池田公榮(鹿児島市日中友好協会)
**黄興その5**エピローグ 今日中国ではあまり評価されていない黄興について、わたしなりの総括をしてみたい。中国の志士たちは一枚岩ではなかった。打倒清朝ではあるが、方法論も目的も少しずつ違っていた。いまここにその概要を記す。
孫文派:1866-1925 孫文は広東省の出身。医者から革命の志士に。彼の理想は中国の革命のみならず、大アジア主義を唱え、欧米の介入を排除しようとした。国父と呼ばれる。しかし、彼の革命の手段は外圧(欧米の介入)をたのみとした点で、他の志士から賛同をえられなかった。
黄興派: 1874-1916 長江革命による共和制を目指す。故郷湖南をはじめ長江流域を省ごとに打清し、もって全中国を改革することを主張。共和制志向。
宋教仁派: 1882-1913(刺殺) 議会制民主主義の主唱者。上海にて袁派により刺殺さる。
袁世凱派:1859-1916 軍閥による中央集権化志向。
蒋介石:1887-1975 国民党による中華民国樹立。彼が行ったことは反共産独裁志向。
毛沢東:1893-1976 共産主義による農民開放改革。共産党独裁志向。
宮崎滔天:1870~1922 熊本県荒尾市出身。自由民権思想の人で中国の革命家たちを終始支援した。
梅屋庄吉:1868-1934 長崎県の人、映画日活を創設、中国革命の志士を財政的に応援。
以上、中国の志士たちは、すべて、理想とするところを完成することなく、志半ばで世を去った。惜しむらくは、その後継者がつづかなかった。今日の共産党政権も、いまだ完成したとは言いがたい。中国の川が長いように、歴史もながい。いまやっと、長い支配の歴史から自分たちの歴史、民主の歴史にたどり着こうとしている。黄興の燃えるごとき情熱と活動はあまり中国では評価されていない。
中国の学生たちに聞いても、知らないという。
歴史で学んではみたが、興味なく、忘れたのか、あるいは全然学んでいないようだ。
毛沢東が黄興を右派分子と呼んだことによるらしいが、彼の情熱は後代に語られ、中国危急のとき、その手本になるべき人ではないだろうか。
歴史は忘れられてはならない。自分史もしかり。歴史には痛みがある。悲しみがある。憎しみがある。失敗がある。栄光がある。感謝がある。歴史を生かすことが人間の知恵ではないか。History=His Story =神の物語。そう歴史は神が過去を通して現代に語りかけてくださる物語、教え、警告である。耳を澄まし、心を澄まして過去に聞き、現在を人類の平和と幸福、心の癒しのために生かさねばならない。
参考資料と文献
中国傑物伝 岩波文庫
国際情報事典 学研
ドキュメント近代史 ウズベデイア
孫文研究 鈴木幸治(HP)
中村義講演:南州・和・黄興(HP)
九江学院図書館でも探したが、黄興についての単独伝記や特集は見当たらなかった。またコンピューターで検索した結果、やはり資料に使えるものがなかった。
**黄興その3** その生涯と足跡 中村博士の研究から拝借しまとめる。
日本留学:黄興は1902年、28歳で日本に留学、1903年、同郷の同志劉撥一、宋教仁、陳天華等と「華興会」という会を結成し会長に推される。彼は「啓告湖南人」という雑誌を発行し、中国の打倒清朝をとき、はじめ湖南の独立を獲得し、引き続き「全省打清」するとの戦略論を宣伝する。宋教仁とはのちに革命の方法論で対立することとなるが、その内容は後に回す。
意気高揚した黄興らは帰国するや、1904年、清の皇太后の誕生を機に、蜂起を図ろうとするが未然に発覚し、再び日本へ。今度は亡命。このとき、孫文と巡り合う。その仲介をした人が熊本県荒尾の人、宮崎滔天。1905年、宮崎は孫文や黄興ら中国の志士を援助し、革命を助けることに躊躇しなかったという。此処で、孫を会長とする中国同盟会を組織した黄興はそのとき副会長職についた。
