中村 義 古島一雄と中国

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

アジア主義言論人にして立憲政党人

中村 義(東京学芸大学名誉教授)


はじめに

古島一雄は、知られているようで、知られていない。
彼の功績について、松岡英夫は『一老政治家の回想』の解説で三点あげている。
一つは明治文学史上において、二に中国革命派への援助協力において、三に政治家、政党人においてである。妥当な指摘であるが、もう一つ彼が啓蒙的言論人であったことを加えたい。

ところで、残念ながら、どの側面についても管見の限り、専論、研究書、論文はない。ただ、故郷豊岡から上京直後の青春時代が、小島直紀『斬人斬馬剣ー古島一雄の青春』(中央公論者1988年)で描かれている。

彼は1865年(慶応元年)8月1日兵庫県豊岡に生まれ、1952年(昭和27年)5月26日,86才で人生の幕を閉じた。

明治初年から大正、昭和の敗戦直後までの同時代史の生き証人であった。

政党人として活躍していた大正、昭和初年には時折、人物月旦として紹介されているが、行動半径が大きく、多面的で、その上、彼はどの分野でも、裏方,黒衣をつとめ、かつ仕掛人的でもあった。

したがって生涯をたどり、全貌をとらえるのは容易なことではない。これが専論のない理由かもしれない。

さすがに死去の時は、「時の人」で、すべてのマスコミが、訃報は勿論、追悼、回想文を掲載した。

論調は読売新聞夕刊(1952年5月27日)が「吉田内閣の彦左」と称したように、吉田内閣誕生の仕掛人、吉田の指南役等々であった。

葬儀委員長も吉田茂が努め、5月29日谷中で行われた。吉田は「翁(古島)の一生は清貧と剛直の記録で、常に若々しい政治感覚をもって、憲政の確立に努めた」と弔い、ハンカチで目を被う場面もあったという。

読売記事は、また「古島翁は一生を通じて中国問題に尽力し、その方面のかくれた功績も忘れることは出来ない、この翁今やなし」と書いている。

ただ芦田均が同年5月27日の日記に「就寝前に古島一雄逝去の報を夕刊で見た。古島君とは自由党時代によく会食したが自由党を去ってから殆んど話したことはない。世間は古島翁を過大評価していた。翁の逝去は日本に何の波紋も与えない」と、冷やかに記していることを書き留めておく。

ところで古島一雄の政界入りのきっかけは、辛亥革命であるが、その後の政党人としての政界での動向は時任英人氏が「政治の舞台において犬養が社会的注目を浴びたなかで思う通りの活動が可能であったのはある意味において古島が『陰の男』としてシナリオを描いていたからであった。

それほどまで古島は犬養に自分をかけていたのである」と述べているように、犬養毅の参謀、影武者、黒衣であった。

したがって、古島一雄研究は犬養研究が不可欠の前提となろう。残念ながら、本籍中国近代史の身にとっては、資料、専論からの犬養研究は手にあまる。

それ故、前提は専ら時任氏の専著・成果や管見のかぎりの日本近代政治史研究に依拠しながら、「古島と中国」に限定して考察したい。

(一)政界入り

古島一雄が言論人から政界登場への契機は、1911年10月10日、武昌挙兵にはじまる辛亥革命であった。辛亥革命が政党人古島一雄の生みの親である。

というのは一週間後、10月17日、日比谷公園松本樓で、頭山満、三浦悟楼、佐々木安五郎、宮崎滔天、三宅雪嶺等200人余りが参加した浪人会で、鳩山和夫死去のよる衆議院議員補欠選挙候補に推薦されてしまったからである。

隣邦支那の擾乱は亜州全面の安危に関し、吾人同志はこれを時務の推移に鑑み、これを人心の向背に察し、最も慎重にその手を措く所を慮り、一去一就いやし くもせず、我国をして厳正中立、大局の砥柱となり、以て内外支持の機宜を誤らざ らしめん事を期すとの決議のもとに、「対支意見に定見ある人物」、「石炭酸の役割、腐敗止めになる奴」の二点が推薦条件であった。

つまり中国認識と清潔な政治家が必要条件である。その時、「万朝報」の時事短評「東西南北」で論陣を張っていた古島一雄は、はじめはしぶっていたが、浪人会幹事役の萱野長知の根回し、犬養毅の支持があり、満場一致で選出されてしまった。

翌18日、神田錦輝館で選挙活動の第一声をあげ、宮崎滔天の応援演説があった。同業新聞記者の応援もあり、同月27日の選挙には圧倒的強さで当選を果たした。

犬養、萱野、宮崎のアジア主義者三人は言論人古島一雄を入れて、犬養を中央にしてスクラムを組んだのである。

後の事であるが、1929年6月、北京西山の碧雲寺から南京中山陵への孫文移柩祭に犬養が招かれた時、犬養の古島宛書簡(5月6日付)は「南京行を決定す。但猶秘密也。其訳はウザウモゾウの同行を避けるが為也但萱野ハ同行の筈也」と書いている。三人の交流を表して、面目躍如である。

以後1925年(大正14)の引退迄、衆議員に6回当選を果たした。とりわけ普通選挙実現、立憲政治確立を目指した犬養にとって、参謀役の古島は余人を以て変え難い同志となった。

