2005年7月1日(金)天候晴れ
**授業の終わり**
本日をもって、2004年度から2005年度間の授業が終わった。
10年ぐらい前から望んでいたささやかな日中友好事業。
それは、誰に言われるでもなく、自らの希望と決断で始めた個人的事業であった。
結果は、「よかった」と満足している。中国の青年たちをみていると、殆んどの生徒がまじめで、勉学を通して自分ら将来を開拓していくという意気に燃えている。
日中友好はこれら若者たちの背に託される。
**銃後世代経験者の使命**
100年後、300年後、500年後に日本の歴史家や、若者たちがその歴史を学ぶにあたり、いわゆる定説だけで歴史認識をしてはならない。
定説は必ずしも真理ではない。定説はより多数が定説として認めるものに過ぎない。真実は別にある場合もある。その場合、当時の庶民の声、体験があわせて必要であると思う。
銃後世代とは今70から90歳の男女を指すことが出来る。「銃後」「銃後の護り」とは太平洋戦争時、非戦闘員であった者が、国にあって、戦闘員を応援し、戦闘員が勇敢に戦えるように背後から支援していくという国策の言葉であった。
そろそろこの年代の銃後経験者が他界し、必死の生き様が空洞化しつつある。この時代の徴兵家族、学校教育、食料不足、防空非難、疎開、空襲、栄養失調、結核等文書をもって残さねばならない。
それは、唯一つ、国際紛争を解決する手段として、武器をもって戦うことのいかなる大義名分もないことを知らしめるためである。最近、歴史解釈の見直し、戦争の美化が、ある意図の下になされつつあることは不安である。
2005年7月2日(土)天候晴
**餞別を断る**
9月から北京で日本語学習を始める日本語教師の殷秀珍先生に、大変お世話になったので、お礼の手紙と一緒に何がしかの餞別を包んだ。ところが、彼女、絶対に受け取れないといって返してきた。
「おじいさんやおばあさんからだと受けとるでしょう?だから、これおじいさんのお小遣いです。」というと、「私の両親は、たとえ、祖父母からのお金でももらってはいけないと躾けられました。これは私の信念です。」という。こんなやり取りのあと、結局彼女は受け取りを断った。
ちなみに、彼女は5人兄弟姉妹の長女で、いつも弟や妹の子守を担当したそうである。そして、いまでも、弟、妹たちに学費の一部を仕送っているということであった。厳格な家庭教育、独立心旺盛な彼女に驚きとともに、これほどの若者が今日日本にいるかな?と思った。
2005年7月3日(日)天候晴れ
**早朝の礼拝**
今日は初めてカトリック教会を休んだ。先週神父さんには、「日本に帰ります。又きますからよろしく。」と挨拶しておいた。そこで、初めて二部礼拝システムの(三自)九江市基督教会に出席した。ベッキー嬢が、かって、「池田さん、早朝の礼拝はもっと多いよ。」と話していたが、なるほど教会へ着いたら、すでにいっぱいで、座るところがなかった。
しばらく立ったままでいると、ある婦人が「ここえぞうぞ」と席を譲ってくれた。今、建設中の新会堂が2000人収容可能な礼拝施設であることがうなずけた。今日は、第一日曜日で聖餐日である。マタイ福音書26章からイエスの言葉が読まれ、イエスのからだと血の祭儀に与った。これから後2ケ月間は日本の教会で主キリストさまを礼拝することになる。
中国で学生同士の衝突相次ぐ 山東省、江西省で
2日付香港紙、太陽報によると、中国山東省の山東理工大で6月27日、学生計500人が漢民族とウイグル民族に分かれて衝突、重傷者5人を含め少なくとも9人がけがをした。同25日には江西省の人民解放軍系の大学、九江学院で、学生約4000人が車を横転させるなど暴徒化した。
報道によると、山東理工大の衝突は、バスケットボールの際のもめごとが発端。刃物などを持ったウイグル民族の学生約30人が、寮で漢民族の学生らに暴行を加えたため衝突が拡大。
武装警官が鎮圧し数人を拘束した。九江学院の学生らは大学側が寮の電気代などをむやみに徴収しているとして暴徒化。大学側は徴収した金の一部を学生に返還したという。(共同) (07/02 17:24)
大規模ハッカー攻撃を計画 日本側狙い中国最大組織
1日付中国系香港紙、文匯報は、中国最大のハッカー組織「中国紅客連盟」が今年7月と9月、日本側ウェブサイトへの大規模なハッカー攻撃を計画していると報じた。攻撃目標や詳細な時期は不明。 同紙によると、同組織の拠点のコンピューターに対しては、日本のハッカーが今年1月から攻撃を続けている。
中国から日本のサイトに攻撃した直後に日本側から「反撃」を受けたケースもあったという。 このため同組織はメンバーを情報収集や攻撃、防御などの担当グループに分け、「戦闘力」や「防御力」を高める訓練を実施中。攻撃担当は1隊10-100人の「戦隊」120隊で編成されている。 同組織は昨年末にいったん解散したが今年復活し、4月に8000人だった登録メンバーは現在、3万5000人余りという。(共同)(07/01 14:52)
**はじめての家庭集会**
○○牧師の案内で家庭集会に出席。家庭集会のキリスト者は全国で8000万人とか。カトリック愛国教会、三自愛キリスト教会をあわせると1億人となり、およそ、8%強がキリスト者ということになるが。その実態は不明。中共政府が認める教会はカトリック愛国教会、三自愛キリスト教会で、以下の4点を政府に対して守ることを約束した。
1、毛沢東、鄧小平の路線に忠実であること。2、中国共産党に忠実であること。3、民主的集団であること。4、社会的集団であること。3と4はごく常識的な内容である。1と2は現政権に都合よい押し付けであるが、これは歴史が解決するであろう。小生は○○牧師の依頼を受け聖餐の司式をおこなった。これは小生の中国における最初の礼典参加であった。
2005年7月4日(月)天候晴れ
広東省からの曾春燕、江蘇省からの呉越から安着の電話とメール。彼女たちは久しぶりに故郷の両親のもとで暮らす。夏休み中、のんびりとした生活もまた彼女たちの益になることだろう。昼は殷先生と昼食。彼女も北京へ進学し、日本語の力量をより高めることだろう。彼女の健康と健闘を祈りたい。
2005年7月5日(火)上海宿泊天候晴れ
午前6時15分九江を発ち、帰国の途につく。南省空港まで外事部の帥先生が車で送って下さった。国際交流課で外国教師の世話をするのが仕事とはいえ、彼はとても親切に対応してくれて有難い。この日の日程は南昌~上海。定時に南昌を飛び立ち、午前10時過ぎには上海虹橋空港につく。当日は上海~鹿児島直行便のダイヤ待ちで上海浦東空港に隣接した「錦江の星」ホテルに投宿。ホテル周辺埋立地で植林などはよくなされているが特に見るべきところも無く,部屋でのんびりと過ごす。
2005年7月6日(水)鹿児島天候晴
搭乗手続き、9時55分離陸、鹿児島空港着12時30分。一路種子島へ。久しぶりの日本の海。特に種子島はオーシャンブルーに包まれ、透き通った空の青と、海の濃紺が対照的。九江長江のにごり水、上海外港の泥水、いつも煤煙で曇っている空を見ていたものにとっては、鹿児島は、そして特に種子島は空がまぶしい。海原はサファイヤの絨毯を敷き詰めたような美しさに思わずため息。「故郷のよさは外国へ行ってはじめてわかる。」といわれるが、まことに同感である。午後4時30分、西之表市鴨女町の自宅につく。
2005年7月7日(木)種子島(曇り)
**河野昌行町内会長訪問**
鴨女町は昭和33年に発足した西之表市の新興住宅地である。400所帯ほどの公民会で、かっては、若い人たちで構成され、児童も多く、活気があったが、近年老齢化の波は防げず、若者は進学、就職で島を出たきり帰ってこない。残された老人たちがひっそり暮らす町に変わってしまった。このような町の町内会長さんが河野昌行さん。ごみ出しや環境衛生、敬老行事などの業務をこなし、市政連絡員を兼務しておられる。友人でもある河野さんを訪問し、日ごろのご苦労を謝し、また九江の生活にしばし花を咲かせた。
2005年7月8日(金)種子島天候晴れ
**長野市長表敬訪問**
今年2月11日実施された西之表市長選に立候補し、市民の支持を得て新市長になられた長野力さん。わがシオン学園の役員をお願いしたりした方で、個人的にもお世話になった方。帰国を機に同氏を表敬訪問した。気持ちよく応対していただき、西之表市の緊迫した財政難をどう解決するか持論を聞かせていただいた。一口でいうと、国と同じく、小さな政府に向かって改革することだそうで、日本国の行財政改革と同じ路線である。「頑張ってください」とエールを贈る。
2005年7月9日(土)鹿児島市天候曇り
**鹿児島教会にて牧師会**
第56回キリストの教会全国大会開催準備を昨年8月から立ちあげ、鹿児島県の教会が共同でホスト役をつとめることとなった。開会2週間後を控えて、最後の詰めの牧師会。事務局長の逆瀬川牧師には一年間ご苦労様でした。彼の進捗状況を聞きながら、問題なく大会を迎える準備が完了したことを確認。あとは良好な天候を祈るのみである。一つの大会を興すということは企画、会場、テーマ設定、講師、交通案内等多岐に渡って準備しなければならないのでホントニご苦労さまでしたといいたい。
2005年7月10日(日)鹿児島市 天候晴れ
**玉里カトリック教会礼拝**
鹿児島市早牟田にある玉里カトリック教会出席。本来は自分の教派の教会に出席するところだが、理由があってカトリック教会に出た。理由は、第一、種子島カトリック教会の神父を勤められたサンタマリア神父さまが転勤で玉里にきておられること。
第二に、種子島のキリスト幼稚園に通園した園児で、数名の方がこの教会の信徒となっておられるので、その方に会い、安否を問うためであった。あいにく、神父様はビザの関係で、何年か毎の定時帰国をなさっておられた。お会いできなくて残念であったが、二週間以内に再びおいでになられるということであった。
教会は代理の神父様が司式を行い、ミサがまもられた。聖書はマタイ福音書13章1-9からの説教。神に耕された人の心に蒔かれた福音の種は60倍、100倍の実りがあると思った。そして、神は人生の諸事をとおして、人の心を、実を結ぶよい畑のように、耕してくださるものだと感謝する。
2005年7月11日(月)鹿児島市 天候晴れ
**鹿児島市日中友好協会理事会(オブザーヴァー)出席**
事務局長の大石ケイジ様から表記の理事会を開くので、出席ください。との招待を受け、喜んで参加した。場所は鹿児島市民交流センター四階であった。海江田会長はじめ、理事の皆さんとは初対面であったが、旧知の仲の再会であるかの印象。日中友好を願った純粋な団体だけに、この会の方々の日ごろのご活動には頭が下がる思い。
議題は、「黄興碑」建立に関する件であり、この日、建立の方向でスタートすることが承認された。黄興といえば、湖南省出身の中国辛亥革命の立役者。風貌が西郷隆盛によく似ていることから、中国の西郷南州翁にたとえられる人である。彼は、明治維新成功に触発されて、日本(東京)に留学し、孫文らを中心に、中国革命への情熱を燃やし、幾多の困難を乗り越えて、辛亥革命を成功させた人物である。
彼の風貌といい、気質といい、西郷さんに似ているといわれる。彼の、記念碑は、尊敬する西郷南州を慕い、肥後の宮崎滔天とともに、南州神社を訪問し墓参したことを記念して建てられるものである。是非成功させたい。
2005年7月12日(火)鹿児島市 天候晴れ
**吉原さんと**
六ヶ月ぶりに吉原定一さんを訪問。この方には、九江行きについて、一方ならぬお世話になった。吉原さんとの出会いがなければ、小生の中国行きは不成功に終わっただろう。神がこのような人をめぐり合わせてくださったことを感謝する。
2005年7月13日(水)鹿児島市 天候晴れ
**芋畑草取り**
わかくさ保育園の学習園を鹿児島市犬迫農園に借りて、サツマイモを植えつけている。迫田園長の許可を受け、長男とともに草取りに汗を流した。5月末に定植された苗はよく活着し、ツルがのびて勢いがよかった。わかくさの園児たちは10月末ともなれば、この場所で芋ほりを体験し、焼き芋をし、自然の恵みに浸ることになる。長男と無心になって雑草を引き、汗を流し、休憩時の缶ジュースは格別な味であった。
2005年7月14日(木)鹿児島市 天候晴れ
**選択理論定例研究会(加治屋町教会)**
加治屋町教会キリスト教センターで定例会が開催された。あらかじめ、幹事役の松田瑞穂先生から出席の案内を受けていたので、研究者の皆さんとお会いできることも嬉しくて、喜んで参加した。いつも、参加人数は7,8名だが、皆さん研究熱心でこの選択理論カウンセリング手法を用いて、「鹿児島いのちの電話」の応対事業のボランテイアをしていらっしゃるグループ。選択理論カウセリングシステムはクライアント(相談者)の意見や考えをよく聴き、クライアント自身が自らの選択で意思決定を行い、行動することを最終目的とするカウセリング手法である。関係諸兄姉の「いのちの電話」への関わりに敬意を表するとともに、その活動が祝されますように祈る。
2005年7月15日(金)鹿児島市 天候晴れ
**環境整備**
わかくさ保育園の菊鉢の管理。腐葉土の切り返しで汗をかく。
2005年7月16日(土)西之表市 天候晴れ
日曜礼拝で、教会の講壇担当のため種子島へ。白砂青松の環境につつまれた我が家の住まい。3階の窓から心地よい風が吹き込み、自然の恵みに感謝して浸る。
2005年7月17日(日)西之表市 天候晴れ
**西之表教会説教**
半年振りの講壇。使徒言行録2章から初代教会の状況について説教をする。その概要は次の通り。
1、使徒たちによって、不思議な業が行われた。記録によれば、不思議な業の内容は病人が癒され、歩行不自由な青年が歩けるようになったなど。神は時にデモンストレーションとして奇跡とよばれることを行われる。
2、信者は自発的に所有物を共有した(ある学者は、初期キリスト教社会を原始共産社会と呼んだ)
3、よく会堂に集まり、キリストの教えの共有(今日では聖書の福音書を読むこと)がなされ、祈りがなされ(主の祈りを中心に)、聖なる晩餐(聖体拝領といい、パンとぶどう酒をキリストの体と血として信者たちが受ける礼典)に与った。
4、民衆全体から支持された。
民衆の宗教となり、民衆が生かされ、平安になる宗教こそが真の宗教であろう。
2005年7月18日(月)西之表 天候晴れ
中国の近・現代史研究
九江にいて、中国人の生活や考えを見聞し、日中関係、反日デモ等にあって、中国の近現代史に興味がわき、改めて蔵書から日本史、世界史の中国関係を読み漁った。
概要をまとめると次のようになる。
1、日本サイドからみた中国近現代史
開国、明治維新を成し遂げた日本は、欧米との通商、朝鮮・中国・東南アジア・ロシアとの極東圏と通商を行うようになった。当時、インド・ベトナム・タイ・フリッピンなどはすでに西欧列強によって植民地化されていた。これを範例とした日本は朝鮮半島、中国、ボルネオ・ジャワ等、南アジアに権益を拡大し、多くの日本人を入植させ、疎開地を作った。
同時に、疎開地邦人保護の立場(義和団事件)から、軍隊も少数ながら駐留させた。最初は小規模な入植の試みも、植民地化のうまみを味わってしまった日本は、国内の経済不況(昭和恐慌)による失業者救済のため、口実を設けて台湾、朝鮮半島を日本に併合した。
