**忘年会** ……2006/01/02…
*学生主催の忘年会に招かれる*
301クラス(2003年入学生第1クラス)学生の案内で、街のレストランで鍋料理の馳走に預かる。生徒たちの企画で、関係した教師たちは全員招待をうけた。テーブルを囲んで暖かい鍋をつつき、しばし歓談のときをもつ。生徒たちにとっては、就職活動か控えており、大変な気分と思うのだが、みなはしゃぎながらの歓談であった。
*カラオケでちょっぴりのどを*
302クラス(2003年入学生第2クラス)学生の案内で、昨日に引き続き忘年会。中国料理で時を過ごし、引き続きカラオケに誘われる。九江でもカラオケがはやっており、若い学生たちでいっぱい。この点、日本と変わらない。選曲はパソコンで瞬時にでき、日本のうたもかなりある。小生も請われて「昴」「二人の愛」を歌った。授業ではパットしない学生が俄然リーダーシプを発揮している場面も見られ、人さまざまだなあと感心する。
* 武漢での正月 ……2006/01/02…
*武漢へ出立*
2005・12・30
計画していた武漢旅行を実行。午後6時32分九江始発に汽車(中国では火車という)で武漢へ。われわれ夫婦と同僚フ日本語教師井村師それに通訳をしてくれる呉越学生の四人旅である。
列車は定刻に発車し、まもなく先の11・26地震の震源地瑞昌を通り抜け、四人が懇談している間に、2時間40分後の9時5分、武昌駅に着く。早速タクシーを拾い宿舎に着く。宿舎は桂宛というホテル。このホテルは現在中華師範大学の王先生のご主人があらかじめ予約してくれていたもので、着いてみると、とても立派な学園内ホテルであった。王先生のご主人の交渉で半額にしていただく。まずは安着を感謝し、眠りに付く。
**武漢旅行記**
2005・12・31
① 宿泊のホテルのことなど。桂宛賓館といい、学園ないにあるホテル。上海の中級以上のホテル並み。当ホテルは学校関係者、留学生、保護者が宿泊できるとても格安で便利なそして安全なホテルである。この大学では外国人留学生を多数受け入れているのには驚いた。日本人もいるとのことで、ぜひ面会をと望んだが、学校の管理規定で断られた。安全面からの配慮だという。小生の知る知人の子弟が上海に学んでいることは知っていたが、こんな内陸部にまでも日本人学生がいたなんて思いもかけていなかった。まさに、国際時代。政冷涼経の日中関係ではあるが、一方で、学術を通して交流があることに強い満足と期待感をもつ。
② 東湖(トンフー)周辺の観光。
武漢有数の景観地。周囲20キロ以上の湖を人口陸地を作り、植林している。山頂から眺める景色は『天の橋立』を想起させる。まずは江南第四楼と呼ばれる「楚天台」へ。ここは、紀元前2世紀、中国春秋戦国時代の一国楚の遺跡をもとに復元された古代文物の収集と展示館。館内を一巡し、古代中国の服装よろしく中国古代楽器のひとつ、八音楽器で、中国の曲を奏でてくれた。気分はすっかり中国情緒に浸り、心地よく思っているところ、 最後の曲がベート-ベンの第9演奏と相成った。多少の違和感を感じつつも、年末のサービースと受け止め、拍手をおくる。劉備の雨乞いの祈願がなされたという頂上には、祈願が聞かれることにあやかって、多くの善男善女の祈りを書き込んだ錠が結ばれていた。
③ 田舎料理で昼食。たかなの漬物を魚の煮込みに入れてあり、いかにも田舎風の味で美味しかった。5名分で35元でとても安い。
④ 食事のあと、毛沢東が晩年をすごした家屋を訪れる。わりと、質素な家屋であり、彼の晩年の生活ぶりも見えてくる。決して贅沢な生活をしたとは考えられない。
**武漢での主日**
2006・1・1
武漢旅行が主日に当たってしまい、教会礼拝に参加できなかった。このような場合は、家庭礼拝によって、神を賛美し、祈り、聖書を読む。今日のみ言葉は
創世記1章27,28節
「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』・・」
人は神の創造によって成った者であり、地を良好に管理するよう定められた。だが、人は与えられた選択権を自己中心のために誤用し、人同士の殺し合いと自然破壊を行った。本来祝福されるべき人類は自ら不幸と破壊を選んでしまった。それでも神は人類の再創造を試み、神の子、イエス・キリストを受肉させ、十字架によって人の負債を清算された。再び完成するであろう新しい国を父は子と聖霊と、与えられた自由意志を正しく行使することのできる民とともに、即ち、悔い改めて神に従う民とともに創造される。
**新年快楽**
2006年。それは、また一歩、神の国の完成に近づく年。神に栄光・地に平和。現在多面にわたる困難に直面しているすべての人に、平和と喜びがありますように。とくに、幼子と老人を顧みてくださいますように。
**武漢旅行記**
*改めて武漢市紹介*
東経108度北緯30度方面にあり、中国内陸部に位置し、長江と漢江が合流した位置で、1949年、武昌、漢口、漢陽の三地区を合併してできた市。その歴史は古く、三国志の舞台、漢、唐,宋、元、明、清王朝を経、辛亥革命発祥の地である。古来より、水陸交通の要衝であり、冶金,機械、繊維、電子、化学、食料の産地、かつ武漢鉄鋼公司を抱える。
*黄鶴楼*
現在の楼は五層で近年に改築されたもの。歴史は古く、清朝、明朝、元、宋、唐、隋にまでさかのぼり、戦いの度に焼失し、建て替えられている。
*毛家壮で昼食*
辛亥革命の最初の一発が放たれた首議園かいわいは革命服をまとったウェイターが給仕をしてくれる。ここで、革命家たちが食したであろう食に与る。
*そして帰路へ*
午後1時半、早めの漢口駅につき、車中の人となる。往路は夜間のため見れなかった江南の田舎をたっぷり眺めながら九江駅に午後5時10分到着。好い旅であった。ついてみると、何かしら我が家に着いたようなホットした気分となり、ここが異国の九江であることを忘れてしまう。人間は本来、住んでいるところに順応する力を持っているのではないかと思う。
写真説明左:霧にかすむ武漢の教会
中:黄鶴楼の建立記事と模型
右:革命軍服をまとったウェイター嬢と中央は通訳のため同行してくれた日本語学科の呉越学生
**武漢旅行②** ……2006/01/02…
*楚の文明
