中国人養父母感謝の碑 除幕式

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

平成26年1月23日(木)午前10時30分から天保山公園(鹿児島市与次郎)の共月亭南に表記の『碑』が建てられその記念除幕式がありました。

2年前に協会に参加した鬼塚建一郎さんは幼小時代を中国東北部の牡丹江で過ごされました。第二次大戦の末期に、日本人成人男子が関東軍により国境警備に動員され、住民の大半は老人と婦女子だけであった。このような状況下で終戦後は交通も途絶し、内陸部へ入植していた開拓民の祖国への帰還は困難を極めていた。

混乱の中で家族が離ればなれ、身寄りを失った鬼塚さんたち日本人の幼児たちは多くの中国人養父母に引き取られ、その家族の養育を受けることとなった。戦後、多くの日本人の幼児(孤児)たちは戦後遅く始まった「訪日肉親探し」により養父母のもとを離れ帰国した。

鬼塚さんは帰国後生活面で多くの苦労を味わったけれど、このように、ともかくも生き永らえて余生を日本で過ごせる身の上を顧みる時、終戦当時に自分たちに救いの手を差し伸べてくれた養父母たちに対して何か報いたい、感謝の気持ちを形であらわし、末永く後世に伝えて行きたいとあちこち訴えて来ました。

私たち日中友好協会の力を借り行政にも働きかけたいと、海江田会長に訴えられました。

記念碑建立は日中友好協会がする事業ではないけど鬼塚さんの気持ちはよく理解できます。と海江田会長は県や市に何度も足を運びその努力もあり設置場所については鹿児島市の協力で天保山公園の共月亭隣の景勝の地に場所が決まりました。

海江田氏と親交の深い前迫石材株式会社の前迫 実社長の破格の石碑代協力もあり全費用を遺華孤児鹿児島会と県・市日中友好協会の負担で完成することが出来ました。

当日は快晴に恵まれ、残留邦人、支援者60名程が碑の誕生を祝った。

除幕式では主催者側として鬼塚会長、海江田会長、椿県日中監事の3人、来賓側は李 天然中国駐福岡総領事を始め鹿児島県知事、鹿児島市長の代理のお二方が赤いロープを引かれました。高さ2.6mの碑が姿を現すと出席者から大きな拍手が起こりました。

海江田順三郎 鹿児島県・市日中友好協会ご挨拶

本日は寒さ厳しい時期に、またご多忙中の所、駐福岡中国総領事の李天然先生始め国会議員、鹿児島県、鹿児島市代表の御来賓並びに日本人遺華孤児会、日中友好協会会員のご参加を得まして「中国人養父母感謝の碑」の除幕式を取り行わせて頂きますことを誠にあり難く衷心より御礼申し上げます。 一年程前に遺華孤児会の鬼塚会長より、第二次世界大戦後、旧満州で肉親と離ればなれになり現地に置き去りにされた日本人孤児を引き取り養育して戴いた中国養父母の感謝の石碑を建てるのが永年の宿願であるが、なかなか実現できないので日中友好協会の力を借りたいとの申し入れがありました。

しかしこのような計画は全国でもあまり例を聞きませんので私共でも当初は協力を躊躇いたしておりました。けれどもよく考えてみますと国籍を超えて日本人の孤児を救済された中国養父母の方々の人道的行いはその恩恵にあずかった孤児だけでなく、日本人のすべてが中国の人々の恩義に感謝すべきであることに気づき、、また、「恩は石に刻め、恨みは水に流せ」と言う日本の古い諺も思い出されました。

昨年は丁度「日中平和友好条約締結」三十五周年に当たりましたので日中友好推進の記念事業として鬼塚会長の計画に協力を約しました。 その後紆余曲折はありましたが、幸いに鹿児島県、鹿児島市の御指導を仰ぎ当天保山公園に石碑建設の許可を昨年十月に鹿児島市より頂く事が出来ました。あらためて行政当局のご理解ご配慮に深く感謝申し上げる次第であります。

