旦大学国際関係学部修士(9月から修士2年生)
 

ご覧いただけたように、私たちグループの最大の特徴は8人の部員のうち、4人の部員が医学部ということである。

このことを活かして、私たちはのちに、農村で医療活動も行うことになる。

私たちを乗せた列車は、予定通り午後4時16分にゆっくりと動き出した。

上海から桂林までは、約21時間である。私たちは、列車の中でお互いについて語り合った。

リーダーであり、医学部の中で一番年上の劉昭は、後輩たちに授業や実験の際の様々なアドバイス行った。

医者の卵の三人はとても熱心に聞いていた。わたしは、上海NY大学の奇苗と、彼女の行ったことのある国、わたしの行ったことのある国について語り合った。

イスラエルやエジプトにもいったことのある彼女の経験は、私にとってとても新鮮だった。

彼女は、自分の大学である上海ニューヨーク大学の特色に似合ったように、これから大きく羽ばたこうとしていた。

また、これから行う日程や教案についても、全員で打ち合わせをした。

のちに一番仲良くなる第二軍医大学の郭继尧は、心配そうに私にこう言った。

「僕が教えるのは中国の軍隊の歴史について、えみが教えるのは平和学。僕たちもしかして矛盾しているのかな?」一瞬気まずい空気が流れたが、その空気も「私達はみんな平和を願ってる。

二人の夢も、自らの願う平和のためだもんね。」というリーダーの言葉でかき消された。

ありとあらゆる揺られる乗り物に乗るとすぐに寝てしまうのが私の癖である。

消灯前に列車の3段ベットの真ん中に横になった私が、次に目を開けた頃、空はすでに明るくなっていた。

桂林駅で 外地人として

私たちはお昼前に桂林駅に着いた。朝目覚めると緑いっぱいの、上海とは全く異なる景色に、メンバー全員が「わ~!」と声を上げた。

喜びもつかの間、私たちは駅を出るとたくさんの「黒車」の運転手たちに囲まれてしまった。

中国各地の駅の前には「黒車」と呼ばれる正式ではないタクシーの運転手が、待ち伏せしている。

その土地に慣れない旅行客に「どこへ行くんだ?乗せていくよ!」と言ってくる。

大きなスーツケースと登山リュックを背負った私たちは彼らにとって絶好の顧客である。

私たちは彼ら黒車のおじさんたちの合間を逃げるように、抜け出した。

そして自分たちで公共機関を利用して学校へ向かおうとした。

しかし、おじさんたちはしつこいほどについてくる。私たちは、ボランティア先の校長先生に教えてもらった住所をもとに歩き出したが、おじさんたちは私たちを取り囲んで

「そっちに駅はないよ。」

「おれの車に乗ったら目的地まですぐ連れて行ってあげるよ。」
としっこく言ってくる。

わたしは最後までこの黒車に乗ることに反対していたが、おじさんたちに前を封じられ、炎天下のなか、見知らぬ土地で荷物を持ってバスを探すのも困難と判断したリーダーの決断のもと私たちは仕方なくこの黒車にのり、汽車駅に行くことにした。

幸い、全員同じ大きなワゴンに乗り込むことができたのだが、私たちはまんまと、このおじさんに騙されてしまうことになる。

地図上では近い距離なのに、車はいっこうに目的地につかない。

それどころか目的地から外れているようにも思う。

しかし、メンバー全員が天津や河北など桂林出身ではないため、「これが近道だよ」というおじさんの言葉を疑うことはできない。

やっと着いた汽車駅で私たちはほっとして高額の100元を支払った。

これで終われば、まだよかったのだが、私たちが汽車駅から次のバスに乗り込もうとしたとき、この黒車のおじさんはまた私たちのもとに走り寄ってきた。

バスに乗り込もうとする私たちの前にはだかり、「お前たち、このバスには乗らせないぞ。絶対に逃げさせない!」私たちは思わず、おじさんの言葉を疑った。

「一体どういうことですか?」二人の男子メンバーが尋ねると、片手にタバコとライターを持ったおじさんはこう言った。

「いまタバコを買いに行ったら、この100元札が偽札だと言われて突き返された。一体どういうことだ!?」

私たちはすぐに反論した。

「そんなはずはありません。私たちは上海から着いたばかりです。このお金が偽札であるはずがありません。」

しかし、激怒したこのおじさんはバスに乗ろうとする私たちをの前にはだかり、一歩も譲らない。

私たちは分かっていた。このおじさんの持っている100元札こそが偽物で、おじさんはまた、私たちから100元を騙し取ろうとしていることを。

バスの出発を前にもめているため、バスはいっこうに動くことができない。バスの運転手さんは、「早く新しい100元札と交換してバスに乗れ。」と急かしてくる。

メンバーの阿晔岭は仕方なく、新しい100元札を渡し、私たちはようやくバスに乗り込んだ。

「なんてひどいひとだ。」

悔しい思いをした私たちは、次々と不満をこぼした。

中国には様々な騙し人がいるが、このような手法に出会ったのは私たちみな初めてである。

私が、「警察を呼べばよかったのに。」と言うと、リーダーの劉昭が分析を経てこう言った。「あの場所全体は彼らの領域。

騙してきたおじさんも、バスの運転手も、警察もみんな顔見知り。そして私たちは外から来た右も左も分からない人たち。

私たちはこの土地の方言もわからないし、彼らがグルになって騙してきたら、私たちはどうすることもできない。

彼らがこうやって騙してきた人たちも少なくないよ。」と教えてくれた。

ボランティアのためにやってきた見知らぬ土地で、着いてすぐ騙されてしまった私たちは、「これからは絶対に黒車に乗らないようにしよう。」と誓い合った。

バスとバスを乗り継ぎ、私たちは支教先の小学校を目指した。学校といっても、駅から何分という距離にあるわけでは決してない。

5時間凸凹道を上り、また乗り換えては3時間緑一色の道を進んだ。

ボランティア先の学校は、農村地区の中の中にある。山を越えて緑のトンネルをくぐって、私たちは山の中へ中へと入っていった。

その緑だけの景色に、私たちは、「いままで私たちが想像していた農村というのは、本当の農村ではなかったね。これこそが、本当の農村だよ」と口を合わせて言い合った。

本当に、此処こそが想像を超えた「田舎のなかの田舎」だった。

学校までは、校長先生の友人の運転するワゴンで向かった。

下ろされたのは小学校へと続く急な坂道の下、私たちはスーツケースと、支教のために用意した子供たちへの文房具や授業で使う材料を両手いっぱいに持って、最後の坂を登った。

やっと学校へ到着したとき、時計はすでに午後7時を回っていた。

校長先生と奥さんの歓迎を受けながら私たちは夕食をとった。

現地で食べる最初のごはんは、地元で採れた野菜と温かい白ご飯だった。

肉や魚は一切なかったが、小さなテーブルに8人で丸くなって食べるご飯は、上海で食べたどんな高いレストランで食べるご飯よりも美味しく感じた。

ケータイの電波もなく、インターネット環境もないこの山の中の学校で、これから、始まる2週間に様々な期待を乗せて、私たちは宿舎の硬いベットに横になった。時計はまだ、10時にもなっていなかった。

別れの七月、出発の七月
2015/07/26

別れの7月 出発(たびだち)の7月
 
「時が過ぎるのはあっという間」という言葉はあまりにもありきたりだから使いたくはない。

でもその言葉以外に今は浮かんで来ることばが見つからない。

本当に、あっという間の一年間だった。

中国の7月は、日本にとっての3月。別れの時期(とき)である。

7月3日は、大好きな先輩の卒業式だった。

朝8時、王章玉先輩から電話があった。「僕たち、卒業写真撮ってるから、えみもおいでよ。」

「今から? わかった!」まるでいきなりの電話に驚いたようなフリをしてみたが、連絡が来ることは分かっていた。なぜなら今日が、先輩と過ごす最後の日だから。

卒業服に身を包んだ先輩たちは、一段と大きく見えた。

私は、玉先輩のカメラを首にかけて、学内の先輩たちの思い出の場所を一緒に回った。

学部から修士まで7年間過ごした彼らの学園への思い入れを、私には想像することしかできない。

図書館、学内のバス停、24時間開放している徹夜の257教室、毎日ゆで卵を買う売店、復旦タワーの向かいの美しい緑の広場。

広すぎる学内を私たちは汗をかきながら回った。

お昼ご飯を一緒にしたあと、先輩たちは卒業式に向かった。今年から規制が厳しくなり、卒業式の会場には本人と保護者しか入れなくなっていた。

私は自分の部屋に戻り、着々と夜の準備を始めた。

卒業式のあと、先輩方は大学を離れてしまう。とくに玉先輩は深圳という上海から遠く離れた街に行ってしまうので、今日が本当に、最後の日だということをみんなは言わずとも分かっていた。

私は、お世話になった7人の先輩のために、卒業式の日は最高のおもてなしをするつもりだった。

部屋に戻ると、初めてピザの出前を取った。

外でご飯を食べるのも良いが、私が上海で最初の誕生日を自分の部屋でたくさんの友達に囲まれて迎えたように、卒業式の日も同じように、わたしの部屋で先輩たちを温かく迎えたかった。

6時になると先輩方が私の部屋に集まって来た。

私達はピザを食べ終わると、みんなんで丸くなってゲームを始めた。こういう時に仕切るのは、はやり玉先輩である。小さな部屋はたちまち笑いに包まれた。

8時になると、私たちはカラオケへと向かった。

今日は奮発して、すべてのおもてなしをしようと決めていた。

父とはあらかじめ打ち合わせ済みだった。「本当にお世話になった先輩なので、精一杯おもてなししてください。そのときはぜひ、お父さんのカードを使ってください。」

私は約束通り、父のカードを使って、カラオケルーム500元(1万円)の支払いを済ませた。

何度も乾杯しながら、私達は歌った。別れを惜しみながら。カラオケの最後、玉先輩が、博士課程一年の李颖先輩にこう言った。

「おれたちは卒業するから、あとはえみを頼んだぞ。えみが誰かにいじめられていたら、絶対助けるんだぞ。えみにいじめられたら、俺たちに言ってくれ。」

冗談交じりでそう言った玉先輩の言葉から、優しさと切なさが伝わり、目頭が熱くなった。

私は先輩方にスポーツ服と手紙のプレゼントを渡した。遠くに行ってしまう玉先輩には、自分で編んだミサンガを渡した。

別れ際、私は玉先輩と大きなハグをした。

「做好自己。」玉先輩は私にそう言った。玉先輩がいつもわたしにかける言葉である。Make yourself.日本語では、「自分の道を生きよ。」と訳すことができるかもしれない。私の誕生日の時に玉先輩が贈ってくれたのもこの言葉だった。

