大竹マサル日本語教師奮戦記

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

やさしい学生たちとの日々

2006/09/05
長沙に来て1週間が過ぎました。

大石先生

ご無沙汰しています。現況を報告します。長沙はとても暑いです。

雨も降らず連日35度ぐらいでしょうか。夜は学生も市民も道路にあふれています。正に喧騒の社会です。

特別な娯楽も無いようでワイワイとしゃべったり、飲み食いしたりして暑さをしのいでいるようです。

学生たちはとても熱心でよくできます。知識や文法はよく知っていますが会話はやはり別なようでまだまだです。授業は今のところ順調です。やはり教室に入ると楽しいですね。

宿舎は最初びっくりしましたが今はもう慣れました。快適です。何でもそろっているし、セキュリティもいいし、校内ですから安全です。

食事の世話や掃除もしてもらえるので今のところ満足しています。最初の不安は無くなりました。大石先生や銀さん夫妻にはご心配いただきましたが、もう大丈夫です。

パソコンもやっとつなげてもらえました(世話をしてくれる学生が苦労しながらやっとつないでくれました)。

ただ、無線ランですので反応が遅く、写真がうまく送れるかはやってみないとわかりません。

授業は持ち時間90分を5回。

「会話」と「みんなの日本語42課」からを担当します。月曜日から木曜日の1時間目までで終わりますので、小旅行が可能です。いろいろ配慮していただいています。

とにかく大事にしていただいていますでご安心ください。大学の周りは昔ながらの町で、正に異文化を見る思いです。

匂いも独特で慣れるのに時間がかかるかもしれません。小さくて不潔?に見える食堂で平気で食事ができるようになるには少々時間が必要ですね。

半年では無理でしょう。宿舎で作ってもらえる食事はとてもおいしいです。気を使ってくれます。美人聡明な学生と一緒に食事する光栄に預かっています。

とにかく最初の不安はほとんど解消しましたのでありがとうございました。マンションに移る必要も無いと思いますので銀さんご夫妻には大石先生からよろしくお伝えいただければうれしいです。

現金管理も銀行口座を作りました。安心です。この町はスリも多いようで夜は一人では出歩かないようにしています。怖いといえば怖い町です。

とにかく自己防衛しながら長沙を満喫したいと思っています。もう少し慣れたら先生に紹介していただいた旅行社を訪れてみたいと思います。

そして、誰かを連れて旅行したいと思っています。慣れれば一人でも旅行してみたいですね。李副院長が、こちらからはメールしているけれど野村さんから全然連絡が無いと心配していました。でも、もうすぐですね。お待ちしています。

生徒はみんな素直でおとなしいですから大丈夫と思います。大石先生には本当にお世話になりました。ありがとうございました。時間があれば、私の長沙滞在中にお越しいただければうれしいですね。

それでは今日はまずご報告まで。

大竹 勝


ここから大竹さんの滞在記は始まります。

8月25日
長沙到着

4泊の上海旅行を終えていよいよ湖南省省都長沙入りだ。イメージもつかめず不安のうちに降り立った。

これまでのメールのやり取りや大石先生から紹介されていた範先生の写真などでおよそ見当はついていたが、いざとなると不安だった。しかしそれは徒労だった。すぐ範先生から「大竹先生!」と大声で呼ばれあっけない初対面だった。

範先生は実に流暢な日本語を話され、日本人と区別がつかないほどで感心する。自家用車で迎えていただいたが、車窓から見える樹木や水田の風景は日本と変わらず、長沙での第一歩は静かなスタートだ。

小1時間、車はいよいよ長沙の市内に入る。猛烈な暑さと霞んだ町並みが私を迎える。近代的な町並みと昔ながらの古い町並みが交錯し、上海とは一味違った雰囲気を感じた。

範先生と、後に大変お世話になる学生のピ君が迎えてくれたが、彼は無口で実に実直な青年に見えた。宿舎について荷物を置き、程なく職員室に挨拶に伺う。劉副校長先生(範校長先生の奥様)李先生など紹介され、程なく宿舎に帰り荷物の整理をする。

大変な荷物で整理が大変だった。夕方校長先生ご夫妻から夕食をご馳走になる。長沙料理は辛い。中国三大料理のひとつだそうだが、今回上海で失敗しているので、用心に用心をする。

実はまだ本調子ではないのだ。さらに長沙名物「臭豆腐」がいきなり登場。「おいしいですよ」といわれても、箸は進まない。しかしいただかないのも失礼だし、葛藤のうちについに決断。一口!。

匂いはその名のとおり独特だ。しかし食べるのに安心感のあるものだと直感する(後に好物になるのだが)。結構おいしいものだった。上海から「少々お腹を壊している」旨伝えてあったので、到着後すぐ大変よく効くアンプルを用意していただいていた。

そのご配慮にいたく恐縮した(日本から持っていった正露丸も抜群な薬で海外旅行の必携品だ)。程なく宿舎に帰るとにわかに孤独が襲い戸惑う。宿舎の施設を点検し、荷物の整理を続ける。

6ヶ月も続けられるのか、なんとも不安な精神状態だ。到着の連絡を妻にする。風呂は無いので、シャワーを浴びる。慣れない操作で右往左往だ。「住めば都」と腹を決めて(後にそのとおりになるのだが)、第一夜の床に就く。


8月26日
第二日目

8時起床。8時半学校へ向かう。お腹の調子が心配だ。「中国でお腹を壊すと長くかかる」といわれているからだ。職員室に行くと学生の李行さんを紹介される。

笑顔のとてもきれいな女性だ。これから買い物や日常生活にとてもお世話になる学生だ。早速買い物と昼食を食べに外出する。

お腹のことを考え粥を食べたいと告げる。買い物はまずケータイカードの購入だ。外国人の購入は難しいらしく、彼女は苦労していた。パソコンの接続はこれまたいたく難しいらしく、1300元もかかるらしい。

今日は契約をとりやめて帰った。ケータイは好調で、早速家と大石先生に電話してみる。感激だ。夜、李行さんがお腹を心配して「うどん」を作ってくれる。まだ若いのに、その味はお世辞抜きにおいしい。感心だ。

彼女は23歳。地元の名門大学、中南大学を卒業して日本語学校に学ぶ才媛だ。父は機械製造会社の管理職、母は医者とのこと。美人聡明なお嬢さんだ。

食後、ほど無く空港に迎えに来てくれたピ君と友人の余君が遊びに来た。しばらく談笑して、以後毎日散歩することになる湘江の川べりに散歩に出かけた。

蒸し暑い夜だ。エアコンが無ければ寝られないと思った。湘江は揚子江の支流なのに川幅1200mはあろうという大河だ。行きかう船は引っ切り無し。暗闇に船が行きかう。

川べりは涼を求める市民であふれかえっている。壮観だ。彼らに送ってもらい第二日目が終わる。李行さんが食事中に平気な顔をして「ヘビはおいしいよ」「すっぽんはおいしいよ」蛙はおいしいよ」というので「以後の食事は警戒を強める」ことにする。

「ヘビ・蛙は不要!」と中国語でしっかりいっておいた。彼女は「わかりました」といったがあの笑顔は十分に「あやしい」。野菜・果物・麺類・ジュース・ビール・水を買ったがその安さにビックリ。

水は大学の(日本語学校は長沙大学の構内にある)近くで買ったが、宿舎まで持ってきてくれるのにはこれまた驚いた。


8月27日(日)

今日は日曜日だ。朝、ピ君余君を誘って湘江を散歩する。河畔は大変な人出だった。

釣りをする人、太極拳をする人、剣舞のような演舞をする人、二胡を演奏する人、大声で歌っている人、将棋やトランプをする人、ただ散策を楽しむ人などなどさまざまな人が川べりに集う。

私の目が点になる光景だ。誰が見ていようがお構いなし。日本では考えられない光景だ。

もっとも最近では日本でも若者が大道で勝手なことをしている光景を目にするが、ここはそんな薄っぺらなものではなく、実に堂々とした市民の生活スタイルなのだ。そのエネルギーに感心する。           

10時ごろ李行さんが来る。

「今から何がしたいですか。何か必要なものはありますか」という。ありがたい。早速買い物と昼食に町の中心部に出る。タクシー初乗りだ。

これがまたカルチャーショックというもの。ものすごい勢いで疾走する。クラクションは成りっ放し。歩行者がいようが決して徐行しない。ぶつかった人間のほうが悪いと言わんばかりだ。

歩行者も所かまわず横断する。狭い道で車が併走すると、それはもうカーレースのごとく。決して道を譲らない。聞こえもしない相手に大声で怒鳴りつけている。窓から痰は吐くしすごい光景だ。彼女に「どうして」と聞くと、さも当たり前のことと笑っていた。「う~ん」とうなるしかない私だ。    

「五一広場」という長沙で一番にぎやかい中心街だ。長沙で唯一の日本資本の百貨店に連れて行かれた。「平和堂百貨店」という。

日本の食糧も豊富で、他の店より少々高いが日本のものなら何でもある感じだ。梅干からラッキョウ、ノリ、わさび、しょうゆ、味噌など何でもそろっていた。、日本からいろいろたくさん持ってきたがすべて無用だった。

昼食は長沙では有名な餃子屋に案内され、おいしくいただいた。しょうゆ、りんご酢、ヨーグルトなどを買い、学校に戻る。

劉先生から「みんなの日本語42課から」と「日本語会話中級」を担当して欲しいといわれる。週6コマから5コマに減らしましたと言われ「42課からはしんどいな」と思ったが、わがままはいえない状況で快諾した。

しかし案の定後に苦しむこととなった。ヤマサ日本語学校の教師養成講座の同期生には大いに助けてもらうこととなり、感謝に堪えません。

夕食はお腹のこともあり、やはり辛いものは避け、有名な小龍包の店に行った。おいしかったが、中にジューシーなスープが入っていなかったのは少し残念だった。

食後湘江のほとりをしばらく散歩する。中国では「散歩」はのんびりと歩くことらしく、私が結構早足で歩くのを見て、彼女曰く。「速歩」はおかしいという。「そんな速さで歩くと何かあったように思われ恥ずかしい」と。「う~ん・・・」という私。

彼女と別れ、タクシーで宿舎へ帰り、翌日から始まる授業の準備をする。始めてみるとこれが難問の山。焦る。結局午前2時半までかかったが未消化だ。そのまま授業突入か。暗澹たる気持ちで床に就く。


8月28日
月曜日

今日は授業初日だ。職員室で授業範囲とクラスを聞いて教室に入る。一級を受ける「会話」クラスと、「みんなの日本語42課」からのクラスだ。学生は高卒・大卒・社会人など多様である。