それから以後、日本の極東大陸への権益と進出はエスカレートするばかり、ついに、柳条湖事件、盧溝橋事件を発端に中国との間に17年戦争が始まり、北部には満州国という傀儡政権をつくり、上海事件を始め、中国の主要都市を日本軍が占領した。
中国のみならず、大東亜共栄圏の名のもとに、太平洋戦争と同時にイギリス・フランス・オランダ・アメリカを一時東南アジアから追い出した。かくして、日中戦争は欧米諸国をも戦争に巻き込み、1945年8月15日全面無条件降伏で幕を閉じた。西欧列強の真似をしたが、結局失敗だったことを歴史に刻んだ。
2005年7月19日(水)西之表 天候晴れ
**鹿児島伝道協力会**
表記の定例集会が鹿児島市加治屋町教会のセンターで開催され、出席した。会長:吉井秀夫牧師(鹿屋)、事務局長:麦野賦牧師(伊集院)の任意団体で、教会の情報交換、いのちの電話事業応援、国際飢餓対策機構(日本事務所)への応援、講演会、市民クリスマス、伝道協力などの活動を行っている。
当日の主な議題は、10月末に開催される第6回食料デー鹿児島大会の実行計画の協議であった。「5円で飢餓国の乳児の一日分のミルクがまかなえる。」日本の「捨てる食料を減らし、その分、飢餓国に送りましょう」といった内容のキャンペーンを実施することであった。開催場所:サンエール鹿児島。
参加者およそ20名。久々に教会の同僚と歓談でき、感謝すべき一日であった。
2005年7月20日(水)-21日(木)西之表 天候晴れ
中国の近・現代史研究(その②)
2、中国サイドから見た近現代史
清朝からの解放運動。中国の近現代史はここから始まる。満州族清朝に支配された漢民族は日本の明治維新に触発されて、青年たちによる開放運動が展開される。孫文・宋教仁・黄興などは日本に留学し、明治維新の志士たちを研究し、改革のノウハウを中国に適応しようと試みた。幾度もの蜂起失敗を重ねながら、ついに開放成功。これが辛亥革命である。
清朝末期の中国状況
清朝は世界の列強からは「眠れる獅子」と恐れられ、その威光はなはだ大であった。早くから、通商のため中国に進出した西欧・ロシアはやがて「眠れる獅子恐れずに足らずと」アヘン戦争を起こし、中国にさまざまな不平等条約を押し付けた。
清朝は内に革命の気運、外に外圧を受けながらの、王朝末期現象を呈していた。
革命家たちの国づくり
辛亥革命を成功させた志士たちは、自らの国をどう作りあげるか模索しながら、一方では、日本や欧米の中国進出をどう解決するかが1927年以来の課題となった。辛亥革命後の大きな動きは、ロシア共産革命に触発された、毛沢東を中心とする共産党集団、共和制を主張する蒋介石を中心とする国民党集団が大きく覇権を争う。このような状況下で盧溝橋事件をきっかけに日支戦争へと発展した。
日中戦争収束のため、両者は一時覇権争いをやめ、日本軍駆逐に結束した。また、繊維経済摩擦で日本に不快感をもていたアメリカは中国に肩入れし、軍事援助を実行し、日本を困らせた。結果は、日本の欧米への宣戦布告により太平洋戦争へと発展し、1954年日本の無条件降伏という結末となった。日中戦争が終結した後、毛沢東率いる共産軍と蒋介石率いる国民党は再び覇権争いを展開したが、共産党軍が有利に展開し、国民党軍を台湾に駆逐し今日にいたっている。
1949年10月1日、毛沢東は新中国を中華人民共和国と命名する。以後、指導者たちの覇権争いもあって、躍進計画・文化大革命等を経、大きく躓く。幸い、毛沢東の死去により、中国人民意にとって一連のマイナス施策は鄧小平らによって修正された。鄧政権は自由経済システムを導入し、通商による国益をはかる方向へ舵をきる。
しかし、天安門事件でみせたように、人民の思想・信条の自由は認めず、力で抑えた。当分の間、自由経済システムと一党独裁システムは平行して進められるであろう。だが、人口13億人、56民族の他民族多人口の中国は、貧富の差を生み出し、国内問題へと発展しつつある。
現政府は、国民には愛国教育を行い、例えば「南京大虐殺」等を具体的教材として教えると同時に、この悪を駆逐したのは中国共産党であるとしている。
歴史認識はどこの国も、自国の国に都合よく解釈するものである。
3、日中関係のこと
1978年に日中友好条約が締結されたが、中国と日本は冷政温経の関係にある。中国にはすでに多くの日本企業がはいり、活動を始めている。これは両国にとって有益であるからだ。しかし、バランスを崩したときが問題である。どちらか一方の国に不利益なことが起これば、争いごとになる。最後は国間の決断による解決となる。
この場合、武力に訴えるか、話し合いによるか、第三者の調停によるかの解決策があろう。国際司法裁判所なるものを加盟国同意でつくり、少なくとも加盟国間ではこの裁判所の判決を受け入れるという原則を作ったらどうだろう。武力による解決は悪魔が微笑むだけである。断じて行ってはならない。基本的には日中は過去も今後も、過去の歴史からも、国益の見地から、互いに必要とする国である。
2005年7月22日(金)鹿児島市 天候晴れ
**わかくさ保育園の夏まつり**
恒例の夏祭り。今年で第32回目を迎える。開園当初から続いている祭りである。小生も前園長として招待を受け、出席した。午後4時から、年長組みの「みこし担ぎ」。午後6時からは、保護者を始め、卒園生、近隣の方々を案内しての夜祭。夜店を開いて、かき氷、串焼き、缶ジュース、くじ引きなどの出し物、園児の園芸などもあって、大人も子どもも楽しんだ。理事の内村さんや監事の正本さんも参加してくださって感謝。
2005年7月23日(土)鹿児島市 天候晴れ
**明和地区夏祭りに参加**
明和地区恒例の夏祭り。主催は明和地区の商工業者で組織する明和商工振興会(会長:千葉さん)。地区子ども育成会や、商工業者、各種サークルの方々が参加。夜店を出し、園芸の出し物もある。わかくさ保育園の子供たちも歌とこども太鼓を披露。大正琴グループのなかに旧知の吉嶺涼子さんを見かけた。大正琴演奏を趣味とする同志で組織され、地域の老人福祉施設や地域の行事に出演していられる。
保育園にも演奏をお願いしたことがある。海外の北京や、チェコへも演奏旅行されるほどの腕前。趣味を生かし、奉仕活動ができる退職後はすばらしい。吉嶺さんのことだが、彼女は30年も昔、ご主人が種子島の中学校へ赴任されたときの知り合いで、キリスト幼稚園の教諭を1年あまりお願いした婦人である。
2005年7月24日(日)鹿児島市 天候晴れ
全国大会宮崎会場プログラム作成
礼拝後、宮崎大会プログラムの製本に協力した。ページごとに冊子を作り、表紙をつけて大会誌に仕上げる。多人数で取り掛かり、約一時間で終了した。あとは北海道から沖縄までの参加者をお迎えするばかりになった。願わくは天候が良好でありますように。事務局長の逆瀬川牧師は細かい作業の数々をこなすのに大変だったと思う。ご苦労様を言いたい。
2005年7月25日(月)鹿児島市 天候晴れ
**わかくさ保育園ボランテイア受け入れ準備**
わかくさ保育園では今夏もボランテイアのし少年を57名受け入れることになった。すでに迫田節子園長が受け入れの手続きをすませておられ、あとは、具体的な受け入れ態勢を園長と相談した。①園児への関わり ②園児や高齢者が喜ぶ手具作り ③環境教育の一環としての廃油製作体験などを主な柱とすることにした。
2005年7月26日(火)西之表市 天候晴れ
**八板ヨリ子姉逝去に伴う一連の祭儀**
ご主人の康成氏と自宅の清掃をしているとき、トイレで倒れ、そのまま帰らぬ人になられたヨリ子姉急逝の報がはいった。逆瀬川牧師はすでに宮崎市へ行っており、彼の大会事務局長という重役から外れることも出来ないので、急遽小生が葬儀に当たることとなり、急ぎ種子島へわたった。遺体はすでに中種子町野間の自宅に安置されており、家族や一族の方も揃っておられた。
通夜の祭儀を執り行い、西之表からは徳永さん、山下さんなど主だった役員も出席してくれた。八板ヨリ子姉は享年85歳。中種子町に生をうけ、教育者として島の小学校・中学校・高等学校教諭として奉職されたのち、退職後は趣味の絵画、和歌、琴、パソコンなどに取り組んでおられたクリスチャン。主が平安のうちに迎えてくださるように。
2005年7月27日(水)西之表市 天候晴れ
**八板ヨリ子姉逝去に伴う一連の祭儀と宮崎市へ**
午後2時、西之表教会で八板ヨリ子姉の告別式をとり行った。姉を偲んで参列した人が会堂が一杯になった。姉の信仰をかたり、神に望をおいた一生であったことを告別の辞とした。「主よみもとに近づかん」の賛美歌をうたいながら、献花を一同で行い、最後のお別れとした。告別式後、出棺して火葬場へ。点火の祭儀、集骨の祭儀を終えたのは午後5時であった。喪主の八板康成に別れを告げ、親族の方の車で港まで送っていただき、洋上の人となった。船で仮眠し、鹿児島上陸後、日豊本線の急行列車に乗車、午後10時ごろ宮崎シーガイヤコンベンション会場に到着した。多忙な一日に振り回されたが、与えられた役務をこなし、心地よい一日であった。
2005年7月28日(木)宮崎市シーガイア 天候晴れ
**定年後の信仰生活**フリートーキング形式
司会者 元西之表基督教会牧師 池田公栄
出席者 26名
分科会として作成した報告書をそのまま転記する。
聖句:「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、・・・神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に、幼子のことを話した。」ルカ福音書2:37、38
聖歌 1番を賛美の後、祈りをなし、池田公栄兄の司会により、参加者が自由に発言したり提言したりのフリートーキングとなった。トーキングに先立ち、表題について共通の理解をはかるため、「定年後」の意味と「信仰生活」の意味を以下のように提言した。
提言:定年後は
①名実共に定年を迎え、自己決定により自由に生活できる境遇の人
②自由な生活は出来ないまでも、一日平均4時間ぐらいは自由に出来る境遇の人
③時間的束縛はあるが、割合に自由時間を生み出せる環境の人
④年金生活にはいった人で自活が可能であり、自由な時間を生み出せる人
信仰生活は
①聖書を学ぶ時間が日常的に作り出せる人
②祈る時間が日常的に作り出せる人
③教会の集会に出席できる時間が日常的に作り出せるひと
④特別集会に積極的に参加できる人
自発的であり、楽しいものであること。
定年後と限らず、信仰生活は何よりも自発的でなければならない。強いられたものではいけない。そして、その選択は楽しいものであることがベストであろう。
アンナには夜も昼も神殿を中心に断食したり、祈ったりして神に仕えた。彼女は高齢なるが故に、断食や祈りの時間を確保することが可能であったという見方も出来る。若者は体力はあるが、仕事、子育てと忙しい。そのため断食や祈りの為の時間がつい目先のことの為に流用さえ易い。その点、高齢者には若者よりも神と交わる時間が作りやすい。また、人生経験も豊かである。だから、人の話や、相談に耳を傾ける余裕もある、恵まれた者たちである。
司会者の方から以上の提言をなした後、フロアから、以下のような発言がなされた。
1、引退牧師のA兄の例
かれは、牧師であった。70歳になったとき、教会を副牧師に全面的にゆだね、宗教法人代表役員も新牧師に委譲し、かねてから祈り求めていた中国へわたり、中国の大学で日本語を教える仕事を始めた。彼の妻は長年の幼稚園教諭の経験を活かし、中国の幼稚園でボランテイアを申し出、受け入れられて週1回の割合で協力した。
夫婦は以上のことを、誰からか薦められるわけでもなく、祈った後、道が開いたので、中国行きを実行した。主は共産党政権の厳しい監督下のなかで、教会生活を行うことに何の支障も無いように導いてくださった。学校内にはヘブライ文化図書、キリスト教文化図書として聖書が図書館にも配備されており、学生が聖書を読み、質問をする分には何の制約も無く対応でき、御言葉を取り次ぐ環境が与えられた。
日曜日の主日礼拝も毎週二つの教会へ出席している。学生達は「老師は日曜日には何をなさいますか」と尋ねるので「教会へ行っているよ」と答えると、「わたしも行っていいですか」「いいですよ」という具合で学生の出席者も与えられ感謝であった。このようにして、洗礼をうけた学生が2人生まれた事はおおきな励みと感謝であった。クリスマス礼拝にはつぎのようなことが起きた。
「会衆を保護」との触れ込みで警察署員が会堂内に入り込み、実は礼拝を監視しているわけであるが、この警官は否応なしにキリスト者の礼拝行為を見聞することになり、クリスマスのメッセージが警官の心に届けられるわけである。ローマ皇帝の命により、キリスト者の行動を見張ったローマ兵士達もこのようにして、福音を聞き、ある者は改宗したのであろうと神の智慧に驚き、納得した。
2、B兄の発言
私は関西でキリストの教会の一信徒として、会堂の維持と牧師の働きを支援することに生き甲斐を感じている。例えば教会堂建築のとき、応分の財政負担を喜んでさせてもらった。主は一人ひとりに霊的賜物や、財政的賜物を与えてくださるから、その賜物を活かすという意味で、与えられたものを主の為にささげる事はすばらしいと思う。今後とも微力を尽くしたい。主に捧げるとは主の為に金銭・時間・能力を教会の働きの為に使うことである。
3、C兄の発言
私はOBSで学び卒業したが、牧師にはならず、企業人となって定年を迎えた。現在、岡山県の田舎で宣教師の働きを支援している。「神学校を卒業した者は必ず牧師伝道者にならねばならないか」というテーマは私の問題でもあった。今は亡きマーチン・B・クラーク院長にこのことを相談したことがある。そのとき、師は「キリスト者として教会の働きを助ける仕事も大事です。」と教えてくださった。このような訳で私は企業人を選択し、アメリカ始め外国で働く機会が多かった。このとき、各地の教会の活動も見聞し、キリスト者が教会の宣教の働きに祈りと献金によって貢献することができる事を学んだ。定年退職した今こそ、自分が生かされているその場所でキリスト者としての活躍の場があると思う。
4、D兄の発言
現在沖縄で伝道牧会を継続している。60年前、日本軍の一員として、戦いに参加した。終戦により、今までの価値観が180度変わり、自らの新たな生き方を主キリストのうちに見出し、米軍占領下にあった九州奄美大島を小さな船で不法脱出した。当時奄美諸島は米軍占領下にあり、パスポートなしに島を出ることは違法行為であった。とにかく島を出たわたしは熊本市で肺結核を患い、療養生活を余儀なくされた。主はここで私を捉えてくださり、伝道者の道を歩むこととなった。アメリカの神学校に学び、沖縄の教会に導かれ今日に及んでいる。私にとって「定年」という言葉はない。
5、E兄の発言
鹿児島市在住者。わたしは定年後の時間を「自分がしたいと思う事」に使うようにしている。教会で英語を教えてくれるというので、そこに通い始めたことが聖書を学ぶきっかけとなった。信仰は自発的なものだ。わたしは、自分の選択で信仰を選んだ。いま、思う事は隣人へのかかわり方を考えている。「無視されるより、馬鹿にされたほうが良い」(島田ケンサク)と言うが、これからは他人とのかかわり方を求めてまいりたい。
6、F兄の発言
