竹下先生の長沙日記

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

2005/01/08

長沙科技日語学院4代目派遣教師です。

2005年3月新学期から長沙市の日本語学校(鹿児島市日中友好協会友好校)院長:範例で教鞭をとることになります竹下君をご紹介します。

詳しくは彼本人から自我紹介があると思いますが、彼は大学卒業後、教師一筋、根っからの熱血先生です。

私、大石とは玉龍高校時代の同学同班です。

今、合肥市の大学で日本語教授をしている加治佐 晃氏とも同じ鹿児島市日中友好協会のメンバーです。それぞれの夢を追い続ける夢追い人といえます。

今から3~4ヶ月の間、長沙市での異文化体験や教師生活を通して学生や中国の若者達とのいろいろな交流の思い、感想などを書き綴ってもらおうと思っています。

彼の筆を通して中国華南地方の現在の様子などが伺えたらと、僕も楽しみにしているところです。

写真:手前、昨年末開催『スピーチコンテスト』の時、タイム係りを担当した竹下氏。

2005/01/14

旅たつ前の心境

● 晴れがましいステージに立ち、気恥かしいといった心境 で入力しています。

● さて、いよいよ3月初旬に渡航することになりました。 日本文化の源流である中国にはもともと関心がありま して、数少ない海外体験ですが、これまでにこの国だけ は2回行きました。3回目は、しばらく滞在し教壇に立 つことになりました。中国の若者と共に勉強ができるこ とを楽しみにしています。

● 必要不可欠の中国語は、行くことが決まってから泥縄式 に勉強を始めましたが、憶えた先から忘れます。最近は 開き直って、なんとかなるだろうと思うようになり、気 が軽くなりました。

● しかし、どんな報告ができるか気がかりで、行く前から 気が重いです。

2005/02/18

準備ができました

授業参観 ●赤塚学園(鹿児島市)日語教室(4時間)

予備知識 ●世界の歴史(中央公論社)
     ●中国の諸事情(文芸春秋)
     ●中国ビジネスのむつかしさおもしろさ(税務経理協会)

持参出版物
     ●外国人が日本語教師によくする100の質問(バベル・プレス)
     ●日本留学試験対策 記述問題テーマ100(凡人社)
     ●ドキドキ子育て 家庭教育手帳(文部科学省)
     ●ワクワク子育て 家庭教育手帳(文部科学省)
     ●イキイキ子育て 家庭教育手帳(文部科学省)
     ●わかりやすい俳句の作り方 (日本文芸社)
     ●新祥高等地図(帝国書院)
     ●世界と日本の地理統計(古今書院)
     ●日本の抒情歌(野バラ社)
     ●mini(若者女性向けファッション誌)
     ●まんが ベルサイユのばら(中央公論社)
     ●千と千尋の神隠し(徳間書店)
     ●写真集 日本の結婚式(自作)
     ●鹿児島市(自作)
     ●阿蘇・湯布院・霧島(自作)
     ●雛人形・日本料理
     ●鹿児島大学・鹿児島国際大学・赤塚学園 学校案内
     ●新聞の切り抜き

航空券
   ●鹿児島空港13:30発上海浦東13:50着(MU054便)
●中国東方航空は、上海でのリムジンバス移動を含めて3時間以上の余裕を求めている。
   ●上海虹橋18:30発長沙黄花20:10着(MU5235便)             
預託荷物
   ●上海の浦東空港(国際空港)から上海の虹橋空港(国内空港)乗り継ぎの場合、浦東空港(国際空港)で受け取り、各自で虹橋空港まで運ばなければならない。

2005/03/03

長沙に着きました

途中の虹橋空港では、空港ビルへの入口がわからず、公安(警官)に案内してもらったり、待合室で知り合った人に、人民元への換金をしそこなった話をしたところ、自分の財布を取り出し、お金をあげると言い出した方にお世話になったりしながら、予定通り長沙に着いた。範先生ご夫妻の笑顔でのお迎えに、ホッ。

憶えた中国語が、いざとなるとなかなか出てこないものだといぅことを体感。

最初の授業は「会話」だった。学生は積極的で明るく、大変楽しい授業になった。

学校周辺には、古いタイプの市場がある。今後の異文化体験が楽しみだ。

2005/03/08

カルチャーショック

昼食の後、校外に出てみた。学校の前から始まる細い通りでカルチャーショック。

練炭を燃料にした小型のドラム缶状コンロを歩道に据え、背広を着た食堂の主人がフライパン一つで器用に色々な料理を作っている。

背広を着て天秤棒を担いだ物売り。ビルの谷間で農業用耕運機に山のような荷物を積んで運んでいる人。

荷車に石炭を原料にしてつくった練炭を積み、おもそうに引いている人。

肉屋さんは、入口に豚肉の塊をすだれのようにぶら下げて売っている。かしわ肉販売店では店内の金網の中に生きた鶏がいて、その横で背広を着た主人が鶏を解体している。
 
長沙は近代的な都市の一角に、古いスタイルの市場が残っている大都市だ。

2005/03/09

愛すべき学生たち

学生食堂の同じテーブルで食べた4人の学生から本屋に誘われたので一緒にバスで中心街まで出た。

私のバス代は学生が誘ったのだからと言って、往復とも学生たちが出すと頑張った。

1階から5階まで本屋になっているビルで買い物をした後、洋服を見たいというので、終日歩行者天国(歩行街)になっている通りを歩いた。ここはスリが多いのでカバンは前のほうで持つように注意してくれた。

帰りにロールケーキを買つて、私が街路樹の下で食べる提案をしたところ、学生達は笑って受け入れなかった。明るく、お行儀のよい学生達だ。

この国では横断歩道は無いのと同じだ。この日は50メートほどの大通りを3回ほど横断したが、初めての私には大変な恐怖だった。その時、学生達は私の袖をつかみ、囲みながら渡ったってくれた。

車の洪水の中を安全に横断するには、ゆっくり歩くのがコツのようだ。

2005/03/10

長沙大学と私の宿舎

長沙科技日語学院と私の宿舎は、長沙大学南院(短期大学部)のキャンパス内にある。 日語学院は、写真の校舎の5階を長沙大学から借り受けて開校している。

校門は24時間2人の守衛が見張っているため、校内での生活は安全のようだ。短大生の男女の寮も校内にある。どの寮の入り口も守衛の家族が住み着いていて、金属の扉で守っている。

校内にはお湯だけを売る販売所がある。寮生は、お茶用のお湯は魔法瓶を洗髪用のお湯はバケツをさげて買いにくる。お湯販売員も、販売所に家族で住んでいるため何時でも対応できる。

私の宿舎は5階建て女子寮の隣にある2階建ての建物だ。女子寮の横を通るようになっているが、洗濯物のオン・パレードで、下着でもハンガーに堂々と干してあるので目の毒だ。

建物の入り口から自分の部屋にたどり着くには、木造扉・金属扉・木造扉の三重に守られた二階だ。それぞれの扉は鍵で開閉しなければならないので、最初は往生した。応接室は14畳、寝室10畳、台所6畳、トイレ兼洗濯室兼シャワー室兼洗面所が4畳くらい。洗濯干場は屋上になっている。

2005/03/14

学生食堂の紹介

校内には学生食堂がある。最初に「不要辛」(辛のはいらない)と言っておいためか、学食に入ったとたん服務員が私の顔を見るなり生の丸いキャベツをかざして合図をしてくれた。私に特製料理を作ってくれると言うのだ。ありがたい。

服務員の皆さんはいつも笑顔で迎えてくれる。さらに日語の学生の通訳を通じて卵は好きかとか、その外に何が好きかと聞いてきた。

ご飯は粘りが無いため箸の間からポロポロ落ちる。おかずのほとんど全部が炒めものだ。野菜も炒めてあるため、全般的に脂っこい。しかも、ほとんど全部唐辛子が利いている。豚の血を炒めた物は体に良いと言うが、独特の臭いと口の感触で食べにくい。たまに出される肉はごぼう程度に硬い。この地域の人は辛い料理が自慢だ。
 
料金の支払いは、事務室で100元のカードを買って学食の窓口の電子機械に差し込むと料金が表示され、その分だけ引かれ、残金もわかる仕組みだ。注文する方は、厨房の平たい容器に入ったおかずをガラス越しに見定めながら指差す。

学生のほとんどは自前の容器を一個持参する。容器は直径15cm深さ13cm位のものが多い。これを差し出すと服務員がおかずをおたまで適当にすくって食器のご飯の上からかけて渡す。このご飯とおかずをかき混ぜてスプーンで食べる。

料金は朝食のうどん(米が原料)が2元、ご飯とおかず3品程度で平均5~8元くらいだ。

思いは,食あっさりした日本料理だ。そして、栄養の偏りと脂肪太りが気になる。

2005/03/14

どこででも勉強

日曜日14:00頃から4人の学生と湘江の右岸を歩いた。砂場やイベント会場も備えた市民の憩いの場が延々と続いている。

この日は無数のという表現が適当なくらいの凧が上がっていた。飛行機凧。鷲凧など色々だ。玉を追う龍の連凧は見ものだった。ここでの凧揚げは、大人の遊びだ。

散歩しながら日本語や日本の習慣の勉強会になった。帰りの裏町の小さな八百屋の前では、野菜の名前の質問が始まった。私が日本名を言うと学生はメモする。話は大根足にまで及んだ。

店の主人や通りの住民も遠巻きに見て、たいへんおもしろがった。通りがかりの男性は、自分の買い物袋から、ねぎやジャガイモなど取り出して聞き始めた。

楽しい学びのひと時になった。学食の夕食時も1・2年生が集まってきて、テーブルを囲んで日本語の勉強だった。

一度、社会経験を積んだ学生は、勉強に対する姿勢が真剣だ。

2005/03/14

お風呂の習慣

今日は,持参した写真で日本のお風呂などの習慣について話をした。

最近の中国での傾向として、外国の経験を持つ一部の裕福な家庭は、お風呂付のマンションを買い求めるようだが、一般的には北の亜寒帯の東北地区から南の海南島の熱帯までシャワーである。物心付いた頃から一人で浴びるため、他人の裸体を見る機会はほとんど皆無。

日本は,海洋性気候のため湿度が高く、汗をかくためほとんど毎日お風呂に入る習慣があること。お風呂は、各家庭にあり小学生の頃までは親子のふれ合いの場になっていること。また、火山列島のためマグマの熱を帯びた温泉が多いこと。温泉は広いプール状になっていて、最近は露天風呂に人気があることなどの説明をした。

湯船に入る時の注意事項として、一家全員が同じお湯を使うため、お湯は抜かない。お湯を汚さないために体を良く洗ってから入ると共に、タヲルを入れないこと。

見ず知らずの人同士、一緒に入る習慣がある事には動揺を示したので、つい脱線して、シャワーを浴びている時、誰かが入ってきたらどこを隠すかと質問したところ、何の反応もなかった。

照れ隠しに、ヨーロッパの女性は胸だと何かの本で読んだことを話した。日本人のあなたは・・・?。

2005/03/15

さわやかな日本の歌に脱帽

昼食時間に授業を持っていない一年生のクラスを覘いたところ、張家界出身でガイド経験の宋逢春さんから日本語の読みのチェックを依頼された。

この人もラ行がナ行の発音になる。【湖南人にはラ行の発音がむつかしいらしい。日本でも大分の人は「せ」が「しぇ」になって「しぇんしぇい」(先生)、根っからの江戸っ子は「ひ」が「し」になって「しびや」(日比谷)なる傾向にあると何かの本で読んだことがある】

発音の修正に手間取った後、短文の読みの手伝をしていたところ、いつの間にか周囲の学生も付いてきていた。

次に日本の「さくら」・「四季の歌」の歌をを教えてくれというので、私が模範?を示して、後に続かせる方法で練習を繰り返した。終わった時は壮快な気分になっていた。歌うことは精神衛生上じつに良いことを再確認。

異国で歌う2曲のさわやかな歌に脱帽。

2005/03/18

初めての日本文化体験

夕方、範先生と先生の車で長沙市の中心地にあたる天心区白沙路にある碧水藍天温泉浴場に出かけた。。

市の中心にある浴場にしては大きな建物で、日本でいえば観光地の中規模総合温泉だ。車は歩道が駐車場。入口で2人の服務員の男女が、大きなガラスのドアを開いて迎え入れる。従業員がやたら多いので、相当の利用者があるものと予想される。

日本の温泉施設を模しているそうで、日本の江戸時代の美人画が廊下のいたるところに飾ってある。露天風呂と廊下の要所には、日本の歓楽街のどこかで見かけたような縦長の赤いちょうちんが架けてある。

まず、1階のシャワー室で体を洗う。浴槽は露天風呂・漢方薬浴槽・人参浴・木炭浴・水風呂・に蒸気風呂(入浴客が真っ赤に焼けたところに水をぶっ掛けると室温が急上昇する)と多彩だ。

風呂の後、二十歳前後の服務員の青年から体のあかすりをしてもらった。ベッドに上がり、まな板の鯉のごとくなり、体の裏・表ともに隅々までしっかりやってもらった。

仕上げは紙パンツと浴衣に着替えて2階の美食広間に上がって夕食。バイキング式の中華料理(約20種類)、お菓子(約5種類)などが並んでいる。長沙のビールもよく冷えていた。

夫婦・家族duれ客もいたが、3月8日は国連女性デーと言うこともあってか、ピンクの浴衣を着た女性たちだけが目立ち、おもいおもいの姿勢でゆっくりくつろぎながらおしゃべりしたり食べたりしている光景は壮観だった。

