協会のあゆみ

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

鹿児島市日中友好のあゆみ

2020年(協会設立35周年)

鹿児島市日中友好協会を語るとき忘れてはいけない2つのキーワードがある。鹿児島市日中友好協会会長の海江田順三郎氏と鹿児島市の友好都市である長沙市にまつわる話である。海江田(現名誉会長)の回顧(録)を引用しながら市の協会の『あゆみ』をひも解いていきたいと思う。1981年(昭和56年)鹿児島市は助役を団長とした親善使節団を友好都市候補の南昌と長沙の両市に派遣した。2つの市を実際に視察していずれかを友好都市に内定することが課題であった。日中国交の功労者、二階堂進先生の出身県と県都ということに配慮した中国政府が,江西と湖南両省の省都を推薦してきたのだった。市会議員、マスコミ、婦人団体、青年団など代表20人からなる一行に、経済団体から選ばれて参加の機会を得た。上海から列車に乗り、最初に訪問した南昌市は温かい歓迎を受けた。中国革命の発祥地だけに八一起義記念館、八一公園、人民公社などを回り、市の規模では南昌市が鹿児島と釣り合っていると思えた。

しかし次の長沙市は、岳麓山や湘江など自然の風景に秀で,馬王堆漢墓や毛沢東が笈を負った師範学校など旧跡に富み、人口・面積ははるかに鹿児島市を上回るものの友好都市の候補地しては最適であると使節団は結論を出した。市議会の同意を得て翌昭和57年(1982年)鹿児島市と長沙市の友好都市の盟約が、両市の市長一行の相互訪問により締結の運びに至った。ちなみに鹿児島市日本中国友好協会(鹿児島市日中友好協会)は小牧勇藏氏を会長に1985年9月に設立された。会員数82名(役員30名、個人52名)であった。小牧勇藏氏の前に越山氏が会長を務めた鹿児島市の日本中国友好協会(前身)の時代があるので正式には小牧氏は2代目になり海江田氏は3代目になる。(海江田氏の談話)。それから十年後の1992年に10年振りに2度目の長沙訪問から帰ってロータリークラブで長沙の話をしたところ島津修久氏(島津家32代当主)から「長沙で黄興の旧蹟を見て来られましたか?」と問われた。私が「いいえ」と答えると「友好都市なのにあまり黄興には関心がないですね」と不満げにつぶやかれた。

私は肝心なもの(黄興が長沙の出身であったことに気づかなかったこと)、を見落としてきた不明を恥じ、湖南師範大学が出版した黄興研究誌を取り寄せた。この中に東京学芸大学の中村義名誉教授の論文「黄興と日本」が掲載されており、黄興が大変な西郷南洲の崇拝者であったと記述されていた。

中村名誉教授からいただいた資料の中にあった貝塚茂樹氏の著書によると『黄興は孫文より八歳若く、農民出身の孫文と違い、長沙の学者の家に育った。容貌魁偉,寡言黙考、豪胆聡明、名文家にして能書家、選ばれて日本に留学した(弘文学院)早くから民族主義に目ざめ、満州族の清朝打倒を志した。豪傑肌で会った』とある。漢民族による三民主義の近代国家を目指した辛亥革命は、日本の明治維新に範を求め、孫文の率いる広東派と黄興の湖南派(華興会)が、薩長連合よろしく日本で統合し、革命の推進力を持つに至った。

「湖南は必ず中国の薩摩になるべし。我は中国の西郷南洲たらん」と力説した黄興は生涯、南洲に傾倒した。1909年(明治42年)、肝胆相照らす盟友であった宮崎滔天の案内で鹿児島を訪れ、南洲墓地で南洲追悼の詩を賦している。鹿児島・長沙の友好都市盟約20周年に当たる2002年(12月20日・黎明館ホールにて)鹿児島市日中友好協会主催で中村教授の『辛亥革命の志士黄興と西郷南洲』と題する記念講演会を開催した。

