永谷元宏の 長沙日語学院 友好の輪

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

はじめに(自己紹介的コメント)

若いころから三蔵法師や史記、三国志が好きでした。 広い中国に長い長い歴史と、果てしない夢を想像していました。
縁があって長沙の日語学院からお誘いを頂きました。
晩学で日本語教師の手習いをし、地元岡崎市の日本語教室の お手伝いをしたことが幸運を運んできたようです。
しかし最近は中国入国のビザ許可がとりわけ厳しくなり訪問ビザも外事局の入念なチェックが必要になったようです。 
ようやく難産のビザが交付され、ぎりぎりの赴任となりました。
中国語もままならぬ中で日程だけが追いかけてくるようですが、「何とかなるものさ」といつも潜り抜けてきた悪癖を武器に楽天型にきめこんで2月21日に出発します。
「いつも、明るく,楽しく、前向きに」の心構えで海外ボランティアに励んだ先輩諸氏の行動を目標に長沙で微力ながら友好の輪が広がれば嬉しい。


2009/02/21

長沙到着

いよいよ出発だ。6:00に岡崎の家を出る。

中部国際空港から約3時間で上海浦東空港へついた。

ここから国内線の上海虹橋空港まで1時間のバス。日本から青島へ帰省中の若い美人に出会うなど好調なスタートであったが・・

虹橋空港では搭乗口が突如変更になりいつしか電光掲示板の長沙行きの文字が消えていた。

(英語、中国語のアナウンスが聞き取れなかったのです)どうにか滑り込みの搭乗で冷や汗かきかき搭乗し長沙に17:30に到着した。

しかし迎えの先生の姿が見えず戸惑うところを親切な人に携帯で連絡をしてもらい無事会合。

初対面の範例校長先生と生徒の楊さんは大陸的な大らかさの人柄で、いくばくの不安も一蹴した。

長沙は曇空で寒かったが、ハプニングや人の温かさに出会った面白くも貴重な体験の旅であった。


2009/02/22

長沙の街へ出る

早朝から目が覚める。

天気は曇り時々霧雨、この時期はこんな天候が続くそうだ。学校に出かけると日曜日だが新学期のため先生方も出勤しておられた。

新入生が親に付き添われ面接をしている。明日から授業が始まるというに大らかなことと感心する。

生徒が「先生お待ちしていました」と笑顔で挨拶してくれる。生徒の楊さん達がこまめに面倒をみてくれ長沙の繁華街へ買い物に出る。

人口600万人の大都市長沙はまさにエネルギーの坩堝で中心部には日本の平和堂もある。

日曜の歩行者天国は人の渦であり立ち並ぶ最先端の大型デパートには品物があふれ急速な発展にただ驚く。

今日の目的の一つは持参のパソコンにインターネットをつなぐため無線カードを設置して貰うことだ。

1年契約で時間無制限の契約しかないので出費が大きいがシステムを購入する。

若い技術屋が鮮やかにインストール処理をする様子を見ながら中国のネット普及の広さとレベルの高さを感じさせられた。


2009/02/23

授業が始まる

春節を挟んだ一か月半ばかりの休みを終えて2月23日(月)から授業が始まった。

学習期間は原則2年であり、私の担当は半年クラス、1年クラス、1年半クラスの3クラス(生徒数は各30~35人)。

「みんなの日本語」の教科書をベースにした会話や日本文化の紹介などの授業をすること。

第1回目はやや緊張気味にたどたどしい中国語で自己紹介をした後、みんなに自己紹介をしてもらう。

約8割が若い女性で湖南省の出身者が多いが広東省や湖北省からの人もいる。

年齢も17歳から25歳ぐらいとバライティの幅が広い。みんなの目標は日本語能力試験をパスし将来、通訳や日本と関係のある仕事に就くことだと胸を張って応える。

みんな目を輝かして一生懸命に聞いてくれるのに感激する。

学生は8時から午後4時ごろまで授業を受け夕食後また午後7時半から9時半頃まで教室で自習する。

寒い教室でとにかくよく勉強している。軟弱な私には刺激が大きいが自分なりに頑張ってみるつもりだ。


2009/02/26

歌は流れる

本格的な授業が始まった。

聴解(ヒアリング)は日本語能力試験の中でも不得意な科目と聞いたので、日本から持ってきた歌のCDを使って聞き取り練習をしてみた。

1年クラス(0802班)は夏川りみの「涙そうそ」1年半クラス(0704班)は谷村新司の「いい日旅立ち」をかけてみた。

(どちらも私の好きな歌ですが)1フレーズづつ聞きながら書いてもらう。少し難しいかと思ったが、かなりよく聞き取れていて感心した。

聞きながら書くことは、とても大変だがフレーズを何回も繰り返すうちにメロディーもすっかりおぼえてしまった。

最後はみんなで合唱しおおいに盛り上がった。先日の自己紹介で「歌が大好きです」といった生徒の多いことを思い出す。

今ではインターネットバーで日本の音楽を沢山取り込んでいるので日本のメロディーは若者たちの生活の中にすっかり溶け込んでいるようだ。

歌は日本人の気持ちを伝えるに格好だ。かくして長沙の街に「涙そうそう」や「いい日旅立ち」の歌が流れ旅立っていくことを夢にみる。


2009/02/27

中国文化です

夜半から雷が鳴る。

枕元の電球がつかない。停電だ!日本では久しく経験していない。雷さまの声もゴロゴロではないかもしれないぞ。

薄暗闇の中でパンとコーヒの朝食をとる。山登りのテントの中で食べた夜食を思い出した。

そうだ!ここは中国なのだと思い直す。授業の後で生徒の陳さん、頼さんと蒸料理の店に食事に行く。

こざっぱりしたおいしい店だ。簡素なテーブルを囲んで話に花が咲く。

勘定を払おうとすると2人がもう済ませていて取ってくれない。

先生に御馳走するのは中国の文化ですと言う。年長者が御馳走するのが日本の習慣だよと言っても笑って取り合わない。

「師敬う」の論語の世界に来たようだ。果物を買って渡すと恥ずかしげにお礼を言われる。これが中国の習慣ですとは言わないところが奥ゆかしい。

帰りに2元(30円)店を見つけた。りゃんユワン(2元)、りゃんユワンとスピーカーがけたたましく叫んでいる。

100円ショップファンの私はすぐに飛び込んで拡大鏡を買ってしまった。

習性は恐ろしい。中国の大河は時には氾濫もするが今なお3000年の歴史を漂わせ悠然と流れているようだ。


2009/02/28

篤姫登場

授業を開始して初めての休日だ。

生徒と列士公園へ行く予定であったが今日も雨のため中止。朝から生徒が6人も訪ねて来てくれた。

近くのスーパーで食材を買い込み台所で早速料理をはじめた。葉さんは料理上手だ。

みるみるうちに料理がお皿に盛られていく。まさに食の文化・中国の面目躍如だ。少し辛い湖南料理を囲んで話が弾む。

みんな幸せそうな顔・顔・・・。

食後にバスで繁華街の本屋に出かける。長沙のバスは1元(15円)と2元の2種類。エアコンありなしの違い。

どうして見分けるのと訊けば「カーテンがあるのがエアコン付き」の返事に納得。

長沙で一番大きな本屋の「定王台」には古典から児童書まで一杯だ。

3000年の思想・学芸が凝縮されて仲良く並んでいる。日本語関係の本も多い。

漱石の「こころ」もあった。中国の児童書を数冊求めた。中国の子供になって勉強してみたい。階下にはCD・DVDの小さな店が軒を連ねる。

噂の海賊版の宝庫だ。ありました日本のアニメやドラマがたくさん。ひときわ高い棚の上からあの「篤姫」様が見下ろしておいででした。

姫様はもうこちらにいっらしゃったんですね!早速私たちは超超特価のDVDを戴いて雨降るバス停に向かったのでした。


2009/03/01

三人行必有我師焉

今日も雨だ。

長沙市の中央を南北に流れる湘江の畔にホテルの喫茶店があった。

中国に着いて以来、本物らしき?コーヒを飲んでいないので生徒の黄さん、彭さんを誘って3人で出かけた。

中国の人はあまりコーヒをのまないらしい。テーブルを囲んでトランプカードをしている人や眠っている人、実に様々なゆったりした光景だ。

喫茶店のコーヒは学生街の昼食費に比べると高目だが(ちなみに昼食費6元(100円)、コーヒ20元)ウエートレスさんの笑顔で好感度な対応が嬉しい。

おいしいコーヒを飲みながら中国での日本アニメのことや、中国人の気質などいろいろと話してくれる。

黄さんは私に言う。先生、「三人行必有我師焉」という言葉をご存知ですか。 

3人で一緒に歩けばその中に必ず私の先生がいる”という意味かな。

あなたは日本語の先生、私達はあなたに中国語や長沙のことを教える。

これは一緒に歩くと言うことですね。お互いに敬い励まし会うところから友好交流は始まる。

コーヒの甘い香りを嗅ぎながらいい言葉をきいた。


2009/03/02

日本語能力試験の発表

朝から教務室のパソコンに生徒が群がっている。

今日は12月に行った日本語能力試験の発表だ。

中国ではインターネットで受験を申し込み、結果もネット上で個々に発表される。

みんな自分の受験番号をインプットして結果を見ている。合格が出るたびに大きな歓声があがる。

もとより日本語学校で一生懸命に勉強している目標は日本語能力試験の一級合格を取ることだ。

1年から1年半の勉強後1,2級に挑戦する。2級は沢山の合格者が出たが1級は難関である。

それでも8名ほどの合格者が出たようだ。2007年のデータでは1級の合格率は26%、受験者は中国全体で1級が約7万人、2級が11万人と発表されている。

日本に対する関心。期待の深さにあらためて驚く。海外受験者は国内受験者に比べ特に聴解(ヒアリング)がやや弱い。

この学校で自分の担当は会話である。活きた会話を少しでも多く行い彼らの助けになるような授業ができるよう頑張りたい。


2009/03/4

日語学校 青春群像1

704教室(1.5年組)の魏君が帰ってきた。

突然、お父さんを交通事故で失くした傷心癒えぬ身で痩身痛々しいが根っ子の太い偉丈夫だ。

見事日本語能力試験1級を合格し、みんなの憧れの的でもある。

そんな彼が開口一番「はるばる日本からいらっしゃった先生に挨拶が遅れてすみません、私にできることをさせてください」と言う。中国の人々の裾野は広い。懐の深さと誠実を彼にみた。

周さんと陳さんは704教室(半年組)の仲良し女性2人組み。周さんは班長、陳さんは大らかなスポーツ女性。昼と夜の食事は校門前の小さな食道で取ることに決めた。

そこで食費を切り詰めるため店の主人と交渉した。昼夜2食で1ヶ月300元(4500円)で契約成立。

もとより1人分ではなく2人分のの値段だ。交渉のしたたかさは伝統か。2人とも6時に起きて授業前の勉強をする。余裕は本代に当てているようだ。


2009/03/5

生の日本語と話ができた

金曜日の午後は自習時間になっており生徒も少し余裕がある。夕方から804教室(半年組)の生徒7人が宿舎に訪ねてきた。

スーパへ買い物に出かけ台所で夕食の準備をする。

生徒の宿舎は台所がなく料理ができないので、ここが腕のふるいどころと懇親の場と化す。 私にとっては一石二鳥で嬉しい。

夕食のあと日本の我が家にSKYPEで妻と交信する。みんなパソコンの前で緊張する。はたして自分の言葉が生の日本人?に伝わるでろうかと不安だったが、しかしなんとか話ができた。緊張が笑顔にかわり喉元で引っかかっていた言葉が次々と流れる。

言葉とはなんであろうか。友好の夜は更けていく。


2009/03/6

隣の人は何する人ぞ

宿舎は学校の敷地の隅にある。

壁を挟んで小さな家が立て込んでいる。朝早くから大きな声が聞こえる。掃除をしながら何やらぶつぶつ独り言をつぶやいているようだ。

「うるさい人だなあ」と閉口していたが毎日同じような話だ。

いやこれはひょっとすると「巷に隠れた導師様のお教えかもしれないぞ」そう思ってみるとそのようにも聞こえる。

目覚まし時計のような早朝の呪文の謎は深まる。

昨日の深夜は隣りから大声で派手な夫婦喧嘩がきこえた。女房殿の金切り声が夜の四十万に響きわたる、8割は女房の声だ、会話は全くわからないが、推し量るに

「この飲んだくれの甲斐性なし、わたしゃ毎日あくせく働いているのに、あたしの着物ひとつ買えないじゃないか、どうしてくれるんだい」

「なにおーこの馬鹿野郎おれも・・・」

亭主はわずかに反論?隣近所はああまた始まったか!と子守唄代りに聞いているのだろう。

「うるさい!」なんて野暮な怒鳴り声など聞こえてこない。山本周五郎の世界のようだ。早く中国語を覚えてこの謎を解かなければ!