楚は春秋戦国時代(紀元前771~紀元前221年)に中国南方で強大な勢力を持った国。北は斉・韓・宋に接し、西は秦に接し、戦国一広大な領地を有した。その勢力圏は今の湖南省・湖北省・江西省の一部と考えられる。楚の都は最初は郢(えい:現在の江陵)、後に秦の侵略に耐え切れず寿春(現在の淮南)に移った。王族の姓は熊(ゆう)、祖先は三国志演義で有名になった祝融氏。(伝説)また楚は強兵を生むところで、楚の荘王は天下の諸侯に号令する覇者になった。BC221年、秦が中国を始めて統一し、楚もその支配下にいる。秦の滅亡後は再び戦国の世となり、三国志の舞台となり、小説の題材に事欠かない。項羽と劉邦の戦いから生まれた「四面楚歌」の成語も当時の逸話から生まれた。興味深いことに、戦国時代の難を逃れてであろうか、一部の人は、日本の渡来人となり、弥生文化に深く関わったという説がわが弥生期の故事に垣間見られる。特にわが鹿児島弁に関係があるから面白い。
以下塚田敬章氏のHP「弥生の興亡」から引用させていただく。「楚の古典文学、屈原の「楚辞」は、兮(ケイ)という語を多用していることに特徴があります。兮は句調を整えたり、感情を表わす間投詞として用いられるもので、項羽が劉邦の漢軍に包囲されたとき歌った、有名な「抜山蓋世」の詩にも含まれています。ついでに音も記しておきます。(但し呉音)・・中略・・ 「大隅肝属郡方言集(*)」の一部を引用します。ここは曽於と呼ばれた土地です。 《*/柳田国男編、野村伝四著、国書刊行会》
「ケイ 動詞の下につける助詞。気取った人が往々使う。
ユタケイ……言ったんだ。 キタケイ……来たんだ。
スルケイ……するんだ。」
*辛亥革命成功の地
孫文を中心に進められた清朝打倒作戦は何回も失敗した。しかし、ときいたって、1911年ここ武漢において、清朝側守備兵らの革命側への寝返りもあり、ついに成功。米国にいた孫文は急遽、帰国し、初代大統領となる。ここに2000年続いた、王朝体制は終わり、新しい中国の出発となる。武漢には孫文関係の資料博物館があり、その前庭には国父孫文の立像が建立されている。
「明治維新は中国革命の第一歩である」そして、「中国革命は明治維新の第二歩である」と、1924年11月1日、孫中山が最後に日本を訪れ、神戸の帰りに長崎で新聞記者に語ったといわれている。
写真:貴重な写真があったのに、パソコンのストライキで失ってしまいました。機会があれば、再び武漢へ行き、撮影してきます。
**卒論** ……2006/01/03…
学生たちにとって、卒論は最後のハードル。テーマ決定、提言、資料収集、論理の展開、結論とまとめる作業。4000字以上の論文にまとめる。提出期限は1月5日までとなっている。担当教師の添削をもらったら、パソコンで仕上げるよう義務付けられている。
日本語科の生徒は勿論日本語で書き上げなければならない。このところ、自分のパソコンを持っていない学生が、毎日小生のパソコンを借用に来る。
**帰国の途へ** ……2006/01/13…
**学生たちに見送られて
2006年1月6日13時30分。学院差し向けの車で南昌空港へ。出立にあたって、多くの学生たちが見送ってくれる。2年間のご縁を心から感謝する。また、九江市で国際交流関係の仕事に携わっておられる宇紅さんもわざわざ見送りにきてくださった。とても義理堅い人。南昌までは呉越学生も同行してくれた。南昌空港で約1時間の時間待ちのあと、17時25分、中国東方航空UM5568便機上人となる。
**空は青い**
機が上昇をし、一定の高度に達すると、空の色が一変する。ある一線を境に上は澄みきった青、下は黒褐色。上の青は透けて見え、清らかさを感じるが、下の黒褐色は視界を封じ下界を覗くこともできない。それだけ、中国の空は煤煙等で汚染されているのだろう。この清い空と汚れた空との境界線をこれ以上高めてはならない。
**上海泊まり**
上海は虹橋国内線空港に降り立ち、すぐ近くの上海国際机場賓館に投宿。このホテルは日本語を解する職員が常時対応し、食事も日本料理を出してくれる。バストイレ付で朝食、浦東国際空港までの無料バスを出してくれるのでとても便利。一人一泊朝食付き410元(約6000円で日本のビジネスホテル並)。
* 帰国の途* ……2006/01/13…
**浦東空港で中原理恵さんと再会**
2006年1月7日。上海国際机上賓館で6時起床。バイキングによる朝食を済ませ、チェックアウト後、午前6時50分、ホテル差し回しのリムジンバスに乗り込み、上海国際空港浦東机場へ。机場には午前8時に到着。早速搭乗手続き、手荷物委託手続きを済ませ、最後が出国手続きを済ませると、後は搭乗口待合所で出発時間までを待つことになる。また、ここで免税品のみやげ物を買ったりもできる。
浦東国際空港待合ゲートで湖南省長沙市で日本語を教えている中原理恵さんに会う。中原さんは宮之城のひと。小生の川内高校時代の後輩でもある。年は、孫と爺くらいの開き。「長沙では、よく学生と間違えられたんです。」と言っておられた。しかし、彼女の中に秘められた情熱は並みのものではなく、単身で、初めての長沙に赴くだけでもたいしたもの。感心させられることしきり。勇気もあり、実行力もある人みたい。
中国東方航空上海発鹿児島便MU761便は25分遅れで浦東を飛び立った。機は一直線に長崎県五島上空に向かう。そこから右折して鹿児島空港へ。あいにく雲が多くて下界が見えない。ほとんど雲の上を飛んでおり、雲団がまるで地図の上を飛んでいるような気分にさせてくれる。盛り上がった部分あり、谷間あり、裂け目あり。これも気流の力によってできる現象だろうなと思いつつ、ふと地球の表面も地底のマグマ運動の力によって山や裂け目や海溝ができるのだろうと考えるうちに、機は日本時間12時50分、予定より25分遅れで鹿児島空港へ着陸。かくて、なつかしの鹿児島人となる。
夜は、鹿児島キリスト教会に泊めてもらい、翌日の日曜礼拝に出席することにした。
写真:浦東国際空港で再会した中原さん
地球の神秘を思わせる雲団
鹿児島空港の足湯「いい湯だね~♫」
* わが故郷鹿児島* ……2006/01/13…
**錦江湾から眺むれば**
鹿児島は太古において火山の大爆発を起こし、姶良カルデラを形成した。錦江湾はそのときの火口といわれる。錦江湾上から東西南北を眺めるとすべらしい景観に目を奪われます。鹿児島よいとこ、一度はおいで!!
