市岡隆次の長沙覗き見日記

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

2007年9月~2008年2月

にわか日本語教師の長沙覗き見日記

長沙市へ出発に先立ち思うこと:  2007年8月15日

念願の炭焼きに没頭しパソコンを開く余裕をなくしていました。 2歳の時死んだ父親が戦前に炭焼きで生計を立てていたそうです。一度はやりたっかたことでした、本日炭焼きの火入れ作業が終了、24日長沙に向けて自宅を出発します。
真夏の太陽の下、当地伊東市でも33度をこえ、さらに火を燃やす作業も、長沙の暑さに対する準備とおもえば楽しかったです、23日に炭の釜だしで終了です。すべてスタンバイです。
ビザ 航空券は本日入手しました。生活用品は廉価で買える中国、買って行くより買った方が徳との諸先輩方のアドバイスにより、カバンの中身は軽いもの。唯一重いノートパソコンは手持ちがいいとのアドバイス。

ホームページのタイトルは、(にわか日本語教師の長沙覗き見日記)でいかがでしょうか)
長沙での抱負、心情、動機について
民族が違っても人の感情は同じ、ただ 表現方が違うのか、感情の表し方が違うのか、その違いを楽しみたい。
人の幸福とは何か、日本人が忘れた時代の何かがあるのか、60年前の私を見つけるワクワクの旅がはじまる。

2007/08/07秋から長沙科技日語学院に赴任する市岡先生への手紙

市岡 隆二先生:

拝啓:暑中お伺い申しあげます。

さて、市岡先生には、この度、当校の発展のため、お力添えいただけるということで、たいへん感謝いたしております。

中国の発展に伴い、日本企業が増える一方で、通訳に対する要求も高まって参ります。実際、長沙でも今年に入り、通訳を必要とする企業が増えてきました。

学生によりよく環境の中で勉学に励み、卒業後に立派な通訳として活躍できるよう、学校側としても、よりよい環境を提供していかなければならないと考えております。

学生は日本事情や風習にたいへんな興味があり、市岡先生でしか教えられないことがたくさんあると思います。また、学校でも市岡先生が滞在中楽しく過ごせるよう努めていきたいと考えております。

わが長沙市に短期滞在されて、こちらの人々とのふれあいや文化などを体験されることを切に望みます。

職員と日本語を学ぶ学生一同心より市岡先生のお越しをお待ちしております。

集合写真中央が市岡さん 右は先日鹿児島を訪れた範例氏

2007/08/28覗き見の始まり

25日名古屋9時出発(日本時間) 10時20分(中国時間)上海着 諸先輩の話のなかで上海での乗換えが関門ときいている、名古屋空港の中国東方航空カウンターで乗換サービスとして上海空港で胸に付けるワッペンを貼る。

空港出口で係員の誘導を待つ、一度係員と会うことができた、言われるまま待っていたが、1時間経っても誰も来ない、仕方がない、有料のバスにのりこむ(30元) 虹橋空港まで1時間のバスの旅が始まる。

4車線の高速道路を行く、日本と同じように夾竹桃の花が咲いていた、その道路を1台の自転車が一杯の荷を積み悠然と行くではないか。

中国の光と影をみたようである。

虹橋空港13時着 長沙行きは18時40分、6時間半の時間待ち、とりあえずコーヒーで1時間、空港周辺を歩いてと思い外へでる。

暑い 体からどっと汗がでる、本年の日本も酷暑であったが、上海の暑さに恐れ建物に逃げ帰る、時間の過ぎるのが遅い、困っている時、ふと、日本の空港と違っている、国が違えば当然違うのがあたりまえである、でも、それ以上に何かが違う。

なにが、と考えているうち、赤が多いんだと気がつく、空港のそとに中国国旗

その周りに7,8本の赤旗 ビルの広告 建物内の人々の色 室内の配色。時間つぶしが始まった、空港の外れに座り込み、通行人をながめだす。

赤い服 帽子 鞄の人数をかぞえてみる。200人まで数える、その内赤い色を所持していた数は39人 ワンポイントの色はのぞいてある、彼 彼女達は消火器の色を身に付けていた。