玉先輩が北朝鮮に旅行に行ったとき、そこから送られてきたポストカードにも同じ言葉が書かれていた。

「坚持做自己」。その簡単な一言に、先輩からの最大の励ましとエールが包まれていた。

厳しい指摘を受けることも、私の考えを鋭い論理で反論するときも、間違っていることを気づかせてくれたのも、玉先輩だった。

玉先輩は、私の言うことをすべて同意することはなかった。「えみの考えは素晴らしいと思うけど、ぼくは~だと想う。」いつもそう言っては私に立ち止まるチャンスを与えてくれた。

でも、そんな先輩が贈る言葉はいつも、「自分らしく生きなさい。」という言葉だった。それは、卒業して遠く離れて行ってしまうときも同じだった。

「僕らがえみを送るよ。」そう言って、私が寮に戻るうしろ姿を先輩方が見送ってくれた。

先輩たちに背を向けて横断歩道を渡ったあと、私はまた先輩たちのもとに戻ってきてしまった。

中国語には「舍不得」という言葉がある。「手放すのが惜しい。別れるのが惜しい。」という意味だと思う。私は、先輩たちが舍不得でたまらなかった。
先輩たちのいない日常なんて、想像できなかった。

でもこれからは、先輩たちのいない中で、成長していかなければならない。大好きな先輩たちの卒業は、私にとって大きな試練だった。

私は二度目のハグをすると、横断歩道の向かいに渡り、今度は走って振り返らなかった。

電話やメールでいつでも連絡ができるとはいえ、毎日会うことができないのは、やはり辛い。でも、それを乗り越えて強くなること。

先輩方が残してくれたのは、かけがえのない思い出だった。これからどんなことがあってもくじけずに歩いていこうと決意して、私は涙を拭いた。

上海の風

7月の第三週、私は風邪を引いてしまった。おそらく、クーラーからでてきたカビから感染した恐れがある、夏風邪にかかってしまった。

最初は、喉の痛みから始まったのだが、その後熱や頭痛が襲い、大学内の病院に行った。「風邪」と診断されたが、調子の悪さはその後一週間続くこととなった。

もともと行く予定だった杭州の研修も、欠席せざるを得なかった。

しかし、ひとつだけ、絶対に成さなければならないことがあった。それは、南京に行くことである。

私は、7月21日に南京大学の平和学の劉成先生に南京大学で面談をする約束をしていた。頭痛が治らないなか、私は7月20日12時の新幹線で南京に向かった。

駅に着くと友達の張くんが迎えに来てくれていた。荷物をユースホステルに置くと、張くんが南京の観光地を案内してくれた。

途中で咳の発作があったが、じっとしているよりも汗をかいたほうが早く治ると聞いていたので、そのまま歩き続けた。

そして何より、南京に来たら治るんだ、治さなければいけないんだという気持ちが足を動かした。

夜ご飯は南京大学老校区の食堂でで張くんにご馳走してもらった。南京大学老校区の建物はまるで、昭和時代にタイムスリップしたようだった。

市内の中心にある大学は、周りをビルに囲まれて、まさかここに大学があるとは想像もつかないところにある。

1902年に建てられた南京大学は、時の流れを感じさせない古い建物が立ち並んでいる。

時とともに瞬く間に変化していくのは、大学の周りの町並みの方だった。

21日、前日は咳で寝付けず、頭痛とともに目覚めた。

この日は、南京大学劉成先生にお会いする大切な日である。私は身支度を済ませ、地下鉄に乗った。

上海と異なり、南京は蒸し暑い。地下鉄に1時間揺られ、南京大学新校区の地下鉄駅にやっと着いた。

劉成先生と9時半にこの駅でお会いする約束をしていた。 私はというと、体調がすぐれない状態で、吐き気まで催していた。

「今日は会えないかもしれない。」ということが頭をよぎったが、ここまできて会わないという選択肢はない。

9時半、地下鉄の駅の前で初めて劉成先生とお会いした。

先生は、「よく来てくれたね。南京大学へようこそ」と言ってくださった。「いまから学内を案内しよう!」劉成先生の案内のもと、私たちは南京大学新校区を見学して回った。

中国の大学はとにかく大きい。その大きさといえば、学内にバス停があることを想像して頂ければ分かるだろう。自転車などの手段がなければ、授業に間に合うことができない。

きつい身体をじっと堪えて、わたしは笑顔でいるように心がけた。歴史学部は建てられたばかりで、すべての研究室も教室もからっぽだった。

「9月には研究室も教室もすべて揃っているよ。

授業が始まるから、すべて揃わないといけないんだ。」先生の研究室に案内され、何も空っぽの研究室の前で写真を撮った。歴史学部の見学が終わると、大学のホテルの下のレストランでお茶を飲むことにした。ここからが、私の重要なときである。

ボイスレコーダーのスイッチを入れると同時に、私の中のスイッチも入った。わたしはまず自己紹介をした。その始まりは、中国では必ず聞かれる質問「あなたはなぜ中国で勉強しているのですか?」という質問の答えからだった。

「2012年大連外国語大学に留学していたとき、尖閣諸島問題による日中関係の緊張を目の当たりにし、このままではいけないと考えて、中国の大学院に行くことを決意しました。」

私が自己紹介を終えると、今度は劉成先生が自己紹介をしてくださった。

劉成先生は、2003年にイギリスに留学した際、平和学という学問に初めて触れ、この学問を中国で発展させたいと思い、中国では初めて、南京大学で平和学という授業を開講した。

現在は国連平和学会に出席したり、中国国内で平和講座行っているほか、平和会議のために日本にも何度か訪問されている。

わたしは、あらかじめ用意していた質問をひとつずつ聞いていった。劉成先生は、分かりやすく丁寧に答えてくださった。

お昼になると、「僕にお昼をご馳走させてね」といって、食事を挟みながら交流を続けた。

優しくて親切な先生は、私の心の壁をも溶かしていった。

私が、自分の体調がすぐれないこと、いままで見られない症状があり、自分が重い病気になったのかもしれないと心配していることを話すと、「病は気からだよ」という言葉からはじまり、私を励ましてくださった。

「ガンかもしれない。と疑ってたら本当にガンになるよ。あなたの症状を聞くと、そんな重い病気にかかっているとは思わないよ。」その言葉を聞き、安心した。

7月14日に引き始めた風邪は、一週間後に腕の筋肉が痛くなる症状から、これは大変な病気かもしれない、と判断したわたしは、大学の友達の言うとおり、上海に帰ったら一番に病院に行こうと決意していた。

しかし、不思議なことに、劉先生と話していると、頭痛や吐き気、風邪の症状がどんどん和らんでいくのが分かった。

「病は気から」。湖南省での2週間の支教を迎え前のプレッシャーと、3万字の期末論文、大好きな先輩との別れ、バドミントンはする気にもなれず、毎日部屋に閉じこもって終わりのない論文と向き合う日々が続いていた。

奨学生として復旦大学に留学していることは、前者以上の責任として重く肩にのしかかっていた。気づかぬうちに自分を追い込み、風邪を引くと、メンタルの弱っていた私にはたちまち大きな負担となってしまった。

そんな自分の背景を、劉成先生と話して初めて客観的に見ることができた。そして、午後2時までに及んだ劉成先生の面談のあとは、なぜか肩がとても軽くなり、笑顔も見せられるようになっていた。

その変化に、自分でも驚き、嬉しくなった。

面談の最後、劉成先生は「9月26日南京大学で国際青年平和学講座があるので、あなたもぜひ参加しなさい。」と言ってくださった。

私は嬉しくてたまらなかった。その他にも、ここでは書き切れないが、中国で平和学を学ぶ私にとって、その大きな一歩となる今後のチャンスをたくさん頂くことができた。

駅まで送ってくださった劉成先生に9月に会いましょうと別れを告げて、私は大学を後にした。

一泊1000円程度のユースホステルは、世界各国にある。

その地域ごとの特色があり、バックパッカーたちが集まるホステルは、必ず仲間と出会うことができる。

私は、中国国内を旅するときはもちろん、アメリカでもユースホステルを利用していた。6人部屋に戻ると、昨夜出会った友達が「今日はどこに行っていたの?」とすぐに聞いてくる。

まるで家のような温かみを感じる。私が日本人ということを、全く気づいていなかった彼女たちに、「あなた(中国の)どこ出身?」と聞かれると、私はいつも「どこ出身か当ててみて」と言ってみる。

「発音を聞くと、たぶん南の方だと思う。海南島?」など、大抵の場合中国の南や台湾などと言われる。

どきどきしながら、最後に私が日本人だということを伝えると、びっくりして、今度は日本に移民した中国人なのか、家族に中国人がいるのかと聞いてくる。私が、生まれも育ちも家族も日本だと伝えると、彼女たちは口をあんぐり開けていた。

友達になると、相手がどこの国の人か、どこの出身か、そんなことはどうでもよくなる。

私たちは仲良くなると、美味しいレストランの話をするし、好きな男の人のタイプも聞き合う。困っていたら助け合うし、嬉しい時は一緒に涙を流して喜ぶ。友情に国境がないこと、愛に国境がないことは、身を持って学んだことである。

7月21日、劉成先生に励ましをいただいた私は、改めて元気を取り戻した。午前中南京大虐殺記念館を訪れ、午後は南京大学の友達と中山陵を訪れた。

地下鉄やバスでの移動中は立ってでも寝られるようになった。そしてなぜか目的地に着く一歩前で目が覚めることができるのである。

今回は、復旦のクラスメイトから南京大学の友達を紹介してもらい、私の南京の旅をサポートしてもらった。

一緒に観光地を回ったり、南京料理をご馳走してもらったり、「友達の友達」にとても親切にしてもらった。

大学付近で遊びに夢中になっていると、時計が午後5時15分を回っていることに気づいた。

午後6時上海行きの新幹線に乗らなければならなかった私は友達の付き添いのもと、急いでタクシーに乗り込んだ。

しかし、ラッシュアワーでタクシーは渋滞で動けなくなり、今度はタクシーを降りて地下鉄に乗り換えた。5時55分に新幹線に滑り込んだわたしは、ほっとして席に座ると列車が走り出す同時に眠りに落ちてしまった。

たった1時間40分で上海と南京を結ぶ高鉄。上海の夜景を見ると改めてひとつの都市を越えてきたことを実感する。私は今、世界で有数な経済大都市上海にいるのだ。上海の風が、「がんばれよ。」と言って私の背中を押しているように感じた。

吉永英未という存在

中国では、Wechatが日本で言うLINEかつブログのような存在で、ほとんどの中国人が使用している。

そのWechatで、わたしは今学期の終わりに自己紹介と自ら書いたエッセイを載せて投稿した。

すると、たくさんの方にシェアしていただき、2015年7月25日の現在で閲覧数3328、いいね!127、シェア数22となっている。コメントもたくさん頂き、「あなたのブログを見て感動しました。ぜひ応援させてください。」と中国各地から友達申請が届く日が続いた。