2009/03/7

岳麓山と古麓山寺に詣でる

ついに長沙の「おてんとうさま」の顔を拝むことができた。

司馬遼太郎の「蜀の国紀行」に太陽が出ると怪訝に犬が吠えると書いてあったのを思い出した。隣の楚の国(湖南省)では小躍りした私が太陽に吠えている。

今日は初めての遠出だ。802教室の女性生徒が案内してくれる。久しぶりの天候とあって山道は大賑わい。

汗かきかき小一時間で頂上に到着。頂上付近は山小屋風レストランが点在する。

眼下には長沙市の郊外や湘江の流れが望まれ美しい。レストランのベランダではカードに熱中するグループやおしゃべりを楽しむ人たちで溢れている。温かい日差しがみんなをウキウキさせている。

「ああ!これが中国の風だー」と妙に感慨が湧く。

頂上から少し下った所に古麓山寺があった。1700年前に建立された仏教発祥地とある。杜甫もここを訪れていた。寺院内は静けさが漂う。

入口の弥勒殿には金色の阿弥陀如来や千手観音、正面の大雄宝殿にはお釈迦様が泰然と坐しておられる。

ここで多くの若い修行僧に会った。読経の前で教徒の人々がひざまずいて礼拝をしている。

近来の苦難の歴史を経て敬虔な静けさに包まれた寺は、今も長沙の人々の心の奥に生きているに違いない。


2009/03/8

湖南地方劇 花鼓戯 (フア・グー・シー)の名優

今日も天気がいいので近くの湘江の畔をみんなで散歩した。

1時間ほど河岸を下ると湘江1橋の南側に公園があった。賑やかな声が聞こえる。公園の入り口では老人のグループが二胡を奏で歌を歌い、踊りに興じている。

数組がそれぞれ自慢ののどを張り上げて、手つきもよろしく声色よろしく、舞台の衣裳こそないが登場人物に成りきっている様子はおみごとの一言。

少し進むと階段や石畳に大きな筆で水文字を書いている人がいる。達筆の字が次々と路上を描くように続いていく。水文字は蒸発して消えてしまうがそれを楽しんでいるようだ。

やがて、向こうに大きな人垣が見える。急いで輪に入る。そこは京劇のような華やかな衣装をまとった俳優さんたちが演ずる湖南地方の野外劇「花鼓戯」の世界であった。

頭 の先から抜けるような高い声色で役者は世話物の劇を演じている。舞台の袖では二胡などの楽器の演奏が劇を盛り上げている。

舞台の飾りや背景幕など何もない、役者のしゃべりと歌と顔色・手振りがすべてである。

化厚粧に色目、流し目、哀願、怒りの表情で演ずるしぐさは見る者を飽きさせない。観客はうっとりして見とれ聞き惚れ、懐からおひねりのお札を役者に付け渡す。

友に聞くと、どうやら今日の劇は「若夫婦と双方の姑の小競り合いを仕立てた演目のようだ」いつの世にもある世間話だが誰にも興味のある話だ。迫力に圧倒された多彩な経験の午後であった。


2009/03/10

竹田の子守唄は中国で

朝はジェット機の発進音のような大音響が7時過ぎの朝空に響きわたる。

隣の長沙大学男子寮が発する目覚まし時計替わりのビートの効いた音楽だ。

彼らはこれでもか!という音響に抵抗しながらしぶしぶベットから起き上がるに違いない。

私はもう朝食をすませて朝の静けさを楽しんでいたのに・・・

でも今日はなんだか聞き覚えのあるメロディーが聞こえる。テンポもややスロー調だ。

あっ!私の好きな竹田の子守唄だ。

http://www.youtube.com/watch?v=vwjonOlpdmo

この歌は中国の人たちにも愛されていたのか。

そう知ると、この名曲よ長沙中の大空に大声で響き渡れと思ってしまう。

授業の始めにこの音楽について生徒に聞いてみた。

ほとんどの生徒はこれは中国の歌だと思っているらしい。先生これは悲しい子守唄ではなく、「希望の祈り」の歌ですよと言う。

よく聞いてみると文化大革命が終結した1980年代に新生中国に託して作曲された「祈祷」という歌だそうだ。

苦しい時代からやっと明るい日差しが見えはじめた頃、大衆の希望の祈りがこの「祈りの歌」を中国中に根づかせたそうだ。

もとより生徒達の生まれる前の歌だが、みんなこの歌が好きなようだ。竹田の子守唄の悲しくつらい歌詞もみんなに話した。
 
そしてこの歌を日中2つの歌詞で合唱し過ぎ去った昔を互いに思い浮かべたのだった。

(中国版)「祈祷」 生徒の抄訳から ここに希望の鐘を鳴らす祈りがある。

 失敗は失せ 永遠の成功がここにある。

 地球は動きを忘れ、夏、秋、冬の季節もなくなる。

 宇宙は天の窓を閉ざさず、太陽は西の空に沈まな い。

「祈祷」は下をクリックしてください。

http://www.youtube.com/watch?v=_8cLMPt4HtM&feature=related


2009/03/12

MP-4は駆け巡る

日本の文化を紹介するためにCDやDVDそして文化・観光の本などを持って来たが・・・

しかし日本の文化はインターネットで遥かに速く世界を駆け巡り、すでに長沙の街角にも届いていた。

でもこの学校でパソコンを持っている生徒は少ない。しかしMP-4プレーヤーを殆どの若者が持っていた。

何といってもMP-4(MP-3)はインターネットから様々な情報をそっくり取り込んで引き出しにしまっておける万能タンスだ。

いつでも引き出しを開ければ音楽、映画、アニメ、写真、録音、電子読書、ゲーム、ラジオ放送などが飛び出してくる魔法の箱だ。

値段も200~400元(3000円から6000円)ぐらいで手が届く。いまではこれなしの彼等の生活は考えられない。

インターネットバーで希望のソフトをダウンロードしてMP-4に収める。インターネットバーは1時間2元(30円)で24時間営業、午前中は割引きで1元(15円)と格安。

彼等はとりわけ日本のアニメ、映画、歌が大好きなのでせっせとここに通う。授業の合間に最近の日本の青春ドラマやアニメの話がポンポンんと出てくる。

最新の歌も聞いて知っている。先生「東京の少女」のドラマを見ましたか?アニメ「吸血鬼バンパイヤ」はどうなるの?全くわからない私の顔には冷や汗が滲み出る。

どうやら別次元の世界に来てしまったようだ。先輩の篤姫様に聞いてみたい。


2009/03/13

さくら、さくら

日来、寒さが戻ってきた。

長沙で新調した防寒コートもお役目御苦労さまと思ったが、また出番がきた。

でも10日ばかり前とは違って寒さも緩んできた。例年ならば植物園の桜もそろそろ蕾が膨らんでくる頃と聞く。804教室では日本の桜の花の話題がでた。

そこで「さくら、さくら」の歌も覚えてもらおうと歌詞を黒板に書いて一人歌ってみた。

すると何の奇跡か教室が割れんばかりの拍手が沸き起こった。生まれてこの方、初めての経験に赤面しながらこの旋律の美しさにあらためて感動した。

歌いやすい旋律のため生徒もすぐ覚えた。春うららかな川の両岸に咲き誇るさくらの花、花びらが川面をおおいつくして流れていく様子を話すと皆からため息がもれた。

そしてCDの琴の音を伴奏に「さくら、さくら 弥生の空に・・」と感情をこめて歌ってくれた。

異国で聞く「さくら」の調べのなんと美しいことか!

クリックしてください。


2009/03/14

開福寺は大賑わい

学校の北1kmばかりのところに開福寺があった。

生徒の魏さん、劉さんと3人で出かけた。週末とあって大そうな賑わいである。

寺の前には門前町のざわめきと自動車の喧噪がある。

派手で大形の線香を山積みにした縁台の横では占い師に運勢を見て貰っている人、這いつくばって物乞いしている浮浪者など様々な人間模様がある。

目を覆いたくなるような風景もあるが人々は無関心で通り過ぎる。

このお寺は観音菩薩が御本尊様の尼寺であるせいか、女性の参拝客が目立つ。特に若いお母さんが多いのに驚く。

本殿の中では人々が膝を折ってうずくまって熱心に拝んでいる。家族の無事安泰を祈っているのであろう。

「中国の人は家族をとても大切に思う」としばしばの場面で感じてきた。地蔵菩薩が千羽鶴のような着物をまとっておられたのが印象的である。

どの仏様も慈愛に満ちた笑みを湛えておられる。女性の参拝者の多いゆえんであろう。老若の尼さんたちは活動的である。

仏象や御経・掛け軸などの販売にも忙しい。ご飯を食べながらのお客接待も見かけた。

人前で食べることも恥ずかしいことではない、生きる基本であると逞しい。

中庭の池の中にある築地には仏像や花の塑像が飾られており、みんなが仏様のふところを目指してコインを投げ幸運を占っている。

劉さんの投げたコインは見事仏様の懐中に納まった。

彼女がこれから目指す「日本語能力試験1級合格」はこれで観音様にも保証されたようだ。


2009/03/15

植物園の桜

長沙はどこも人でいっぱいだ。

どこか静かな穴場はないかと尋ねたところ植物園を推薦された。

ここは学校からバスで1時間ほどかかる。

802教室の男女生徒と8人ほどで出掛けた。早起きが苦手な彼等も今日は8時前に訪ねてくれ、はりきっている。

早朝のバスはさすがにすいている。1元(15円)で乗り放題のバスは超安価で快適だ。

植物園の前は下町の風情があり果物市場のトラックが行き交う。朝の公園は予想のとおり静かである。

まだ花の季節前なので草花は咲いていないが、樹木林のこぶしの花がきれいだ。公園の丘を下ると大きな池があった。

池の周りには沢山の桜の木があり「日本の桜」と表示してある。こちらの人もとても開花を楽しみにしていると聞く。

今日はほんのちょっぴり蕾がみられたが開花は10日ぐらい先であろう。池の前では結婚式をあげた数組のカップルが写真を撮ってもらっている。

ここの公園が大好きなカップルであろう。池のまわりで凧をあげている親子連れの長閑な景色。手を組んだ恋人たちを見て生徒たちは羨ましいそうだ。

みんな素直な気持ちのいい若者ばかりだ。伴侶はすぐ前にいるかも・・と話すと顔を赤らめた。

温室で花を5鉢ほど求めて帰りみんなで宿舎の屋上に飾った。

夜はみんなで餃子をつくり定例の宴会。李君は湖南省の古い民謡を歌う。陽気でちょっぴり照れ屋の彼も歌いだすと堂々たる風格が現れる。

徐さんと莫君が掛け合い歌を歌い出した。貧しいが心豊かな夫婦愛を歌ったものだそうだ。

速いリズムの現代の歌が好きな若者が昔から伝わる古謡も同じように楽しんでいる姿を見て感心した。


2009/03/17

嶽麓書院の朱子

今日は担当授業が午前中で済んだので午後から岳麓山の麓にある嶽麓書院を見学した。

先日岳麓山を訪れた際に宋学の朱子がここの書院で講義をしたと知ったので、いつか訪ねてみたかった。

以前、日本の江戸時代に武士学問として盛隆した朱子学について興味を抱き少しばかり勉強をしていたのを思い出し、本場中国で懐かしい人にお会いしたような気分になっていた。