中国の古典「論語」に“孝は百行の本”―親孝行が人間のすべての行いのきほんである―と説かれています。 戦後、中国に残留を余儀なくされた孤児の会員が“育ての親”の中国人養父母への感謝と顕彰を実行したことは親孝行の一端となり、又日中関係改善への一石を投ずることになることを期待し粗辞ではありますが共催者の挨拶に代えさせて頂きます。

日中報道紹介

終戦の混乱で中国東北部に残された日本人孤児を育てた中国人養父母たちへの感謝の石碑が鹿児島市天保山公園で23日、除幕された。鹿児島県在住の中国残留邦人と同県日中友好協会が建立した同石碑の除幕式には、中国在福岡総領事館の李天然(りてんねん)総領事のほか、鹿児島県の伊藤祐一郎知事、同協会の海江田順三郎会長ら約60人が参加した。新華網が報じた。
「中国人養父母感謝之碑」と刻まれた高さ約2.5メートルの石碑には、「中国養父母の人道的精神と慈愛心に深く感謝し、ご恩を永遠に忘れません」と記されている。
李総領事は除幕式で、「日本の軍国主義が発動した侵略戦争は、中国やアジアの隣国に甚大な被害をもたらしたと同時に、日本の国民も大きな被害を受けた。日本人孤児はまさに戦争の被害者。中国の庶民はこれら『敵の子供』に憐みを示した。死の窮地から救い出しただけでなく、自分の母乳と広い心で彼らを大人まで育て、人類の戦争史上に仁義の歌を刻んだのだ。同石碑は、日本国民の中国の養父母に対する感謝の気持ちだ」と語った。

李総領事はさらに、「日本の指導者の歴史問題における逆行と靖国神社参拝問題における独断専行に対して、中国やアジア各国の国民は深い懸念を抱いている」と指摘し、「歴史を胸に刻むのは、恨みを抱き続けるためではなく、悲惨な歴史を繰り返さないため。正しい態度で歴史と向き合ってこそ、未来がある」と強調した。(編集KN)

 「人民網日本語版」2014年1月24日

解説

中国人養父母感謝の碑

平成26年1月23日(木)午前10時30分から天保山公園(鹿児島市与次郎)の共月亭南に表記の『碑』が建てられその記念除幕式がありました。

2年前に協会に参加した鬼塚建一郎さんは幼小時代を中国東北部の牡丹江で過ごされました。第二次大戦の末期に、日本人成人男子が関東軍により国境警備に動員され、住民の大半は老人と婦女子だけであった。このような状況下で終戦後は交通も途絶し、内陸部へ入植していた開拓民の祖国への帰還は困難を極めていた。混乱の中で家族が離ればなれ、身寄りを失った鬼塚さんたち日本人の幼児たちは多くの中国人養父母に引き取られ、その家族の養育を受けることとなった。戦後、多くの日本人の幼児(孤児)たちは戦後遅く始まった「訪日肉親探し」により養父母のもとを離れ帰国した。 鬼塚さんは帰国後生活面で多くの苦労を味わったけれど、このように、ともかくも生き永らえて余生を日本で過ごせる身の上を顧みる時、終戦当時に自分たちに救いの手を差し伸べてくれた養父母たちに対して何か報いたい、感謝の気持ちを形であらわし、末永く後世に伝えて行きたいとあちこち訴えて来ました。

私たち日中友好協会の力を借り行政にも働きかけたいと、海江田会長に訴えられました。記念碑建立は日中友好協会がする事業ではないけど鬼塚さんの気持ちはよく理解できます。と海江田会長は県や市に何度も足を運びその努力もあり設置場所については鹿児島市の協力で天保山公園の共月亭隣の景勝の地に場所が決まりました。海江田氏と親交の深い前迫石材株式会社の前迫 実社長の破格の石碑代協力もあり全費用を遺華孤児鹿児島会と県・市日中友好協会の負担で完成することが出来ました。

当日は快晴に恵まれ、残留邦人、支援者60名程が碑の誕生を祝った。

除幕式では主催者側として鬼塚会長、海江田会長、椿県日中監事の3人、来賓側は李 天然中国駐福岡総領事を始め鹿児島県知事、鹿児島市長の代理のお二方が赤いロープを引かれました。高さ2.6mの碑が姿を現すと出席者から大きな拍手が起こりました。

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