さらに、デスプレイされている造花も赤いシクラメン 国際線の案内掲示板も赤である。中国人の赤好きは知っていた、が赤輪は強烈である。

4度目の中国訪問である、次は何に感動するっであろうか。

旅の始まりです。

2007/08/31 続、二日目

何も知らない私は、学生達が頼りです。

日曜日でも 彼女らは教室で勉強、私は彼女らに買い物の案内を頼みました、午前10時半ごろです。

(先生 いいですよ、でも暑いから少し遊んでから行きましょう)言われるまま付いてゆく

(ここで遊びましょう)彼女の部屋です、部屋に入りベットに腰掛ける、彼女が私のすぐそばに座る、それも両脇に、そして私の目を暑い瞳でみつめ、会話がはじまる。

すごい二枚目の役ですね、私はもてる、いいえ、もてているのは日本語です、初めての日本人との会話です,数少ない言葉で、必死に聞いてきます、話しています、気が付くと、6人の女性に囲まれていました、私の声がかれてくる、毎日がんばって話しをしよう。

昼食も彼女たちとする、学校付近の食堂に案内をされる、店の前で大きな中華鍋を使い、おかずを炒めている、その煙に咽 クシャミをし 涙を出した、これが話にきく長沙の辛い料理だ、学生達は私に気を使い、辛い食べ物はだいじょうか、聞いてくる、有難い事です。

私は学生達に言いました(辛いか 辛くないか食べなければ分からない、長沙に来たら 長沙の物を食べる)でも不安な気もする、食事が出され、私が口に入れるのを、みんなの目が見ている。

料理は、野菜に肉(日本のミートされた肉より少し大きめ、が数きれ)の炒め物 5皿にスープ それを皆でつつきます。

辛さを気にしながら食べた、辛くない、脂が強いようだが、美味しい、出された物を、ひととうり食す、長沙の食べ物は大丈夫だ、 ただ、炒め物の煙には参る、学生たちもクシャミがでていた。

学生達有難う 明日から宜しく

2007/09/02一週間

長沙に来て一週間、食べる事が体力の維持、沢山食べよう、自炊の真似事をする、ガスコンロに火を付た、ここで異文化を発見、日本のコンロは、内側と外側にそれぞれに、数個から7~8個のガス穴の噴出し口がある、こちら中国は内側外側ガ無い、水仙が上を向いている形に、約1センチ程の線条のガス噴出口が15本付いている、火を付けると、炎が時計回りに渦巻いた、火力の強いこと、さすが、火と油の国を実感。

もう一つ、パソコンに関して、システムの違い、日本では、各家庭に電話線を通して電波が送られ、サーバーを経て、無線でパソコンに電波を送り、使用する、中国では、携帯電話と同じように、電話会社の基地から、電波をだし、パソコンげ受信、電源さえ有れば何処でも使用できる、電池が十分なら、公園でもメールが送れる、日本と中国の電話の普及率の違いか、と思った。

2007/09/11
忘れたこと

自炊のまねごとをしている、張沙の料理は全てたべられるが、油が多いようである、油抜きの食事も楽しい、先日ガスコンロを点火、ふだんより、ガスの出が悪くなった、さっそくボンベ交換を依頼する、返事は、全部使い切ってから交換します。

忘れていました、私も7~8歳ごろまでは、蒔きで炊飯をしていた記憶がある、ガスを使うようになったのはいつの頃からだったろうか、その時は、ボンベのガスが無くなってから、ボンベの交換をしていた事を思い出した、1本のボンベから、いつごろからか、2本のボンベになり、いまは、メター制度になり、ガスの止まる心配が無くなった、不用意に日本の生活を、此方で出さぬよう、心しよう。

9月10日は、中国では教師の日です(休日ではない)学生たちに祝福の言葉をいわれる、サラリーマン時代は、休日でなければ、何の日か興味がなかった、確か、耳の日 目の日などがあったようである、祝福の言葉も、にわか教師の身では面映い。

夕方6時前、7人の学生が来室、手には、スイカ2個メロン1個 バナナ1房 梨7個 それに小さな箱(中を開けるとライター)

