池田公栄・九江学院日本語教師日記5

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

池田公栄・九江学院日本語教師日記5

* 11月の花 ……2006/11/02…

九江の秋の花

この次期の王者はやはり菊である。日本では大輪の菊から、中菊、小菊と多種あるが、中国も同じ。ただ、中国の場合、肥料が効きすぎて、花が長持ちしない。つぼみが膨らんだ頃、クド石灰等で、菊の栄養分である窒素系を中和除去させると、花弁の艶も長持ちし、葉も緑が増すのだが、中国ではそこまで研究していないようである。日本だったら、少し菊の栽培をたしなむ人なら、だれでも行うイロハなんだが。

酔芙蓉

学院の敷地内に今年も酔芙蓉が咲いた。朝は純白、午後はほんのり桜色、夕方は濃い目の紅となり、翌朝は落花する。短命では在るが、目を楽しませてくれる一品である。

鹿児島県にもあちこちで、この花を見かけることが多い。

写真左:白、薄紅の酔芙蓉

写真中:落花寸前の酔芙蓉(右側のピンクの萎んだもの)

写真右:筆者が健康のため朝夕世話をしている花壇(兼野菜畑)の一角に山から移植した野生の小菊がびっしり咲いた。

* 九江昌河鈴木自動車 ……2006/11/03…

日中合弁自動車会社九江昌河鈴木自動車工場へ

大和高田市の皆さんと、九江市にある標記の日系企業を訪問する。

先の、九江学院九江・高田友好の部屋「静」のテープカットに、九江昌河鈴木自動車の総経理(所長)さんにも参加していただいたことへのお礼を兼ねての訪問であった。

以下、会社訪問の報告と感想。
  
本社を浜松市もつ鈴木自動車が九江に合弁会社を作り、九江昌河鈴木の名称で自動車の生産をしている。ここの総責任者は清水康男氏。

敷地面積約88万㎡に91,290㎡の工場群が立ち並び、エンジン工場と、車体工場の2部門がある。

1台の自動車が出来上がるための約2万以上の部品が要るのだそうで、生産工程にしたがって、プレス、組み立て、塗装、エンジン取り付け、製品試験と流れている。

工場内は、プレスの音はするものの、行員が右往左往するでもなく、シーンとした雰囲気で作業が進んでいる。工員は1390人余。

工場内は塵ひとつ見えなかった。九江の通りが清掃員が掃いてもはいてもビニール袋の覇権などが目立つのに比べると、別世界である。会社の指導が徹底している感じを受けた。と同時に、九江の町を美しくしようと思えば出来るのではと思った。「やれば出来る」ということか。本気で、意識することが大事なようだ。

写真左:九江・高田友好会のメンバーと筆者と清水所長さん(右から3番目)

写真中:車体のプレス部門参観

写真右:出来上がったプレスの一部

* 昌河鈴木合弁会社続き ……2006/11/03…

写真のみ

写真左:工場の外形大体組みあがった車体

写真中:工場の外景

写真右:エンジン

* 酔芙蓉 ……2006/11/03…

写真左:芙蓉の花の遠景

写真中:芙蓉の花の近景

真右:午後ともなると、酒に酔ったようにほんのり紅色となる。(俗名酔芙蓉と呼ばれる所以である)

* 竜・獅子まつり In 九江 5 ……2006/12/02…

獅子舞の部

獅子は門守の役目として親しまれたろう。百獣の王としての貫禄を持つライオンを家の守り、社の守り、国の守りとしたことは容易にうなずける。今日、中国の銀行、名のあるホテル、酒店、役所などにはたいてい、身長2メートルを超える彫り物の獅子がおかれている。

獅子舞は、民衆の中で集落の安全と一致を願って発達した民族芸能であろう。

日本でも、獅子踊りが横浜の中華街で有名である。高校生ぐらいの若者が中心になって獅子踊りの伝統を引き継いでいる。こっけいな顔に仕立てた獅子を操り、観衆を笑わせてれる。

写真:舞・いろいろな表情の獅子や竜や鳳凰たち。

* 竜・獅子まつり In 九江 4 ……2006/12/02…

竜舞の部

出し物は思い思いに意を凝らし

民族衣装をつけた出演者が竜や獅子を使い演技する。その演技力、アイデヤ、面白さなどで点を争うらしい。

生徒の報告では九江のチームが優勝したとのこと。日本で国体など大方開催県が優勝または上位入賞を果たすのと同じかなと思う。

ここで日本の竜・獅子踊りを少し。長崎市の唐人街に伝わる竜踊りが、観光資源と成っている。長崎市に観光で宿泊すると、竜踊りを披露してくれる。

  
写真:さまざまな演技の竜踊り

* 竜・獅子祭り In 九江 3 ……2006/12/02…

開会式の部

開会式

九江学院のメインスタジアムで行われた。あいにく、小雨交じりの天候で傘をさした観覧者が会場をうずめた。開会の辞に続き、地元市長の歓迎の挨拶。地元のボランテイアであろう、2000人ほどが手に扇子や小旗を持って集団演技をする。雨にぬれての演技は少し気の毒におもう。控えの場所では、民族衣装に身をかためた人々、出し物の竜、獅子、鳳凰などが出番をまっていた。

写真左:開会式での集団演技

写真中:控えの場で出番を待つ演技者

写真右:竜・獅子祭の看板バルーン

* 竜・獅子祭り In 九江 2 ……2006/12/02…

会場設備会場設営

今回の国際大会は九江市で実施された。会場は、施設の整った九江学院で行われる。

正門に実施の門塔と花。菊、マリーゴールド等で飾る。学院本部前は花文字の歓迎文字。黄色の菊が鮮やか。

開会式会場の屋外運動場はのぼり旗と気球で雰囲気を上げる。竜と獅子の競技舞台は江西省一大きい九江学院の体育館(400メートルトラックがあり、4000名の観客席)。舞台には赤い絨毯が敷き詰められた。