のみならず犬養が凶弾で倒れた後、彼の遺志を引継いたのも古島であった。この点は後述する。

古島一雄の政治活動が選挙区民や市民の利害を意に介せぬ如き語り口で主張され、誤解を招くようであるが、ともすれば地元利益導入優先(例えば鉄道)の地元第一主義を否定して、中国政策の重さを、日本国民にうったえ、国民のバックアップによる政党人としての政治生命を燃焼させたといえよう。

演説ぶりは、宮崎滔天の紹介によれば、

・・・・・・・・  されど彼の演説は条理整然として義理明白、聴者をして首肯せしめねば巳まざるの慨がある。

この点から云えば両君(伊藤痴遊、佐々木安五郎  )は迚も古島君の敵ではない。併しそれは天稟の頭の組織にある事で、弁を以て論ずべきものではないかも知れぬ。

と、面白い。「清潔また生活」ぶりについていう。

古島君未だ曾て自己の為に辣腕を振はず、是を以て一貧洗ふが如く、常に米塩 の為に苦しめられて且晏如たり。

滔天にとって数ある浪人中、最も頼り甲斐あるのが古島一雄と思われる。彼の背景に犬養の姿を見ていたこともあろう。

辛亥革命直後上海から古島宛の書簡二通が滔天全集に収録されている。『滬上評論』発行につき物心両面の援助依頼、孫文の訪日、これをめぐる孫文と黄興の異なる見解、犬養、頭山の意見はどうか、そして滔天自身の健康と浪人の体面を汚さぬ努力等など公私にわたり、殊勝な心ばえを伝えている。

1915年3月の第12回衆議院議員に当選した時、「敢て金力備はるなく官憲の力に属するなくて3156票といふ最高得票を以て当選近来の痛快事(2位2797)」と新聞が報じている。

選挙運動のあれこれは『政界50年古島一雄回顧録』掲載の「シーメンス事件」、「選挙演説思ひ出話」、「戸別訪問とハガキ戦術」に詳しい。

その他、この回顧録の目次にある「宮中某重大事件」、「国民党組織」、「三党首合同」、「国民党解党」等々は、古島が実際に、直接に、表裏両面わたって活動した。この政局や諸事件等については、同書の参照を願って、一足飛びに古島の政界引退の弁を紹介したい。

・・・・  想へば永い間諸君に厄介になりました。明治44年支那の友人が第一革命に成功した時です。

隣邦の問題に理解のあるものを議政壇上に送らうと云ふ浪人会の決議 で、‥‥私は区民の利害も市民の利害も代表せぬ帝国の代議士として選出 して下さいと言切った。

同志からアンナ不遜な演説をしてはイカヌと忠告されましたが、私の信念 に邁進するのみだ。

当時私は世間からヨキ選挙人を有して居ると羨まれました。私は心中嬉  し涙に咽びながら云々(緒方竹虎宛、1925年6月12日)

(ニ)辛亥革命前後

古島一雄の中国への興味は、1888年『日本人』の記者時代からであろう。

三宅雪嶺、陸羯南らの薫陶をうけ、1898年には『九州日報』に招かれ,僅か一年ながら浪人、アジア主義者の本拠地ともいえる福岡・熊本で頭山満、宮崎滔天等と親交を深めた。

東京に戻り『日本』に復帰すると,戊戍の変法運動に失敗した康有為,梁啓超および挙兵で敗れた孫文等が亡命していたので、彼らと接触するようになった。

1900年恵州挙兵を図っていた孫文は、アギナルド、ボンセ等のフィリッピン独立運動援助のため、中村弥六の仲介で大倉組から陸軍の払下げという名目で、武器弾薬を手に入れ、援助をはかった。

それらを積み込んだ布引丸は出帆したが、途中台風にあって沈没してしまった。
ところがこの事後処理で、中村の手数料という金銭問題が発覚し,犬養をはじめ、

宮崎滔天、内田良平、平岡浩太郎等の孫文援助の同士間にも疑心暗鬼、仲間割れが起こった。

孫文自身も恵州挙兵の援助もならず苦境に落ち込んだ。訴訟には至らなかったが、中国革命援助の歴史には、後味の悪い結末であった。これは、「布引丸事件」として知られている。

古島はこの間、犬養の意向を受けて.収拾に苦労したが、同時に犬養の潔癖で、率直な人柄にひかれ,政党人としての信頼を抱き、かつ中国革命への姿勢に共感を深めた。

古島は中国への姿勢は正岡子規から教えられたと、語っている。『日本』編集で担当した古島は「病状六尺」の連載が子規の病気を重くしていると思い,一度計掲載しなかった。

子規は紙上に自分の記事がないのを見て、驚き悲しみ、古島に、原稿が載るのが生甲斐なのだ、と告げた。この事を、日中関係に置き換えて、古島一雄は次のように回想している。

・・・・・・  日支親善は、中国人の心持になって考えなければ本当の日支親善はできるものではない。この根本の観念を変えなければいかんということに気がついた。これからの日支親善論は根本的に日支相協同するということでなければいかん。