お世話になっています、私たちの気持ちです、学生の言葉に感謝です、まだ2週間の私、嬉しかった。

一人では食べきれない、翌日事務所へおすそわけ。

2007/09/07
工事現場

長沙もごたぶんにもれず建築ラッシュ、学校の横でも工事中、35階のマンション工事です、すでに、3棟は建築済み、残りの部分でしょうか、30から40mはあろうかと思うクレーンが稼動中、そのクレーンが隣のアパート(5階)の屋上を旋回するたびに、とうり過ぎていく、日本でもそうだったかな、そんなことは無いだろう、それなら、隣地の許可をえているのかな、分からないことです、5階建てのアパートで、人々は悠然と暮らしている

9月6日、日本の我が家は、台風におそわれた、庭の野菜が、飛んでなくなったようである。

何も知らず、その夜は学生の料理で夕飯、一人より大勢が、何よりのご馳走。

2007/09/27
会食

長沙にきて、1ヶ月です、学生たちにお礼の気持ちで、自室で食事会、すしが食べたい、学生の意見、日本の米と酢と海苔がなければ作れない、私の言葉に、学生達が、あります、買いにいきましょう、皆は何処で、何を売っているか、よく知っている。


それでは作るか、具はシーチキン 卵焼き キュウリの三種類、マヨネーズがあるのだから、ポテトサラダの作ろう、河えびも売っていた、それも使おう。
酢飯を作る、学生に冷まさせる、説明がたらなっかた、酢飯をいつまでも練っていた、簀巻きが無い、カレンダーの厚い紙で代用、海苔巻きを作る時、私の周りは8人の女学生、動きにくい、すこしはなれてもらった、海苔に酢飯を伸ばし、シーチキン、キュウリ、玉子焼きをのせ、巻いてゆく、手品を見るような顔、
一本ができた時、周りから拍手、ゆでた河えび、で作る、合計六本の太巻き寿司ができた、じゃが芋、にんじんを茹で、川えび、キュウリ、玉ねぎ、塩、胡椒、それにマヨネーズ、作りながら、味見をさせる、全員のてが伸びた。
一人の食事より、大勢での食事は楽しい、私一人でビール三本 学生は皆で一本。

中国は生野菜を食べる習慣があまり無い、マヨネーズを始めて食べる学生が多かった、また、作ってください、いいですよ 今度は中華を作ります、食べてください お願いします。

2007/09/21散歩Ⅱ

学生の誘いで、岳麗山の行く、長沙郊外の丘陵である、有料公園になっており、入場料15元、当然のごとく、学生達は、入場口を横目にし、裏山へ回る、歩くのに困る、と言うよりは、山道の散歩には、似合っている、途中、きれいな池を見せるため、整備された道に出る、敵(管理人)もさるもの、池の周辺で待機入場券の確認、池を私に見せようとした学生、周りからのブーイングにとまどっていた。

中国と共通点 

110 119 104 電話の番号です、日本と同じ

全世界が同じなら、楽なのに 結婚式で 切る 分かれる は禁句 中国では梨が禁止、理由 切って食べるから、日本と同じだ。

007/09/17散歩

長沙に着いてから、初めて土曜が晴れる、9月になってから、2週間、雨がつずく、久しぶりの散歩、目標4時間、地図はまだ手に入れていない、なんとかなるさ、中国の交通事情も覚えた。洗濯もたまっているが、体を動かすのが先決。
沙河の辺を歩く、人手は多い、久しぶりの晴れ、釣りに散歩に、河の土手の家庭菜園に汗を流す人、鍬を使い耕す、先日の雨で畑が流れたのだろう、30分ほど土手の上から見学、肥料を施さず、耕しただけで、種をまく、河の増水で栄養分は間に合うのだろう、 流されていない畑では、糸瓜(食用)ができ、空芯采が成り、サツマイモの蔓が元気、唐辛子もなっている 耕す人は、年寄り、中年の主婦ばかり、若者は居ない

、、、日本と同じ、、畑から若者は消えていく。

日曜日は学生から誘いがあった、何処へ連れて行ってもらえるか、楽しみ

2007/10/01中秋節

9月25日は中秋節、日本では忘れられた行事、此方では月餅を配り祝う習慣、長沙の月は薄ぼんやり、まだ星空を見ていない、学生達はそれぞれに、仲間と会食をする、私も呼ばれ同行、食べ飲み放題の店、アメリカエビガニ、兎、蛙を食した、皆の食べる物を食べるのが、中国での礼儀、店先の路上で売っている姿を見ると、避けて通りたかった、先入観を抜かすと美味、でも1度で十分、蛇料理まで行かぬよう、学生に意思表示、10人の学生の半数は、食べたくないと言う、私もほっとする。