嶽麓書院に入るとすぐにシックな長い回廊が続き、その周辺には講堂や講義室が点在する。

ここは昔の大学であり今の湖南大学の前身のようだ。今日は人影も少ないためこの静けさの中から昔の修士が出てきそうな錯覚にかられる。

お目当ての朱子や伊川の像、書が沢山展示され、さすがに歳月を経た風格を備えている。

書院は予想以上に広くゆったりした構えの建物であった。韓国の観光客の姿も見えた。

そうだ韓国はいまでも儒学が生きている。書院の出口付近には朱子と毛沢東の詩書が肩を並べている。

近代中国の荒れ狂う時代に儒学は強い圧力を受けたように聞こえたが今は元にもどり静寂の中に佇んでいる。

中国の歴史は深く時の波紋はいつしか消えいくようだ。


2009/03/19

黄先生の料理

黄先生は学校の管理責任者。ウイークディは校内の宿舎で寝泊まりしている。

週末には長沙の自宅に帰られる。先生は日本語学校の教師の中にあって教師の先生や生徒たちに一目も二目もおかれる存在感がある。

日本語学校で唯一中国語しか話さない。とはいえ、しかめっつらしい男性ではない。痩身しなやかな中国女性である。

今日は私のために中国料理を作ってあげるとおっしゃる。もちろん中国語の不得手な私に直接ではない、毛先生の通訳を通してだ。

かねて先生の料理の腕は学校中に鳴り響いていた。野菜や魚などは昨日買い出しを済まし、わが宿舎の冷蔵庫で出番を待っている。

本日、先生は生徒2人をアシスタントにして得意の湖南料理をてきぱきと作り始めた。

私と毛先生は授業があるので授業後に参加した。しかしその時分には殆どの料理は完成され私の役目といえばテーブル運びだけである。

(密かにその極意を悟られまいとの魂胆があったかも知れぬ)テーブルには大きな川魚の炒め煮?や野菜・豆類の炒め物、スープなどが盛りだくさん並べられた。

先生の目は料理に箸をつける私に注がれた。

無作法をしてはなるまい、緊張しつつ魚の身を口に含むと何と!身はふっくらして柔らかいが外身は適度にしまって唐辛子の辛さもスパイスに和らげられ、旨味が舌にとろける。

何とも云えぬ味に溜息が洩れる。絶品だ!私のつぶやきに先生の眼はかぎりなく細まり笑顔があふれた。

そして先生は次の機会には「極意の一端を伝授あげよう」とおっしゃった。


2009/03/20

ごはんたべた?

704教室で雑談をしていると、不意に陳さんが言った。

「先生、日本人は話を始めるとき何というんですか」それで私は訊いた。(どうしてだい)

「実はわたし前から日本人の男の人とメール友達になっていたんですよ」(そう・・・)

「彼は中国語がとても上手なんだけど、わたしが日本語の勉強をしているので日本語で文通していたよ。それでこの間、初めてSKYPEで話をしたよ」(・よかったね・・)

「そこで、わたし初めのあいさつですこし緊張して『ごはんたべた?』と言ったの、そしたらしばらく静かになって『たべたよ』て不思議そうな声が聞こえてきたよ。

どうして?」(ええ?)私もしばし笑いをこらえながら思い出した。

「中国の人は友人に会った時、朝の挨拶代りに“ごはんたべた?”ともいいます」

とある本に書いてあった。彼氏はそれを知らずに素直に「食べました」と答えたのだろう。

私は答えた。(日本人は最初に天気のことをいうよ。こんにちは今日はいい天気ですね、とか)

彼女は納得いかない顔で「どうしてかなー」とつぶやいた。

そこで私も考えた。独りよがりの思いつきだが・・

「日本人の話は遠いところから順々に近づいてくるけど、中国人の話は現実的だから自分たちの日常行為を核にして徐々に外へ波紋のように広がっていくんじゃないか」

などと考えてしまうがどうだろうか。

それぞれの文化が挨拶のなかにも潜んでるようだ。

その後で会話がスムーズに運んだかは定かでないが、おおらかな彼女のことだ楽しい話題がで話が盛り上がっただろう。


2009/03/22

毛沢東の故郷 韶山を訪ねる

こちらに来て1ヶ月が過ぎた。

今日は長沙の南にある韶山をYさんと二人で訪ねた。一度汽車に乗って中国の田舎を見たかった。

韶山への汽車は1日1便しかない。早起きして6時半発の汽車(ディーゼル)に乗る。車両は十分年期がはいっている。朝早いせいか乗客はまばらである。

30分も行くと菜の花が咲く懐かしい田舎の風景が現れた。泥や石づくりの農家が点在する。小一時間ばかりで湘潭駅に着く。

ここから賑やかくなった。大声で何か宣伝している若者がいる。なんと「偽札発見器」を売っているのだ。

本物と偽物の100元紙幣をかざして効能を講釈している。隣の座席では学生たちが大声で歌い始めた。

楽しそうな雰囲気なので仲間に入れてもらう。日本語を少しだけ習ったといい、簡単な挨拶をしてくれる。

そして中国語で「さくら、さくら」を歌いだした。私も日本語で歌い喝采をあびた。みんなで1週間前に作ったという歌も披露してくれた。明るく爽やかな若者たちだ。

韶山駅に着くと巡回バスに乗り毛沢東生家に向かった。ここは全国から訪れる人々で大賑わいである。

毛沢東の家は地主のようだったが質素な生活が偲ばれた。ここから少し先に毛沢東記念広場がある。

広場には毛沢東の大きな立像が建てられ、献花が後を絶たない。

毛沢東を敬愛する多くの人々がここにいた。若い人の姿が多い。

毛沢東記念館では誕生から死までの歴史が8室ほどの部屋に順次展示されている。

一介の少年が国の象徴になるまでの遍歴は圧巻だ。

館職員のガイドさんがきれいな言葉で時には当時の歌も交えながら説明している。

彼を囲んで多くの若者が熱心に聞き入っている。Yさんもその一人だ。

彼に毛沢東が何故これまでに敬愛されているのかと聞くと「苦しい農民のために力を尽くした功績が今でも感謝され尊敬されているのです」と答えた。

帰りは車道を避けて田圃道をあるいた。

菜の花の絨毯が田畑一面に敷かれ、道端の小川にはあひるの群れが遊び、レンゲの畑は放し飼いの鶏が歩きまわっている。

そこには長閑な中国の田舎の風景があった。


2009/03/23

討論は果てしなく続く

704教室の生徒は7月に実施される日本語能力試験の申込を無事すませ一安心。

そこで今日は会話の実践訓練としてディベート形式の討論会をした。

テーマは「都会と田舎はどっちが住みやすい」。生徒の多くは田舎育ちだが二組に分かれてそれぞれ自組の長所と相手の短所を相談し始めた。

司会は日本語の上手な頼さんの担当に決まった。ルールは「日本語で話し合うこと、日本語で書くこと、日本語で討論すること、中国語の会話は減点対象とする」。

各々沢山の長所・短所が黒板に書き出され内容を代表者が説明し、そしていよいよ論戦が始まった。

まず熱血女史の劉さんが火ぶたを開けた。

「田舎は汚くて言葉が乱暴だと書いてありますが私はそう思いません。都会は隅に行くと汚い所が多いし、乱暴な人や、怖い人を沢山見かけますよ」

都会組の楊さんが対応

『でも、全体的にそうでしょう、田舎は教育程度も低いし』

「そんなことはありません、田舎もきちんと教育をしているし、人が素朴でいい人が多いです。考えを直してください」

『でも・・』「それでは証拠を見せてくださ」・・・

都会組の反論

「田舎は無農薬の野菜を食べているので安全となっていますが、私は言いたいことがあります。農薬をかけた野菜を作ったのは田舎の人でしょう、それは田舎の悪いところですよ」

・・・討論が始まったばかりなのに議論が白熱する。司会の頼さんも私も一言と言い出す」・・・(おいおい司会は中立だよ)としばしなだめる。

いつもおとなしい生徒もこの時ばかりはと主張する。

日頃の授業では喉の辺りに止まっていた日本語も関を切って流れ出す。どうしてだろうか?白熱討論は更に深部に分け入り明日の朝までも続く様子だ。

就業のベルが高らかに鳴った時、彼等はやっと現実世界に戻ったのでした。中国の人の議論好きが証明された1コマ。


2009/03/26

衡陽の花婿

日本語教室の生徒は適齢期の女性が圧倒的に多い。結婚の話題がでるとテキメンに盛り上がる。

804教室の今日の会話練習のフレーズは「友達が結婚するとき何を贈りますか?」

中国の結婚式は比較的質素なようだ。結婚祝いのご祝儀は「お金」が多い。生徒達の話では200元(3000円)~300元が相場のよう。

日本のご祝儀相場を話すと溜息がでた。今も田舎では昔ながらのみんなで祝う習慣が残っているという。

王さんが「先生、衡陽では面白い結婚式の習慣があるんです」と話してくれた。

衡陽は湖南省南部に位置し古い仏教寺院で有名な衡山の麓にある。永平寺の開祖道元もここで修行・受戒した。

衡陽の冬は寒く雪も降る。

結婚式は村中のみんなが祝福する。新郎は新婦を連れて雪のなかを裸足で村の家を訪れ祝儀を貰う。

各家は1角(1.5円)しか祝儀を出さないのが習慣。花婿は99件の家を裸足で駆け巡り99角を貰い成就する。

みんなのお祝いの気持ち「張張久久(ツアン・ツアン・ジュウ・ジュウ):いつまでも幸せに」の久久と99(ジュウ・ジュウ)は同音であり、まことに縁起のいい数字なのだ。

「雪の中を辛抱して掴んだ幸せを生涯忘れないように」と言う村人の温かいお祝いのメッセージなのだ。中国の人々の素朴なユーモアと温もりを感じた


2009/03/31

真面目な泥棒

学校近くの郵便局で人を待っていた。

そこへ一人のおばさんが興奮して入ってきた。

「大変だ、大変だ、泥棒に携帯電話を盗まれた!」、局員は少しも騒がず「もう一度バッグを見てみたら」興奮鎮めてよくよくみればバッグの底にそれは健在。

そしておばさんは「ここにあったか!」と恥ずかし気な気色もなく堂々と帰っていく。

実に逞しい。この辺りは名うての不安全地帯で一名「泥棒通り」と言うらしい。

5mほどの幅の狭い通りの両側には食堂、八百屋、肉屋、豆腐屋、色々な食材店や露店が立ち並ぶ。

その中で多くの人や車・バイクが行き交う。門前街の縁日のようだ。

「泥棒はどんなふうの人ですか」と尋ねると一緒にいた魏君は「泥棒はみんなが油断するようにサラリーマンのような立派な格好をしていますよ。

[先生気をつけてくださいね」と何度も念を押す。先日も生徒が携帯電話を盗まれたと悔やんでいたのを思い出した。

「そうか“紳士を見たら泥棒と思え”ということだね」と私はつぶやいた。

「去年こんな面白いことがありましたよ」と彼はこんな話をしてくれた。

先輩の彭さんが彼女と話していた時、横に置いておい た彼女のバッグが盗まれた。

バッグには現金、携帯電話、身分証明書、IDカード、など大切なものが入っている。

青ざめる彼女を慰めながら彭さんはもしやと思って彼女の携帯番号に電話をかけてみた。

すると、受話器の向こうに人が出て言った。

「初めて盗みをやってしまいました。ほんの出来心です」

それで彭さんは続けた。

「身分証明書などの大切なものを返してくれれば500元やるがどうだ・・・」

沈黙後に電話は切れた。数日後、彭さんのところに小包が届いた。そこには現金と携帯電話以外の身分証明書やIDカードなどが入っていた。もちろん彭さんは500元送っていない。


