黄興先生南洲墓地参詣之碑 除幕式

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

黄興先生南洲墓地参詣之碑 除幕式

2007(平成19)年9月23日(日)鹿児島市西郷南洲墓地公園

スエーデン産の班レイ岩(黒御影石)の台座に貼られた白磁陶板には黄興の略歴が焼付けられている。高さは敷石部分{湖南省産の花崗岩(白みかげ石)}から主碑まで2メートル40センチ。以下碑文は以下の通りである。

左:文字が読める  右:位置がわかる

黄興先生略歴

孫文と共に中国辛亥革命の代表的志士であった黄興先生は、1874年、湖南省長沙市の学者の家に生まれた。

性格は寡黙で沈着豪胆、体格も偉大で英雄の風格があり,名文家,能筆家としても有名であった。

1902年、選ばれて日本に留学し、東京の弘文学院に入学したが早くから民族主義に目ざめ「華興会」の会長に推挙されるや。孫文の「興中会」とと日本で統合を図り、1905年「中国同盟会」(以下メモ参照)を結成して、清朝を打倒し、中国の民主化を目ざす革命運動の推進力となった。

1909年(明治42年)、友人の宮崎滔天の案内で鹿児島を訪れここ南洲墓地を参詣した際、次の詩を賦した。

八千師弟甘同塚     世事維争一局棋
悔鑄当年九州錯     勤皇師不撲王師

黄興先生は1916年、志半ばにして上海でその波乱に満ちた生涯を閉じ、後に故山の長沙市岳麓山に国葬を以って埋葬されたが、終生、中国の西郷南洲を自認し、南洲翁の人格と思想に傾倒した。

黄興先生の憂国の至情を追慕すると共に、その出身地、長沙市と鹿児島市との友好都市盟約終結二十五周年に当たり、両市の交流が更に深まることを切望して已まない次第である。

二〇〇七年(平成十九年)九月

鹿児島市日中友好協会
西郷南洲 顕 彰 会

(注:黄興の詩の意訳)
 
何千と言う多くの私学校の青年たちが師と仰ぐ西郷南洲と同じ墓地に眠っている。

明治維新後の日本の政治や社会はまだ混沌として収まらず、あたかも目まぐるしく変わる囲碁の局面のようであったと思われる。

それにしても悔やまれてならないのは明治十年、九州に西南の事変が起こりそれが失敗したことだ。

もともと天皇を尊敬する勤皇の志の篤い西郷南洲の薩摩士族たちは最初から天皇に反抗して、その軍隊を打ち負かそうと言う考えなどなったはずだから。

朗詠は長沙外国語学校教師 楊暁帆さん(下写真あり)

黄興とは、どんな人?どこの人?何をした人?いつの人?・・・・

黄興1874~1916

1902(明治35年)官費で日本留学。弘文書院?(学院)の速成師範科に在籍。1904年華興会を創設。(長沙)11月革命失敗で日本に亡命。1905年孫文と中国同盟会を成立させ副会長格。黄花崗の役~辛亥革命~第二革命~アメリカに渡り第三革命で帰国してまもなく胃潰瘍が悪化上海で病没,43歳。

中国同盟会

1905(明治38)年、華興会(湖南)人、黄興や宋教仁中心)と興中会(広東人、孫文中心)それに光復会(浙江人,章炳麟や秋瑾らが中心)三団体で組織。日本人では宮崎滔天や平山周,北一輝など8名参加、機関紙『民報』を発刊。編集長は章炳麟、印刷人は末永節、発行所は宮崎滔天宅で。梅屋庄吉は後援会事務所を設け『民報』発行の資金を提供した。

孫文と宮崎滔天

左:中村義『川柳のなかの中国』 右:黄興葬儀

左:西語隆盛  右:古島一雄

黄興先生南洲墓地参詣之碑に除幕式にあたって

鹿児島市日中友好協会会長 海江田順三郎

本日「黄興先生南洲墓地参詣之碑」の除幕式を御案内申し上げました所、ご来賓各位には公使ご多用の中をご臨席賜り、又日中友好協会、西郷南洲顕彰会の会員の方々のご参加を頂きましたことを衷心より厚く御礼申し上げます。

ご承知の通り本年は鹿児島市と長沙市との友好都市盟約25周年に当たりますが鹿児島市日中友好協会は記念事業に長沙市出身で孫文と共に辛亥革命の領袖でありました黄興が明治42年盟友の宮崎滔天に案内され、東京から鹿児島を訪れ南洲墓地を参詣した記念碑の建立を思い立ちました。

南洲公園で櫻島を望む最も景勝の場所に碑の建立をご許可して頂いた鹿児島市当局のご理解と、ご協賛頂いた西郷南洲顕彰会のご好意に対し心より感謝申し上げる次第でございます。

黄興先生につきましては、略歴をお配りいたしておりますが以前私に始めて黄興が長沙出身であることをご教示いただいた島津興業の島津修久社長さん始め、多くの方が可成りな関心をお持ちのことと存じます。

五年程前に県の黎明館で「西郷と黄興」と題するご講演をお願いいたしました黄興研究の第一人者であられる東京学芸大学名誉教授の中村 義先生がつい最近、岩波書店から出版されました「川柳のなかの中国」というご著書の中に黄興について述べられていますので2,3引用させて頂きたいと思います。

・・中国で辛亥革命が起こった明治44年10月の大阪朝日新聞に黄興の大きな写真が掲載され「黄興は風貌が西郷隆盛のようで、彼自身も西郷南洲を心から敬愛していた。

書や詩をよくし、囲碁が好きな黄興は日本の友人に親愛の情を抱かせた。「黄興には西郷同様黄興さんと『さん』付けがふさわしい」と紹介されています。

黄興をここ南洲墓地に案内した熊本県荒尾の士族出身の宮崎滔天は四人兄弟の末弟で長兄は西南の役に従軍して戦死しています。黄興と肝胆合い照らした盟友でありましたので1916年(大正五年)に黄興が上海で病死した時、友人の古島(コジマ)一雄に宛てた手紙に『黄興に死なれたのは、本当に参った。自棄酒も飲めぬほど弱った・・・男泣きに泣いた』と述懐しています。

戦前から政界、言論界で活躍し、戦後は吉田 茂内閣のご意見番として知られた古島一雄は当時、黄興の死を悼み「黄興の死は独り中華民国の不幸に止まらず日中親善を基礎に東和永遠の平和を願う日本国民にとっても大きな不幸である。」と弔辞を寄せています。

本年は西郷南洲翁生誕百八十年没後百三十年に当たり南洲翁の遺徳をしのぶ節目の年でもありますが、黄興が時代や国籍の違いを越えて南洲翁に傾倒したのは何故だったのでしょうか。

恐らくは南洲翁の敬天愛人の思想と私心のない生き方に共感したからではなかったかと思われます。敬天愛人を誠実さと他への思いやりの心と解釈しますと、鹿児島と長沙の友好都市間において、又、日本と中国との隣邦関係においても誠実な態度で相手の立場を尊敬する敬天愛人の精神が肝要ではないかと思われます。

南洲翁と黄興先生の精神的、思想的なきずなを回顧し、今後の日中友好促進の規範とすることを念願いたし措辞でありますが御礼のご挨拶とうたします。

有難うございました。

平成十九年九月二十三日
『黄興先生南洲墓地参詣之碑』除幕式
於南洲公園

除幕式の写真

2007年(平成19年)10月3日 南日本新聞 文化欄
『かごしま文化を語る』のコーナーに載る。

     “中国の西郷”黄興の碑建立

思想通じ理解・友好を

海江田順三郎(鹿児島市日中友好協会会長)