自室に戻るとドアーに月餅があった、これで、20個の月餅が自室に有る、間食特に甘い物は食べない私、嬉しい悩みが出来た、誰に食べてもらおう、まもなく国慶節、学生の尻が浮かれている、でも帰らない学生もいる、私もどうしようか。

2007/10/03長い休み

9月29日から10月7日まで休み、中国の国慶節です、ほとんどの学生は帰省します、帰らない学生もいます、私はどうしようかな、長家界に行ってみたい、でも、日本人がすべて行くと(日本人お金持ち)の声が聞こえそうです、年のせいか行列が苦痛になってきました、私の住んでいる所も観光地です、シーズンの混雑には参っています。

9月25日学校から、スピーチコンテストの出場者選考の依頼が来た。

日本語スピーチコンテストは長沙市の全学校から出場が予定されています、本学校は初出場です、出場枠は1人です。26日までに決めてほしい、早急な依頼です、まだ作文も出ていない状態です、もっと早く連絡があれば、学生達にアドバイスも出来るのに、と思いいつつ依頼を受けた。

4人の学生から、2人を選び、最終決定を学校側に御願いした、学校からの返事(日本語は日本人が専門、全て決めてください)、作文を見ながら悩みました、他の先生の助言(2人だせば良いです、1人は2学年、もう1人は3学年)、そんな事でいいの、疑問に思った、学校側からも、それにしましょう、詳しく調べるわけではない、学校がいいと思うならそうしよう、でも、そんないい加減の事でいいのかな、3学年の学生はいない、これも、国民性の違いか、学校の体質なのか、これが中国なんだ。

(日本のアニメと私)(私の幸せ)2人のテーマです、アニメは少し幼稚な感じ、私の幸せはありふれている、コンクールではよく出てくる課題と思う、まだ最終の結論は出ていない、提出を10日まで延ばさせたんだから、休み明けに学校で決めてもらおう。

アニメの学生から、先生 休みに日本語を教えてください。帰省せずに頑張ろうとしている。よし、決めた、私の休みは、日本語だけにしよう、望まれるなら喜んで受けよう。

29日、朝起きると私の部屋を訪ねてくる、夕飯(私の晩酌もふくめ)までうら若き乙女と日本語の時間、ただし、昼寝の時は帰ってもらう。
中国の昼休み時間は2時間、日本は1時間、習慣の違いです、ほとんどの学生は、昼寝をたのしんでいます。

2007/10/13

長沙の秋、9月初旬から2週間程雨が続いた、雨が止んでも日中は暑い、でも季節の変わった事は感じていた、草の勢いが弱くなり、日本と同じように、虫の声が(コウロギ)聞こえてきた、10月10日まで夏の服装ですんだ、11日になり、急に寒さを感じる、セーターを羽織る、13日19時現在、足元が寒く感じる、日本の炬燵を思い出した、でも長沙ではまだ風が強く吹いていない、冬は強い風が吹くのだろうと思います、街中を流れる沙河(長江の支流、川幅4,500メートル)の岸辺の樹木が同じ方向に傾いている、きっと強い風が吹くのだろうと。

やはり中国です、部屋の中に、とても細かい砂が入り込みます、黄沙現象を考えればあたりまえです、沙河の水際の砂も細かい、水量が少なくなると、ひび割れてレンガが転がっているようですが、触ると細かい粒子が分かります。

14日日曜日は、朝食の支度はなし、学生が肉まんを届けてくれる約束です、以前に話したんですね、覚えていて、ご馳走してくれるそうです、一個9角です、2個注文しました、肉入り、大きさは拳骨より少し大きい物を確認、一緒に食べるそうです、美味ければ良いと思う、気に入らなくても全部食べるつもり。

3度の蛙料理を食べた、道端で売っている姿(生きている)を見れば、敬遠したくなるが、日本の鯛の生き造りを見れば、初めての人は残酷に思うだろう、習慣の違いです、道端の蛙を売っている脇で泥鰌をさばいて販売している、日本の鰻と同じ、頭に金具を刺し、身をひらく、今東京で見る事はなくなった風景。