警備:

人が多く集まる場所とはいえ、警備の物々しさには驚く。大型警備車が警察関係5台、国防軍関係3台。制服に身を固めた要因300名ほどが配置され、会場入口で入場者のチェックをする。チェックといっても、入場券を示せば、パスさせていたようである。

ちなみに、入場券が中国人民円で100元。日本円換算で約1460円。中国の貨幣の使用価値からすれば、約1万円ぐらいで決して安くない。テレビでも見られるんだからと、学生たちは入場を控えたものが大半。ボランテイアの学生はまじかで観れた。奉仕は人のためならずか。

警備のものものしさは、中国という国が、民衆の集まる場所に、異常に神経を使うということだ。きっと、天安門の前例が尾を引いているのだろう。

写真左・中:警備のための車輌。

写真右:入場者をチェックする軍人と警官。

* 竜・獅子祭り In 九江 ……2006/12/02…

竜獅祭について

中国では、竜獅精英賽という。竜は黄河長江の大河の代名詞。両河はしばしば洪水を引き起こすが、反面豊かな土を運んでくるので、恐れと恵みの象徴として親しまれた。

竜に対して暴れないように祈願すると共に、豊作をもたらしてくれるようにも祈願し、祭るようになった。

獅子は百獣の王であることから、魔よけとして信仰された。

清朝中国のことを「眠れる獅子」ともいったように、獅子は中国の象徴でもある。

竜もまた中国の象徴。竜も獅子も中国の庶民信仰であり、日本にもこの習慣が伝えられている。

神社の狛犬、神話の竜退治などがその名残。

竜獅子英賽の賽は「比べる」という意味をもつ。中国では日本で「競技」にあたるのが「賽」である。

この祭り、今年はシンガポール、マレーシアなど8ケ国から参加があり、ここ九江が会場となった。

まずは会場設営、警備、開会式、出し物と順をおって報告しよう。

写真左と右:菊の花文字の歓迎ゲート

写真中:2006中国(九江)首届国際竜獅精英賽ののぼり旗

* 頑張れ、日語能力試験! ……2006/12/02…

すきやき会(11月24日、25日26日27日の4日間)

12月3日(日)の日本語能力2級と1級試験を控えている最終学年の生徒たちを励ますため、ひと組20人づつに分けて、すきやき会を開催する。受験する皆が健康な状態で試験に臨み、日ごろの学びを十分発揮できるよう願いをこめて招待する。

この3日間何回も食材の買出しに。牛肉(豚肉より少し高価)、豆腐、たけのこ、しいたけ、白菜、にんじん、春菊、深ネギである。コンニャクは探しても見つからないのでカット。調味料は醤油と砂糖。以上であとは大鍋で2組作る。家内は招待時間2時間前から調理に取り掛かり、大忙し。

生徒には、茶碗と米飯は各自持ちでお願いした。自宅にそれだけの器の量が無かったので。

さて、生徒たちは、一様においしい、おいしい(ハウチイー、ハウチイー)と喜んでくれた。中には、「胡椒ありませんか」と辛い胡椒を要求する生徒もいた。調理用に用意したものを出すと、すき焼きにゴソット入れて食べる。これにはびっくり。そして、好奇心から自分も少し入れて食べてみると、「うまい」! すき焼きの味が一層引き立つのである。日本では、すき焼きに胡椒を入れる話は聞いたこと無いが、これからは、日本でも宣伝し、胡椒入りすき焼きの食べ方を広めたい。

日語能力試験について

中国は学歴社会であり、その所持するライセンスによってはじめから給料の格差がある。だから生徒たちは命がけで学習するし、日語能力試験は、日語学科の生徒にとっては将来の仕事に関わるとても大事な登竜門。しかも難関である。昨年も、120名ほど受験して、1級に合格した生徒は4名であった。うち、一人は独学で成功した。したがって日本語学科の生徒の1級合格率は、昨年で言えば3パーセント弱ということになる。2級取得をまず狙いなさいといっても、本人たち自信があるのか、聞いてくれない。何が何でも1級をという。その意欲には感心するが、パスできなければ元も子も無いのだが。

案の定、落ちた生徒たちは泣きべそかいている。

彼らが1級にこだわるのは、待遇のこともだが、年が明けるとすぐ、就職活動に入る。そのとき、履歴書を作成するわけだが、ほとんどの生徒が取得資格蘭に「日本語能力資格1級取得(見込)と書くのである。いわば、この空手形を書くために、何が何でも1級に挑戦するというわけである。この意気込みが実力に反映してくれるといいのだが。

試験会場は各省省都の大学で行われ、中国全土で40箇所ぐらいの試験場。江西省の場合は南昌である。

中には上海、北京等で受験する生徒もいる。一会場平均4000名が受験する。日語能力試験の申し込みはその年の4月である。申し込みはすべてコンピューターですることになっている。中には、申し込みが間に合わなくて、次年度送りの生徒もいる。ある生徒は受験番号が空いていた西安にまで試験に出かけた。

あす、12月3日は彼らにとって運命の日なのだ。頑張れみんな。チェストいけ!!