写真:東に櫻島、東北に市街地、南に半島、西に薩摩半島。日没もきれいです。
* 故郷鹿児島 ……2006/01/13…
鹿児島は海も空もまだきれい。これからの課題は「より美しく保存し、豊かな自然遺産を子孫たちへ残すこと」ではないだろうか。
* 鉄砲伝来にまつわる悲恋物語* ……2006/02/19…
歌劇「若狭」の種子島公演。2006年2月4日 中種子町コリーナにおいて実行。地元紙は「鉄砲伝来にまつわる悲恋物語を題材にした歌劇「若狭」の“里帰り”」と報じた。田上容正さんを実行委員長とし、県文化課協賛の形で実現した。当日は天候も絶好で、オーケストラやアンサンブルなど総勢82名の出演であり、地もとの小中高校生には無料でリハーサルを参観でき、本番は1300人ほどの入場で立見がでるほど。
概要:
第1幕 1543(天文12)年8月種子島南端門倉岬浜に一隻の遭難船が打ち寄せられた。同乗していた中国人と島の長者は砂の上の筆談で、この難破船はポルトガル商人を乗せた貿易船であることを知り、西北海岸赤尾木の港へ曳航する。
第2幕 刀鍛治の八板金兵衛の娘若狭と島主種子島時尭(ときたか)の家臣笹川小四郎はともに相慕う中。二人が愛を誓い合っているとき、難破船一行をもてなす歓迎の宴で若狭の舞を披露することになった知らせが入る。
第3幕 島主時尭と重鎮たちはポルトガル人の歓迎の宴を催す。余興で若狭の舞が疲労さる。ポルトガル人のピントはこの美しい娘に見惚れ、時尭に感謝する。時尭は鉄砲の威力を実演してもらいたいとピントに頼む。ピントは快く引き受け鳥を狙い撃つ。一同はその鉄砲の威力を讃える。
第4幕 若干17歳の島主時尭は鉄砲こそ戦国の世を収める武器となると、家臣たちに諮り、1丁2000両で買い取り、鉄砲の国産化をはかる計画を披露する。鉄砲の製造を刀鍛治の八板金兵衛に、火薬の製造を家臣笹川小四郎に申し付ける。
第5幕 金兵衛の仕事場。日夜鉄砲造りに励むが、筒底の塞ぎ方がわからない。当時日本には目ねじの技術がなかったからである。金兵衛、若狭、乳母、小四郎はピントに筒底の秘密を教えてくれるように頼むが、ピントは教える代わりに若狭を嫁にほしいという。
第6幕 1人途方にくれる若狭。そんなわかさを不憫に思う乳母。国のため殿のために若狭を手放さなければならない金兵衛と小四郎。葛藤の末、金兵衛と小四郎は若狭を諦めることを決意し若狭を説得する。4人は突然訪れた皮肉な定めを悲しく歌い上げる。
第7幕 神社の境内。小四郎は若狭を失った悲しみから逃れようと酒浸しになり、そのむなしい心情を訴える。そこへ完成した鉄砲をもった金兵衛現れる。一瞬正気を取り戻した小四郎は喜ぶ。村人や家臣たちも喜ぶ。しかし、この喜びの声とはうらはらに、鉄砲の代償として大切なものを失った小四郎は「若狭、若狭・・・」と悲痛な声を上げながら幕が下りる。
島を離れ、異国に嫁いだ若狭は次の句を残した。 月も日も 日本(やまと)の方ぞ なつかしや わが両親(ふた親)の あるとおもえば 若狭
写真:島に上陸した難破船の船乗りたちと村人たち もてなしのために舞う若狭 鉄砲伝来記念碑
* 鉄砲伝来と戦国時代 ……2006/02/19…
若干16歳の種子島島主、時尭は鉄砲の国産化を考え、苦心の末成功する。出来上がった鉄砲は、橘屋又三郎により堺へ、津田監物により根来寺へと、またたくまに全国へ広がり、やがて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と新しい日本の時代が生まれる。
写真:時尭公が購入した初伝銃
鉄砲購入と製作決意した16歳島主時尭像
* 夕あり朝あり ……2006/02/21…
旧約聖書創世記には「夕あり、朝あり。これ一日なりき。」という表現がある。日本人の考えだと朝に始まり夕べに終わるのであるが、旧約聖書の世界(つまりユダヤ人)では夕べに始まり朝を迎えるわけである。ユダヤ民族4千年の歴史の中でつねに迫害と苦難の道をたどり、いまなおパレスチナ問題を抱えているイスラエルには心から平安を味わうゆとりなどなく、いつも食うか食われるかの戦いの連続だった。しかも、大国の支配は逃れがたく、常に暗夜の不安を持ち続けた。だが、彼らは決してあきらめることなく「明日は今日より希望がある」と念じつつ忍耐と努力と希望の日々である。「夜は夜もすがらなき悲しんでも、朝とともに喜びがくる。」聖書詩篇
我々日本人もいつユダヤのような境遇に落ちるやも知れぬ。そのようなとき、「夕に始まり朝を迎える」思考習慣が必要になる。
「明日の来ない夜はない」吉川栄治 「雲の上は晴れている」犬飼道子 などの考え方もきっと同じだろうと思う。
写真左:冬の種子島西海岸の落日
写真右:冬の種子島の朝日*
* *神の創造・万事善** ……2006/02/22…
**神が創られたものはすべてよし**
創世記によれば、神は天地を創造し、その生き物と人を創ったとある。神の創造は天地においてひとつも無駄なものはなく、互いに関係しながら調和を保っている。天地のことはすべて調和に向かって進んでいる。
自然は調和のために風を起こし、雨を降らせ、岩を削る。人と自然。人と人が調和すれば即天国完成。
まず調和しなければならないのは人と神。人はアダム以来神に逆らってきた。まず自分が神との調和を図らなければならない。
写真:鹿児島県開聞岳遠望と九州最南端佐多岬
* 被造物是良哉* ……2006/02/22…
**1月の種子島の花木**
モッコク:夏は緑葉で茂っているが、1月ごろ実が真っ 赤に熟れて人の目を楽しませてくれる。実を食べに メジロやヒヨドリなどの渡り鳥が飛来し、この眺め もまた楽しい。写真左
南天:庭木の一種。のど等の薬用にも鳴る。渡り鳥も 好んで食する。
水仙:球根多年草。冬の庭を白や黄で飾ってくれる。 寒に強く霜枯れもない。花は優しく人の心を癒して くれる。