2007/10/08勉強再会

休みも終わった、学生が帰ってきた、学校も賑やかになる、目の前に迫った日本語能力試験に、皆頑張っている。

休み中の話です、学生に誘われて烈士公園に行く、3度目の公園行きです、それぞれ食べ物を持ち寄り、公園で会食、(先生は寿司をつっくて下さい)学生の要望、日本語の話でなく、料理の講習会です、要望があれば作ろう、学生に手伝わせながら作る、支度さえすれば、後は皆に遊ばせよう、1本を見本で作り、あとは頼んだよ、自分達で食べるんだ、どんな物が出来てもいいよ、側で見学する、道具が無い、簀巻きの代わりにカレンダー、楽しめば良い、出来栄えは想像にまかせます、後日、学生から作り方を教えてほしい、頼まれれば引き受けます、いつでもどうぞ。

公園で見た風景、ハンモック貸しが有る、時間制限は無し、1回10元,多数のハンモックが満開の銀木犀の森の下に、それぞれ昼寝を楽しんでいた、此方では金木犀が無い、1,2本見た、香りは金木犀が強い、私の好みは金木犀、でも中国の人たちは銀木犀がすきなんですね、個人的または民族的な風習の違いか分からない。

帰省した学生から土産、野菜の種です、帰って春になれば蒔こう、楽しみです、このような土産が一番嬉しい。

2007/10/17
物価

長沙の価格です。2ヶ月半の自炊生活、食品は2日に1度行く。

野菜は大体、日本で100円位の品物が1元から1元5角位です。

肉は高いです、鶏肉 手羽先3本で6元もしました、豚肉は100グラム4元程です 卵1個8角です。

ビール 味は問題にしない、大瓶1本2元から4元

他の酒は500ミリリットル 8元からあります、

風呂(此方はシャワー)1回5元 学生相手の食堂1食5元(ご飯は食べ放題)肉まん9角(日本と大きさ味は同じ)、学生相手の家賃、10畳位の部屋にトイレ シャワー付き 台所無しで、月200元位です、その部屋で3人の共同生活です。

変わった物で、スッポンが1匹16元で売っていました、蛙の値段は分かりません、買う気もありません、大陸の内部せす、新鮮な海の魚は有りません、でも烏賊、秋刀魚、ダツはたまに見ます、スルメが売っています、海の魚は買わないので値段は分からない。

収入は62歳の私の初任給ぐらいからその倍ぐらい。

1元は15円で計算しています、10角で1元です。

どうですか、長沙の生活は。

日本からの輸入品は、日本の3倍ほどします、当然です、醤油36元 味噌35元 糊の佃煮30元でした。

大陸の内部です、寒さが急に来ました、1人で寒さ対策の買い物に行く、何処が安いのか分からず帰る、次ぎは学生に案内を頼むつもり、買い物の案内に男子学生は駄目、女学生に頼みます。
line

2007/10/23敬語

まもなく日本語検定試験です、学生は会話どころで無い、暗記に一生懸命。

会話が出来て語学が出来たと思うが、しょうがないですね、学生の気持ちは十分理解できます。

日本に行く学生が1人2人といます、机の上の教材が無くなってゆく、寂しさが、ふと来ます。

学生がまた1人私の部屋を訪ねてきた。

(尊敬語を教えて下さい、今年で学校を辞め、上海で就職をしたい、面接の時までに尊敬語を覚えたい。)

(日本語が十分に分かってなければ、尊敬語は無理ですよ、中国人のへんな日本語で尊敬語を使う事のほうが変ですよ、日本人が変な中国語を話しても、中国人は怒らないでしょう、日本人も中国人が変な日本語を使っても、怒る人はいないと思うよ、丁寧語だけで十分だと思う、丁寧語も敬語の一部です、それより、会話ができることが大切だ、それで好ければ来なさい)

1人自室に来る学生が増えた、来週からの約束です、今週まで、スピーチコンテストの練習があるので、来週からは、時間のやり繰りはできると思う。

食材でビックリするほど高いものを見つけた、活きた蟹です、500グラム186元、上海蟹と同じものと思う、500グラムで4,5匹位だと思う、甲羅の大きさは12,3センチほどです、炒めて食べても、茹でて酢醤油で食べても美味しそう、思うだけで、買えなかった、