写真説明

妻の配膳模様 楽しげなすき焼き会食 はい、満腹したところで一同チーズ。

* 12月九江の花 ……2006/12/02…

2006年12月2日土(晴れ)在九江

九江12月の花。この時期、九江はもっとも自然の花が少ないとき。花屋には、ゆり、ガーベラ、菊、マリーゴールド、ポインセチア、金盞花など並んでいるが、これは輸入物。そんな中で山茶花だけは、寒風に晒されながら、紅い花びらを天に向けている。

【 山茶花や 友無きおりに ひとり咲き 】

立冬は過ぎたと思っていたところ、日本のある新聞コラムに晩秋という文字をみた。いずれにしても、季節の移り変わり。木々はいっせいに活動をとめ、眠りに入る。植物は1年をかけて活動(生産)と休養を繰り返す。

人間は1日のうちに生産と休養をとり、それを365回繰り返す。活動半分、休養半分なのだ。休養半分は前者にもまさって大切なことだと思う。自然はこのことを人間に話しかけているのかもしれない。活動にのみ人間の価値を見ようとする現代は疲れ果てて倒木寸前。休養は次の季の活動につながる。

自然の木々のように、葉をおとし、ひっそりと次年度の春を待つことの大切さを教えているようだ。

【晩秋の木の葉舞いおる九江路】

写真左:道端に咲く、山茶花の花
写真中:学園を飾る人工的な花 菊鉢、金盞花
写真右:菜園にさいた小菊(これは公栄作)

* 学生会主催の迎新晩会 ……2006/12/03…

学生会の年中行事

2006・11・10(金)

九江学院では毎年11月の時期に恒例の親入学生を迎える会が開催される。主に2年生が新1年生を歓迎するという趣旨のもの。今晩は語学系の歓迎会で、歌、踊り、器楽演奏、寸劇などの出し物があった。インドの留学生や、外国人教師の歌も披露され新1年生はつかの間の開放感にひたり、また、先輩たちに大事に思われていることを実感したことだろう。

写真:歓迎会で披露された出し物

* 65回目の12月8日 ……2006/12/10…

忘れられない歴史

太平洋戦争勃発65年

今日、12月8日は太平洋戦争(日本では大東亜戦争といった)が勃発した日。8歳のときだった。ちょうど、健康を害して、中国九江から父に連れられ、長崎県小浜市の祖父方へ寄留するときだった。

父は真珠湾攻撃のニュースをラジオで聞き、「戦争が始まった!」とだけ言い、あとは押し黙って考えごとをしているようであった。きっと、再び九江の任地に赴くべきか、戦局はどうなるか?など自分と家族の将来を考えていたのだろう。これ以上戦局が広がれば、程なく日本は総崩れとなると考えていたはずである。

今にして思えば、この戦争ほど無謀でやけっぱちなものはない。あるコラムは「政治の貧困によって戦争に突入した。」と論じていた。私は経済的覇権をかけた戦争だったと理解している。

米国も中国市場に介入したくて日本がじゃまになった。これ以上日本の外国進出を黙って看ておれなくなった。だから蒋介石政権に肩入れした。同時に、資源の乏しい日本への石油、鉄などの輸出を差し止めた。真綿で首を締め出した。これにたまりかねて、のるかそるかの勝負に打ってでた。真珠湾奇襲の総指揮者山本五十六元帥はアメリカに最初の一撃は加え得ても、ジリ貧になることを承知していたと思う。

この戦争、日本だけが悪かったのではないとは思う。しかし、朝鮮を支配し、満州を実質コントロールいていた日本はハルノ-トを飲むことができなかった。日本は、実益よりプライドを選択したのだ。恥を知る国ではあったが、罪を知る国ではなかった。大東亜共栄圏などの掛け声もこじつけの大儀としか思えない。

ある論者は、「この戦争は東南アジア開放に寄与した」からいいことをしたのだというが私は信じない。結果として、東南アジア、インド、ビルマが独立を勝ち取ったのは幸いだった。しかし、それと太平洋戦争との因果関係を決定付けるのは論外である。そんな発言をした、東南アジアの有識者もいたぐらいのことだろう。

今日、戦後62年を経て思うことは、平和のありがたさである。私はいま鹿児島と九江を行ったり来たりしながら、中国、日本に多くの友ができたのも、平和なればこそである。

「平和を作り出す人は幸い。その人は神の子となるであろう。」マタイ福音書5:9。

中国、日本の為政者は平和外交を追及してほしい。団体、個人も平和を意識して民間外交を進めたい。 

2006年12月8日 池田公榮 九江にて

写真左:九江の通り  中:鹿児島霧島から桜島を望む 
写真右:九江の長紅路
この写真は、太平洋戦争とは関係ない。ただ平和な状態を伝えたかった。

* 卒業謝恩会に招かれる ……2006/12/31…

2006年度卒業生の謝恩会

日本語学科は3クラス130名ほどである。角クラスの委員が世話役となり、卒業集団写真の撮影、レストランでの謝恩会を開いた。我輩も3クラスとも招待された。「奥さんも是非参加してください」と市の一流どころでもてなしを受ける。

各学生がビール片手に、グラスをもって乾杯と来る。そのとき、飲み干すのが流儀だそうである。これには飲めない自分は苦痛で理由をいって「一口だけね」といって特に許してもらう。

このときばかりは、学生たちも化粧をし、ブーツをはいて大変身。とてもきれいに見えた。失礼、いやきれいでしたよ。!

写真左:卒業集団写真
写真中:学生たちと晩餐会
写真右:同スナップ

* 2006・九江のクリスマス ……2006/12/31…

2006年クリスマス。

「神はその独り子を給うほどに世を愛し給えり。信ずる者の滅びずして永遠の命を得んためなり」ヨハネ福音書3章16節。

今年の一文字漢字は「命」であった。命を考えるとき、命を与えてくださった方を考えずしてその真意に到達することはない。

新装なった教会堂でクリスマスを祝う。会堂いっぱいにひしめく信者たちをみると、これが共産中国かと思えるほどである。どちらかといえば、若者より老人が多いのが特徴。クリスマスには市のお偉方も参加しての祝辞があるのが、これまた日本では見られない風景。それほど、教会の存在感があるということだろう。また、警察官が警備に当たるというのも中国ならではの風景。人が集まるところでは必ずといってよいほど警備が厳しい。

我輩はこの1年間、第3週の日曜日に、講壇に立たせてもらった。日本と同じように聖書を語り、キリスト様の十字架と復活を宣べ伝え、聖霊様の働きを祈ることであった。いつも、通訳の任に当たってくれた教え子のKさんには感謝いっぱいである。