珍しいものを見て、体験した日だった。

2005/03/18

勉強は日本語ばかりではない

昼食時間に2年生の教室に顔を出したところ、日本のドラマを見ませんかと言ってパソコンとDVDを用意してくれていた。ある日「先生・・夜は一人で何をしていらっしゃいますか、退屈でしょう」というので、私が「テレビを見てもわからないので、ほとんど見ません」と話した学生だった。

DVDは岩下志麻などの出演している作品である。物語は、海外勤務の若者が台湾人の花嫁を旧家に連れ帰ったところから始まった。

日本の古い仕来りを強引に踏襲する祖母と、合理的な考えの花嫁との確執のおもしろさが理解できるようで、一緒に見た学生たちも大変おもしろがって見ていた。

日本語を履修する学生は日本文化にもたいへん関心を持っている。心根も優しい。

2005/03/21

外国人のぎこちない発音

授業で学生のぎこちない発音は、どこに原因があるかを注意深く分析した。

その結果、「とまって」の「っ」のように詰まる感じの促音、「きしゃ」の「ゃ」などのような拗音、「ぼくん家」のように所有や所属を表す「の」から転じた「ん」の格助詞、ラーメンのような「―」の長音符号など、しっかり発音していないことに気づいた。

さらに、なれない発声のため口の周囲の筋肉が思うように動かず、吃音的発声になることもある。

これらの点を克服すると、より流ちょうな日本語の発音に近づけることを自覚させたい。

2005/03/24

警備の厳しいスーパー

昨日のスーパーでの買い物の際、パンだけはレジがなにやら叫んで、売ってくれなかったので、今日は学生と出かけた。

買えなかった理由は、パン類だけはその場の係りに値段票を付けてもらってから、レジに持ってゆくシステムになっていたのだ。パン類の中には客の求めに応じて切売りするものもあるため、このコーナーだけで数人の服務員がいる。

その後、学生はメモを取りながら、魚類や野菜類の日本語名を勉強しながら回った。ところが服務員が語気を強めて抗議に来た。値段をメモしていると勘違されたのだ。店内は撮影禁止でもある。

支払いをレジで済ませた後、出入り口の男性監視員に領収用紙と買った物品をチェックされて店外に出る仕組みだ。

抗議は、業者間の競争の激しさと、店内に過剰なまでの監視服務員を配置している結果の出来事だった。

2005/03/24

気になる一人っ子政策

宿題にしていた「自己紹介」の作文を読んで驚いた事の一つに、兄弟がいることだ。最も多い学生は3人兄弟だった。

この国の「一人っ子政策」はどうなっているか聞いてみた。その結果、都市では1人。一般の農村部では最初に男児が生まれると1人子の家庭になるが、最初に女児が生まれたら4年の間隔をおいて次を出産できる。これを繰り返して男児が生まれるまでできる。違反したら罰金になるが、金額は省によって違う。少数民族は特別扱い。

女の子が生まれると、周囲が喜ばない風潮があるようだ。お陰で?男女比は、男120:女100と聞く。結婚問題が起こるのが心配だ。

結婚は男性の場合22歳以上、女性は20歳以上。これにもいろいろな説がある。

広い中国では政府のご意向(法律)が浸透するのに時間がかかるのだろうか。

2005/03/24

雪の日 心温まる日

3月12日(土)昨日は小雨が降っていたのに、今朝は雪に変わっていた。緯度的には奄美大島と同じながら8cmもの積雪だ。

さらに断水が重なった。水を買い置するためにドアを開けたところ、ペットボトルに手紙を添えた買い物袋が置いてあった。

竹下先生
こんにちは。金曜日から日曜日の昼まで35時間水がありません。用事があれば私たちは手伝いに行きましょうか。今雪が降っています。天気は寒くなりますからお体に気をつけてください。多く着てください。
鄧美華 程艶
                                  2005.3.12                                                                   感激していたら、楊瑞娟さんと劉艶さんが来て公園に誘う。写真を撮るのに絶好の雪日和だという。昼食を取ってからバスででかけた。バス代は安いですからと私に払わせない。

市内はいくら乗っても1元だ。着いたところは烈士公園だった。革命初期に戦死した湖南省出身の方の写真がずらりと飾られている。元ガイドだった楊瑞娟が一生懸命説明してくれた。

毛沢東の奥さん・弟・息子さんも戦死しておられた。毛沢東は農民を味方に付けない革命は成功しないとの信念から、この地方の農村部で力を蓄えたことを思い出した。

公園はたいへん広く、きれいな雪景色だった。

帰り着いたところに範先生ご夫妻のご訪問を受けた。雪の降る寒い日になったので寒さ対策のことと、断水で困っているのではないかとご心配いただいてのことだった。恐縮・感謝。

夕方、学食に行くと、水はあるか、お湯をやろうと言ってくれるので魔法瓶満杯のお湯をいただいた

寒い日であったが、心の温まった一日だった。

間違っていても分かる文章

宿題にしていた「自己紹介」の作文を添削して驚いた。高校を卒業してこの学校に入ってきたものと思い込んでいたところ、なんとほとんど全員が23歳前後で、最高齢は50歳である。

ほとんど外資関連の会社で働いた経験者だ。

いつか両親を連れて日本を旅行し、さくら・富士山を見て、着物を着てみたいという夢を持っている。日本は憧れの国だ。多様化の進む日本。期待に応えられるか心配だ。

学生たちにとって、書きにくい文字は「あ・か・さ・す・そ・た・で・ね・れ・ジ・自」であった。

気になる表現としては「私は明るい人です」「私の性格が明るくて好奇心が強い人間だと思います」などがある。

和語(日本語)を漢語(中国語)で書いている例として、景色が景物・明日が明天・才能が細胞・夢が夢想など。

日本文化と中国文化が近いための間違だ。「中国は日本文化の源流だ」と実感。

2005/03/28

いつでもお嫁に

3月13日(日)楊瑞娟・鄧美華・程艶・劉艶・張娟さんが料理の材料持参で遊びに来て、にぎやかに昼食を作った。事前に腕自慢をしていたが、卵のスープ・豆腐料理・野菜炒など6種類の料理に果物を添えた本格的中華料理だ。

食べながら日本の食事のマナーをいろいろ聞かれた。中国では主座席(上座)は東側と決まっていて、若者でも守るが、昔あった食事時のマナーは壊され、若者は知らないという。中国の革命にとって伝統文化は清朝時代の負の遺産ということだったのだろうか。

後片付けも見事だった。魔法瓶とやかんのお湯をいっぱいにすると共に、床や外の階段まで雑巾がけして、ゴミは持ち帰った。

細かいところまで配慮の行き届いた後片付けだ。これなら何時でもお嫁に行ける。

ほんとうに義理堅い

夕方、シャンプーと台所洗剤を買に出た。スーパー(超市)で日本語・カタコト中国語と五体を使って表現したところ理解してくれて買えた。

ついでに卵も買うつもりだったが早口のレジが受け付けない。売り場で値段をつけてもらえとの感じだったので引き返すと、張娟・呂麗君・劉艶さんが声をかけてくれて、何個でも量り売りすることがわかった。

張娟さんが「他に買う物はないですか」と言うから、今までの買物は「超市」だけだったので、買ったことのない商店街の果物屋で、1斤(500g)8元の表示がしてあるランブータンを買った。ここも量り売りをしてくれた。1個18円だった。

学生は見たことも食べたこともなく、勿論名前も知らなかった。手にとって、こんなものが食べられるんですかと言いたげに「たいへん硬いですよ」といった。試食してみようと言って配ったところ、お返しに黄色のマンゴー(この国の最南端にある海南島の産物)をもらった。

いつも思うことだが、ほんとうに義理堅い。

2005/03/28

湖南省は米どころ

買い物に出た。ヨーグルトは125グラム入り1カップ0.9元(1元=13円)、卵10個8.88元。卵のほとんどは鶏小屋から直通で持ち込んだ感じだ。その隣には薄緑色をしたアヒルの卵、さらにその隣にはウズラの卵も山と積まれている。

地元の人は「湖南省は農業省です」と胸を張る。調べてみると中国33省中、米は1位、豚肉2位、みかん類3位、サトウキビ・タバコは4位、茶5位の生産順位だ。店内の野菜の種類は多い。

日本人の私には野菜の鮮度が少々気になるが、生の野菜を食べる習慣のない中国では問題ないようだ。すいかや小粒のりんごはきれいだが、バナナやマンゴーは遠路運ばれてきたもんだという感じ。

内陸のため魚は近くの川や湖で取れたものが多いように見受ける。鮮度は魚の下に氷を敷き詰めて保たれている。水槽に生きたまま販売されているものも10種ほどある。

近い将来、梱包材料や冷凍輸送手段などさらに進歩するだろう。

日本の偽札問題は?

教科書に「どこでお金を換えますか?」の文章が出てきたので,手の切れそうな日本の一万円札を回し見させた。たいへん喜んで見てくれた。

福沢諭吉についてどんな人物かとの質問が出た。日本のお札は教育家・小説家・思想家などの顔写真が使われることを説明したところ意外な顔をした。中国のお札は、5・10・20・50・100元札のいずれも、心から尊敬している毛沢東だから無理もない。

ところで中国での偽札は常習化している。100元札の偽札を判断するには、まず目の前にかざして左下の100の数字が薄緑に見えることを確認し、だんだん傾けて斜めから見た数字が黒色に変われば1次合格。次に毛沢東の洋服の襟の付近をなぜる。ここでざらざらを確認してはじめて合格だ。

スーパーマーケットのレジ係りなど100元札を見たら目の色が変わる。客がいくらたくさん並んでいても、必ず一枚一枚「じっくり」時間を掛けて確認する。その眼差しは真剣そのものだ。

中国人13億の経済活動で、お札の「じっくり確認」が無かったとしたら、中国のGNPが数パーセント上昇するのは確実だ?

春のような日に

4月1日(金)春が近い暖かさの今日、昼休みに徐さんをモデルにした市場の写真撮りに行った。1箇所で拒否されたが撮った後だった。

昼からの私の授業に呂麗君さんと張娟さんがいない。誰も知らないため気になった。休み時間に授業の「会話」についていけないようだとの話が出た。夜でも宿舎に来るよう寮仲間に依頼した。

授業終了後、鄧美華・易枝燕・程艶さんが湘江に行こうと言うのででかけた。岸辺では春霞の空にたくさんの凧が悠々と泳いでいた。

夜、芦娟さんが呂麗君さんと張娟さんを連れて宿舎に来た。授業を休んだ理由は、急に胃が痛くなり張さんが病院に連れて行き、欠席届け依頼は携帯メールで寮仲間に依頼しておいたのだがとのことだった。一番若くおとなしい呂さんは、寮の集団生活で気を使うのだろうか。

今日休んだ授業分は休日の明日9時から補講をすることにした。

MADE IN CHINA

板書しておいたラジオ体操の歌詞を指差しながら聞いてもらった。体操は私がやってみせ、日系企業ではこの体操を仕事始めにやって、体をほぐす会社があることを付け加えた。

この時,日本から持参したラジカセを、中国製だと言ったら全員が目を丸くして「ぇえ~」と驚きの声を上げた。私の持っているものは全部日本製と思い込んでいたようだ。日本メーカーが中国で造ったもので、安くて性能が良いと付け加えた。

放課後の雑談に「日本のメーカーのものでも故障するのがあるが」との話が出たので、日本のメーカーは日本資本単独か中日合資の会社で、日本の技術を使って作る。完成品は会社の信用に関わるため、厳重な検査を経て世界に輸出している。

合資会社の場合、日本の会社に無断で余計に造ったり,検査の不合格品を中国国内で販売したりするため、故障しやすい商品が含まれることがあることを説明し、納得。

さらに話は、ラジオの声が聞き取れずに残念がっている学生がいたので、語学の勉強ではヒヤリングが一番むとかしい話をした。

学生の数人がパソコンにカメラをつけて無料のIP電話を駆使しているのに驚いた。この点は日本より普及している感じだ。

2005/04/05

タリタリの日

夕食の後、散歩に出たところ、向こうから学生が手を振りながら近づいてくる。鄧美華・易枝燕・郭秀玲・程艶さんだ。4人が連れだって私のところに来るところだった。

引き返して部屋に案内したところ、ほっかほかの野菜餃子と肉餃子に野菜を挟んで焼いた餅が手土産だ。たれ醤油びん1本さげて。

あなた方も一緒に食べようと勧めたが、おなかはいっぱいと言うので、一人で食べる羽目になり、たくさん残った。するとみんなで冷蔵庫に移してくれて、明日食べてくださいと言う。ありがたかったり、感激したりの連続だった。

悪戦苦闘の日々

板書しておいたラジオ体操の歌詞を指差しながら聞いてもらった。体操は私がやってみせ、日系企業ではこの体操を仕事始めにやって、体をほぐす会社があることを付け加えた。

この時,日本から持参したラジカセを、中国製だと言ったら全員が目を丸くして「ぇえ~」と驚きの声を上げた。私の持っているものは全部日本製と思い込んでいたようだ。日本メーカーが中国で造ったもので、安くて性能が良いと付け加えた。

放課後の雑談に「日本のメーカーのものでも故障するのがあるが」との話が出たので、日本のメーカーは日本資本単独か中日合資の会社で、日本の技術を使って作る。完成品は会社の信用に関わるため、厳重な検査を経て世界に輸出している。