2007/10/30コンテスト後日談

学生にとって1ヶ月の日本語の時間は大変だったろうと思う、コンテスト当日夜9時頃1人で挨拶に来た、明日から日本語検定試験にむけ勉強するよう、励まして分かれた、翌日は日曜日、学生達との予定は入れていない、ゆっくり朝寝坊をしよう、久しぶりに朝ビールでも飲もう、その後、朝寝もいいかな、と楽しみに就寝。

翌日起きたのが8時頃、なんとなく気が抜けて、朝飯の支度の面倒、昼飯を早めに外食ときめ、コーヒーを飲んでいると、コンテストの学生が来室。彼女も気が抜けたようで、勉強をする気が起きない、と私にうったえた。1ヶ月の習慣で足が私に向いたようである、二人とも朝食は取っていない、炊飯器に洗ってある米がある、10時半に2人で朝食兼昼食支度、味噌汁 チキンライスモドキ(鶏肉が無いので作り置きのチャーシュウとトマトケチャップ)の支度。約束外の学生の来室、3人で料理談議をしながら食す。

一日2人で世間話、1ヶ月間の休息日です、夕飯はショウロンポーを食べに外食。

明日から大丈夫かな、心配。

中国の家庭では(おはよう)の挨拶の習慣が無い、もちろん中国語で(おはよう)はある、家庭内では(おはよう)の代わりに(飯を食べたか)とあいさつ、外で知人との挨拶も(飯をたべたか 飯は何を食べたか) と挨拶が普通の会話です、(おはよう、こんにちは)の代わりに(飯)です、夜のあいさちはいろいろ、習慣の違いも面白い、食卓に並ぶ量は日本の倍は有ろうかと思う、食べきれない物は持ち帰りです、持ち帰り出来ない物から食べていく、合理的です、でも男は駄目、女学生はしっかり持って帰る。

気になる言葉。

(私の両親は親切な人です)

此処の学生が使っている、コンテストでも使っていた、単語の数が少ない中での話しです、でもコンテストは、どこの学校でも教師の指導があるとおもう、日本人の教師もいます、でも日本人は使わない言葉だと感じていた、親切の代わりに、心遣い 心配り、を使ったほうが良いような気がしていた、両親の話です、謙譲語ではないが、多少控えめが日本らしいと思う。

2007/10/27スピーチコンテスト

湖南省4回目のスピーチコンテストが10月27日終了した、初出場の学校です、出場の学生と1月の学習の結果がでます。

国公立の学生を相手に不安と期待、えもいわれぬ気持ちです、学生のスピーチの時、私が一番落ち着かなかった。

応援の学生に手を握られ、落ち着いてください。

審査発表の時、学生の名前が無ければどうしよう、ウロウロする私です。

学生の名前が出ました、3位でした、嬉しかった。

指導者として、私も賞状をもらう、最高の土産が出来た。

帰りに学生達と乾杯。

自室に帰り、私の貰った賞状を眺め、中国の酒で1人悦に入りながら晩酌。

2007/11/24
日本語検定試験

あと1週間で日本語検定試験です、ほとんどの学生は余裕をなくしています、悩む学生 暗記で頭が一杯の学生がほとんどです、余裕のある学生は1、2名です。

中国の資格認定で人生が変わる事を思えばいたし方が無いと思います。

学生の案内で近くの寺を見学、尼寺です、久しぶりの読経を聞きました、穏やかな気分をあじわいました。

陽だまりで読経を聞いているとき、2人の学生が手を合わせている姿を見つけました、試験の合格を願っているのでしょう、声を掛けずそっと帰りました。

試験が終わると遊ぶのでしょう、それぞれのクラスで旅行の話がでています。

本年度で卒業の学生は、試験後すぐに帰省、就職の準備に入ります、そして親元を離れ、臨海部に向かうようです、希望が叶うと嬉しいです。

長沙は秋です、風が無ければ暖かく東京と同じような気候です、油断は出来ません、急に寒くなる時があります、でもこの2週間は特別寒さは感じませんが、炬燵に入りごろ寝が懐かしく感じます、コンクリートの床のせいだと思います、足元がすこし冷える感じです。