拙句 種子島ゆ 海超えて来し 水仙香
* 被造物是良哉 ……2006/02/22…
種子島1月の花木
韮科の花:野生の韮にかわいい花が咲き、通る人の目を引く。
桜島大根:鹿児島空港の足湯のところに飾ってありま した。湯に浸りながら、大きな大根を見るのも楽 しい。この大根食しておいしく。漬物は逸品。
菜の花:野生の菜の花がかわいくて。
* 被造物是良哉 ……2006/02/22…
子ども・高齢者そして私たち
こども:こどもは無限の可能性を秘めた神の作品。日 本を、世界をすばらしい天国に仕上げてくれるでし ょう。
高齢者:人生の荒波を乗り越え、酸いも甘いもわきま えた神の作品。子どもたちのよい指導者。提言者。 知恵袋。
私たち:働き盛り。建設者。調和者。感謝の日々を送 る者。自然と調和し、人と調和し、神と調和した い。
* 三度九江へ* ……2006/02/22…
2006年2月11日(土)天気晴
**三度目の九江へ旅**
鹿児島空港13時30分MU762便で上海へ。長沙で日本語の教鞭をとっている中原理恵さんも虹橋空港近くのホテルまでは一緒だったが、宿泊する場所が互いに違っていたので彼女とは同国際机場ホテルで別れた。夜は国際空港賓館に投宿する。
2006年2月12日(日)天気晴
**南昌から九江へ**
虹橋国際九江9:50分発MU6155便で南昌へ。機中の人となり、妻と九江のことを話していると、隣席の中国人がきれいな日本語で話しかけてこられた。名は興徳さんという人。われわれが日本語を話していたので、興味を示されたのだろう。聞くと、彼は1980年代に10年ほど筑波大学で学び、主にヒトゲノムの研究をされたとか。現在はカリフォールニア州のある大学で同様の研究を続けており、在籍は南昌大学だそうである。最先端技術に関与しておられる人であった。今回は、家族を加州におき、単身で母校の南昌大学へ1週間ほどの用件で帰国されるところだった。話しているうちに機は南昌空港へ無事着陸。興さんの研究室の職員が迎えにきていた。われわれ二人の九江までの足を心配してくださり、南昌の高速バス停まで車を回してくださった。迎えに来た秘書の女性が手際よく切符の手配をしてくれ、ほとんど待ち時間なく、高速バスに乗り込むことができた。あとは九江まで一直線。2時間足らずで、見慣れた九江の市街地にはいり、無事宿舎に到着したのは午後3時すぎであった。いつもなら教会へ行く日であったが、旅の途中で、礼拝行為ができなかった。ホテルで、車中で主の御名を賛美した。
写真:住み慣れた九江
写真2:雪景色 2月18日の夜は今年九江で3度目の雪だったそうだ。三度目と書いたのは、1,2度の雪のときは日本に帰省していて見ていないからである。朝起きると、大学キャンパス内が銀色一色。地元の人の話ではこの地でこんなに雪が多いのは珍しいということであった。そういえば、昨年11月26日はM5.7の地震もあったし、珍しいことずくめである。
* 九江の正月* ……2006/02/22…
**九江の正月**
九江はいたるところ春節気分
である。中国では正月のことを春節という。2006年度は陽暦1月29日が中国の正月。ここ中国では今も正月を陰暦で祝う習慣が今も続いている。陰暦は本来農耕と深い関りがあった。種まきの準備、種まき、施肥、刈取。これらの作業手順が陰暦の中に組み込まれている。日本でも田舎では今でも陰暦で正月を行うところもある。
さて、中国の正月は1日から15日間祝う。この間、家族が集まり、親交を深め、健康と家内安全を祈願する。特に15日目は白い団子を食べ、家族中が集まる。これが終わるとそれぞれ仕事に就く。
事実、買い物をしようにも、肝心の店が閉まっていて食料品などの買い物には不自由する。土地の人は心得たもので、歳末の間に必要なものすべてを調達し、二週間分保存しておく。魚や肉類は干物にして保存がきくようにする。
12日、隣の王先生が、よい日に帰ってきました。今晩煙水亭周辺で、大掛かりな花火大会があるので見に行きましょうと誘ってくださった。好奇心もはたらいて後学のため出かけることにした。煙水亭周辺はすべて車輌進入禁止となり、人人人でごった返しの有様。多くの警察官と軍服を着た兵士たちが警備にあたっていた。
定時に花火が上げられ始め、45分間不断の打ち上げである。大玉であり、夜空に広がる様は圧巻であるが、あまり変化がなくて、日本の花火のほうがきれいかなと思った。中国では何々節のつく日は花火と爆竹はつき物。都会地での爆竹は危険だからという理由で、最近禁止されていたが、住民の強い要望により、解禁になったとニュースで知った。
写真:正月気分の花文字・・春節という文字を花鉢で造形している。
写真中:警備のための兵士 開いているところは九江市の要人が通る道
写真右:ぼんぼり風の提灯がいたるところに下がっている
* 九江の正月* ……2006/02/22…
*九江の正月2*
写真:ごった返す花火見物人
写真中:警備中の兵士 空いたところを要人がとおる
写真右:夜空に開く花火
* 九江の正月* ……2006/02/22…
*九江の正月2*
写真:ごった返す花火見物人
写真中:警備中の兵士 空いたところを要人がとおる
写真右:夜空に開く花火
* *授業風景** ……2006/02/23…
**日本語学科生徒の授業**
日本語学科は小生が担当する生徒では1年生3学級計128名 2年生1学級38名を週8時間でこなすことになる。病気以外の欠席者はなく、すこぶる学習意欲旺盛な学生たちである。
今期からの授業はすべて本部キャンパスとなる。昨期までは師専校区といって九江市中心部に位置し、語学系中心のキャンパスが教場であったが、大学の機構改革により語学系は現在地に移転した。新教室は宿舎から徒歩20分。第五教学楼の6階である。階段は4階ぐらいで一休みしないと一気には上れない。自分では元気と信じているが、やはり年かなと思う。