合弁にしても、日本が七分で向こうが三分ということではなく、五分五分でなければならん、と、このとき以来根本から考えが変わった。

この、中国認識の姿勢は古島一雄の生涯変わらざる特長であつた。

子規はじめ井上剣花坊、中村不折、国分青涯、長谷川如是閑等文人墨客との、多感な青年期からのこまやかな交遊は言論人古島一雄の文藻を培ったに違いない。

1909年10月2日、萬朝報『東西南北』に、清末の民変激発と革命派の動向に注目して書いてある。

暴徒の蜂起は清国の名物不足怪、只革命党との声息相通ずに至て始めて意義あり。革命党外形微なれ共潜勢侮るべからず官兵往々暴徒を見逃すが如き清廷恐怖故なきに非ず。(太字引用者)

1911年10月10日武昌挙兵は各省光復、辛亥革命へと爆発した。

日本では、国民の関心は急速にたかまり、とりわけ対外硬派の浪人らはチャンス到来とばかり中国へ乗り出して行った。中国革命派への傾倒もあれば、はけ口を求める機会主義者、一旗を求める金銭組みなど様々あった。

又彼等の背景には陸軍、財界の中国計略、謀略、金ずるという紐が結びついていた。古島一雄はこうした日本の対応について述べる。

・・・・・隣邦革命の事起こるや、狼嘯月、もっとも早く武昌に入り、現に黄興の帳幄に参し、大原武慶、亦黎軍門に幕賓たり。

其他萱君二駿ひ従って夙に某地を発し、・・・曰く滔天、曰く古研、各々向ふ処を異にして意気各斗牛を貫く。

正に是血性男児決起の好機会。経世の士又之を善用して士気を一新すべし。若し夫の共和革命の気が、之が為に金甌無欠の帝国に浸漸すと云うが如きは、寧ろ自ら侮る頑愚固陋なる官僚の辟耳

本文中の狼嘯月は末永節、福岡生まれ、玄洋社系の熱血漢、大原は湖北武備学堂の設立に携わった予備役陸軍中佐、その他萱君は萱野長知、滔天は宮碕滔天、古研とは平山周の号、彼らが、相前後して上海へ武漢へと革命支援に馳せ参じたことに拍手を送り、一方共和制樹立が天皇制日本に影響の及ぶのを恐れる政治家、官僚を頑愚固陋と批判している。

また古島は内田良平に批判的な三和とともに、九州の炭鉱界から資金準備をはかり、頭山満を推し、「支那問題同志会」を結成した。

この組織は新聞紙上に論陣をはるジャーナリストと弁舌を鉾とする民間法曹家らが、政府の武力干渉を警戒して、結束したものである。趣旨に
 一 帝国は世界平和のため清国の領土保全を保障すべし。
 二 帝国は隣邦の民意を敬重し濫りに政体問題に干渉すべからず。
 という二大方針を掲げた。東京朝日、東京日日、東京毎日、大阪毎日、日本、萬朝報、二六新報、日本及日本人、太陽、東洋経済、実業之日本、新日本など新聞界、雑誌の有力社はほぼ揃っていた。

彼らは「当路者及政党幹部に警告して其行動を監視する事に決し」、談話会に入って、日本滞在の、中国同盟会員何天烱が日本語で革命軍の奮戦模様を語り、これに古島が答え、一同が連盟して、革命の擁護を明らかにした。

方針の「民意の敬重」は立憲政治、普通選挙を目指す政党人古島一雄の論陣の場にふさわしく、日本政府の対策について書いている。

四川の乱起るや、外務当局揚言して日く、辺陬の小故深く意とするに足らず、 と。既にして武昌の変報到るや、当局又日く、革命軍何する者ぞ、只是れ一時の小変のみ、と。

既にして一電は一電より急に、一起は一起より大なるを見るや、倉 皇為す所を知らず。剰へ北京朝廷が援を求むるに逢ふや、之れに乗じて満洲懸  案を解決せんと試む。目前の利害に迷うて遠大の識見を欠く、概ね此の如し

内田康哉大臣の器幹なくして、此の重任を負荷し為に自ら決する處を知らず。屡  次小村を葉山に訪ふて意見を徴す。宛として次官の如し(1911年12月1日)

政府、外務省当局ははじめは一地方の小変と高をくくり、清朝支持の態度をとった。内田康哉外相は伊集院彦吉公使の目線で泰平組合を通じて、清朝軍に武器の提供を策した。

いっぽう各省に革命の火が一気に広がる情勢は、革命勢力とのつながりも気になっていた。

またイギリスと共同出兵はどうかと打診したとも伝えられる。結局、混迷してまとまらず、事態傍観であった。

古島のいう「目前の利害に迷ふて」とはこうした事実を指すのであり、同時に混乱に乗じて、満洲への膨張を策す陸軍に警戒して、「之に乗じて満洲懸案を解決」という参謀本部系の軍人らの満蒙独立の「暗躍の情報はつかんでいたと思われる。

犬養の忠告もあり、古島は本務の国会休会に入る12月末に中国に渡った。犬養は孫文と反袁世凱の実力者岑春?の協力、頭山は浪人の横行に睨みを効かせる等の渡清の目的はあったが、古島自身は革命派に同情しながら、いかなる政権が誕生しようとしているかを実地見聞し、立憲活動に役立てようと努めたというところであろう。

帰国直後、三井、大倉の借款は容認するが、「権利株を目的とする銀行は要注意」であり、浪人の横行は淘汰された等と見聞を語っている。しかし注目は軍部勢力の台頭とこれと結び付く内閣を警戒している点である。