寺を見学に行く途中、河魚ですが目刺の干物が干してありました、鰯の干物とそっくりです。

鯵の干物が懐かしく感じました。

2007/11/10
子育て談義

何度目かの寿司パテイー、今回は日本後6ヶ月の学生、4人の予定が9人に増えた。

席上で質問

日本の女性は結婚すると退職する、本当ですか、

私も質問

子供が産まれて何時まで一緒に暮らしたいですか。

何時までも一緒に暮らしたい、でも生活が出来ない、他の学生の同じ意見。

私の40年前より自分を見つめている、嬉しくも空しさが込上げる。

意地の悪い私、さらに質問、嫁姑の関係を聞く。日本の女性と変わらない、夫婦2人が希望だそうです、またまた、嬉しくなりました。

明日11月11日郊外の丘にハイキングに誘われる、あと3週間後の日本語検定試験の息抜き、長沙の紅葉を楽しんでこよう、秋晴れを期待、

2007/12/04
日本語検定試験

12月2日に日本語検定試験がありました。

毎年同じ事がくり返されているのでしょう。悲喜交々です、学校は今日12月4日まで休みです、全員の顔を見ているわけではありません。

試験が終わったら、私の部屋に遊びに来るという学生がいました。7人の学生です、私は夕飯の支度をして待っていました、明るい声で学生達が来ました。私もほっとした気持ちでしたが、いつもの明るさと違うのです、なるべく試験のことに触れないように会話。

試験の結果は、私が帰国してから判明します。ぎりぎりの学生はそれまで不安でしょうね。

まだ長沙から出ていない私ですが、いろいろと旅行の話がきています。広い中国です、長沙から帰国したら二度と行けない所に行くつもりです。

12月3日、日本語を始めて3ヶ月の学生3人が来室、電子辞書を通訳として、少しでも話してあげたい。あと一月です、会話にならなくても、いいと思います、喉から声が出るようにしてあげたい。これから毎日来るそうです、来室する学生は総勢25人になりました。一人一人とゆっくり出来ません、日本語が少し使える学生が、出来ない学生に日本語で話す事も勉強になるかなと思います。
古くから来ている学生とは、よくふざけます。

ふざけていても、言葉には注意がひつようです、丁寧語で話します、男言葉は使わないようにしています。

でも、私の癖を学生がつかいます、気をつけなければいけない。

罰金

私の部屋のルールです。扉から内は日本の領地です、中国語は禁止、学生同士の会話でも中国語は禁止です。違反すると一角の罰金を取ります、全部で4元
ほどになっています、学生達が違反者から取っています。罰金、罰金の声がよく聞こえます。

2007/12/10
住めば都

学生の日本語能力試験が終了、気楽に学生と旅行、湖南省にある、世界遺産に行く(張家界)。

綺麗に整備された山道です、私の好みからすると、もっと手付かずの姿が好き、でも、誰でも行ける気楽な山です、あいにくと曇り空、遠くが霞んで墨絵の世界です。奇岩の連続です、ロープウエイ、エレベーターは最初から使うつもりは無い、自分の足で歩くだけです。私より年上の人は誰も歩いていない、歩いているのは30台以下の人々です。

観光地の食べ物は値段が高い、観光シーズンで稼がないといけないんでしょう、しょうがないです。

日本の自宅も観光地、店での値段が高いには、日本、中国同じです。

山から降り、張家界の市内に入ると庶民の生活、屋台です、一杯2元5角程のうどんがあります(美味しかった)、そして道路工事のため車の渋滞、雨にぬかるんだ道、まるで舗装がされていない様な感じ、細い路地の商店街では一本2メートルのサトウキビが1元、向日葵の種(食用)一キロ3元。つながれてもいない鶏、少しの野菜を露地にならべ売っている年寄り、五十数年まえ楽しんだ駄菓子や。

山の上と下。まるで天国と・・・です。

市内の生活を覗きながら歩く自分に満足です。

2泊で帰りました、予定は3泊ですが雨で変更、そして4時間の路線バス、バスの中では日本の演歌が流れていた、演歌は好きでない私でも知っている曲があった、学生も日本の演歌が好きで、教室でリクエストされたのを思い出す。