自分の予想以上にたくさんの方に吉永英未という存在を知っていただくことができた。

夢を叶えるために、たくさんの人に自分について知っていただき、自分の夢についてより多くの人に知ってもらうことは、とても大切なことだ。

いまでは、私が「私の夢はね、、、」と言うと、「世界平和でしょ。」と初めて会った人も私のブログを見たひとはそう答えてくれる。

Yahooで「復旦大学」と検索すると、自分の日記が出てきたり、百度(バイドゥ)で「吉永英未」と検索すると私の書いたエッセイが表示されたり、目に見えない様々な方々に支えられて、応援されて生きていることに気づく。

自分の夢は、自分にしか追いかけられない。(ジタバタと)地面を足踏みすることも必要。

そこから一歩踏み出すことでチャンスを生み出し、それを掴み取ることができる。それがいちばん肝心なことなのだと思う。

チャンスを掴めるか否かで、その後の人生も大きく変わってくるにちがいない。でも、ジタバタ足踏みをしている間はとてもつらい。

自分が成長しているのかどうかが分からなくて、このままではいけない、と自分を何度も責める。

・・・・・・私はこの半年、この足踏みにとても苦しんだ。

しかし、いつか必ず、その泥沼から抜け出すことができる。蓮の花は、その水が汚ければ汚いほど、濁っていればいるほど綺麗な花を咲かせる。

はまってしまった泥水が濁っているほど、そして深いほど、次の一歩の可能性は限りなく大きい。

苦労の上に努力を重ねて、その辛さを人に見せることなく、綺麗に前を向いて咲く蓮の花は、美しい。

私は、夢を叶えるために、この世に生まれてきた。だから、夢を叶えるために全力を尽くしたいと思う。

湖南への出発を前に、私は一生夢を追いかけ続けることを決意し、言葉にしておきたい。人生はどれほど長く生きたかではなく、どんなに真剣に一生懸命に生きたかである。

それならば、私は、泥水の中で美しく咲く蓮の花のように生きたい。

7月26日 吉永英未

    《今後の予定》

7月27日 寝台列車で19時間湖南省怀化支教地区(貧困地区)へ

7月28日~8月12日 支教

8月12日~8月14日 湖南省見学

8月15日~長沙から列車で上海へ

8月18日 テレビ収録 在中国日本大使館 日本人留学生と日中関係
     日本人留学生として日本領事館で日中学生による討論会のテレビ  
     取材を受けることになりました。            
8月19日 鹿児島へ帰国

9月2日 上海へ戻る 研究生2年生一学期開始

7月27日からの半月は、中国語では「支教」と呼ばれる、中国の貧困地区で子供たちに教育を提供するボランティアに参加します。学校の宿舎に子供達と住み、一緒に過ごします。

私の支敷場所は国家重点支教地に指定されている、中国で最も貧しい地区のひとつです。

支教に参加し、中国の貧困地区の子供たちのために微力ながら自分の力を尽くすことは、中国に留学中に行いたい事のひとつでした。

厳しい体力テストと面接を通過して、復旦大学代表として毎年支教を行っている小学校に派遣されます。

私達は全員で8人のグループです。私は副リーダーになりました。過酷な環境の中で過ごす2週間にある程度の覚悟は出来ていますが、どんなところなのか、行ってみなければわかりません。

でもきっと、どんな困難も8人で乗り越えていきたいと思います。

また、現地ではインターネットに繋ぐことが難しいかもしれませんが、チャンスがあり次第ネットに繋いでみたいと思います。

それでは、鹿児島にいらっしゃる方は鹿児島でお会いしましょう!日本の皆様、暑さに負けずに、一日一日幸せな日々をお過ごしください。

吉永英未より

西安の旅3 越えられない壁は無い
2015/06/21

超えられない壁は無い 

華山からバスで2時間のところにある華清池で、夜は長恨歌という歴史劇を見ました。

露天で見るステージの背景はなんと山。山にはライトが散りばめられてあり、夜を表現する時には山に月と星が浮かび出します。

玉先輩のお父さんの知り合いの関係で、前から三番目の真ん中で見ることができました。水あり、炎あり、迫力満点のステージでした。

最終日の三日目は兵马俑を見に行きました。

前日の山登りに疲れきってしまい、いつもは早起きのわたしも先輩の出発の電話でやっと目が覚めました。その日の朝食のとき、玉先輩が私に、大切なことを教えてくれました。

『昨日のえみの頑張りはすごかった。僕らの前で、天の階段を登りきったとき、僕らみんな本当に感動したよ。

あれは100回プレゼンテーションをして自分の成果を人に見てもらうよりも、ずっとすごい勇気をみせてくれた。そして、バドミントンや、夏休みのボランティアも、課外活動に取り組む姿、その体力は僕らみんなが認めている。

でも、 ここからわたしは深く考えさせられるのです。玉先輩とは関係がとても良いため、先輩の思っていることを率直に教えてくれました。

『でも、勉強については、本当に努力が必要だよ。』

『中国の古代皇帝の名前や、世の中で常識と呼ばれるもの、道端で肉まんを売っているおばちゃんだって答えることができる。えみは?』

「答えられない。」

『この前のえみのプレゼンの資料を見せてもらったけど、あの内容だと誰でも作ることができるよ。

本当は、A4一枚の資料を書くために、10冊の本を読まないといけないんだ。

そうして、自分が得たもの、感じたもの、発見したものをやっとたった一枚の紙にまとめることができる。

えみの発表した内容は、僕らがちょっと調べただけでもしることができる。

えみの発表を聞くまでもないよ。厳しい人なら、時間の無駄だというかもしれない。えみは、もっと真剣に本を読んで、しっかり研究する必要がある。

自分がどんな専攻であっても、歴史は必ず学ばなければならない。』

『平和を語るのは簡単だけど、なぜこれまで平和が築けていないのか。過去の人はなぜ成功できなかったのか、知っている?』

わたしは、自分が恥ずかしくなったことは言うまでもありません。

わたしは玉先輩からの忠告とアドバイスを、この日の朝から一日考えていました。夢にも出てきました。玉先輩は、私の核心をついていました。

私の欠点を見通していました。こんなに長い付き合いであれば、当たり前と言えばそうなのかもしれませんが、率直に私の学習面に対する不足を指摘されたのは、初めてのことでした。わたしはただ、頷くだけでした。

あとから、劉青先輩が励ますように私にこう言いました。

『えみは、中国人学生と比べる必要は無いよ。勝てっこないんだから。でも、えみには有利な点がある。

ふたつの丸が横に並んでいるとする。

その丸の交じり合うところ、そこに焦点を当てることができる。それは重要なところだよ。』

つまり、ふたつの円が交じり合っているその部分、日中の交じり合うその部分に焦点を当てて研究することに大きな意味があるということであるということだとわたしは受け取りました。

最終日の夜、4人の先輩方はこう言いました。『えみがどんな選択をしても僕たちはえみのことを応援してるよ。』

復旦に来て、興奮し、挫折を味わい、努力もして見せましたが、到底他の学生には付いていけなくて、かと思うと、自分はこの程度で良いのだと諦めて、そしてまた立ち止まって、ここまで歩んできました。

そんな私を、励ましてくれたのはやはり同じ大学で学ぶ先輩方やクラスメイト、そして指導教員の馮先生、日本にいらっしゃる方々でした。

修士一年生の終了を間近に控えたこの「卒業旅行」は、私にとってとても大きな意義のあるものでした。

それは、尊敬する先輩方と過ごす最後の5日間でもあり、自分の限界は自分で決めてはいけないのだということを身を持って学んだ5日間でした。超えられない壁は無い。

それは山登りも学問も同じだということ。私は、これまでの自分を振り返り、深く反省し、もっと努力しようと決意しました。

それは本当に簡単ではないし、高く険しい壁であることは確かです。

でも、私はひとりではなくて、登る過程で、必ず誰かが下から支えてくれている。山の上では必ず誰かが応援してくれている。

山の頂上ではきっと、異なる景色を見ることができる。だから私は勇気を出して登ることができるのです。

私の努力が十分ではないということ。ならば、成長の空間がまだあるということ。

私はこれから一層、努力していきます。

そして、ここ復旦大学で一生の親友に出会えたことに、心から感謝し、今回の日記の結びとさせていただきます。

2015年6月20日 端午节 吉永英未

西安の旅2 西岳崋山
2015/06/21

華山登り

二日目の朝、私達は玉先輩のお父さんの運転で、華山へと向かいました。

目的はもちろん、登山です。華山は中国五大山のうちのひとつで、一番危険な山と言われています。ホテルで休憩を済ませ、山の麓で陕西で有名な麺をお腹いっぱい食べ、リュックを背負い、午後7時、小雨の中私たちは登山を開始しました。

山の麓から、チケットを買う登山口まで1時間近く歩きます。私たちは、同音漢字ゲームをしながら登り始めました。この中国語の漢字ゲーム、私は3つ同音漢字を思いつくのが精一杯でしたが、彼らは4人でその同音漢字が無くなるまでそのゲームを続けていました。

中国で一番危険な山と言われている華山は、毎年転落事故などが起きています。他の4人はしっかりと心の準備が整っていたのに比べてわたしは実感があまりなく、山東省にある泰山に登ったことがあったため、ほぼ同じレベルだと思っていました。

海抜2000メートルの華山は私の想像を遥かに超えたものだということを、実感したのは、90度の石の壁を目の前にしたときでした。天梯(天の階段)と呼ばれるこの石の階段は、90度で、小さな足の踏み場が一歩置きにあり、横に鎖でできた手すりがあるのみです。

ほぼすべて腕力とこの小さな足置きに頼り登って行きます。わたしはその壁を見たとき、開いた口がふさがりませんでした。これは人間が登っていけるものではないと思ったのが最初の感想です。

貴州出身の兴松が先頭に登って行きました。先輩方が私を真ん中にして、前後で援助する体制でした。わたしは4歩登った時点で怖くなり、また私の腕力では登ることのできないと判断し、泣きそうになりながら後退をし始めました。

玉先輩は私の足元で、「えみ、こんなとき勇気が一番大切なんだよ。この試練に耐えることができたら、他のどんな厳しい道も進んで行ける。本当に諦めるの?」と聞きました。

私は半分泣きながら「諦めるから降ろして。」と言いました。先輩方は残念がりながら、私を残して登って行きました。

私は、隣にある安全な道を登り、先輩方と石の壁の上で合流するつもりでした。

諦めて地上に降りたわたしは、私以外の全ての先輩が無事に石の壁を登りきったことを確認すると、トイレに向かいました。4歩登っただけでしたがその緊張で胸はまだ、どきどきしていました。私はトイレでじっと考え、トイレを出たときにある決意をしました。

「ここで諦めたくない。登りきるんだ。みんなと一緒に。」石の上で待つ先輩方に私は叫びました。

「わたしも今から登ってくる!」先輩方は思わず動揺してしまいました。「ちょっと待って。早まらないで。」先輩方はまさか私がトイレに行ってから考えを変えて登ってくるとは思いもしなかったようです。