合資会社の場合、日本の会社に無断で余計に造ったり,検査の不合格品を販売したりするため、中国国内に故障しやすい商品が含まれることがあることを説明し、納得。

さらに話は、ラジオの声が聞き取れずに残念がっている学生がいたので、語学の勉強ではヒヤリングが一番むとかしい話をした。

学生の数人がパソコンにカメラをつけて無料のIP電話を駆使しているのに驚いた。この点は日本より普及している感じだ。

2005/04/06

だから長沙はおもしろい

約束どおりの9:00アメリカ資本のスーパー・マーケットに行こうと鄧美華・易枝燕・程艶さんが来た。目指すは黄興南路の北端にあるWAL・MARTだ。

世界の有名ブランド品が並んでいる広くてきれいな店だ。中国にあるだろうかと気になっていたアメリカ製の剃刀の刃・薬用歯磨きはあった。店内を見て回りながら、日本語の勉強だ。ここでもメモ帳と辞書は離さない。長沙科技日語学院の学生は意欲的だ。

昼は寿司パックを買って勧めた。刺身は赤貝?だけ、残りは粘りっ気のなくなったご飯の上に、魚の加工品であるそぼろや小魚の佃煮が乗せてある。わさびと醤油を添えて。「怖いねー」と言いなが、辛いもの好きの鄧美華さんがわさびに挑戦したところ、鼻にツーンときて涙を流しながら、これに耐えた。この様子を見た三人は驚き、急に食が進まなくなった。味は甘く、冷やしてあるため本来の味が飛び、まったくおいしくない。

帰りは歩いて帰ろうと提案し、黄興中路を通って黄興北路の下に約500メートルはあろうと思われる長い地下商店街を通ってみた。南側は洋服屋街、北側は食べ物屋街が多い。入れ墨屋さんもあった。明かりがやや少ない大衆商店街だった。

長沙は世界のブランド品を並べたスーパーマーケットから、1食3~4元の大衆食堂まで多彩だ。だからおもしろい。

断水は頭の体操

気温の上がった昼過ぎ、シャワーを浴びた直後からまた断水だ。こうなったら大きな魔法瓶は勿論のこと、湯冷ましになるが、常に大きなやかんにもお湯を沸かしておく必要がある。

水道水はそのまま飲めない。以前、学食での食事の時、うっかりコップに水道水を汲んできてテーブルに置いたところ、学生たちが驚いて「いけません水道の水は危ないです」と一斉に叫んだ。必ず沸かしてから飲むお国柄。

地球上の人口を60億人として4人に1人は中国人。お湯を沸かすために消費する13億人分のエネルギー源のことを考えると、安心して呑める水道水に変えるだけでもお国のため、地球の温暖化防止のために大貢献することに気づいた。

断水は頭の体操になった。

友好関係はお互いの文化を知ることから

室内プール・露天風呂があり、漢方薬浴・蒸気浴も備えた碧水藍天温泉浴場に入った時、なにげない素振りで中国式入浴法をじっくり観察した。

まえに手を添えるでもなく、堂々と手ぶらで入って来て、シャンプーの泡を手のひらに取り、体に繰り返しすりつけた後、シャワーで流す方式だ。

この様子を授業内容に関連させて学生たちに話したところ、皆がうなずいた。そこで、タオルを使って日本式の体の流し方を実演して見せた。日本との違いを認識してもらえたと思う。その後、温泉にどのくらいの間隔で入るかとの質問を皮切りに、お湯は何度位かとの質問も出た。

温泉のお湯が病気や切り傷に効ことや、飲んで効く、泉質はそれぞれ違うこと等は予想外だったようで、たいへん驚いた。星空や遠くの山を眺めながら入ったり、海面すれすれの温泉で沖を通る船を見ながら入る露天風呂の話には羨望のまなざしで、一度体験してみたいとの声があがった。

後のお湯はどうするのかのとの質問には、温泉熱を利用して季節外れの花・野菜・果物・観賞用熱帯植物の栽培、冬季も成長させるうなぎ養殖・地熱発電の話には納得の様子だった。

ことの違いを理解してもらった時、教師としての快感を味わう。

幾多の困難を乗り越えた顔は温厚篤実

9時に劉紅梅・謝樹銀さんが迎えに来て、彭治平さんの家に向かった。

市内の中心を北に流れる湘江の左岸にある大きな中南大学付属病院を過ぎて間もなく、これまでに見た中で最も立派な団地の前でバスを降りた。団地全体の入り口にはアーチがあり、守衛がいて車は自由に通れないようになっていた。彭さん宅は5階建ての3階だが前も裏も庭がある。マンションは3年前に125㎡を19万元で購入されたとのこと。

ご主人は学校職員。子供さんはアモイの大学生。お父様は元事務員。憶えたての日本語でご挨拶いただき恐縮。お母様は元小学校の先生で、料理の12品を私の「不要辛」に副って作ってくださった。お二人とも温厚篤実そのもののお顔をしておられた。お母様は、食事の時、日本語で「わたしゃ16・・・」を歌い出され、私にも歌えときたので日本民謡を披露した。その後二人でダンスを踊った。次に来たときはうちに泊まれとまで言ってくださった。たいへん気持ちの若い方だった。

はじめての飲食物はロバの肉・大きな川魚・海のうなぎ?・牛乳入り缶ビールなど。ロバ肉は赤身、ビールは白色で甘く2本は飲めない。部屋の案内では、浴室にはお風呂とシャワーがあり、トイレは腰掛式。4畳ほどの書斎の横の1坪ほどの空間は外からは見えない洗濯物干し場、古い家具は無いという新築団地の家庭の様子を見せていただいた。

中国特有の家庭の雰囲気は団地化と共に薄れてゆくのだろうか。

車は右、人はどこでも

中国は人も車も右側通行の国である。

日本人が日本の道路を渡る時は、まず右側を確認してから左側を確認して渡る癖があるため、中国の道路を渡る時は、両方とも確認することになりキョロキョロ動作となる。車やバイクがスピードを上げて流れるように走っている道路を渡る時は命がけだ。

大きな交差点では車用と人間用の信号機が付いているが、人間用は元気な人でも渡りきれない短い時間で赤信号に替わる。しかも、赤信号でも交差点に入ってくる車やバイクはざらだ。安全に渡れる時間はいっときも無い。中規模交差点では車用のみ付いている場合が多い。

共通して言えることは、車の走る右側にだけ信号機が付いている。横断歩道のしるしは無い場合が多いが、あっても人間用の信号機は無い場合が多い。

人は仕方が無いからどこでも渡るのか、人はどこでも渡るから信号機が少ないのか。どっちかだろう。
約束どおり朝7時から芦・易・程さんと湘江河畔を散歩、朝靄で視界100m、ジャンバーを着ていても薄ら寒い。多くに人が出て、思いおもいの健康体操をしていた。途中ダンスをしているグループに加わって体があったまった。

9時から10時半まで前日胃痛のために休んだ学生の補講。

12時半から寧・張さんにさそわれ、また湘江に行った。薄い青空だが日差しはだいぶ強くなり、すっかり春めいていた。

4時半から鄧・程・呂・易さんが粟など持ち込んで粟粥・里芋・ほうれん草・トーフ・アサクサノリのスープ・とうもろこしの塩煮・蒸し饅頭・ごはんなど大量に作った。粟粥に日本から持参の味塩を振りかけたところおいしかったので,みんなにも試食してもらったが、誰もおいしいとは言わなかった。砂糖を入れて食べることはあるそうだ。

今夜の料理の味は私の好みに近づける努力をしたものになったため、わたしはたいへんおいしく頂いたが、辛いもの好きの学生たちにとっては物足りなかったようだ。私の気配りが足りなかった。

人間誰しも食べなれた料理の味が一番のようだ。

友好のしるしは大きく生長していた

4月3日(日)昨日の疲れが残っていたので今日はゆっくり過ごそうと思った矢先の9時ごろに楊さんが手土産の野菜餅?を持って、「先生、朝ごはん食べましたか。日本のさくらを見に行きませんか」ときた。「ご飯を食べましたか」は挨拶言葉になっている。

さくらと聞いてバスで出かけた。着いたところは長沙駅前の暁園公園だった。日中友好の印に日本から送られた桜がやっと1分咲き位だ。街中の公園のためか、「こんな幹の桜があったっけ」と思うような黒々とした桜が数十本植えられていた。園内には日本の桜についての説明看板があり、日本地図と共にさくら前線の北上のことまで書いてあった。大切に管理されている様子が推察できた。

散策している市民はさくらの開花を期待して入園した方が多かったように見受けた。ガイドの資格を持った楊さんが熱心に説明してくれた。1ヶ月前よりだいぶ日本語が上手になっている事に気づいた。もう少しで立派な日本語ガイドだ。

園は子供の遊園地になっていて入場料10元。

2005/04/19

寒空に打ち上げ花火の不思議

学校のすぐ横のアパートで、大音響の音楽が流され、時々爆竹が激しくはじけ、もうもうと煙が上がる。こんなことが3日も続き、最後の夜には打ち上げ花火が、なんと80発も上がった。

寒空に毎晩市内のあちこちで花火大会をやるもんだと思っていた不思議が解けた。お葬式だった。

国は禁止したようだが、花火生産の湖南省では一部に残っているようだ。

ステテコなんて

授業を済ませてから程・芦さんと五一大道沿いにあるアメリカ資本のスーパー カルフール(家楽福)に出かけた。中国に来るとき手荷物が40キロを超えたので夏の衣料品は中国で調達つもりだったからだ。

今日から急に暑くなったためクレープシャツとステテコを探しに出た。しかし、無かったので薄手のシャツを1枚当たり15元で買った。ズボン下は勿論のこと、それに替わるようなものも無いため日本資本の平和堂に行って3人で手分けして探したが,ここにも無い。仕方なく短パンの薄いものを1枚当たり74元で買った。

中国の男性にはズボン下のステテコをはく習慣は無いようだ。それにしても年頃の娘2人にヘンな買物を付き合わせたもんだと後悔。

あとで芦さんが高すぎますとつぶやいた。平和堂5階でラーメン3人分40元。長沙の食べ物は安すぎる。

腰に鍵束の事情

街で見かける光景の一つに、紳士が鍵束を腰にぶら下げて歩いている姿だ。最初は、大の大人が、大人気ないと思っていた。

その背景を私の宿舎や職場で考えてみた。まず、宿舎入口の最初の扉は一階と二階の間にある木造の扉だ。二番目の扉は部屋の入口にあり、格子状の金属扉で泥棒防止が目的のため、たいへん丈夫にできている。三番目の扉は金属扉と同じ入口についている木造扉である。これは遮音・防湿・のぞき見防止の役目を持っている。

扉のいずれにも鍵が付いているため、最初は入室の際不便を感じた。もちろん窓も丈夫な鉄パイプの格子がはめ込まれている。

また、職場の入り口の鍵、自分の机の引出も鍵をして泥棒に備える。責任ある立場の人は金庫の入り口や金庫の鍵などとなると、ポケットに入りきれない事情が見えてきた。

日本では障子をあけ、ガラス戸をあけて縁側から庭に降りられるが、このような安全社会がいつまでも続いてほしい。

不安の吹き飛んだ散髪

床屋に行くのでと劉艶さんに頼んでおいたら芦娟さんを連れてきた。3人でタクシーを飛ばしていったところは湘江右岸、湘江第二橋の東にある波降立交の横の床屋。

店は広くて明るく近代的な雰囲気。スタッフ約10人。会員カードを発行し、会員割引をするシステムを導入しているところだ。

最初に靴を履いたまま洗面台つき黒革張り?のベッドに寝かされて髪を洗う。念入りシャンプー2~3回。次はスタッフが交代して鏡の前の散髪椅子に移動。エプロンをつけられ、髪形を聞かれる。伸びた分だけ切ってくれるよう頼んだ。

散髪してくれるのは皮の野球帽をかぶった青年で、服装の着こなしからしてセンスがあると見た。散発は櫛とバリカンを使かって手ぎわが良い。後は任せたという気分になった。

芦娟さんが懸命に通訳してくれた。散発しながら「髪を染めませんか。染めれば元気が出ますよ」と言った。ちょっと考えて、教室の学生諸君に笑われそうなのでやめにした。刈り終わったところで、また先ほどのベッドで洗髪しておしまい。満足の散髪屋であった。

散髪代30元。時間にして約30分。学校の周りには4畳半くらいの床屋が数珠繋ぎにあるが、ここまで来てよかったと思った。

誕生日には写真屋へ

講師の先生がバリッとした服装でご出勤。「今日は私の○歳の誕生日で、写真屋は済まして来ました」とほっとした表情で言われた。

中国ではカメラを持っている人でも、誕生日には写真屋に行って写し、その日はうどん料理に卵を入れて食べる習慣があるという。長いうどんにあやかって、長生きするようにとの気持ちが込められているのだろうか。しかし、最近の若者はケーキに変わってきたとのこと。経済開放をきっかけに中国社会は急速に変化しているように思う。

ところで、年齢を言うとき、長沙では満年齢で言うが、上海付近では若い人でも「数え年」で言う人が多いらしい。

ちなみに、出来上がった写真は、はがきサイズ1枚で、写真の中に「2005年生日」という文字入りになっていて、代金は10元(130円)ほど。

2005/04/26

押しまくられた一日

風邪のためのんびり過ごそうと思っていた日曜日の昼前、劉艶・程艶・芦娟さんが来て、生姜湯を造ってくれた。

帰り際に一緒に外食しませんかというので、家で食べるといったら「え~っ」と顔を見合わせた。冷蔵庫の中にそれらしきものが入っていないことを知っているのだ。私が「食パンに卵・インスタントスープとあるよ」と抵抗してみたが、「風邪をひいているのにパンは体に良くないです」と納得しない。それではと出かけることにした。

湘雅路に面したそば屋(面条)に入った。面にシイタケとイカの入った「墨魚面」が10元。私に支払いさせまいとして、先生は座っていてくださいという。せめて自分の分だけでも払わしてくれ、君たちは学生だからとのやり取りがあった。