1七転八起: 1907年から1908年にかけて・ 欽州、防城、鎮南関、雲南河口などで挙兵の指揮に当たった。しかし、同盟会は総論賛成各論反対でギクシャクするところ多く、革命の実現は遅々として進まない。1907年秋、孫文の委託を受けて、香港に同盟会南方支部をつくり広州新軍の起義を計った。1911年 4月27日黄花崗挙兵で、決死隊百余人で、総鑑署を攻撃したが、失敗し、多くの優れた青年を失った。
自らも手に重傷を負い、香港に逃れた。1911年10月10日、武昌挙兵による辛亥革命が爆発すると、黄興は上海を経て、10月28日には武漢にゆき、戦時総司令となり、革命軍を指揮して、20日か余り、清軍と戦った。この時、萱野長知は軍事顧問として参加した。しかし、革命側の作戦の失敗、袁世凱軍の精鋭と兵力に比べて、急増新参加の革命軍の弱さも暴露し、ついに漢陽を失った。
黄興は武昌をしばらく放棄して、南京を攻撃しそのあと兵をまとめて再び武昌にもどり革命の回復を図ろうとしたが、武昌地区の革命党人の反対にあい、上海に戻った。この一連の敗北から、一時は黄を「常敗将軍」と呼んだ。しかし、戦いに敗れ、また戦うというのが黄の生涯であった。各省都督の代表会議で、黄を大元師におそうとしたが、彼は任に着かなかった。彼はダルマさながら、七転び八起きのひとであった。
1912年1月、南京臨時政府が成立すると、孫文臨時大総統のもとで、陸軍総長兼参謀総長になった。 しかし、武昌挙兵とともに膨れあがった兵士を養う財政が極度に不足し、臨時政府は困難な立場となった。こうした事情から三井物産から30万元の借款を結び急場をしのごうとした。
南北和議に当たって、袁世凱が共和制に賛成ならば、袁を大総統におすことを認め、みずからは臨時政府が北京に移った後は、南京留守府留守となり、南方の各軍の整備につとめたが、財政窮迫のため、大量の裁兵と兵変のため、留守府は終わりをむかえた。
1912年8月、同盟会は国民党に改組し、黄はおされて理事となった。12月袁世凱から川粤鉄路督弁に任じられたが、12月には辞職する。これより先の10月、黄は故郷長沙に帰り、そこで「国家の発展は教育による他発展はない」と講演している。
1913年3月、宋教仁が暗殺されたことから、反袁世凱の気運が高まると、黄は法律的手段での解決を主張し、速やかな 実力行使を主張する孫文などと対立した。
結局第二革命となり、黄は7月、南京で挙兵したが、敗れて、日本に亡命した。日本政府筋は敗北の孫や黄にたいして、冷やかであった。とくに黄には、西郷ならば腹を切れとさえ言ったと伝えられる。これに対して犬養毅、頭山満、宮崎滔天、梅谷庄吉などは支援を惜しまなかった。
1914年7月、孫文が日本で、中華革命党を組織したが、入党に際して、拇印をすること、孫文に絶対服従することという規約に反対して、参加を拒否した。この経過から、黄を右派あるいは反孫文として、否定的にとらえていたが、最近の研究と資料によれば、孫文は黄興に「2年間自分に任せ、あなたは静養し、もし私が失敗したら、次はあなたがやって欲しい」と頼んでおり、黄もそれを受けて、中華革命党と別の欧事研究会には名をつらねたが、実際には滞米中には、孫文の批判をせず、ひたすら、反袁世凱の宣伝をして、アメリカ各地をまわり、華僑やアメリカ国民の支援と理解を求めた。
雲南護国軍がおこるとそれに呼應するため、1916年6月、日本を経て帰国した。途中の船上で、「何の土産もないが、民権と自由は沢山詰み込んで来た」との詩を詠んで、反袁の決意をうったえた。これが黄興の精一杯の見栄でもあったろう。 帰国間もなく、6月に政敵袁は悶死した。黄自身も、病は進行し、ついに、10月31日、上海で病死した。墓は長沙岳麓山にある。