教室に入ると、まず好奇の目が一斉に集まる。当然前任者との比較もあるだろう。前任者の田辺先生や今村先生はとても人気であったらしい。特に今村先生は長沙の大学に留学され中国語も堪能で、一人で町を歩かれたらしい。学生よりも「長沙通」で逆に学生を連れ歩かれたらしい。その点私は町の様子はもちろん、授業さえも赤子同然で不安一杯のスタートだ。

正面に立つと一斉に学生が起立した。何事かと思うと「先生おはようございます!」。・・・「う・・・ん」いきなりカルチャーショックに見舞われる。これは中国の習慣かと思い、こちらも「おはようございます」と元気に答えた。見渡すと学生の顔色はよく、目が輝いている。いきなりいい気分になる。入室時の不安が吹っ飛び、私の体内に温かいものが駆け巡る。

出欠の確認をしながら名前の読み方を聞いていく。これがなかなか難しく、学生たちに笑いが起こる。また乗ってきた。授業の範囲も今日聞いたばかりでやりようも無い。会話クラスだから、私の自己紹介や質問に終始する。学生達の聞き取りや会話能力の高さにビックリだ。男子学生は一人、あとは女性だ。

ここ湖南省はまだ日本企業がほとんど無く、どうしてこんなにたくさんの学生が集まるのか、疑問が募った。授業はまったくできなかったが、学生達の明るさと意欲に気分を良くして第一日目は終わった。終わりの挨拶も当然「先生有難うございました!」だ。

一部の学生にどこから来たかと聞いて見たが、湖南省が多いのは当然として、西安、広州、シンセン、河南省、江西省、広西自治区など実に広範囲から来ていることも判明。しかも日系企業で働いた経験者も多いことがわかった。卒業後の進路もほとんど日系企業に就職を希望し、またほとんどが寮生活だ。「毛沢東の生地、湖南省でか。」と不思議な感覚に見舞われる。



8月29日(火)
42課開始

8時起床。いよいよ授業が始まる。今日はみんなの日本語42課、語彙の導入からだ。学習横目は「~ために」と「~のに」だ。午前中教案作りに取り組む。
午後2時からの授業だ。             

李行さんが宿舎に来てパソコンをつなごうと頑張ってくれるが、なかなかうまくいかないようだ。申し訳なく思う。

教材勉強もなかなか難しく、ヤマサ日本語学校教師養成講座の時と同じような頭痛がしてきた。この頭痛は治す薬が無いので厄介だ。しかしここで弱音を吐くわけにはいかず、頑張るしかないと自らに言い聞かせる。

2時、授業開始。語彙の導入から始める。学生達の生き生きとした顔が並び新鮮な気持ちになる。と同時に私の気力が充実してくるのがわかる。順調に導入が進む。そうだ、この頭痛の特効薬はただひとつ、十分な教材研究を日ごろから労を惜しまず重ねることだ。わかっているのだが、日本語の奥は深い。

語彙を一つ一つ確認していくが、「風呂敷」だけはほとんどの学生がわからなかった。比較的日本語のできる学生に通訳させながら解説する。面白い。何とか理解できたようだ。

「~ために」と「~のに」はヤマサの同志にSOSを出した。早速伊藤同士にアドバイスをもらい大助かりだ。

授業後李行さんとピイ君、私の3人で買い物と食事に町に出る。ここ大学周辺の夜の町はいつも大変な賑わいだ。学生相手の食べ物屋がずらりと軒を並べ、どこの店も忙しそうだ。まだなじめない独特のにおいが当たり一面に充満している。歩きながら学生二人と会話の花が咲く。日本語と中国語が混ざってなんとも愉快な会話が続く。

李行さんが「この付近はスリが多いから気をつけてください」という。にわかに信じられないがどうも本当らしい。バスの中で子供が通学かばんから盗まれるところを見たと彼女はいった。

「子供がお金を持っているのか」と聞くと「最近の子供はお金持ち」と笑っていた。両親が働きに出て、昼ご飯が無い家庭では、子供達は外の食堂で昼食を食べる。つまり町の昼は小・中・高・大学生、それに一般の市民まで外食だから大変な人出になるわけだ。
            
家族が軒先で食事する光景も日常茶飯事で、食べかすはポイポイと路上に捨てる・・・う~ん「異文化」なり!。



8月30日(水)
授業は楽しい

今日は「~のために」の授業だ。最初に文型1,2を読ませ、ここでの学習項目を確認する。

学生を指名して音読させてみる。実にスムースで驚く。「~ために」の使い方を質問するとすぐに「目的を表す」と返事。予習復習は十分とみた。

練習A1の4つの例文を板書しながら、「ために」の意味の使い分けを説明してみる。用法は4つほどあるが、どれも微妙なところがあり、ほかの例文を挙げるのに内心戸惑う。背中が汗っぽくなってくる。             

学生が理解できたかどうか確認もできないまま練習Bに進む。ここでようやく用法の使い分けが整理できてほっとする。なかなかよくできた教科書だ。教科書に救われるとは。

学生達に解答させながら、冗談や変な中国語を交えて説明を加える。学生の笑い声も軽やかだ。乗っている自分を感じる。練習Cのミニ会話に進めばもうこっちのもの。1コマ45分は短い。あっという間だ。

ただ余談が多くなかなか進まないのが私の悪い癖だ。「悪乗り」が多すぎるのを自覚する。直さなくてはと思うが、「先生はユーモアがあって良いです」と言われるとまた乗ってしまうのだ。とにかく「教師は授業が命。教材研究を常に怠らないこと」を肝に銘じ今日の授業を終わる。

宿舎に帰ると、李行さんが昼食を作ってくれていた。メニュウを紹介しよう。「なす・ニンニク・しょうが・レタスの炒め物」、「たまごプリン」、「ハム・しいたけ・野菜のスープ」・「りんご酢ジュース」に「ご飯」だ。辛めをおさえて私向けに味付けしてくれた。まだ23歳なのに、こんな料理を簡単に作るなんてすごいなと感心する。

「李さんは料理が上手ですね」というと「ええそうですか」と笑っていた。中国では女も男もみんな自分で料理ができることがあたりまえ。李さんのお父さんの料理も大変おいしいとか。

「李行さんは料理がとても上手ですね」を中国語でいうと「小李、ヘン会ツオ菜=シャオリ・ヘンホエ ツオ ザイ」という。ただしこのまま発音しても中国では通じません。実際の発音は難しいですからインターネットつながる


8月31日(木)

今日は1時間目「会話」授業だ。会話の学習テープはあるが、頭出しや調整が難しく、結局私が読んで聞かせることにする。テープのように美声でテンポよくとはいかないが、かえって適当な所で切れるし、私の後に一斉追読させやすい。

いい方法を思いついたと思っている。だだ、アクセントが標準語かどうかが怪しい。三河弁丸出しにならないように注意はしたが自信は無い。ただ鹿児島のアクセントよりまし(失礼)かと高をくくって読み進めた。

学生の声は大変元気で、声がきれいだ。しかし発音やアクセントはまだまだで、いたるところで修正を入れる。しかし、質問も積極的だし、ユーモアもあり、何としても笑顔が爽やかだ。文法的なことはほとんど理解しているようだ。

「授業が楽しい」とはこういうことだと再認識しながら進める。ただ変わらず余談にはまり、進度が進まないのが有問題だ。

午後学生の李行さんが来てついにYAHOO・JAPANがつながった。「有難う、有難う」の連発だ。これでインターネットが私の部屋からできると思うとうれしい。

李さんも帰ったので、町に散歩に出た。新学期を迎え狭い学生街は学生であふれかえっている。食べ物屋がずらりと軒を並べ、いずれも忙しそうに鍋をかき回している。

それが全て軒先の光景だからパワーあふれる光景だ。ただし、鍋の余分な油、食器を洗った水、何でも路上にぶちまける様は・・・・う~ん異文化。


9月1日(金)
躍動の学生街

午前中に湘江を散歩。ここ長沙はいつも靄がかかったような光景で、晴天の青空を見たことが無い。空気の汚れとは思わないが、日本のような「抜けるような青空」が懐かしい。

今日の昼食は苗字は同じだが、別人の李老師に作っていただいた。学生は勉強があるから毎日作ってもらうのは気が引ける。本当は自分で作れたらいいと思うのだが。

たまごスープ、鶏肉の柔らか煮、モヤシ炒め、ご飯だ。大変おいしく感謝感謝だ。ただし中国米はどうもまだなじめない。日本から送ってもおうかと思う。

午後、42課のテープを受け取りに職員室に行った。しかし職員室のドアが閉まっていて入れない。3時ごろ再び顔を出す。昼休みは2時間余もあり、学生も職員もみんな昼寝をするとか。「う~ん異文化」。

そういえば地元の中学生も小学生も昼休みは自宅に帰る。学生街のこの付近は昼時ともなれば、小中大の学生が入り乱れ、食堂や露天はてんやわんやの賑わいだ。むせ返るような独特のにおいが充満する。食べかすはどんどん路上に捨てられる。

足の踏み場も無いような光景になる。よけて飛ぶように歩かなくてはいけない。その傍ら、せっせと掃除をするユニホーム姿のおばちゃん達がいる。毎日のことだ。

食器も軒先で洗うし、汚水も流す。「う~んまた異文化」。一日に何度清掃員の人が掃除をするのだろうか。しばらくするとまた小ぎれいになる・・・。

夕方、ピ君と食事をすることにしたが、その前に話のねたにと李行さんと3人でマッサージに行くことにした。従業員が80人もいるという、長沙で有名な店だ。1時間半の足裏マッサージだったが全身を丁寧にマッサージしてくれる。

最後は熱い塩の袋で背中と腹をもんでくれた。実に念入りで気持ちがいい。料金はそれで50元(750円)。安さとサービスのよさにビックリ仰天。癖になりそうだ。


9月2日(土)
激動

今日は早朝の湘江を見るために早起きしてみた。予想通り大変な人出だ。中国特有の早朝文化が見える。太極拳、剣舞、ダンス、合唱、演奏、バドミントン、テニス、ジョギング、散歩、凧揚げ、釣り、水浴び(風呂代わりかも)、およそしたいことは「自分個人勝手にどうぞ」という感じ。大賑わいだ。

太極拳を最後列からまねてみた。スローな動作がとてもまねできない。すごい体力だと思う。早々に退散。感じたことだが、人は街中でも、周りに人がいようとも突然大声で歌いだす。スーパーで買い物しながら大声で歌っている綺麗なおばさんを見た見たこともある。周りはだれも気にしない。

また湘江を散歩するアベックの男が突然大声で歌いだし、彼女は何も言わず、彼氏の腕にぶら下がっていた。「恥ずかしくないのか」が日本の文化だが。およそ他人の目を気にする基準が日本人とはまったく異なるとを認識させられる。