帰りに、夜もちゃんとご飯を食べてください。学生食堂に私たちが頼みに行きますからときた。断わったがさっさと行ってしまった。

夕飯の時間になったところで、先の面々が誘いに来た。食堂に行ってまた交渉を始めた。結局、私のために辛くない卵のスープとジャガイモをみじん切りにし、油で炒めた特製が2.5元。つくってくれた人のことを考え大盛りに挑戦したがとても食べきれず、半分以上残してしまった。申し訳ない。

彼女たちは帰りに私の所に立ち寄り、ひとしきりおしゃべりして早々に引き上げた。ブルドーザーに押しまくられた気分の楽しい一日だった。

2005/04/27

ダイエットは明日から

教材にすき焼きや寿司が出てきた時、学生に日本の醤油を見つけて来たら「私の宿舎ですき焼きのつくり方を実習しよう」と話していたところ、劉艶さんが崩臣路にある会員制の麦徳○商場から150グラム入り1本を10元で見つけてきた。

クラスを2班に分け、今日がその初日だ。昼食時間に鄧・程・易さんの三人を連れて近くの商店街を回って、豚肉・卵・豆腐・砂糖・白菜・根深ネギ・春菊・人参・生シイタケ・もやしを買い揃えた。

料理を作るときは床に野菜屑が散乱するため、ついでに掃除用の棒雑巾を買ったところ、程さんが「私が持ちます」と何度も言ってくれた。しかし、嫁入り前の娘に持たすわけにはいかないと断わった。

中華なべを使ってのすき焼きは苦労の連続だった。水気は鍋の真ん中だけで、周囲は満たされないため焦げ始める。中華料理のようにかき混ぜると、野菜で形を成しているのはシイタケと人参だけ。さらに日本の醤油が足りなくなったので中国の醤油を加えたところ、食材が全部黒くなり、何が入っているのかわからない状態になった。

中国では生卵はお腹を壊すと信じている人が多いため、仕上げの段階で生卵を割って食材の上に乗せたところ、なかなか固まってくれない。中華なべは中心から離れるほど温度が低いのだ。

次は先のとがった中華なべをどのようにしてテーブルに乗せるかが問題になったが、大きなどんぶりに布巾を掛け、その上に載せるアイデアが出て事なきをえた。

中国では食べた料理を残すのがお客としての礼儀と聞いていたが全部食べてくれた。さらに、易さんが小さな緑色の豆と米を半々に混ぜたお粥を作ったところ、「お腹いっぱい」と言いながら「おいしそう」と言って、砂糖をかけて食べてしまった。持参した果物も。

ダイエットは明日からに先送りのようだ。

2005/04/27

観光旅行で人間性が理解できるか

夕方から黄興中路の友誼賓館で、長沙市人民対外友好協会副会長であられる雷楚珠氏の歓迎会に出席。参加者は市役所職員の程・袁・通訳の温氏、学校から範・劉先生と小生の6人。あわび料理がメインだった。

雷氏は、日本からの観光客誘致に期待しておられた。長沙市として愛知万博に参加することなどの話もされた。

私は範・劉夫妻にいろいろご配慮いただき、楽しい日々を過ごしていること。学生が親切で優しくて義理堅いことなどの話をした。

さらに日中間の観光促進や文化交流程度では、文化の理解にはなってもお互いの人間性の理解には繋がりにくい事など話した。すると私の前歴を踏まえ、学校の先生の交流などの促進ができればいいですねとの提案があった。

最後に立派過ぎる長沙市の写真集とCD、記念品をいただいた

2005/05/18

食材の買物は、まず臭いを嗅ぐ

学生と買物に出て5時が過ぎたので、私がおごるから食べて帰ろうと提案したところ、「先生のところで夕飯を作りましょう」ということになった。

スーパーで食材選びがはじまった。ニラの場合、まず臭いをかぎ、茎を爪で押さえて軟らかさや鮮度を確かめる。とうもろこしでは、1本買うために複数のこれはと思うものの皮を全部むき、臭いをかぎ、腐れなど無いか丹念に探し、上部の実の無いところはもぎとる。パンは、においを嗅ぎまわった末に買わなかった。実に徹底した吟味だ。

日本人は「おいしそう」と言うが、中国人は「とてもいい香り」とよく言う。

2005/05/18

5月1日(日) レンガの家・家具・酒も手造り

ゴールデンウイークはホームステイ

連休に郭さんの実家に史さんと3人で向かった。場所は湖南省と広西壮族自治区の省境。お父さんは少数民族の壮族で発電所の管理人、お母さんは漢民族。壮族の言葉はベトナム人に通じ、漢民族には通じない。壮族の娘は漢民族の男性との結婚を願っている。近くに舜皇山森林公園があり、トラや狼が生息している、などの話に引かれたのだ。

5月1日(日) レンガの家・家具・酒も手造り

北京発のT5次列車は7時25分に長沙発の予定であったが、遅れて9:10出発。切符は硬座車の天座(指定座席なし)。満員だから乗せないという駅員の制止を振り切って強引に乗り込んだが、通路も超満員。

永州まで4時間。政情不安の折、列車内では日本語を話さないようにした。車窓から見える家はレンガ造りの切妻か陸屋根だ。土壌はレンガ色の完全なラテライトだ。

永州から先はバスを4回乗り継いだ。最後の乗り物は小型トラックを改造した乗合自動車、砂利道のためクッションが利かない。最後は乗り物がないので2キロくらいの歩きになった。

19:30に到着。お爺さんとご両親の温かい歓迎を受け夕食が始まった。夕飯時、お母さんの手作りという白酒を、お父さんと何回も乾杯した。料理では手造りの塩漬け豚肉燻製がたいへんおいしかった。手作りと言えばレンガ造りの家・ベッド・タンス・サイドボード・箒に至るまでそうだ。どれも言われるまで気づかないほど立派な出来ばえだ。私の寝室は2階のご両親の部屋、清潔な寝具が用意されていた。

新居は1階・2階とも3間あり、それぞれの1間は6×3.6mの約13畳の広さである。1階の中央の間は応接間兼食堂だ。2階の中央の間は居間になっていて、ソフアーがありテレビ・DVD・ステレオなどが置いてある。他の4室は寝室になっている。台所やトイレは旧宅側にある。

夜中にトイレに行くと話したら、「防犯上、夜は階段の戸を施錠するので1階に降りられません。2階のベランダから飛ばして下さい」とのこと。言われるままに飛ばしたら、豚をびっくりさせてしまった。豚さんごめんなさい。

2005/05/18

5月2日(月) 手足の付いたカエルの炒め物

朝霧に山々が煙ったように見える。周囲を見渡したところ、盆地状になっている。郭さんの家は西の山の方から東に向かって傾いた複合扇状地の扇央にあることに気づいた。しかも地下水の浅い扇状地(富山県の礪波平野と類似)らしく、湧水が扇央から扇端まで散在しているため、集落も小集村と散村が扇頂から扇央・扇端まで散在している。

湖南省側から広西壮族自治区側の村に買物に行った。途中で見かけた人々は面長で兄弟のように似た人が多い。帰りに水田の中に造られた古い建物で一休み。「涼亭」と名前の付いているこの建物は、幅2m、奥行き20m、高さ3m、柱と切妻屋根に厚板ベンチだけの建物だ。地主が小作人から年貢米を取り立てた場所だった。地主は革命で殺されたと言う。

昼食に内臓を取出しただけで手足の付いたカエルの炒め物が出た。聞けば、郭さんが家の周りの水田から捕まえてきた新鮮な食材だ。頭から食べてみたが、ほとんど骨だけ。体長の何倍も飛ぶ時に力を発揮する後足には肉が付いていておいしかったが、一匹だけいただいた。

郭さんが「先生、頭を洗いましょう」と言って、中庭に椅子をもって来た。はじめての経験に戸惑いながら椅子に腰掛けると、姿勢を正した状態で頭にシャンプーをつけて入念に掻き回した後、前かがみにしてぬるま湯で洗い流してくれた。

夜あひるが一羽犠牲になった。卵や股肉はご両親も郭さんも自分の箸で私のご飯の上に載せてくれる。親愛の表現だ。

2005/05/18

5月3日(火) 乾杯で杯を飲み干した後

発電所にでかけた。山道では木苺その他の木の実や野バラなど楽しみながら歩いた。発電所は建設中だった。

帰りに扇状地の扇頂で円礫を積んで作った見事な長い塀に気づいたので聞いてみると、旧地主の屋敷だった。畦道ではお茶代わりになる花と、緑の豆腐になるという木の葉を摘んで帰った。お茶になる花は陰干。木の葉は揉んで緑の汁を作り、木灰の灰汁を入れたところ固まり始めた。できた豆腐は緑色のところてんと言った感じ。

今夜も白酒をご馳走になった。お互いに乾杯と言ったら、飲み干して杯の底を見せ合う。これは湖南省の習慣である。今夜は鶏が犠牲になった。ほとんどの料理の味付けは私の口に合った塩味だ。

夜、水田のあちこちでライトが光るので聞いたところ、かえるを取る人だと言う。水田の真ん中の家にしてはカエルの鳴き声の少ない理由がわかった。

2005/05/18

5月4日(水) 日本人と知ったときの反応

早朝から両親も含めて5人で舜皇山森林公園に向かった。家から3キロ歩き、小さなオートバイ乗合やバスを乗り継いだ。途中の丘陵地は銀杏・栗・ポンカンの生産地を目指している様子が見て取れる。

公園の入園料は38元。観光客で中年以上の男性は皮靴、夫人はサンダルかハイヒールの人が多い。周囲の山は雑木林で竹が一番多い。滝を4つ位見て引き返した。時間と共に観光客が多くなってきた。

下山したら、続けて対岸の山に登ることになった。途中の休憩所で一緒になった家族は私が日本人と知ってたいへん驚き、父親が「ようこそ中国に来てくださいました。次に来た時はうちにも来てください」と言って別れた。4つ目の滝はこれまでで一番落差が大きく綺麗な滝だった。帰りの下りは急傾斜のため二人が心配して、「先生、気をつけてください」とたびたび声をかけてくれ、手を引いたり支えてくれたりの世話をしてくれた。靴擦れができたようだ。足裏がおかしくなった。

登山口の町まで降りて昼食。おいしかった。食堂の主人は別れ際に、日本人の私に握手を求めてきた。やさしい人達だ。帰りもオートバイ乗合など乗り継いで帰った。夕食には鶏が犠牲になった。食後気分が良くなるようにと「正気口」という漢方薬を勧めてくれた。本当に細かいところまで気を遣ってくれる。

2005/05/18

5月5日(木) 雷鳴を日本は「ゴロゴロ」 中国は?

足の裏に靴擦れができたため居候だ。昼過ぎにお父さんが山から小さな筍の子を取ってこられた。

夕方は激しい雨と雷鳴。雷鳴を日本人は「ゴロゴロ」と表現するが、中国人には「ホーン、ロン、ロン」と聞こえるらしい。音の表現の違いはどこから来るのだろうか。

野菜料理が好きですと言っておいたが、夕方、またアヒルが犠牲になった。夕食は竹の子料理、里芋の春雨?アヒルの塩煮には頭・口ばしも入っている。足はお父さんがバリバリ食べられた。

2005/05/18

5月6日(金) 中国の若者に感謝

帰る日の朝食時、獣医師が来られ、一緒に白酒をいただく。来客時は朝からでも酒を勧める習慣があるという。

その後お父さんの案内で村内を見て回ることになった。田んぼの畦を伝って行ったお父さんの妹さん宅は、ご主人は医者で小さな雑貨店も営んでおられた。次はお父さんの長男さん宅。近所の大人が集まって、漢字のトランプが始まっていた。「帰りはうちで昼ごはんを食べなさい」と言ってくださった。次は岩山の下の洞穴見学。

次は廃校になった小学校。お父さんはここに通われたが、娘の郭さんは周囲の学校を統合した3キロ先の「連合」の小学校に通ったという。「一人っ子政策」の影響だ。帰りには扇状地の扇端部に見られる特有の泉に立ち寄った。

帰って来たら母親と娘がアヒルを犠牲にして昼食。お父さんと別れの白酒を酌み交わし、お土産にもいただいた。13:00過ぎ「また来てください」の言葉に、感謝の気持ちがこみ上げて困った。

帰りの汽車(火車)も満員だった。郭さんが三人掛け椅子に4人掛ける相談をしたところ、若者がいさぎよく私に席を譲ってくれた。北京の近くの大学に帰る大学生だった。下車の際、史さんの通訳で丁寧にお礼を言った。中国の若者の親切に触れた。

旅行中、私がトイレ行くと必ずどっちかが付いてきて入口で待っていてくれた。最後には2人とも重い荷物を背負ったまま宿舎まで送って来てくれた。気配りと実行力に脱帽、そして感謝。

郭さんのご家族にはたいへんご迷惑をかけたが、多くの中国人の優しさにふれた、得難い体験の旅となった。

2005/05/18

買った衣類はまず洗濯

パジャマを買うつもりで五一大道沿いにあるデパートPARKSON(百盛)にでかけたが無い。トレーニングパンツはいいのが148元であったので買った。郭さんが「高いです。パジャマはスーパーに行きましょう」と言って地下一階にあるアメリカ資本のCarrefour(家楽福)に案内した。あるにはあったが彼女の見立てでは質が良くないというので買うのをあきらめた。

帰ってからトレーニングパンツを着て見せたところ、「洗濯して綺麗なのを着たほうがいいですよ」と注意してくれた。

以前もシャツを買ったとき事務の徐さんにそう言われた事がある。縫製・包装の過程や店頭等でいろいろな人が触っているだろうから汚いというのが理由のようだ。

2005/05/24

薬を食べる

漢方薬は、中国から日本へ5世紀ごろ伝来したといわれている。名称は漢の国から来た薬という日本での造語だろう。本家本元の中国では漢方薬のことを「中葯」といい、漢方薬以外は総称して西葯(ヨーロッパは中国の西に位置するとの考えからか)と言っている。