2009/04/4

清明節の暖かい食卓

長沙市の東の郊外に黄興鎮という村がある。

804教室の生徒、方さん(女性)の実家がここにある。今日は清明節である。日本のお彼岸とよく似て先祖を祀る日のようだ。

今日から月曜まで連休になり生徒も半数は実家へ帰り供養する。

彼女の友達と共に8人で早朝のバスに乗り東のバスターミナルに着く。

ここから定員20名ほどの小型の田舎行きバスに乗り換える。帰省客も多くバスは満員。

小雨ふる狭い田舎道を田畑の景色を配してバスは進む。40分ほどで終点の黄興鎮に到着した。

バス停の広場には立派な石像が立っている。黄興という名前に聞き覚えがあった。

石像は果たして20世紀の初期に孫文に協力し中華民国成立の立役者となった歴史の人であった。

日本にも留学し反清運動の指導者となり仲間から中国の西郷隆盛と慕われたと言う。(鹿児島市日中友好協会のHPにも詳述されていた)

このバス停から40分ほどの所に黄興の生家があるそうだ。この地の名前の由来であろう。

方さんの実家はバス停から5分ほど歩いた所にあった。「私の家は農民です」と方さんは胸をはって言う。

家は土づくりの頑丈な構えだが中は質素・清潔であった。新しいTVが簡素な室内を占領している。

みんなでひまわりの種や落花生を食べながら彼女の少女時代の写真を眺めて話に花が咲く。台所の丸テーブルを囲んで昼食を御馳走になった。

近所に住む彼女のおじいさんはテーブルの中央に座り私にこちらの地酒を進める。優しい微笑みで迎えてくれた顔の皺には80年の歴史が刻まれている。

日本人と話すのは初めてだと言ってフランスに留学した孫娘のことなどを話し笑みがこぼれる。

方さんのお母さんは働き者で料理上手だ。ご主人とは見合結婚し遠方から嫁いで来たという。

今の若い人は自由恋愛ですよと付け加えた。

たたき造りの床の部屋は昔の日本の農家のように幾分薄暗く寒そうであったが、快くみんなを迎えて下さったご家族の心づかいがとても暖かかった。


2009/04/5

湖南省博物館を訪ねる

生徒の陳さん、姚さんと長沙市の中央部にある湖南省博物館を訪ねた。

開館は9時というのに8時半にはもう長蛇の列が続いている。昨年から無料になったそうだ。大学生など若い人が圧倒的に多い。入口では身分証明書の提示が必要で外国人はパスポートの提示が要求された。

この博物館の目玉は何といっても世界的に有名な「馬王堆」の遺物展示だ。小一時間待ってようやく入館ができた。

「馬王堆」は全漢時代というから2100年も前の稜墓であり、この遺跡から収集された装飾品など文物を見ると信じがたいほどに多様で高度な造作のものも多い。古代中国のこの時代に日本民族の生活様式はどうだったのか等と想像しつつ広い館内を見てまわる。

館の中央部には長沙国宰相の婦人辛追の遺体(ミイラ)が展示されている。3階ぶち抜きのガラス張りの部屋は夫人が収められた巨大な彩棺の現物が設置され上からその内部構造もよく見える。

その横には夫人のミイラが納められ顔かたちの生々しい様相を真上から覗き込むと、何とも不思議な気分になってくる。展示物の中には楽器を演奏している音楽隊の塑像もあり華やかな音楽が古代から聞こえてくるようだ。

多くの陳列物を見て歩くともうお昼を過ぎていた。圧倒された古代遊泳の3時間であった。


2009/04/6

朝のジョギング、日本人教師と会う

朝6時過ぎに楊さん魏さんと湘江の畔にジョギングに出かける。公園の周りは好天のせいか早朝からジョギングや体操、太極拳の人達で賑やかだ。

下流の橋に向かって少しずつ体を馴らしながら走るうちに途中で満開の八重咲き桜を見つけた。日本ではあまり見かけない桜だ。湘江の流れを楽しみながら20分ほどで橋のたもとに着く。

帰りには太極拳風の体操している年配グループに入れてもらい体を休めた。ゆったりとした音楽の運動だ。久しぶりの汗に体中のストレスが発散し爽快な気分が戻ってきた。

昼前に、転校した葉さんが転校先の日本人の先生を連れて訪ねてきた。大阪外語大の学生で葛西さんという青年だ。1年の予定で休学して来られたそうだ。

長沙には日本語学校が数か所あるようだが彼の学校は長沙の南にあり日本人先生も数人おられるという。滞在僅かながら日本人との会話が妙に懐かしい。

みんなで食事をしながら歓談する。先生は久しぶりの味噌汁とワラビの卵とじを美味しそうに食べておられた。


2009/04/7

湘江の船上結婚式

朝の授業を終えて湘江に向かう。今日も好天気で暑いぐらいの陽射しだ。湖畔公園の周りにはウイークディにもかかわらず散策やのんびりとくつろぐ人が大勢いた。

二胡を奏でる夫人、柳の下で語り合う恋人、孫の世話をする老夫婦、互いに干渉しない様々人がここで楽しんでいる。突然、河の方から音楽が鳴り響いた。湘江に停泊する大きな遊覧船で結婚式が始まる合図のようだ。

船上では現代風のウエディングソングが歌われる。広場の端からウエディングドレス姿の花嫁花婿が現れた。たぶん裕福層の結婚式であろう。

乗船口の桟橋では爆竹の爆音が轟き二人の前途を祝福する。自家用車で乗り付けたお金持ち風の出席者があとにつづく。ここはシンガポールか香港かと錯覚をする風景だ。公園でくつろぐ人々は流れる雲でも見るように悠然としている。

湖畔の欄干には杜甫と屈原の詩画が幾十と掲げられている。「国破れて山河あり・・・」その昔、学校で習った杜甫の唐詩を見つけた。そうかここは屈原と杜甫の晩年の地であったのだ。時は流れる。


2009/04/9

円卓授業

7月の日本語能力試験に備えて受験の特別授業が始まった。このため708クラスの会話受講者が随分減ったので、授業のやり方を少し変えてみることにした。

従来の前後配列を円卓方式に変え全員が対面できるようにした。少数人数であれば会話授業には適当だと思う。ここの生徒はこれから日本と関連ある仕事に就くことを目標としている。

それには読み書きの基礎知識とともに会話のコミュニケーション能力の熟達が必須であることは明白だ。このクラスはもう2か月余りで卒業する。

それまでに実用的な会話力を少しでも効果的に磨くにはどうしたらいいだろうかと考える。円卓方式で積極的な対面会話を始めることから試してみよう。他のクラスでも日本語を話す時間を聞いてみた。

クラスメート同志での会話はなかなかはかどらない。日本語会話をするのはほんの僅かな時間であるようだ。宿舎によく訪問してくれる生徒と日本食を作りながらこのことについて語り合った。


2009/04/11

布格繆勒(ブルグミュラー)とコロッケ

少しばかり余裕がでてきたので、久しぶりに超特価で買ったキーボードを弾いてみたらピアノの教則本が懐かしくなってきた。中国では果たして販売しているだろうかと、繁華街の本屋さん「定王台」に行く。

音楽関係の棚を覗くと教則本らしき本が並んでいるがどれも漢字表記である。ページをぺらぺらとめくるうちにどうやら目当ての「ブルグミュラー」が見つかった。

鋼琴(ピアノ)教材「布格繆勒 鋼琴進階25」とある。定価9元(140円)。漢字表記のバイエルやツェルニーも見つかった。中国歌集「歳月如歌」と合わせて2冊を買い求める。

地下の本屋街は50ほどの小さな書店が軒を連ねどんな本でも揃っているには驚いた。今日は雨降りであるが流石に繁華街は多くの人で賑わっている。市内一番のスーパーに行ってみると何でも揃っており日本のマヨネーズや寿司もあった。

今晩の夕食はみんなのリクエストに応えて日本食にした。好評の野菜のかき揚げてんぷらとコロッケそしてスープは味噌汁、みんなでワイワイ言いながら作る。

幸い近所のスーパーで小エビもあった。特に卵をつなぎにパン粉でくるんだコロッケは興味を引いたようであり味もOK。テンつゆで食べるてんぷらも珍しく食べ物談義に花が咲く。

湖南料理はとりわけ辛いので日本料理の薄味は物足りなさを感じるかなと思ったが、「先生の料理は長沙の日本料理店より美味しいよ」とうれしいことを言ってくれる。


2009/04/14

烈士公園の乙女たち

日本から花の種を送ってもらい2週間ほど前に屋上に植木鉢を置いて種を播いた。その百日草の双葉の芽が大分大きくなってきたので、周りを清掃し小さな花壇に植えかえた。

長沙では殆ど花の苗店を見かけない。家庭で花を育てる習慣がないのかも知れない。最近は生徒達もこの花の成長を楽しみにしている。日本からやって来た花を見ながらここでパーティーを開きましょうと提案もしてくれる。

さて、今日は午後から授業がないので黄先生の引率で804教室の生徒と烈士公園へ行った。3月上旬に初めて訪れた時はまだ肌寒かったが今日は陽射しも強く汗ばむほどの陽気だ。

平日のせいか混雑もなく先生に引率された幼稚園児や小学生に方々で出会う。我々のグループはうら若き花の女性連で華やかだ。あちらこちらで先生一緒に撮りましょうと声をかけられ照れてしまう。

ほとんどが20歳前後の女の子なので何をみても陽気で笑い声が絶えない。しかし花も恥じらう筈の乙女たちが平気で立ち食いをしながらはしゃいでいる姿を見ると文化の違いを感じてしまうが。公園中央部にある烈士会館の前で記念写真を撮る。

さすがにここではみんな神妙な顔つきだ。抗日戦争の展示もあり熱心に見ている。戦禍の爪痕がここに刻まれており複雑な気分になる。これまで訪れた公園に共通して感じたことがある。

こちらの公園では石や土の造形が目立ち自然を人工が上塗りしている感がする。自然美を大切にする日本の公園といささか視点が異なるのだ。

繊細さの少ない大ざっぱな感じがするのは四季の微妙な変化がない大陸の気候の影響や実用主義の気質の表れであろうか。


2009/04/17

衡山(こうざん)への旅(1)