東洋文化の原点と思う中国文化だが、今では相当プレートがずれていると思われる。「心情的には親戚だろう」とは決して思ってはいけないと感じる。

しかし一方では今の日本人には失われてしまった東洋哲学の原点が色濃く残っていると感じることも多々あるから、またこれが感動ものなのだ。ひょっとしたら、ある意味ですこぶる合理的な行動基準があるのかも知れないが、今の私にはまだ見えない。

そこへ突然西洋文化が洪水のように流れ込んで来たため、その対応でビッグバン状態になっているのかとも思える。巨大な心臓が、強烈な力で強制的に血液を送り出す広大な大陸、13億・14億人ともいわれる人口を抱え、この国を変革していくには日本人には想像もつかないほどのパワーが必要だ。細かいことにいちいちとらわれていたら動きが取れなくなる。今は前進あるのみという恐ろしいほどのパワーだ。

置いていかれた者は「自己責任」。学生も嵐の中でもがきながら、すさまじいほどの学習意欲を発揮している。小学生から大学生まですごい。「だから今の子供達はストレスが一杯だよ」と言った学生の言葉は真実味を帯びる。

一見何でもありに見える中国。大変革だ。ここ長沙市のバス代、どこまで乗っても一回1元(15円)だが、これが日本のようになるにはあと何年かは不明だが、そうなったとき、世界経済はとても今のままではいられまい。


9月3日(日)
机を買う


朝の散歩を兼ねて日用品の買い物に出る。大学の校門脇にあるこの便利店(雑貨屋)はとても便利でいい。店の看板娘が愛想よく「はーい」と迎えてくれる。笑顔のなんとも可愛いしっかり娘だ。

この前、彼女が店のカウンターでパソコンを見ていたので、のぞいて見たら何と日本のドラマを見ていて驚いた。ついでに学校をのぞいたら、たくさんの学生が自習していた。重要な語句や短文がビッシリと黒板に書かれていて、検定合格への強い意気込みが伝わってくる。

今日は午後4時から李行さんと会う約束だ。私の宿舎の机と椅子を買いたいからだ。約束の場所もわからず、タクシーの乗り方もわからない。さて、彼女はいう。「タクシーに乗ったら、ケータイを運転手に渡して」と。名案中の名案。以後この手段が買い物、食事にたびたび使われることになる。常に通訳が同行している勘定だ。すばらしい。

程なく家具屋の前に到着。彼女が待っていた。料金はいくらだったと確かめる。本当にしっかりした学生だ。そこはとんでもない大きな家具団地で目を見張る。二人で歩きながら物色。中国の水準からするとかなり高級な家具が並ぶ。

会社の社長が座るような机から事務机、子供の学習机のようなものでいいと思っていた私にはややそぐわない。しかし日本人の私が求める家具だからと、多分彼女は気を利かせたのだろうと推測。感謝の気持ちでゆっくり回る。

高級品ばかりなので、他にないかと聞いたら、外に出て、その団地の廻りの大衆的な店に連れて行かれた。

いいものを先に見てしまったので、どれも、帯たすきで決められない。結局もとにもでって探す。やっと見つける。黒檀紫檀模様のがっしりした机だ。中央はノートパソコン用に滑り止めがしてある。一人でやっと片方が持ち上げられるほどの重さでずっしりとくる。椅子も同様だ。物がいい。しかし高そうだ。

彼女が交渉に入る。340元。しっかりした値引き交渉が続く。彼女がにっこりした。決まったようだ。「先生、300元でどうですか」。店の女主の渋い顔が見える。私は彼女と呼吸を合わせるように「う~ん」と考えるふりをする。名コンビ。300元は日本円4500円だ。安い!。(日本では何万円するかわからない)内心笑うがこらえる。

決まりだ。しかも宿舎にサービスで運んでくれる(かなり遠い)というおまけ付だった。

今日はその後町のレストランで食事をする予定だったので配達を夜の9時に約束した。40元も儲かって気分がいい。彼女はその後もとても買い物上手なところを見せるが、聞くと「中国の女性はみんな当たり前」と笑っていた。「う~ん異文化」。

話は戻るが、その後、食事中に電話が鳴った。何と机の配達人がすでに校門のところで待っているという。あわてて宿舎に帰る。校門前にはリアカー付の自転車に机を載せた背の小さい初老の男が待っていた。

リヤカーを押して宿舎に通じる小道の前に行く。そこからどうやって運ぶのか。私と二人で運ぶのも不可能だ。学生を呼ぶのかと思っていると、李行さんが「この人が10元くれ」と言っていますと。私は半信半疑だったが喜んで渡した。

彼と私と李さんと3人で、背を丸めた彼の背中にやっとのおもいで乗せ上げた。

宿舎までの小道は50メートルはある。そこから狭い階段をつづらに登り、狭い入り口をやや斜めに体をよじって入らなければならない。どうするのかと思ううちに、彼はさすがに「ウンウン」と辛そうな声を出して歩き始めた。私には手伝いようもない。しかし彼は無事に運んだ。

全部「真木」で半端な重さではない。石のような重さなのだ。私は歓声を上げずにはいられなかった。「謝謝」。う~ん、また「異文化」。日本では絶対にお目にかかれない光景だった。


9月4日(月)
スパー買い物

ヤマサ日本語学校の同志伊藤さんから参考書を送ってもらうことにした。たくさん持ってきたつもりだが、いずれも使いづらいものばかりだった。伊藤同志に感謝感謝だ。

午前中の授業に、私より少し送れて長沙に来た野村朝子さんが参観に来た。授業を見てもらうことは未熟な私にもいいことで快諾した。見られることについてはしっかりヤマサ日本語学校で体験しているから抵抗もない。

「会話」授業のテープを流して見たが学生はほとんど聞き取れないようだ。思案の挙句会話のフレーズを私が読んで聞かせることにした。フレーズをさらに細かく切って読む。復唱させる。レベル的には少しばらつきがあるように感じた。

午後と、日用品の買出しに李行さんとスーパーに出かける。面白いことにスーパーでは、かばん等の持ち込みは禁止で入り口のロッカーに入れる。出口ではレシートに係員がペンでチェックを入れる。厳重だ。

「なぜこんなことを」と聞くと「万引きが多いから」と・・・「う~ん異文化」。


9月5日(火)
学生のアパート

今日は42課「~のに」だ。日本人なら日常使う言葉だが説明はなかなか難しい。「のに」はいろいろな用法があるが、ここでは「ために」と「のに」が共通する用法を学ぶ。「理由」「目的」「利益」を表す言葉で、45課で学ぶ「のに」とは異なる。

実践のほとんどない私には、助詞から一つ一つ引っかかってしまう。講義録「西隈ノート」を持ってきてよかった。意外なことに三省堂の国語辞典がとても役に立った。それにしてもいちいち辞書とくびったけになるのは苦しい。ヤマサの実践授業を思い出す。

学生に文法的なことを質問して見るとほとんど正確に答える。驚きだ。ゆえに、なおさらいい加減な説明はできないと認識。宿舎に野村先生を招き談笑。共通の不安を抱え協力して頑張ろうと話す。

夕方散歩していたら偶然ピ君に会う。彼はいつも明るく「はい!先生」という好青年だ。ついでにピ君の下宿(アパート)にお邪魔することにした。8階建てアパートで、8階の最上階。ふうふういいながら上る。エレベーターはないのだ。毎日大変ですと笑いながら彼は軽快に上る。全体に決して清潔とはいえない古いアパートだ。

さて、部屋は。偶然か窓も開けっ放しだから匂いもない。小ぎれいにしていた。同室の余君と3人で談笑。1ヶ月200元、二人で割ると一人100元(1500円)という。安い。しかし階段は狭く、相当汚い。しかし長沙にはこんなアパートがいたるところにある。景観的にはまだまだ。二人とも日系企業で働いた経験で日本語の勉強をしようと思ったようだ。


9月6日(水)
歓迎会

今日は李行さんにデジカメの写真の処理を教えてもらう。何度教えてもらっても覚えられない。しかも一度は出発前に息子から教わっているというのに。必死にメモして練習するが、いつになったら「プロのような手さばき」になれるか。

昼、野村朝子さんも着任して、二人そろったので、市内の高級レストランで歓迎会を開いていただいた。校長先生ご夫妻、ホウ先生、周先生、李先生、学生の李行さん、それに野村先生と私の8人だ。昼というのにレストランは大変な客入りだ。駐車場も車がずらりと並んでいる。

ここ長沙では、昼休みが2時間もあり、時間がたっぷりあるということだ。初めて見るよな高級料理がずらり。サーモンの刺身までわさび付で登場し恐縮する。しかしおいしい料理をたっぷり食べて飲んで、午後また仕事とは。「う~んこれまたまた異文化なり」。


9月7日(木)
饅頭買う

木曜日は朝1時間目で終わりだ。午後から日曜日まで3,5連休だ。ちょっとした旅行ができるように配慮していただいたが、果たして旅行ができるか。一人では赤子が歩くようなものでとても無理だ。ガイド付の旅行ならいつでも可能だから試みて見ようと思う。

食事を世話になる李老師の母上が病気のため、今日は食事なし。自分で何とかしなくてはならない。試練だ。学生の李行さんが教えてくれた饅頭屋へ行って見る。

蒸篭を幾段も積み上げ蒸気が威勢よく噴出しおいしそうだ。しかし情けないことに私は眺めるだけで饅頭が買えないのだ。人気の店らしく客が絶えないから、そこへ割ってはいる度胸がない。目的の饅頭を中国語で注文する言葉が出ないのだ。練習したけれど本番はそう簡単ではない。しばらく散歩してタイミングを計る。饅頭買うのにこの有さだから、長沙を一人で歩けるようになるのはいつの日かと案ずる。

饅頭も何種類もあり、むやみに注文すると、激辛だったり、油たっぷりだったりするから簡単ではないのだ。しばらくしていざ注文。言葉が出ない。「ん~と」「ん~と」の連発。店の主が怪訝な顔していらだっているように見える。主が「ああん?・・」というとますます焦る。ついに日本語と身振り手振りで、「ん~と、右の一番上のやつ!3個」と言ってしまった。。どうもゼスチャーでわかったらしい。蒸篭の中から選んで3つ袋に入れてくれた。やれやれ。

しかし、これが注文通りの饅頭かどうかは怪しい。宿舎に帰って、日本から持って来たラーメンと一緒に食べて見た。アンコ無しの饅頭だ。ほんのり甘みがあっておいしい。成功したとしよう。3個で1元(15円)、大もうけした気分になる。ひとつひとつの体験が新鮮でで面白い。


