優しさと強さの光

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

 世界を知り、日本を見て、目頭が熱くなる。どうして、どうして、コロナなんかあるんだ。コロナなんてなければ、、、。私も世界の人と同じ思いを持っている。パンデミックが始まってすぐは、「教科書に載るような歴史の中にいる」と自分を客観視できていたが、まもなく不安な世界にもぐり込んだ私は、苦しんだ。自分にできることは何か考え、いま与えられた場所で学び、寮の仲間と直接、そしてオンラインで人と繋がり続け、触れ合いながらこれまで過ごしてきた。

 マニラでの半年間を振り返ってみると、様々な感情が蘇る。Rickatelo2という宿舎で、私も含め5人のAPS学生と同じ屋根の下で暮らした経験は、このプログラムで得た大きな収穫、人生の宝物となった。様々な感情の入り混じるマニラでの生活全てにおいて、私たちは楽しいことも苦しいことも共にした。衣食住を共にし、生まれ育った国が違うことで、価値観、考え方が大きく異なることを肌身で感じ、毎日が学びの連続だった。

 留学生活のはじまり。私たちの期待とは裏腹に、フィリピンに到着して1週間でマニラはロックダウンした。大学に行くことが許されなくなった私たちはオンライン授業を余儀なくされた。ロックダウンを前に「パニックショッピング」している私をよそに、カンボジア とインドネシアのクラスメイトは冷静だった。インドネシアのRazaqは、スマトラ沖地震も経験しており何日も水や電気がないところで暮らしていた経験がある。また、普段からも田舎の農場で数ヶ月過ごした経験があり、「米と水と塩さえあれば生き延びられる。お店も全て閉まるわけではないから、大丈夫だよ。」と焦り緊張する私を立ち止まらせた。カンボジア のMonyは、寮から出られないマニラでの生活に潤いを持たせてくれた。彼女は、アボカドを食べた後、残るタネを瓶に入れ、栽培し始めたのだ。彼女の部屋は他にも様々な植物でいっぱいになり、私たちがマニラを離れる頃には、アボカドは立派な芽を伸ばし、瓶に納まりきらないほどに成長していた。タイのNawitは毎日美味しいタイ料理を作っては、私たちに振る舞った。そして日本人のToruさん。私たち5人は常に一緒だったので、Toruさんと日本語で話す機会はほとんどなかった。私たちは毎晩食事を共にし、なんでも話した。授業のこと、フィリピンのこと、自分の国のこと、家族のこと、これまで携わっていた仕事のこと。そして激しい議論も交わした。貧困について、ジェンダーについて、環境について。なんでも、なんでも語り合った。

 彼らの話、考え方、全てが私にとって新鮮で、忘れがたいものであった。カンボジア のMonyはプノンペンで女性の権利のために10年間働いていた。彼女にとって、女性の職場での活躍や自由は譲れないもので、若い女性たちに勇気を与えることは彼女の生き方、人生そのものだった。Nawitはタイ政府職員として環境部門で勤務していた経験があり、日本を訪問してゴミ処理の取り組みについて学んだ経験もあるそうだ。インドネシアのRazaqは弁護士のたまご。ロースクールを卒業し、弁護士資格まで取り、このプログラムが修了した後、最後のプロセスを経て弁護士になるそうだ。そんな彼はこれまで自分の生活もままならないほど経済的に大変だったそう。彼の仕事は弁護だが、農民などの弁護にあたるため、貧しい農民からほとんど収入を得ず、その代わり、収穫された米など頂いて食べていたそうだ。彼の弁護事務所の特徴は、富裕層ではなく、農民や社会的弱者の権利のために弁護すること。給与はあって無いようなもので、あるときは家賃が払えなくて職場の事務所に寝泊りしていたと聞き、私は思わず頭が下がった。そしてJICA海外協力隊に参加していたToruさんから聞く発展途上国の現状も、私にとって未知の世界だった。そんな仲間と、中国のバックグラウンドを持つ私の5人は、同じ屋根の下、家族となった。

 ハプニングも多々あった。私は部屋で全身ダニに噛まれてしまい、その正体がわかるまでは原因不明の痒みを堪えながら勉強に励んでいた。仲間に相談すると、すぐに「ベッドを干した方がいい」と言われ、床に寝たりして痒みから逃れた。そして慣れない料理に何度も指を切ったり、やけどをしたりした。ある時、電子レンジを開けた瞬間、中のものが顔面を直撃、顔に火傷を負ってしまった。同じ屋根の下の仲間たちはすぐに駆けつけ、湿布や絆創膏をくれたのだが、薬がなかった。今度は別な寮に住む同じ英語グループの仲間に問いかけたところ、皆から一斉にメッセージが届き、彼らの元に薬をもらいに行くことになった。すると玄関の前でグループのメンバーが待っていてくれた。私は思わず感動した。すると彼らは、「なーんだ。その程度の火傷か。」と拍子抜けしていた。どうやら、「顔に火傷を負った」という私のメッセージに、「顔全体に大火傷を負った」と勘違いしてしまったらしく、寮の部屋からみんな飛び出して駆けつけてくれたのだ。英語表現がまだうまくできない私は、彼らを余計に心配させてしまった。でも、あのときのグループのみんなの優しさを、私は忘れることはできない。英語中級クラスを共にしたスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア 、そして日本の仲間たち。国籍を越えた友情と思いやりに、私は怪我をしているのに心温まり自分の寮に帰ったことを覚えている。