後のことになるが、次のように書いている

近時支那浪人中、加藤高明を頌する者あり、日く、加藤能く人言を容る、と。

之れを加藤に問へば、日く、曷んぞ浪人の言に聴かんや、但だ軍人の意見を尊重する のみ、と。

対支外交一変云々の風説、蓋し此に兆すのみ(1914年7月15日)

栗原健はこれと併せて翌4年5月15日「五項二十一ヶ条、仔細に之を検すれば、-陸軍の要求を容れたるの迹歴々掩ふ可からず」を引用して、第二次大隈内閣、加藤外相の最大の懸案たる満蒙独立運動と中国政策および二十一ヶ条要求を軍部の圧力なりと指摘している。

端的にいえば、辛亥革命以来古島の満洲問題、日中関係の認識は的確であった。しかし、日本政府の満洲政策、膨張主義に対決する鍵は、政党政治、立憲政治、立憲国民の実現なりという確信には今しばらくであった。

(三) 中国ナショナリズムに直面

ところで第二革命で敗れた孫文、黄興等は日本に亡命をするが、この時、日本には二人の入国を拒み、敗軍の将と手の平を返すような冷淡な気運でもあった。
 しかし犬養、頭山等の意向をうけて、古島は裏面で奔走して、神戸に孫文を迎え入れた。古島は書いている、

孫の急進説、黄の持重説、如今成敗の因を説くは、猶ほ死児の齢を算するが如 し。

唯だ彼の一は近きに留まらんとし、一は遠きに徃かんとして而して来るべかり しものの来らざりしが如きは、前途多少の迷誤なきにあらず。(1913年9月1日)

と。中華革命党の成立、孫・黄両雄の対立は革命派にとり、ピンチであった。だが古島はどちらにも軍配を上げようとしない。この時、彼の論旨は、敗北は過ぎたこと、あれこれと追及しない。ただ黄興がアメリカへ、孫文の日本滞在と二人が別途するのに心がを痛むというのである。

古島は、孫文への敬愛は勿論で、革命的リーダーとして信頼しているが、とりわけ黄興への高感度は高く、中国の西郷隆盛と称された如く、日中両国の共有の指導者として期待をかけていた。

多分、書も詩も好くする文人的素養に、しかも古島同様囲碁愛好の黄興の人柄に肌合いがピタリとしたのであろう。

黄興が1916年10月上海で死去した時、宮崎滔天は古島宛に「弱ひようだが黄興の死には実に一本参った。自棄酒も飲めぬほど弱った。-男泣きに泣いた。昨日は又東京より家族の来着で泣かれた」と送った。

この涙腺過剰の書簡をうけて、古島一雄は黄興の死が、新時代の日中両国、東アジアの将来にとり、如何に惜しむべきかを、同年11月15日、追悼して、

黄興の死は、独り支那民国の不幸たるのみならず、日支親善を基礎として、東亜永遠の平和を確立せんとする我国民の為にも大なる不幸なり。何となれば、彼は実に能く日本を諒解し居りたればなり。

否彼は、支那の現勢を善導するには、日本と結ぶの最善の方法なるを知れると同時に、日本将来の立場も亦也、支那を措いて他に其友を求むるの不利なるを知り、従って日支親善の外に、東亜の運命を支配すべき良法なきを確信せしなり。殊に彼が包容力の偉大なるは、両国の政治家が各々其立場を異にするが為めに、外交問題を内政問題に利用するの巳む可らざるを悟り、而して之れより起る処の両国間の支障に対しては、虚心怛懐其大局を誤らざるを期し、袁世凱の排日政策も、加藤外相の最後通牒も、皆野心ある政治家が一時の小術数にして、決して日支両国国民の真意にあらざるを説き、自ら其一身を以て両国親善の楔子たるを期せり。大隈内閣の対支政策は、進退維谷の窮境に陥り、小術数小策略の凡て 無効なりしを知り、而して日支親善の旧題目が、更に自覚せる新しき意味を以て高唱せられんと欲する時に方り、一朝彼の訃に接す。

豈独り民国の不幸のみなら んや。(傍点引用者)

と。当時のマスメディヤに掲載された黄興論、追悼論の中で卓抜である。

この頃、中国に澎湃と巻き起こるナショナリズムはその矛先を日本の対華二十一ヶ条要求に突き付け、国民的自覚に支えられた新文化運動となっていった。

古島は1919年10月から11月にかけて、上海、北京を廻った。帰国直後、彼は日本政府、軍閥の侵略主義政策を鋭く衝き、「国恥記念日」という日本人にはなじめない表現に中国の民族的覚醒の激しさを見ている。

27,8年戦役以来日本朝野人々が支那人に臨むに強国の態度を以て今尚ほ依 然として態度を革めざるを以て支那人間に悪感情を与へ居れり加之ならず.