「ひとりで登るのは危険だから、早まらないでちょっと待ってて!」と言って玉先輩が降りてきてくれました。

彼が私の下から登り、万が一落ちた時に支える役をしてくださいました。

私は一歩ずつ、一歩ずつ、天の階段を登り始めました。90度のため、石の上は全く見えません。下は怖くてもっと見れません。

私は深い息を吸って、ゆっくり、ゆっくりと登り始めました。上からは3人の先輩方が応援し、下では玉先輩が励ましてくれています。

そしてついに、天の階段を上りきりました。

先輩方と手を取り合い、私達は喜び合いました。あの時の感動は、これからも忘れることがないと思います。もしもあのとき、上と下からの先輩方の支えがなければ、私はきっと90度の崖の階段など登りきることが無かったでしょう。

心から、励ましてくれた仲間を愛おしいと思うと同時に、言葉で現しようのない達成感を味わった瞬間でした。

その後、途中休憩を挟みながら私達は比較的速いスピードで登り続けました。登る途中は霧が深く、山の上では霧が足の下に見えました。暗くて下が見えなかったため、高所による怖さは感じませんでした。

やっと山の頂上についたのは、深夜3時でした。

私たちは、山の頂上で夜空いっぱいの星を見ました。教科書で見る北斗七星や、流れ星もはっきりと見ることができました。石の上に座りながら、綺麗な星たちを長い間じっと眺めていました。

日の出を前に、私たちは頂上の一番日の出の見える位置に移動しました。このとき、気温はとても低く、風もあり、みんなコートを着て肩を寄せ合って日の出を待ちました。

疲れで眠くなり、静かな夜にウトウトしてきました。そのとき、わたしは、眠ったら風邪をいてしまうと思い、物語を語り始めました。

『あるところに、女の子がいました。女の子には3歳年上のお兄ちゃんがいました。小さい頃から女の子はお兄ちゃんの後を付いて遊んでいました。女の子は、お兄ちゃんを兄として尊敬することがなく、いつもわがままを言っては喧嘩していました。

しかし、女の子のお兄ちゃんは思いやりに満ちた人でした。ある日女の子がまだ小学生だったとき、兄妹二人で歌手のコンサートに行きました。

そのとき、人ごみの中、兄妹二人は小さすぎてステージがまったく見えませんでした。お兄ちゃんは、自分は他のお客さんの背中だけを見て、2時間妹を肩車して、女の子にステージを見せてくれました。

女の子は大きくなって、お兄ちゃんの優しさと思いやりにやっと気づいたのでした。でもそのときお兄ちゃんは遠く離れたところで働き始めていました。』

私が物語を語り終えると、聞いていたみんなから温かい言葉をもらいました。すると玉先輩、劉先輩とみんな自分の家族について語り始めました。

そうしているうちにあっという間に、夜が明けてきました。残念ながらこの日、前日の雨で霧が厚く、日の出を見ることができませんでした。

しかしこの日の夜明けまで自分についてお互い赤裸々に語り合えたことは、一生の友情の宝物になりました。

周りが明るくなり、朝食をとり終えると8時から下山を始めました。

今度は命綱をつけて山の頂上からもうひとつの山に降りていくという試練が待ち構えていました。

わたしは、前の人の頭だけが見えて足元が見えないという崖を降りていく姿に腰が抜けてしまいそうになりました。

わたしはこんな命知らずな山移りなどしたくないと心の中で思っていましたが、好奇心旺盛な先輩方に挑戦しないという選択肢はありません。真ん中に挟まれて、わたしも同じように命綱をつけて降りて行きました。

今回は、夜も明けて山がはっきりと見えるので、一層恐怖心が増しました。そして2000メートルの山の上からはもはや地上を見ることができず、落ちたらどうなるかと想像するだけで生きている気がしませんでした。

前を降りていく先輩が次にどこに足を置いたらいいか教えてもらい、生まれて初めてつけた命綱の二本の鎖を一つずつ慎重にはめ変えて、降りて行きました。神様に無事を祈りました。

なんとか隣の山に着くと、そのてっぺんから雄大な山を見下ろしました。勇気を振り絞った人にしか見えない光景です。2000年前もこの山を誰が登り、この道を築いたのだと思うと、足は震えながらも、心から感銘を受けました。

8時から下山を始め、山の麓についたのは午後2時でした。

華山登りは、23年間の人生のうちで一番「険しい」に挑戦した山でした。足の筋肉痛の痛みは今まで経験したことがないものでした。

しかし、全身の疲労以上に大きなものを得ました。それは、勇気と、信じることです。これらふたつの言葉は、言うことは極めて簡単ですが、実行することは決して容易なことではありません。

一度登ることを諦めた90度の階段に、もう一度挑戦し登り終えたとき、4人の先輩は感動し、みんな「えみ、すごいよ。よくやったね!」と言ってくれました。

上と下にいる仲間を信じて登って降りた崖は、決して一人では乗り越えることのできないものでした。

でも、信じることで、自分の能力以上の勇気を発揮することができ、全ての試練を男子の先輩方と同じように完成することができました。この経験は、私にとって、とても大きな自信へを変わりました。

5人で手を取り合って登った華山のことを、これからも一生忘れることがないでしょう。10年後にまた登ろうと決めた私達は、きっと、この華山に戻ってくる日が来ると思います。

勇気と感謝  西安の旅
2015/06/21

勇気と感謝 西安の旅

6月14日から19日まで、わたしは西安の旅に出ていました。14日の午後4時半に大学の北門に集合し、他の先輩合わせて4人で上海駅に向かいました。

そして、午後6時半発西安行きの寝台列車に乗り込みました。

上海から西安までは14時間です。3段ベットのうち、私は真ん中のベットでした。

初めは4人でトランプを楽しんでいたのですが、シャワーを浴びてきてから来た私は習慣的にすぐに睡魔が来て、9時にならないうちに眠りに落ちてしまいました。

そして翌日の朝10時に、列車は西安に着きました。

本当に、「ひと晩寝たら西安に着くよ」という先輩の言葉の通りでした。西安に着くと、もうひとりの先輩、王章玉先輩が私たちを迎えてくれました。

これで、私たち5人すべて揃いました。

今回の旅は、「卒業旅行」です。

というのも、私以外の4人の先輩は大学院3年生で、7月3日に卒業式を迎えます。ということで、先輩方は、「西安→成都→貴州」に行く旅行を計画しました。

西安は王章玉先輩(以下玉先輩)の故郷で、貴州は李兴松先輩の故郷です。私は授業がまだあったため、西安のみに行きました。

卒業旅行のメンバーは、7月から正式に百度という中国の検索サイトで働く周帆,劉青、同じく上海の車関係の会社で働く李兴松、そして香港のとなり深圳で働くことが決まっている王章玉先輩と私の5人です。

王章玉、李兴松、刘青先輩とは、去年の9月に私が初めて復旦でバドミントンをした日に出会いました。

5年ぶりにラケットを握り、とっても嬉しくて興奮してバドミントンをしているとき、後ろのコートでバドをしている三人に出会い、一緒に楽しみました。

その日の夜に連絡先を登録し、それからほぼ毎週誰かがコートを予約すると一緒にバドを楽しんでいました。

そんなわけで、彼らとの関係は非常に緊密で、なんでも話せる、お互いに深く信頼する関係を築いてきました。

今回の旅行は、そんな彼らと一緒に弾けて遊ぶことができる、卒業前の最後の機会でした。

西安駅は、スリがとても多いと聞き、私はリュックを前にからい、注意していました。しかし、スリに遭う暇もなく、西安人の玉先輩にあるとすぐに駅を離れ、最初の観光地へと向かいました。

西安は、世界四大古代都市のひとつです。陕西省に位置し、3100年の歴史を有します。兵马俑,华清池,大小雁塔,法门寺などがその深い歴史を代表します。

私たちはまず「回民街」でたくさんの小吃を体験しました。小吃とは屋台や出店などで食べる安くて軽い食事で、中国全土にあり、その土地それぞれの美味しい食べ物が並びます。

西安はとくに有名で、辛いものから甘いデザートまで、たくさんの美味しい物を食べ歩きすることができます。私たちはこの通りで10種類以上の美味しい食べ物をみんなでつまみながら楽しみました。

論語の中には、「有朋自远方来,不亦乐乎」ということわざがあります。親友が遠いところから訪ねてきて、その嬉しさは言葉で現しようが無い。

中国人は、遠いところから訪ねてきた来た友達を心を込めておもてなしします。私は玉先輩の熱心なおもてなしに、このことわざの意味を心から実感し、中国のおもてなし文化を学びました。

西安に着いたその日から帰りの空港に着くまで、私はほとんど財布を開いていません。というのも、4人分の食事代、ホテル代、交通費などの費用は、5日間すべて玉先輩が負担してくださったからです。

私がお金を払おうとしても、「ここは僕のふるさとだから、僕に払わせて。」と言って、一度きりも出させてくれませんでした。

申し訳ないと思いつつも、一生懸命ガイドを努め、私たちに西安を思いっきり楽しませてくれた彼の精一杯のおもてなしに感動するばかりでした。

夜は、先輩方4人は玉先輩の家のすぐそばのホテルに泊まり、私は玉先輩の家にホームステイすることになりました。玉先輩のお父さんの目は、慈悲という中国語の言葉しか思い浮かびませんでした。彼のお父さんの目は、本当に優しい目をされていました。

玉先輩は、私が人間としてとても尊敬している先輩です。彼の思いやり、学習、研究に対する態度、道徳心などは、私が本当に心から学びたいものばかりです。

彼のうしろ姿から本当に多くのことを学ぶことができます。私はこの一年足らずで、彼からたくさんのことを学んできました。

それは学習に対する情熱だけでなく、友達への接し方、どのように自分の生活に向き合っていくかなど、数え切れません。

そんな彼と接することができる最後の機会だと思い、今回の彼のふるさとへの旅に参加することを決意しました。

王章玉先輩は、とても思いやりに満ちた人です。私が、母の病気のために鹿児島に帰ることになったとき、何も言わずにご飯に連れ出してくれました。

帰国の日、朝5時に起きて空港行きのバス停まで送ってくれたのも彼でした。

また、一緒にバドミントンをしていたときのこと。自分よりも上手ではない人たちが「一緒に打ってくれないか?」と訪ねて来たとき、私は彼の前でお断りしました。

心の中で、「自分より上手くない人と打っても成長できない」と思っていたからです。彼らがコートを離れて行くと、玉先輩は私にこう言いました。

「自分よりも強い人と打ちたいえみの気持ちは十分に分かるよ。僕は昔バドが本当に下手だったんだ。でも上手なひとが僕と一緒に打ってくれて、そしてここまで成長できた。」

わたしは、その言葉にはっと気づかされました。

そして恥ずかしさが込み上げてきました。わたしは、復旦に来てからバドミントン大会では3位、2位、2位という成績で、女子シングルスではほとんど負けたことがありませんでした。