鹿児島市在住の現役企業人。今の教会に魅力をあまり感じない。キリストの教会はもともと魅力的なものではなかったのか。
7、G兄の発言
福音書によれば、多くの人がイエス・キリスト様の行かれるところ、止まるところにはせ参じたことが記録されている。キリスト様は特に宣伝手段などを通して人を集める呼びかけはなさらなかったが、人の方からキリストのもとにはせ参じた。キリスト様ご自身に人々は魅力を感じたのだ。キリスト様から癒しをただき、慰めをいただき、力をいただいた。教会はキリストのからだであるので、かしらである、キリスト様が前面にあって、魅力あるものに変えられるよう、その足跡を踏襲したいものである。
結び
定年後のキリスト者こそ、もっとも自由に、色々な場所で、色々なことを通して教会と隣人のために奉仕する事ができる特権をいただいている。神は定年後のキリスト者にこそ感謝と喜びの生活(ロマ14:17)を与えておられる。余生は神とのかかわりの中では与生・預生である。
以上、フリー・トーキングを終わり、沖縄の翁長良明師の祈りで閉会した。
付記「与生・預生」の出典について
与生について、紀南基督教会牧師上山耕司師より、次のようなファックスを頂いたので転載します。
『これは、月刊誌「百万人の福音」の6月号に、《特集》六十歳からの積極的人生設計、というテーマが載っていました。それには、定年後の人生は「余生」といわれるが、それは決して「余りの人生」ではない。余ものではなく、より豊かな人生が待ち受けている、与生というものです。』
以下引用部分
多くの人は定年後、悠々自適の生活を夢見る。しかし、いざ週休2日制になると、共通して話題になるのが、仕事人間がもう仕事が出来なくなった時に体験する、喪失感ということだ。ある男性は「とにかく、自由になったら、女房と海外旅行して、家では好きなクラシック音楽をゆったりとした気分で聴くんだと考えていた。何せ、仕事、仕事で、せめて定年後は、自分自身を休めたかった・・・」
ところが、その夢のような状況は、3ケ月を過ぎた頃から崩れていった。心の中の埋めがたい空虚感に、人と話すのもイヤになっていきました。
ある人がそのような喪失感から立ち直ったのは、神学校で聖書を学ぶことでした。それまで仕事のみの猛烈社員から、還暦後は神と人とに仕える道を選び、信徒伝道者になったのです。彼は「これからの人生は余生ではなく、神から贈られた人生、与生として仕えていきたい」と願っています。
伝道者になることは素晴しいことですが、伝道者になることだけが「仕える」ことでないことは勿論です。夫や妻、両親、兄弟の世話であるかもしれません。子どもに仕えることかもしれません。あるいは地域社会に貢献することかもしれません。とにかく、支配し、権力を振るうのではなく、「仕える」ことを心がけましょう。
「預生」という用語は内村鑑三全集で読んだ記憶がある(文責者)
文責者註
「与生」も「預生」も国語辞書にはないが、信仰的意図をもって説明をつけて用いる分には問題はないであろう。
文責者 中国江西省九江市在住 池田公栄
2005年7月29日(金)宮崎市 天候晴れ
**閉会礼拝**
神奈川港キリスト教会牧師飯島正久師(講演の概要)
今回のテーマは「神と人に喜ばれる奉仕」である。奉仕は「何々してあげる」意識では限界がある。謙遜になって、神が各人に力と賜物をあたえてくださっている「分に応じた」奉仕である。誇らず、高ぶらず、聖霊の導きを祈りながら、精進されたい。
**婿たちの実家へご挨拶**
大会を終わり、三女の婿の実家と長女の婿の実家が宮崎市内であるので、ご挨拶に参上。三女の嫁ぎ先、圖師家はご母堂が健在、長女の嫁ぎ先、大坪家はご両親とも健在。婿の大坪篤史君は今宮崎大会に深く係わり、シーガイヤ会場宿泊の交渉、教会学校(子どもプログラム)の自然散策研修計画と実行を担当してくれて、大会を成功のうちに終わらせる原動力となってくれた。また大坪篤史君は家族ともども日本キリスト教団宮崎教会の会員であるため、教会の牧師ほか会員の皆さんも部分参加していただき、有意義であった。
**基宣の車で鹿児島市へ**
圖師、大坪家を訪問の後、午後5時宮崎市をスタートし、高速を一路鹿児島市へ。まだ明るい午後7時に鹿児島市内明和のわかくさ保育園に着いた。今回大会に出席できなかった長男信一に会い、写真等撮影のあと、基宣家族5名は鹿児島教会に宿泊させていただく。
2005年7月30日(土)西之表市 天気曇雨
**基宣家族と種子島へ** 瞳の種子島行きは初体験。
朝8時40分、高速船ジェトフォイル・ロケットで西之表へ。10時前には、西之表港に着く。孫の瞳にとっては始めての西之表。かねて、上の孫二人はすでに何回か来たことのある故郷であるが、末子の瞳だけがまだ。「種子島へ連れて行って!」といつも要求していたそうなので瞳が一番喜んでいる様子。早速明朗幼稚園の遊具で遊ばせてもらい、大満足の様子。孫が大勢集まるというので、妻はいままでクーラー無しの大部屋に、大枚をはたき、クーラーを設置していた。孫かわいさのおばあちゃん振り。午後は早速透明度一番の浦田海水浴場へいったが、台風8号接近と雨のため海は濁って波も高かったそうで、少し残念。夕食は圖師和俊家、池田基宣家、池田公榮(栄子含む)3家族の会食と相成り楽しい団欒のひと時だった。
2005年7月31日(日)西之表市 天候曇雨
主日礼拝(池田基宣説教)
久しぶりの母教会での講壇。アブラハムの信仰について学ぶ。イスラエル人、アラブ人の先祖であるアブラハムは、高齢となってからの世継誕生の約束を信じて疑わず、ついに、アブラハムおよそ100歳、妻サラ90歳となってのイサク誕生の物語。彼は「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた。」ローマ書4章17節のである。
午後、基宣一家は島巡り、嫁の博美さんは最終便で大阪へ飛ぶことになっていたが、あいにくの豪雨で欠航と相成り、翌日鹿児島空港経由で帰ることとなった。
小生は明日から始まるわかくさ保育園でのボランテイアに備えて、最終トッピー便で鹿児島へ上る。
2005年8月1日(月)―6日(土)鹿児島市 天候晴れ
**わかくさ保育園ボランテイア対応**
わかくさ保育園で受け入れた鹿児島市内の小中高校生47名の児童生徒の対応を迫田園長より依頼され、昨年までの園長経験のノウハウを生かし、毎日7名―多いときは最高14名の受け入れをした。本事業を企画した鹿児島市民交流センターの導入指導よろしきを得て、参加した生徒たちは皆まじめで、こどもが好き、大変好ましい学生たちだった。活動時間:午前9時から午後5時まで。学校別に見ると明和小中・武岡小中、武岡台高校、山下小、池田中高、谷山中、和田中、鹿児島国際大の11校に及ぶ。
内容としては、保育活動に参加したり、清掃をしたり、園児と遊んだりであるが、手具つくりも体験させたくて、動く鳥、コマ、紙鉄砲、飛行機(数種)などを廃材を使ってつくる。また、環境教育の一環として、廃油石鹸をつくる。作り方は、インターネット上に数種でているものを参考にした。
**広島原爆**
アメリカは日本本土地上戦による敵味方の大量戦死者を出さないために、早期の終戦を狙って原爆を投下したという。しかし、落とされた方は納得いかない。大量の民間人を殺すことを承認したことである。
2005年8月7日(日)鹿児島市 天候晴れ
主日礼拝(鹿児島・串木野)
鹿児島教会午前10時30分、串木野教会午後2時30分からの礼拝を担当する。説教礼典と聖餐礼典ならびに賛美祈祷を行うことが、牧師の主たる任務である。今日の聖句は使徒言行録2章43節から47節。本章は紀元1世紀の初代教会の様子を医者ルカが日記風にしたためたもので、今日では当時の教会を知る上で貴重な文書となっている。今日聖書学者たちは本書を歴史書と位置づけている。本文記載「使徒たちによって多くのしるしと不思議な業が行われた。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有した。・・・・毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンをさ裂き、・・・神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」
誕生間もない教会が既成宗教(ユダヤではユダヤ教、アジアではミトラ教や、アルテミス信仰集団、ギリシャでは無神論的人本哲学、イタリヤローマーでは皇帝崇拝やミトラ教)の迫害を受けつつも、大衆の受け入れるところとなって、急激に伝播する。それは、支配に対して愛、刑罰に対して許し、死に対しては復活、将来不安に対しては神の国を実践したからである。
2005年8月8日(月)-10日(水)鹿児島市 天候晴れ
わかくさ保育園ボランテイア対応内容省略)
**8日衆院解散**
参議院で郵政民営化法案が否決され、小泉首相は直ちに衆議院を解散した。国会法上はおかしな選択と思うが、郵政民営化を公約とした小泉内閣が衆議院で可決、参院で秘訣の構図は、議会でなく、国民に直接民営化の是非を問うということで解散に踏み切ったのだと思う。それはそれ一理あることだ。であれば、衆院解散でなく、国民総議員とみなし、国民投票などの直接選択を問う手法もあったのではないか。現行法ではそのような手法は行使できない仕組みであれば、やはり衆院解散は妥当としなければならないだろう。いずれにしても、9月11日の選挙は争点がはっきりしていてわかりやすい選挙だ。
**9日:長崎原爆の日**
長崎にも原爆が投じられた。一度ならず、二度までも。小生は長崎湾(千々和湾)半島対岸の小浜からあの「きのこ雲」を目撃した。熱線に直接当たることはなかったが、真昼になお空を焦がす猛烈な熱雲の広がりに恐怖をおぼえ、少しでも離れようと逃げた体験がある。情報は今日ほど早くはなかった。新聞や、ラジオの情報は新型爆弾が投下され、多くの犠牲者が出た模様、程度で実感がわかなかった。しかし、投下数日後は、徒歩で逃げ延びてきた人々の悲惨な状況を目のあたりにし、原爆がいかに恐ろしいものであったかがわかった。性別がわからない程に頭の髪が抜けているひと、ヤケドで血の滲んだ皮膚。歩きながら倒れて死ぬ人など、目撃にまさる情報はほかにない。思うに、原爆投下の瞬時に死亡した人より、放射線・熱線による数時間後、数日後の死者がはるかに多かった。この人々は極度の渇きと激痛に耐えられない苦痛のなかに、だれもなすすべもなく息を引き取ったと思う。改めてご冥福を祈る。
2005年8月11日(木)鹿児島市 天候晴れ
わかくさ保育園ボランテイア対応(内容省略)
**中国にて日本語を教える仲間の会**
左:加治佐さん・中:上山さん右:賈春雪さん
鹿児島市日中友好協会の海江田順三郎氏、企画部長の大石慶二氏、安徽省日本語教師の加治佐師、福建省日本語教師の上山師、湖南省日本語教師の竹下師、江西省日本語教師の池田、それに、鹿児島県国際交流課勤務の南京出身の女性(30歳ぐらい)、事務局から嘉 頼宣氏の8名が相集い、各自の紹介のなかで、中国の体験談に花が咲いた。共通して言えることは、中国学生の日本語熱が旺盛であること、よく学習することなどで、日本の学生に見習ってほしいところである。
2005年8月12日(金)―13(土)鹿児島市 天候晴れ
わかくさ保育園ボランテイア対応(内容省略)
2005年8月13日(土)鹿児島市 天候晴れ
**牧師会(鹿児島教会)**
鹿児島教会にて、第56回キリストの教会全国大会の総括と会計状況報告承認、大会報告書作成について検討。昨年7月、大阪地区大会の後を引き継ぎ1年がかりの準備であったが、2泊3日のプログラムを終わってみればアットいう間の宮崎大会であった。台風7号が接近で心配したが、関東北陸方面へそれてくれたし、宮崎は絶好の天気。財務状況も赤字を出さない範囲で、不足もせず、余りもしない状況であった。時期大会は高知で行うことになった。
**吉井秀夫牧師の説教はマタイ福音書より、「たとえ、全世界を儲けても、自分の命を失ったら何の得があろうか」についての奨励あり。
2005年8月14日(日)鹿児島市 天候晴れ
主日礼拝:鹿児島教会・串木野教会にて講壇担当:メッセージ主題:ダビデの人生に学ぶ。
詩篇27編:「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。」聖書協会口語訳
序:本篇第27篇を通してダビデが会得した、信仰生活の奥義を問いたい。
A 羊飼い少年ダビデ 羊飼いの少年時代に神を知る。若き日にその創り主を覚えよ。
B 油注がれたダビデ 人生の背後に神の意思あり。
C 常勝将軍ダビデ 上に立つものの困難と忍耐・平和主義
D 平和的逃亡 話し合っても解決しないときは、争いの相手から離れること
「主はわたしの光 私の救いだ わたしはだれを恐れよう」
「主はわたしの命のとりでだ わたしはだれを恐れよう」 詩篇27:1
E イスラエルの大王ダビデ 時が来れば、解決することが必ずある。
F 神中心の政治 神を拝し、国力を高めた。
G ダビデの失敗 ウリヤの妻バテシバとの姦淫はダビデの悩みとなる。悔い改めて神の許しをいただく。サタンは常に人を陥れようとするものだ。主の祈りの一節「悪よりお救いください」は最も強力な悪に且つ秘訣の祈り。
H ダビデの晩年 身内(息子)の反乱と後継者争い
結論
彼の人生の結論は詩篇27篇14節に要約される。
「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。 主を待ち望め」。
2005年8月15日(月)―18日(木)鹿児島市 天候晴れ
**わかくさ保育園ボランテイア対応(終了日)**
ボランテイア参加者からは簡単なアンケートを徴したが、「意義があった。」「こどもと触れられてよかった。」「来年もまた参加したい」などの声を聞けてうれしかった。総じて、参加メンバーは、みなまじめな、好感の持てる児童生徒たちであった。
**15日:終戦記念日**
八月や 六日 九日 十五日
誰が詠んだかわからないが、この数字は昭和一桁から二桁生まれの人には忘れられない数字である。
いうまでもなく、広島原爆投下(1945年8月6日)、長崎原爆投下(1945年8月9日)、終戦日(1945年8月15日)である。戦争に正義はない。日本の海外進出をはじめ、各条約の下で営まれる通商からあじまった。商売がことが発端であった。出国邦人の保護、権益の保護の名目で、些細な事件(義和団)がエスカレートし、日露戦争、日清戦争、日中戦争へと拡大し、ついに世界を巻き込む太平洋戦争へと拡大した。日本は、無条件降伏し、天皇中心軍閥独裁政治から民主政治へと舵を切り、戦後の独立を果たした。いま、また集団防衛システムや隣国との経済摩擦、歴史認識問題を抱えているが、その解決策としては忍耐と話し合いを貫き、詮方尽きたときは、最後の手段として、小さな日本(日本国内だけでの食料、物資の調達)に踏み切り、自然の恵みと創造の英知を生かして生きる道を選択すればよい。
2005年8月19日(金)鹿児島市雨
**わかくさ保育園のおとまり保育**
園長の案内を受け、恒例のわかくさ保育園のおとまり保育に参加した。園児は5歳児年長組。生憎雨となったが、室内行事であったので実行に支障はなかった。焼肉バーベキュウを中心に夕食を美味しく頂き、花火を楽しんだあと、午後9時には保育室で就寝。初めての親から離れての宿泊体験であったが、泣き出す子もいなくて、各人、一段と精神的成長を遂げたのではないか。内村理事、正本監事も出席してくださり、感謝。