日本内閣の対支方針は動揺し南方援助の大隈内閣倒れ援段主義の寺内内閣生まれ次 いで南北妥協の原内閣はるが如し唯其間にありて一貫せるは日本軍閥の侵略主義なり

斯の如き日本朝野のヤラズブッタクリ主義に依り利害に明敏なる支那人をして排日の感情を醸生せしめたるが-麗の二一個条の如きは-国恥記念日として国恥忘る勿れと小学校の教科書はもとより-排日的気勢を高めた

-燎原の火の如く全支亙り濔満せるに之を取締るべき政府の威力は零にして北京政府の勢力は北京城外一歩も出でざるが如き状態なり

-排貨は或は熄まんも排日の思想に至 りては全支を風靡せるを以て終熄の期なかるべし日本は如何なる方策を以て之に臨むべきか是れ重大問題なり一党一派の問題に非ず、日本は朝野を挙げて対支根本策を確立せざるべからず(傍点引用者)

「一貫せる日本軍閥の侵略主義」、「日本朝野のヤラズブッタクリ主義」、「二一個条」と痛烈な批判で中国政策を攻撃する。「斬人斬馬剣」の切っ先は鋭い。

1924年11月の孫文最後の来日については、不評等条約撤廃、国民革命の進展そして犬養の逓信大臣入閣もあり、満蒙問題が極めて重要な課題となっていた。

古島は犬養の代理として頭山満とともに神戸に行くが、この間の事情については、藤井昇三、久保田文次両氏の研究成果を参照されたい。

古島にそくしてみれば、孫文に対して代理とは如何。軍部の満洲膨張を批判する古島が自ら何を語ったか。

彼が議員で、政務次官として、犬養の参謀、黒衣として奔走する政界活動にリンクして考察すべきであろうが、残念ながら明らかでない。

(四)五・一五事件の衝撃

政党人古島にとって、最大の痛恨事は1932年の五・一五事件であった。

明治20年代の言論人時代から「立言即行」と心服し、参謀として、裏方として、支えた老宰相の凶弾による横死は「政友会の内部には、たとえば古島一雄を中心に『犬養首相の柩をかついで軍部と一戦をまじえよう』という意見もあったが、政党全体としてはその気力はなかった」と伝えられる。

同志の政党人植原悦二郎は、古島が目に涙して、独り言のように「これで万事終われり、わが国の議会政治はこれによって破滅に導かれる惧れなしとは言われない。

約半世紀間、藩閥官僚を相手に悪戦苦闘して築き上げたわが政党政治は、これで御破算にならぬとも限らない。 このごろようやく曲りなりにも政党政治が行われるようになったのに、犬養の死によっておそらくはなはだしき変化をみるだろう」と書いている。

これからは「浮世の御礼奉公だ」だといった。古島の直面した「浮世」は容易ならざる事態であった。相互に余人を以て変え難たいと信じた主役・黒衣が黒衣を脱ぎ捨てざるを得なくなった。

犬養内閣の立憲、産業立国、日中親善が古島の双肩に重くかかった。とりわけ満洲事変後の日中親善は可及的速やかな解決を要する問題であった。しかし、当時の政界で主役犬養に匹敵する中国に対する学殖、人脈を持つ政治家はいなかった。

古島の胸中には、三年前、1929年5月、「ウザウモゾウ」はオミットして、犬養、萱野、古島が三人揃って、孫文移柩祭に招かれたあの輝かしき晴れ舞台が浮かんでいたかもしれない。

犬養没後一年、下関、秋田での木堂会で講演し、次のように心情と決意を吐露している。

犬養内閣は第一に政策の確立遂行、政策本位、産業立国主義である。

第二に 明治政府以来の教育方針は非常時に対する忠君愛国の精神を涵養することのみ に力を注ぎ、当時に於ける立憲国民の教育が閑却されている。

この方針を立て直すことに力を注がねばならぬ。

第三は支那問題である。第一革命以来の先生(犬養)ほど支那問題に深い理解を有する者はいない。現在の支那要人を知っていることも先生程の人はいない。支那問題を解決し、東洋政策を確立する。これらが犬養内閣の主な使命であった。

犬養内閣成立するや、萱野長知が首相の和平交渉密使として南京に入った。この経緯は久保田文次氏の研究や時任氏の「萱野工作」の一章が詳しい。

密使であるがため、失敗帰国の萱野を待っていたものは軍部、外務はじめ右翼政客、更には南京方面からも非難轟々、冷たい仕打ちであった。

久保田氏は、古島らが萱野の労をねぎらったことや、萱野の無念さを伊藤痴遊、梅屋庄吉宛書簡で紹介している。

古島と萱野の間柄は萱野の富士見白林荘宛7月31日付書簡が面白い。「貴書をみて想ひ出深き白林荘、覚へず泣き度く相成候」の書き出しで、「江戸に在りては毎日毎日電話がかかるやくざな連中にも逢ひ見るにつけ聞くにつけ腹の立つことばかり、ホドホド東京がイヤになり、先月中旬より此田舎(千葉)にて毎日『棋道』を繙き独り楽み居候」と書いて、伊藤、梅屋宛同様の三猿主義と漢詩も認めて、「富士見より御帰の節は御一報賜り度候暢談願度候」と結んでいる。

この書簡のやりとりから古島は萱野密使に強い期待をかけ、和平の希望を抱き、しかし、結果に無念さをかみしめていたに違いない。

ともあれ古島一雄はこの犬養没後、事実上の政党政治終焉、ファッショ化の進行、テロリズム横行の政界に、黒衣を脱いで、一人旅を続けなければならなかった。「雲間寸観」、「東西南北」をみると、古島の専論、評論の対象は内政、文壇、教育、世相等に関連して人物の動向、事件の成行が主である。