写真左:九江学院キャンパスもクリスマス気分
写真中:九江教会のクリスマス礼拝風景
写真右:礼拝を終え、家路につく善男善女

* 学院主催新年晩会 ……2006/12/31…

2007年新年晩会

学院主催で「2007新年晩会」という催しがある。今年は12月28日木曜日に、講堂(礼堂)であった。

院長の挨拶では、2006年生誕快楽!・2007年新年快楽!の言葉が聴かれた。中国で、クリスマスはすっかり根をはびこらせ、公式の行事でも語られるようになったことは驚きである。日本ではまずない。

合唱「我愛中国」をかわぎりにダンス、歌、中国伝統器楽(二胡・琴)、サックスなど演奏がなされ、インドの留学生も特別出演した。最後は舞台に仕掛けられた花火でフィナーレ。いよいよ大晦日も駆け足で来る。

写真左:開会のコーラス
写真中:モダンダンス
写真右:フィナーレ

* 一年を振り返って ……2006/12/31…

私の2006年を振り返って

今日で2006年も終わり明日から2007年となる。

2月に、旧キャンパスから新キャンパスへ引越し、また新しい教師たちとの出会いが始まった。特に頼まれて、日本語学科以外の生徒のための公開講座で、週2回夜間に教えることができた。

4月には九江学院副学長を団長としてほか6名が鹿児島大学を訪問し大学生交換について話し合ったほか、県、市の首長を表敬訪問した。

5月には鹿児島の孫2人が九江まで来てくれた。孫たちは九江学院の学生に大もてであった。

7月半ばから8月末までは鹿児島へ帰省し、お世話になったかたがたを訪ね、引き続きのご指導を願う。

9月には2006年度新学期が始まり、週18時間の授業を担当することになった。10月からは、新任の先生が来られ、週16時間の担当となる。

11月は運動会と竜獅子祭りがあり、学院が盛り上がった。

12月は日本語能力試験が実施され、多くの学生が受験する。12月中ばを過ぎると学生たちは就職先の開拓を始める。そして、教師を招き、謝恩会をして、学生たちももうすぐチリジリになる。

明けて、6月に卒業証明書を受け取りに来ることがあるにはあるが、このときはほとんどが職についているため、わざわざ参加する人は限られる。ゆえに、この12月末が実質別れのときなのである。各人の将来に幸あれと祈る。

写真右:2006年最後の朝日(白地に赤の日の丸に似て)

写真中:2006年最後の日没。中国は土も赤、太陽も赤、国旗も赤。

写真左:中国の国旗

* 2007元旦日記 ……2007/01/02…

九江の元旦は雨に始まった。

西暦は2007年、平成は19年。大東亜戦争から数えて67年。終戦から数えて62年。

信仰を与えられて54年。結婚して49年。この数字は、自分の伝道生活、幼児教育期間、種子島居住期間とも一致する。神のお導きとご加護により、今日まで幸いな日を送ることが出来たことに感謝。

それにしても、今日イスラエル(ユダヤ)人の先祖ヤコブの生涯を読んで考えた。ヤコブはどうして自分の生涯は幸いではなかったといったのだろう。兄との確執。叔父との確執。神との確執(ヤボクの渡しでの格闘)があったからだろうか。兄はヤコブを許し、叔父(舅でもある)はヤコブと娘たちと共に故郷へ帰ることを許し、神もまたヤコブを許したばかりか、大いに祝福されたのに。彼は自分に悔いが残り、あのような告白をしたのだろう。

確かにヤコブはずるくて狡猾なところがあり、兄や舅にも嫌われた。ある意味、ヤコブの子孫たちも今日必ずしも好意をもたれていない。ユダヤ資本が世界の経済を動かしているといわれているが、経済力だけでは人は幸福になれないということか。

昼は教会の役員宅に年始挨拶に行き、昼食を馳走になる。中国の教会発展について大いに語り合う。感謝のひと時であった。

夕方は学生21名が果物や年賀にあたるカード持参で新年の挨拶に宿舎へやってきた。大いに語り、食べ、そして記念写真を撮る。

写真左:教会の役員宅で写真中:来訪の学生たちと宿舎で写真右:雨にぬれる学院風景

* 今年はどうなるー九江学院 ……2007/01/22…

九江学院は年々成長している。

学生も増加傾向。それに伴い、校舎の増築が行われている。

第2運動場の整備も進んでいる。

江西省一大きい体育館も完成し、機能し始める。

外国からの留学生を受け入れる。さしずめ、インドからの医学部へ中医の勉強に約200名受け入れている。

日本の熟年留学生も徐々に増えている。

そこで働く私も活き活き。幸いなことである。日中友好が広まるといい。

写真左:増築が進行している現場
写真中:インドの留学生たち
写真右:2年生は進級し、最上学年になる。彼らも、一生懸命学習し日本語を生かす仕事につくであろう。

* 長沙を訪問 ……2007/01/22…

一度訪問したかった所ー長沙

長沙と鹿児島市とは姉妹友好都市。相互に往来して久しい。

辛亥革命の志士黄興は、西郷南州翁を慕い、西南戦争後まもなく鹿児島へまで墓参に来ている。この人、別名小西郷と呼ばれた人物。体格は若干西郷さんより小さいが、風格が西郷さんに似ている。明治維新に学びたいと日本に留学した黄興は、西郷さんを慕うあまり、その風貌も西郷さんのイメージになったのだろう。

現在は黄興が学んだ岳麓書院はその遺構を残しながら、山麓周辺は名門の湖南大学と成っている。

長沙大学で教鞭をとっている中原理恵さんを訪問。訪問というより、彼女の案内と接待をうけ、大いに旅を楽しませてもらった。彼女は鹿児島県宮之城のひと。私がかって学んだ川内高校の後輩に当たることがわかった。偶然にしては出来すぎ。神様は粋なことをなさるものである。

雨の長沙

私と妻が念願の長沙を訪れた日はあいにくの雨であった。でも、雨であろうと天気であろうとそんなことは関係なかった。とにかく、黄興の墓を訪ねたかった。念願はついにかなえられた。感謝!