9月8日(金)
馬王堆古墳ミイラと珈琲

夜は長沙に来て初めての雨だ。肌寒いくらいに冷える。ここは大陸だ。日本なら残暑真っ盛りだ。

今日は午後、李行さんにお願いして博物館見学と買い物、ついでに夜は外食とすることで出発。

博物館は湖南省博物館といい、世界ニュースとして有名になった「女性のミイラ」のあるところだ。入場料は一人50元(800円)、水準としては高いだろうと思うが一見の価値は十分だ。博物館は堂々とした建物だ。さすがに外国人と思われる人が多い。

残念ながら説明文が読めないので、タイミングよく李行さんが説明してくれる。日本語の勉強にもなるので彼女は生き生きとしていた。

ご存知のように、「女性のミイラ」は長沙郊外にある漢代(西暦前200年ほど)の王族の古墳(馬王堆古墳)から発見された。2100年前に埋められたというこのミイラは、当時の最高の技術が施され、まるで死亡した直後のような状態で発見された。関節の一部は動き、皮膚は潤い、じん帯は弾力に富んでいたという。

棺は10畳以上はあろう巨大なものだ。何重にも箱が仕組まれ、彼女はその中心の棺に眠るがごとく発見された。さらに古墳からは、さまざまな織物や青銅器、生活用具、書籍、地図、薬品、食品などが発見され、その技術は近代技術に匹敵するものも多いという。

全てこの博物館に展示されている。スケールの大きさと歴史的価値の高い展示物に圧倒された。絢爛豪華、贅の限りを尽くしたであろうこの王女も、齢50年ほどだったという。さまざまな病気に悩まされていたようだ。

あまりのスケールに、博物館を後にしたときは疲労感に包まれた。隣接してこれまた広大な市民の憩いの公園とされる「烈士公園」があるが今日はもういい。いつか案内してもらうことにしてしばらく小雨の中を歩いた。日本語と中国語を交えた会話が実に愉快だ。

道すがら、烈士公園入り口付近で何と「上島珈琲店」なるものが目に入った。「おお!コーヒー屋だ」思わず感嘆の声を上げてしまった。日本の有名なコーヒー屋だ(後で、関係があるかどうかは不明ということになったが)。久しぶりに本格的なコーヒーを飲もうと決めて、普段コーヒーは飲まないという彼女を強引に誘って店に入る。

落ち着いたおしゃれた店だ。お気に入り。早速コーヒーを注文。味は日本と同じで「ホット」する。一杯30元(450円)は少し割高程度だが、中国の人には高い飲み物と思う。しかし上等なソフアで時間も無制限(2回目に一人で行ったときはソフアで寝ている人がいた)とか。本格的な食事もできるレストランの様でもある。

長沙のコーヒー屋はアンテークでおしゃれ店が多い。以後時々あちこちコーヒー屋をあさることになる。

その後李行さんが見つけておいてくれた電気スタンドを買い、長沙料理を食べてタクシーで帰宅した。ころあいを見計らうように、李行さんから電話が入る。「先生無事に帰りましたか」と。やさしい心遣いに感謝だ。


9月9日(土)
中国の若者パワー

野村先生のお腹の調子が悪いという。心配だ。なんでも学生食堂のご飯を食べたのが原因とか言っていた。私も注意が必要だ。一度食べたが確かに激辛だった。だからほんの少しずつご飯に混ぜて食べるのがコツ。決して全部を食べないことだ。 

それにしても学生達は(女子)よく食べる。丸い深鉢に一杯のご飯を入れ、その上に激辛で油たっぷりの野菜や肉の炒め物をこれまたたっぷりとかけているのだ。これを毎日食べて何ともない?と言う。食習慣とは実に恐ろしい。お腹の赤ちゃん時代からお母さんの食べる激辛や油を摂取しているわけだから道理というものか。

ここの学生達を観察すると、女子といえども、体ががっちりしている。肥満といえるような学生は一人もいない。あの量のご飯を毎日食べてだ。「辛味が無いとすぐお腹がすいて困る」と笑っていた。実にたくましい。化粧している学生はほとんどいない。茶髪の学生は若干いるが、贅沢をつつしみ、健康的で活発な学生ばかりだ。どこでも私を見つけると「ハイ先生!」と声を掛けてくれる。「老師」の地位は高いのだ。そして実に礼儀正しい。

顔色や肌は日本人に比べてやや浅黒いとは思うが、その健康さや自然の美しさは日本の高校生には及びもつかない輝きがある。

勉強量もすさまじく、夢に向かってまっしぐらだ。彼女達は卒業すればほとんどが日系の企業に就職するという。就職活動は全部自分でする。日本の学校のように、学校が手取り足取り世話をするようなことは無い。そのためいい会社があると思えば中国全土に移動していくのだ。相当な苦労だが彼女達にはものともしない力強さがある。

親元にいてもいい就職口が少ないからそうなるわけだが、それにしてもすごいパワーだ。こんな学生達を採用する日系企業はすばらしい人材を抱えることになる。彼女達は卒業後の希望地として、上海、広州、深セン、蘇洲などを上げる。外資系企業は人気なのだ。

こうして毎日中国の若者達に接していると、正直日本の若者達の未来が気にかかる。私も長年教職に身をおいてきたが、日本の学校教育の限界を常に感じていたものだ。


9月10日(日)
初鍋

今日、昼食はピ君と「快餐」(早くできるという意味か)なる店で、粥と餃子を食べる。粥は豆の入った粥でおいしかった。しかし餃子は油が多くいまいち。中国の焼き餃子は日本人にはなじまない。

中国東北地方の蒸し餃子はおいしいというが、学校に近くに幸い「東北餃子店」なる店があり、大変おいしいと後で知る。

午後、李行さんがパソコンの調子を見てくれる。大学では情報学科に学んだというから心強い。夜はピ君と3人で鍋料理を食べることになっており、しばらく宿舎で日本語と中国語のレッスンをすることにした。

日常会話のフレーズをお互い日本語と中後で言う寸法だ。間違えば当然厳しく指導。しかしどうも私のほうが劣勢だ。簡単な日本語は彼女は完璧だから。少々助詞が狂う程度で張り合いが無い。私はいちいち間違い、単語も出ない始末で、どうしても彼女が「老師」になってしまう。しかし楽しいひと時だった。

夜は長沙一の繁華街「五一路」に出て角の店の2階に上がる。とんでもない広さだ。日本の百貨店のワンフロアーが全部鍋屋という感じだ。向こうが霞んで見える。それが満員だからすごい。   

大変人気の店らしい。ピ君は座席探しに奔走。汗だくで待つ私達を呼びに来た。着席すると店員がやってくる。長い時間を掛けて品を注文する。私はさっぱり分からないから、ただ「ビールビール」と中国語で叫ぶ。「はい分かりました先生」とピ君が律儀に答える。

鍋に火がつく。丸い鍋の真ん中が区切ってある。二人の配慮と後で知る。程なく鍋ネタがワゴン車に載ってやって来た。野菜・肉・魚・練り物など、おびただしい品数だ。食べられるのかと心配する。

通路は売り子が引っ切り無しに他のネタやフルーツを売って歩く。飲み物持込は禁止で、隣の若者達と店員がもめていた。どうも持ち込み料を請求されているようだ。

二人は仕切られた鍋の両方に手際よくネタを放り込む。中国人の最近の流行は鍋料理とか。大変な客だ。よくこれだけの客を裁けるなと感心するとともに、裏方の勝手場を心配してしまう。「大雑把」なことをしてないかと。

客達のパワーに圧倒されながら食事が始まる。「こちらは辛いから、先生はそちらでどうぞ」と勧める。まず、ビールで乾杯!。どのくらい辛いのか。学生の鍋の方をつまんでみる。・・・・」とんでもない辛さだ。私はしきりに「健康に悪い」と言うのだが、二人はニコニコしながら平然とうまそうに食べる。私の方へは箸すらつけない。鍋の仕切りがまるで万里の長城に思える。

味は結構美味しかった。二人の「私専用鍋」の配慮に感謝。日本の繊細な、ゆっくりと味わう鍋料理の作法はここには無い。テーブルの上に置かれた鍋の具をひたすら食べるという感じだ。しかし二人はよく食べる。すごいの一言だ。これが現代中国人のパワーだ。辛味と油がぎらぎらしている鍋だ。「う~ん異文」。

もうひとつ。食べかすは躊躇無くテーブル上に落とされる。通路にもだ。タバコの吸殻も当然床に。掃除のおばちゃんが絶えず食べかすを集めて回る。「う~ん、これも異文化なり」。 

ほとんど残らず食べつくし回家!。タクシーでピ君と帰る。すごい晩飯だった。


9月11日(月)
鹿児島から帰った鄭さん

今日も寒い一日だった。少々風邪気味で、日本から持ってきた薬を飲む。学生から、明日町に出て食事をしましょうと誘いを受ける。快諾。

午後、鹿児島大学留学を終えて長沙に帰って来られた鄭さんから電話があり、彼と学校で会うことになった。楽しみに待つ事彼は1時間半も遅れてやってきた。事情があったか、時間を間違えたか不明だが、悪びれる事も無く元気に再会だ。日本では考えられないことだが、そこはおおらかに構える。鹿児島で大石先生の紹介で、彼の奥さんとともにお会いし、長沙での彼はこれから長沙の大学で就職活動をするとか。専門は食品化学で、これからの中国にとってとても大切な研究分野と思う。今後の活躍を祈る。 

学生の李行さんとピ君を紹介。特に李行さんは留学に興味があるのか、熱心に日本の大学のことを聞いていた。野村先生のお腹が心配だ。


9月13日(水)
二日酔い

昨夜は講師の先生方と学生達合計8人で繁華街に繰り出し、また鍋料理で盛り上がってしまった。少々飲みすぎて今日の授業の調子が出ない。教室には見慣れぬ学生が二人ニコニコしながら座っている。たずねると「先生の授業を聞きに来ました」という。日本では考えられないことで戸惑う。授業の空き時間だというから許可した。なかなかめずらしいことで笑ってしまう。

午後湘江に散歩に出かけたが、途中小学校の下校風景に遭遇した。日本へのお土産話にもなるかと見学を決め込む。興味深い。まず、校門の付近には保護者と思しき出迎えの人々であふれかえっている。子供達はなかなか出てこないが根気よく待っている。思えば中国は一人っ子政策が取られているから、どの子も文字通り「小宝宝」(子供のことを意味する)だ。

先生方の見送りを受けて、小さい学年から飛び出してきた。出迎えはどうも爺ちゃん婆ちゃんの仕事のようだ。孫は爺ちゃんに飛びつく子から無視して走りぬける子などさまざまだ。とりわけ珍しい光景ではない。 

面白かったのは、校門の脇に(学校の敷地と思う)塾の大きな看板が堂々と掲げられていることだった。能力別だとか、本物の英国人だとか書いてある。授業料も相当高いように思った。中国は小学生から進学競争が激しいと聞く。ここ長沙大学も土日は中学生であふれかえるが、どうしてと聞くと、地元の中学生が塾に来るという。大学が塾に開放される。「う~ん異文化」。