財界、経済政策に関連するものは目につかない。元来、清貧をモットーとした古島の事であり、金蔓はない。よって立つところは、明治20年代以来従事した言論界以外になく、ここがホームグランドになった。

(五)『信濃教育』と古島一雄

舞台は、教育県として定評の長野県、『信濃教育』であった。長野県教育の研究は質量とも豊富である。それ故、研究対象を古島のみに絞るのは、木を見て、森を見ずという批判は免がれないであろう。犬養研究と同様に忸怩たる思いである。

古島一雄が政界に第一歩を踏んだ1911年、長野県の東筑摩郡や松本市で、小学校教員たちが「東西南北」という組織を発足させた。会名は万朝報の時事欄の「東西南北」にちなんだという。

言うまでもなく古島の担当欄であった。彼ら教員等は「天下第一の人格者を招いてその人と語ることでお互いの向上をはかる」という趣旨で、人格主義を標榜し、キリスト者、アララギ派教員等も積極的に参加し、県内教育会の主流を構成したという。

こうした経緯から三宅雪嶺、犬養、古島らが、講演に招かれたようである。1916年には犬養「国防論」、1919年には三宅「字制の変選」、1926年には古島一雄「憲政運用の実情」等があったと記録されている。

政界を引退した1925年5月に、古島は『信濃教育』に寄稿している。以下その要点、

予は現代の教育が文部省の指図によって、すべて画一的に器械的に行はれて、教育の真精神が活きいきと活躍する余地なきことを遺憾に思ひ、今日教育の禍根全く茲に在りと信じてゐる。‥‥為政者が教育を重んずるならば、宜しく教育者に頭を垂れて教を請ふといふ具合に行かねばならぬ。‥‥修身書を持たせないで武士道談をしてゐたさうであるが、修身などそれでいい。‥‥どうも今の画一教育は困る。教育を殺してゐる。これは予の宿論である。

この一文のきっかけは、1924年9月、長野県の松本女子師範付属小学校の川井訓導の修身授業であった。授業は樋口視学委員及び畑山学務課長一行の視察のもとで、川井訓導は担任学級尋常科四年生の修身授業で国定教科書を用いず、森鴎外の「護持院原仇討」を教材とした。

これが問題となり、川井訓導は休職処分をうけた。これは長野県教育界にとぞまらず、全国教育界に動揺を与えた。『信濃教育』(大正14年5月)は「川井訓導の修身教授問題」という特集をくんで、有識者の意見を求めた。

先の古島の文章はその一つであった。寄稿者は古島一雄の他、三宅雄二郎、沢柳政太郎、阿部次郎、石原謙、岩波茂雄、和辻哲郎、土居光知、篠原助市、久保田俊彦、伊藤長七、北沢種一、長田新、太田孝作等である。

当事者の訓導川井清一郎の「経過と感想」が掲載されている。寄稿者はいずれもその道の代表的専門家であり、社会的にも一家言もつ実力者ばかりである。

一つ一つの紹介は本論の目的から離れるので、おおよそを述べれば、多くは長野県学務課長や樋口視学委員の対応・処置に問題あり、配慮を欠いていると批判的である。中でも古島が事の本質を最も強くえぐり出している。

すなわち川井事件は国家主義で一貫させようとする教育行政の現れであり、現場の教育を生き生きとさせる余地のないようにしている。「今日の教育の禍根は、全く茲に在と信じている」。

この端的明快な指摘は他の寄稿者にはない。その上、行政官吏が生徒の面前で訓導に詰責的行動をとったことは言語道断であるとし、為政者は真面目な教育者に頭をたれて教えを乞うべしと、川井訓導を擁護した。のみならず、教師の授業における教材自由の重要性にまで言及している。現場の教育者に対する最大の支援、激励の内容といえる。

古島は信濃教育会で講演会を三度開いているが、最初のものは文章として残されていない。二度目は『支那事情に就て』(『信濃教育』1927年7月)、三度目は1937年6月20日の「我が国近時の政情」という講演である。これは信濃教育会総会の記事として紹介されている。もう一つは講演ではなく随筆「偶感』(1935年7月)である。

「支那事情に就て」は1927年6月18日の講演である。情勢は蒋介石の国民革命軍は軍閥勢力を排除しつつ、同年4月には南京、上海に達していた。

この間、南京で英・米・日の領事館、外国商店の略奪、暴行が激発した(南京事件)。漢口や蘇州でも排日激化していた。4月12日には上海で蒋介石の反共クーデタで国民党と共産党の合作は決定的分裂にいたった。

日本政局は4月20日に田中義一内閣が成立し、5月28日には第一次山東出兵となり、日中関係は緊張した。6月27日は対中国政策確立のため東方会議が開催された。日本が満蒙膨張主義政策のため支援した東北軍閥張作霖は、この講演当日の6月18日、北京で大元帥に就任していた。

この情勢で「支那事情」を題目として、日中両国の政局の推移を目の当たりしている古島一雄を招いた信濃教育会の見識は高いといえよう。

古島の講演は時間をかけ、充実した内容であり、彼の論策では長い部類と思う。おおよそ次のようである。辛亥革命後の中華民国は、憲法は出来たが無いに等しく、上下議会もない。