岳麓山へ

折りしも、湖南には寒波が来襲し、霙交じりの天気だった。長沙大学日本語科の夏さんと、陳さん、それに教師中原さんに案内され、岳麓山へいった。山は城山ほどの大きさと思った。だんだんに急な石段を登る足しどりは軽かった。一行5名のうちで一番自分が元気だったと思う。妻は途中で、力尽き、「ここで待っているから先に行って!」といった。妻には悪かったが、一刻も早く黄興の墓にたどり着きたかった。「そうか」といって、霙のなか、妻をおいて墓を目指す。ついに、到達。墓は、山の中腹に踊場のような場所を築き、そこにあった。約30坪の広さか。他の志士たちの墓を見下ろすように最上段にもうけられていた。

世が世であれば、黄興は、南京の中山稜にも劣らぬ扱いを受けたはずである。たまたま、毛沢東もここ湖南省の出身で、彼の築いた政権がいまなお中国を治めているから、毛沢東の上位に置くことはできないのであろう。

わたしは「黄興先生、ついに来ましたよ」とつぶやいた。黄興はいま何を考えているのだろう。「志、いまだ成らず」とつぶやいているのであろうか。

岳麓山にある黄興の墓は雨にかすんではいたが、「我愛中国」ヲ アイ チュウングオ といっているような気がした。

【 小西郷 霙のなかに 民まもる 】

【 霙降る つわものどもの 夢のあと 】

写真左中:霙と霧にかすむ黄興の墓と銘碑
写真右:長沙大学で中原先生と池田公榮・久子

* 長沙路 ……2007/01/22…

写真左:黄興墓に通じる路

写真中:岳麓書院にて(いまは資料館)

写真右:岳麓書院鳥瞰図

* 長沙をあとに関西へ ……2007/01/23…

心残れる思いで長沙を離れることになった。

長沙には他にも見るべきところは多くあるが、今回は岳麓山だけで十分。女性のミイラなどもあるが、それらはまたにしよう。

私と妻は1月14日、一路上海経由大阪ヘと飛んだ。

ここでは、日本留学を希望する中国人学生のために奨学金を出そうと申し出た人に会うためと、熟年留学を目的に九江行きを計画しているW氏に合うこと、九江まできてくれた教会の栄牧師の安問、妻の弟家族の安問、宝塚にいる息子家族の安問、九江高田会の樫根会長さんに会うのが目的だった。いずれも、約1週間でクリアーできた。

写真左:長沙の市街写真
写真中:岳麓書院の屋根
写真右:義弟夫婦を訪ねて

* 長沙路2 ……2007/01/22…

写真のみ
写真左:愛国者たちが学んだ教室の一部

写真中:陳天華(黒マントのひと)、黄興(左2人目)等辛亥革命の推進者たちの多くはここから排出した。

写真右:「脈正南道」の額。道は南からとでもいおうか(如何読むか分からない)湖南人の意気込みは、科挙となることではなく中国のために何をなすべきかが学生たちのモットーであった。

* 関西では1 ……2007/01/23…

関西では

60年あまり、大阪西成区で一日も欠かさず、近隣のホームレスや日勤労務者が仕事がなく食事に事欠く場合、パンや炊き出しをしている大阪救霊会館を訪ねる。

ここの牧師は一昨年6月、中国訪問のとき、九江にまで足を伸ばしてくれたひと。おかげで、月一回、中国田舎の教会で福音のメッセージをすることになったきっかけができた。その後の報告も兼ねてこの教会で、福音の証をさせてもらった。

写真左:メッセージを取り次ぐ池田公榮の紹介

写真中:集会に出席した労務者男性とともに

写真右:炊き出しに与る人々の列

* 大和路 ……2007/01/23…

大和路

大和高田市はかれこれ19年前から九江市と友好交流事業を継続しておられる。

きっかけは、一中国人婦人がこの市で中国語を教えてくれたことで、高田・九江友好交流が始まったそうである。すなわち、この中国語先生の故郷が九江だったわけ。このようなことで、高田・九江友好会では九江学院へ日本語を教える教師を派遣したり、日本文化に関わる、茶の道具や和服、写真、図書、DVDなどを九江学院の一室「静」の部屋に展示したりして、学生や教師の日本理解の一助としておられる。

私は鹿児島人で、九江・高田会の会員ではないが、懇意にしていただくようになり、以後、お付き合いが始まった。特に、熟年留学制度の道を拓いてくださった意義が大きい。

樫根会長は、われわれ二人を、かって熟年留学生として九江市で知り合ったTKさんと共に、明日香、吉野の大和路を案内してくださった。

いにしえの明日香をしのび、渡来人も来て日本に貢献し、かつ、骨まで埋め、帰化したであろうことに思いをはせ、今日の日本の礎を築いた先人たちの足跡を感動をもって見聞した。