普段も男子と競い合うことが多く、自分が天狗になってしまっていたことに気づきました。

玉先輩の言葉にはっと気づかされたわたしは、羞恥心を感じ、一緒に打ってくださいと誘ってくれた方に本当に申し訳ない気持ちになりました。

その日の夜深く反省し、これからはどんな人とも一緒に打とうと決心しました。

玉先輩は、勉強面でもとても尊敬している先輩です。西安で彼のお母さんにお会いしたとき、彼のいないところで玉先輩の中学、高校時代の秘話を聞きました。

中学時代彼は保健委員を務めながら、成績は毎回学年2位だったそうです。いつも二位なので、「老二」というあだ名が付いたほどです。それが悔しかった彼は、中二のときからまた一層努力し、二年生の後半から全学年で一位を取ったそうです。

高校は実家を離れ、西安で一番の高校で寮生活を送りました。

周りの生徒と違い、英語の塾に通ったことの無かった彼は、英語能力が足りないと思いました。そのとき幸いにも、担任の先生が英語の先生で、その先生にお願いし、教室の鍵を借り、毎朝6時に教室に着いて英語の朗読を始めたそうです。

英語の成績も少しずつ向上し、苦手科目から得意科目へと変わりました。

高校では班長も努め、自分に自信も付きました。そして18歳の夏、復旦大学に入学しました。

玉先輩の祖母(父方)は有名な科学者で、彼のとても尊敬している存在でした。

従兄弟は6歳年下で現在清華大学の一年生です。この従兄弟を彼はとても可愛がっており、従兄弟自身も幼い頃から優秀な玉先輩の影響を受けてきました。

平和学の中国における現状についてのご質問に答えて
2015/06/14

ご質問の、平和学の学術的組織化について、復旦大学の私の授業を担当している歴史学部の張翔教授に先日お尋ねしたところ、「平和学」という学問は中国ではあまり耳にしないとおっしゃっておりました。

クラスメイトの皆さんや、先輩の方々も、同様の答えがかえってきました。

しかし、平和学が浸透している場所ももちろんございます。華東師範大学の平和学の李巨潇先生は現在退職されましたが、平和学の研究を熱心になさっております。

わたしが7月に訪問する南京大学の劉成先生は、現在台湾大学の訪問学者で、同じく中国における平和学の発展に力を尽くされております。

また、劉先生は、5月下旬に東京でAALA会議に参加されたそうです。そして、日本平和学会と提携して、今年10月31日に北京で日中両国平和学学者による日中関係対話会議に参加されるそうです。

わたくし個人としては、中国における平和学研究及びそのもの自体について認識が浅く、現在勉強中であります。

確実なことを申し上げるほどの学識もございません。申し訳ございません。

これから一生懸命努力していく次第であります。

多方面に関して、ご指摘ご指導のほど頂けたらと存じます。

吉永英未

吉永さん
cc:木村先生ほかみなさま

近況ありがとうございます。
ところで、中国の大学における平和学ないし平和研究講座の開講状況
や学会作るのは常識化している中国にあって、「中国平和学会」の構
築現況はどのようなものか、逆に教えてもらえると助かります。平和
学との名を冠する講座が点在しているとの認識はあるのですが、学術
的組織化がどの程度進んでいるのか(日本でも韓国でもそれほどディ
シプリンとして確立しているわけではないのでしょうけれど……)、
吉永さんの現状認識を教えてください。
レポート頑張ってください。
取り急ぎ             sn

夏休みをまじかにして―期末論文のことなど
2015/06/14

今学期も、残り2週間ちょっととなってしまいました。

二週間後には、二ヶ月間の長い夏休みに入ります。

そして、その夏休み後には恒例の、期末論文を提出しなければなりません。

わたしは今学期、以下の論文があります。

1.馮玮先生 日本外交史 5千字。後日詳細告知。

2.国際関係学部博士課程の授業 1万字

3.夏先生 古代ギリシア史 5000字 これは再来週提出で、ほとんど書き終わりました。

4.李先生 歴史学理論と方法 5000字 自分の興味を持った分野で書く。2と関連する部分があってもよいと思います。

5.張先生 明治日本の歴史 古文読解 後日詳細告知。

ということで、一番問題なのが、国際関係学部博士課程の一万字の期末論文です。

10000字と聞いたとき、何かの間違いだと思いましたが、わたしが間違って博士課程の授業をとっているので、

周りの方たちは平然としていて、私だけが口を開けていました。

中国語で1万字の文章は、これまで書いたことがありません。

それぞれの論文は、9月の第二週目までに印刷したものを提出しなければなりません。

この国際関係の論文のテーマは、先日授業で発表した「世界平和の実現」と題して書きたいと思っています。

21世紀の国際社会、戦争、平和構築、武装解除、構造的暴力、貧困、(第三世界の貧困だけでなく、最近は日本の見えない貧困にも注目しております。)、世界で活躍するNGO、PKOなどをキーワードに資料を集めております。

中国では、平和学はほとんど普及しておらず、日本の資料はJICAのHP及び国境なき医師団、国際赤十字などのHPからPDF資料などを参考にしています。

わたしは今年の夏の前半は大学に残り、2週間は中国貧困地区の小学校にボランティアに行く予定です。

ということで、夏の予定と経済的理由から、日本に帰国することができません。

そこで、大変恐縮なのですが、日本にいらっしゃる方で、もし関連の資料がありましたら、お手数ですがメールの添付ファイルにて送っていただけましたら大変光栄に思います。

わたしは、7月に南京大学の平和学の教授にお会いするほか、こちらでもできる限り中国語の資料を集めたいと思います。そして上海で現実と向き合いながら、全部で3万字の論文を書きたいと思います。卒業と、なにより自分の成長のために、力を尽くしたいです。

資料の件につきましては、急ぎませんので、もしお時間ありましたら、ご協力いただけたらと存じます。

お忙しい中大変恐縮です。何卒よろしくお願いいたします。

上海もスイカが並ぶ季節になりました。日本の皆様のどうぞ暑さに滅入らないように元気で幸せな日々をお過ごし下さい。

吉永英未より

復旦大学110年(歳)バースディ
2015/06/04

夢のバトン

復旦大学の110回目の誕生日であった5月27日は、大学にとって、卒業生や、私たち在学生にとって特別な日となりました。

1905年5月27日、中国の著名な教育家馬相柏氏によって、復旦大学は創設されました。北京大学、清華大学に続く国家重点大学の一つとして、博学而笃志,切问而近思という校訓のもと、復旦大学の歴史は始まりました。キャンパスは合わせて4つあり、2014年現在,复旦大学の学部生は1万2千933人,研究生1万6千26人,留学生3千216人です。

2015年5月27日記念日の朝、6時20分から国旗掲揚に参加しました。

会場の広場では、朝早くにも関わらず、みんな大学シャツを着て、学長の登場と国旗掲揚待ちどうしそうにしていました。

私も国際関係学部の先輩に電話で起こされてから、眠い目をこすりながら、新しく買った大学のTシャツを着て会場駆けつけました。

7時から、そわそわした会場に力強い足音が響きました。

復旦大学武警班の青年たちが足取りを揃えて、大学の旗を掲げて行進してきます。

背景には合唱団による校歌が大学のオーケストラによる演奏のもとで歌われ、雰囲気は最大に盛り上がりました。

同じ5月27日の午後、上海日本人学校の学生44名、引率の先生4名が復旦大学の見学に訪れました。先輩に頼まれた私は、日本人留学生代表として、97年生まれの高校三年生を前に、プレゼンテーションと大学案内を行いました。

高校三年生の彼らに向けたプレゼンは、Story of My Lifeという、学部時代に何度も発表したことのあるものです。学生と先生方からは大きな拍手をいただきました。

夜は、正大体育館という大学で一番大きな体育館で行われた「校庆晚会」(記念イベント)に行きました。歴史学部にチケットが配られ、幸運にもそのチケットを2枚手にすることができた私は、国際関係学部の公为明先輩と一緒に見に行くことになりました。

いつもバドミントンを楽しむ体育館が、その日の夜は盛大なステージが設けられ、会場内はライトアップされ、普段の面影を少しも残さないように全く変身してしまった姿に、もうすでに圧倒されてしまいました。

舞台は片時も目を離せないほど、素晴らしいものでした。

同じ会場には、学長もいらっしゃっていました。

ライトと大学の旗が配られ、私自身も始終ときめきながらステージを楽しみました。

ステージに登場したのはすべて復旦大学の学生及び卒業生です。

復旦大学附属小学校の子供たちによる寸劇と歌から始まりました。

50年前に卒業された方々によるステージでは、復旦大学時代にであった二人が結婚して50年経ち、当時の学生恋愛の様子を語る場面もあり、会場は温かい笑いに包まれました。

私が一番感動したのは、世界から送られてきたビデオレターです。

世界各国で活躍する「復旦人」の方々が、この日会場に駆けつけることができず、ビデオレターに想いをのせて「復旦大学、誕生日おめでとう!」というメッセージを送ってくださいました。

世界各国の背景のもと、大学の旗を持った卒業生たちが大きなスクリーンに映し出されました。フランスはパリのエッフェル塔、ワシントンDC、ロンドンブリッジ、アフリカ、カナダ、オーストラリア、韓国、そして日本は東京大学を背景に、世界に散らばる復旦人からのメッセージがです。こんなに遠くに離れていても、どんなに時が経っても、大学を愛し、大学に感謝し、この日のために大学の110回目の誕生日を祝う姿にわたしはとても感銘を受けました。そして改めて、わたしも世界で活躍できる「復旦人」になりたいと心に誓いました。

ステージの最後には、子供からおじいさんおばあさんまで、華やかなドレスに身を包んだ復旦人の方々と、会場にいる私たちも立ち上がり、校歌を歌いました。当日はたくさんのテレビ局も来ており、その溢れんばかりの活気は会場に来れなかった人たちにも生放送で届けられました。

私と公为明先輩は、余韻に浸りながら、帰路に着きました。帰りにライトアップされた復旦タワーを眺め、私もこの大学のために何か残すことができたら、どんなに光栄なことだろうと思いました。復旦生であることを改めて誇りに思い、復旦精神を受け継いでいきたいと心から思いました。
 

金曜3限国際関係授業発表

5月29日は、私にとって忘れられない日となりました。

わたしはこの日、学科を越えて受けている国際関係の授業で、はじめてプレゼンテーションを発表しました。

ひとりで、1時間半の発表。はじめは、「一人で1時間半も話せるはずがない」と全く自信がなかったのですが、1ヶ月以上に渡って準備してきたので、プレゼンのページは自己最多の117ページとなり、内容的にも十分な量を用意することができました。