2005年8月20日(土)鹿児島市 曇り
**長時間生放送:日本の行方**
日本の一連の戦争、原爆投下、終戦、アジア近隣諸国との今後ということで長時間放送がなされた。いわゆる終戦特番である。
アジア近隣との友好関係については、韓国、中国との関係が最も大きい。距離的にも近いし、経済的利害関係も深いからである。韓国は日本帝国の朝鮮半島併合、朝鮮人強制労働や慰安婦問題、竹島領有権問題、首相の靖国問題、歴史教科諸問題である。
中国は南京大虐殺、首相の靖国問題、歴史教科諸問題、尖閣諸島の領有権問題である。いずれも、簡単に済む問題ではない。討論出席者の意見も右から左と割れていた。これは当然なことであり、歴史認識はその解釈と利用意図によって違ってくるものである。問題点として論議される点は歴史教科書と靖国問題である。
①歴史教科書問題: 韓国や中国側の主張は、日本の歴史教科書に南京虐殺や慰安婦問題を薄めている。これは、日本が反省していないからだという。表現をどこまで詳述するかは頁数との関係で限度もあるだろう。でも、文部省検定に上がっている教科書は扶桑社のものも含めて、全部に日本のアジア進出、南京事件等は記されている。
ただ、小生の経験からすると、受験準備のため、日本の近現代史をサラッと通り過ぎるという面がある。そういうことでは、韓国・中国が主張するような熱心さではなかったと思う。
この点、日本人がもっと関心を持たなければならないことは確か。愛国教育のもとで、中国・韓国が声を強めれば強めるほど、その分日本は自虐的感情に悩まされることになり、反動として、日本も国粋主義者を生み出す結果となり、意見の一致を見ることはないであろう。
ここは、日本、中国、韓国の識者で、話題になっている歴史共同研究を継続し、その情報をインターネット等で公開し、国民各人が認識を深めることがベストだと思う。日本がいきなり大軍をもって韓国や中国へ攻め込んだわけではない。もともと通商から始まった関係であり、邦人保護、権利保護の立場から戦いに発展した宣戦布告なき戦争であった。
その歴史は一方が100%悪くて、片方が100%正しいということではないだろう。話し合いを無視し、武力行使(日本)と抵抗(韓国・中国)との関係の中で、常軌を外れた事件は起こりうる。これが戦争の罠であり、勝者も敗者も被害をこうむる。
敗者はものが言えない、言いにくいということもあることを勝者側とその傘下にいた国は理解して欲しいものだ。韓国・中国人の悲惨、苦難、犠牲に加え、日本人にも、言うに言われぬ悲惨を味わった人がいる。小生は日本の現近代史および世界史特にアジア史を改めて学んだ結果、上記のような結論に達した。
②靖国問題:靖国問題は憲法で決められた正教分離の原則を破り、政府(旧厚生省)が関与した形で、サンフランシスコ条約を受諾した上、戦争犯罪者となって死刑に処せられたA級戦犯者を祭祀し、これを一国の首相が参拝するという、日本政府のダブルスタンダードに対して関係国、特に戦争被害をこうむった国からの理解が得られないところにある。
一国の運命を預けられた人(軍閥内閣)がその決断によって拡大した戦争の責任を取らされるのはあたりまえである。大きな企業が倒産し、甚大な財政破綻によって、蒙った経済損失と会社倒産による失業者を輩出した場合、誰が責任を取るかといえば、やはり最高責任者の社長である。
ましてや国においてをや。その責任を取らされた人がA級戦犯者であった。東京裁判は、戦勝国の押し付け裁判との批判はあるにしても、当時の内閣総理大臣や共謀して戦争拡大を進めた陸海空軍の最高者たちは、勝つ見込みのない戦争を、神風が吹くとか、神国だとかと宣伝しつつ、国民の犠牲を引き伸ばし、沖縄、東京を始め大阪、名古屋、福岡等焼夷弾投下による無差別焼土作戦を招来させ、広島、長崎への原爆投下に至らせた責任はあるといいたい。
東京裁判の判決を受け入れる形で、サンフランシスコ条約を受諾した日本は新しく平和日本を世界に宣言したことで、独立国として認められたのである。これが外へ向けての日本の姿勢であった。
一方、国内的にはA級先般者として確定した者たちを「日本の国のために殉死した方々」として靖国神社に合祀した。これは、国民の反対が多くあったにも係わらず、政府特有の都合のよい法解釈で遂行された欺瞞行為である。これが内向きの姿勢。
靖国問題は以上のように外向き・内向きに言うことと為すことが矛盾するからこそ、韓国中国から「反省がたりない」と批判されるのは当たり前である。靖国神社の発端は国、陸海軍省の管轄であったにしろ、新憲法下では一宗教法人。したがって、首相が公人として参拝するのは憲法違反でもある。英霊を祭る施設は千鳥淵霊園で、記念行事は終戦記念日に行われる、記念祭でよい。
2005年8月21日(日)鹿児島市 天候晴れ
玉里カトリック教会出席
今日の聖書朗読箇所はマタイ福音書16章。ピリポ・カイザリヤ地方でペテロがキリストに対して「あなたこそ、救い主キリスト、活ける神の子です。」と信仰告白した内容。キリストは彼の告白を受け入れ「汝はペテロなり。われこの岩の上に我が教会を建てん」。16:18といわれた。以後、ペテロは教会の指導的司教として活動する。ローマ教皇がペテロの後継者としての地位を保っているのはこの出典による。
草牟田の玉里カトリック教会に出席。帰国中のサンタマリア神父様に会うことが目的。同神父様は種子島教会の司祭として交流のあった方。小柄な愛嬌たっぷりの方。イタリア・シシリー島のご出身。
ミサ聖祭後、久しぶりの再会にしばし団欒し、中国九江のカトリックの状況を話すと、「それはすばらしい。感謝すべきことです。」と大変喜び、九江の司祭にわたしからの贈り物を届けてくださいということになり、イタリヤ製の十字架祭具を預かった。
2005年8月22日(月)西之表 天候晴れ
**再度九江行きの準備**
九江で必要な書籍印刷物をケースに詰め、再度九江学院で向こう1年間を過すべく準備する。孫の圖師拓海が8月24日に12歳の誕生日を迎えるということで、24日は九江へ出立しなければならないことから、業務出張で留守の和俊氏を除いて、池田家3人、圖師家の4人で誕生パーテイを開く。
2005年8月23日(火)西之表 天候晴れ
**田上容正・最上大さん**
帰国して会いたかったひとにアポイントをとり、正午に田上容正氏を自宅に訪問。奥様の那枝さんはソロプチミストの例会でお留守だったが、容正氏と約1時間歓談。この御仁とは妻の関係で、小生が血縁なしの叔父の立場。先生は医療法人義順顕彰会理事長で、田上病院、老健施設わらび園、特別養護老人ホーム百合砂園に係わっておられる。容正氏は明年2月、コリーナ中種子で若狭姫物語のオペラ公演の発起人としてがんばるつもりと言っておられた。「これは素晴らしいことです。成功をお祈りします。」と申し上げる。
**オペラ若狭姫物語について**
種子島の鉄砲伝来にまつわる実話を本島出身の鹿児島大学音楽科教授、林幸光氏が企画し、台本をしたためられたが、作曲をまたず他界されたことから、長く原稿は日の目をみなかった。しかし、県内の音楽家斉藤正浩師によって作曲され、2003年第1回発表が行われた。
1543年種子島沖でポルトガル人乗船のジャンク船が難破した。遭難者を手厚くもてなした島主は、彼らの持っていた火縄銃に関心を示し、2千両という、当時としては破格の高値で銃2挺を購入し刀鍛冶の八板金平に模作を命じた。
夜昼試作をするも、実用となる銃の完成はままならず、その苦心の父を見ていた娘若狭は憎からず思うポルトガル人に嫁ぐことと引き換えに、製法の技術を教えてもらうこととなり、此処に国産銃第1号が誕生した。秘訣は銃身の後尾の女螺子(ねじ)にあった。当時、日本には女螺子(めねじ)のきり方がなかった。だから、銃身尾を槌で塞ぐだけでは発壊して使い物にならなかった。めねじ技術の習得と導入によって種子島火縄銃は完成する。
銃は堺商人の目にとまり、織田信長の戦術手段となって戦国の世を平定した。このようなわけで、火縄銃のことを一般に「種子島」または「種子島銃」と呼ぶようになった。「若狭姫物語」は銃製作に係わった娘若狭の物語である。
**最上大さん**
師は医師で長く東京で開業医を営んでおられたが、昨年、一家をあげて種子島へ引き上げてこられた。現在医療法人義順顕彰会のわらび園の施設長として勤務されたばかりである。師は妻の義理兄にあたる。
種子島シオン学園の現施設があるところは、この大先生のお父様の屋敷あとで、10年ぐらい前に分譲していただいた土地である。師は小児科を専門としておられたが、このたびは高齢者保健に携わるということで、この日、鹿児島市で専門医学書を買ってこられたとのこと。医学の道は一生勉強と感じ入った。
2005年8月24日(水)鹿児島曇・上海雨・九江曇り
**その日のうちに九江へ**
台風11,12号が重なるように北上していた。天候が気になったが、渡航には支障なく午前7時高速船ロケットに乗って鹿児島港着。直ちに空港へ向かったが、午前10時には鹿児島空港着。早く着き過ぎて、搭乗手続き開始まで約2時間半まった。この便で、日本語教師として中国へ向かうものが3人になることがわかっていたので楽しみにしていたが、出航手続き40分前になって皆がそろった。
安徽省で教える予定の加治佐愰師と北海道からの女性教師、福建省で教える上山坦師、それに初顔合わせ中村姉、彼女は宮之城出身で川内高校の後輩。湖南省で教鞭をとる。それに、鹿児島市から中国留学とのことで、推薦者は縁ある吉原定一氏。名は田中美代子さん。以上5名が同じ便で上海へ飛んだ。
皆さん、任地でそして学び舎で元気でお過ごしください。機は定刻13時30分鹿児島を離陸し、15時30分(上海時間14時30分)上海浦東国際空港着。同乗の皆さんとは互いの安全と健康と活躍を期し、別れる。
上海では次の飛行までの時間待ちが約5時間。浦東国際空から中国国内線空港の虹橋空港にゆき、登場手続きを完了し、搭乗口で待った。中国時間で20時55分(日本時間23時55分)機上の人となり、1時間10分後には江西省南昌空港に降り立った。
手荷物受け取り後、迎えの人が着ているはずと探すが、誰も見えない。客待ちのタクシーは「どこまでか。のりなさい。乗りなさい・・・」あとは中国語でべらべら。「不要プーヨン」といっても、客引きが付きまとう。「友人が迎えに来る」と英語でいうと。「そうか」と客引きは納得したらしい。だが待てども一向に迎えが来ない。
「メールで着日と時間を知らせておいたんだがなー」と思いつつも、待合室にだんだん人影が少なくなると不安になり、タクシーで九江まで約2時間乗ることにした。九江まで400元とまず値段の交渉をしてから九江市へ向かって走り出してまもなく、運転手の携帯が鳴った。九江学院差し向けの車からだった。「Nickだ。今迎えに来たから、高速入り口で待っているように。」とのことだった。
「どうして、われわれに連絡できたの?」と尋ねると、Nickいわく、空港で他の運転手に尋ねた。「英語を話す客がさっき、乗ったよ。車ナンバーは○○番。」ラッキー! Nickが探しつけてくれなければ、どうなっていたことやら。乗った分の300元を支払い、荷物を移し変え、九江へ向かった。それにしてももう少し待っておればよかったのに、タクシーに乗ってしまった自分が悪いのです。
Nickいわく、「夜、タクシーに乗るのは危険だからね。」教え諭すように、小生の目を見ながらいった。「I see!」(わかった)と公栄さんしょんぼり。かくて、夜中の12時過ぎに九江の宿舎に安着。種子島を発って、その日のうちに九江へ着くなんて。65年前は8日ぐらいかけて着いたことを考えると隔世の感がする。
2005年8月25日(木)九江市 天候晴れ
**片付け**
まずは、部屋の片づけと、日用品の買出し。食料類(肉類、野菜類、穀類、卵、油、トースト用パン、果物類)、衛生用品(石鹸・チリ紙)を購入。7月はじめ九江を発つ時と大変わった町の光景を見た。発つ直前まで、人が通る道路はいたるところ露店でいっぱいであったが、今回は一軒の店もない。多分公安が取り締まるようになったのだろう。
北京オリンピックを迎えるにあたり、綺麗な町にしなければとの発想だろうか。それとも、何か他の理由で?それにしても、露天で小さな台に果物や肉魚、野菜卵を売っていた人たちの生計はどうなったのだろう。彼らは、どこか商売できる場所の確保が出来たのだろうか。せっかく、ともだちになっていた露天店の御仁たちとも会えなくなった。
2005年8月26日(金)九江市天候晴れ
**高雅令・呉越来家**
福建省アモイの高雅令嬢は日本語1級試験をめざして早くから宿舎に帰り勉強に精出ししてそうである。呉越嬢は江蘇省の両親の元へ帰っていたが、あまりの暑さに耐えかねて、九江へ早めの帰りであった。この二人は日本語会話に堪能で、よく勉強する生徒である。家内手作りの五目寿司で夕食をともにした。
2005年8月27日(土)九江市曇り
**日記の整理**
パソコンを九江においていたので、日記が飛び飛びになっており、メモを頼りに整理した。日誌は自分の備忘録だが、人が読むということになると、少し事情が変わる。構文・表現にも気をつけねばならいし、個人記録も当たり障りのないところでということにもなる。書きたくても、本音が書けないところもある。そんなわけだが、欠落部分を補填して8月も生活記録的に、あるときはコメント的にまとめた。
2005年8月28日(日)九江市天候雨のち曇り
**九江市愛国教会・九江市三自愛教会出席**
8時30分からの礼拝に参加する。マタイ福音書16章26より「たとえ、全世界を儲けても、自分の命を失ったら何の得があろうか」について。ポルトガル宣教師フランシスコザビエルは1949年8月15日、日本人逃亡武士弥次郎に伴われ、鹿児島祇園の洲に上陸した。ザビエルの宣教の使命感はイエスのこの言葉に触発されたものであった。
礼拝後、サンタマリヤ司祭からの届け物を九江市の司祭に渡した。キング女子はすでに九江を離れ、アフリカ・リビアで活動されていることであろう。
9時30分から始まるプロテスタント教会へ。着くと、賛美歌の声が道路にも響いていた。指導はコーラス隊の兄弟。賛美の歌はいつ聴いてもすばらしい。本日の説教者は新任の若い女性牧師が講壇に立っていた。終了後、既知の兄弟姉妹に再来の挨拶。ベッキー嬢やヨエル嬢もすでに九江を離れていた。ベッキーはプリンストン大学に復学し、神学を学び、主の召しにしたがって新しい働きを始めるであろう。主のご加護を祈る。
2005年8月29日(月)九江市天候曇り
**部屋移り**
九江学院国際交流課外事部のNick氏がやってきて、部屋を移りたければどうぞといった。従来3階に住んでいたが、二階のヨエル嬢の部屋も空いていたので、一つでも低い階がいいということで移ることにした。学生の応援を送ろうか?といってくれたが、大した荷物でもないので、自分たちですることにした。衣類と書籍ぐらいだからわけないと思ったが、実際やってみて、片付けも兼ねてとなって、結構時間を要した。屋移りが終わりシャワーをして、新室に伏した。
2005年8月30日(火)九江市天候曇のち晴れ