吉野では桜の時期ならぬ正月、まだつぼみの形さえもない桜の梢を見ながら、頭の中に、見事な桜が開いた。

九江にも、60年前に、わが父が同仁会病院で働いていた折、日本人の誰かが植えた八重桜が4月になると花開くことに思いをはせた。

桜を愛する心は国境さえも越えるのだと。九江のさくら、今はかなりの大木となって九江市民を楽しませている。

【大和路に 唐くに人の 魂椿 】

【山茶花や 明日香の歴史 語りおり 】

写真左:大和明日香村 遺構に立つ樫根会長、妻、TKさん

写真中:吉野路

写真右:義経と静が頼朝の追っ手を逃れ隠れていたという庵への案内

* 講壇に立つ ……2007/01/23…

講壇に立つ 

2007年1月18日、大阪聖書学院(50年前の学びや)のチャペルで「種を蒔く」ことについてその恵みと、心得について語る。

19日、生駒聖書学院でも伝道者養成学校なので同じ話をする。

21日、息子夫婦が牧会している宝塚恵み教会では老いて益々楽しくなる話をする。大阪の兄弟たちがそろって出席してくれたことがとても嬉しかった。他人には伝道できても、身内を信仰に導くことはなかなか難しいことである。今回は、自主的に教会へ足を運び、礼拝に参加してくれたことは、私が信じている神に心が向いたことでとても感謝。信仰は、強制されるものではない。自分で選ぶものである。しかし、神は機会を捉えて一人ひとりの心を開き、天来の恵みと平安に与ることができますように導いてくださるから感謝。

写真左:大阪聖書学院の講壇

写真中:生駒聖書学院の講壇

写真右:宝塚めぐみ教会での講壇

* 子ども家族と交わる ……2007/01/23…

次男の家族と一週間を過ごし孫たちとも十分交わった。

21日、礼拝を済ませ、午後の便で大阪をあとに、宮崎に飛ぶ。長女夫婦の大坪君の出迎えをうけ、一晩孫たちを含めた交わりを感謝!婿のご両親、次女の婿図師家実家のお母様にも年賀を済ませる。皆さん、それぞれ高齢になっておられるが、みな明るく暮らしておられるので感謝。

22日、大坪夫妻は年休をとって鹿児島市まで運んでくれた。かくて、わが住みなれた鹿児島に6ケ月ぶりに帰ってきた。

写真左:宝塚の次男基宣家

写真中:宮崎の長女大坪家

写真右:鹿児島の長男信一と次女愛

* 種子島で ……2007/03/14…

1月27日(土)海を渡って種子島、西之表へ。

46年間過ごしたなつかしの西之表市そして港、教会、幼稚園。

1月28日~2月11日までのメモ

①、1月28日(日)西之表教会で講壇担当。久しぶりに主にある兄弟姉妹たちと互いの安否を問い、感謝と祈りの課題を分かち合う。西之表では2回の説教奉仕をする。

②、今回の種子島帰省の大きな目的は二つの幼稚園の50周年記念事業への協力である。理事長の要請により、記念誌発行の準備のため、膨大な資料を整理することからはじめた。保存に及ばないものは思い切って破棄する作業。昭和初期生まれの特性として、ものを捨てたがらない。ゆえに、倉庫はごった返す。でも、思い切って捨てなければ片付かないし、仕事が進まない。宝物を捨てる気持ちで、整理に明け暮れる。

③、近所付き合い。ともに子育て、育成会などで活躍した友人たちも、いまは老境にはいる。互いの安否を問いながら、今後の平安と健康を祈る。各自、好きなミニゴルフなどし、自分の健康は自分で進めている。自分のことは自分でする気概は大切だと思う。なんでもすべて、行政や制度に頼ってはならない。前市長のE氏、現市長、老人ホーム施設長のO氏、老健施設長のM氏を表敬訪問。

④、園児たちと遊ぶことも、楽しみと健康の秘訣。誕生会、節分、遠足などに参加する。園児は、その言葉、行動を通していろいろなことを教えてくれる。「幼児は大人の教師」とは日ごろの確信である。

⑤、花壇の手入れ。幼稚園の花壇は園児にとって最高の環境である。花の育ちのなかで幼児たちも育つ。

写真左:種子島ははやくも桜の満開でした

写真中:教会での説教

写真右:元気な幼稚園児たち:節分行事

* 鹿児島で ……2007/03/14…

鹿児島で

1、2007年1月22日(月)快晴

鹿児島市に到着。この間、約一週間滞在。久しぶりの鹿児島は透き通っており、西に傾く太陽に映えた桜島が迎えてくれた。帰ってみると、やはり故郷はいい。九江もいいが、鹿児島も。

2、1月22日~27日のメモ

①、わかくさ保育園で冬花の手入れ。特に菜の花を愛でるため、苗を移植する。すでに、つぼみを膨らませて開花も近い。南国鹿児島の冬の植物管理はとてもしやすい。2月末には見ごろになるだろう。

②、園児が遊ぶコマをつくる。廃紙を利用し、コマつくり。1個作るのに、約20分。600個を目標に頑張る。これはもっぱら夜の仕事。

③、1月25日(木)鹿児島教会で牧師会。牧師たちの情報交換、祈りの課題の分かち合い、霊的充電のときを持つ。

④、わかくさ保育園の後任、S園長の古希の祝いに参加する。保育士たちの発案。ともに、S園長の健康と祝福を心から願い、かつ祈る。

⑤、吉原定一さんを訪問。ここで、塩田さと出会う。かれは南日本新聞社の論説委員であるが、今期、退職し、以後は中国で過ごしたいと希望している方。

写真左:元気な園児たち

写真中:園児の描画作品

写真右:わかくさ保育園の発表会

* 九江へ ……2007/03/14…

鹿児島空港へ午前11時に着く。時間待ちのあいだに、空港の足湯につかり、疲れを癒す。

空港出発ロビーで、すぐ隣に座っておられた夫婦がわれわれに話しかける。

「九江で日本語を教えています。」というとその方も実は同じ境遇。前園さんとおっしゃる方で江蘇省大学で教えておられるとのこと。鹿児島は指宿方面のご出身。安徽省で教えておられる加冶佐先生を知っておられたので、高校時代の同僚だったのかも知れない。

そうこうしているうちに、なんと長沙大学の中原理恵さん、長沙技科大の東シオリさんと会うことなり、一同しばしの情報交換会となった。現地時間午後2時過ぎ、上海に着き、一同と別れて上海駅へ。

上海駅では人が多く、なかなかタクシーがとまってくれない。近距離は乗車拒否をするのである。さいわいにも、上園さんを迎えに来てくれた学生が英語を解したので、彼女の助けを得て、タクシーに乗り込むことができた。

