入来院貞子さまを偲んで。

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

鹿児島市日中友好協会

2011(平成23)年5月5日

5月2日当協会常任理事・女性部会長入来院貞子様が急逝されました。

当協会常任理事入来院貞子様は1日、不慮の事故にあい、2日午前治療の甲斐もなく亡くなられました。
謹んでお悔やみ申し上げます。
故入来院様の生前のご活躍の様子をご自身のHP「スーパーひいオバアチャン入来院貞子の定年後の世界」サイトよりご覧戴ければ幸いです。

http://www.teiko-irikiin.com/profile.html

尚、活躍された文筆集の中から、今年1月21日発行の氏の編集による『世界平和同願会』の機関紙「同願」に書かれたエッセイ「電波と霊波」を以下より。

http://www.teiko-irikiin.com/uploads/denpatoreiha.pdf

「随筆鹿児島」23年より「年寄りの冷水」をご覧戴き入来院貞子様を偲んで戴ければ幸いです。

http://www.teiko-irikiin.com/uploads/tosiyorinohiyamizu.pdf

入来院様は本年、当協会の女性部会長を引き受けられ協会としては今までの女性部にさらに枠を広げた活動を期待していました。

矢吹 晋先生から届きました入来院 貞子様への追悼文をご紹介します。

先生と入来院様と入来文書のこと、そして、昨年書かれた「貞子の入来文書」(火の鳥第二十号掲載)について窺い知ることが出来ます。

読まれた皆さんが鹿児島の誇る古文書の財産を関心を持って頂きたいと思い、氏の了解を得ましたので掲載します。

大石慶二様

貞子さんの告別式に参列できず、残念でした。9月に佐賀大学で集中講義をやりますので、その帰途、墓参を考えております。

貞子さんと重朝さんの母校・早大で朝河貫一研究会を続けていますが、そのニュースレターの次号のために書いた追悼文をご参考までにコピーします。

追悼・入来院貞子

貞子さんの急逝を海江田順三郎氏(鹿児島県日中友好協会会長)からの電話で知らされ、悲しみを禁じ得ない。

「入来文書の邦訳には、原書にしたがって地図3葉を入れたいと考えています。

朝河が苦労して作成した地図をそのまま用いて、ローマ字と漢字地名の対照表を掲げるつもりです。

大部分の地名は見当がついたのですが、一部はいくら探しても現在の地図から見出すことができません。

現地の「地の利」に詳しい方のご教示を得るのがよいと考えてお手紙を差し上げます。この対照表の不備を補い、もし誤りがあればご訂正をお願いする次第です」。

これは私が貞子さんに宛てた2005年2月13日付書簡の一部だ。8月に邦訳が出ると、早速講演を依頼してきた。私は顕彰協会の仲間と入来へ出かけ、薪能火入れ式の大役も与えられた。

彼女は翌06年もう一度朝河講演会を組織してくれ、2007年秋のイェール大学朝河ガーデン開園式への旅にはご主人の重朝氏ともども参加された。

病を癒した彼女は2010年晩夏、入来薪能に取り組み、私は顕彰協会の仲間とともに入来を訪れた。海江田順三郎氏に連絡し私の中国講演会まで企画する気配りには恐縮の至りであった。

帰京すると、追いかけるかのようにメールが届いたので、こう返信した。「入来の旅から帰り、お世話になったお礼も申しあげないうちに、メールを頂戴して恐縮の至りです。

ご指示のホームページで「入来薪能・巴」の写真と解説を拝見し、物語の流れを改めて深く理解したところです。

木曾義仲と巴御前の話は、義経と静御前の悲劇と似たところがあり、ここで頼朝はカゲの悪役ですが、両者共に政治権力が京都から鎌倉に移る移行過程を時代的背景としており、渋谷氏下向の時代背景を知るには、恰好の素材ですね。

この時代の空気がわからないと、入来院ファミリー・ヒストリーの起点が理解できない。

ところで入来訪問団は、8月28日午前、出水武家屋敷の篤姫撮影に場所を提供された竹添氏宅で、「藩政時代の薩摩」のボランティア解説を聞いたのですが、仲間の一人が「朝河貫一」や「入来文書」のことを質したところ、解説員が何も知らないことにがっくり。

そこでは、薩摩示現流の説明もありましたが、アイマイな話に終始し、最も正統的な薩摩示現流が入来院一族の東郷家に始まることも知らない様子でした。というわけで、私としては一日も早く、『貞子の語る入来院物語』が完成することを祈念するばかりです。

もう一つ。8月29日午前は鹿児島市内の尚古集成館を参観したのですが、そこに島津家系図が掲げてあり、忠久が頼朝の子であるかのごとく、「実線」で結んでありました。

この図では、朝河貫一が苦労して書き上げ、検閲を受けて伏せ字だらけの論文として発表された「島津忠久の生い立ち」がまるで無視されています。

06年夏、貞子さんと二人で県立図書館を訪れ、「生い立ち」を借り出したものの、コピー時間を待てずに、そのまま返却したことが想起されます。

後日、私は都立中央図書館で『史苑』(1939年7月号)を借り出し、『朝河貫一比較封建制論集』に収めました。

その後イェール大学図書館で朝河貫一文書から朝河自身が伏せ字を起こしたテキストを発見して、伏字復元の経過を説明した次第(『朝河貫一とその時代』第5章「島津忠久の生い立ち—-伏字復元のこと」)。

尚古集成館の展示は、概して幕末明治初年に焦点を当て、島津家の貢献を声高に語るのみで、初代忠久のことには、ほとんど触れない。

これでは蛇頭龍尾(?)ですね。「島津家は17家あり、入来院などは、数えない」、といった無知丸出しの解説者たちにはあきれるのみ。

以上は薩摩のお膝元でも、入来文書とそれを再発掘した朝河貫一がまだ正当な評価を受けるに至っていないことを示すもので、甚だ遺憾であります(笑)。

この状況を打破するために、『貞子の語る入来院物語』が必須なのです(とプレッシャーをかけたつもり)」。これは私の10年9月12日付返信だ。私の提案を快諾され、彼女は「貞子の語る入来文書」を『火の鳥』20号(10年12月号)に発表し、これが「元文学少女」貞子さんの遺作となった。

「とても評判が良いのよ」と童女のように語る声が今も耳朶に響く。さる4月30日23時51分、彼女はツイッターを書いた。

「福島は大変ですね。原発震災の現状に黙っていられなくなりました。薩摩の大提灯とも言われていますが、大勢に従うこの辺の空気に反発してしまう困った貞子さんです」。

私は翌5月1日日曜の朝、ツイッター(ダイレクト)に返信した。「まさか貞子さんのようなおばあさんがツイッターをなさるとは・・・」、これを読まれたかどうか。

その日、自宅で転倒し、脳内出血で死去された。せっかくガン病棟から生還したばかりなのに何たる非情か。

貞子さんの自己紹介に曰く、「夫の定年後、祖霊の地鹿児島に戻って15年、郷土史の勉強と地域おこし[薪能等を指す]に頑張って来ました。

福島の偉大な学者朝河貫一の『入来文書』の紹介をしています」。

遺作となった「貞子の語る」を慫慂した私としては、「評判がとても良いのよ」という貞子さんのご報告がせめてもの慰めである。