午前の授業(0802クラス)を済まして同行4人の女子生徒(案内役の廖さん、張さん、李さん、徐さん)とバスで長沙駅に向かう。

駅の待合室は超満員。電光掲示板には、広州や北京行きの表示もある。我々は13時39分発の永州行きの汽車に乗り込む。

車内は満員だが彼女達は隣の人たちとすぐに打ち解けて話の花が咲く。

株洲の駅を過ぎると汽車は湘江に沿って進み車窓からの眺めが美しい。

大小の船が沢山浮かんでいる、田植えをすませた田圃が広がる中を2時間ほどで衡山に着く。

近くの市場で食材を買いタクシーで廖さんの友人の家に向かう。30分ほど走ると道路脇に青年が待っていてくれた。

廖さんの友人はてっきり女性と思っていたが青年であった。彼の名は曹云海、彼女の高校時代の親友だというが恋人ではないらしい。

物静かな好青年だ。家はコンクリート造りの堂々たる構えで庭が広く入口には昔ながらの手押しポンプがある。

庭のテーブルでひまわりの種などをかじりながら話が弾む。曹さんの両親はいま農閑期の出稼ぎに行っているらしい。

彼は上海でCADの勉強をして職についたが今は2か月ほどの休暇をとって帰省中のようだ。

彼の従兄が幼い娘をバイクに乗せてやってきた。彼も出稼ぎ中で久しぶりに娘に会ったという。

娘は留守宅でおばあさんと二人で暮らしているが、これからまたお父さんが帰ってしまうので淋しくて泣いている。

みんなで散歩に出かける。三方を山に囲まれて田圃、畑、池、小川、家が点在する静かな田舎の景色があった。家々は堂々として新しい。

経済開放後の農家の姿であろうか。池では魚を養殖しているようだ。ついでに海の話をしていたら彼女たちは4人とも海を見たことがないと言う。

彼女たちは四方海に囲まれた日本をどんなイメージで描いているのだろう。

夕食は台所にある大きな「かまど」で支度した。裏山で採ってきた柴で火を焚き料理をする。昔ながらの暮らしがここにあった。

食後はまたみんなで散歩にでかける。夕暮れが迫り景色がきれいだ。みんなで合唱した。

日本の童謡を歌ったら彼女達は中国の童謡を歌ってくれた。「夕焼けこやけ」の世界だ。ああ!なつかしい。素直でいい娘たちばかりだ。自分のこころも洗われる。

就寝時に2階の部屋に案内される。みんなは一番いい部屋を先生にと言う。躊躇していると彼女たちが決めってしまった。

一息つくと空に星がいっぱい輝いている。周りに明かりがないので夜空の星は宝石をちりばめたように美しい。北斗7星がくっきり見える。

中国名も同じだった。星のことを話し合う。10時頃に足を洗ってベッドにつく。

“見知らぬ客人を何の報酬もなく温かく迎えてもてなす”人々の度量の広さは何だろう。

これが中国の大地や風なのか。家の入口と階段に「幸福」の文字が書いてあった。


2009/04/18

衡山(こうざん)への旅(2)

6時にはもう昨日頼んでおいたタクシーが迎えにきた。
週末の早朝であるにも関わらず道路には畑仕事に向かう人、学校の生徒、ジョギングをする人などと行き交う。

豚が道路を歩いているのには驚いた。途中の石湾の街のコンビニで水と食料などを買う。約1時間で衡山の入口に着く。

もう観光客がぞろぞろと群れをつくって歩いている。衡山への道を少し登ると料金場に着いた。

入場料80元のチケットを買ってゲートを通る。ここからはバスで行く人と歩いて登る人にわかれる。ツアー組はバスが多いようだ。

(バス料金は70元と高い)我々はもちろん歩行組。車の往来に少々うんざりしながらも歩道に入ると急に静かになった。

歩道や階段は石畳になっているところが多い。自然の中に人工的な建造物が目立つのは何だか妙に感じるが中国の人の好みなのだろうか。

渓谷や池を越えて石の橋を渡ると禅寺についた。日本の寺とは趣が違って、孔子様風の金箔の仏像が正面に座いる。

達磨様のような大きな腹をしているのは禅僧の特徴であろう。谷のあちこちから読経の声が聞こえる。山の所々に据え付けられたスピーカーからの声のようだ。

中国の仏教は実用好きの中国の人達にはどんな形で残っているのだろうか。でも寺院の中では多くの人が跪いて厳かに礼拝をしている。

家族の無事長久安泰を祈っているのであろう。渓谷沿いの道をさらに辿っていくとほどなく忠烈祠に出た。

ここは日中戦争で亡くなった戦士の墓と記念堂である。堂には中国に侵攻した日本の軍隊と中国の国民軍と共産軍が共同で戦った歴史的な写真が展示されている。

蒋介石や共産軍の幹部の写真の中に若き日の周恩来の軍服姿が見られた。賢明で穏やかな面ざしは三国志の諸葛孔明のイメージと重なる。

ロープウエイ乗り場付近から雨がぽつりぽつりと降ってきた。我々は登山道の方へ進むが車の往来でざわざわして煩わしく、とても山の中腹の雰囲気ではない。

雨が大粒になってきた。途中の寺の前でビニールの簡易カッパを売っていたので買い山道を更に登る。所々の寺で雨宿りをしながら往くが雨脚はだんだん強くなる。

階段を登りきった所にバスの終着場があった。ここには禅宗らしき大きなお寺があった。一風道教の寺のようなである。派手な飾りが目につく。

雨宿りの人や車を待つ人でいっぱいだ。爆竹の爆音が鳴り響き硝煙の臭いがあたりに漂う。

燈明のかがり火が暖かいので近くで暖をとる。ここから頂上まではまだ1時間ほどかかるそうだ。稜線に近いせいか外は強風で雨も強い。

このまま登れば強風が濡れた体の温度を下げ体調を崩すのが明白。

登頂を断念してバスで下山することにしたがバスが高額なので彼女達はライトバンの運転手と交渉し麓まで格安で行ってもらうように話をつけた。

疲れていてもお金の交渉になるとファイトが出るようだ。衡山の麓に着くとさすがにみんな疲れた。しばらく休むとみんなに元気が戻った。

ふと今降りてきた衡山の方を振り返ると山の頂ははるか彼方の霧の中に消えていた。


2009/04/21

長沙の花市場

長沙では園芸を楽しむという習慣があまりないらしい。

日本では街角の花屋さんやスーパーなどで売っている花の苗を扱っている店を見かけない。

花好きの私は日本から種を取り寄せて屋上のコーナーに蒔いてみた。

そんな折、劉先生から花市場のことを教えてもらった。早速生徒と一緒に烈士公園の東にある市場を覗いてみた。

温室ハウスのような店が20軒ばかり連なり店頭には色彩りどりの花が咲き誇りまさに花の楽園であった。

マリーゴールド、ナデシコ、ベゴニア、ペチュニアなど日本で見かける花が多かったが開花時期が全体的に早いようだ。なかでも梅雨に咲くはずのアジサイが一足早く咲いており驚いた。

手に持てるだけの花鉢を購入しウキウキしながら帰宅しあれこれと考えた。

長沙の土は粘土質が多いので乾くとカチカチになるが湘江の川岸からこれを少々貰ってきて植木鉢に移し鉢の下には水受け皿を置き乾燥を防ぐようにした。

殺風景だった宿舎の屋上はにわかに明るく華やぎミツバチとともに我が学校の女生徒の訪れる楽園になるはずである。


2009/04/23

日本料理レストラン

範先生ご夫妻に日本料理レストランに招待して頂いた。

市の中心部にあるそのレストランはなかなか格調のあるお店で割烹姿のウエイトレスさんや着物姿の女将も見え本国さながらの雰囲気である。

先生が日頃お付き合いされている方々にもそこで紹介された。

長沙市対外友好協会副会長の雷先生をはじめ鹿児島に縁の深い方々で、広い視野と見識をお持ちの人ばかりなのでいささか気遅れしたが親切にしていただき胸が和む。

日本や中国のことなど話が飛び交うが話題の弾むごとにお猪口の乾杯をみんなで繰り返す。

初めての中国式乾杯だったが話が円滑に流れてとてもいい雰囲気だ。鹿児島から研究生として派遣されている柿木さんにもお会いした。

中国語も堪能な上に日本女性らしい上品な雰囲気をもった方で嬉しい出会いであった。

日本料理についてはここが内陸なので日本とは味が少し異なるが流石に食の国だけあってどれも工夫がされていて美味しい。

とにかく中国の人は話好きだ。中国語の解らない自分でも引き込まれる話術に感心した。みんなで楽しむことこそ、パーティーの醍醐味だと生来皆が心得ているようだ。


2009/04/26

湘江の中国語勉強塾

今日は日曜日なので生徒の姚さんと朝6時半から湘江に出かけた。

昨日、彼女に中国語を教えてもらう約束をしていた。そこで彼女は覚えの悪い生徒のために虎の巻をつくって準備してきてくれた。

朝の湘江の畔は太極拳やダンス、ジョギングの人たちでもう賑わっている。

我々もジョギング姿で歩きながら、さっそく中国語塾が始まった。

まず自分の名前の発音練習(永谷元宏は中国発音でヨン・グー・ユアン・ホン)から始まった。

「先生それから お早う、こんにちは、今晩は・・朝食は昼食は夕食は・・さっきパンを食べたでしょう。

それは何と言いましたか。・・・単語から熟語、会話へと展開していく。」湘江の朝ののんびりした風景も私の周りだけは何故か緊張感が漂い行き交う人が不思議そうに眺めていく。

「先生その発音はおかしいですよ。私の唇を見ていてください」と言われ、ドギマギしてしまう。枯れ木と言えどもうら若き女性の口元など凝視できるものではないのに。

間もなく上流の橋が見えてきた「あの橋を渡ってみたいねえと」と言えば「我想過橋」と中国語が木霊のように返ってくる。

バスが通れば乗り方を中国語で・・・と。真に風景が生きた教科書で面白いが・・「帰りはその復習ですよ」と告げられひや汗が出てくる。

「先生なかなか覚えがいいですね」と言われば年甲斐もなく心が弾みウキウキとする。

しかし最後に彼女はこう言って私を現実の世界に戻したのです。

・・先生、あの人達はきっと娘とおじいちゃんが仲良く歩いているなと思ってるよ・・・・


2009/05/1

張家界の旅(1)

5月の連休に湖南省の北西部にある張家界へ行くことにした。

張家界は武陵源地区が世界遺産になって一躍世界的に有名になった。日本語学校の生徒のなかにここの出身者が数人いた。

幸い受持ちクラスの莫さんが案内を申し出てくれたので計画は整った。

休暇を利用して訪中した妻と息子それに案内の莫さん陳さんの5人で朝早くしバス西ターミナルに向かった。

ここから大型バスで高速道路を約4時間、さらに小型バスに乗り継ぎ目的の武陵源に到着したのは午後2時。

長沙では幾分陽射しも見られたが、こちらは本格的な雨降りで心配が的中した。しかし「今日は鍾乳洞の見物のため問題ないです」と莫さんは言う。

その黄龍洞は大変な賑わいで雨天の中を長蛇の列が続いている。

押し合いながら待つこと1時間半ほどでやっと洞の入口に辿り着いた。しかし黄龍洞の中は全く別世界があった。

怪奇で大規模な石灰岩の洞窟が広がっている。野球場のドームほどもある天蓋から幾条もの滝が流れ落ちる、棚田のように幾重にも重なる滑り岩に地下水が漂う、何万年もの侵食により形づくられた怪奇な棒状の乳岩が乱立する、色とりどりのライトや人々のざわめきが神秘感を醸し出す。

まるでSFの地下大帝国のようだ。洞窟内を流れる川の船下りは圧巻でまるで冥府の世界へ旅立つような心地さえ覚える。

3時間ほどの黄龍洞の旅を終えた頃には雨も小降りになり夕方の武陵源の街並みに明かりが灯っていた。


2009/05/2

張家界の旅(2)