気管支炎(支気管粘膜炎)の患者に病院が出した薬は、中葯がなんと16種類、西葯が2種類である。

近年、病院の出す中葯は、忙しい患者のためにインスタント食品のように使える粉末・顆粒・丸薬状・液体などが増加しているようだ。薬の飲み方は、これを陶器等のコップに入れ、お湯を注いで溶かし、二回に分けて飲む。薬を飲むことを中国語では「吃葯」と書いて「薬を食べる」という言回しになっている。食べる量の多さから一応納得。ちなみにジュースは「飲む」だ。

普通の患者は、病院から本格的な昔ながらの中葯(おもに草根・木皮の類)そのものを持ち帰るため、大きな荷物になる。これを大きな土びん(土やかん)に詰め、コップいっぱいの水分になるまで煎じ詰めて食べる。大量の薬草を使うため、ここで「薬を食べる」という言い回しに、みょうに納得。

生薬を配合して煎じる方法(煎剤)は今も主流であるようだ。中葯支持者?にとって西葯モドキの中葯なんて、副作用があるようで信用できないのだろう。

私も風邪と下痢でインスタントタイプの中葯にお世話になったが、実によく効いた。

2005/05/24

漢字王国の苦悩

漢字は中国に生れた文字であることはよく知られている。紀元前十数世紀の殷の時代にはすでに用いられていたと言う。

漢字は「日・月・人」など、物の形をかたどった象形文字。「一・二・上・下」などのように抽象的なものの本質的特長を象徴的に記号化して字形にした指事などから発達した表意文字などである。

年配の中国人は嘆く。経済開放以後、想像もできない外来語が増えたと。外来語を漢字で表音的に表したり、本質的性能から表したりする単語が急増しているからだ。現代の中国では多くの漢字が簡体文字になってはいるが、漢字は漢字だ。

私が最初に驚いたのは「アメリカ」という発音が、高校や大学を出た若者に通じなかったことだ。「アメリカ」は「美国」と書いて(メイ グオ)と発音する。「フランス」は「法国」(ファー グオ)、ヨーロッパは「欧州」(オウ ジョウ)だ。

新しい言葉を表音的にした単語の例として、サントリービールは「三得利啤酒」と書いて(サンドーリー ピージウ)と発音する。カラオケは「卡拉OK」(カーラーオケ)、「マクドナルドは「麦当労」(マイダンラオ)、ハンバーグは「漢堡包」(ハン バオ バオ)、サンドイッチは「三明治」(サン ミン ジー)、ピザは「比薩餅」(ピー シャー ビン)である。

本質的性能からパソコンを「電脳」(ディエン ナオ)、エレベーターを「電梯」(ディエンティ)、CDは「激光唱片」(ジー グアン チャン ピエン)である。

漢字王国にも変化が出始めた。街の看板にCD・DVD・IPなどの文字がよく見られる。若者たちの日常会話では「ケンタッキーフライドチキン」を「KFC」(ケイ エフ シイ)と発音し、「激光唱片」はCD(シイ デイ)である。この傾向は今後ますます高まるだろう。

また、中国で造るために外国から新しい工業製品が1台届いたとしよう。中国の生産工場は一つ一つの部品名を中国語(漢字)に翻訳する仕事から始めなければならないのだ。先が思いやられる。

かつて、日本も外国の国名や都市名など漢字で表記した時期があるが、今は現地発音のカタカナ表記のためわかりやすい。ひらがな・カタカナは日本文化が生み出した傑作だと思っている。表音文字で、繊細な表現を可能にした便利でありがたい文字だ。しかい、外来語の多用や外来語的造語の氾濫には一考を要する。

/05/24

言葉は時代と共に

放課後、教室で学生と雑談していたとき、「先生」と言う単語は日本と同じように中国でも学校の教師に対する敬称であったという話が出た。さっそく調べてみたところ1949年の新中国になって「先生」から「老師」を用いるようになったようだ。

今の中国で「先生」は高名な学者・知識人・年長者・高徳の人・医師・外国人に対する敬称だ。また、妻が他人に自分の夫のことを「私の先生は」といい、他人は「あなたの先生は」と使うなど、男性に対する敬称だったりする。

今の中国で「老師」は、学校の教師への尊敬語で、日本語の「先生」に当る。もちろん若い教師でも男女を問わず「老師」である。ここでの「老」は日本語の「ご」や「お」にあたる接頭辞で敬意を表す呼び方だ。だから「老」は、例えば年上の劉さんやいろいろな職業の専門家に対しても、敬意を表する場合に「老劉」と呼びかける。

「小姐」は昔金持ちの娘に「お嬢さん」の意味で使っていた時代があったようだが、新中国になって「娘さん」の意味で使われ、鄧小平の改革解放以後、飲み屋・カラオケ・ホテルなど水商売の女性に呼びかけるときに使う言葉となっているようだ。店員に使った場合、今では不愉快から怒らせる言葉になっているから使わない方がよいと言う。

それではなんと呼べばいいかというと「服務員」が一般的だが、「美女」(mei nu)だとうれしいという。インターネットでは「美眉」(mei mei)と呼びかけるのが流行しているようだ。

便所は厠所(ツォースオ)と勉強したが、上品な言葉として洗手間(シーソージェン)がある。都市部で多く使用されるようになってきたという。日本の「お手洗」に当る。

2005/05/30

柔らかい肉のミイラ?

土曜日の午後、楊さんと彭さんの待つ湖南省博物館に出かけた。東風路に面した烈士公園の一角にあり、たいへん風格のある建築物だ。入場券(一人50元)

館の中心は馬王堆漢墓から出たミイラとその副葬品だ。彭さんが日本語交じりの中国語で一生懸命説明してくれた。

中身はたいへん見応えがあった。紀元前160年の墳墓から軟らかい肉のミイラ?が発見され、手術で生身の内臓を取り出し、プラスチックに閉じ込めて展示されていた。副葬品では超薄手のシルクの衣装など。ミイラと副葬品が収められていた巨大な棺は10畳程度で、柱のような厚みの板からできていて圧巻だった。いずれもたいした技術だ。

世界的に見て,ロンドンのBritish Museumや、西安の兵馬俑には及ばないにしても、博物館としては一級の部に入る内容だと思った。博物館の一部の展示物は日本でも展示したという。

2005/05/30

天下第一村  張谷英

張谷英村は岳陽市(長沙市の北)から東南東に73キロ。バス(中国の農村を走るバスのほとんどは個人経営)は、呼込んで客が集まり次第発車する。途中のどこででも乗り降りできる。「バスが来るぞ」と乗客集めのクラックションを鳴らし続けながら走り、1時間40分程度で村に着いた。

張谷英村は役人だった人が辞めて、1573年から一族で住んだのが始まりという。その後、屋根続きの家を次々に建て増しして、延べ床面積51,000平方メートル。部屋数1732間。家の壁はレンガ造りで、床は土間になっている。屋根を支える柱や神棚風のものは木造だ。60の路地の長さは1,459メートルもあり、まさに迷路だ。206個の開井(屋根を漏斗のようにして雨水を中庭に集める仕掛け)。住民の姓は全員「張」さん。今も生活しているところを、そのまま観光客に解放しているので、昔の農機具や大きな釜のある台所なども見られる。

中国にはこのような村が外にもあったらしいが、今はほとんど残っていない。残った理由としては、村の掟が村を守ったと言われている。重要な決議は約500人収容できる舞台付き講堂で会議を開いた。読み書きを教えた広い場所もある。

テレビと電気が入っている以外は昔のままと言った感じの生活だ。入村料39元。岳陽市~張谷英村間 バス12元。長沙駅~岳陽駅間 火車(汽車)硬座普快12元。火車(汽車)新空調硬座特快24元。

この後、岳陽市内の岳陽楼に行った。洞庭湖のほとりの高台に716年呉の魯粛将軍が水軍を訓練する閲兵台として建てたのが始まりで、今の建物は1984年修復。家の概観は古代武士の兜の形。この楼閣は詩人 範仲淹の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」という詩で有名になったという。3階にある杜甫の詩は毛沢東の筆によるもので、小学生は暗誦しなければならなかったようだ。

駅からタクシー10元。参観料46元。

2005/05/31

美容美髪

近くの美容美髪に行った。中国のでは2回目の床屋だ。通訳は胡さんと芦さん。店に入って二人が通訳を始めたところ10人余りのスタッフの間に、ちょっとしたパニックが起こった。外人が来たというわけだ。やがて落ち着き、服務員の女性が「洗髪からするが洗髪台に寝る方式と椅子に座ったままの方式のどちらを選ぶか」と聞いたので、椅子を選んだ。念入りにシャンプーしながら、「強くないか」とか、洗髪台でシャンプーを洗い流す際も、「お湯の温度はどうか」と聞いた。たいへん気をつかってくれた。

また、最初の椅子にかえって按摩が始まった。そういえば床屋兼美容院は、どこも服務内容の一つに按摩が入っている。通訳が「この人は按摩が好きです」と伝えたため、頭から肩、背中は全面。手首を取って腕の付け根の回転。これは強烈だった。肱の屈伸、手首の回転と圧迫、手のひらは生命線に沿って爪を立て、引っかいて全面圧迫。指は一本一本の腹側に爪を立てて引っかく。さらに指の一本一本を引っ張って鳴らすなど、相当の時間を掛けた。

席を換えて私の整髪は店長が担当した。男性を中心にベテランが美容美髪本来の仕事、若い女性は洗髪と按摩と分業しているのに気づいた。仕事のない店員はお客の座る洗髪用椅子に退屈そうに腰掛けておしゃべりしている。店長は髪を染めませんかと聞いてきたが断わった。

散発は電気バリカンを使ってやった。通訳の2人が入念に点検し、クレームを付けたため一箇所ハサミを使った。最後にもう一度洗髪しておしまい。表には20元と書いてあったので20元札を出したところ、5元お釣りをくれた。店内を撮影してよいかと聞くと、気前よく了解してくれた。撮影の様子は全員注目。

服務員が通訳から「また来てください」の日本語を習って練習していたが、私が店を出るとき、声はなかった。外人に声をかけるには勇気がいるのだ。

2005/06/08

上司のヒトコトは重い

作文の時間を週に2コマ(4時間)持っている。この時間は日本語による文章作成の練習が目的だ。テーマに関係のある語句・言い回し・作文例を勉強したあと、作文の宿題を出す。

日本語を勉強している学生は、親戚・友人等から度々「なぜ日本語を勉強するのか」との質問を受けているようで、その時の応答の骨子は下記のようであった。

たてまえ
日本の科学技術は世界一進んでいる。その理由を知りたい。
中国に来ている日本人がまじめに働くのに感心した。その理由を知りたい。
日本が好きだ。
日本に関心を持っている。
本音
英語を勉強しても英語人口は多すぎて、良い就職口が少ない。
日本語を話せれば、就職の機会が増える。
賃金の高い日系企業で働きたい。
日本に行って仕事を探したい。

日本人の私と学生が最初に交わした会話の内容は「私は日本企業で働いているとき日本人に怒られました」だった。それが1人や2人ではない。現場に居合わせたわけではないので経緯はわからないが、考えさせられた。

人は誰でもプライドを持っている。外人と対峙した場合はなお更だ。無意識のうちにプライドが頭をもたげる。そこで怒られたとなると強烈な印象を残す。

海外の日本企業に勤務している日本人は、進出先の従業員にとって上司だ。外国人である上司の一言は想像以上に重いことを肝に銘じて勤務してほしい。

2005/06/08

ご飯を食べましたか

大阪に「儲かりまっか」という挨拶代わりの言葉があると聞き、さすが商人の町、商人魂の乗り移ったような挨拶、と思ったことがある。

中国の「你好」(ニーハオ)「こんにちは」は日本でも広く知られた挨拶言葉で、昼でも夜でも通用する。

しかし、4~5回目位から「吃飯了嗎」(ツーファンロマ-?)「ご飯を食べましたか」が挨拶代わりの言葉になる。朝夕学生や知人と交わす挨拶言葉はこれだ。

この言葉にはどのような歴史が秘められているのだろうか。

2005/06/08

森林資源大国の可能性を秘めた国

日本の国土の70%は山だ。急斜面を除く山のほとんどに杉や檜の見事な有用林が見られる。日本は戦中・戦後に木を切りすぎ、洪水・山崩れ等の自然災害が多発した時期がある。木材資源の枯渇も心配された。山は、我々の先祖が将来に備えて、汗を流して植林し、育成してくれた貴重な遺産だ。

とことで、日本の25倍もの国土面積を持つ中国のほんの一部を見たり、テレビで見たりしての感想で申し訳ないが、人が木材を切り出した後、植林されなかった山が多い結果であろう、低木の雑木林が目立つ。国立の森林公園でさえもそうだった。低湿地の面積が広い中国で梅雨の時期に入ると、毎日のように洪水や山崩れのニュースが報じられる。これは天災ではない。明らかに人災だ。

木材輸入を1990年と2000年で見てみると、日本は5646万㎥から2590万㎥に半減。中国は経済発展に伴って224万㎥から2136万㎥と10倍近い増加だ。買い付け先は針葉樹をニュージーランド・USAから、広葉樹はマレーシア・アフリカのガボンだ。輸入は今後も飛躍的に増加することが予想される。やがて国際的な木材買付け競争が起こり、木材や紙の高騰をきたす。木を切った結果、宇宙船地球号は二酸化炭素が増え続け、温暖化が進む。木材を輸出した国では山崩れや洪水が頻発するようになるだろう。