 学習生活は過酷なものだった。とくに、フィリピンの大学での社会学の授業が始まり、それと並行して英語の授業を受講しているときは、寝る間を惜しんで課題に望んだ。皆口を揃えて、人生で初めてこんなに辛く苦しい勉強生活を送ったと言った。オンライン授業であったが、私たちは文字通り食事をする暇すらなかった。睡魔と闘い、食や物への欲求を全て捨ててただひたすら授業と課題に追われる日々を過ごした。もちろん、ストレスはあった。でも、私の周りには、オンラインでも繋がっている仲間がいて、理解してくれる先生方がいて、そして何よりフィリピンでの前期プログラムを無事終了してコスタリカに行きたいという強い思いが私たちを支えていた。「コスタリカに行くこと」はこのプログラムに参加する全員にとって夢であり、心の支えであった。

 そして8月中旬、私たちAPS14期生は全員無事にフィリピンでの前期のプログラムを修了した。しかし、楽観観できないコロナ情勢を受け、私たち同じ寮に住む仲間は、この状況でコスタリカに行けることはないだろうと薄々感じていた。フィリピンにいる私たちはきっとフィリピンで14時間の時差の中、国連平和大学の授業を受けることになるのだろうと思っていたのだ。

 しかし、8月中旬、日本人学生と、アメリカビザを保持するタイ人学生のみコスタリカに渡航することが決まった。他の東南アジアの国々の学生は、コスタリカ政府がコロナの影響でまだ受け入れを許可していないために渡航ができないからである。突然の知らせに私は驚き、嬉しさ同時に戸惑った。それは、そのときマニラに残っていた同じ寮の家族のような仲間MonyとRazaqと共にコスタリカに行けないからだった。私たちは寮にいる間ずっと、「これを乗り切ったらこのノックダウンしたマニラを抜け出して、一緒にコスタリカに行ける」と励まし合ってきた。あらゆる「平等」を学び、それを求めている私たちは、事情は理解するが、国のリーダーが決定した私たちにとって最大の「不平等」を目の前に、悔しさを隠しきれなかった。

 8月の最終日。私たちマニラに残っていた4人の日本人学生は東京に到着した。マニラを離れる飛行機の中、思わず涙がこぼれた。半年間、マニラでよくがんばった、、、。そしてマニラに残った東南アジアの仲間たちが一日でも早く彼らの母国にまず無事に戻り、コスタリカで再会できることを願った。

 コロナ渦で、「オンライン留学」というものに改めて注目が集まっているらしい。その国に行かなくても、自国で学ぶことができる。もちろん、様々なコストの面を考えると、確かに効率的なのかもしれない。でも、実際にその国を訪れ、人と接することで学ぶ経験は果てしなく尊い。

 授業のストレスでいっぱいになったとき、私とMonyはよく寮の屋上から外を眺めた。そして二人で様々なことを話した。時にはそこで涙を流した。そのことは、目の前の壮大な緑の景色と二人だけが知っている。英語の授業についていけなかった私は、何日か部屋に籠もりっきりで勉強した。Nawitはそんな部屋から一歩も出ない私のドアをたたき、ドアの隙間からプレートいっぱいの食事を差し出した。そして「ご飯はしっかりたべないといけないよ。」と言った。勉強につまずいて暗い顔をする私を川沿いに連れ出し、励まし、勇気をくれたRazaq。笑顔が絶えなかったRickatelo2では、大声で歌い露天カラオケをしたり、ズンバを踊ったり、討論したり、ご飯を食べたり、時には喧嘩をしたり。その一つ一つが私にとってはかけがえのない思い出である。キッチンで生まれる何気ない会話。顔色を伺い、わざと冗談を言っては互いの笑顔を作り、励まし合う。みんな英語が母語ではないけれど、互いの言わんとすることは完璧な英語でなくても、共通の単語がなくても伝わった。仲間の尊さを、異国で助け合うことの大切さを、私はロックダウンしてしまったこのマニラの寮で学んだ。その敏感で繊細な、そしていつも温かい仲間たちの心を感じ、通わせていた。仲間のさりげない笑顔を、涙を、その手の温もりを、料理の温かさを、私はいまでも覚えている。それらはきっと、オンラインでは得ることができないのではないだろうか。

 明日の出発を前に、約半年間のマニラでの生活を振り返り、言葉にしてみた。そしてこれまで中国で6年間、マニラで半年間と、長い間日本を離れていた私は、14日間の隔離後、東京の街を見上げながら、笑顔の声が小さくなってしまった日本に気づいた。経済は停滞しても、GDPが何位になっても、私はこの国を誇りに思う。私は日本が大好きだ。だから、日本人に幸せになってほしい。もっと欲張り、世界の人に幸せになってほしい。自分に科された使命を考え、ふと振り返った時、「日本」に戻る。私は最終的には日本に帰って来たい。海外で学んだ全てのことを生かし、日本の社会問題の解決のために力を尽くしたい。具体的には、自殺問題、いじめ問題、孤独死等の社会問題、そして最も解決したいのは、これらの問題にも繋がっている貧困問題である。ワーキングプア 、子供の貧困は私が最も関心のある社会問題の一つであり、マニラにおいても授業の傍ら半年間研究してきた。そんな私の夢への道が、今またコスタリカという土地で新たに切り開かれようとしている。これからどんな困難が待っていても、負けない、目標があるから。明日の渡航を前に、コスタリカの国連平和大学で過ごす日々に期待を寄せ、未来の夢へ突き進むことを誓い、出発の言葉とさせて頂きたい。コロナ渦で笑顔の声が小さくなってしまった世界に、優しさと強さは光を灯すことができると私は信じている。そして私もいつかきっとその一筋の光になりたい。

2020年9月18日
東京にて 吉永英未

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