賑わう人出を考えて朝早くホテルを出発した。

入場ゲートでチケット(245元)を購入し周遊バスで袁家界景区に向かう。

300mの絶壁に造られた百龍エレベータで一気に標高を稼ぎ出口を一歩踏み出すと目前に奇岩のそそり立つ袁家界の景観が広がった。

そこは連なる断崖とそこに根を張る低木の世界で鳥のみが行き着けるところだった。ここから山道を楽しみながら歩くが、この絶壁の小道がすべて石畳になっているのに驚いた。

さすが万里の長城を造った民族の発想とエネルギーだと感心する。この先に天下第1橋があった。

自然が架けた石の橋で世界に類をみないものであろう。それにしても観光客の多いこと、狭い山道は人人であふれ静かな筈の山々も話好きな中国の人の声でざわめいている。

ここから山頂沿いの道を周回バスで天子山に向かう。御筆峰は天に向かって伸びる細筆のような岩山が林立して美しい。

西遊記の孫悟空がこれらの岩山の頂を八艘飛びに活躍しそうだ。頂上からは長い階段を下りて十字画廊沿いに歩き渓流の新緑を楽しんだ。

夜は少数民族の舞踊ショウに出かけた。日本人に似た小柄の美人ぞろいで若者は皆目が輝き昼間の疲れも吹っ飛んだようだ。

歌姫の天にも届くような澄みきった高音の歌声は美しい笑顔とともに若者の心を溶かしてしまっていた。


2009/05/4

日本事情レッスン

家内と息子を伴って学校に出かける。

息子に同世代の中国の若者と交流させたかった。

家内は以前Skypeで生徒と交信しているので直接対面だ。生徒達も興味深々で他のクラスからも覗きにきた。

一番目のクラスではパンダの折り紙づくり、二番目の教室は茶道の実技を三番目のクラスはフリートークと様々な試みをした。

みんな日本に行きたい夢を持っている。でも国境の壁は意外に厚く個人の往来はまだ自由でない。

日本に対する沢山の質問が出る中でトップはやはり「給料はいくらですか」と息子に聞く。

「まあ大学を出て3年ぐらいで○○万円ぐらいかな」と聞くと皆からため息がでる。

「でも仕事は結構きついよ」「そーかー」「流行っている歌は何?」

・・・」、家内はみんなに「中国へ来て一番感じたことは女性が強いということです」と言うと皆「そう」と笑って頷く女生徒達。

圧倒的多数の女性の質疑や行動が積極的なのに対し男性は終始一歩控えてニコニコと静か。

二番目の授業では班長さんの音頭で「中国の童謡」を合唱してくれ、最後に全員で「さくらさくら」を歌ったことがとても印象的で心に残った。


2009/05/8

通訳者への道

2009/05/10

青春群像(2)

陳さんと初めて言葉を交わしたのは早朝の学校の入口だった。

朝食の肉饅頭の袋を下げて階段を登る彼に「どうしたの」と聞くと「朝食を買ってきてあげたんです。私たち友達ですから」と答えた。

学校の6階に女子寮がある。毎日そこの女生徒に届けているようだ。彼のゆったりした口調からほとばしる優しさは誰もが認める。

彼は広東省の広州から来た。

ここに来る前は日系の自動車会社で3年ほど働いた。高校を出て入社した時には20人いた同期生も1年で半数になり2年後には数名になった。

それでも3年目には係長になり部下を持った。日本人の上司は良くしてくれたが何か会社生活に馴染めないものが残った。

新境地を開くため思い切って会社を辞めて広東省から脱出した。あえて友達の誰もいない湖南省の日本語学校を選んだ。

1年研修コースで学んだが日本語に興味が湧きもう1年やることにした。

1年コースの同級生は殆ど卒業したが陳さんと女性の姚さんだけが2年コースに編入した。

2人はとても仲が良いのでてっきり相愛関係と思ったが、彼等にはそれぞれ恋人がいた。

(後で各々お会いしたが)。姚さんも日系の電機会社で財務の仕事をしていた。

日本人の部長には通訳者がついていたので仕事に不自由はなかったが何かもどかしかった。

たまたま現場で係長の欠員ができたので代行をしたところ、現場の活気と日系会社の人事管理に魅せられた。日本語をきちんと習って再出発しようと退社して日本語学校に来た。

彼女は小柄だがきっぷのいい大陸的な性格で陳さんとは好対照だがそれだけに仲がいいのだろう。

今、彼等は日本語能力試験1級を目指して猛勉強中である。

将来、彼は通訳者に彼女は現場の管理者を目指している。


2009/05/13

あくびと昼寝

時々教室で生徒が大あくびをする。

うら若い娘がはしたないと思うのは我々日本人だけだろうか。中国の小中学校では先生は「あくび」を注意しないらしい。

これは生理的現象であり「あくび」を止める方が不自然行為であるとの理屈も成り立つ。

先生「出てしまうものは仕方がないですよ」という生徒の方が素直であるかもしれない。でも「口元をそっと手で隠したら」と言いたくなるが・・・。

「あくび」をされると「授業が面白くない意思表示だ」と教師は感じて落ち込んでしまうが、どうやらそうでもないらしい。

エチケットというものは各国共通の普遍的なものではないらしい。

中国の学校では午後の授業が2時から始まるようだ。正午の休憩が2時間たっぷりあるので1時間は昼寝ができる。

昼食を摂るとみな眠気顔になり昼寝タイムとなる。日本では保育園児の習慣だが中国では誰もが行う習慣になっており真に羨ましい文化である。

日本では午後一番の授業や会議は睡魔との闘いである。日本の生活は昼と夜の2区分だが中国では午前、午後、夜の3区分になるので一日が歯切れよく進み、頭と体の切り替えもすっきりするにちがいない。

いつか日本もこの習慣を導入すればストレスが解消し犯罪の大幅減少も達成できる・・・なんて眠気顔で考えていたら始業のベルが鳴った。


2009/05/16

日系企業の面接試験資料

704クラスの生徒はこの5月末に2年間の勉強を終えて卒業を迎える。このクラスは特に仲がよく纏まりもいい。

しかし会話力がいま一つの生徒も多く彼等の望む日系企業の入社試験が心配だ。少しでも力になればと思い街の本屋でこの種の参考書を探し1冊見つけた。早速入手し要約資料を作ってみた。

通訳の条件は日本語能力試験1級、会話堪能、性格明朗・協調性等が併記され厳しい。面接試験の手順、服装・礼儀、言葉づかい、面接問答集などを取りまとめて生徒達に説明する。

面接練習では歩きながら挨拶をする者、机に肘を突いて答える者、ちぐはぐな事柄を話す者等々・・・

練習の度に私の不安は募るばかり。大らかな性格の彼等にとって日本の文化・習慣は繊細だ。

日本企業はハイテクでみな金のなる社に映るらしく、その眩しさが現実の輪郭をぼかすようだ。少ない時間でポイントをどう伝えるかが問題だ。

ただ面接試験官に彼等の「誠実と努力」がいち早く見出されることを第1番に祈らずにはいられない。


2009/05/17

橘子洲の散歩

長沙の街を南北に流れる湘江の中州に橘子洲がある。

みかんの木が沢山植えられた市内有数の名所になっている。毛沢東が詩を構想した所としても有名だそうだ。

今日は久しぶりの好天の休日で大そうな賑わいである。公園内は広い芝生に池や噴水が点在し広々として気持ちがいい。

芝生の片隅の洒落たスピーカーからは日本の演歌のメロディーも流れていた。広い芝生には一人として中で遊んでいる子供がいない。

はてなと思っているとピーピーと警笛が聞こえた。巡回警備員のおじさんがハンドマイクで怒鳴っている。

散歩客はひたすら芝生のまわりの小道を行儀よく歩いている。繁華街の歩行街でよく見かける食べ物を口にしながら闊歩している人と同じ人たちだろうか。

でもみな静かだが楽しそうだ。

中国の人たちは日本人の何倍も写真が好きだ。どこでもモデルや俳優になったようにポーズを作って恥ずかしげもなく堂々と撮っていて微笑ましい。

同行の2人の生徒はそれぞれの恋人と夜のこの公園を経験ずみのようだ。

「ここからは湘江の流れを挟んで長沙市の夜景が素晴らしいです。

先生は奥さんがいないので残念ですね」という。今日は初夏の陽射しを浴びながら恋人の膝枕でうたた寝をするカップルが幾組もいた。

将来の中国の夢でも見ているのだろうか。


2009/05/18

長沙の大学病院

昨日の夕方、一年前にここで日本語教師をされていた渥美さんが表敬訪問に来られた。

岡崎市で日本語のボランティアをしている仲間だ。名古屋から広州経由で長沙に単身渡航された。

長沙空港へ無事到着後、範先生ご夫妻の歓迎会食にご一緒させて頂いた。久しぶりの友達に会って嬉しく話が弾んだ。

彼女の明るさと勇気にはいつも感心する。

宿舎に戻ってしばらく転寝をしたせいかどうも風邪をぶり返したようで喉が痛い。朝になると声が出なくなってしまった。

初めての経験だけに慌てた。劉先生と姚さんに喉の薬や風邪薬を買ってきて頂いた。今日の授業は渥美さんにお願いして休んだが回復の気配がない。

それで午後から生徒に近くの大学病院へ連れて行ってもらうことにした。

ここ中南大学湘雅医院は長沙でも名門の病院で評判も高いせいか患者の数は夥しい。

2時から始まる午後の診療には院内に人々が入れずに溢れている。

そのボリュームに圧倒されながら同行の生徒は診療の手続きなどを事務員や看護婦さんに尋ねてくれるが要領を得ない。

口をきいてくれない看護婦や横柄な事務員の冷たい対応に驚いた。

日本の病院の親切さを再認識する。1時間半ほど待ってやっと医師の診察の番が来た。お医者さんは言葉の不自由な患者に親切であった。

喉の腫れをみて3日程度の通院で回復すると診断されほっとする。診断書を渡され、治療薬を貰うに約1時間を要し治療室で薬液による噴霧治療を終えたのは閉院間際であった。

親身に世話をしてくれた生徒をはじめ心配をしてくださった多くの方々に心から感謝し病院を出た。

病院の周辺では病院に掛かれない親子が病気の子供を路上に寝かせて物乞いをしている姿が数か所で見られた。

経済発展のエネルギーの傍でその影は悲しく沈黙する。


2009/05/19

スピーチコンテスト

今年のスピーチコンテストの形式は朗読に決まった。

今年の2月末に入学した新入生から2年生まで一同に集まって長沙大学の大教室で発表会が開催された。

司会から会場作りまで生徒主体で進められる。今年の司会は男性生徒の魏さん、女性は頼さんが受け持つことになった。

審査員は私と渥美さんの日本人教師2人と本校の先生3人の計5人。

さて、出場者はまず作品の選択から始める。インターネットバーや本屋に行って、気にいった作品を見つけ出すのに皆苦労したようだ。

インターネットでは中国人が書いた日本語エッセーが沢山掲載されているようだが誤文や誇張文も多い。

先輩や先生にみてもらい自分が納得いく文章に修正を加えてながら練習を行ったようだ。

発表者の顔には緊張の様子が漂っている。その中で今年のコンテストは始まった。

まだ勉強を始めて3か月余りの新入生から発表が始まったが朗読の上手なのには驚いた。

朗読の滑らかさやアクセントも正確で猛練習の成果がにじみ出ている。

順々に発表が続けられるが原稿をあまり見ずに話している。それぞれ緊張する中で、こまやかなに感情を表現しながら語る人、冷静に淡々と話す人など多くの個性がぶつかり合い面白い。

「どうしてこの作品を選びましたか」「どんな所をみんなに伝えたいですか」などの質問には朗読を終えたほっとした安堵感の中でニカミながらぽつりぽつりと答える。

甲乙つけがたい出来栄えが多かったが優勝は1年生の李さんに決まった。

日本の昔話からとった「山寺の小僧と子供の我慢の話」は我慢して猛勉強し続ける彼女の心を打つものがあったのであろう。

そしてその共感が素晴らしい朗読に繋がったのであった。


2009/ 05/21

卒業試験

704クラスはいよいよ来週の火曜日が卒業である。

卒業試験が今週から始まり私の担当の日本語会話はこれからの入社試験に備えて面接形式で試験を行うことにした。

質問内容は予め8項目ばかりを知らせておいた。みんな緊張して面接室に入る。

「自己紹介」の後に「日本語を勉強しようとした動機」、「将来の夢」「最近の関心事」「家族のこと」などの質問に答えてもらう。

「あなたの将来の夢は」の質問では数人の女子学生が「貿易会社をつくって社長になりたい」と答えたのに少々驚いた。

「まず日本の会社に通訳として入り仕事を通して貿易のことを学びたい。そして将来は彼氏と小さな貿易会社をつくりたい」と言うのだ。

彼氏が社長ではなく“自分が社長になって会社を育てる”と言うところに中国女性の強さがある。

小柄な彼女らの何処にそんな逞しさが秘められているのだろうか。

「日本の会社は残業が多いが大丈夫ですか」と聞けば「先生、大丈夫です。まかしてください」と胸をはる。

会話は流調ではないが、2年間の猛勉強を終えた満足感と7月の日本語能力試験に臨む緊張感の顔が輝いている。私はもちろん即座に及第点をつけ彼女らの健闘を祈った。


2009/05/26

卒業パーティー

今日で802クラスの生徒は2年間の全日程を終了し卒業を迎えた。

近くのレストランで先生を交えて昼食会が開かれた。長かった勉強を終えた喜びがみんなの顔に浮かんでいる。中国の人は友情が恋愛に先行するとも聞いた。

「同じ釜のめしを食った」戦友同士だ。半数は明日にも故郷へ帰るらしい。みんな肩を組みながら写真を撮りまくっている、ビールやジュースの中国式乾杯があちこちで起こる。

外は雨だというに中は熱気満々の世界だ。
夕方からは近くのホテルの部屋を借りて卒業パーティーが催された。

この日のためにそれぞれが趣向を凝らした出し物を考え勉強の合間に練習を重ねて来たようだ。司会者がまず一人一人に今日の感激をインタビューする。

もちろん今日は日本語から開放されて中国語で。教室の日本語会話とは打って変わって生き生きとして気合が入っている。

女性はこってりした化粧と派手な衣装で艶めかしい。いつも控えめな女生徒も全く別人のようで我が目を疑った。

インタビューの後はダンス、コント、カラオケなどが延延と続きディスコの音楽が流れるとみんなは陶酔したように踊りまくる。これは万国共通の若者のエネルギーだ。

中国語がほとんど解らない私にも彼等の喜びの雄叫びが今も脳裏にしみついている。


2009/05/29

岳陽の旅(1)