私はこの発表に、1年間の中で一番力をそそぎました。というのも、もともと学部の専攻が国際関係、平和学であり、これらはわたしにとって一番興味のある分野であるからです。内容は、私の卒業論文の序章の紹介から始まりました。ここでも少し紹介させていただきたいと思います。

全てのことを、当たり前だと定義してしまうとそれは「当たり前」になってしまう。全てのことを「変えられない」と諦めてしまうとそれは「変えられない」。

第二次世界大戦、そして冷戦が終結した現在もなお、世界では戦争や紛争が続いている。今日もまた、罪のない市民が死んでいく。住む場所も、食べるものもない人達は難民となり、自国すら追われる。そんな現状を知りながら、私たちはそれらの国から遠い日本という国に暮らしている。

果たしてこの現実は、「当たり前」なことなのだろうか?「変えられない」からといって諦めて良いのだろうか。もし私が戦争の脅威にある国にいたら、貧困や抑圧に苦しんでいたら、私は助けを求めるだろう。誰かが助けてくれるそれだけを希望に命を繋ぐだろう。それはもしかしたら、国連かもしれない。警察かもしれない。それはNGO団体かもしれない。いずれにしても、救いの手を差し伸べるのは、人間に変わりはないだろう。そして私は自分がその人間の一人でありたいと思っている。

もし我々がこの現状を変えられないとしたら、それは我々がこの現状を「当たり前」と決めつけているからである。我々には「変えられない」と諦めているからである。

この文の中国語訳から始まったプレゼンは、21世紀の世界、911、イラク戦争、尖閣問題、琉球処分、平和学、憲法第9条、暴力に対するセルビア声明、質疑応答という形で行いました。これらの内容の関連性は本文で触れます。
プレゼンの途中では、先生の解説が入ったり、中国語読みが分からなかったときは、直接目の前に座っていらっしゃる先生に尋ねて、プレゼンを進めました。

発表の後は、みなさんから大きな拍手をいただきました。

感想では、「新しい観点から見たあなたの発表がとても新鮮でした」「僕たちが知らないことも多くて、とても勉強になりました」「平和学という学問は、中国であまり発展していないから、あなたの発表はとてもいい刺激になりました」などの言葉をいただきました。

最後は、戦争はどうして終わらないのか、平和をどうやって築いていくのか。一番の安全保障は何か、国際関係学部博士課程の皆さんに問いかけ、先生の手引きのもと討論を行いました。

国際関係学部クラス会

発表の後、先輩と一緒に歩いていると、「今日は僕たちのクラス会があるから、えみもよかったらおいでよ。」と言われました。

私は思わずびっくりしてしまいました。「私は国際関係学部じゃないけど、それに博士課程じゃないけど、いいのですか?」と聞くと、「こんなにたくさん一緒に授業を受けてきて、もうえみは僕たちのクラスメイトの一人だよ。」と言ってくれました。その言葉がとても嬉しかったです。

そんなわけで、私は復旦大学国際関係学部博士課程一年生の方々と一緒に、クラス会に参加することになりました。一度寮に戻ってから着替えを済ませて、5時に集合すると、先輩方と自転車でレストランに向かいました。

先輩の中には、学部を卒業すると働いて、その後また修士、博士過程を履修している方や、働きながら論文を書いている方などで、年齢は私より大きく離れています。

6時頃から乾杯し、食事を始めたのですが、ここでは中国のお酒文化を存分に勉強することになりました。机には2本の白酒と、8本のビールが並べられました。
私は、この日初めて、アルコール度58度という白酒を飲みました。皆さんが、私を歓迎して一杯、というときに私が飲まないわけにはいけません。

とても小さなグラスのコップに、3センチだけ注がれた白酒に、最初はこんなちょっとしかないのか、へっちゃらだ。と思ってぐいっと飲み込んだのですが、あまりの度数の高さにわたしはむせ返ってしまいました。

食事の途中で、男性の先輩方が一人一人私と乾杯をしに来てくださいました。グラスの位置は私が下げても下げても彼らが下がり、私に 「ひとくちでいいよ。」と言いました。わたしは顔を歪めながら、一口飲んでみせました。

すると彼らはグラスに入った白酒を一気に飲み干しました。彼ら曰く、それが私に対する尊重と歓迎の意であり、お酒を一緒に飲むことで、友人関係がぎゅっと近くなるそうです。

周りでは先輩同士がお酒をそそっています。普段あまり外食をすることがなく、ましてやお酒なんて日本でも飲まない人間であったので、復旦に来て初めての正式なお酒の席にわたしは少し戸惑ってしまいました。

そして、一番驚いたのは、授業中はいつも真面目な彼らが、こんなにも弾けて、愉快な一面があることを目の当たりにしたことです。わたしは以前想像もつきませんでした。

学部、修士ともに他大学で学び、博士課程を復旦大学で取っているという先輩がほとんどでしたが、中には学部から復旦で、もう10年になるという先輩もいました。

国際関係博士の授業を受け始めたのは、3月。わたしは履修登録の際あまり注意せず、誤って博士課程の授業をとってしまいました。わたしは、1回目の授業に参加した際、初めてなのに周りの方たちがやけに団結しており、一体感があると不思議に思っていました。

そしてあとで初めて、私以外の全ての人すべてが博士課程の同じクラスメイトだということが分かったのです。わたしは修士一年のうえに他学科で、留学生で、ということで、違うものづくしでした。

初めのうちは、教室では一番前の席にみんなと離れて座っていたのですが、ひとり、またひとりと友達になり、食堂で会うと一緒にご飯を食べたり、一緒にバドミントンをしたりするなどして、だんだんと周りに溶け込んでいきました。

そして、今回の私の1時間半のプレゼンを通して、彼らと私の間の壁が、ほとんど無くなったように思えました。

みなさんが、「発表よかったよ。」との温かい言葉をくださいました。そしてその日の夜、クラス会に誘ってくださったのです。

わたしはこのお酒の席で、お酒を共にした13人の先輩方の名前を全て覚えました。皆さんが「とってもいい記憶力だね」と褒めてくださいました。

わたしは以前、人の名前を覚えるのが苦手で、顔と名前が一致しないということが度々ありました。

しかし、中国に来てから、名前を覚えることがその人たちに近づく第一歩だと改めて実感し、人と会う度に必ず名前と名前の漢字、出身地を聞くことにしていました。中国は広いため、出身地はほとんどみんなバラバラで、その区別が印象深く名前とともに頭に残ります。わたしはそんな方法で、以前は一緒に山登りに参加した30人の名前を一日で覚えました。

名前を呼ぶことで、いつの間にか相手も、私のことを「Emi」と読んでくれます。これは私事ですが、私が名前を紹介するとき、「えみEMIです」と言うと、みんな「日本語の名前はなに?」と聞いてきます。中国の皆さんは「English Name」を持っているため、私の名前がそれだと思うそうです。

度々聞かれますが「Emiは英語の名前でもありますが、日本語の名前でもあるんです、」と答えると、皆さん驚いて、その後すぐに覚えてくださいます。

食事のあとは、みんなでカラオケに行きました。仲の良いメンバーが集まって食事をする場合は、その数が多かれ少なかれ、必ず誰かひとりがご馳走します。それが中国の文化であるのです。決して割り勘をしません。

わたしは大連に留学していたときそのことを学び、いまではお世話になった人にはわたしもご馳走をします。しかし、このような10人を超える人たちを招待したことは未だにありません。

カラオケでは、「日本の歌を歌って!」とみんなから言われて、彼らのリクエストした曲はKiroroの「長い間」でした。中国語版もあるこの歌は、皆さんが知っていたようで、大きな拍手をいただきました。

そんなわけで、先輩方と話しながら寮に帰ってきたのは深夜でした。帰る途中、わたしは国際関係学部の先輩方に自分の夢と、現在の目標と計画を語りました。先輩方からは様々な意見と、研究に対するアドバイスをいただきました。

国際関係を専攻する上で、英語は絶対に欠かせないということ。わたしが、「英語と自分の専攻を研究すること、どちらを優先したほうが良いですか?」と尋ねると、「同時にできたら一番いいね。英語はどうしても避けて通れないよ」とアドバイスをくださいました。

そう教えてくださった先輩は、9月からアメリカのオハイオ大学に留学するそうです。

ほんの少しの間準備しただけで、TOEFLは102点、わたしは決して真似することはできませんが、勉強方法についてしっかりと教えていただきました。

また、修士課程の研究の経過や研究方法など、先輩方から学ぶことは尽きることがなく、こんなにたくさんの先輩方に手引きをいただけることを心から嬉しく思いました。

「これから僕たちのクラスで集まるとき、またえみも呼ぶからね。」と言ってくださったのは、今回クラス会に招いてくださった、班長の王凯さんです。わたしは嬉しくてたまりませんでした。

国際関係学部の研究生は他学部の学生には近づきがたい存在という噂をよく耳にしていました。ある先輩から聞いた話によると、「彼らが他学部の授業を受講するときは全く発言しない。国の秘密を握ってるから、簡単に発言できないんだ。でも論文を書くときは、5000字ぎっしり自分の観点を書いてみせる。」と言っていました。

そんな近づきがたい彼らのクラス会に参加してしまったわたしは、国の秘密こそ聞いてはいませんが、彼らの弾けたプライベートの姿を目にすることができました

そして素晴らしい先輩と知り合うことができ、今後も自分の研究についてたくさんのアドバイスをしていただき、ときには共同で日中民間世論調査に基づく研究を行おうという話も、一人の先輩とすることができました。

私にとって、夢のような一日でした。

ということで、毎回のことながらあっという間に6000字を超える日記を書いてしまいました。これまで読んでくださった方、お忙しい中本当にありがとうございました。

後期もあっという間にすぎ、あと一ヶ月で二ヶ月間の夏休みを迎えます。今回の夏は日本に帰国せず、湖南省の貧困地区の小学校に2週間のボランティアに行きます。

大学のボランティア活動の一環として行くため、現在は毎週末一回ミーティングを行っています。かけがえのない経験をきっと積むことができるでしょう。

それでは、日本の皆様も健康に気をつけて、幸せで充実した日々をお過ごし下さい。

月31日早朝 上海の夜明けに  吉永英未

2015年4月・5月の記録
2015/05/17

2015 年4月、5月 記録

「あっという間」という言葉はありきたりかもしれませんが、この2ヶ月の間、本当にあっという間に過ぎてしまい、毎日日々に追われ、日記のことを思い出す余裕すらありませんでした。そこで今回は、その充実し過ぎた2ヶ月を振り返ってみたいと思います。

まず4月11日は、二度目の国費留学生旅行で、一泊二日で浙江に行ってきました。

留学生で集まる際は、英語が共通語となります。バスで隣になったポーランドからきたAlishaと仲良くなり、2日間楽しみました。ブルガリアからきた「シロシロ」は(名字がWhiteなので)、日本のアニメが好きな、とても愉快な友達です。学部も中国で学んだ彼は、その真っ白の肌からは想像できないほど流暢な中国語を話します。