会話の常用句は徹底的に暗記と繰り返しで身につけさせたい。授業の合間には日本から準備した日本の昔話を読み聞かせたり、童謡を歌ったりして気分転換も図りつつ、授業を面白いものにすべく工夫を凝らしている。
特集 九江学院一行の鹿児島訪問
* 鹿児島訪問* ……2006/04/09…
**九江学院一行の鹿児島訪問**
その一
九江学院は趙文傑副学院長を団長に、一向7名編成で、日中留学生交換というミッションを担い、鹿児島・大阪・東京の順に、約2週間の日本訪問。鹿児島は池田公榮の出身地であり、お手伝いのつもりで一向に同行した。
以下、鹿児島の交流や出会いを写真を交えて報告します。
一行名簿は次の通り
団長
趙文傑 九江学院副院長
斉清波 九江学院工学部長
劉 平 九江学院学生部長
張浦強 九江学院体育学部書記
張芸鳴 九江学院芸術学部助教授
鄒小平 九江学院語学系日本語学科教師
池田公榮 九江学院語学系日本語学科教師(随行)
一同は4月4日午後2時、南昌空港へ。上海到着は同日午後9時過ぎ。浦東国際空港近くの錦江之里ホテルに投宿。
4月5日中国東方航空MU761便にて12時10分、鹿児島国際空港着。空港では鹿児島市日中友好協会企画部長の大石ケイジ氏、もと長沙市大学でで教鞭をとられた竹下先生。中国と貿易をなさっている宮下隆雄氏、それに通訳、田君とあわせて5名の方が出迎えてくださる。
空港から、そのまま霧島へ。鹿児島は早朝は大雨だったそうで、河川が増水するほどであったが、午後はすっかり快復し、透明な晴天。雨上がりの錦江湾、桜島を霧島から遠望することが出来た。沿道の桜や景色、霧島神宮の落ち着いた雰囲気を味わう。
夕方、鹿児島市水族館を訪れ、珍しい魚介類を観察する。中国の人には興味深かったようだ。一同、しきりにカメラをまわす姿が見られた。
夜は、サンロイヤルホテルにチェックインし、天文館で純日本風の食事を摂る。イカの生き造りにはチョット苦手な人もいたようだ。「不要不要ブーヨンブーヨン」の発声があちこちから聞こえた。これも、文化初体験。最初は苦手でも、そのうち、おいしさにはまる人も出るだろう。
写真説明左:快晴の霧島展望台 中:神宮内のしだれ桜と趙団長 右:霧島神宮前にて
* 鹿児島訪問その2*大学訪問 ……2006/04/09…
2006年4月6日(木)
**鹿児島大学留学生センター訪問**
大学センター長の太嶋真紀師と顧問の小林基起教授が対応してくださる。
太嶋師から、鹿児島大学の留学生受け入れの実情についての説明があり、留学生全体の50%は中国からであることなど。日本から中国への留学は現在のところ大変少ない。折に触れ、奨励はしているとのことである。
小林教授は当日東京で会議がある予定を変更して九江学院一行に応対してくださった。感謝!
写真左:趙九江学院副院長と和田センター長(中)顧問小林基起教授(右)
写真中:鹿児島大学本部前で
写真右:九江学院芸術学院、張芸鳴助教授のピアノ演奏
* 鹿児島訪問その3 県・市表敬 ……2006/04/09…
**2006年4月6日(木)鹿児島市、鹿児島県表敬**
午後1時20分鹿児島市長表敬訪問。鹿児島市は胡南省長沙市と20年来の友好交流を深めている都市。したがって、日中友好関係には特別な配慮と関心が深い市。森博幸市長が表敬を受けてくださり、歓迎の意を表してくださる。趙団長も感謝の意を表し、日本の団塊の世代を迎えるに当たって、熟年留学制度を整備してお待ちしておりますと挨拶、九江学院と鹿児島との第一歩を踏み出した。今回の訪問についての事前交渉には鹿児島市国際交流課の内田氏が担当してくださった。
同日午後2時30分、鹿児島県庁を訪問する。知事を代理として国際交流課の橋口和宏課長が対応してくださり歓迎の言葉を述べてくださる。課長は歓迎の挨拶に加え、鑑真和尚にも触れ、753年、奈良へ昇るに当たって、まず、鹿児島の坊津に上陸されたことを話されると、団長の趙教授は「鑑真は九江の東林寺という浄土仏教寺院に寄留したこともあります。では鹿児島と九江は鑑真を通してもご縁がありますね。」ということで、和やかな会話が弾む。又、鹿児島には屋久島という国際自然遺産があり、九江には廬山という国際自然遺産があることも共通点。今後、交流が盛んになることを希望しますということだった。県には、同課の桜木孝久主事や賈春雪国際交流員に大変お世話になった。
写真説明
左:鹿児島市市長室にて。森博幸市長表敬訪問。
中:鹿児島県庁表敬訪問。
右:橋口和宏国際交流課長と趙団長
* 鹿児島訪問その4 晩餐会* ……2006/04/09…
**鹿児島県・市日中友好協会との晩餐会**
2006年4月6日(木)午後6時から、サンロイヤルホテルにおいて九江学院一行歓迎晩餐会が開催される。鹿児島県・市日中友好協会会長海江田順三郎氏、同副会長赤塚晴彦氏、同企画部長大石ケイジ氏、県国際交流課長橋口和宏氏、桜木孝久氏、ほか通訳をしてくれた中国人留学生3名が相集い、和やかな晩餐会が開かれた。
写真:晩餐会風景。
外は桜の満開の時期でそれこそ一行に花を添える。
写真前列:正面右から大石、海江田、団長、橋口、赤塚の各氏。前最左は筆者池田
* 訪問団スナップ ……2006/04/11…
九江学院一行の鹿児島体験スナップ集
説明
写真左:鹿児島県黎明館において、趙団長は日本の武将の鎧をまとい、すっかり指揮官になった。
写真中:桜の満開を過ぎ、鹿児島市内はいたるところつつじの開花が一行を歓迎した。
写真右:夜は天文館で食事を摂ったが、イカの活き造りに一同ちとびっくり。
大石:これは鹿児島の名物料理。ホラ、動いているよ。(とイカの刺身の足や頭部動いているのを指し示すと)
一同:これはイカ??ヲーブヨン(不要)とおっかなびっくり。団長はさすが、醤油とわさびを付けて口に入れる。勇気がありますね。