軍閥混戦、民衆の苦しみ、大飢饉、四百余州の民は流民となり安住の地を求める。等々を具体的事実をあげて語り、こうした絶望的に見える中にも、馮玉章、閻錫山の善政があることをとりあげ、更に三民主義に新たな方向を期待し、蒋介石の北伐の原動力を国民革命軍の幹部を教育した黄埔軍官学校にあると、これに注目して「此に支那の若い血が流れている。

この点をよく吾々は見なければならん」という。しかし残念ながら南京での領事館等での暴力、略奪は日本人の憤激を招いてしまったが、古島はこれは北伐軍が南京に来るまでに、雪だるまのように大きくなり、このふくらんだ兵隊達の略奪暴行であると、例をあげて説明している。その上で、 かくて支那問題の鍵は何処にあるか。日支親善、日支共存共栄を叫ぶが要するに日支の鍵は満洲  問題であると思ふ。日本が満洲を独占地域として今後70年間維持することが出来るかどうか。若し  日本に満洲を放棄せよと叫ぶものがあったならば恐らく国賊、売国奴の名を蒙るであろう。

共に云ふべくして行ふ能はざるものかどうか。果して此解決を成し得るもの又それを公表し得るものがあるや否や。

と結んでいる。ここでも満洲問題、満洲放棄が日中親善の要と主張している。

犬養内閣成立の時、古島一雄は貴族院議員(勅選)に推薦された。というのは内閣には既に政界引退をしていた古島の知恵と深謀を確保するには国会の議席が重要であったからである。

1932年3月の事である。そこで、かねて欠員中の5名を、堀啓次郎、門野幾之進、岸清(法学博士)、栃内曽次郎(海軍大将)と古島一雄で補充した。

古島推薦の事情は東京日日に「政界に奇麗に見切りをつけ影武者の役にあったが、こんど返り咲いて勅選になった以上表向きの活躍が出来るわけで犬養首相が勅選にした肚裏もその辺にあろう」と記事にされ、世論は「異彩を放った」人事と好評であった。

彼は交詢社午餐会で「皮肉家の犬養首相の事ですから貧乏人でも勅選になれると云ふ見本を私によって示したのかも知れません。私は勅選になったからと云って足の裏に飯のついたやうな気持ちでも御座いません。今後共出来る丈国家の為に御奉公致すつもりで居ります」と面目躍如たる挨拶をした。

論者も「三〇万とか五〇万といった大金を政党に寄付して志願する資本家連の多い中に、これはまことに変わり種である。而して又、木堂式面目躍如たり、木堂人事行政の最大秀逸といってよかろう。最大傑作だ」と大歓迎の態であった。

しかし、この犬養人事の効力は発揮する間もなく、軍部の暴力により露と消えてしまった。だが14年後の1946年9月、明治憲法最後の貴族院議員に萱野長知が選ばれた。

古島により犬養人事方式が継承されたものと考える。しかし、萱野も一年足らずで、47年4月に病死してしまった。

犬養・古島・萱野の明治以来の政党、憲法、産業立国、日中親善を至上とした開かれたアジア主義の系譜は戦後への遺産として、継承保持されるには、時間が足らなかった。

先に戻ろう。犬養没後、満洲国樹立、国際連盟脱退、「国防の本義とその強化提唱」(陸軍省昭和9年10月1日)、1936年(昭和11年)危機説と非常時国防国策等々、軍部主導がますます突出する時期、古島一雄の言論活動はどうであったろうか。

1935年(昭和10年)7月、次のように書いている。これも『信濃教育』であった。

現に世を挙げて今尚非常時の声が叫ばれて居るが、其非常時の正体は何であるか。非常時は解消 したのかどうか。広田外相などは己の居る間は戦争はないと言ふが、己が居なくなったらどうなるのだ 。常識から言へばソビエットでも米国でも先方から割りの悪い戦争をしかけて来るとも思はぬが‥‥

一方生命線だと云はれた満洲には一体いつまで注ぎ込めばよいのか、北支はドコで打切るのか、陸軍の 腹芸は外務の口先の受合では安心出来ぬ。‥‥単純なる右翼論者は純情一点張りで中には神話時 代の政治を行はんとするやうな議論を平気に唱へて居る者もあれば、甚だしきは忠君愛国を一手専売 の如く振舞ふ者さえある。

‥‥政党攻撃も近代流行の一だが歴代の政治家が果たして立憲国民を作  る教育に努力したものがあるか。立憲国民を作らずして選挙に干渉と買収を教へたものは昔の官僚で あり、ブローカーの組織を完成したのは現在の政党であるが、官僚が政党撲滅の心理を以て選挙粛正 をやったら一種の選挙干渉となる。‥‥ファッションは組織より人である。

既製政党にもリーダーが無 いが、さりとて日本のファッション圏内に誰が果たしてムッソリーニたりヒットラーたらんとするか。只だ爛熟期に入った政党方面は無勢力であるが昭和維新の新興勢力は闘志に燃えて居る。政党は味方を 考へるより先づ敵の何物であるかを知るがよい。

ファッションは敵を知るよりは先づ味方が何物である かをみるがよい。‥‥経世家は其急激なる変化を避ける事は注意せねばならぬが、教育家は其の変  化に応じ得べき常識国民を作るのである。(傍点引用者)