浙江までは復旦大学から6時間。長距離移動にも大分慣れてしまいました。 ガイドさんが、「山が見えてきたら、そこは浙江だよ」と教えてくれました。本当に、四方八方どちらを見ても山しか見えなくなったとき、ようやく目的の観光地に着きました。この頃には、大学を出発する頃は名前も知らなかった隣の留学生と、昔から知り合っていたかのように仲が深まっていました。

山に囲まれていることにはもちろん、「山を登る」ということです。寝ぼけたままバスを降りた私たちは、まだ心の準備が出来ていないまま出発し、その後4時間かけて山を登りました。

道は想像以上に険しく、登山の後半はみんな口数も少なくなってきました。こんなとき、国柄がとても目立ちました。

今回の旅行では、全部で57ヶ国の国から来た学生が参加したのですが、下山するとき、急な斜面を飛ぶように降りていくのはネパールから来た学生です。

私が、「なんでそんなに早く下りれるの?」と聞くと、「僕はネパールの山で育ったからだよ。エベレストにも登ったことがあるんだよ。」と自慢げに話してくれました。

ネパールと中国の国境にあるエバレストは、特定のトレーニングを受けて得たライセンスがなければ登ることが出来ません。世界一の山、私もいつか登ってみたいと思いました。

山登りで疲れ切った私たちは、ホテルに帰るとすぐに寝てしまいました。2日目もひき続き山登り。しかし、登山の途中に数々のアスレチックがあり、とても楽しく登ることができました。帰りのバスの中で私は、日本の歌を披露しました。続いて引率の先生が、復旦大学の校歌を歌ってくれました。

この大学に来てもう少しで一年が経ちますが、初めて校歌を聴きました。

今年で110周年を迎える復旦大学は、現在その記念イベントに向けて準備が着々と進んでいます。当日には国家のリーダーや復旦卒の政治家の方々も集まり、盛大な記念イベントが開催されるそうです。

大学で学び、食べて、運動し、寝る。生活の全てをこの大学内で過ごしている私たち学生にとって、大学はもはや家以上に近い存在のようです。遠い昆山から毎週木曜日の午後大学にやっとたどり着いた時、大学の門をくぐると本当に、「家」に帰ってきたように安心してしまいます。

5月16日、上海に来て初めて鹿児島県出身の方と一緒にご飯を食べました。霧島市出身、復旦大学学部生のちふ子さんです。友達伝いで鹿児島県出身の復旦生がいるということで紹介していただき、一緒にランチをするに至りました。久しぶりの鹿児島弁を聞いてとても嬉しかったです。

大学に戻る途中、警察の車がやけに多いことに気づきました。特に気にも止めず、「何かあったのだろうね。」と言いながら二人で歩いていました。しかし、大学に近づくにつれて立っている警察の数がどんどん増えていきます。大学が見えるところになった時、1メートルおきに警察の方が立っていました。そこでやっと、自分の大学で何かあったのだと確信しました。

復旦大学で一番高い「復旦タワー」の入り口には赤い絨毯がひかれ、その周囲は車と警察が列を作っています。普段は解放されている芝生も、立ち入り禁止となり、黒い服を着た人たちがあちこちに立っています。ここに来てやっと、「誰か来たのだ」と思いました。カメラを構えて待っているおじさんに聞いてみると、「インドの大統領が来ているんだよ!」と教えてくれました。

5月16日、インドのモディ大統領が復旦大学で講演を行いました。

復旦大学には、インド研究所があり、インドと共同で研究を行っています。この復旦大学インド研究所に新しくガンジー研究センターができたということで、インドのモディ大統領が大学で公演を行いました。

復旦大学には、オーストリアやアイルランドの大統領に引き続き、2009年にはアメリカのオバマ大統領が訪問し、講演を行っています。

今回のインドのモディ大統領の訪問も、事前に私たち学生に知らせることなく、土曜日のお昼に行われました。

毎日違う姿を見せてくれる大学。ここで吸収できることを、翼を広げてスポンジのように吸収し、ひと周りもふた周りも成長することができたらいいなと心から願っております。

以下は4月1日からの私の『きろく』です。

4月

1日   同济大学に桜を見に行く
11日 12日 国費留学生旅行 to浙江 帰ってきたらすぐ夜 支教の説明会
18日  支教面接 (のちに合格)
19日  バドミントン試合 団体2位
21日  復旦大学趣味運動会 たくさんの面白いイベントに参加しました。
30日  支教トレーニングの一貫として、二泊三日の山登りの旅(〜5月2日)杭州

5月

3日  山東省の先輩が寮でご飯をご馳走してくれました。
8日  日本語を教えている昆山の学校に夜から一泊。翌日「教員ツアー」に参加。乌镇。
10日  支教の体力テスト 400m×8周 16‘22 (男女40人中1位)
11日  木村先生来復旦。
12日  木村先生復旦大学にて講演。
14日  昆山の日本語学校にて、私の教えているクラスに50音のテストを実施。
15日  キリスト教史 報告。
16日  鹿児島県霧島市出身の復旦4年生と同じく霧島市出身の社会人の方とランチ。
  インド大統領復旦大学訪問。

支教トレーニング(二泊三日の山登り)、鹿児島大学木村先生の復旦大学公演につきましては、また後日文章にさせていただきたいと存じます。

日本の皆様どうかお身体に気をつけて、幸せな日々をお過ごし下さい。

復旦大学歴史学部 修士一年 吉永英未

後期の授業が始まってから、ようやく2週間が経過しました。
2015/03/26

後期のはじまり

吉永英未 2015.3

後期の授業が始まってから、ようやく2週間が経過しました。2学期目ということもあり、大学生活にもだいぶ慣れてきたように思います。

今学期から私は、2つの新しいことに挑戦しています。つ目は、毎週火曜日の夜7時から、ボランティアで日本語を教えております。

これまで、大学生活に慣れない私を様々な面でサポートしてくれたクラスメイトの友達に少しでもの恩返しのために何かできないかと考えたとき、私にできることは日本語を話すことしかない,と考え、クラスメイトに申込みを募ったところ、15人余りの希望者があり、教室を貸し切って毎週火曜日の夜、日本語を教えることになりました。

歴史学部のクラスメイト、特に専門が日本史の友達のために開いたクラスでしたが、友達が友達を呼んで、今は博士後期課程の先輩から、復旦の別なキャンパスから来る他学部の本科生など、20人余りの学生が集まっています。

私のような素人ですが、みんな熱心に授業を受けてくれて、本当に感銘を受けております。

二つ目は、毎週木曜日に一日「台商学校」で日本語を教えております。台商学校は、上海在住の台湾人のための学校で、幼稚園から高校まで一つの学校にあり、生徒は全て台湾籍、先生も台湾から来てもらっています。

全校生徒は幼稚園生から高校三年生まで含めて1024人で、教科書は全て台湾から取り寄せています。高校三年生のほとんどが、台湾の大学を受験します。

なぜわたくしがこの学校で日本語を教えるようになったかと言いますと、以児島国際大学に留学していた中国人の親友が、現在筑波大学の修士課程におり、その親友の教授のご紹介を頂いたからです。教授の紹介ということで、電話一本と何回かのメールの交換で、正式に日本語教員として働かせて頂くことになりました。

台商学校は、地下鉄11号線の最終駅のところにあり、復旦大学から約2.5時間かかります。もちろん、学校がこんな遠いところにあるなんて想像もしていませんでした。

朝4時起床、大学から自転車で大学に最寄りの地下鉄駅に行き、それから地下鉄に乗ります。朝4時となると、まだ月が出ており、自転車で駅に向かう途中はまだ夜なのではないかと錯覚を起こします。

霧の中を、ひたすら自転車をこぎます。7時になんとかスクールバスに乗ることができると、バスに揺られながら1時間、ようやく学校に台商着きます。

初めて学校に行き、授業をしたのは、2月28日に上海に戻った翌日の3月1日でした。

学校に着くと、校長先生、教務科部長とお会いして、とても温かい歓迎を受けました。

「ようこそ台商学校へ」 。遠いところからはるばる来た疲れもすっかり飛んで行ってしまいました。

そして、その日から入校許可書をもらい、職員室の自分の机まで案内されました。

私は、まさか自分の机まであるとは思いもしませんでした。学校内では、先生方に温かい言葉を頂くとともに、校長先生も他の先生方も口を揃えて、「復旦大学の学生か。優秀だなあ。」「うちの高三の学生もぜひあなたの大学に入ってほしい。」など言葉を頂きます。

わたしのような、優秀ではない学生でも、先生方を始め、学生までも尊敬のまなざしです。

私は、「私はあなたがたの思うような優秀な学生ではありません。」と心の中で思いつつも、自分が復旦大学の学生であることの責任を重く感じます。

また、いろいろなところから、「吉永先生」「えみせんせい」と呼ばれますが、最初はすぐに反応できませんでした。

なぜならこれまでの人生で、「先生」と呼ばれたことなど一度も無かったからです。

言うまでもなく、私はこの学校の先生の中で一番年下の先生です。最初の授業のため教室に入った際は、前の授業の先生に新入生と間違えられてしまいました。

そのような、初体験の連続で、私の最初の授業は始まりました。私の担当するクラスは、高校三年生の3つのクラスと、日本語サークルに入っている中学一年生から高校2年生の1つのクラスです。

最初の授業では、どうなることやら心配しながら教室に入りました。40人の学生は、真剣で、好奇心に溢れたまなざしで私を見つめています。センター試験を終えたばかりの学生たちは、現在は大学の申請をしている時期です。

様々な不安を抱える彼らを前に、私は自分のありのままを紹介しました。自分が大学受験に失敗したこと、でも重要なのは、大学の名前ではなくて、その大学で自分が何をするかということ。

センターで上手く点数をとれなかった人も、がっかりしないでほしいということ、あなたたちの素晴らしい人生は、これからだということ。新入生に間違えられながら入った教室でしたが、自己紹介からいつしか演説のようになり、どこかでしたプレゼンテーションを思い出しました。

話し終わったとき、シーンとしていたクラスから、大きな拍手をもらいました。

「わたしは自己紹介したから、今度はみんなに自己紹介してほしい」と学生にお願いして、今度は学生一人ひとりに、名前と夢を発表してもらいました。卒業を控えた高校三年生の彼らは、「大学に行きたい」「日本に留学したい」「世界旅行がしたい」など、一人ずつ発表しました。授業のあとは、机の周りに学生たちが集まって、様々な質問を投げかけてきました。日本について、私個人について、大学について、学生たちの笑顔と、学問を求める問いかけは、私自身を教育し、成長させてくれているものだと思いました。