* 訪問団スナップ ……2006/04/11…
九江学院一行の鹿児島訪問団スナップ
写真説明
左:鹿児島大学キャンパスでは新入生対象に、いろいろなサークル活動の募集をしている。一行も新入学生とスナップに収まりました。
写真中:ドルフィンポートで櫻島を眺めながら足を湯に浸しリラックス。一同、足が軽くなったと大喜び。留学生の田さんは「足が棒になっていたが、元の足に返りました。」とジョークを飛ばしていた。
写真右:中国式武道サークルの団員募集
* 九江学院キャンパス ……2006/04/14…
施設紹介
管理棟
管理棟は正門から約300メートルの正面にある。まづ、目に飛び込むのは建学の辞とでもいうか、九江学院の教育モットーが刻まれた石壁がある。文字の内容は・・・
メイン管理等はそのすぐ奥に6階建てのビル。そのほか、会計管理棟とか、共産党支部とかがあるのはいかにも現中国らしい。
写真左:正門方向から管理棟方面を望んだ風景
写真右:管理棟側から正門方向を望んだ風景。向かって左側は院内病院ビル。
* 九江学院キャンパス ……2006/04/14…
図書館
図書館は5階建て。閲覧室、書庫、休憩室、談話室など学生が利用しやすい環境を提供している。
写真左:図書館正門前
写真中:閲覧・自習室
写真右:ホワイエ風の団欒室。読書ももちろんできる。
* 九江学院キャンパス ……2006/04/14…
**寮**
学生たちは原則全寮制である。だが、1年生は別として、2年生以上になると、自分で市中のアパートを借りて生活する生徒が多くなる。やはり、集団生活に向かないか人間関係に疲れた人だろう。彼らは、寮費とアパート代を2重に払う羽目になる。中国も一人っ子政策の現象が集団になじまない形で、こんなところにも現れ出したのだろう。
男子寮、女子寮が別棟で各々18棟。計35棟の建物がある。各棟は一室6名で各階204名。7階で1428名。その35倍だから約4万人の収容能力を持っている。
* 九江学院キャンパス ……2006/04/14…
**研究・実験・演習棟**
研究棟、演習棟には教授がいて、専門分野の研究実験を行っている。写真左・中
コンピューター室は別棟。広大な広さの専用室に2000台以上のパソコンを管理運営している。学生たちは自分のパソコンがなくても格安で利用できる。1時間の使用料は三角。10角は1元(約13円)。学院自体でサーバーを立ち上げている。土日などは生徒が一斉に使用するので、回線が混雑し、使用中によく途切れることがあって少し不満である。
写真右:学院のパソコンを使って練習や作業をしている学生たち。
* 九江学院キャンパス ……2006/04/14…
**教室**
教室は6階建てから12階建てまでの棟が8棟。学部ごとに表示があり、大体同学部あるいは同系統の学科がまとまっている。加えて実験室・実習室など。学生活動室も専用にあり。
廊下はタイル張りで、清潔感がある。雨の日などは滑る危険もあるので、「小心地滑」(滑り用心)という表示がある。空調の設備はコンピューター室のような特殊教室だけ。あとは扇風機があって、夏の暑さを凌いでいる。
写真左:第五教学楼の前。語学系は大体この教棟。
写真中:教室の内部
写真右:新築中の教室(医学部生徒増員のため)
* 九江学院キャンパス ……2006/04/14…
**食堂**
食堂は学生用食堂が第一から第五まであり、各食堂によってメニューが少しづつ異なる。経営者は外部から業者が入っていて、施設を借りて経営している。学生はおいしい食堂の情報を口コミでよく知っており、やはり、おいしい食堂にはいつもは入りが多い。金額はメニューによって異なるが学生が主に使用する金額は一食3から4元。この金額で買える食品は、豚饅頭と牛乳。チャーハンと吸い物。食パンと牛乳。ラーメン1杯程度。でも量が多いので、これでも満腹になる。学生一人当たりの食費は1ケ月400から500元。一日では15元以内に抑えている。
**職員専用食堂**
学生食堂と何処が違うのかなと思うほど、差はない。やはり値段の問題で、高級ななものは値が張る。教授や教官といえども、月2000元平均の給料で生活するわけだから、そう贅沢はできない。結婚して子供もいれば、教育費にも出費がかさむ。九江人の食生活はなかなか慎ましい。
写真左:食事を摂る学生たち。
写真中:第五食堂まであるので、五番目の表示を撮影貼り付ける。
写真左:メニューをみて買い求める風景
* 九江学院キャンパス ……2006/04/14…
体育施設
運動場3面、体育館2棟(うち1棟は江西省で一番規模が大きい)その他、バスケット、テニス、水泳施設など。
写真左:バスケットボール施設
写真中:江西省1を誇る体育館
写真右:諸球技施設
* 九江学院キャンパス ……2006/04/14…
**教育環境**
構内のいたるところに、教育意欲を刺激するため、古代から近代の敬慕すべき人物像や、謹言が描かれた石碑などがある。
写真左:物理学者・哲学者のニュートン像
写真中:学問の道を示す石碑(好学力行知耻)。とありる。耻は恥に同じ。学に励み、行にいそしみ、恥を知れでしょうか。その他、語句を列挙すれば・・・
写真右:中国古代の哲人孟子像。その他、孔子、老子をはじめ、ガリレオ、アインシュタイン像もある。全体で30体余。
* 九江学院キャンパス ……2006/04/14…
**メインキャンパス内の景観や活動**
写真左:構内にある診療施設
写真中:庭園の湖 学生たちの憩いの場。ときには恋人同士の語らいの場ともなる。
写真右:土日は近郊の子供たちが外国語を学びにくる。先生たちは快く応じている。
* 九江学院キャンパス ……2006/04/14…