中国の広い国土と降水量(人口1人当り降水量、中国5,907㎥、日本5,241㎥)は、森林資源大国の可能性を秘めている。昔はうっそうとした森林に覆われていたことを湖南省博物館の馬王堆漢墓から出土した大木の一枚板の棺が裏づけている。国民が1本ずつ木を植えても13億本だ。植林することで木材生産は勿論のこと、保水力を高め、洪水や崖崩れを少なくし、緑豊かな環境を作り、沿岸部の漁業資源育成にも役立つ。人工林の育成は欠かせない。植林は為政者の指導に懸かっている。

2005/06/13

日本人が忘れかけている美しい言葉

「ありがとうございます」とか「すみません」という相手のお礼や詫びの言葉に対して、日本では「はい」と言う言葉を使う人が増えた。それをおだやかに打ち消して「どういたしまして」という一言は、今や風前の灯だ。

中国の私の周りにいる学生は勿論の事、汽車の中で気持よく席を譲ってくれた学生、カメラのシャッターを押してくれたアベック、学生食堂の服務員、カメラの被写体になってくれた揚げパン屋のご主人、電気屋の店員等も、必ず「不用謝」「不客気」(どういたしまして)の言葉を返してくる。

中国では悲惨な陸上戦が長く続いた。わが国も謝罪しきれないほど多大な迷惑をかけた。ひどい自然災害で苦しい時期もあった。それでも「どういたしまして」という奥ゆかしさを感じさせる美しい言葉は、しっかり引き継がれている。

2005/06/13

端午の節句 前夜祭

6月10日、学校から「明日は端午の節句ですから食べてください」と果物をいただいた。明日は旧暦の5月5日だ。

彭さんが「今夜は私の家で節句を祝いましょう」と誘ってくれた。2回も訪問するとは思いもせぬことで、躊躇した。しかし、胡さん・賀さんも誘うので一緒に行った。途中で手土産を買おうとしたところ、友達だからと固く断わられた。

この団地の真ん中は、日本の大きな学校のグランドほどもある芝生の公園だ。周囲には子供と等身大の石造彫刻が約20個配置されている。図書館・プール・滝・池もある。模範的な団地のようだ。

ご両親がたいへん歓迎してくださった。お元気そうだ。ビールを飲んでいる間に10種余りの料理ができた。まず、お母さん手づくりの、竹の葉でもち米を三角にくるんだ、ちまきをいただいた。中に豆や豚肉そしてピータンを入れた変り種もあった。食べていると各自の箸で私のご飯茶碗におかずを入れてくれるので、自分の意思で選択する暇がない。歓迎の意を示す習慣だ。賑やかな食事だった。

十時前に失礼し、バスで帰ったが、彭さんがバス代の往復とも払ってくれた。誘った方が持つのが習慣だ。しかし、昔青年の私は落ち着かない。

2005/06/13

端午の節句

6月11日、事務の徐さんから端午の節句に呼ばれていたので、賀さんと胡さんを通訳依頼して出かけた。目指すは徐さんのお姉さん宅、団地アパートの3階だった。

一階の入口で訪問先の暗証番号を押し、着いた旨伝えると、先方の操作で鍵がはずれる仕掛けだ。玄関のドアには蓬の葉に似た植物と菖蒲の葉を一束にして吊り下げてある。幸せを呼び込む端午の節句の習慣だ。ご一家全員おそろいで、お姉さまは巻き寿司作りの最中だった。

アパートは5年前にできたもので、綺麗で明るい。玄関と居間が一緒になったような20畳余りの広い部屋を中心にした贅沢な間取りだ。お姉さまは墨絵を本格的に勉強なさっている方で、関連のものや家具・調度品など見ている間に食事の用意ができた。

食事の最初に「醤油の中に入っているのは辛いワサビです」との説明を聞いた通訳二人が驚いて、「先生は辛いのは食ません」と言った。私が「ワサビなら大丈夫」と言い、お姉さまも日本の醤油瓶とワサビを台所から持って来られ、この場は収まった。海苔も日本のものだった。韓国産の燻製豚肉もあった。砂糖を利かせた醤油煮のニンニクは「節句の伝統料理ですから食べるべきです」と通訳した。

食材集めに時間を掛け、心を込めた美味しい料理だった。

2005/06/20

雑談に切り込む

[話題1]日本語通訳の姉妹(月収5.2万円)(長沙科技日語学院卒)の穴埋めとして広東の日本企業(社員5000人)に就職する。彼女も通訳として働く。初任給1.5万円程度という。

[話題2] 国の「一人っ子政策」の中で、最初に男児が生まれた場合、あとは禁止だ(農村)。この掟を破って女児がうまれた。公務員の父親は、給料の50%を5年間引かれ、後々の昇進にも影響が出たようだ。国も政策を守らせるために必死だ。学生達も人が多すぎて生活しにくいと言う。

[話題3] 一人っ子同士が結婚した場合、その夫婦には子供2人の出産が許される。この制度は国民に歓迎されている。

[話題4] 産児制限のための性教育は国もたいへん重視し、小学校5年と6年で男女別に学習する。

[話題5] 中国では、男性の家に女性がお嫁に行く感覚のため、男児の誕生が歓迎され、女児を産んだ嫁は肩身が狭い。地方によっては女児の誕生が歓迎される。その理由として、男性は結婚する際20万元(260万円)以上の家を用意しなければ、嫁が来てくれない。

2005/06/20

長沙市の観光スポット

会話の授業で「人を集める」という短文が出てきた。関連させて長沙に観光客を集めようとした場合の観光スポットをあげてもらった。

まず湖南省博物館が出た。私も「この博物館は兵馬俑とまではいかないが、一級の観光スポットだ」と付け加えた。他に展望が利き毛沢東主席も登られたと言う岳麓山、毛沢東主席の奥さん・子供・兄弟も初期の革命で戦死されたことがわかる烈士公園、みかんの歴史を秘めた橘子洲頭、古い建築物で展望の利く天心閣、嶽麓書院、歴史の古い湖南大学の古建築など、いずれも歴史を感じさせる所を選んだ。

私は黄興路に面した春天百貨と王府井デパートの間にある小さな筋を入ったところの服地と仕立屋が一緒になった商店や専門店、黄興北路にある食材・食べ物屋・果物屋を中心とする商店街に、小物で高級輸入品の店・骨董屋・みやげ物店など混ざり合った中国らしさの漂う商店街があると、何度行ってもおもしろい観光スポットになり、「人を集める」力になるような気がする。東京の六本木・竹下通り・御徒町、沖縄県那覇市の市場街をイメージした様な所だ。

2005/06/20

森は天然のダム

長沙市内を流れる湘江は、長江(揚子江)の支流で、下流は有名な洞庭湖だ。

洞庭湖付近は、遠くで降った雨ででも、よく洪水が起こるという。濁流が運んできた泥土で、埋め立てが進み、遊水池としての機能も落ちているようだ。

湘江の集水範囲は日本の九州以上に広いが、山には深い森が少ない。そのため中規模程度の雨でも、上流ではがけ崩れや洪水が起こり、田畑が流される。川は黄色く濁り大量の土砂を運搬している。

樹木の少ない山地に降った雨は、地中にしみ込んだ後、地表面を流れながら侵食して川に注ぐ。川は短時間に増水するため洪水になる。

森が深いと降った雨は、まず木の葉を濡らし、枝・幹そして落ち葉を濡らす。次に地中にしみ込む。それ以上は地表面を流れる。とにかく、川にたどり着くには時間がかかる。森は天然のダムだ。

2005/06/20

大らかな人生  

朝の湘江のほとりに行くと、おもいおもいに運動している大人でいっぱいだ。散歩をしている人が一番多い。その外に太極拳・剣舞・ダンス・凧揚げ・一人テニス・バドミントン・コマ回しなど。

昼間は主婦やご隠居さんが、隣近所集まって、家の土間、歩道の片すみ、店番しながら小さなテーブルを囲んでマージャン・トランプ・囲碁・将棋だ。学校も職場も昼食時間が2時間以上あるため、自宅に帰って昼寝を楽しむ人も多い。

人生を「達観」した大らかな国民に見える。

2005/06/20

余剰労働者が姿を消す頃

授業内容に関連させて次のような話をした。

「先日通訳として就職した人の月給が約15,000円、私の初任給は1962年14,500円だった。1969年に新車の自動車を買った。7年後だった」と話したら目を輝かせた。中国の若者の当面の目標は車だ。

若者でも貨幣単位の元・角・分の内、以前は「分」のお金で買物ができたことを覚えている。中国の経済成長は目覚しい。

さらに話は「労働者が一人当たり一ヶ月平均20万円分の仕事をすれば、約2万円の月給になる。100万円分だったら10万円だ。中国が世界の工場となり、余剰労働者は街頭や農村から姿を消す頃、大多数の国民が生活の豊かさを実感するだろう。すでに沿岸部の都市では中産階級意識が高まっている」と。

思いは13億人の人口だった。日本の10倍の人口を持つ中国での豊かさは、どのように展開するのだろうか。

2005/06/20

多民族国家の対応

市内バスが、案内なしに予定のコースを外れて走っているのに気付く(よくある)、北方出身の人が運転手に聞きに行き「長沙弁でわかりませんでした」と引き下がってきた。

湖南省南部で2人が大声で話していたので、私が同じ湖南省中部の人に「何の話ですか」と聞くと「私もわかりません」と言った。

反日運動が高まった時期、私から「汽車(火車)内では日本語で話さないようにしよう」と提案したところ「中国にはたくさんの言葉があり、通じない言葉で話している人が多いから大丈夫」との説明が返ってきた。

人類は体質的特長で分類するが、民族は言葉など文化的特徴で分類する。中国は56の民族からなるという。その内漢民族は92%をしめ、7大方言に分かれる。現在の中国語は長江以北の北方言語で、特に北京付近の発音を標準語としている。長江以南の漢民族は河川・湖・山地などの影響を受け6大方言に分かれている。

他民族はもちろんの事、同じ?漢民族間といえども言葉が通じない問題を解決するため、中国の都市部では子供が3歳から入園する幼稚園でローマ字を使った発音練習の教育がある。幼稚園のない農山漁村では、子供たちが小学校に入学する(7歳前後で入学)前の1年間、小学校で勉強する。

多民族国家のため,標準語化に力を入れているのだ。

2005/06/20

布団は綿を出して日光消毒

日本では布団を干すとき丸ごと日にさらす。長沙では布団の綿を出して日光消毒している姿をよく見かける。同時に側?(綿を包んだ布団布)は洗濯するのだ。

どうして綿だけ干せるのか不思議に思い、間じかに見てみた。綿は網で包んであった。だから簡単に取り出せることがわかった。

そこで布団綿の製造工場の前を通るたびに観察したところ、まず綿を布団の形にならべ約5㎜平方の網目の網でくるむ。次に職人が30センチ平方ほどの板で網の上から撫ぜ回すような動作を繰り返して綿と網を馴染ませる。次に機械で強く押さえながら撫ぜ回し動作を繰り返して、網に包まれた布団綿が出来上がる。手軽に日光消毒するために考え出された工夫だろうか。

今では布に包まれた布団綿などもあるようだが、日光消毒しているのは網に包まれたのが主流だ。

2005/06/28

かたかな と ヒラガナの効用

日本に伝わった最初の漢字の語音は、呉音で三国時代に中国中部(現在の南京から上海)の語音。次の漢音は隋唐時代に北方(現在の西安を代表する地域)の語音。3番目の唐音は宋時代に南部の福建省以南の語音だったという。とにかく日本語は漢字と言う表意文字で多大の恩恵を受けている。
(参考資料:「現代漢語」上冊 主編 張 志公 人民教育出版社) 

影響を与えた中国語と影響を受けた日本語の違いについて、下記のような例えで説明できることに気づいた。

話はいきなり医療機器になる。大きな病院で使う「CTスキャン」(Computed tomography)は、人体に対して多方面からX線を投射し、人体の横断面を特定の間隔で表示する装置だ。医師は一枚一枚の断面図を見ながら、頭の中で連続的に再構成して3次元(立体)画像を想像する。

中国語はこの装置に大変似ていると思う。つまり、中国語の文章は漢字が並ぶ。その文字間は頭の中で再構成する必要がある。この事について中国人に聞いてみると、会話・文章共に、再構成の段階で意味を取り違えることがあるという。下雨天留人天留我不留はその典型的例だ。

日本語の文章は「ヘリカルCT」だ。この装置の普及はこれからという物だが、X線管球をらせん状に連続回転させながら人体の周りを移動させることで連続した3次元画像が得られる。

日本の文章は、漢字と漢字の間をひらがなやカタカナで繋ぐため、頭の中で再構成の必要がない。そのために意味を取り違えることは少ない。

2005/06/29

誕生日を賑やかに

授業のため教室に入ると、黒板に入念なお祝いメッセージが書いてある。「アッ、誕生日」。この事は私の頭にはなかったのだ。すかさず範先生が入ってこられ、長沙科技日語学院からの綺麗で大きな花束とお祝いメッセージをいただいた。徐さんから絵本形式の記念切手。

彭さんから下記のメッセージとかわいい中国結。

「先生お誕生日おめでとうございます。先生にはいろいろお世話になりました。ありがとうございました。今後さらに喜寿・米寿・百寿・と加寿を重ねられ、中国学生をご指導くださいますよう、よろしくお願い致します。長寿をお祝い申し上げます。彭 治平」

夜は10人余りの学生がお祝いに来てくれた。心のこもった大きな中国結、ケーキにりんご・バナナなど持参。

ケーキにナイフを入れ、にぎやかに食べていたが、やがて座が乱れだした。恒例の生クリームの付け合い(若者の習慣)が始まったのだ。追いかける人、隣室へ逃げ込む人など大騒ぎ。後半は楊さん・易さんの歌も飛び出した。最後に床や壁の掃除をして終わった。さすがだ。中国式のたいへん賑やかな誕生会だった。感謝!!。