**大掃除**
午前中は部屋の掃除で、2ケ月分の埃取りから始まった。窓の桟、床、書棚、ソファーの下、机の上、電話機、食卓、冷蔵庫、洗濯機ありとあらゆる平たいものの上はみなゴミ埃がたまっていて、運び役小生、雑巾がけ妻と汗を流してさっぱりなった。部屋も綺麗になってこれで学生たちを迎える準備が出来た。
午後広東省の曾春燕嬢がやってきた。彼女は広東省日系自動車部品製造企業で2週間ほどアルバイトをしたという。そのとき、感じたことだそうだが、「専門用語が多くて、企業の中では私の日本語がほとんど役にたちませんでした。」といっていた。
「専門用語は新しい外国語とおなじだよ」というと「そうですね」と改めて納得した風だった。彼女と妻手作りの夕食をたべ、あと夜遅くまで写真を見たり、日本の観光案内パンフレットを見たりして遊んで帰った。
インターネットでみる中国関係のニュースのなかに次のようなものがあった。
農民2000人が村役場を襲撃…中国・湖南省【香港=関泰晴】1日付の香港英字紙「サウスチャイナ・モーニングポスト」によると、中国湖南省桂陽県で8月29日、地元農民2000人が村役場前までデモ行進したうえ、庁舎内に押し入り、窓ガラスなどを破壊した。
公安当局は警察官100人を派遣して騒ぎを鎮圧した。同日早朝、収穫後のタバコの葉をトラックで村外に運んで売ろうとしていた農民2人が死亡する事件があった。農民たちは「役人が2人を暴行して殺した」と主張、抗議行動に発展した。村役場はタバコの葉の販売権を独占しており、「よそに持って行けば、もっと高値で売れる」とする農民は反発していたようだ。
先月には、広東省中山市で、土地の強制収用に抗議する農民数百人が地元政府の出張所を取り囲んだ。また、同省広州市でも、村の役人の不正に怒る農民と警官隊が衝突した。(2005年9月1日22時55分 読売新聞)
2005年8月31日(水)天気晴れ
**戦後60年**
戦後60年。日本にとっては終戦記念日(敗戦日)。韓国、中国、ロシヤ、アメリカ、イギリス、オーストアラリヤ、フランス、オランダにとっては戦勝記念日。双方で何百万人の将兵の戦死者、及び民間人の戦争被害者をだした。この戦争で、一体だれが得をしただろう。
背後にあって戦争特需を作り出し、ぼろもうけをたくらんだやからであろう。戦争の仕掛け人、今もたしかに暗躍する。どんな理由があったにしろ、一旦戦争になってしまえば、人命喪失、法外な国家予算の投入。国の疲弊とつながる。月末の米国ニューオリンズのハリケーン・カトリーナで、脆くも戦争している国の悪い面が出た。内の守りが顧みられていなかったことを露呈した。災害防御のための予算を切って、イラク戦争へ回していたことが明らかになったことだ。すべては、後の祭り、ブッシュ大統領始め、戦争推進者たちの責任がアメリカ国民から問われるであろう。
今日で8月も終わり。小生にとっては、日本での親族友人たちとの交わり、ボランテア活動、そしてまた明日から始まる九江での生活。少しでも、個人で出来る国際交流を進めたい。小生にできる日中友好は江西省九江学院における日本語教師の実践を通して、誠心誠意勤めること。
九江記は写真なしの文字記録であったが、日本から仕入れたデジタルカメラで九江の風景や風俗に関するものを撮影し、鋭意本稿に掲載したい。手始めは九江学院日本語学科の授業風景から入る。
2005/09/17…
**授業風景**
九江記は写真なしの文字記録であったが、日本から仕入れたデジタルカメラで九江の風景や風俗に関するものを撮影し、鋭意本稿に掲載したい。手始めは九江学院日本語学科の授業風景から入る。
中国では9月が新学期となる。新入生もどっと入ってきた。小生のクラスは3年生。今年12月になると、各々日本語1級、2級を目指しての国家試験を受ける。だから、全員から必死で学ぶ気迫が伝わってくる。寸暇を惜しんで単語を暗記し、出題模擬テストのドリルを消化している。
**新入生は軍事訓練**
本校区キャンパスの新入生は約1600人。この生徒たちは迷彩服に身を固め、整列、歩行、長距離歩行等の軍事訓練に明け暮れている。軍の士官が直接指揮を執り、学生たちは、まだ暑い日中の屋外で、男女とも訓練に励んでいる。熱中症にならなければよいがと心配。
一次休憩のときは、大きな水タンクにどっと走り寄り、水分の補給をしている。18歳の少年たちはまだ顔にあどけなさがのこり、真っ黒に日焼けした顔に目だけがきらりと光っているのは、いかにもかわいらしい。訓練は2週間続き、聞くところによると、10月になって、初めて学習に入るのだそうである。
* 九江の集落について ……2005/06/22…
**九江の集落について**
九江はいま急ピッチで都市計画が進行している。此処九江市は現在450万人だがそれを近々に510万人に増やす計画である。長江(揚子江)上流の山峡ダム建設にともない、100万人以上の住民移動を控えて、この増員計画は進められている。
反面、永年保たれてきた九江の古いものがなくなってゆく。その最たるものが集落の形態である。各集落は統合され、大規模な高層住宅地に変わりつつある。本来の中国の集落は日本の校区の形態に似ており、田園的なものが多い。
そして集落は日本のように田畑の諸所や森蔭に住家が転々とあるのではなく、必ず城壁で囲まれたところに赤レンガの住家が密集させてある。塀は2メートル以上あり、それは城壁の態をなしている。
集落の呼び方も、入り口の門に「○○城区」とかいてあって、城なのだ。いったんそこに入ると、他の地区へ通り抜けることが出来ない。またもとの正門まで引き返さなければならない。小生は近道をしようとして、袋の鼠同然となり、またもと来た道に引き返したという経験が数度あった。
これは完璧な城郭なのだ。ここが日本の校区集落と違う点である。新高層ビル群は、東京大阪のような大都会スタイルで、旧城址はどんどんなくなっていく。
* 教師の日の一日旅行 ……2005/09/17…
2005年9月10日(土)天気晴れ
**教師の日の職員旅行**
9月10日は中国では「教師の日」として尊ばれる。学生たちはカードや花を先生に贈って教師を称え、感謝する。われわれ外国人教師に対しては、感謝を込めて、旅行の企画が組まれた。
家内と共に参加し、この9月から日本語教師として仲間に加わられた井村嘉男先生も一緒。先生は九江市と友好都市盟約を結んでいる奈良県大和高田市の方で、友好親善交流事業の一環としておいでになった先生。英語科の外国人教師たちあわせて23名、バスで武宇(ウーニン)という場所にいった。
**武宇の言い伝え**
ここは、かって日本軍が戦火を交えた場所で、敵味方多くの戦死者を出したところだという。この地域の川が将兵の血で染まり、しばらく飲用できなかったほどの激戦地であったらしい。
そのせいか、この地域では今でもここを「魔の道」というそうで、この地区で交通事故が多発するのは、戦争中の亡霊がなせることと恐れられているそうである。
**ダム湖半で**
武宇は長江の支流にあたり、今日ではその地形を利用して、見事なダムとなっている。この地域の貴重な水がめであり、灌漑用水でもある。われわれは、このダムの取水口まで行き、きれいな水をみた。
中国の水はいつも濁っているというイメージとは違って此処の水はとても澄み切っている。希望者は筏にのって沖へゆき、仕掛け網を引き上げて鯉・えび・キスなどの新鮮な魚を持ち帰った。
休憩所の婦人が、われわれの目の前で鯉を料理し、その地で取れた新鮮な野菜とともに昼食を準備してくれた。採りたての食材による田舎料理はまた格別。都会のどんな高級料理より美味しい。
* 九江富士 ……2005/09/17…
**九江富士**
9月10日の一日旅行でのこと。食事をした湖畔の一角に富士山のかたちをした1547mの武宇岩という山があった。私がこれは「九江富士」と呼んではどうかといったら皆喜んでくれた。どこの地域にも富士山の形をした山はよく見かけるものである。わがふるさとの薩摩富士(開門岳)もそう。
* 長江 ……2005/09/17…
2005年9月14日(水)天気晴れ
**長江は濁っていても生きている**
長江(昔、日本では揚子江と呼んだ)はアマゾン川と並んで全長6300キロ。世界で二番目に長い川。有史以前から中国大陸を西から東に横断するように流れ、東シナ海(東中国海)に注ぐ。
数十万年に及ぶ川の営みは地域の野生動物および植物、人畜を養い、農耕に利用され、豊かな実りをもたらした。今日、河口の三角州には上海という近代都市が繁栄している。
しかし、この長江、上流や支流の小川は岩清水、清流であったろうが、中流以降は濁っている(九江港より撮影した写真参照)。中国の大部分が赤土であるからであるが、その長さ(大きさ)ゆえにさまざまな汚物も混入し、自助浄化できないままに大洋に注いでいる。
しかし、濁ってはいるが、生きているのだ。多くの淡水魚が育まれていることは、水が生きている証拠である。流域の中国人もこのような広大で、他民族、多言語、多宗教環境のなかで、濁った川に育つ淡水魚のように、生きる術を身に着けていると思う。
この長江も東シナ海に注ぎ、大洋と出会い、暖流に運ばれたときに、再び水蒸気に変えられ、大陸にもどってくる。恵みの雨として!
「清濁併せ呑む」といわれるが、長江にぴったり当てはまる言葉だと思う。
* 礼拝 ……2005/09/17…
2005年9月11日(日)天気晴れ。
**主日礼拝**
マタイ福音書18章22節より イエスは七の七十倍許しなさいと教えておられる。人は「自分にあまく、他人に厳しい」人の小さな欠点をあげつらい告発するが、自分には厳しくない。
人を裁かず、自分に厳しくあることこそ必要ではないか。主の祈りの中にも「私たちも、ほかの人を許しますから、私たちの罪をお許しください」と祈るように勧められている。人をまず許すこと。それは他でもなく、自分が許されることにつながる。
* 弥生時代に回帰 ……2005/09/17…
2005年9月13日(火)天気晴れ
**弥生時代に回帰したような**
先の武宇(ウーニン)旅行のとき、河岸の石積み工事の現場を妬く時間見続けた。他の仲間たちは、ボートで川くだりしている時間帯で、到着地点に先回りして待機していたとき、この作業現場に偶然出会あった。
男工たちが二人一組になって、川の中州から適当な石を担いでくる。石を運ぶ道具はオートバイのタイヤの廃材。担い棒は丸太。セメント用の砂と砂利は川砂と川砂利。何から何まで自然に転がっているものを利用しての土木作業。既成の材料はセメントだけ。
この光景、弥生時代の土木作業もこのようではなかったかと思った。出来栄えは、日本の棚田の石積みと同じ。縄文人の世界日本へ、中国、韓国から渡来して田畑を作り、狩猟生活から農耕生活に変えることになるのが、この石積みの技術であった。以後の時代を日本史では弥生時代と呼んだ。
しばし弥生の時代にタイムスリップした一駒であった。工人たちは、近郊で農業に携わっている人々であり、日銭稼ぎに土工になるのだそうだ。
* 恵みってなんだ? ……2005/09/18…
2005年9月18日(日)天気晴
**教会で礼拝**
「後のものは先になり、先のものは後になる。」これは謎なぞ遊びの言葉ではない。れっきとしたマタイ福音書20章15節のイエスの言葉である。
「ぶどう園の労働者の喩え」の一節。農園主が早朝から就業した労働者、午後から終業した労働者、午後5時の終業直前から就業した労働者に同じ賃金を支払ったというのだ。当然のように朝から組は不公平だと文句をいう。
だが、農園主は、「契約通り支払っている。なぜいけない?」と譲らない。この例話の最後でイエスが冒頭の言葉を語られたわけ。
さて、われわれはこのことばをどう解釈するか。平等思想からだと確かに文句を言いたい。だが、契約時間働けなかった失業者を普通の労働者並みに扱い、一日分の日当を支給したのは、弱者に対する深い思いやりからだ。
報酬=労働時間×労働単価=対価は一般的考え方。報酬=小労働時間×思いやり=恵みの考え方。神は時に、必要なら恵みを与え給う。この恵み、自分で感じ取り、自分の決断で受け取るものである。
「後のものは先になり、先のものは後になる。」とは、イソップ物語のウサギと亀の寓話のように、先のものが自惚れていて、休憩している間に、亀は率先努力してウサギを追い越し、ウサギが気づいたときは後の祭り。
または、『驕れるもの久しからず』という平家衰亡の解釈にも通じることはあるが、本福音書からはこのような解釈以上のものを汲み取りたい。
礼拝後、洗礼式
(バプテスマ)があった。90名以上の人が洗礼をうけた。イスラム教からの改宗者もいるという。中国のキリスト教はいま大発展である。キリストの愛の教えが根付き、神の国実現がこの中国から始まるなら、それこそ彼らのいう『中華思想』実現も夢ではない。
大事なことは、先進キリスト教国といわれる国々がやってきたこと、今、していることを真似るのでなく、キリストの言葉に真似る中国キリスト教になってほしい。そうすれば、いかなる為政者もこれを抑えることは出来ないであろう。
写真:右、洗礼を受ける決断者 左、洗礼を受けた夫婦
* 中国の中秋節 ……2005/09/18…
**中秋節**
今日9月18日は中秋の名月。中国ではとても大切な日として守られ、楽しみにもされている。家族が月を見ながら団欒のときを持つのが普通である。寮の学生たちが、長江の川岸でバーベキューをするからと案内してくれたので参加した。
日本でも、気の合うもの同志でアウトドアーを楽しんだが、雰囲気は日本のそれとかわりはない。満月をみながら、焼肉をつつき、学生たちと歓談した。また、童心にかえり、家内指導のゲームが盛り上がった。
中秋節で皆が必ず食べるものが「月餅」という菓子。白いあんこに栗や卵の黄身を包み込んみ薄皮をこんがりと焼いたものでなかなか美味しい。値段も結構なもの。
写真左:月餅とか月に似たボンタンは縁起物 右東天の満月
**宅地造成** ……2005/09/24…
中国では土地はすべて国家のものであり、国民は一期50年の使用権のみ有している。九江は近隣からの急激な人口増を控え、急ピッチで住宅を整備している。古くなった建物を壊し、新たに宅地造成を図っている。
以前は、土木工事もすべて人海戦術で進められていたが、最近では、重機をつかってあっという間に整地する姿は新中国の変わりようでもある。
写真:旧家屋を壊し、新たな宅地を造成している
* 国慶節 ……2005/09/30…
**国慶節**
10月1日、中国は国慶節である。第56回目の現中国政府の祝日。学院内の掲示板にも「中華人民共和国戦勝60周年」と題し、パネル説明と写真展示が行われている。
その概要:中国語の文を以下のように翻訳。
「九・一八事変①に始まる日本軍国主義者たちは日益の為、中国東北・華北・華中・華南を鯨呑す。為に、中国人民未曾有の大被害を蒙る。ここに至り、中国人民大々的に抗日活動を展開、東北義勇軍を始め、抗日連合集団が上海、華北において組織され、西安事変②を機に国共合作③相成り、抗日民族戦線立ち上る。
中国人民は「打倒日本」を合言葉に、心を一にし、果敢に戦い、もろもろの英雄、奮勇を歴史に留める。為に、170万人に及ぶ日本軍を殲灰に帰させたり。以後、中国共産党傘下の八露軍及び新四軍人民抗日武装勢力はことごとく失地回復をはかり、日本帝国主義を降伏へと追撃。これまさに奇跡なり。