**教職員住宅**
教職員2000名の九江学院は宿舎をキャンパス内に設け、職員の通勤の便に資している。宿舎にはABCとランク付けがある。教授たちの宿舎は教工三村といわれるところで五六十棟あり、庭付きで500㎡以上の建坪。
外教すなわち外国人教師たちの宿舎はBクラス。でも150㎡ぐらいの広さで、家電製品、寝具、厨房器具一切完備している。他はCクラスで、100㎡の広さ。家財道具の大部分は自分持ち。
家賃は払うが、市中のアパートよりは格安に設定されているという。
* 九江学院を総括すれば* ……2006/04/17…
**九江学院は四大学が統合されて今日に至る**
九江学院はメインキャンパス、師範専門学院、医学院、もうひとつの師範学院の四通が整理統合され、マンモス化したもの。
現在メインキャンパスと呼ばれる場所は九江市前進東路地区にあり、廬山に一番近い。ここは財政学部を基点とし、中国解放軍の経理学校としてスタートした。以後必要に応じて学部が増えている。メインキャンパスはその名のとおり、広さ、施設共に大きく、当学院の大部分をカバーしている。管理棟4、教室(5000名収容)8棟。実験・実習室4棟、コンピューター関連棟2、体育館2、運動場3、図書館1、学生寮38棟、学生食堂5、浴場1、理容・美容、コンビニ3、写真現像、増印、教師宿舎45棟、職員食堂2、講堂1、学内ホテル1、他に国際交流センター、病院、印刷所、社会人大学、廬山観光案内所などが整備されている。
写真左:九江学園正門。入り口両側には大きな獅子像が入門者を迎えている?(悪いやつは排除するの意かな?)
写真中央:管理棟前の見学の精神碑。競知向学 厚徳篤行 と記されている。知を競い学に親しみ、徳を厚くし行いを正すの意味でしょうか。
写真右;尋陽東路にある九江学院尋陽校区。筆者は2006年1月までこのキャンパスで教鞭をとる。
* 学生会活動* ……2006/04/24…
**日本文化の日**
2006・4・19日(水)九江学院学生活動室において、日本文化研究会主催の「日の韻桜祭」という行事が行われる。会は外国語科の学部長挨拶に始まり、カラオケ、踊り、はたまた日本人教師まで登壇させられて、挨拶したり、喉を鳴らした。また、コスチュ-ムクラブや漫才、寸劇クラブも競演し会を盛り上げた。
写真左:ゆかた姿で日本の踊りを披露*日本語学科生(
写真右:コスチュームクラブの競演(侍姿)
* 敬虔なキリスト者たち ……2006/04/26…
※※中国のクリスチャンたち※※
中国のキリスト教史は大きく二つに分けられる。最初は3,4世紀の景教と呼ばれた東回りキリスト教。教義問題で西方教会からは異端とされたが、伝道勢力は東進し、イラン・アフガン・絹の道を通り、中国長安(西安)に至る。以後一時期大いに勢力を伸ばすが、次第に道教・仏教の中に融合し、教会としての組織は失われる。しかし、仏教の中に、祈祷の習慣を持ち込むなどの影響は今日なお残している。(仏教はもともと悟りであって、祈る教義はなかった。)
次がヨーロッパ・アメリカ経由の西回りのキリスト教(日本)。15、6世紀の布教活動により、カトリック教会、プロテスタント教会とも競うように中国に伝道し(東進)、今日主要な都市には必ずといってよいほど教会があり、日曜礼拝は教会堂を埋め尽くしている。熱心さの点では、どちらかというと女性の方。聖書の中でも、マグダラのマリヤとか、ドルカスとか女性が教会で大きな役割を果たしているように、いずこの国も女性が熱心であるようだ。
写真左:礼拝終了後、講壇前にひざま付き、熱心に祈る婦人たち
写真右:公園の空き地で、行事打ち合わせのため集まった基督者たちはまず祈祷してから活動を開始。
**授業風景** ……2006/02/23…
**日本語学科生徒の授業**
日本語学科は小生が担当する生徒では1年生3学級計128名 2年生1学級38名を週8時間でこなすことになる。病気以外の欠席者はなく、すこぶる学習意欲旺盛な学生たちである。
今期からの授業はすべて本部キャンパスとなる。昨期までは師専校区といって九江市中心部に位置し、語学系中心のキャンパスが教場であったが、大学の機構改革により語学系は現在地に移転した。新教室は宿舎から徒歩20分。第五教学楼の6階である。階段は4階ぐらいで一休みしないと一気には上れない。自分では元気と信じているが、やはり年かなと思う。
会話の常用句は徹底的に暗記と繰り返しで身につけさせたい。授業の合間には日本から準備した日本の昔話を読み聞かせたり、童謡を歌ったりして気分転換も図りつつ、授業を面白いものにすべく工夫を凝らしている。
* 転居* ……2006/03/07…
**新住所紹介**
2月14日に九江学院本部住宅に移転した。学部の配置換えで、語学系は本部に移動したため、職員も住宅を移ることになった。新住居は白宮(バイコン)といわれるところで、国際交流課事務室と同棟の建物。拙宅に準備された部屋は303号室。約100㎡の広さ。給湯シャワー・トイレ洗面所。冷蔵庫・マイクロウェイブ調理器・ガスレンジ・電気釜・温給水設備つきの炊事場と食事室、寝室・応接室の構成。応接室にはテレビ・DVD再生システムが備わっている。
新住所:江西省九江市前進東路551
郵便番号:332005
* 夜間大学* ……2006/03/07…
2006年3月6日(月)天気晴
**今日から夜間学習始まる**
日本語専攻科以外の学生で、日本語を学びたい者が約40名程いるが、日本語を基礎から教えてくれないかとの申し入れが国際交流課からある。OKして引き受けることにした。学びたい人の役に立てることはすばらしいこと。最初の時間は紀珂嬢の通訳の助けを受けることにした。「いろは」の「い」から教える経験は始めてである。最初の印象では日本語学科の学生に劣らずまじめに学習に取り組んでいるのが印象的だった。
* 日中韓の若者に期待* ……2006/03/09…