**黄興その2**・その略歴・
1874年 湖南省善化県(現在の長沙)に生まれる。父は塾を開き 子供を教える。比較的、裕福な家庭であった、6歳のとき、「論語」続いて唐、宋の文を学んだ。学習のかたわら、農耕に励む。
1891年 17歳で廖淡と結婚、翌年善化県試に失敗、長男一欧生まれる 。
1893年 城南書院入り、県試に合格
1897年 武昌,両湖書院に入り、5年間そこで学ぶ。こうして伝統的な教育を受けていたが明治維新を成し遂げ、日清、日露戦争で戦勝国となった小国日本が世界の注目を集めたことに触発されて、俄然、日本に留学を志す。
1902年 31人中ただ一人湖南人として選ばれて日本に留学。嘉納治五郎が創設した宏文書院で学ぶ。そこで黄は法律、政治、歴史、教育等を学んでいたが、いっぽうでは軍事に興味をもち、軍事訓練に熱心であり、とくにピストルの射撃は得意であったと言う。
また、楊篤生、蔡鍔など湖南出身の同志とともに「遊学訳編」を編集出版し、日本や欧米の政治、経済、教育、軍事等ついで紹介しつつ清朝の批判を展開した。黄も「学校行政法論」(山田邦彦)を翻訳、掲載している。
1903年 宏文書院内に、湖南出身の留学生による土曜会を組織して、現状の改革をめざした。この組織に参加した留学生はちょうど、このころ満州に勢力を拡大し狂奔するロシヤに反対していたが、真の目的は清朝を打倒することであった。
こうして黄は、日本留学中、湖南を中心とする反清の革新的青年の指導者となった。6月4日黄興は、中国に帰ったところ胡元淡から長沙の明徳学堂で教えてくれるよう求められた。彼はそこで学生達に歴史や体育を教えるとともに、革命を宣伝した。この明徳学堂を活動の場として、11月劉揆一、陳天華、宋教仁等とともに華興会を結成し、会長に押された。
また会党(秘密結社)と共同のため有力な指導者馬福益に働きかけ、同仇会を結成し、その会長になった。
1904年10月、西太后70才の誕生日を期して、長沙で挙兵を図った。しかし、未然に事が漏れて失敗し、日本に亡命する。
1905年 夏、孫文と会い(この出会いは宮崎滔天の紹介によるという説が有力である)中国同盟会を結成した。黄興は庶務を担当しナンバー2の位置を占めた。
1907年ー1908年 欽州、防城、鎮南関、雲南河口などで挙兵の指揮に当たった。また、同盟会内の対立では、孫文を支持し、革命派の団結に努力した。日本人の同志は彼の人柄と風貌から中国の西郷隆盛と称した。
1909年1月には宮崎滔天とともに鹿児島に西郷の墓参りをして、次の詩を詠んでいる。
“八千子弟甘同塚、世事唯争一局棋。悔鋳当年九州錯、勤王師不撲王師。”
1909年秋、孫文の委託を受けて、香港に同盟会南方支部をつくり広州新軍の起義を計った。
1911年4月27日黄花崗挙兵で、決死隊百余人で、総鑑署を攻撃したが、失敗し、多くの優れた青年を失った。彼など死者を「 黄花崗七十二烈士」を呼ぶ。自らも手に重傷を負い、香港に逃れた。この時、看護に当たった徐宗漢と結婚する。
1911年10月10日、武昌挙兵による辛亥革命が爆発すると、黄興 は上海を経て、10月28日には武漢にゆき、戦時総司令となり、革命軍を指揮して、20日か余り、清軍と戦った。
1912年1月、南京臨時政府が成立すると、孫文臨時大総統のもとで、陸軍総長兼参謀総長になった。
1912年8月、同盟会は国民党に改組し、黄はおされて理事となった。12月袁世凱から川粤鉄路督弁に任じられたが、12月には辞職する。これより先の10月、黄は故郷長沙に帰り、そこで「国家の発展は教育による他発展はない」と講演している。