9月16日(土)
岳麓山ハイキング

今日は岳麓山へ学生達とハイキングに出かけた。正式には「岳麓山風景名勝区」という市民憩いの公園だ。

学生9人と野村先生、私の11人だ。私の担当するクラスの学生が一人もいなかったのは少々さびしくも思ったが、後で知ったことに呼びかけが徹底しなかったようだ。学生達の底抜けに明るい声に押されてバスに乗る。

実は長沙に来て初めてのバス乗りだ。興味深い。バス賃1元(15円)。かなり使い込んだバスで、しかも運転はかなり荒っぽい。歩行者ももタクシーも、自家用車もみんな自分中心だから交通ルールもあって無しが如し。

ブレーキはしょっちゅう踏まれるから、乗客はいつも踏ん張っていなければならない。座席はプラスチックで硬い。腰がすべり出すからいつも取っ手をしっかり握って自己防衛だ。乗客は当たり前のことのように平然としている。

程なく橘子州大橋(第一橋)を渡る。大河、湘江を始めて渡る。感動だ。ここ岳麓山は湘江をはさんで市街地の対岸に広がる景勝地なのだ。山麓には大学が集中し、学生であふれかえっている。町並みも新しく、プラタナスの街路樹がどこまでも続くお洒落な町だった。

湖南師範大学、湖南大学、中南大学と続く。いずれも赤い布に誇らしげにスローガンや歓迎の横断幕を掲げ、新学期を迎えた雰囲気を演出している。足早に歩く学生の姿は、現在の中国の意気込みそのものだ。肩を丸め、だらだらと歩くことをよしとする日本の大学生とは大違いだ。日中の違いは何なのかフッと思いをめぐらす。

バスを降り、登山道入り口に向かって歩き出した。湖南大学のフエンス沿いにゆるい坂道を上る。と、ものすごい光景が目に飛び込んできた。何と新入学生の軍事訓練だ。はるか学舎が霞むほど広大なグランドを埋め尽くすほどの学生が訓練を繰り広げていた。もちろん私には経験は無い。男子はもちろん、女子学生も全員だ。全員が濃緑色の軍服に身を包み集団行動訓練だ。

期間は分からないが相当長く続くらしい。「私もしましたよ。厳しかったですよ。」と同行した女子学生が笑いながら、しかしどこか誇らしげに言う。もちろん、急迫した戦争があるわけではないが、正直戸惑いを感じたことは事実だ。しかし全身に力をみなぎらせて歩行する光景に中国の底知れぬパワーを見た思いがした。

程なく登山道の入り口にかかる。そこにはまたまたすごいものが目に入ってきた。毛沢東の巨像だ。湖南省は中国革命の拠点として、数々の革命家を輩出したことで知られる。

カルチャーショックを感じつついよいよ岳麓山に入る。入園料を払い、楽しいハイキングが続く。かわるがわる学生が話しかけてくる。日本語の学習に熱心だ。

あせばむほどの暑さだが緑の登山道はすがすがしい。途中の休憩地で三度目の衝撃が襲う。何と日中戦争で中国奥深く侵攻した日本軍に勇敢に戦い戦死した軍人や民衆の戦功を讃える大きな石碑が建っていた。かなりのハイカーが石碑を読んだり、語り合ったりしている。一日本人として緊張感と胸の高鳴りを覚える。

1931年9月18日、柳条湖事件をきっかけに満州事変(中日戦争)が勃発し日中全面戦争となる。以後15年にわたって悲惨な戦争が続いたが、その爪あ
とはここ長沙にも実は色濃く残されている。別の烈士公園には、日本軍に抵抗して戦死した戦士(烈士)が顔写真入で讃えられている。学生達は私の胸の痛みを察したか、そのことに何も触れ無かった。

ハイキングは続く。休憩場所には大抵巨像があり、革命に活躍した郷土の英雄達が胸を張る。学生達はいろいろなおやつを持ってきて、「先生どうぞ、どうぞ」と勧める。向日葵や南瓜のの種を器用に歯で割って食べる。私も教えてもらいながら食べて見るが、 噛み砕いてしまいうまくいかない。学生達は「涼しげな目」を向けて私の様子を見ながら笑っている。 

頂上だ。243メートル。眼下に毎日散歩する湘江が涛涛と流れる。115万市民の長沙の町も一望だ。昼食は山麓の学生街で食べることになっているようで、私達は一気に降りた。学生達であふれ帰る町の一角で昼食。激辛湖南料理を覚悟したが、私達にも配慮して食べやすく美味しかった。ビール3本飲んですべて割り勘でいいという。一人15元、200円ちょっとだ。安い。

帰りは中南大学にも寄り広大なキャンパスで遊んだりしたので少し遅くなった。私が「タクシーで帰ろう。私が払いますから」と言ってみたが、学生達は「私達は学生だからバスで帰ります」と同意しない。結局私の面倒を見てくれる李さんとピさん、野村先生と私の4人でタクシーで帰ることになった。

一日歩いて疲れただろうに、この律儀さはどこからくるのか。そういえば、彼らはハイキング中ゴミはまったく捨てなかった。楽しいハイキングだったが、カルチャーショックも多く、思い出になる一日だった。


9月17日(日)
教員休職・復職学生

毎日の日課、今日も湘江に出かける。学生の黄君に会う。私のクラスではないが、実に気軽に話しかけてくれる。うれしい。二人で散歩だ。

彼の話を聞くと、彼は妻子もちで、中学校の数学の先生という。驚きだ。年は35、6歳に見える落ち着いた人だ。

彼は広西壮族自治区の桂林の出身だという。「どうして先生辞めて来たのか」と詰問調になる。彼はにこやかに、「やめてはいません。ここの勉強したら帰ってまた先生をします」という。休職してわざわざ長沙に来たのだ。

彼は「日本語は興味があります」という。納得がいかない。しかし桂林は日本人観光客が大勢訪れるから、そのきっかけになったのかとも思った。

それにしても学校を休職してまた復職出来る・・。日本ではそうゆう理由では通らない。中国も粋だね。このようなことが日本で出来たら、もっといい教員が集まるだろうと思った。形にこだわる日本の教育では望みは無いが。国際感覚を持った教員は必ず教育現場で生徒達に反映されると確信すしているのだが。


9月18日(月)
9・18

今日は「9・18」。中国にとっては特別な日だ。1931年9月18日、当時日本の関東軍は満州の支配を強めようと、満州鉄道を爆破し、中国軍の仕業として謀略を凝らし、ついに満州事変(中日戦争)が始まった日だ。

以後1945年8月まで、両国民にとって15年にわたる悲惨な戦争が展開された。中国にとっては当時列強とされた勢力への強烈な抵抗戦争の開始でもある。

日本は1932年に「満州国」を建国し、やがて国際連盟をも脱退し国際社会の中で孤立化の道を進み、軍国主義国家への道を突き進むことになる。事実を拭い去ることは出来ないが、二度と有ってはならない「不戦の記念日」でもあろう。

今日のテレビは、このニュースと、これをもとにあらたに作られた映画の宣伝が多かった。見てみたい気もするがどこで観られるのかわからない。一方で九州を襲った台風被害のニュースも流していた。 

ここ湖南省は毛沢東の出身地であり、また日本軍との歴戦の地でもある。少々のことは覚悟しているが、今のところ全くというほどそれを感じたことは無い。一度だけ、学生とバス停で話をしていたら、隣のおばさんが寄ってきて話しかけられた。

「日本は謝らないね」と。学生がニコニコしながら通訳してくれた。私は「それは政治家の話。私は痛みを感じていますよ」と答えた。学生が通訳して伝えると、おばさんは何も言わなかった。

大学付近の食堂や買い物には毎日出かけるが、そのような目で見られていると感じたことは無い。むしろにこやかで愛想がいい。私もヘンな中国語を使って元気に話しかけるからむしろ人気者かとも思う。とても親切でうれしく思っている。人間の心は万国共通だなと思うくらいだ。学生達も実に素直で健康的ですばらしい。

午後、一人で古刹「開福寺」に行って見た。長沙大学から歩いて4、50分。散歩にちょうどいい。湘江の川べりに沿う大通りをひたすら歩く。

気分爽快だ。はるか向こうに湘江に架かる第二橋が霞んで見える。開福寺はその近くにあるはずだ。奥深く木立に囲まれた名刹を想像したが、いきなり道路に独特の塀をめぐらせた寺が現れた。しかし雰囲気は十分。5元払って入る。実は自分一人でお金をお払うことは初めてだ。こんなことにもドキドキして感動する自分がおかしい。

月曜日の午後で閑散として静かだ。開福寺は禅宗の尼寺だった。剃髪しているから僧侶の男女の区別がつかなかったのだ。午後4時、読経が始まって初めて気がついた。大勢の修行僧の読経が始まる。男とトーンが違うので聞き入った。静かに読経が続く。夕暮れも近づいてきたので寺を後にした。

帰りは雑踏の街中を歩いて帰ったが、人の多さとほこりっぽさに現実の中国を感じる。まだ昼間だというのに、軒先や木の下ではあちこちでマージャンやトランプ、将棋に余念が無い。それを観戦するギャラリーもにぎやかだ。特にトランプは大声で勝負に挑む。日本人には喧嘩腰に思える。迫力がすごい。仕事はどうなっているのかと思うが、それは「異文化」だ。


9月19日(火)
中国のうどん

午前の授業が終わり、昼食は李行さんとピ君3人で中国うどん(面条)と小チー(もち米饅頭)を食べる。

「うどん」といっても小麦粉と米粉がある。日本的なうどんは米粉のほうである。辛味を抜いて野菜がたっぷり入った美味しいうどんだった。例によって彼らはテーブル上においてある唐辛子をふんだんにかけて食べる。どういう舌をしているのかと思う。

夜はピ君と食べる約束をした。学生達の細やかな心遣いに感謝。午後女子学生が3人宿舎に遊びに来た。日本茶と茶菓子を振舞う。素直で明るい学生達にしばし時の経つのを忘れる。


9月20日(水)
一人バス乗り挑戦

今日は一人でバスに乗る。そうそう学生に甘えてばかりではいけないと安全なルートで挑戦だ。湘江沿いの広い直線道路をただ乗るだけと高をくくって乗り込む。どこまで乗っても1元だ。簡単。

5つ目のバス停で降りると確認して乗る。用意周到。バスは走り出した。一つ目、二つ目・・・バスの車内案内が聞こえる。「・・倒了」は分かるが駅名は聞き取れない。しかも乗降客がいないと通過してしまうことがわかった。だんだん不安になる。日本のように、降りることを知らせるボタンも無いことが判明。