かかる世界的不法集団に対し、中国国民の果敢なる抵抗に合わせ、米英軍の援助の賜大なりと追記せざるを得ざるべし。
本年戦勝60周年を憶え、抗日戦の歴史、愛国精神、報国の志を堅固にし、中国共産党指導の下、中華民族の大復興に努力奮励致されたし。」
以上。
註①:柳条湖事件、満州事変とも呼ばれ、1931年9月18日、奉天(現在瀋陽)柳条湖近くの満州鉄道を爆破(日本軍が仕掛けたとされる)したことをきっかけに、日本軍が北進を開始した事件。
以後、戦線布告なく拡大戦となり、中国と日本の15年戦争の発端となる。
註②:西安事件、毛沢東率いる共産軍と蒋介石率いる国民党軍は中国の指導権争いに明け暮れ、特に蒋介石は日本軍の北部進攻にも不干渉主義を貫いた。
たまたま、共産軍討伐のため、西安を巡視した蒋介石を部下の張学良(張作霖の息子)が幽閉し、国共合作を進言し、周恩来との会談を導き、ついに蒋介石が国共合作に意思変換した事件。
このときの、張学良の行為は、主を幽閉するという謀反ともいえる行為に出たが、これは、中国の運命を国共合作に一か八かを掛けたものだった。この西安事件、坂本竜馬が薩長連合を働きかけたのと似ている。
張学良は共産主義者であったわけではなく、蒋介石と台湾に至るまで終始行動を共にし、100歳をもって生涯を閉じていることからも彼の二心なきことがわかる。これ、中国の坂本竜馬でなないか。
註③:国共合作は互いに中国内で主導権争いを演じていた国民党軍の蒋介石と共産党軍の毛沢東の内紛が続いていたものを、西安事件を機に日本を共通の敵とすることで一致したことをいう。
それまでは、どう言う訳か、蒋介石は日本の北進に不干渉主義をとっていた。ちなみに、蒋介石、周恩来両人はかって日本に留学した人物。周恩来は戦後の日中友好条約締結において、中国側の代表として活躍した。
日本側の田中角栄首相に「日本人も空襲、敗戦により未曾有の痛みをうけただろう。よって、戦後賠償はしないことにする。」と発言した美談を思い出す。
張学良ならびに周恩来両名、近代日中の歴史に忘れられてならない人物。
写真パネルでは
1、走向前面抗戦期 2、中流抵抗 3、最終勝利と区分し、写真展示と簡単な説明がしてある。
その主なるもの:
① 1931年9月18日 九・一八事件(柳条湖事件)
② 1931年9月20日 中国共産党日本帝国主義強暴占領東三省事件宣言
③ 1935年12月9日 学生愛国運動起挙「停止内戦・一致対外」
④ 1936年12月4日 西安事件
⑤ 1937年8月13日 日本軍上海占領
⑥ 1937年12月13日 南京虐殺(虐殺の数次は挙げないでサラッと記録していたのは意外)
⑦ その他、ベルリン陥落、米軍の日本本土爆撃、原爆投下きのこ雲写真等
⑧ 1945年8月20日 日本軍の降伏文書調印式等の写真を説明つきで展示。
写真説明:左 対日抗戦勝利60周年記念の表題あり
右 九江市の住宅公団入り口の祝国慶の垂れ幕
* 菊香る季節
**菊薫る**
大学のいり口が菊とサルビアできれいに飾られ、目を楽しましてくれる。10月と11月は菊薫る季節。わかくさ保育園で今夏帰国のとき仕込んだ3本仕立ての菊も蕾を持ったとの報告が入り、嬉しかった。色々な植物も時を知り、時が来れば精一杯自己主張するのだなと感心する。
今日で9月は終わり。明日から学校は中国の国慶節で一週間の休み。中国国内旅行をするには絶好の機会である。よい気分転換の機会に感謝したい。
**幼稚園**
高雅令、呉越、葉学生の手伝いをもらい、九江市中心幼稚園2クラスで日本語の挨拶、歌を教える。昨年見かけた子どもたちもいて、懐かしそうに振舞った。「静かに」といっても、なかなか静かにしてくれない。
久しぶりの訪問に園児たちも興奮気味。いずこの子どもも、嬉しいときはつい制御が利かなくなり、ガヤガヤの雰囲気になるものである。
* 満艦飾 ……2005/09/30…
**学生寮は満艦飾**
新入生と新学部編入により、師専校区が賑やかになった。九江学院33000人の学生のうち、役5000人が本校区に移動してきた。最近特に見ものが寮の洗濯物干し風景。満艦飾さながらである。日本でも、天気の好い日、団地テラスに、同様の光景を作り出していたことを思い出した。土日ともなれば、どのテラスも色とりどりの洗濯物干し場となる。
* 学長晩餐会 ……2005/09/30…
**学長晩餐会**
国慶節を祝い、学長招待の晩餐会が本部ホテルで行われた。日本語教師、英語教師合わせて24名が集合し、中華料理のもてなしに与った。
* 宇紅さん井村さんと教会へ ……2005/09/30…
**日本でも働いたことのある宇紅(うこう)さん教会へ
井村嘉男先生の紹介で宇紅(うこう)さんとおっしゃる婦人が教会へ行きたいとのことで、教会の正門前でしばらく待った。程なく、落合い、共に礼拝に出席した。
この宇さん、中国北方(旧満州)の出身で日本語がとても達者なのには驚いた。現在、九江市国際貿易関係の仕事をなさっているとのこと。
日本にも何回か仕事でいったことがあるとおっしゃっていた。二人とも教会出席をとても喜んでくださった。なんだかこちらもさわやかな気分になった。
写真:宇さん、家内、葉学生、井村先生 教会の前で
* 乗車率200%? ……2005/10/07…
紀珂学生の誘いで江西省贛州(ガンチェン)に行くことになった。
国慶節期間の旅は混雑することは分かっていたが、折角の誘い、無碍にも断れず、妻と共に行くことに相成る。往路は座席指定が取れず、早めの並びとなった。久しぶりの汽車旅行。昭和30年代を思い出す。
九江駅で乗客予定者2千人位いただろうか。改札が始まるとわれ先へとホームへ走る。我老人夫婦には真似はできず、プラットホームでは殆んど最後列に並ぶことになる。
列車が25分遅れで入ってくる。停車すると、駅員がホイッスルをやたらと吹き鳴らし、「整列!」とでも言っているんだろうか?でも乗客は聞きはしない。駅員「下車が先!」と叫んでいるが、下車する人をラグビーのタックルさながら押し返し、乗り込もうとする。窓から下車乗車する人もいたりで凄まじい。終戦直後の買出列車さながらである。(註①) ぴ!ぴ!ぴ!とホイッスル。この風景カメラに収めたかったがそんな余裕等あるはずもない。
やれやれ!やっと乗り込んだところで、車内は通行も出来ず、トイレの傍に糞詰まり。紀珂嬢が「この老人のために席を譲ってくれませんか」と頼んでくれた。若い男性が一つ譲ってくれて助かった。妻を座ってもらい、他は人に挟まれるように、自分の体力のことを考えながら車中のひとりとなる。
『南昌までいったら80%は降りますからね。』とは紀珂嬢のことば。この列車、北京西駅始発の贛州止まり。前晩8時に北京を発ってすでに16時間。九江から更に8時間で合計24時間の走行。南昌には乗車して約2時間後に着く。さすが80%は下車したが、多少また乗車した。われわれ一行は幸いに全員着座できたが、まだ立ち客がいた。これ、乗車率200%かな?
汽車の旅はおのずと隣近所の席人と話が始まる。われわれが日本語で話すと不思議そうにみている。なんだかわれわれ4名の為に、他の人が外国人みたいな錯覚。帰省中の学生は英語である。英語はすっかり国際語になってしまった。20年後は中国語が国際語かな?
かくて、8時間の乗車を終え、贛州に着く。紀珂嬢の父親が出迎えてくれ、その家の客人となる。
註①1945年8月ごろから1946年8月ごろまで、日本は食糧事情が悪く、田舎に食料を買うために汽車に乗り、または乗り継ぎながら買出しに出かけたものである。
写真:左、老人子どもを大切にの看板 右ごった返す乗客
* 贛州教会で礼拝 ……2005/10/07…
贛州市三自愛教会に出席。午前8時、ホームステイさせていただいた紀珂さんの祖父、祖母もクリスチャンで、一緒に教会へ。
この教会は600㎡ぐらいの会堂だが、千人以上は集まっていた。会堂はいっぱいで空き席はない。座れない人は、祈祷室という別室で実況ビデオを通して礼拝に参加しているし、会堂の両側の路地にも椅子をおいて座っている。
中国の教会はいまほんとに盛んになりつつある。この教会で聖餐式に与り、共に主の祈りを捧げた。当日南昌(江西省の首都)からきた牧師さんと写真に納まる。
写真左:聖歌隊 右紀珂さん家族と
牧師と
* 贛州市をみる ……2005/10/07…
中国江南地方の一市。江西省に西にあたり、広東省に近い市。贛州市は11の県を持っており、九江市よりやや規模が大きい。章江と貢江の二河川が合流しているところで、贛の字は章と貢を合わせた字だそうで、なるほどと理解する。
ここは広東省に近く、経済発展の影響は九江より目覚しく、物価も九江より2割ほど高い。此処は、学生の紀珂さんの勧めで家内ともども4泊5日のホ-ムステイの場と相成った。
追記:中国と日本では県と市があべこべ。日本は県市町村。中国では市県鎮となる。
左:貢江の浮橋 中:街を守る長城の一部 右:市街
* 通天岩 ……2005/10/07…
学生3人に連れられ、通天岩へ。此処は、天然の岩に仏像を彫った仏教の聖地。大分の摩崖佛のようなもの。多くの観光客が来ている。僧服を着た人が、「120元出して記帳すれば、その人の幸福を祈願してあげる。」ということで、盛んに勧誘されたが、「不用(ブヨン)」と断る。宗教施設が金儲けの手段になっていることは残念。観光名所と呼ばれる聖地、拝観料・入園料・土産品と、いずこも同じ。
ここで興味を引いたのは、石刻のなかに、ペルシャ風の菩薩が刻まれていたことだ。中国仏教、ひいては日本の仏教は、タイやミヤンマーの小乗仏教と確かに違う。悟りの宗教というより、弥勒菩薩信仰、罪を許し、慈愛に満ちた仏様、祈りを聞いてくださり、人間を救うという教義はキリスト教そのものだ。
西域を経て、長安に届いたキリスト教(景教)は小乗仏教と混交し大乗仏教となり、日本へも伝わったとも考えられる。日本に帰化した高僧鑑真も九江東林寺から修行のため、一時、長安へ上り、景教に触れたものと思考される。その証拠に、東林寺は浄土仏教の総本山となったことでも了解できる。空海、最澄ほかの留学僧等も浄土思想化された仏教に触れ、日本に広めた。
弥勒(ミロク)はメシアの中国音訳ともいわれる。空海のごときは、聖書の写しを日本に持ち帰ったともいわれる。真言とはまことの言葉。聖書の『始めに言葉ありき。』(ヨハネ福音書)そのものではなかろうか。密教は神秘的要素を持っており、加持祈祷のたぐいは祈りが聞かれるとするキリスト教そのもの。親鸞の歎異抄「善人往生す まして 悪人をや」は聖書ロマ書の思想。
写真左:石に掘り込んだ像 中:ペルシャ風仏像 右:奥はペルシャ風仏像
* 森林資源 ……2005/10/07…
江西省は平地、湿田がおおいが、丘陵地も多く、そこには樹齢10年から20年ほどの松、杉が植林されている。毛沢東は大躍進計画で中国での鉄鋼生産に檄をとばし、国民総出で粗鉄つくりに励み、熱源とするため、木という木を伐採した。
為にほとんど禿山となり、出来上がった粗鉄は使いものにならず、土地は荒れ、大失策であったという。ために、再び植林を奨励し、今日なお、植林事業は進められ、日本からも「緑の遣唐使」といわれるNPOの人々が継続応援している。森林は水資源確保、環境保全、地球温暖化の緩和にも役立つ。禿山を残すことは罪悪だ。
日本において然り。森林保護と育成は日本においてこそ重要施策のひとつ。中国の森林の成長は中国そのものの成長と比例するであろう。
左:樹齢10年ぐらいの松 右:芳香性のある樹木(樹名不明)
* 水資源 ……2005/10/07…
中国には湖沿が多い。そして、市街は必ずといってよいほど、川を挟んで栄えている。水は生物が生きるに欠かせぬもの、植物の生育に欠かせぬもの。
ハイウェイ、鉄道、航空手段が未整備のときは、太古より川を上下して物流手段とした。車窓を眺めつつ、世界中の川や湖をパイプでつなぎ、乾燥地帯に植樹し緑化する。
人もその水を利用する。こういったプロゼクトを完成できないものかと考える。水を世界共通の財産にする考えはどうだろう。このことは、皆で母なる地球を病みから救う手助けをすることになる。
石油パイプラインが出来ているのだから水パイプラインが出来ないはずはない。戦争する経費を水パイプライン敷設と水の完全管理にまわす方がよほど有意義ではないか。
日本の水は特にすばらしい。飲料によし。緑によし。ひところ、屋久島の水を原油タンカーでサウジへ運ぶという話があったが、途切れてしまった。何が障害だったんだろう。このプロゼクトもう一回取り組んでほしい。
日本の水を飲んだら、そのうまさが忘れられないだろう。日本の水は資源に乏しいなかで、唯一、大いなる資源である。水質、水量共に世界一等国である。この水をこよなく大切にしよう。
写真:水の恵みに与かる人類
* *車窓より:稲作** ……2005/10/07…
江南(中国長江南部一帯)の車窓いたるところ黄金のジュータン。江南一帯が米どころ。まさに刈り入れが始まろうとしている。
農民たちにとってはその汗が報われるとき。中国は米の種類も多く、白米のほか、赤、黒米もある。赤米や黒米はお粥にして食する。
日本でも赤米が健康食として重宝がられている。白米も種類が多く、日本人向きの粘り気と風味のある米、チャーハンに適する固めの米等数種。人民公社制から自由経済システムに変わり、農民の生産意欲は旺盛になり、食料の自給が可能になった。
自国の食がまかなえるということは国つくりの根幹である。自給率40%(家畜分を除くと28%)という日本の農業政策はおかしい。
100%食の確保が可能なとき、一国は存続し得る。ここは為政者も住民も熟慮して将来展望を確立すべきである。
* *旅で感じたこと** ……2005/10/08…
**贛州旅行で感じたこと**
中国人口の多さ。 豊かなホスト精神。 中国の光と影。このようなことを旅で感じた。人口13億。どこを歩いても、「今日は何の祭り?」と勘違いするほどの人の多さ。
中国以外の国、例えば東南アジア、アメリカ、ヨーロッパで暮らす中国系の人口を加えると15億を超えるだろう。地球上の4人に一人は中国人(系)ということになる。
また、中国人はホスト精神に長けている。精一杯お世話するという気持ちがよく伝わる。乗り物で席を譲る、食事で取り回し皿から『食べて!、食べて!』とついでくれる。お茶を飲んで空にすると、すぐ注ぎ足してくれる。相手の所作に気を遣う。
**中国の光の部分**
向こう5年、10年のうちに、高度経済成長を遂げるだろう。理由は、安い人件費、手の器用さ、外国企業の受け入れ態勢。米国をも抜かす勢い。
**影の部分**
公害、環境汚染、貧富の差は影の部分である。日本が高度成長期に歩いてきた道。日本への影響も避けられない。地理的に日本の西にあたる中国の環境はたちまち日本に影響する。
煤煙、酸性雨、海洋汚染は季節風と海流によって間違いなく日本へ。『雲仙大変、肥後迷惑』である。
次に、若者たちの考え方に疑念を持つ。大学生になりたい職業を聞けば、高収入、かっこよさ、きつくない、汚くないの3K職業を列挙する。日本では同様の指向で若者のニート、フリーターがはやっているのと同じ。
汗を流す価値が分かっていないようである。中国で大切なことは農業、水産業、環境保全であり、汗を伴う職業を有意義とすることである。
写真:左、ホスト家紀珂さんの家族 右、高層建築は中国の経済発展の象徴?