張沙に帰り着き、ほっとする、3ヶ月半の生活ですが、住めば都、部屋のなかの自分の品物に囲まれて一息ついた、日本でも旅行は愉しいけど、自分の家が一番落ち着く。

今度の週末も旅行、なにしに中国へ来たのだろう。今度は10名ぐらいの旅行です

2007/12/24
洞庭湖に遊ぶ

私の13~14才位の時、中国で知っている都市は、北京、上海、香港、マカオ、西安、ラサ、南京、重慶、大連、青島、ぐらいだったように記憶しています。

でも、もう一つ知っていた場所が洞庭湖です、多感なときに出会った本に「唐詩選」があります。今、考えてみても、誌の本当の気持ちを理解できるわけでは有りません、少年(私)が背伸びをして、本をよんでいたのでしょう、杜甫も李白も、中国語を知らない、他国の少年が読むなんて考えてもいないでしょう。

他の本で、山水画で、知らない中国の世界をイメージしていました。日本の湖、山、里に中国の家屋を置き、想像の世界で楽しんでいたのです。

日本語学校の話で長沙と聞いても知りません、湖南省と聞いて、もしやと思い、洞庭湖の南を探しました、予想に違わず長沙がありました。

12月22日洞庭湖に行く

私が一番行きたい場所でした。初めての汽車の旅でもあります、列車の中で売られる弁当にも興味津々。車中での飲食物の販売風景は日本と同じ、変わっていたのは、知恵の輪の実の演販売です、乗務員のなれた手付きに感心、同じように挑戦するも、出来ず、2時間の車中を楽しんだ

岳陽楼に登る。

1000年前の建物、そして石碑に残された詩、眼下に広がる湖、霞たつ湖面、葦の原。

屈原は何を思い身を投じたのか。

50年前と、今の自分の空想を照らし合わせ楽しむ。

岳陽楼に1本の蜜柑のきが有る、実が生っていた、手の届く所には無い、冗談で同行の学生に食べたいか聞く、食べたいと返事、木登りをしようとすると「やめてください。日本人岳陽楼の蜜柑を盗む、新聞に出たらたいへんです」注意した当人も木に登ろうとしていた。

翌日、君山に行く、洞庭湖に浮かぶ島。観光コースは船で行くのだが、水位が下がり船が欠航、バスで1時間の行程。途中、長江を渡る、橋の長さは2キロ以上と思う、橋の先は葦の原、霞み立つ大地に無限に広がっていた。

君山も綺麗に整備されていた。本来の湖は整備された島のすぐ側まであるのだろう。そこは、馬は草を食べ、農民は葦をとるために入るのだろうか、細い獣道のような道が、はるか先に細く白く光る湖に伸びていた。

2007/12/31
あと一週間

今学期の卒業生は学校を出て行った。半数に減った学生も、授業は1月2日から3,4日間で、翌週から期末テスト、すぐ冬休みに入る、私の授業も6回で終わります。

大きい瞳、小さい瞳、丸い瞳色々な瞳がありました、輝いた瞳です、悩む瞳からこぼれる涙もありました。それらの瞳が中国で一番印象に残りました。

一生懸命に見つめている、その先の私は、自堕落であった自分を恥じる気持ちでした。でも、学生達が見つめている本当の先は、学生達の未来です。そして輝いている未来の影にいる、両親の願いが痛いほど感じられます。

大きく羽ばたいてください。

学生が減り、寒くなるにつれ、すこし孤独感に襲われてきます、ホームシックになったのかもしれません。

来年そうそうから帰国の準備に入ります。

私のパソコンが不調になりました、メールも今回が最後になるかと思います。

鹿児島の大石様、本を送ってくださいました牧野様、ご指導くださいました大竹様、長沙の学校関係者の皆々様有難うございました、もちろん、一人で留守を預かっている我が妻にも。

できることなら、もう一度、このような感激を味わってみたいと思います。違う習慣での生活でしたが、予想に違わず、人の心は同じでした。日本の物質的繁栄が日本語に向かわせているのでしょう、でも、日本語を習うことで、日本を知ってもらい、好きになって貰いたい。日本語が出来ても、日本人でなくては伝える事ができない感性があります。一人では、限界を感じました。

日本人と触れ合う機会の無い学生と約束をしました、パソコンで日本語を書くこと、パソコンで話をすることを。私が学生に感謝のお返しです。

いつの日か、学生たちと再会出来ることを願って。