どうして運転手に知らせるのか。隣のおばちゃんに「下車、下車」と中国語で言ってみるが、返ってくる言葉が分からない。5つ目のバス停のはずだ。焦る。と一人の杖をついた老人が立ち上がった。降り口に黙って立つ。バスは止まった。どうして?。老人に促されて先に降りる。「謝謝」という。ほっとしたが、何がなんだかさっぱり分からないまま降りてしまった。

後で教えてもらったが、まず駅が近づいたら大声で「停車停車」と叫ぶか降車口に立つこと。運転手はそれを見聞きして停車するという。バス停でなくても途中で止まるというから驚きだ。

それにしても、いまどき大声で叫んで知らせるとは・・・うら若い女性でも降車の時は鬼のごとくに叫ぶのか。満員だったらどうなるのか。・・・「異文化なり」。

その後何度もバスに乗るようになるが、いまだに声を張り上げることには抵抗があるので私はいつも運転手の近くに立つことにしている。そして小声で「停車」と告げて前から下りることにしている。

降りたところは以前に李行さん、ピ君の3人でマッサージに行った付近のバス停だ。そこは湘江に架かる第一橋といわれ、美しい橋だ。

そのたもと付近は憩いの公園のようで、水曜日だというのにおびただしい人々が集まっていた。歌を披露して金を稼ぐ人、楽器を演奏してやはり金を稼ぐ人、マージャン・将棋・トランプはお決まり。いたるところで熱戦が展開されている。男も女も無い。見物人から、散歩人からてんやわんやの人だかり。初めて見る光景に軽いめまいを覚えるほどだった。

帰りは不安に駆られ、散歩を兼ねて30分の道のりを歩いて帰ることになってしまった。情けない。しかし愉快な一日だった。


9月22日(金)
中国の床屋へ

今日は、中国に来て初めての床屋だ。李行さんにお願いして一緒に行ってもらう。床屋は彼女がいつも利用する「美容院」だった。五一路の繁華街の一角にある。客は若い女性ばかりで戸惑う。

彼女もどこに行けばいいのか分からないから、困った挙句にいつもの店に相談したのかも知れない。「中国は男女一緒」だと彼女はいうが本当かと疑問を持つ。腕は大丈夫かと思う。しかし入ったからにはまな板の鯉になるしかないと決める。

すぐ洗髪専用の椅子に座らされ、仰向けに寝かされる。頭の部分に先発用の流しがあり洗髪される。変な気分だ。洗髪はいわゆる理容師ではなく洗髪専門の小姐だ。何やら話しているが聞いても分からない。どうも私の襟のところに水がかかっているから注意してと彼女が言ったらしい。細かい気遣いに感心する。次は散髪の椅子に移動する。女性ばかりで目のやり場に困る。

若い男の理容師(かどうか?)が来た。あらかじめ用意したメモと髪型を書いた紙を渡す。彼女と話して散髪開始。初めから最後までバリカンだった。器用に仕上げていく。私は近眼だから鏡がよく見えない。

私のいつも行く日本の床屋は大将が私専門でやってくれる。最初バリカンだが仕上げは鋏を使う。経験と勘がなす業ですばらしい。日本でも若い理容師は刈り上げ・短髪のスポーツ刈を鋏で仕上げるのは苦手らしいと聞いたことがある。

どう仕上げたのか、やがて作業が終わり、メガネを掛けて仕上がりを見る。やや頭の上の左右が張り出していたので修正をお願いした。もちろん彼女が通訳だ。通訳を伴って床屋さんに行くとは貴重な経験だなと思う。

彼女は「襟のところを剃って」とかあれこれ注文をつけていた。ありがたい。いわゆる髭剃りはない。やや不満だが仕方が無い。

どうも男専門のいわゆる「理容院」もあるらしい。そこへ行けばいいのに彼女の苦労が伺える。ありがたいと思う。

それにしても全部バリカンで仕上げるとは恐れ入った。仕上げもなかなかだ。文句なし。料金は22元(330円)だった。日本の十分の一だ。

帰り、お礼に五一路のレストランで海鮮料理を食べた。「盛記海鮮酒楼」という高級餐庁だ。上海蟹のような蟹と桂魚、キクイモのスープ、野菜料理、ビールにジュース。魚はコックが生きた魚を最初に見せに来た。鮮度を確認させるためらしい。面白い。蟹も魚もすこぶる美味しかった。食事代は200元(3200円)。大奮発となったが楽しい一日だった。


9月23日(土)
wannpa-

午後ピ君が来る。ピ君何やらメモリースティックのようなものを取り出して、私のパソコンから写真をコピーしたいという。日本語対応のパソコンだがいとも簡単にコピーした。そういえばこの前は女子学生が来て、これまた自分のアドレスに写真を送信していた。いずれも簡単にやってのける。すごいなと思う。

一般にまだ自分のパソコンを持つのは少ないようだ。彼らは一様に「ワンパー」なるインターネットカフェイに行ってよく遊ぶ。

若者の溜まり場のようで、社会現象にもなっている。学校に行かず日長ネット遊びに興ずる若者(小・中・高校生)がいるようで非行にもつながる現象も起きているらしい。

パソコンは無くても自分のアドレスがあるから、メールの交換も盛んにしているようだ。日本の友達もたくさんいるといわれビックリだ。

「先生QQをしますか」と聞かれ「何ですかそれ」というと、カメラ付のパソコンで相手の顔を見ながら会話をするらしい。日本の若者とも盛んにしているという。「日本語の勉強、日本のことを知るのにとてもいいよ」という。

一度学生に誘われて「ワンパー」なるインターネットカフェイに行って見たが、若者で大賑わいだった。いずれもヘッドホーンを付けてゲームに熱中していた。若い女性も多い。大学の近くだから学生なのかもしれないが、真昼間から満員だ。不思議な雰囲気を感じる。

パソコンを持っていなくても彼らの技能は相当なものだと思った。私も日本に帰ったら「QQ」なるものをして見ようかと思う。世界中の友達と「顔を見ながら会話」が出来れば、それは面白いなと思う。もっとも彼らはイケメン狙いだから、いきなり爺が顔を出したら即却下だな。良し悪しか。

しかし中国にできたたくさんの教え子達と「QQ」ができればそれは楽しいことに違いない


9月24日(日)
「先生・小姐・女士」

夜いつもの李行さん、ピ君と3人で食事に出かける。学校の近くの「人民公社」といういかめしい名の餐庁だった。

いつものように盛り上がった会話が続く。人民公社という名前に刺激されたか、政治や経済の話になった。

いくら私の学生とはいえ、中国の青年達である。話題を慎重に選びながら会話を進める。彼女は23歳、ピ君は32歳だったか。それで2人には価値観の開きが相当あるという。彼女いわく。「彼はおじさん!」と。何をかいわんやであるが事実らしい。

激動の中国をこんなところにも感じるのだ。しかし2人とも政治や経済の話には熱心で、日本の浮いた若者達とはずいぶん意識が違うと感じる。経済格差や公害、食品の安全等に触れてみたが真剣に話を聞いてくれた。

ところで彼らは「人民公社」なるものを知っているのだろうかとふと思った。文化大革命についても然り。今は別世界のことだろうなと思う。彼らの親達の青春時代の話だ。

話題が変わって、中国の男性は皆家庭で料理をする。買い物もするという話だ。李行さんの父親は料理がとても上手だとか。ピ君も料理は大丈夫という。この話になると、男女平等に働く中国の生活文化を感じる。

「大竹先生はしますか」というから、とりあえず胸を張って「しません」という。「どうして」「奥さんは家にいるから」「奥さんがかわいそう」というお決まりの会話になっていく。「そういう時代だったから。今の若い夫婦は夫も結構するらしいよ」で話を打ち切る。

ところで餐庁で働く女性を小姐というが、李行さんも小姐でいいのか聞いてみた。街に行きかう一般の女性に「小姐!」と声を掛けるのは失礼とか。上に苗字をつけて「李小姐」ならいいそうだ。レストラン、店、ホテルなどの働く女性は「小姐」でいいというからその区別は何かと思った。ちなみに「女士」は結婚している女性をいうらしい。男は「先生」だ。学校の先生のことと思ってはいけない。

食後李行さんをバス停まで送って3人は別れたが、私はまだ煌々と明かりの灯る学校の教室をのぞくことにした。本当に熱心だ。たくさんの学生が大声を出して勉強していた。黒板には参考文型や単語がびっしりと書かれている。私が教室をのぞくと大きな歓声で迎えてくれた。そして質問や取り止めの無い会話で盛り上がる。

気がつくと10時半だった。宿舎に帰ると程なく電話が鳴る。李行さんだ。「先生!、どこに行ったんですか」と。彼女は私が行方不明になったかと心配して何度も電話したらしい。確かに学校の回りは夜ともなると明かりが少なく、人の顔も判別できないほど暗い路地もあるのだ。スリがいたり物取りがいたりするらしい。油断禁物だ。 

学校は11時には校門がピタリと閉められ、警備員の人が学校を守るから安心だが、皆に迷惑掛けない為にも用心することにする。李行さんの細やかな気配りに感謝。


9月25日(月)
わび・さび

今日の授業は「会話」と「みんなの日本語44課」だ。44課は語彙の導入。「中国語版」を使うから説明は簡単だ。むしろ私の中国語の勉強になって面白い。学生は「先生、発音がおかしいとか、四声がおかしい」とかやかましい。問題は会話の授業だった。何と「わび・さび」が登場してきた。前夜準備はしたがどう展開したものか悩んだ。

要は「質素で趣のある生活や心情を求める感情で、古来より日本人の心として伝わる生き方」としてみたものの、説明は難し。

平家物語、方丈記、松尾芭蕉など描きながら、「もののあはれ」から説明に入る。人の死や別れ、ねたみや嫉妬、金銭や、支配欲などを例に出しながら「人間の欲望や執着」「そしてやがては全てが滅する人間の性」につなげ、日常に生きる人間のあり方や生き方を感じさせたかったが、どうどうめぐりで結局1時間全部使ってしまった。

激動の中国、凄まじい競争原理の真っ只中にある中国の若者達に、「異次元の世界」を感じさせたかったので、少々むきになったきらいがある。数千年の歴史を持つ中国だ。どこかにその琴線に触れる心情が眠っているはずだと、熱を持って説明してみたものの、さて?だ。 

実際、今の日本人にも「わび・さび」は古の彼方の世界だから、目の色変えて突き進む現代中国の若者達には、それを感じるゆとりなど「無用」かも知れない。

夕方の湘江には川べりに白いプラスチックの椅子がずらりと並ぶ。たくさんの椅子を堤防の上から川原まで担いで運ぶのだ。大変な作業だ。

最初は何だろうと思ったが、結局夕涼みに訪れるカップルに有料で貸すのだ。川原には照明が無いので上から眺めるとほぼ真っ暗に等しい。絶好のデートスポットだ。「わび・さび」どころではない。たくましい長沙人の金銭感覚を見る思いだ。


9月26日(火)
博覧会と花火大会

今日は朝から長沙のテレビが日本の経団連会長(伊藤忠)の来訪と中部地区(中国の)博覧会開会式式典のニュースを伝えていた.