1913年3月、宋教仁が暗殺されたことから、反袁世凱の気運が高まると、黄は法律的手段での解決を主張し、速やかな 実力行使を主張する孫文などと対立した。
結局第二革命となり、黄は7月、南京で挙兵したが、敗れて、日本に亡命した。
1914年7月、孫文が日本で、中華革命党を組織したが、入党に際して、拇印をすること、孫文に絶対服従することという規約に反対して、参加を拒否した。
1916年6月、日本を経て帰国した。途中の船上で、「何の土産もないが、民権と自由は沢山詰み込んで来た」との詩を詠んで、反袁の決意をうったえた。帰国間もなく、6月に政敵袁は悶死した。黄自身も、病は進行し、ついに、10月31日、上海で病死した。墓は長沙岳麓山にある。
以上中村義教授の講演リストから拝借
2005年5月12日(木)天候雨のち曇り
黄興について プロローグ 革命の志士たちは主に湖南省(註1)から排出している。 曽国藩、魏厳、左宗棠、譚嗣同、唐才常、陳天華、黄興、蔡鍔、章士釗、宋教仁そして毛沢東、蔡和森、鄧中夏、劉少奇、朱徳など。近代の重要人物を輩出した。
他にも孫文や康有為、梁啓超の広東省や、章炳麟や魯迅、蔡元培の浙江省などあるが、湖南省の豊富さはまた格別。広東出身者は行動的であると同時に柔軟、浙江出身者は、行動するよりも思索的で学求的。
しかし湖南出身者には、後先考えない激烈で直情的な行動型が多いのが特徴といわれる。それというのも岳麓書院(註2)という私学校伝統の「事実求是」という教訓がなせることであろう。鹿児島郷中教育の「議をいうな」と同じだと思う。
「議論するより実践で学べ」というころか。黄興は孫文、袁世凱、陳天華、宋教仁、章士釗と関係深く、これらの人物と平行して考察しなければならない。
日本で西郷隆盛を論ずるのに、大久保利光、木戸光允、坂本竜馬、勝海舟、吉田光陰、高杉晋作等を抜きに語れないのと同じである。また日本人とのかかわりで、終始中国革命の志士を支えた人がいる。 宮崎滔天(1871-1922)である。彼は熊本県荒井の郷士出身で、中国革命運動の協力者だった。
明治三十年(1897)、孫文と出会い、明治三十二年(1899)には、孫文とともにフィリピン独立戦争を助け、翌年には孫文の恵州蜂起を援助した。蜂起失敗後、一時革命運動の戦列をはなれて浪花節語りとなって生計の途を講ずる。この間に自伝「三十三年之夢」を書いて革命家孫文を世に紹介した。
明治三十八年(1905)、宮崎滔天は、孫文と黄興とを提携させて中国同盟会の成立をうながした。同会機関誌「民報」の発行所は、宮崎滔天の自宅にあったという。 辛亥革命後,大総統袁世凱は、宮崎滔天の功労に報いるために、中国米の輸出権を与えようとしたが、宮崎滔天は、これを拒否し、孫文、黄興と終生友人関係を貫いた。
註1湖南省:ほぼ東経110度、北緯35度に位置し、長江(昔は揚子江)の南側にあるので、江南とも呼ぶ。この江南地帯は中国の穀倉地帯、行政の中心地はチャンサ(長沙市)。湖南省だけで九州の3倍強の広さ。この長沙市は鹿児島市と姉友好効都市盟約を結び今年で21年目を迎える。
註2岳麓書院、湖南省の重要人物を排出した私学校で朱子学を学んだ王夫之などが築いた教育塾であり、他の省の卒業生が多く科挙(国家の官僚)になりたがったのにたいし、岳麓書院では、「科挙など取るに足りない。もっと大志を」の気運があったという。
付記 黄興と西郷というタイトルで中村義博士が鹿児島市黎明館で講演なされた文章がHP http./www.nihao-kagoshimaに掲載されているので、併読されたい。
左の写真は長沙市の烈士公園内。中は「世界の窓公園」にある彫像。