2005/06/28

常にブラッシング

中国に進出している日本企業の悩みの一つに、従業員が辞めていくことだ。例えば、模範従業員を日本の本社に数ヶ月間研修に出す。帰国してきたところで、さらに勉強の必要性を感じて辞めたり、この経験を高く評価してくれる会社に移ったりするのだ。

そこで中国の若者(22~25歳の女性)の考え方を作文から拾ってみた。

〇 国は経済の成長期です。こんな社会で生存できるように、自分の能力を不断から高めなければなりません。

〇 大学卒も大勢いますから、なかなか仕事が見つかりません。ですから、特別な技能を身に付けることは大切なことだと思います。

〇 日本語の一級を取るのは大変なことです。かといって決してやめません。自分の将来のために苦労するのは当たり前です。

〇 日本語能力試験の後、自動車の免許を取るつもりです。そのあと広州に行って日本企業に就職します。仕事をしながら来年は日本語ガイドを独習して受けます。再来年は英語の検定を受けます。成功したら会社を辞めて自分の会社を創設します。

〇 日本語学校を卒業したら日本の会社に勤めるつもりです。いい通訳になりたいです。お金がたまったら自分の会社をつくるつもりです。さらにお金をためて海外旅行をしたいです。

〇 12月に日本語の試験を受け、それから日本の企業に勤めようと思います。そして2年以内に通訳として国際貿易に関わりたいです。国際的な仕事のために仕事をしながら国際関係学・国際貿易学を勉強するつもりです。いつか日本語の学校を創設して、多くの中国人に貿易のほか中日友好のためにも尽くさせます。私も一生懸命頑張ります。

中国の都市の女性は仕事を持つのがあたりまえ。若い女性は常に自分の将来について真剣に考えている。高校・専門高校を卒業して就職し、学資をためて大学・専門学校に入り直す人が大変多い。親に経済的負担を掛けられない事情があることと、急速に移り変わる社会に適応するためだ。知的Brushingを怠らない。

2005/06/28

BRICs

日本の経済誌で「ブリックス」と言う単語が目につく。Bはブラジル、Rはロシア、Iはインド、Cは中国だ。これらの国に共通していることは、国民の教育レベルが高い割に労働賃金が安く、国が工業化政策に力を入れているということだ。

中国が世界のトップを占める工業生産を調べてみた。(1998~1999年)
セメント37%、綿糸37%、綿織物46%、毛織物26%、生糸69%、絹織物95%、二輪自動車50%、テレビ37%、カメラ69%、電話機45%、ラジオ36%、家庭用冷蔵庫17%、洗濯機25%

かつて、日本が世界の工場として活況を呈していた頃の産業部門が、今はそっくり中国に移った感じだ。

世界の4人に1人は中国に住んでいる。中国に進出する企業の目的の一つはこの人口だ。外資導入に成功している沿岸部では所得が向上し、購買能力層が2割に達すると言われている。中産階級の形成化が進んでいる。巨大マーケットが生まれる前兆だ。しかし、問題は富の偏在。この問題解決は為政者しだいだが、紆余曲折はあったとしてもBRICsのトップを走り続けることだろう。

2005/06/28

日本の郵政民営化は?

5月初旬にお世話になった郭さんのうちに早速お礼状を出したが6月に入っても着かないので、もう一度書き上げたところで、着いたとの連絡があった。同じ湖南省内にも係わらず約40日目に着いたのだ。

日本は郵便事業の自由化で郵便局のライバル会社が現れ、郵政省があわて、郵便当局は勿論のこと労働組合も重い腰を上げ、サービス向上に取り組み始めた。お蔭で普通郵便が鹿児島から千キロ離れた東京に、翌日は着くようになった。

競争原理導入は必ず国民のプラスになる。その後、小泉さんの郵政民営化はどうなっているのだろうか。頑張っていただきたい。

2005/07/04

絶好のビジネスチャンス?

「もし1千万円の宝くじにあたったら」女子学生の作文から拾った。

○車や家など消費財を買ったら無くなります。最近国内は消費水準が高まり、国民は自分のイメージを重視するようになってきました。私は、自分の将来のために美容院を経営します。専門知識を高めたスタッフをそろえ、サービスを良くし、設備の整った店にします。美容院でお金をためてから使います。

○日本に留学し、暇を見つけて日本料理を勉強します。帰国したら故郷で日本料理店を開きます。

○翻訳会社を作って、生活のレベルアップを図ります。

○両親にスーパー マーケットを経営させて、利益の20%は私がもらいます。

中国は経済開放されて間もない。利益を度外視してきた国有企業は、国際社会で太刀打ちできず、次々に閉鎖され、大量の失業者を出しているようだ。つぎは何が起こるのか。逆に今後何が必要とされるのかなど、良く研究して夢を実現してほしい。中国は今、絶好のビジネスチャンスだ。

2005/07/05

日本語が上達した日本語教師

私は、長年公務に携わったので標準語を使ってきたが、アクセントは方言の域を抜け出せなかったことが日本語の会話授業で証明された。

会話の授業形態の一つとして、教師の私が最初に基本文型を読んだ後、学生全員が声をそろえて読むのがある。私が方言のアクセントで読んでも、正確なアクセントで読んでくれる。申し訳ない。学生は入学以来すべての単語のアクセントの勉強をしているのだ。

私は会話の授業を担当したお陰で、最近日本語が上達したようだ。

駄作のホームページを読んでくださっている貴方、下記の例Ⅰ~Ⅴグループの単語は前から何番目の文字にアクセントがあるか読んでみていただきたい。

例Ⅰ:パンフレット、ぶんか、じゅく、せいと、ぶんがく、かがく、いがく、
例Ⅱ:パトカー、つまらない、せんぬき、たいふう、こどもたち、おかねもち
例Ⅲ:てんきよほう、たったいま、せんたくき、はずかしい
例Ⅳ:たとえば、スケジュール、くつした、ストレス、ひじょうぐち
例Ⅴ:じっけん、はいざら、りょかん、ガソリン、おとしだま、れいぼう

例Ⅰグループは一番目の文字にアクセントがあるので、答えは①、例Ⅱ③、例Ⅲ④、例Ⅳ②、例Ⅴ◎だというのだが、いかがかな。

偽札に感心するやら、腹が立つやら

その1:学生が、銀行から下ろした100元札で買物したところ、「偽札だ」と突き返されたという。

写真のどちらが偽札か、おわかりだろうか。以前ご紹介した3点の判別方法は①札の左の白い余白に毛沢東主席の透かしが入る。②右にある主席の服の襟はざらざらの感触。③左下の緑色の100の字を斜めから見ると暗緑色に変わる、であった。この方法で調べると①②は二枚ともクリヤーするが、③では上の札がクリヤーできなかった。

偽札をさらに丹念に調べると、紙がわずかに厚い。中央近くの縦の黒線が少し濃く、わずかに右寄りだ。透かし部分に数本のゴミが入っている。張り合わせてあるようだ。

それにしても精巧にできているのに感心するやら、腹が立つやら。

その2:ある人が写真屋に写真を頼んで前払いし、翌日写真を取りに行ったところ「きのう貴方が支払った100元札は偽札だった。もう一度払え」と迫られ、挙句の果ては警察まで同行させられたと言う。

2005/07/08

日本は小さい国ですね

学生たちと地図を見ていると、よく「日本は小さい国ですね」という。その時「山椒は小粒でもぴりりと辛い」という内容の話をしょうかと思うこともあるが、若者の発言だし、日中友好のためにも我慢。それでもここで言わせてもらうと、世界に向け大きな発言力・影響力を持つヨーロッパの国々を見てください。湖南省程度の国ですよ、と力みたくなる。

国    名 国土面積(万平方㌔) 人 口(百万人) 人口密度(人/平方㌔)
日本———-37.8————-126———335
中国—–959.7-1267———132
湖南省—–21.1—–66
イギリス—24.3—–58———242
イタリア—30.1—–57———190
ドイツ—–35.7—–82———230
フランス 55.2 59 107

日本は小さいと言えますか。中国がデカ過ぎるのですよ、と言いたい。

国の評価をするとしたら、その国が世界の平和と貧困に対し、どのように貢献しているか、という見方が、一つの見方ではないだろうか。

2005/07/19

「ブス(シ)」と口角沫を飛ばす

学生間の会話を聞いていると、お互いに「ブス」(Bu shi)と言う言葉をぶっつけ合っている。日本人が醜女を連想して聞いていると、笑ってしまいそうだ。

漢字を当てると「不是」と書き、「いいえ、違います」という意味だ。相手の話をはっきり否定し、自分の考えを主張するパターンで使われる傾向が強い。休み時間は勿論のこと、授業中に「ブス」のぶつけあいが始まることも多々ある。その時は決着がつくまでやらせる。気の許せる仲間同士の議論だから。

日本人は、相手の言葉を「違がいます」と否定して話すことは少ない。否定する時は相手を傷つけないよう婉曲に言うことが多い。このような言い回しに慣れていない中国の学生たちは、私と話す時、理解に苦しむことがあるようで「私には先生の言っておられることがわかりません」とくる。

これらの違いには、どのような歴史的背景があるのだろうか。

2005/07/25

渾然とした調和

人口200万人の長沙という大都市で、荷物や人を運ぶ手段を観察していると、その多彩さに驚く。

古来のものとして、大きな袋を肩から提げた人、竹の天秤棒の両端に大きな竹の籠を提げ、果物など売り歩く人。

無動力車として、荷車に練炭を積んで売り歩く人。リヤカーに山のような荷物を積んで運ぶ人。自転車に箱を取り付け、爪切り・シャープペンシル・時計など30~40種類の小物商品を売り歩く人。自転車の前にリヤカーを付け、その上で油揚げを作りながら売り歩く人。自転車で大型冷蔵庫やプロパンガスボンベを配達する人。

動力車としては充電式電動自転車、これはスクーターそっくりのデザインだ。オートバイの後ろに屋根付き2人掛け駕籠を付けたようなオートバイタクシー。2人の客を後ろに乗せ、後ろに長い傘をさして走るオートバイタクシー。

車としては発動機エンジンを積んだ小型三輪トラックや中型四輪トラック。都市と地方を結ぶ個人経営の小型バス。都心を走る大変便利な中型市営バス、これは料金が1元で数分おきに運行しているため、名物の自転車通勤が姿を消した。

乗用車は、国産車の性能が向上してきたようだ。型の古いフォルクスワーゲンが大変目に付く。ベンツ・アウディは公用車の場合が多いという。日本のメーカー各社は新しい技術を導入して生産しているように見受ける。

これらが輸送手段としての特色を発揮しながら、渾然一体となって堂々と活躍し、中国経済を支えている。中国人のたくましさ、したたかさを感じる。日本には無い交通の歴史だ。

2005/07/26

流れに掉さす旅

私は大まかな旅が好きだ。いろいろな出会いを期待しながら旅に出た。

7月9日(土)長沙発N726次(便)、8:55発、長家界行きの待合室はたいへんな混雑だ。目の前でタバコを吸っていた人が、鉄道公安官?にその場で5元(1元は13円)の罰金を払う。

ローカル線はジーゼル機関車だ。乗り込んだ車両は偶然にも長家界に帰る劉さんと同じ車両。今夜はうちに泊まりませんかと誘われる。約6時間の旅。車窓からは稲刈りと田植えが同時に行われ、僅かだが大型トラクター・中型コンバインハーベスタ・魚の養殖場・アヒル養殖場などが見える。地形として河岸段丘(円礫)を確認。

劉さんのアパートは、川のほとりにある5階建ての4階。部屋は20畳ほどの広さを筆頭に6部屋ある。新築の家賃は130元/月。

川面には対岸の樹木や建物が逆さに写っている。川向は中心街。その向こう正面に、小型飛行機が同時に4機くぐった長家界の風穴が見える。

掃除の手伝いをして昼食のため外出。劉さんのおごり。市内で最も歴史のある張家界普光禅寺(門票1人20元)見学後、市場で食材の買物。宋さんも来て夕食作り。美味しい料理ができた。宋さん(長家界ガイド)が明日は張家界を案内しましょうかと言ってくれるのでお願いした。

2005/07/27

百龍天昇姿態の岩山

7月10日(日)世界自然遺産の長家界武陵源風景区(門票1人245元)。保険1人3元。全長990mを3台連結ロープウエー(往復一人86元)で結ぶ。比高431mを一気に上昇する。眼下に展開するパノラマが一気に広がる。絶景だ。

山上の駅と10箇所ほどの展望所は平均海抜1100m。ここから百龍天昇姿態の岩山を、角度をかえて観賞するようになっている。晴れた日の朝夕、曇りの日、雨の日、雲海の日、黄色みをおびた岩肌と松の緑が、表情を七色に変える姿が見ものだ。

昼ごろロープウエイで降り、宋さんが近くのホテルに案内して昼食。午後からはゆっくり約3時間歩きながら百龍天昇の岩山を下から観賞する。まさに、千山万水の石板遊歩道だ。疲れたら椅子つき駕籠も利用できる。

宿泊は、宋さんの交渉で1部屋35元。ビジネスホテルと言ったところ。清潔な感じのベッドで、一応洗面用の歯ブラシや櫛なども用意してある。シャワーも使える。ここでとった夕食は3人分で52元。

2005/07/27

すき焼と中華料理

7月11日(月)午前中、ホテルから歩いて10分程の宝峰湖に向かう。遊覧券一人62元。湖の長さは2.5km、平均水深72m。湖面から、いきなり平均80mの奇岩がそびえ立つ。まさに集山水宇一体の風景だ。音も無く、ゆったり走る船で1時間ほど遊覧。心の休まるひと時だ。