学校に行くと、何でも日本人が1000人も来ているという驚くべき話を聞いた。大阪の財界人を中心に大変な訪中団だ。 

開催されたら日本人に会えると、翌日早速遠い会場までタクシーを飛ばして李行さん、ピ君を連れて訪れた。日本を紹介できると意気込んで行ったのだが、1000人どころか一人も会えなかった(いなかった?と思う)。「日本会場」なるものも無いのだ。

中央政府の大物も来て挨拶したり、歌や踊りもあり一日中式典の様子を伝えるのですごい博覧会だと決め込んで行ったのが間違いだった。結局中国中部地方(湖南省を中心として)の物産展のようなものだった。

先端産業などの紹介や展示はまったく無く、観光、食品、漢方薬などの紹介が中心だった。外国館なるものもひとつも無い。「朝からあんな大きな式典を実況して・・・」という感じを残して帰って来た。中国は何でも祭り好きで派手好みかとも思う。

さて、今日は夜、湘江の川べりでは花火大会があるという。「とても綺麗で賑やかだから是非行きましょうと学生達に誘われた。元来花火好きな私。日本の様な花火大会を想像して、夕方学校から勢いタクシーに乗って学生達と出かけた。

タクシーは会場とまったく違う方向に走り出す。湘江沿いの大通り(6車線)は交通規制で通れないという。私は勝手に「すごい花火大会だ」と決めつける。その通り、会場からはるか遠いところで降ろされた。

おびただしい人の数。恐ろしいほどの人々が肩をぶつけながら一方方向に歩いている。バス、車、単車、人みんな一緒くただ。「スリに気をつけて」と学生がいう。緊張だ。

会場に近づくと、ますます恐怖がわくほどの人いきれだ。長沙市民150万人全部が集まったかと思うほどの迫力だった。

当然ビューポイントには入れない。右往左往する。そんな中でも、道端にちゃっかり椅子を並べて金を稼ぐやからもいるからすさまじい。この群集に否が応でも期待が高ぶる。

昼の博覧会に来ている来賓?か、日本人もいるのか定かでないが、人で埋まって身動き取れない道路を、パトカーを先導に何台もバスが進入?して来た。警笛を引っ切り無しに鳴らし無理やり進入だ。日本では考えられない光景だった。8時開始というのに、バスも立ち往生。来賓が到着できないのだ。案の定開始は30分も送れてオープニングだ。誰も不満を言わないのが不思議。「遅れて当たり前」。うーん中国人は心が広い!。 

次々に上がる花火に群集は歓声を上げる。「アイヨー!」とか何とか。掛け声が愉快だ。しかし筒場が近いので、音はすごい迫力だが内容はいまいちだ。火薬の発明は中国という。戦乱を制する最強の武器は火薬だ。歴史と伝統に裏づけされた中国花火。是非見たいと期待したが、結局単純な色彩の花火がほとんどだった。

動きに趣向を凝らした花火や、空中で止まったように見える花火は面白かった。学生は「湖南省の花火は有名です。世界の大会で優勝している」と胸を張るが、今夜の花火は期待はずれだった。しかも1時間で終わってしまった。日本だと、フィナーレにはそれにふさわしい花火が上がり、歓声とともに終了するのだが、そんな流れも無い。私の心は不完全燃焼のままお開きとなってしまった。

「わずか1時間足らずの花火にこれだけの人が集まるか」・・・うーん。帰りがまた大変で、どれだけ待ってもタクシーは拾えない。何時間歩いたことか。

学校の門限は11時だ。ついに歩いて帰ることにした。こんなことなら、初めから歩けばもうとっくに学校についている時間だ。疲れ果てて学生と歩く。時間が無い!。大変だ。校門が閉まってしまったら・・。焦る。ついに後20分も歩けば着く辺りで、たまらず、タクシーならぬ、オートバイタクシーに乗ることにした。初乗りだ。学生と2人乗り。学生が交渉する。10元という。何でも良い。早く学校に戻らないと。

校門に着いたら11時05分だった。守衛さんがニコニコと迎えてくれた。やれやれだ。翌日学校に行くと、「11元」は高いですね。儲けましたね」。?、主語は誰?という変な日本語で笑われた。


9月29日(金)
旅行準備と飲茶店

いよいよ中国版ゴールデンウイークだ。私の場合10日間も続く。今年は珍しく国慶節と中秋節が重なり長期の連休となった。日本でも「中国の民族大移動」とか何とかニュースが流れているのではないか。

せっかくの機会だからと4泊(車中泊1泊)5日の大旅行をすることにした。野村先生と私、通訳兼ガイド役をお願いした学生の李行さんと3人で、湖南省の世界遺産「張家界」と猫族の町「凰風」を訪れることにした。

もちろん李行さんたってのお勧めだ。もちろん中国でも超有名な観光スポットだ。行きはバスだが、帰りは夜行寝台車に乗る。中国で夜行寝台車に乗るのは初めてだし、行く前から感激している。

旅行の計画から旅行社の手配まで全て李行さんがしてくれた。李行さんの親身の親切に心から感謝だ。今日は旅行準備と旅行社への支払いを済ませる。明日から出発だ。

支払いを済ませた後、李行さんと街中の「中国茶館」なるところに入ってみた。中国茶の「本格的な飲茶」を期待して興味津々。落ち着いた雰囲気に期待も高まる。

すぐチャイナドレスを纏った小姐が物静かに近寄ってきて注文を聞く。それは全て李行さんまかせだ。さすがに李行さんも経験が無いらしい。戸惑っている様子が伺える。

やがて注文のお茶とセットが運ばれてくる。小姐のする中国茶の作法に見入る。急須に湯が注がれ暖められる。小さな湯飲み茶碗にもあふれるごとくお湯が注がれる。そしてそれは先ず捨てられる。そして飲用のお茶が立てられる。何杯でもOKだ。

ただ驚いたことは、同時に「スイカ」「落花生」「菓子」「干しぶどう」「ビスケット」などがどっさり出てきたことだ。李行さんも笑っている。私は目をパチクリだ。後で聞いたが、粥や焼き飯のサービスもあるとか。

いくら高級茶でも同じ茶ばかりではと、李行さん気をきかせて他の茶をサービスするよう掛け合ってくれた。そんなこと日本では絶対あるまいに、何と別のセットを持ってきたではないか。

それにしても目の前の山盛りのおつまみは・・・。確かにお茶は美味しかったが・・・・。これ本当に「伝統の飲茶」か?・・・。疑ってしまった。

今でもあれはおかしいと思っているが確かめてはいない。ただし値段は何と100元だった。一人50元となる。中国の水準では超高価といえるだろう。客も私達2人しかいなかったから。

お代わりも出来るし、食事もサービスなんて何とも不思議な中国茶館の体験だった。2人は笑いながら店を後にした。

もし、京都かどこかで「お茶」でも飲んだら、多分「高級饅頭1個」だろう。それで幾らかは知らないが。


9月30日(土)
旅行代金

今回の旅行費用は一人当たり概算4万円弱。内容を紹介しよう。日本では絶対考えられない安さだ。

3泊5日。最後の一泊は夜行寝台列車だ。ホテルは五ツ星級ホテル2泊。凰風では遊覧船の行きかう美しい川べりや街並みが一望できる絶好のロケーションに位置する瀟洒な木造の旅館に1泊。二階のベランダから、彼女が入れてくれたコーヒーを飲みながら3人で至福のひと時をすごした。

行きは6時間あまりのバスだったが、ガイドの質の良さは日本と比べようも無い。張家界に着いた午後から3日目の午後5時ごろまで山岳専門のガイド付き(タフで物静かな親切な中年の男性だった)。

ホテルから登山道の入り口まで毎日専用のワゴン車が送迎してくれる。鍾乳洞、登山入山料、ギネスに載ったという長いエレベーターや何回も乗るロープウエイ代、全ての食事代、張家界駅から凰風までの列車代(軟座指定席)、吉首駅から凰風へは夜の真っ暗な道を猛烈なスピードで1時間半もかかる距離だが、これもチャーター車で、ガイド付き(2日目も)。

遊覧船代、食事代、ガイド代、最後は待望の夜行寝台列車。何もかも含んで4万円弱。日本でこんな旅行をしたら・・計算できないがおそらく一人20万円はかかるだろうと見る。そんな超贅沢な旅行をしてしまったのだ。 

今日は朝8時、長沙駅のバスターミナルから世界遺産、張家界(チャンチャーチエ)に向かう。ハイウエイをひたすら走る。張家界市は市街地と山岳入り口付近の街並みとはずいぶん様子が違う。ホテル周辺から入山地点までは観光化されたお洒落なホテルや売店が続く。10年先には「東洋のスイス」のような観光都市になるかもしれない。

この日最初に訪れたのは鍾乳洞だった。スケールの大きさを期待したが、特記するようなものではなかった。アップダウンがきつく、健脚で無いと辛い。ただ鍾乳洞を案内するガイドは地元「土族」の娘で、それはそれは美しい娘だったと記しておこう。民族衣装も言葉にならないほど美しい。

夜は奮発して土族の舞踊や歌を見に行った。これも写真で紹介しよう


10月1日(日)
張家界登山一日目

今日は本格的な登山だ。毎日学校の周りを歩いているから大丈夫と気合を入れる。

6時半起床。ホテルの周りをジョギングする。朝食はバイキングだが、上海のホテルと比べると随分落ち世界遺産張家界の五ツ星級ホテルといえどもここは湖南省の最果て、まだまだの地方文化の強い少数民族の地だ。

ガイドによると今日は登山6時間コースという。若い頃なら健脚で鳴らしたこの脚、「屁」とも思わないことだが今はこの齢、不安が走る。

チャーター車のお出迎え、山岳専用のバスで入山口へ。ギネスに載ったという高層エレベーターで一気に上がる。

奇岩変岩の連続だ。NHKの特集でここを中心に活躍する地元の画家の墨絵のドキメンタリーを思い出した。見事だ。一見の価値十分だ。

それにしても、ここまで来てこの人の多さ。ビューポイントにはほとんど入れない。皆写真を撮るからなおさら人が渋滞する。写真を撮る彼らは隣の人を追い払う。周りに人がいないことを装いたいらしい。日本では考えられないね。韓国人がやたらと多いのも特徴らしい。直行便があるらしい。日本人は一組くらい見たように思う。