岳陽は長沙から汽車で1時間ばかり北の街だ。

中国第2の湖「洞庭湖」の畔に栄えた所で三国志フアンの自分にとって長江と並んで是非訪れてみたい場所だった。

幸い岳陽出身の姚さんが案内してくれることになった。長沙駅で朝早い汽車に乗り岳陽に着いたのは9時過ぎであった。

岳陽楼のバス停を降りると曇天の下に茫洋とした洞庭湖の風光が広がった。

海のような広大な湖水を眺めていると中国へ来て以来の解放感が体中に広がる。

湖畔は幾分湾形をなしその周りには高い城壁が築かれ古く呉の時代の軍港の様相を今も髣髴とさせる。岳陽楼の周りは公園として整備されその門前には観光の店が軒を連ねている。

岳陽楼は元来戦の基地と建造されたが幾度か再建され今の楼閣は清時代のもののようだ。

岳陽楼の上からは眼下に洞庭湖の眺望が開け数隻の大型船が往来している。遥か昔、長江の流れに乗って沢山の軍船が湾内に押し寄せたであろうと一人感慨に耽る。

一方、その風光明媚のため杜甫や李伯の詩にも詠われ楼内には多くの詩人の肖像画が飾られている。文学の地としても名高いようだ。

姚さんが売店で「岳陽楼記」を買ってプレゼントしてくれた。宋の時代の範仲淹の作で岳陽の名を一躍有名にした名文である。

「文末の”先天下之憂而憂後天下之楽而楽(天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)”は中学の教科書に載っていますよ。ご存知でしたか?」と彼女は付け加えた。

そうだ熟語「先憂後楽」はどこかで聞いたことがあったと秘かに安堵した。政治に携わる者の心構えであろうか。いつの時代にも賢者はいるが賢明な為政者は出現し難い。

中国人は底辺も広いが途轍もなく優れた人材も稀に輩出してきたに違いない。中国の気品と誇りを垣間見た気がする。

日没間際に湖畔の商店街を散策していると通りの片隅から二胡の音が流れてきた。耳を澄ますと「チゴイネルワイゼン」だった。

夕暮れで人影もまばらな休息所に一人の青年が二胡を弾いていた。ジプシーの旋律に二胡の音色が哀愁を醸し出しすっかり魅惑されてしまった。

青年は瞑想の中に浸りながら高度なテクニックでひとり奏でる。その音はダイナミックにそして繊細に洞庭湖の風の中に消えていく。

演奏が終わると聴衆からため息が漏れた。ああ!こんなところにも隠れた名手がいる。僥倖はいつ何処からやってくるか分からない。世の中は広く深くそして面白い。


2009/05/30

岳陽の旅(2)

昨日は洞庭湖近くの指宿(安宿:800円/1部屋)に泊まったが、室内装飾は剥げ泊客も殆どいない薄気味悪い宿であった。深夜、姚さんの部屋をノックする音がしたという。

しかし今朝は天気も回復し気分を取り直して対岸の君山島に向かった。長江が洞庭湖に注ぐ河口に架けられた洞庭湖大橋を渡ると5000年の長江文明(稲作文明)の田圃と原生野がそこにあった。

7000年前のもみ殻が見つかった遺跡はここから近いだろうか。君山島は古代王帝の妃が祀られ島であるが今は整備され道教の寺院や公園が点在する観光地になっている。

島の南岬は東洞庭湖を眺望する位置にあると知り島を一巡することにした。誰も通らない島の裏手に回ると山影の全く見えない原生野が水平線上に広がり、かって経験したことのない風景に感動した。

ほどなく遠方に水面の光を見つけた。それは近づくにつれ湖の様相を現わし岬の先端では洋々たる東洞庭湖の海原に変わった。

対岸はもちろん見えない。満ち引く潮騒こそ聞こえないが淡水の海には遊覧船がひとり悠然と湖上を駈けて往く。探していた静かな中国の大自然がここにあった。

長江はどうしても見たかった。地元の人に一番近い河辺を聞いた。この付近は長江の流れが右へ左へと曲がりくねっている。バスを途中下車して1時間ばかりの道を歩き始めるとオートバイで差しかかった近くの人が川辺まで乗せていってくれた。

人気のない堤防から長江の畔に下りてみた。この付近は芦原の中州が点在し流れはやや緩慢だが滔々たる長江の威厳は健在であった。

山羊の群れが草を食む傍らで何度もシャッターを切りながら悠久の歴史を育んだ中国第一の大河、母なる長江の流れをしばらく見つめた。


2009/06/3

小学校界隈

最近、姚さんと早朝の湘江へ散歩に出かける。7時過ぎには散歩を終えて学校に戻るが途中で小学校の児童に出会う。

小学校の校門付近には数軒の駄菓子や屋台が並び朝から繁盛している。子供達は屋台でチャーハン、麺類、肉まんじゅう等を買い立ち食いしている。

お母さん達は働いているので朝食は外で食べるものだとみんな悟っているらしい。「私もそうだったよ」と、こともなげに姚さんも言う。

子供達は腹ごしらえができると次に駄菓子屋を覗き込む。ところ狭しと並べてある駄菓子やアニメの写真、お面、プラモデル、おもちゃ、くじ引き等々をしわくちゃの一元紙幣を片手に持って吟味する。

付き添いのおじいちゃんやおばあちゃんはそんな孫たちの社交振りに相好を崩している。

そんな駄菓子屋街も学校の始業のベルとともにまた静かな朝に戻り、子供たちが食べ終わったポリ容器の山だけが跡を残している。

映画「三丁目の夕日」に出てきたような古き懐かしい時代の風景がここにはまだ息づいている。


2009/06/6

発音練習

生徒は総じて発音に悩まされている。

特に「カッコ」などの促音(っ)や、おとーさんの「長音」そしてら行音が苦手だ。

「がっこう」が「がこう」、「おばさん」と「おばあさん」のゆゆしき混同、「らりるれろ」が鼻音の「なにぬねの」に変化するなど。

いわゆる母語の発音の影響が強い。私も英語の「L」で先生を悩ました口である。

リカちゃんは心根優しくとても勉強熱心な娘だ。そんな彼女が時々「わたし」を「わっし」と発声してしまう。

若い綺麗な娘に「先生わっしと一緒に食事をしましょう」と言われるとおお神よ救い給えと思ってしまう。

滞在の残り少なくなった私は「リカ発音改造計画」を立てて対面練習をしようと提案した。母音、子音から特殊音までマニュアルと首っ引きでボイストレーニングを始めた。

先生の歯並びの悪い口元を見ながら彼女は手鏡を見ながら唇の形を確認する。若い娘に口元を見られるのはトテモ恥ずかしいが少しづつ効果が表れてきたようだ。

「稽古は結構難しい」のフレーズが「けこは、けーこ むずかしい」から「けーこは、けっこう!」に変わる日ももう間近かだろう。

中国を去る頃には彼女達と一緒に食事をしながら言葉の神様に感謝する日が訪れるように願っている。


2009/06/9

大和撫子

今日は生徒が朝からそわそわしている。

日本の若い女性が来られると校長先生からきいていたのだ。私は毎日、「今日のひとこと」を掲示板に書くのが当番になっているが、今日は「大和撫子」について書いていた。

生徒は「大和撫子ってどんなひと?」と尋ねたが、「今にわかるよ」とひと言返事した。

“話題の人”柿木さんは9時過ぎに教室に来られた。

即座にいつもの授業を休止し、彼女の「日本事情」に移った。

私は以前に一度だけ彼女にお会いしており、鹿児島市の市役所から長沙に派遣され今は長沙大学で研修をされているとお聞きしていた。

北京留学4年の経歴から語る彼女の中国語は美しく、また日本語はゆったりとして心地よい。久しぶりの綺麗な若い日本人女性の話をみんなうっとりと聞き惚れている。

「先生はどうして日本語がお上手ですか」と聞いた生徒もいた。沢山の質問も出てあっという間に予定の時間は流れた。

最後に日本の歌がリクエストされた。キロロの歌を彼女が歌い始めると皆も一緒に歌い出し教室は若い華や雰囲気に包まれた。

私も久しぶりに日本の若い人と会話ができとても幸せな気持ちになった。

この秋には長沙市と鹿児島市の友好イベントが計画されておりこれから彼女も忙しくなるそうだ。彼女をバス停に見送りながら両市のイベントの成功と彼女の活躍を祈った。


2009/06/12

熟年コーラス

故郷の岡崎で男性コーラスグループの末席で歌っていたので、中国のコーラスグループを一度訪ねてみたかった。

今日は念願かなって黄先生の紹介の熟年コーラスグループの練習会に生徒と一緒に出かけた。

日本によくある文化センターのようなビルの一角で練習が始まっていた。玄関で殷さんが迎えてくださり活動の概要や実績を話していただいた。

長沙には熟年コーラスグループが10団体ほどあるそうだ。このクラブの団員は殆ど定年退職者であり殷さんも元技術者で今はフリーの身。メンバー構成は女性40人男性20人の混成4部合唱。

やはり中国も女性主導型のようだ。指導者の蘇先生を紹介してもらう。先生は専門の音楽家であるが温和でにこやかな笑顔の持ち主だった。

日本から持ってきた楽譜とささやかなお土産をお渡しした。基礎音階練習、パート練習の後で総合練習が始まった。後ろの末席で聞かせてもらう。

モンゴルの勇壮な曲「夕日紅」の歌声が教室に響きわたった。指揮を振る先生の眼差しは厳しくなり力がこもる。美しいハーモニーができるまで何回も反復が繰り返された。

みんな真剣に取り組まれ感心した。最後に私のために中国の歌「打起手鼓馬起歌」を合唱して頂いた。

「レコーダに録音した歌声を日本の仲間に聞かせます」とお礼を述べると皆さんから歓声が湧いた。


2009/06/14

河畔のトレーニング

長沙の夏は高温高湿で大変だと聞いていたが6月早々からとは予想外だった。

寝苦しい夜が早く去り夜が明けるのを待ちかねた人々は早朝から湘江河畔に集まってくる。私も中国語の勉強を兼ねて姚さんと朝の散歩を続けている。

散歩、ジョギング、太極拳、ダンス、古武道、凧揚げなど平日は中高年の人たちがグループを組んで公園の所狭しと活動をしている。それぞれこの道何年のリーダが先頭に立って模範演技をする。