上海長距離バスセンターに着くと、蘇州の呉越さんが友人とともに駅で待っていてくれて、彼女の世話で上海九江行きのバスの乗車券を用意してもらった。バス代の清算をし終え、やれやれ。安心したせいか、疲れがどっとでた。何せ持てるだけの手荷物を(4個で50キロ以上)運んでていたので、へとへと。まずは手荷物を預け、4名で夕食をとった。上海の食べ物は高いだけで美味しくない。文句を言いながら、おなかを満たし、午後6時30分の寝台バスに乗り込んだ。この間、呉越さんと友人は同伴し、バスが出発するまで残り、われわれを見送ってくれた。かくて、上海を出発し、明日早朝には九江へ着くこととなる。

バスは予定通り高速を走り、4日午前5時30分には九江バスセンターに着いた。まだ暗く、外は雨だった。タクシーを拾い、学院キャンパスまで行くつもりでタクシーを物色していたら、夜行バスに同乗してきた中国人女性が「May I help you?」と声をかけてくれた。彼女は、てきぱきと運転手に交渉してくれた。運転手いわく、「早朝だから、夜間料金だ、18元。」と言い張る、彼女は「普通の昼間料金にしなさい」と交渉。まるでケンカみたいな大声の出し合い。中国人の会話ってこれが普通。慣れれば、あまり気にならい。運転手は18元を16元にするといった。それでも彼女頑張るので、ここから学院キャンパスまでは15元ぐらいだと経験上知っていたので、「可以。」といって、この声高な交渉を中断し、タクシーに乗った。多くの手荷物と2人の料金としては16元(日本円約220円)は安いものである。それより、早く宿舎に落ち着きたかったのが本音。

かくて、無事、九江学院宿舎にたどり着き、やれやれ。少し睡眠をとって、日本からのインスタント味噌汁で腹ごしらえをすると、日曜礼拝に出かけた。約2ケ月ぶりの九江教会。懐かしい顔がわれわれを迎えてくれた。感謝の一日の始まりであった。

写真左:鹿児島空港国際線で合流した同じ境遇(中国で日本語を教える)の日本人たち(上園、中原、東(新任で長沙へ)の各氏

写真中:3年生とともに

写真右:いっそう発展拡大する九江学院キャンパス

* 後期授業の始まり ……2007/03/14…

生徒たちと

5日(月)この日から事業の開始。月曜午前に2年生の会話2時間。火曜日午後同2年生の2クラス会話4時間。これが今学期の正式授業時間。

なんと、少ないこと。水曜日から次の日曜日までは授業なし。これで、中国の近隣を4泊5日ぐらいで、旅行することができる。ラッキー。

学生たちの明るい顔に迎えられて元気をもらう。かれらのために、よい授業をしなければ。

写真左:根っから明るい学生たち

写真中:春迎草

写真右:日本語コーナーにおける交流会

* 婦人節の贈りもの ……2007/03/14…

3月8日は三・八節

桃の花見

婦人節に桃の花見の招待をうける。3月8日は国際婦人年。中国でも婦人節として祝う習慣がある。日本語生徒の呂栄さんが、婦人節桃花観覧会参加を家内名で申し込んでいたらしく、当選したのでぜひ参加してといってくれた。家内は一人では不安だから止めるというと、また交渉して特例を作ってくれた。すなわち夫の私も同伴できるということで、あさ7時に集合場所に出向いた。

出欠の点呼のとき、「今日は日本からの夫婦も参加しています」と主催者が紹介すると、みんなの拍手が起こった。歓迎の意である。かくて、女性群のなかに一人男性が加わっての花見の旅。

場所は九江から西北西に約60キロほどののどかな桃園。ちょうど見ごろで見渡す限り桃の花。昼食は田舎料理で女性群と一緒にいただく。途中、放送局のインタビューなどもあり、後日、「先生、花見にいったんですか。ラジオで聞きましたよ」と生徒たちにいわれた。

午後は唐時代に建立されたという古寺を訪れる。結構参詣者が多かった。自分はキリスト教であるので、見学にとどめた。この寺は尼寺らしく、女僧が仕切っていた。仏像はすべて白磁のセラミックに着色したもので、出来立てのように光っている。日本の仏像は木彫か鋳物であるから、時代とともにその古さも自然と顕れるのであるが、そこがどこか違和感がある。

いざ帰るとき、バスが故障し、ずいぶんと境内ので待たされた。九江へ帰ったのは、午後3時予定が6時ごろになった。この待ち時間中に、からだがぞくっとして気分がわるくなった。どうも先週からの疲労で風邪にかかってしまったらしい。授業に影響しなければよいが。

写真
桃花観覧団体記念写真と桃花園
唐代の古寺(尼寺)

* うれしい便り ……2007/03/14…

「合格しました」と弾んだ声

3月10日前後、昨年12月に全国一斉に実施された日本語能力試験を受験した者からの合格の知らせを受ける。学生たちから弾んだ声で「先生、合格しました」という声を聞くことはとてもうれしく、わがことのようで、教師冥利に尽きる思い。特にうれしかったのが、昨年少しの点数不足で合格しなかった学生が、再度挑戦し、見事合格した知らせは特にうれしい。

「先生のご指導のおかげです」と付け加えることも忘れない生徒たちは実に律儀なものである。

「いいえ、あなたの努力の結果ですよ」とこちらも返してやる。日本の学校でこのような師弟関係は徐々に消えつつあるのではないだろうか。

一級試験に合格した呉越さん(卒業生)
紀珂さん(3年生)。林天史君(2年生)