昼食は、山頂の小屋で「トマト・たまごスープ」「鶏肉豆野菜の炒め物」「ジャガイモの炒め物」「豚肉野菜の煮物」「ご飯」だった。幾らか知らないが、李行さんが気を利かせてくれて辛くなく美味しかった。ガイドも一緒に食べようといったが彼は遠慮して食べなかった。律儀な人だ。

張家界は同じ湖南省にある観光地だが、ここ省都長沙から400キロも離れているのだ。400キロといえば東京から大阪付近まで行ってしまう距離だ。湖南省自体21万平方キロ、人口6500万人というとんでもない大きな省なのだ。日本が37万平方キロ、人口1,3億人として考えてもらいたい。そんな遠距離を今私達は訪れているのだ。中国は広い。

様々な石峰やそれにへばりつく松の木々、秋は美しいであろう紅葉の木々など壮観だ。ただしこのおびただしい人の数が・・。「国慶節は民族大移動」を思い出す。これも貴重な経験だなと納得する。

特に下山は大変だった。標高1100メートルほどの山だが、私達は下山道全ての距離を歩いて降りた。さすがに最後は「ひざが笑ったね」。明日も又登山だと思うと大丈夫かと案じた。

下山道全てが石の階段なのだ。タイミングよく「かごや」が声を掛ける。人の歩き方を見て声を掛ける。ここで乗っては「一生の恥」と意地でも乗らないことにする。幸い野村先生が疲労の極に達している模様で、若い李行さんもダウン寸前の様子。彼女は歩き方を知らないので、休んでは一気に階段を駆け下りるから余計に疲れる。

注意しても体がいうことをきかないらしい。だから私はまだ気楽に自分のペースで降りられる。ガイドはさすがにあきらめたか、安全を確認するとさっさと降りていく。ガイドの待つところまで行くと「さあ行きましょうか」とくる。テンポが合わないのだ。最悪。

途中でたまらず高いみかんを買う。その美味しいこと。まさに「蜜の味」がした。

ホテルに帰った後、食後に3人でホテル内にある按摩にいさんで出かけたが、どうも変な雰囲気だったので止めることにした。女主人らしき人が李行さんに「どうして帰るのか」と聞いたようだが、嫌なものは嫌だ。


10月2日(月)
張家界3日目と列車

今日は3日目。今日も登山だ。前日の疲れが残る。帰りは再びあのきつい石段をを下りるのかと思うと萎える気分だ。

9時半出発。登山バスを降りて2時間の登りだ。中国第一の森林公園という。李行さんお勧めのハイキングコースだ。

ここ張家界は様々な登山コースがあり、全山を回るとすれば一週間でも周れないという。総面積369平方キロというから、約20キロ四方の一大山岳公園だ。

年中ほこりと霞に曇る長沙と違い全コース石畳の森林浴にふさわしい懐深いすばらしいハイキングコースだった。途中の休憩所では美しく着飾った土族の娘達が笑顔で迎えてくれる。一緒に写真を撮れと商魂たくましい。

2時間のコースは終わったが、今度はロープウエイで山頂へ。昨日の逆のビューポイントだという。ガイドがどうしても見せたいという。昨日はあちらから見たと指をさすが、私には昨日も今日も同じ景色に見える。ロープウエイは大混雑で、乗るのに1時間も待たされた。結局山頂での昼食は午後2時ごろとなってしまい大幅な日程の遅れとなってしまった。

全山禁煙!。きつい。休憩所まで禁煙を強いられる。私が「吸煙吸煙」いうとガイドが笑っていた。しかし遅れが幸いして下山もロープウエイとなった。ありがたい。

到着駅にワゴン車が待っていた。みやげ物を買う時間も無く、車は張家界駅に向けて突っ走る。列車は5時30分だ。1時間半、猛スピードで何とか間に合う。

いよいよ待望の中国鉄道だ。機関車の写真を撮る暇も無く列車に飛び乗る。指定席だが、後で分かるが皆必死に走る。どうして?と思うが流れに逆らえない。それに中国では勝手にホームに出ることは出来ないのだ。アナウンスがあるまで、待合室で待つ。すごい人数だ。大きな荷物、たくさんの人々。怖さを覚えるほどだ。「スリ」「置き引き」に注意だ。

アナウンスがあると待合室の扉が恭しく開く。すると皆一斉に走り階段を駆け上る。大変な光景だ。超長大な列車らしく、私達の車両ははるか遠くだった。疲れ果てて、相当落差のある車両にどっこいしょと乗る。

やれやれだ。一息ついて周りを見渡すと、何と座席は無論のこと、車中人で満員ではないか。トイレもいけないほどの混雑だ。李行さんに聞く。「これ指定席車両でしょ。どうして」と。李行さんは笑うばかりだ。

私達の席は3人掛け。前の人は4人座っていた。反対側は2人掛けサイズだ。斜め前の席には、2人が座っていたが、一人は子供を抱えた女性であった。

列車は走り出す。わくわくする。まだ夕方で外の景色が見える。農村の光景が見える。夕方だからか、うら寂しいような荒漠たる光景が見えた。

まもなくすると若い綺麗な女性が人を掻き分けやってきた。自分の座席を探す。何と子供を抱えた女性の席だ。当然立ち上がると思ったが、何と女性は一笑
してそのままだ。若い女性は文句も言わず立ったままだ。しばらくして、さすがに悪いと思ったか、子供を抱えたままわずかに窓側に詰め寄った。窓側の男性も文句を言わない。15センチほどあけて、その女性に座れという。女性は何か小声で言って15センチの席にわずかに腰を乗せる。「これはすごい。油断ならない」と構える。

満員なのにタバコは吸い放題。皆盛んに何かを食べ出す。そんなところに車内販売が来る。重労働だろう。食べかすは窓からポイポイ・・。通路はあっという間にゴミだらけだ。中国の列車は「一応指定席はある」ということにしておこう。うーん異文化。


10月2日(月)凰風
あっぱれ小李!

張家界から列車、チャーター車(ハイエース)と乗り継ぎ、ここ凰風(ホンホアン)に着いたのは夜の9時半だった。鉄道駅・吉首から凰風間までは1時間半ぐらいかかる。

中国の夜道は暗い。行きかう車も少ない。真っ暗な並木道をひたすら走った。トヨタのハイエースは長沙でもよく見かける人気車だ。私も日本で愛用しているので懐かしい。それにしても今日はハードな1日だった。野村先生が風邪気味でへばり気味なのが気にかかる。

夜の凰風は言葉に表せないほどノスタルチックな町だった。猫族(ミャオ)の町、二度と訪れることの無い異国情緒たっぷりの町だ。川べりには木造の瀟洒な旅館が果てしなく続く。入り組んだ路地をガイドに案内されてひとまず旅館に入る。

夏の凰風は若者の町だった。青年男女であふれかえっている。反対側の川べりには無数の土産物屋や食堂が立ち並び、否が応でも私の心を高ぶらせる。

私の部屋は木造の3階だった。ベランダに出てみると赤や黄色のネオンや赤いちょうちんがきらきらと川面に浮かび、夜風が気持ちよさそうに川筋の柳を揺らしていた。

ほどなく野村・李行さんがやってき3人でしばし夜の凰風を眺めた。湖南省のしかもこんな奥深くにこんなにすばらしい町があるのかと、言葉も出ないほど美しい町だった。明日が楽しみだ。

夕食には遅すぎる時間だが私達は食事に出ることにした。もちろん車は通れない狭い路地がくねくねと続く。こんな時間だが路地は人でいっぱいだった。

ガイドの勧める食堂に入る。新鮮な魚が食べたいと言うと、李行さんはナマズを注文したようだ。大皿に尻尾がはみ出しそうな巨大ナマズだった。子供の頃、魚つかみには憧れの魚だったが今日まで食べたことは無い。

彼女は「美味しいよ」と笑う。野菜料理にナマズ料理だ。用心しながら一口つまんでみる・・・・。美味しいのだこれが。ぷりぷりした肉感と皮のぬるりとした食感がいかにも栄養たっぷりを思わせる。ビールで乾杯!。ハードな一日に会話の花が咲く。

そして、ほどなく二胡の流しのお兄ちゃんが入ってきた。哀愁漂う二胡の音色に酔いしれる。思わず10元を差し出す。するとお兄ちゃんは私の隣に座って演奏しだした。サービスに3曲演奏するという。他の客も会話を止める。店の店員達も聞き入る。至福のひと時だった。 

余韻に浸って帰ろうと飯代を払おうとした。すると李行さんが突然大声を張り上げた。何事か。料金は115元(1700円ほど)だった。3人で名物料理、凰風の生きた大ナマズ料理、野菜2皿、ビールにご飯だ。一人600円弱。日本人の感覚ならまだ安いと思うだろう。しかも夏の凰風は観光客の押し寄せる絶好のかきいれどきだ。

李行さんの顔に似合わない粘りの交渉が続く。店の主人も出てきて交渉だ。中国語の会話だから分からない。李行さんは100元渡すと一歩も引かないのだ。若い女店員が主人に報告する。あきらめたようだ。100元でケリ!。・・・。

あとで聞いたが、「最初に値段を言わなかったから、向こうの間違いだ。ナマズが100元とは聞いていない」というのだ。高すぎると。「長沙にもナマズ料理がある。比較して高すぎる。値段も聞いていない。だから私はナマズを80元にした。」と。う~んあっぱれ!李行さん。「君はすばらしい奥さんになる」と褒めた。

実はこれも後で聞いた話だが、李行さんにはもうひとつ密かな怒りがあったという。それはガイドのことだ。どうも凰風のガイドは月給1000元の他に案内する店で客が買い物をすると、ちゃっかりバックマージンを要求しているというのだ。だからその分安くさせたと。・・・またまたそのしっかりぶりに感服だ。「小李!、君は何とすばらしい娘か。聡明聡明!」と叫んでしまった。


11月17日(金曜)

食後李行さんをバス停まで送って3人は別れたが、私はまだ煌々と明かりの灯る学校の教室をのぞくことにした。本当に熱心だ。たくさんの学生が大声を出して勉強していた。黒板には参考文型や単語がびっしりと書かれている。私が教室をのぞくと大きな歓声で迎えてくれた。そして質問や取り止めの無い会話で盛り上がる。

気がつくと10時半だった。宿舎に帰ると程なく電話が鳴る。李行さんだ。「先生!、どこに行ったんですか」と。彼女は私が行方不明になったかと心配して何度も電話したらしい。確かに学校の回りは夜ともなると明かりが少なく、人の顔も判別できないほど暗い路地もあるのだ。スリがいたり物取りがいたりするらしい。油断禁物だ。

学校は11時には校門がピタリと閉められ、警備員の人が学校を守るから安心だが、皆に迷惑掛けない為にも用心することにする。李行さんの細やかな気配りに感謝。