どの顔もイキイキとして楽しそう。「太極拳のリーダは72歳だ。もう10年ここでやっているよ。」と教えてくれたおじいさんは82歳、以前心臓病を病んだが太極拳を始めてもう5年、この頃は風邪も引かないよと胸を張った。

湖畔の散歩道には多くのトレーニング器械が設置されている。これで年配者が子供のように楽しそうにトレーニングをしている。

これ等は子供用や若者用ではないらしい。実に年配者の運動にふさわしい動きの器械が多い。中国のおじいちゃんやおばあちゃんは退職後に孫の面倒を見るという大役が待っている。

いたずら盛りの孫を見るには、まず自らの足腰を鍛える必要がある。これらの器械で早朝トレーニングをすませ、孫の到着を待つに違いない。

歩行や腰振り、ボート漕ぎ、懸垂など様々な運動ができる器械が並んでいるが、それ等の造りは、街の鍛冶屋さんとペンキ屋さんで手造りが出来るような安くて丈夫そうな物ばかりだ。私たちも一通りやってみた。

簡単だが面白いものが多い。長沙市は実にユニークな物を作ったものだと感心した。これは日本でも是非取り入れて貰えたら嬉しい。

帰ったら提案してみようかなと写真を撮った。日本も高齢化社会に入りつつある。年配者の活気を保つためには、まず元気な身体からだと一人うなずく。


2009/06/17

日本語会話の上達法

火曜日の午後は授業がないので、今日は方さんと陳さんが宿舎にきて会話練習や雑談などした。

そんな話のなかで彼女達がぽつりと「先生、会話がなかなか上手にならないんです。何かいい方法はありませんか?」と言う。『“文法や語彙”は猛勉強してきた成果が出ているのに最も大切な会話はどうしてだろう?・・

友達と中国語で話す時と日本語の会話練習ではどんな所が違うのかなあ』とみんなで考えてみた。

「そうですねえ、友達との話では感情が入っているよ、また時々身振りや手振りもするよね。でも会話練習の時には練習問題をやったり応用会話を作ることに精一杯で余裕がないよ。

それに友達とは恥ずかしくてあまり会話練習もしないしね。」と彼女らの感想。
そこで閃いた。

「まず基本会話を徹底的に暗記してしまおう。」そして「本を見ずに会話の寸劇をやってみよう」。門前の小僧習わぬお経を覚えると言う諺があるではないか。

まず基本の会話をきちんと丸暗記しまうことだ。それに一人で会話を練習する方法は?・・そうだ日本では落語という古典話術があるではないか。

落語方式なら一人で熊さん八っつあんの二役もこなせるし、感情をいれたり見振り手振りは得意芸だ。一人でも対話練習ができそうだ。

その後、皆で会話場面の寸劇をやってみたらどうかなあ。感情も入るので、アクセントもきっと良くなり盛り上がるぞ。」この提案に彼女達は妙に納得してくれた。

今日の授業でみんなに話してみた。面白そうだやってみようと皆の目も輝いた。


2009/06/20

水郷の村(1)

李佳さんの故郷は南洞庭湖の北側にある小さな村である。

彼女の故郷を数人で訪ねた。長沙から高速バスで2時間ばかりで南洞庭湖の湖畔の街、沅江市に着いた。

この辺りは湖の地形が複雑に入り組む風光の地で、ここには行き交う船の見張をする塔が各所に建造されている。

李佳さんのお母さんの案内でその一つの稜雲塔に向かう。この塔は湖の小島に建てられているのでそこへは渡し舟で行かねばならない。

湖岸から大声で島の渡し守を呼ぶ。そのうちに昔ながらの櫓漕ぎ舟を操って島から船頭さんがやってきた。島には古びた小屋の横で風力発電機がひとり回っている。

目指す塔は総石造りで五重の塔を少し大きくしたような頑丈な構造であった。清代に建造されたと記されている。狭い螺旋状の石段を登りきると洞庭湖の美しい景観が飛び込んできた。

それにしても、どうやってこれだけ大きな石を島に持ち込み積み上げたのであろうか。一介の湖畔の塔を木材でなく石で造ってしまうことに、その発想の大胆さと中国人のパワーを感じる。

市内に戻って地方バスで彼女の実家の村、泗湖山に向かう。市街を過ぎ洞庭湖の支流の橋を過ぎると、山のない防風林と田圃や池だけが続く平原の景色になり長閑な生活の匂いが漂っている。

1時間余りで実家の前でバスが止まった。お客さんの降りたい所が停留所のようだ。彼女の実家は一階が家畜部屋と台所、二階が居間寝室の立派な造りだ。

長沙に比べると蒸し暑さが少なく田圃からの風が心地よい。皆で散歩に出た。畑の所々に土盛りがしてある。ここらはまだ土葬のようだ。

「あの壁で囲んであるのは、お金持ちの墓ですよ」と彼女が付け加えた。

経済開放後、都会と田舎の格差、若者の都会への流出など田舎が抱えている問題もありそうだ。田畑の端の堤防を登ると野兎がいた。

ここではまだ自然の循環が残っている。夕食を囲んでいると村の人たちが集まってきた。日本人は殆ど見かけないので珍しいらくしきりに声をかけてくれる。

村人は大声で明るい。日本人はテレビの中で見る人種だが実物はどうかと興味深々のようだ。食卓の周りは野飼いの鶏が残飯整理に忙しい。


2009/06/21

水郷の村(2)

昨夜はぐっすり寝込んでしまった。

長沙の蒸し暑い夜に比べこの村では田圃や池の上を渡ってきた風の何と爽やかなことか。

鳥の声で目覚める朝は久しぶりだ。朝食の後でお父さんに南洞庭湖の支流に連れて行ってもらう。

木漏れ日の小道を少し行くと堤防の道に出た。湖と民家の間にはこの高い堤防が築かれている。

10年前の大雨では民家が水で浸され周辺の村人はこの堤防の上でしばらく生活をしていたと聞いた。

洞庭湖はその面積をだんだん減少していると聞くが、時にはこんな洪水の顔も併せ持つのだ。湖畔は、まだ朝早いので幾分霞がかかり静けさの中に幻想的な雰囲気を漂わせていた。

暫らくすると、対面の島で作業をする人がやってきて小舟にのって一人島へ渡って行った。

帰りは運河沿いの道を歩いた。運河の水面には水草が一面に繁茂しアヒル達が泳いでいる。河の周りの田圃にはもう穂を出した稲が青い絨毯のように一面に広がっている。

途中で会った村の人とお父さんは煙草を吸いながら話をはじめた。「お父さんは友達と会うといつも話が長いんですよ」と李佳さんがこぼす。こうして友と話をする時がお父さんの至福の時であろう。

たばこの煙のようにゆったりと時が流れる。

実家の前には大きな池がある。ここで魚や貝を養殖している。家に帰るとお父さんは魚とりの準備にはいった。

小舟をあやつって網を張りその周辺の水草や水面を棒でたたき魚を追い込む。お母さんが池の蓮を取りに行こうと誘う。

この辺りは本当に池が多くきれいな蓮の花が池いっぱいに咲いている。お母さんは首まで水に浸りながら蓮の実と根を採って小道の方へ放り投げる。

魚と蓮の根とそれに池で捕れた大きな貝でもう昼食の材料はそろってしまった。隣の元気なおばあちゃんが来て料理をしてくれる。

おじいちゃんが裸で一緒に食卓に加わる。「日本は裸で歩いてもいいのかねえ」とおばあちゃんが聞く。

私は即座に「すぐに警察がやってくるよ」と答え爆笑が湧く。

“向こう三軒両隣”の長閑な世界がここにある。


2009/06/23

送別パーティー

804クラスの生徒が送別会を開いてくれるという。

期末テストを控えているためちょっと早めだが嬉しい。このクラスは纏まりが良く、切磋琢磨してよく勉強する。

赴任した時は言葉がなかなか喉から出なかったが、今は殆どの生徒が積極的に話すようになった。

彼等の努力に喝采したい。さて、送別パーティーは午後6時から教室で開かれた。班長の周さん、李さんの司会でしりとり遊びゲームから始まった。

バツの人は恥ずかしがらずに歌や踊りを堂々と披露し場を盛り上げた。私の挨拶のあと代表の数人の生徒からお別れの言葉をいただいた。

ああ、わずか4カ月余の間に彼女達にこんな思い出が宿ってくれたのかと思うと胸がジーンとこみ上げる。続いてみんなで中国の歌を3曲も歌ってくれた。

周さんから「歌が大好きな先生のために用意しました」と言って中国語と日本語の歌詞も貰った。そして「師に感謝」のコーラスをみんなが手振りをしながら歌い出すと涙腺の弱くなった老師の目はだんだんと霞んでくる。

最後に「別れの歌」をみんなで輪になって廻りながら歌った。この日のことは忘れまい。生徒に感謝!!彼等の幸せを祈らずにはいられない。


2009/06/26

湘江の夜の集い

802クラスはユニークな組だ。

今日の最終授業の後で「先生、今晩に湘江へ行きましょう」と誘われた。

日中のうだる様な暑さに閉口した人々は湘江の畔で夜風を当たりながら涼をとる。

夜の湘江は遠近からの光で美しい。日が沈んだ河には観光船が明かりを灯して行き交う。

夜の8時頃みんな三々五々と水辺に集まった。

沢山のお菓子やつまみ、スイカなどがシートの上に広げられた。

「さあこれから先生の送別パーティーを始めましょう。先生お世話になりました。乾杯!!」

と幹事が音頭をとる。このクラスの3分の1の生徒は短期修学生(1年間)のためもうすぐ卒業し学校を去る。

互いに肩を組んだり顔を寄せたりしながら何度も何度も写真のフラッシュをたく。

ハンカチとりゲームが始まった。子供のころに覚えた歌をみんな大声で歌いながらゲームは果てしなく続く。

バツの人は待っていましたとばかり得意の歌やダンスを始める。何という無邪気さと明るさだろう。全身で楽しむのが中国の人たちの生活スタイルなのだろう。

「先生今日は楽しかったですか」と何人もの生徒に尋ねられる。

「もちろんさ!ありがとう」と思わず答える。

湘江の夜の美しさと涼しさの中で集ったユニークな送別パーティーの思い出はいつまでも脳裏に焼きついているだろう。


2009/06/30

最後の授業

804クラスは昨日の期末テストが最後の授業であった。

テキストの会話場面を暗記して寸劇を実演すること、および「将来の夢」についての自由会話が課題。前者はよく感情が入った生きた会話ができ生徒達は皆満足そうであった。

また、「将来の夢」を楽しそうに語る彼等の日本語の上達にあらためて驚いた。

今日は802クラスの最終日。日本のこと、留学の話など沢山の話がでた。

半数の生徒は7月上旬に卒業し就職活動に入る。「先生、日本企業に勤める場合の注意点を教えてください」と聞く生徒がいた。

「お互いの文化・習慣は似ているようで異なることも多いですね。それぞれが相手の立場を尊重することから理解と信頼が始まると思います。」と感想を話す。

彼等はこれから他科目の期末テストを終え、次いで7月5日の日本語能力試験を済まして故郷に帰って夏休みに入る。

赴任後4ヶ月余の経験の中で過ぎゆく時間の経過は早くもあり緩慢でもあった。

そして僅か長沙の一隅から垣間見た中国であったが、都会の喧騒も、田舎の静寂も、寒さと猛暑の気候も、そして中国の人々の話し声も全てが中国という大陸の地から湧き出るエネルギーの塊りであり大地の上を流れる風のような気がした。

今日は久しぶりの雨で心地良い。近くの店の開店を祝う花火の轟音を聞きながら、ここで私の日記の最終ページを閉じたい。

一人一人の生徒に、先生方に、また各地でお会いした人々に、またこの機会を与えていただいた友人・先輩諸氏に心から感謝をいたします。

そして最後にこの拙い日記を読んでくださり励ましていただいた多くの方々にお礼を申し上げます。