鹿児島市日中友好協会の現在ある活動のほとんどはこの年から始まったといえる。海江田会長をトップに企画部(HPによる広報活動)女性部(天達美代子)による長沙市との文化芸能交流活動、新会員の獲得・中国人留学生との交流(バスツアーや春節祭)、イベント企画、中国語教室などなど。新しい鹿児島市日中友好協会の幕開けでもあった。

2005年(平成17年)当時の駐日本中国特命大使だった王毅氏の鹿児島訪問をきっかけに伊藤知事の肝いりで念願だった鹿児島県日中友好協会が発足した。伊藤知事を名誉会長に、会長を海江田順三郎鹿児島市日中友好協会会長が兼任,事務局長を濱野幸一郎が担当した。2007年9月長沙市との盟約25周年にあたるこの年、鹿児島市日中友好協会は海江田氏の強いリーダーシップのもとに、西郷南洲公園に『黄興先生南洲墓地参詣の碑』を建立した。除幕式には島津修久夫妻をはじめ南洲翁ゆかりの方々の臨席を得たが、碑文の指導をいただいた中村先生が碑を目にされないまま急逝されたのは、痛恨の極みであった。(海江田氏談)

2014年(平成26年)1月23日には鬼塚健一郎(日本人遺華孤児鹿児島会会長)と共同で鹿児島市の天保山公園内に『中国人養父母感謝の碑』を建立、除幕式を盛大に行った。式では鬼塚健一郎氏が自作の漢詩を自ら中国語で朗詠して列席者の感動をよんだ。中華人民共和国福岡総領事・李天然氏・衆議院議員保岡興治氏の臨席を得た。また式典の模様は列席した中国メディアを通して中国の中央テレビ局から全国に放映され中国市民の感動を呼んだ。2006年から2010年4月号まで4年間、協会の機関誌である新聞『東方友諠』を年1回発行した好評ではあったが資金面その他で残念ながら後が続かなかった。

協会の『あゆみ(歩)』を書いてるが、『東方友諠』の2010年版の「巻頭の挨拶」に海江田会長が書かれた文章を転記して「協会の歩み」の締めにしたい。

(文責:石慶二)2019・12

『花も実もある日中交流を』

鹿児島市日中友好協会会長海江田順三郎

昨年は鹿児島市の友好都市・長沙市と、特筆すべき交流が行われました。5月に「長沙・武陵源・鳳凰の観光ツアー」にチャーター席が満席になり,盟約後二番目に大きな訪問団と、長沙市で熱烈な歓迎を受けました。少数民族の秘境「鳳凰」の昔ながらの静かな街のたたずまいには、桃源郷をかくやと心惹かれました。7月には天達美代子女性部会長を団長とする「第一回おはら祭り・イン・長沙」が現地の平和公園やホールで現地の市民が参加して繰り広げられ、長沙のマスコミを賑わせました。11月には湖南省や長沙市などが共催した『日本週間』-japanweek-に鹿児島市代表と共に当協会から大石副会長等が参加しました。特別参加の「鹿児島女子短大の『ヤングおはら連』の躍動感あふれるアトラクションが大好評を博したようです。尚、この時、大石副会長から提案された経済交流に対して長沙市から二十名の経済関係グループが今春3月に鹿児島市を訪問するとの連絡があり、交易部を中心にその対応に迫られています。御承知の通り今年は5月に上海万博、11月にアジア競技大会が九州で開催され、中国ツアーのニーズが高まると予想されます。

先般の当協会交易部会では、部会名を「交易観光部会」と改称し、中国の観光や、来日観光客の増加をはかろうとの提案がなされました。「礼は往来にあり」とは中国の古典にあった文句ですが、日中両国人が互いに相手の国を訪問し合い、物産を交流し合って「有無相通ずる」ことがこれからの実践課題になると思います。青少年の交流や歴史の探求・反省など教育・文化面の交流と共に、今や世界の大工場に発展した中国の経済・交易面での関係強化が、友好の大きな柱となることを確認し、今後の発展を期待したいと存じます。

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日中友好協会会報(2009年休刊)

『友誼』とは個人的な友人関係にも国民同士の友情にも用いることができる

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