長家界市内に帰り、劉さんの所に忘れた洗面具を取りに立ち寄ったところ、今夜も泊まらないかと誘われたのでお願いして、昼ごはん食べに街へ誘い出した。食べながら今夜は私がすき焼を作ると言ったところ、ほんとうですかと驚く。

市場で食材を買い、昼寝の後、夕食つくりを始めた。すき焼と中華料理だ。宋さんが同僚の譚さんを連れて来たので、嫁入り前の4人の中国娘と1人の日本人がビールを飲みながら、日本語・中国語の飛び交うにぎやかな夕食となった。

食後、夜間照明のある近くの公園に案内してもらった。親子向けの広い公園だ。国は全国の中小都市に、このような公園つくりを勧めているらしい。

2005/07/27

鳳凰はどっちを向いても絵になる

7月12日(火)劉さんが駅まで送ってくれた。長家界から吉首まで国鉄で2時間、新空調硬座快速、天座(指定席なし)、一人22元。相変わらず混んでいたが苗族の大学生と漢族の若者が、かわるがわる立って、私の席を確保してくれた。明るく親切な人達だ。私が日本人とわかると会話も弾んだ。山の斜面には少数民族の家が点在し、樹木の大変少ない山々が続く。

吉首から鳳凰まで53km、舗装はされているが、スピードを上げクラクションを鳴らし続けながら走る民間の小型バスで1時間。苗族と土家族の居住区だ。山の斜面は、石組みの棚田、耕して天に到る景観だ。

終点でバスの運転手に宿の様子を聞いたところ、自分は、国の許可を受けていない宿屋を経営している、うちに来ないかと誘った。一部屋60元だという。見てから決めると言ったところ、バスで連れて行ってくれた。家は古いが有名な屋根付き橋の袂で、川に面していて、眺めがよい。それに部屋は良く掃除されている。大変気に入ったので決めた。

街は古い家並みが続き、細い路地は絵になる。そういえば美術の勉強をする大学生の一団も来ている。しかし、街は観光化と共に豊かになり、増・改築の際、伝統文化の建築様式が消えつつある。クーラーの室外機も大変目障りだ。目先の儲かる事だけに気を遣っているようで残念。

2005/07/27

村総出のお出迎えに感謝のご挨拶

7月15日(金)鄧さんの家に出発。1年の李さんも一緒だ。高速道路を40分。劉陽市は花火の生産では名の通ったところらしい。郊外には世界に名だたる製薬会社が次々進出していると言う。さらにローカルバスに10分乗り、未舗装の道路や田んぼの畦を20分歩いて着いたところ、隣近所の子供から大人まで総出のお出迎え。挨拶をしたところ「さすが先生」とほめられた。辛くない料理を作ったのは、はじめてという。申し訳ない。数年前にできたきれいな家だ。寝るのは1階のご両親のベッドで、竹のマット。夜中に寒くて目が覚めた。

2005/07/27

弱小民族の劣悪環境が今や観光資源

7月13日(水)早朝、路地の撮影。その後、写真で見た苗族の村に行こうとバス停に向かっていたところ、軽自動車(ワンボックスのトラック)の夫婦に、苗族の古村(22km)、土家族の古村(18km)に行かないか、待ち時間も含めて一日60元というのを50元に負けさせて出発した。

道も悪いがクッションも悪い車のため、腸ねん転を起こしそうな上下左右の激しい揺れだ。この先に村があるとは思えない狭い道をたどって、最初の苗族の村に着いた。最近作った石門で止められ、6人の少女が歓迎の歌と振舞い酒で出迎えた。約80人の村落だ。入村料一人50元。

村は外敵(漢民族?)の進入を避けるため、撤退を繰り返し、川を渡った石山に住み着いた。村は、それでも戦いに備えて、見張り台、T字路・屈曲路など戦略的だ。未婚の女性は、2階を寝室とするなど、住まいも石で作った要塞だ。

村の風習として病弱の男子は、15歳以上の大きな女性と結婚させた。頭の良い方が決定権を持つ主人だという。農家の土間で歌と太鼓踊りを見せてくれた。これまでは1戸当たり年収300元、今年は観光収入で500元になる予定。小学1年~4年までは苗族の言葉で勉強。5~6年生は中国語で勉強する。帰り道、あちこちの山間部から出てきた人が、水溜りを避けながら街を目指してもくもくと歩いている。揺れのひどい車だが、乗っているのが申し訳ない気分だ。

午後からの土家族の村(羅都)も入村料は一人50元。適当に見てくれと放り出された。すると子供たちが現れ、案内させてくれとうるさく付きまとった。道は石、家は土壁。得るものは皆無だった。

2005/07/27

村総出のお出迎えに感謝のご挨拶

7月15日(金)鄧さんの家に出発。1年の李さんも一緒だ。高速道路を40分。劉陽市は花火の生産では名の通ったところらしい。郊外には世界に名だたる製薬会社が次々進出していると言う。さらにローカルバスに10分乗り、未舗装の道路や田んぼの畦を20分歩いて着いたところ、隣近所の子供から大人まで総出のお出迎え。挨拶をしたところ「さすが先生」とほめられた。辛くない料理を作ったのは、はじめてという。申し訳ない。数年前にできたきれいな家だ。寝るのは1階のご両親のベッドで、竹のマット。夜中に寒くて目が覚めた。

2005/07/27

中国は自由な国だ。日本はどうだ。

7月16日(土)農家は朝が早い。お父さんが木箱に付けた脱穀機の歯と発動機を取り外して、竹篭に入れ竹の天秤棒で運ぶ。箱は夫婦で担いで水の入ったままの水田に据え付ける。脱穀機の工夫はいかにも中国らしい。

稲を刈り取って脱穀する。収穫した籾は、竹で編んだムシロで半日天日干し、手回し送風機で選別する。選別した籾を無差別に抽出して数えてみると、黄色に熟れた籾が21粒、未熟の青い籾が19粒。精米すると屑米が相当出ることだろう。まだまだ農業改良の余地があるようだ。

朝のうちは近所回り。どの家もお茶が出る。どの家庭にもテレビはある。半分ぐらいの家庭にはバイク(125CC)がある。ある農家でのやり取り。「日本人は英語で話すのか」「日本のお金を見たい」と言うので1万円札を見せたところ、福沢諭吉の肖像をさして「この人は毛沢東か」ときた。「何をした人か」「教育者だ」にピンとこない様子。「富士山は高いから年中雪に覆われているだろう」など。

耕地は家庭の人数によって割り当てられている。この割り当ては30年間、動かさないという。鄧さんの4人家族には4畝(ムー)(1ムーは6.67アール)。1ムーで数年前は米250kgの収穫があったが、最近は500kg取れる。水田の耕作には水牛。畑は小規模でトウガラシとサトイモが多い。

夕食のとき農業に携わる若者が訪ねてきて質問した。『この辺の農家を見てどう思うか』「古い文化と新しい文化が混在している。日本の40年位前の生活とそっくりだ。中国の近代化は日本がたどった時間より早いだろう」『どうすれば豊かな農業ができると思うか』「農民も商人的感覚で、常に時代を先取りする事だ」『日本人の豊かさの様子はどうか』「国民の大部分が中産階級意識を持った。中国は国土が内陸に広がっているし、非識字率15%(約2億人)も問題だ。経済発展の波に乗れない人も多いだろう」『日本の道路はどうか』「私の学生時代はこの地域と同じだったが、今ではどの水田にも小型トラックが横付けでき、山の中まで舗装されている」『中国は、今まったく自由だ。何をしても良い。日本はどうか』「日本はそれ以上で、政府を批判する自由もある。しかし、大部分の者は社会人としてのマナーを守る」

2005/07/27

レンガ文化

二つの教室の壁を打ち抜き、広い部屋にする様子を見た。なんとレンガだけでできていて鉄筋は入っていなかった。だから、30cmもの厚い壁をハンマー1本で簡単にぶち抜くことができるのだ。翌日は一つの部屋になっていた。今中国は建設ラッシュだ。建設中の近代的な高層ビルも建築素材にレンガは欠かせない。

今、長沙では下水道建設がさかんだ。そのマンホールもレンガを積んで造る。積んだばかりの、セメントの固まらないレンガに乗ってさらに積み上げていく。これもレンガならではの工法だ。しかし、漏水が激しく、地下水が汚染されていくことだろうと推測する。

レンガ積みは素人でもできる。公道である歩道にレンガを積んで面積を広げた店がある。また、小学校を取り巻く高い塀に沿ってレンガを積み、小屋にしたり、住家にしたりして道路を狭くしている所もある。

レンガはどこにでもある土を原料にして作る。土を掘った痕はしばしば水溜りになって放置されている場合が多い。

2005/07/27

紅い旅

7月24日(日)彭さんの計らいで星星ちゃん(小学4年生)のご両親が車を出してくださった。彭さんのお母さん・弟さんも一緒だ。最初に星星ちゃんのご両親が経営される私立長沙環球職業中専学校を訪問した。ご夫婦は1万人の学生を擁する学校の校長先生。

まず校長室に通され、次に資料室だ。ここでは校長先生の広範なおつき合いの様子が紹介されている。例えば劉少奇主席の奥様と一緒の写真や現政府の要人との親交の様子など大きな写真で展示してある。コンピュータ室や工作機械の部屋を見た後、校門でカメラマンに記念写真を撮らせ、お土産をいただいてお別れした。

劉少奇主席のところは長い階段を上がったところに資料展示館(1人票価30元)があり、生家はそうとう歩いたところにあった。全面改造した家で、伝統のレンガを土で固めた家だ。家の広さや家財道具などから、当時としては経済的に悪くない家庭ではなかったろうかと推察した。

毛沢東主席のところは生家だけ見た。観光客が多い。つぎつぎとやってくる。ここも全面改造されている。レンガの壁を土で固めた家で、一昔前の工法だ。縁起を担いで、四方の屋根が雨を中庭に取り組む「天井」と呼ばれる造りもしてある。同じ屋根の下に牛小屋も豚小屋もある。土間にベッドを置く仕組みだ。農村でこれだけの広い家は自作農と推測す
る。

帰りに共産党学校跡を見学した。学校は長沙市内へ移転したとかで、その跡地の広さは1万㎡あるという。校舎はそれほど古くは無い。ここで筋金入りの共産党員を育ててきたのだろうと思いながら見学した。キャンパスの中央にはみかんの森と呼ばれるところもある。勤労体験の農園で、学生への栄養補給源でもあったのだろう。高台の方には女子学生用の寮跡もある。

帰りは彭さんの所で、時間を掛けて煮込んだ「不辛」(ブラ)(からくない)の鴨料理をいただいて帰った。

2005/07/27

長沙市の水道水は?

長沙市水道局の周氏(1年間鹿児島で水道の研修)とお会いする機会があったので、「どうして飲める水道水にして市民に供給できないのか」を聞いた。それによると浄水施設を送り出すときは飲める水にして出すが、途中で汚染されると言う。

これまでに訪問した中国人のほとんどの家庭の台所や水洗トイレ、シャワー室で水道管に関連する故障をよく見かけた。見かけだけの工事が踏襲されているため、すぐガタがくる。地中に埋めてある水道管の問題もその延長線上の問題だろう。

技術の問題だけでは片付けられないように思う。

2005/08/01

思えばいろんな経験をしたもんだ

思えば雪も降る寒いさなかの3月から、連続38~39度という暑い夏を体験するまでの5ヶ月間だった。途中、辛い食事を前にして郷愁にかられたり、反日感情の高まりに警戒したり、予告無しの停電や断水に中国の発展を感じたりした。

異国の地で私が曲がりなりにも勤められたのは、範先生・劉先生・徐さんのお陰である。受け入れ準備・食事・断水・病気のときの気配りに感謝したい。

当然、学生の協力無しにはここまで続かなかった。食材持参で、にぎやかな食事をした。病気のとき薬を届けてくれたり、食事を心配してくれたりした。勉強意欲・優しさや親切さは予想をはるかに超えるものだった。12月の日本語能力試験では全員パスを祈念する。

休みを利用して湖南省南部の永州の郭さんと、東部の劉陽の鄧の家でホームステイさせていただいたことは貴重な体験となった。西部の長家界では劉さん宋さんに大変お世話になり、世界遺産の見事な景観を目にすることができた。鳳凰の苗族の暮らしもつぶさに見た。

湘譚では革命家の生い立ちをみた。1万人の私立専門学校や元共産党の学校見学も貴重体験となった。長沙市内の彭さんのところは毎月お邪魔し、ご両親と親しくなり、ご馳走になった。5月の節句に徐さんのお姉さん宅に呼んでいただいたのも貴重な思い出だ。

これらは学生諸君と私がお互いを認め合い、それぞれの文化の違いを認めあった上でのお付き合いの結果である。政治的にはいろいろな駆け引きもあろうが、認め合う方向で対立を解消できれば、東洋の一角に強力な経済機構が構築され、双方が発展し豊かで平和な暮らしができるだろう。

このホームページは日中友好を念頭に置きながら、日本・中国双方の文化の違いを中心に、実際に見聞したことを書いた。見方によっては誤記に見えたり、お気に障るような文面もあったりしたことと思う。これらは私の不徳の致すところと思ってお許しいただきたい。また、何らかの方法でご意見をお聞かせいただければありがたい。

尚、通信事情で写真が思ったように送れなかった。帰国して落ち着いたら補充するつもりである。いくらか載せなかった文章もある。これらは日を改めてこのホームページの追記として紹介できればと思っている。

それでは中国からの送信を終わります。長い間のご愛読、ありがとうございました。