* 九江二月・三月の花 ……2007/03/14…

この時期、2月、3月は九江はもっとも花が少ない季節。

でも花屋に行くと栽培物の切花、輸入物の鉢などは結構ある。

路地に咲く花としては「山茶花」「春迎草」などが主。畑には油菜の花が鮮やか。4月になれば、宝桐、桜などがいっせいに咲き出す。

東京は雪。とのニュースを見た。九江もしばらくは「三寒四温」の繰り返しで、徐々に本格的春を迎えることであろう。

写真:山茶花は真紅、白、薄桃まだらなどがある。
写真(左:紅、中:白)

写真(右)春迎草は中国には多く道路わきに植えられている。3月はじめごろから4月にかけて、黄色いはなが咲き誇る。日本の山吹に似ている。

* 九江学院訪問者 ……2007/03/30…

W・信子さん。

彼女はアメリカ国籍の方。ハワイで永年教師を勤め、退職を機に、中国へ熟年留学を希望しておられる。このたび、3月19日から約一週間、下見を兼ねて九江学院を訪問された。天候もよく、いい印象を得られたようである。学院スタッフも暖かく迎えて宿舎の提供や空港までの送り迎えと、職員並みの待遇であった。

写真左:Weeks・信子さんを囲んで。(左から二人目)

写真中:学園の周りに咲く花。名前がわかりません。

写真右:エンドー豆の花

* 妻の誕生会 ……2007/03/30…

3月27日は妻の誕生日。享年73歳。

結婚式も妻の誕生日に合わせて行ったので、覚えやすい。結婚49年。来年は金婚である。

多くの学生たちが、「奥さんの誕生日でしょう」といって、花束やカードのプレゼント。また学生有志で、食事会を設定し、会食に招待される。

特に、妻の誕生日を教えたわけではないのに、誰かが覚えていて、情報を流したのだろう。それにしても学生たちの優しさ、思いやりに、感動せずにはいられない。

写真左:会食に誘ってくれた学生たち

写真中:ソラマメの花(誕生会とは特に関係ありません)

写真右:木蓮(これも誕生会とは関係ありません)

* 木村さん一時帰国 ……2007/03/30…

熟年留学生の木村さんが、九江学院の派遣交流員4名を引率して奈良大和高田市へ一時帰国。

木村さんは約一ヶ月間、故郷の奈良で過ごし、4月末には再度九江学院へ帰ってこられる予定。

写真:左・中:木村さんを囲んで交流室・食事。

写真右 グリーンピースの花

* 九江を走る日本車 ……2007/03/30…

九江では車が駐車しているとき、しょの車種をみると日本車が多い。もちろん、左ハンドル。これらは、ほとんど中国で生産したものだろう。

写真:日本車のマークがついた乗用車

日産、ホンダ、トヨタ、三菱、マツダ、いすゞ(これはトラック類が多い。)スズキ(九江にはスズキの合弁会社がある。)

要するに日本の全車種が中国を走り回っているといっても過言ではない。

* 宿舎の東西南北(2) ……2007/03/30…

宿舎の周りは花や植え込みの木でゆったりと落ち着いている。高級住宅地にいる心地。

写真のみ。

写真左:宿舎南側。廬山がかすんで見える。全山姿を現すのは珍しい。

写真中:昨年植えられたサクラと日本語科学生  写真右:宿舎北側は建物群でその屋上に土を盛り、花を植えている。

* 宿舎の東西南北(1) ……2007/03/31…

九江学院の外国人教師宿舎(外教)は別名ホワイトハウスとか、白宮(バイコン)とか呼ばれる。この棟には、国際交流センター事務局と、11世帯が住める住宅がある。その東西南北をご紹介しよう。

まず、東側は建物群で囲まれた緑地帯がある。

西側は、落日の見える空間が広がり、最近、新しく植物を植え、散歩道がついた。

北側は、建物群に囲まれ、屋上に土を盛って四季折々の花が咲く。

南側は廬山を遠方に見る。

写真左:宿舎の東側は緑地帯で四季折々の花が咲く。

中:去年植えたサクラが咲いた。 

右:西側は散歩道のある丘陵地。健康増進に散歩がいい。

* 明日から4月 ……2007/03/31…

明日のことを思う

わがふるさと鹿児島の南日本ニュースに、3月30日摂氏26度余とあった。実は九江も同様で今日は半そでだった。

今日で、3月も終わり、明日からは4月。日本は役所や学校が新年度を迎える。ピカピカのランドセルを背負って新一年生が校門をくぐる。

役所や職場も新入職員や新入社員を向かえ、なんとなく落ち着かない。

海の向こうにいると、日本という国が今後どうなるのだろうと、ふと思うことがある。周辺諸国の動きや発言も気になる。

国とはなんだろう。壁があり、対立し、危機感をもち、自尊を高め、排他になることだろうか。

一世紀前までの日本は、海という壁で守られ、外国からの脅威は、元寇の役、鎖国開放のときぐらいしかなかったのではないだろうか。

今は、海は壁にならない。では、富と武力か。明治・大正・昭和初期の富国強兵の再指向?

自分を含め、日本国民一人ひとりが、ある種の覚悟をしなければならないのでは。

どんな覚悟か。難しい!!

ほんとに難しい。①死んで相手を生かすか。②話し合いによる共存か。③殺して自分が生きるかの選択をしなければならない。

私はまず、②を最優先させる。これに解決がつかない場合は①を選ぶ。負けたようだが。さにあらず。「負けるが勝ち」という論法だ。負けてなお勝つ秘訣がある。「み国を来たらせ給え」

写真左:朝日に映える桜島(2007年2月写す) 何が来ようとどっしりと座る桜島のようでありたい。

写真中:自分に被さっている土を嫌がらず、衣とし、肥やしとしてきれいな花を咲かせる水仙。学びたいものです。

写真右:中国の落日は赤いのです。

「ここはお国の何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友はこずえの石の下」という戦前の歌を思い出します。軍国主義の時代にこのような歌が歌われていたのは不思議ですね。反戦歌、厭戦歌とも思える歌詞だけど。