* *誕生日** ……2005/10/14…
2005年10月12日(水)天気曇り
**72歳の誕生日**
「いつしかに 七十坂(ななそじさか)を超えにけり 神の恵みの み手に引かれて」
今日の気持ち、正直、こんな心境である。
父も祖父も72歳で天寿。72歳という年は自分にとって一つの関心ある通過点であった。この一年は祖父や父のように生涯を閉じる年なのか、祖父や父を越えて、まだ現世で何か任務があるのかが問われる年。
ご計画は神のうちにあり、心穏やかにその道に従うことがベストだと思う。12干支を6回迎えたことになる。12歳(昭和20年)は父と共に九江に居り、腸パラチフスに罹り九死に一生を得て祖父がいる長崎県小浜諏訪の池に引き上げた。
長崎原爆、終戦体験。次の12干支24歳(昭和32年)は神に捉えられ、大阪聖書学院へ進学。4年生のとき、卒業後は種子島で伝道することを決心した年。第3干支の36歳(昭和44年)、子ども5人に恵まれ、必死で学費の工面、教会牧会、幼稚園経営に励む。第4干支58歳、子供たちがそれぞれに進学し、卒業を迎えた安定期。
基督幼稚園の園舎改築を終えた。第5干支は60歳、明朗幼稚園の改築、藍綬褒章を受けた。定年を迎え、少しずつ権限委譲をする。第6干支は72歳、わかくさ保育園に関与、その後九江で日中友好活動継続中。
振り返れば、自分の人生は誠に喜びと豊かさを実感する充実したものであった。自分がこうなりたいと願ったことがすべてかなえられた人生であった。これを可能にしたものは何か。キリストを信じ、その導きと加護の中でなされた神のみ業であったと想う。
子ども5人、孫9人合計19人が池田公榮と久子から生み出された大きな宝。この信仰の遺産を子どもたち、孫たちに継承して欲しい。そんなことで、今年の誕生日はひときわ意義深い。
**誕生祝**
学生の呉越・高雅令・叶小江の3名、どこで知ったのかバースデーケーキを携えて祝いに来参。彼女たちの心遣いに感謝。
* *交流会** ……2005/10/14…
**交流会**
毎週木曜日夜は日本語科生徒と教師の交流会を持っている。9月から仲間に加わってくださった井村嘉男先生を含め、日本人は小生と妻と3名で対応。学生たちは日本の風俗習慣、食べ物、富士山などのことについてよく質問する。
この交流会は授業で得られない学習の場ともなっている。
折りよく、九江市と友好都市盟約を結んでいる奈良県大和高田市の樫根会長さん一行も参加してくださった。
写真:交流会風景 中:参加者スナップ 右:樫根会長さん
* *書法(書道)について** ……2005/10/22…
**書法教室参加**
九江・大和高田市友好交流事業の一環である中国書法(日本では書道)の講義を来九の皆さんと共に聴講した。とても興味深かったのでその概要を記す。
1、書法の歴史
①中国周時代の甲骨文字(亀の甲羅や動物の骨片に絵記号らしきものを刻む)、金文(陶片に絵記号らしきものを刻む)に始まる。
②秦時代に一定の法則性を持たせ、意味を持つ文字として整理されたものが篆書(てんしょ)同一企画で統一、漢代において隷書(れいしょ)となる。
③宋時代になり、楷書、行書、草書(日本のひら仮名は草書の一種)となる。
2、書の名家 漢代:ウオシャンシ親子。宋代:節東波スートンホー、黄庭賢ホアンテインセン、未芾(草カンムリに市)ミーフーなど、元代:蔡シアン?
明代:文征明ウンチョンミン 沈周センチヨ、唐伯シン(タンバイシン)、王鐸ワントウ(日本に一番影響を及ぼした人物)
清代:テンシュウロウ、何紹基チンドンシン、金冬心チェンバイシャ
3、名作 蘭亭(余と又):ランデシャは最も有名
4、理論の確立 漢字は絵であり、絵画的要素と意思伝達手段としての文字を兼備する。
5、漢字の伝播 中国全域は勿論、東南アジア、朝鮮、日本へ。
6、書の基本
技法(チーファ)点、横線 縦線 払いなどの組み合わせ。運筆蔵鐸 落、収、平、回、釣 等の筆使いがある。又
垂露、蔵、平、回などの用法もある。
文字の三要素として点、結、章がある。
7、書具
硯、墨(現在では専門家も墨汁使用)
筆にアライグマの毛、野犬の毛、アナグマの毛、鹿、いたち、羊、山羊、羽毛、胎髪(赤児の誕生時の頭の毛)などを使う。胎髪は生年月日と名前を刻んで誕生記念として保存するのが普通らしい。
以上、聞き取れなかったところや、誤字が多くあることをお許しください。
写真:崔教授の講義、 受講生と崔教授
文字の成り立ち
* 廃品はない? ……2005/10/22…
**九江のゴミ事情**
九江のゴミ事情を紹介しよう。九江では、日本のように粗大ゴミがない。家具、家電製品、自転車など修理できるものは徹底して修理して使う、修理が効かなくなったら廃品業者に有料で引き取ってもらう。
持参者が払うのでなく、引き取る人が金を払ってくれる。業者は引き取った廃品をまとめ、分別し、品種ごとに必要とする専門の業者へ転売して利益をあげる。例えば鉄くずだと製鉄関係の業者が引き取り、製鉄の原料としてリサイクルされる。
持参する人も、引き取った人も利益を生むから、放置がない。衣類、紙類、プラスチック類、ペットポトル類も同様で、ポイ捨ての人もいるにはいるが、これらが道路や公園に落ちていたら、すぐ回収する人が待ち構えている状態。では、どこもきれいかというと、そうとは限らない。
金にならないものは、平気で放置してある。例えば、手間賃が出な いような小さくなった紙くず、ビニール袋の切れ端、小さい菓子包装紙、果物の皮などが散れたままになっている。
これらのゴミは、道路を竹箒で掃く選任の人がいて、街路樹の落ち葉とともに、朝夕よく掃除をしているので通りは小奇麗であるが、住宅地の隅っこなど、目の届かぬところは散れている。
そのうち、日本のように、吸引車が出てきてサーッと掃除してしまうようになると掃除夫(婦)の失業につながるかも。余計な心配かな?
写真説明:回収業者の看板 九江には修理専門店が多い
家屋を解体したら、鉄筋、レンガを分類し再利用する
* 友好都市大和高田市* ……2005/10/22…
**九江・大和高田市友好都市盟約の皆さん来九**
樫根会長さん始め、木村さん(以上男性)、羽山さん、豊島さん、長野さん、津本さん(以上女性)6名の方が九江へ。ご一行、16日に関空を立ち、その日のうちに九江着。今回で第10回目の交流行事だそうである。
本日17日、わが師専校区を訪問し、拙宅にもお立ち寄りくださり、しばしの交わりを持った。そのあと、芸術学部で中国の伝統楽器を使った演奏を鑑賞する。
写真:今年は樫根会長ほか5名の來九
芸術教室で中国伝統楽器による古典演奏鑑賞
右:9月から教壇に立たれている井村嘉男先生
**改めて九江市紹介** ……2005/10/23…
**改めて九江市紹介**
東経115度、北緯30度方面に位置し、年平均温度は16~20度、降水量は1300~1900ミリ。北に長江(揚子江)と隣接し、古来より、華南物流の中心地であった。
南に世界自然遺産の廬山を控え、東には中国3大淡水湖の鄱陽湖(プーヤンホー)があり、淡水植物、淡水魚の宝庫。省都南昌まで列車で2時間、高速で1時間半。
その歴史は地形的、戦略的位置から古くは春秋時代にさかのぼり、春秋・三国志の戦場の舞台ともなった。かの有名な赤壁の古戦場もすく近くにある。九江を代表する古代の建造物に甘とう湖に上浮かぶ煙水亭と呼ばれる建造物があり、現在は博物館となっている。
第2次世界大戦終了の1945年までは日本国際協力団体(今日のNGO的団体)経営の九江同仁会病院、日本企業系の台湾銀行九江支店もあり、中日交流も盛んであった。
現代の九江は人口450万人を抱え、近々に500万人を目指して、急ピッチで都市つくりを推進している。現在道路拡張、建築ラッシュ。日本との合弁企業(スズキ自動車)があり、主にエンジンを生産している。
また、九江学院(生徒3.3万人)をはじめ、技術大学や商業大学等もある。昔から揚子江を利用しての物流の拠点であったため、今日も流通、貿易が盛んで、外国貿易の窓口があるほどである。日本のODAで発電所が建設され、この地方の電力をまかなっている。
地形的には、平地も多く米作、綿花、生鮮野菜を主として栽培し、物価が安くて生活しやすい。最近は(2005年9月を期して)、露天商売を禁止したり、交通ルールの遵守にやたらとうるさくなり、近代化に向けて進んでいるようである。反面、中国らしいのんびり、ゆったりの雰囲気がうせつつある。
少し足を伸ばせば、武漢、長沙、南京、広州、アモイ、香港等へも行けて、江南の臍といえる。
写真:江西省九江市潯陽師専校区付近
いたるところ、古い建物を壊し新築のビルができる
*幼稚園でも神舟六号祝福 ……2005/10/23…
**幼稚園**
2005年10月14日:高雅令・呉越学生の通訳の応援で九江市中心幼稚園へ。新5歳児に日本の挨拶の歌を教え、指遊びゲームをする。昨年度も一度会ったことがある園児たちなので、教室へ入ると、「こんにちは(ニーハオ)、おじいさん(イエイエ)、おばあさん(ナイナイ)」といって迎えてくれる。
この子達が30年後は中国を背負う人になるんだとささやかな日中友好活動に誇りを持つ。折しも、神舟六号打ち上げ成功の新聞切抜きが園の壁新聞に掲示してあった。
打ち上げ成功、中国人にとってうれしいニュースであるに違いない。
写真:神舟六号(衛星)に新聞記事(江西省九江市潯陽晩報より)
* 石積みの文化 ……2005/10/26…
**石積の文化**
九江では至る所に石積の塀や壁を見ることができる。さまざまな形の石をモザイク模様に組み合わせ、ほぼ垂直に積み上げる。レンガの塀や壁もあるにはあるが、やはり石積みのものが重層感があってよい。この技術の歴史は古く、少なくとも紀元1世紀には確立していただろうと考える。塀、城壁、砂防、棚田、堤防等に生かされている。
この技術は日本にも影響を与えている。縄文時代から弥生時代に生活様式が変わるなかで、中国・韓国からの移住民が、この石積の技術を持ち込み、山岳地帯にまで勾配のある土地に石を積んで棚田を作った。この技術が持ち込まれたことによって、日本の稲作は急速に耕作面積を拡大したと思う。
日本でも、今日のセメント技術が導入されるまでは、石垣、城壁、堤防、堤、棚田、古墳墓などに石積みの技術が利用されていて、その遺構はいたるところに今尚散在している。
また、赤レンガは中国になくてならない建材であり、塀、部屋の間仕切り、倉庫などに使用する。レンガつくりは当地では需要の多い安定産業で個人でも簡単に出来る。
写真:モザイク模様で垂直な石積塀
標準的なレンガの塀(日本のセメントブロック的存在)
* 日本語学科生との交流会……2005/10/28…
大和高田市の方々も参加しての交流会は盛会でした。
写真:樫根会長、井村先生、池田久子
* 日本語科学生とのスナップ続き ……2005/10/28…
2005年10月27日九江学院内で大和高田市の友好メンバーを迎えて交流会が開開かれた。
大和高田市からの参加は6名であったが、内四名は九江学院に滞在し(6ケ月から3週間)中国文化の学習をされることになった。
写真:左から参加者スナップ、木村さん、津本さん
* 希望者が九江で暮らすには?* ……2005/10/29…
2005・10・29
**九江で楽しく暮らしていただくプロゼクト**
高田.九江友好会会長の樫根氏、木村氏、九江在住の菅谷氏、九江人民政府外事僑瓣公室の宇(カンムリ無し)紅(ウコウ)氏、それに池田の5名、表題について以下の通り話し合う。趣旨は「日本人が九江で楽しく生活できる可能性」があるかどうかということ。小生は実際九江で一年以上暮らしてみて、常々、日本の退職者、年金生活者が九江市で暮らす可能性が大いにあると気づき、その実現を願っていたところである。
Ⅰ、対象として考えられる日本人として
①、定年後を九江で過してみたい人(中国が好き、中国で 生まれた、育ったなどで中国に住みたい人)
②、年金生活を九江で過したい人
③、持てる技術を中国で発揮したい人。技術者がそのまま埋もれるのはもったいないこと、中国でボランテイアとして特技を生かすことを望む人は中国人からも歓迎されるだろう。
④、九江で学生生活をしたい人。いまや、学び舎は世界。最近、日本からの中国留学生は増えつつある。交換留学等の制度を民間デベルで進めるべきだろう。
⑤、中国各地を旅行する一時的拠点としたい人等。旅行者のメニューに従った短期間の駆け足旅行より、現地に滞在し、ゆったりと中国各地を現地人との付き合いの中で楽しむのはどうだろう。
⑥、学術研究の拠点としたい人。日本文化と中国の接点、漢字、茶、稲作、文化人類学等研究すべき課題は多いはず。従来の定説が覆されるかもしれない。
Ⅱ、九江を薦めたい理由
①、生活費が安い。日本の10分の1の物価、生活費。従って日本の5万円は中国では50万円に匹敵する。年金生活者も中国でなら悠々自適。
②、気候が温暖で、日本の九州と同じ。
③、比較的日本に近い。日本への帰国は日帰りコースも可能。海空便あり。
④、安全が期待できる等。日本人集落をつくり、安全に暮らせる。特に、九江学院の学生または教師待遇ならば超安全。
Ⅲ、今後の展開
①、上記条件を満たすための、調査、研究を継続する。事務局を日本に、現地事務所を九江においてプロゼクト推進を図る。ウコウ氏も関係機関と連携をとって協力しましょうと言ってくれる。菅谷氏は中国在住の日本人、実業家としてアドバイスにのってくださるだろう。
②、当面は、HP等で関連情報を流す。
附記、人物紹介
樫根会長 高田・九江友好会会長。両市の18年に及ぶ友好交流事業に携わり、何回となく九江を訪れるなかで、「九江に日本人集落を作って学生の交換 留学制度策定」への情熱の持ち主。2005年度はその第1期生を引き連れ、現在九江学院に滞在し学生と交流をもっておられる。
宇(ウ冠無し)紅氏、現在九江人民政府外事僑瓣公室の 職員。外事一般を取り仕切る。以前は九江学院にも関係、日本の栃木県国際交流課勤務経験。
九江・大和高田市友好事業に関与。本人は日中両国に実 際に生活し、国際感覚を身につけておられる。氏は、日本人が九江で生活することの可能性を積極的に支援したい人。横浜、神戸、長崎にチャイナタウン(中国人街)が あるように、日本人街(集落)を作ればよいと考える。
菅谷氏、九江で建材関係の事業のかたわら、九江学院に請われて、日本語科教師を勤める。氏は日本人が九江で生活できる可能性を最も推進したい人の一人。有志による日本人向け住宅を作り、そこで集落を作り生活するなどの構想の持ち主。
写真:池田宿舎で話がはずむ
* 九江の医療 ……2005/10/30…
**医療**
九江の1940年代は衛生状況が悪く、疫病等の蔓延が多かった。小生幼少のころ、チフスで弟を失い、自身も腸パラチフスという病に罹り九死に一生を得た。天然痘も大流行したし、ハンセン氏病も流行っていた。
**同仁会病院**
当時、今日いうところのNGO的医療団体同仁会病院が日本人によって経営されていた。九江の場合は今の熊本大学医学部(昔熊本医専といった)の関与で同仁会病院が運営されていた。同病院は中国12の都市に設立され、在留邦人の治療と同時に中国現地人の医療をも行い多大の貢献をなした。同人会の理念として、医療を通じ、中国人の民生の安定をはかり、合わせて、近代西欧医療に精通せる現地スタッフの養成を目標としていた。終戦とともに施設は撤収されて、日本人スタッフは全員引き上げた経緯がある。
**今日の九江の医療**
今日の九江は、当時とすれば雲泥の差で、医療施設が実によく整っている。医療従事者も医師を始め、看護師や検査員も多い。九江学院にも医学部、看護学部があり、多くの医療技術者を輩出し、各施設で活躍している。近代医療設備ももちろん整っている。入院できる大病院(ベッド数の多い意味)から、「診所」の看板を掲げた個人診療所もあり、多様。
歯科は「牙科」と表現が違う。設備等は日本と同じ。歯の矯正をしている人もよく見かける。
薬局は特に多い。漢方薬他の薬品を扱っている。症状によって薬剤師が薬を調合してくれる。
70歳以上の老人には医療費全額免除の制度があり、日本人小生もその恩恵に与っている。感謝!