(六)憲兵隊の召喚

一体何のことか合点がいかぬ。―強ひて言へば去る6月20日長野県の教育会でたまたま時局談に 及んだ際、二・二六事件、五・一五事件などの実例を引用して、言論圧迫の非を説き、幾分近頃横行  する怪文書の内容にも触れた。それが問題になったであろう。

わたくしがしたことは一般人の知る必要 はないが、立憲国民の子弟の教育に当る教員は知ってゐなければならんと考へたからである。その講 演の一端が軍民離間を策するものの如く思はれるのは心苦しい。

1937年7月21日、古島一雄が憲兵隊に召喚された際の談話である。戦後になり、彼は「講演の際に、当時のことだから田舎新聞の速記か何か、煩さいことを言はれてはかなはんと思って、速記を中止させたんだよ。それで何か反軍思想でも鼓吹したものと考へたらう。

僕を、五・一五事件で殺された犬養の残党とでも思って居たらうからナ」と書いている。実際に講演の記録はないが、日中戦争勃発で軍部当局は反軍思想は勿論、匂いのするものは、軍民離間をはかるものとして取り締まった。

警察ではない、憲兵であった。古島のこれまでの言動から、反軍の犬養の「残党」とマークされていたとみて不思議でない。

言うところの怪文書については、前年6月15日第六九臨時議会で「不穏文書臨時取締法」に関連するのかと思われるが、古島召喚記事は『信濃毎日新聞』(同年7月22日)にも「軍民離間の疑ひ」の見出しで掲載されている。そこには古島だけでなく、主催者の信濃教育会林主事の次のような談話も紹介されている。

本会が古島先生を煩したのは現下の政治情勢の正しい推移を知りたい為にお願ひしたので講演の  内容に特に軍民離反を意味するやうな点はなかったやうに思へる。

先般松本憲兵隊からこの事につい て聴きに来られたので、私は自分の見るところをお話しておいたが、何れにしても古島先生に御迷惑が かかるやうな事になってはお気の毒に堪へない。(傍点引用者)

速記を中止させたというのであるから、古島も期する所もあり、信濃教育者の要望の「現下の政治情勢の正しい推移」を具体的な事実で話したに違いない。

 記録はなく残念至極であるが、幸に『信濃教育』編集後記に貴重な記事が残っている。

古島一雄先生は矍鑠たる御様子にて壇上に立たれ「自分は甞て此講堂で話したことが二度ある。一 は政党の華やかなる時代で、若し政党が今の儘で過ごし行くならば必ず凋落する時が来るであらうと  結び、一は支那問題について、支那の排日教育は推進しつつある。

之は日本が支那に対する優越感  を弃てざる以上益々盛んになるであらうと語った事で、今に覚えてゐる。」

‥‥最後に先生は「諸君に  お願ひしたい」として日本人は立憲国民にはなり得ないではないかとさへ言はれてゐるが決してそんな 事はない。公徳心を重んじ共同の精神を尊ぶ教育をして立憲国民の真を致して頂きたい。

其為には教 授の方法にも幾多改善を要すべきものがあると思ふ。自分は余暇を見出して今この教授方法を調べて ゐると結ばれた。(傍点引用者)

犬養内閣の三つの課題は、ついに立憲国民の創出のための教授方法、今流でいえば立憲国民教育養成カリキュラム構成にまで踏み込んだことになった。

この傍点部分こそが、すでに黒衣でもなく、陰の人でもなく、自ら仕掛け人となった立憲言論人古島一雄が「日本が支那に対する優越感を弃て」、そして大政翼賛会、総動員法、言論統制のファッショ化に対決するための最後の実践の砦であった。

果たしてどのような教授方法がイメージされていたのか、定かではない。今後の課題となろう。課題といえば次の二点もそうである。

第一に1933年8月、治安維持法で県内で138人が逮捕された「教員赤化」事件があった。第二にすでに県下に満洲開拓移民団、拓殖教育運動がはじまっていた。

この二つの事実が古島一雄のこうした『信濃教育』へのコミットとどのような関連づけが考えられるのか。1945年にいたる敗戦過程を信濃教育史の文脈のなかで考察する課題であろう。

日中戦争、太平洋戦争時期の古島の動向は、事実の検証を必要とするが、彼自身の語るところを紹介して終わりとしたい。

翼賛会となり、総動員法に依りて立憲政治の外堀を埋め統制に依りて政治形態の変化を計らんと一 方戦争の不利となる共に遂に極端なる暴圧政治を以て国民の耳目を蔽ふに致れり。―偶ま具体に公  言すれば直に舌禍を招く。僕が第一次近衛内閣の時信濃教育会に於て講演せし為め憲兵に呼ばれし 事ありし。

当時はマダ威嚇的宣伝的なりしが其後陸軍の臨時軍事費の濫費によりて志士浪人の骨を抜き憲兵の跋扈に依りて言論界の目を封じたるのみならず、個人の会合もゲーペーウー式の監視となり手も足も出ぬようになりたり。

現に東条内閣の末路に到っては吉田前英国大使を―憲兵本部に羅到したる軽路の如きは実に陰険悪辣を極めたり。我等も満洲事変以来の事情を知らざるに非ず、而して軍閥と一戦する能はず碌々生を盗んで空しく大詔に泣く。先輩に対して愧づるのみならず誠に上下に対して自責の念に堪へざる也。                                                       (終わり)

史潮新57号 抜刷             2005年5月31日発行