お昼は、食堂で無料の昼食が食べられます。今学期から自炊を始めたわたしは、料理ができないため、じゃがいもを炒めたものや、紫芋を蒸かしたものなど、戦時中のような食生活を送っていましたが、週に一回はおなかいっぱいの昼食を頂ける事をとても嬉しく思いました。

また、昼食の時間になると歴史担当の先生や、国語担当の先生など、様々な先生がご飯に誘ってくださり、一緒にご飯を食べてくださいます。

週に一回しか学校に来ないため、皆さん珍しそうに、日本のことや、復旦大学について、私自身の将来について質問を投げかけてきます。

その全てがわたしに、自国の文化について再認識させるとともに、自分の未来を改めて自覚させてくれます。

午後からはクラブ活動の授業で、日本語や日本文化に興味を持った学生たちに、日本文化や簡単な日本語のあいさつを紹介しました。

2000年生まれの学生たちの好奇心に応えるために、私に話せることを必死で話しました。

台商学校での初めての授業は、あっというまに終わり、午後3時45分に、帰りのスクールバスに乗りました。

何もかもが新鮮で、楽しいと同時に学生たちの好奇心や学問を求める要求に、しっかりと応えてあげたいと思った、とても大きすぎる収穫のあった一日でした。

大学に戻ると、先生からまた「学生」に戻ります。毎週木曜日は必須科目の授業が午後6時半から9時過ぎまであり、疲れ切った身体を振るい起して授業に臨みます。

朝4時から、お昼寝なしにフル回転していた脳と身体も、さすがに疲れを見せ、クラスメイトからは「エミそんなに疲れた顔して大丈夫?」と心配されてしまいましたが、休み時間にクラスメイトとおしゃべりをすると少しずつ元気になれます。木曜日は、長い長い一日です。

今学期は、5つの授業を履修することになりました。その中の一つは、国際関係学部の授業を、「飛び学科科目」として履修することになりました。

この授業を受けている学生はほとんど国際関係専攻の博士課程の学生で、外国人はもちろん私一人です。

難易度はいつにも増して高いですが、国際関係学部の先輩がとてもよくしてくださり、私のために資料を下さったり、サポートしてくださいます。

「あなたにとって中国語は難しいと思って、英語版の参考文献を添付してあげたよ。」と先輩は笑顔でおっしゃいましたが、私は英語の方はなおさら分かりません。

3月16日は、東京大学の伊藤元重先生の講演を聴きました。題名は、「アベノミクス経済の展望」です。

今回は、中国語と日本語の同時通訳によるものでした。私は、講演の始まる5分前に会場に着いたのですが、席はすでにいっぱいで、一番前の列の真ん中の席しか空いていませんでした。

すると偶然にも、隣に座っていたのが講演をされる伊藤先生で、名刺を頂き、講演の後には直接質問をすることもできました。

また、いつのまにか「先輩」になってしまったのも今学期からです。

この時期にも、日本人の新入生が新たに大学に入ってきました。

私は、洗濯機の使い方や、安いスーパーの場所、郵便局での手続きの仕方など、まだ慣れない後輩たちに一つひとつ教えてあげました。

東京芸術大学や創価大学など、出身大学も様々ですが、留学生アパートという同じ屋根の下では、家族よりも近い存在です。

忙しい日々の中で、上海にきて初めて風邪をひいてしまった時は、後輩が私の部屋まで日本の薬を持ってきてくれました。このような頼りない先輩ですが、私も出来る限り後輩のサポートをして、日本人同士の絆もしっかりと育んでいきたいと思います。

今学期も、新しい挑戦に加えて、さっそく様々な新しい出会いもあり、毎日、朝が来ることをとても楽しみに思います。

新聞配達の仕事も前学期に引き続き行っており、今では歴史学部ほとんどの先生の名前を覚えることができました。

今学期も、一生懸命頑張りますので、日本の皆さま、どうぞ応援よろしくお願い致します。

3月22日 吉永英未

わたしの母
2015/02/18

私の母

母が入院したその日から、いつかはこの日が来ることを覚悟するようにと、医師から告げられていた。母との思い出が蘇ると同時に、空白の思い出もあることに気づく。それは、私が母から遠く離れていたときのものであった。

後悔していないかと聞かれると、完全に満足はしていないと答えるだろう。親孝行に、完全に満足することなど、永遠に無いように思う。

母は、物を書くのが好きだった。その「くせ」は私が受け継いだ。母は、入院した次の日から日記を書き始めた。毎日ではなく、気が向いたとき、書きたいことがあるときにペンを握っていた。一人の時に、ゆっくりと。その日記をいま読み返すと、母の感情がじわじわと伝わってくる。

母が厳しい抗がん剤の治療に耐え、そして死と向き合うことが、どれだけ辛かっただろうと思うと、いまでも胸が張り裂けそうな思いになる。

母は、どんなときも家族に弱さを見せなかった。夏のある日、母に笑顔で見送られ、病院を出た後にすぐ、私は忘れ物をしたことに気がついた。私が病室の入口に着くと、母が看護婦さんに泣きついて、子供のように泣いていた。「生きたい」と言っていた。私はその日、病室には戻らなかった。

私は、12月6日に上海から鹿児島に戻ってきた。

母はもとより、家族に内緒で帰ってきた。父と兄は、私が12月の期末テストを控えた時期に帰ってくるべきか否かでもめていた。私は、自分の意志で上海を飛び出した。ただ、母に会いたいという気持ちだけが、私をそうさせた。そのとき、このあと母を看取ることになるとは思ってはいなかった。

帰国したその日のうちに、兄に連れられ病室に行くと、母は私の期待するような反応ではなかった。前日にホスピスに移動したばかりの母の顔は、悲しげだった。

その日、母は私に3日前に書いた手紙を手渡してきた。それは、たった一枚の私に宛てた遺書だった。

『えみの結婚式に出たかった。

えみの子供の顔が見たかった。

でも残念。間に合わなかった。

でも、お母さんは天国でずっと見守っているからね。

お母さんはやっと、苦しみから解放される。

これからはお父さんに良くしてあげてね。

えみには世界中の友達がいる。きっと幸せになれるよ。

私はいい母ではなかったけれど、あなたは良く育ってくれた。』

「お母さんは、いいお母さんだったよ。」私は今、心からそう母に言いたい。
私の前ではいつも弱いところを見せようとしなかった母は、上海に旅立つ前も、涙は見せなかった。

しかし、私の友人がお見舞いに行くたびに、友人の姿に「えみを思い出す」と言って泣いていたそうだ。

私は、遠い上海で知る由もなかった。そのことを考えるたびに、母に寂しい思いをさせてしまったと、心に残る。しかし、あの日あの時あの時期に、夢に近づくチャンスを掴んだ私に、中国に行かないという選択肢はなかった。

母は、思いやりに満ちた人だった。祖母の家に行く途中、重い野菜を背負った見知らぬおばあちゃんを見かけては車を止めて、自宅まで送っていた。近所の叔母さんとお見舞いに行ったときのこと。

私が、「10日間しか日本に居れないから、今日は病院に泊まりたい。」と頼んだところ、「叔母さんは目が悪くて運転が思うように出来ないから、送って帰りなさい。」と母は言った。

それでも私が泊まると駄々をこねていると、「お願いだから、送って行って。」母は厳しい顔で私を叱った。自分が病気になっても、人のことを一番に考える母だった。

母は、私が帰ってきてから少しずつ意識が遠くなり始めた。一週間もすると、言葉が話せなくなった。母はそのことを分かっていたかのように、家族全員に手紙を書いていたのだ。

2013年5月2日に入院した母は、その日のうちに医師から「余命半年」と告げられた。半年後に母の姉から骨髄を移植し、姉から「希望」をもらった母は、前向きに病気と向き合うようになった。しかし、血液のがんは再発した。

そして母を、これでもかと言わんばかりに、苦しめた。私はそんな母を見ているのが辛くて、現実に向き合うことを避けていた。

やっと向き合うことができたのは、母が亡くなる一か月前だったように思う。今まで母と同じように、強気に振る舞っていた私は、電池が切れたように弱くなり、怖くなった。

赤ちゃんに戻ってしまったかのような母の姿を愛おしく思う一方で、母のいないところでは、涙が流れた。

ホスピスで迎えたクリスマスの日。高校生合唱団が病院に歌をプレゼントしに来てくれた。

「上を向いて歩こう」聴いたとき、その歌詞とは裏腹に、涙が止めどなく溢れた。

上を向いてみたが、涙はやっぱり流れた。隣の人も泣いていた。きっと、同じ気持ちなのだと思った。

2月4日、私が戻ってきた我が家に母は居なかった。ただ、母がいたという名残だけが残っている。

靴下を探すとき、料理をしているとき、私は母に話しかけたくなる。いつものように「お母さんと」。でも、母はもういない。

それでも母は、私の心の中に生き続けている。そう思うと、前よりもっと近くなったような気がする。

母は京都で短大を卒業すると、憧れの幼稚園の先生になった。私たちが成長すると、デイケアセンターで働くようになった。

ピアノや歌を練習してから職場に向かう姿は、若い時と変わらなかったに違いない。

母は手先が器用だった。私が幼いころ使っていたカバンは全て母の手作りである。また、トールペイントを趣味とし、資格を持っていた母は一時期、トールペインティングの先生にもなった。

母の実家を解放して教室を開くと、たくさんの人が集まった。午前中は絵を描き、お昼になるとみんなお弁当を持ち寄って、たちまち料理教室に変身した。

そんな母に着いて教室に行くことを、私は毎回楽しみにしていた。母の絵の才能は、兄が受け継いだようである。

母も昔は、わんぱくだったそうだ。ある日私は、家の鍵が無かったため、車によじ登り、そこから二階のベランダに飛び移り、泥棒顔負けの手口で家に入った。

そのことを母に自慢げに話すと、母は、「あなたの子供も将来車の上に乗るわよ。だって私も若いころ同じことしたもの。」と話していた。

母が亡くなってから、父は毎日仏壇の前に座っている。何を話しているのか分からないが、お葬式の翌日、父は私に「天国でもう一回お母さんに会って、プロポーズせんといかんな。天国でもう一回結婚せんと。今度はもっと良くしてあげんと。」と言っていた。

父と母の新婚旅行先は、アメリカだった。父と母が二人で踏んだアメリカ西海岸の土地を、私は大学四年の夏、一人で訪れた。ロサンゼルス、ラスベガス、サンフランシスコで過ごした日々は、父と母、私にとっても大切な思い出となった。

母は、「生きるとは、人の為に生きること」と言っていた。その言葉の書いた紙を、私はしっかりとパスポートに挟んでいる。これから踏み出す一歩一歩が、「人の為に生きる、世界平和」の夢へと繋がることを信じたい。そしてこの命を、かけがえのない命を、精一杯燃やして、周りの人たちを少しでも暖かくすることができたら、母もきっと喜ぶだろう。そして私も、人生に悔なしと言うことができると思う。母の分まで、一生「懸命」に生きたい。

吉永英未