写真:㊧九江博愛問診部 問診を主とし、治療、加療は別部門 ㊥美容整形部門 ㊨小さな診療所(性病)
* 遊び大好きな九江人 ……2005/10/30…
九江人は遊びが好きなようだ。往来の木陰、店先、クラブなどでマージャン、カード、中国将棋、囲碁などで楽しんでいる。店番そっちのけで遊びに興じており、たまには店のお客を無視して遊びに集中している。
**中国将棋**
「一局指しましょか!」「いいね」すぐ意気投合して盤面へ集中。それを取り巻いてみている人もおり、岡目八目で口を挟んでいる人もいる。
**マージャン**
老若男女を問わず、幅広い愛好者。やはり、ある程度金を掛けないと面白くないようだ。盤上には小銭が置いてある。
**カード**
トランプ・かーどでやはりお金を掛けて遊んでいる。
* 種子島の宣伝を少し* ……2005/10/31…
2005年10月31日(月)天気晴れ
**10月もおわり**
中国の10月は1年でもっとも喜ばしい月であろう。1日は建国記念(国慶節)、収穫の秋、秋本番。旅行をするには最適の季節。いたるところ秋の花が咲き心和む。菊、マリーゴールド、ケイトウ、サルビアなどが色鮮やかに咲いている。モクセイの香りが漂い、いい気持ちにしてくれる。若者たちのくったくのない笑顔に囲まれ、充実した毎日であった。
**種子島の宣伝を少し、特に種子島国産銃のこと**
種子島は、九州本土最南端の佐多岬から南東方向約40km・鹿児島市から約115kmの海上にあります。一般に山地・台地が多く,海抜は最高282.3mです。種子島の面積は,453.83 k㎡で日本の有人離島の中では5番目に大きな島となっています。
(架橋により本土との往来が可能な島は除く)島は一市ニ町からなっており、人口は約4万人です。周囲は海で囲まれ、平均気温は摂氏19.3度で,すこぶる温暖です。5月から10月までは月平均気温が20度を超え,夏の期間が長いです。真夏の日照は強いですが,常に快い海風が吹いていますので日中の暑さは九州本土と変わらないくらいで,むしろ涼しいくらいです。一方冬の気温は10度から14度であり,日の最低でも0度を下回ることはほとんどありません。
年間降水量は2,000mm前後で3月から9月の期間が比較的に多雨です。梅雨は5月末頃に入り7月初めごろ明けます。台風は,年に4~5回8月から10月にかけて来襲します。また,冬期には季節風により北西の風が強くなります。このように,本市の気候は温暖気候に近い亜熱帯性気候ですが,宿命ともいえる台風常襲地帯に当たるので,農作物の被る影響も大きくなっています。
歴史については古くから日本本土と琉球・中国・東南アジア・インド・西欧等との海の道で結ばれ、交易の接点として重要な役割を果たしてきました。特に、1543年(天文年間)島に漂着した中国のジャンク船にポルトガルの商人が乗船しており、持参した鉄砲の威力に驚いた島主種子島時尭(トキタカ)公は大枚2000両で2丁の鉄砲を買い上げ、刀鍛冶の八板金兵衛に申し付け模作を試み、艱難辛苦の後、完成します。
やがて、鉄砲は国内で量産され、戦国時代を平定に導く役割を果たします。その影には、金兵衛の娘若狭(わかさ)の悲恋物語もあります。2006年2月4日、この若狭悲恋物語の本格オペラが現地で上演されることになりました。音楽愛好家の皆さん、歴史研究家の皆さん、このオペラを種子島で鑑賞し、あわせて種子島の風物に接してください。
池田公榮はこの種子島で42年間牧師、園長として過した大切な第2の故郷です。
詳しくはwww.city.nishinoomote.kagoshima.jp
写真:オペラ若狭物語のポスターほか、種子島地図とか
* 個別学習指導* ……2005/10/31…
2005年12月4日、日本語能力検定試験に向かって学生たちは一生懸命。時には夜間個別指導を行うこともある。2級、1級も目指して猛勉強。取得した級によって就職・待遇にもろに跳ね返ってくるので学生にとっても必死。
**九江人はおしゃれ**……2005/11/02…
**九江人はおしゃれ**
九江の人はなかなかおしゃれだ。いつも小奇麗にしている。身に着けているものも個性に合っており、化粧は余りしないが、髪の手入れ、つめの装飾には余念がない。理髪店や、美容院、エステ等の店も多い。九江女性の関心は余裕があれば衣服や宝石に金を使うといっている。
* 体育祭 ……2005/11/03…
**学院運動会**
今日から三日間、院内運動場で九江学院2005体育祭が行われる。外国人教師も休講にして体育祭に出席するよう指示があり、妻同伴で早朝のバスに乗り、本部キャンパスへ。
朝のラッシュアワーと重ねり、50分かかる。到着と同時に開会式が始まり、各学部ごとにプラカードを先頭に入場する。参加者は1年生だけだという。理由は3万7千人を同時に収容できるスタンドがないこと。選手以外はもっぱら応援参加。ま、選手以外はちょっとした息抜きになることだろう。
2年生はこの週は労働週といって院内の各施設で労働奉仕が義務付けられる。
3年生は自由ということで、大半は語学能力試験にむかって自習。
競技種目には、英語教師も1500メートル走に参加し、めでたく一位。
写真説明:九江学院体育祭開会式 スタンドの応援風景 外人教師の健闘
* 体育祭続き* ……2005/11/03…
写真説明
①学院で教鞭をとる外人教師も応援にかけつけ
②外人教師1500競技で1位
③開会式
* 九江の芙蓉* ……2005/11/03…
芙蓉の花が大学カヤンパスに咲いていた。わが故郷の種子島にも咲く花で懐かしい。芙蓉にも何種類かあるが、写真のものは酔芙蓉(すいふよう)という。花弁が午前は純白・午後はほんのり桜色・翌日は紅く変色する。そして翌日には落下する短命な花である。
林芙美子が「花の命は短くて」のヒントになったのがこの芙蓉花ではなかったかと推測する。彼女が屋久島安房で作家生活をするとき、芙蓉をみて、自分の名「芙美子」の「芙」とその境遇をかさねあわせ、その短命さに引かれたのでは。芙蓉花は屋久島・種子島に多く自生している植物。
花芙蓉 ほろ酔い気味の 人誘い
写真左:2,3メートルの樹高に群れて咲く
中央:白、薄いピンク、紅(になったらすぐ落下する)
中央写真の詳細 白:開花直後 ピンク:開花後10時間ほどで白からピンクに変わる。紅:ピンクから10時間ぐらいで紅に変わる。花弁が閉じてしまう。その後10時間以内に黒ずんだ紅となって落花する。
* 日中友好を考える ……2005/11/19…
日中友好を考える -民間の力で地道な積み上げをー
相互利益、相互友好のためには多少の来者不拒、清濁併飲の度量があって然るべきと思うが、現今の国家間日中関係は、一衣帯水の状況にあるにも関わらず、温経冷政の状態である。国家ともなれば、相互に友好の必要性は感じつつも、利害や面子が先行し、うまく進まないのであろう。それはそれとして、日中両国の外交推移を前向き積極的に見守ることにしたい。
このような時だからこそ、民間友好団体や個人デベルでの友好活動が推進さるべきだと思う。以下、私が自ら体験し、見聞したことを通し、所見を述べてみたい。私は2004年以来、中国江西省九江学院大学①において日本語会話と日本概況を教えている。
戦前、九江で生活したことがきっかけで、老後を余生としてではなく、与生(目的をもって与えられた生)として生きたいと願い、ある帰国中国人のお世話で、九江学院の教壇に立つこととなった。
学生は勿論、現地住民ともよい関係で、毎日は楽しく、充実している。私と同じような生き方を中国で行ってこられた先輩や、同志が多数いらっしゃるということも次第に分かってきた。また、留学生として九江学院に長期滞在し、中国の文化や芸を学んでおられる方も段々増えている。
一例をあげるなら、高田九江友好会②は退職者等が現地中国で文化、書法(道)、水墨画等の学習ができるように大学側と契約を結び、希望者を入学させる事業を展開している。実際、この高齢者たちは、日本の成人教育の高齢者学級生よろしく、目は生き生きと輝き、とても楽しいとおっしゃっている。
すでに、日本語教師を派遣しているわが鹿児島市日中友好協会も、長沙市との間に、探せばもっと多様な交流の道が開かれるのではないかと思う。いかに頑丈岩山でもつるはしひとつでコツコツと掘り進んだ「青の同門」の話は日中友好を願う者にとって励みとなるであろう。「求めるものは得、探すものは見出し、門をたたくものは開かれん」③である。
註 ①中国江西省九江学院大学:国立大学、18学部、学生3万7千人、教職1600人の総合大学。 ②高田九江友好会:奈良県大和高田市(人口7万5000人)会長樫根修弘氏、友好都市盟約以来18年間人脈往来継続 ③マタイ福音書7章7節
投稿者略歴 1933年生。熊本県天草出身。幼少時九江在住。引き上げ後鹿児島県川内在住。大阪聖書学院神学士課程、玉川大学文学部教育学科(通信)に学ぶ。2004年まで46年間種子島西之表を中心にキリスト教布教と牧会、福祉、教育事業に(基督幼稚園、明朗幼稚園、わかくさ保育園経営)に携わる。2004年8月より現九江市在住。
* *九江地震* ……2005/11/29…
**地震**
11月26日午前8時半ごろ、唸りのような音とともに宿舎が揺れだし、妻と二人で屋外にでる。できるだけ建物から離れるように空き地の中心に逃げる。揺れは1分続いたかどうか。そんなに長くはなかったような気がする。初回の揺れはM5.7。午後再び揺れたが、午前の揺れに比べると非常に弱く、余震と思われる。学生たちが「避難しましょう」といって無理やり学校の運動場に連れ出す。好天の日差しを受けて学生たちと運動場で過ごす。その時、2000人ぐらいが学校のグランドに避難していたと思う。
**夜間**
夜、自宅で就寝するつもりであったが学生の強い勧めにより、着れるだけ着込んで、毛布布団を持ってグランドへ。校庭はすでに、避難場となっており、三千人以上が思い思いに野営の準備を整えていた。星空を見ながら、いつの間にか眠り込んでしまう。目が覚めたときは午前5時半、避難者のほとんどは姿を消していた。上にかけていた布団は夜露でしっとりとなっていた。目覚めを機に、自宅へ帰り、ネットで被害状況等を調べる。
**以下はその一部**
1、現地の人の話では、震源は九江から15キロほど西の瑞昌(正式には九江市瑞昌県)。震度M5.7。死者14名。負傷者270名。倒壊家屋29000戸。倒壊家屋の多くは農家の古い建物で、現地の人の話では、中国の建物は耐震構造でなく、単にレンガ積みだから壊れやすい。「ちょっとした台風でも壊れますよ。」とはある中国友人の話。
2、中国:江西省地震 冬の屋外で不安な一夜、60万人避難(毎日新聞)
写真:九江学院キャンパス内の避難状況
**震源地視察* ……2005/12/01…
**震源地視察**
授業がない日だったので、11月26日の九江地震の震源地とされている瑞昌へ単独で視察にいく。瑞昌は九江市の一県。ここは九江からバスで40分ほどのところ。市街地を抜け出ると、一面に畑、田んぼ、沼地がしばらく続く。
震源地に近づくとあちこちに倒壊家屋が見られ、配給された災害用救援テントが張られている風景となる。瑞昌の市街地に入ると、ほかの町同様、広い道路を挟んで近代建物群が並ぶ。その道路の街路樹帯や公園に応急テントが張られている。
どの家が倒れたのだろうと探しても市街地には倒壊家屋を見ることはできなかった。だから、きれいなビルと救援テントがとても不釣合いに見える。鹿児島市でいうなら天文館かいわいのミニ公園にテントがびっしり張られ、被災者が入居していると想像したらわかりやすい風景。
避難生活をカメラに収めて帰途に着く。倒壊家屋の大部分は地盤のよわい沼地に傍に建っている農家が大分部ときく。ある中国人によれば、「地震ならずとも、ちょっとした台風でも壊れますよ。」とのこと。そうかもしれない。農家の家は一戸建てながら、小屋同然の簡単なレンガ積み家屋なので、揺れにはとても弱いのだと思う。
**地元メデイは**
地元昨今の新聞では、もっぱら救援活動の写真入報道である。国際赤十字社、中国軍人団体、退役軍人団体、公務員団体などが義捐金と生活物資、教育教材などを贈ったと報道していた。
地震発生の原因であるが、まだ掴めていないようである。
**物価**
歩いて回るうちに喉が渇き、みかんを買う。なんと、宿舎市場の2倍の値段を請求された。災害は生活物資にまず反映されるのだとつくづく感じる。
* いのち大切に* ……2005/12/05…
**現代版ロミオとジュリエット?**
学園本部で、新学期開始早々、男女学生の心中事件があった。事情はわからないが、今頃めずらしい。江戸文学の「心中天網島」ではあるまいし、話題にしている学生たちも「ばかげたこと」と一笑に付していた。それにしても、いまどき、こんなことが現実起きるんだと驚きもする。
もし、このふたり、愛するということ(だったかどうか不明だが)の意味や、何が一番よい選択かを知っていたら、入水自殺などするはずもないと思う。
日本でもネットによる自殺願望者が連絡をとりあって死にいたるケースがある。自殺は平常の心理では到底起こりえない問題であろう。自殺する人は、すでに心を病み、正常な思考ができなくなくなった人であろう。そこまでたどり着く前に、周りが気づき、フォローしたり、カウセリングなどの手立てが必要であろう。
やはり、自殺は一種の社会病であり、まわりが気づかずに、当人を追い込んでいるような気がする。そうすると、社会の一員である自分も責任を感じる。
「心の平和をすべての人に」と祈る。
写真:二人の男女学生が水死した学院内の堀
* 児童が危ない* ……2005/12/05…
**児童があぶない**
広島での女児殺害、栃木での女児殺害、昨年は奈良県での女児殺害と心を痛める事件が続く。被害者は無抵抗な女児であることを思うと怒りを感じる。加害者も尋常な人間とは考えられない。彼らもまた社会が生み出した病人ではないか。
しかも、全部、下校時の出来事であり、安心して学校に通わすこともできない社会になってしまった。こうなったら、自衛しか道はない。せめて、集団下校の体制ぐらいは確立したい。
参考までに、九江の下校風景であるが、正午と、午後4時過ぎともなれば、幼稚園、小学校の門前は迎えの人でごった返す。中国では、登下校の安全が自己責任らしい。それにしても、一日2往復の送り迎えは大変な負担だろう。それでも、安全には代えられないということか。
写真:門前で迎えのためにたむろする保護者
* *すき焼きで激励** ……2005/12/05…
**すきやきパーテーで激励会**
12月4日の統一日本語能力試験に向けて学生たちが頑張っている。栄養をつけ、よいコンデションで試験に臨んでもらうため、妻が腕を振るい、すき焼きで学生たち10人づつを招いて食してもらった。
日本の醤油に近い調味料を見つけ、料理法は純日本流に。牛肉がとても硬くてそのままだとゴムを噛む感じがするので、できるだけ薄く切り、尚且つ、包丁で切れ目を入れ、肉だけ先に一度火を通して永めに煮るとまあまあの出来であった。味は、純草食の牛なので、むしろ日本の牛よりこくがあっておいしい気がする。
写真:すきやきで力をつけて
**犬って万国語を理解する? ……2005/12/05…
**妄導犬クイール鑑賞**
妄導犬クイールのDVDを鑑賞する。人間に尽くし、老いて去る犬の一生で感動的。犬と人との関わりの歴史は古い。ローマ帝国の建設のシンボルは犬であり、日本でも里見八犬伝、忠犬ハチ公、南極で置き去りになったが翌年まで生きていて隊員を待っていた犬とか話題はつきない。動物の中で一番人間に親しむものが犬であろう。最近はある特別養護老人ホームで犬をセラピーとして入所者に関わらせるところがあると聞く。
最近のコラムで犬をセラピーのためとか、人の役にたつとかの認識がまだまだ一般的に足りないと論じていた。食堂に犬を連れてはいると断られるとこの例である。訓練された犬とそうでない犬との差もあることだろうし一概に非難はできないような気もするが。
近所に犬がいるが、小生にも良く慣れてじゃれ付く。日本語で話してもちゃんとわかる。犬は万国語を理解する能力を持っているのかな。
写真:近所の犬で小生によくなつき、日本語が通じるんですね