**日韓中の文化交流について**
2006年3月8日付け朝日新聞に「越境する文化 互いに出会いを楽しもう」という 社説には概ね賛成出来る。昨今、日中韓のあいだで、メデア文化が往来し、「各国の青少年のあいだで、映画ばかりではなく、マンガやアニメ、テレビドラマ、ポップミュージック、ファッションといった身近な文化は国境を越えて行き交い、東アジアでは時を同じくして楽しめるようになった。」と現状を伝えている。
政治の世界では中韓は相変わらず靖国問題を取り上げ、中国・韓国との国交がうまくない。しかし、政治とは関係なく上記の文化が往来していることは喜ばしい。古くより現代まで、日中韓はその文化をとおして互恵関係を保持してきた事実があることを忘れてはならない。
九江学院で日本語が上手な学生は中高時代に日本のアニメや映画を見た人々であり、このような生徒たちは一様に日本びいきであり、いつか必ず日本へ行きたいとの希望をもっている。「出会いの場を増やし、時間と場所を共有する。そこで互いの文化を知る。そうすれば、新たなつながりが見えてくる。」と社説は結んでいる。
3月8日夜、学生祭りに備えて、日本の雛人形製作と相なった。指導は元幼稚園教師の妻久子。
* 長沙学院からお客さん* ……2006/03/12…
**日本語教師の中原理絵師**
3月10,11,12の三日間、長沙学院日本語科教師の中原理絵さんが男子学生を一人同伴して、九江学院を訪問した。中原師は昨年9月偶然鹿児島空港国際ターミナルで出合った人。彼女は長沙学院へ日本語の教師として旅立つところであった。こんなわけで、以後メールのやり取りをしていたが、今回当地訪問と相成った次第。はじめ、廬山に上る計画を立てていたが、あいにく雨で、おまけに視界がほとんど利かない濃霧であったため、やむなく予定を変更して湖口というところへ案内した。
ここは九江市より東北へバスで30分位の場所であり、長江(揚子江)と江南最大の鄱陽湖が出会うところ。有名な石鐘山を中心に案内する。山の上から湖や長江を眺め、古い建築物の回廊をめぐる。この山は全体が石灰石であり、天然の織りなる彫刻さながらの奇岩や絶壁を眺める。その特徴は、その名の通り、石が楽器のように音を出す。音をうまく組み合わせれば鉄筋や木琴なみに冴えた音が出る。
写真左:中原理絵師(右から2番目)を囲んで九江学院学生との交流。
写真中:石鐘山の山門口で,中原師(左より3番目)とその同行者たち。
硬いもので叩けば音がでる石。叩く場所で音変わる。
* 信教の自由* ……2006/03/15…
**中国教会の規制緩和実現**
2006年1月までの状況
中国政府がキリスト教会にたいしてとった政策は、建前は信教の自由であるとしながらも、政権に都合の悪い教義や活動に対しては断固取り締まる姿勢をとった。教会の組織を作り、その組織の中で、政府が管理しやすい形で集会を認めていた。これまでの、実情はカトリック教会が愛国教会として、プロテスタント教会が三自愛教会として組織され、それぞれにトップ(協議会議長)を置き管理した。原則として、一市一教会を公認しているようである。教会には時々公安職員が出席して、説教の内容をチェックしたりもしている。
その他、この組織に入らない集会(教会)は日本では「地下教会」・中国では「家庭教会」として政府無認可の集会を持ってきた。そして、特に北方の地下教会(旧満州や北朝鮮に近い省)は脱北者援助、幇助の咎で教職といわず信徒といわず拘束されたり、投獄されてきたのも事実である。欧米では信教の自由に対して中国は閉鎖的だと折りあるごとに批判してきたゆえんである。
2006年1月以降
ところが、2006年1月以降は家庭教会に対してもほぼ公認の方針が打ち出され、信徒たちは大喜びしている。九江市の三自愛教会のある役員は「自分は近いうちに、家庭教会へ移る。池田さんと会えるのも、今日が最後だろう。主の祝福を。」と話していた。(3月12日の礼拝前の挨拶で)このようなわけで、今後は一市一教会ではなく、各地域に教会が生まれ、拡大していくことだろう。
写真:九江の落日 日は沈み、また昇る。
**九江の環境汚染問題** ……2006/03/18…
**九江の排水問題**
九江の小河川は家庭排水が直接流れ込み、とても残念に思う。油もの食事が日常的な九江では油と他の汚水(洗濯排水、厨房排水)が混合して黄色な水となり、河川に流れ込む。民家の少ない山間の川は透明でとてもきれいなのに、下流はどの川もすごく汚れて、おまけにビニール袋があちこちに散在する。中国のビニール袋は赤・青・黄の原色だからとても目立つ。これらは、間違いなく長江に流れ込み下流の南京、上海を通過し、東シナ海に注ぐ。これらの汚染物質は海流に乗って日本近海にも届く。1998年の長江氾濫のときは鹿児島県西海岸は中国からの漂流物がたくさん海岸に打ち寄せられ、連日海岸掃除をした記憶がある。まったく中国大変・日本迷惑というところ。中国が川を汚染させない努力をしてくれたらどんなによい環境になることだろう。
**大気環境**
もうひとつの問題が大気問題。日増しに増え続ける自動車は大量の炭酸ガスを排出し、晴れた日でも空がどんより曇って見える。おまけに、質の悪い石炭を炊く工場群が郊外にあり、その煤煙が空をさえぎる。
**有害化学物質の排出**
日本で高度成長期の初期、化学物質の排出が河川や湾海に流れ込み、水俣病、イタイイタイ病など社会問題になったことを記憶している。中国は今、かっての日本と同じ環境にあるのでは。昨年末から今年1月にかけて、黒龍江省の有毒排水問題で生活水が使用できなくなった問題が報道された。同じ時期、広東省でも有毒排水問題が発生した。これらは河川の生物を汚染し、それらを生活の糧とする動植物も汚染物質が蓄積する。汚染されたものを直接間接に摂取する人や動物も当然有毒物質を摂取することになり、奇病の原因となる。これ、まさに高度成長病である。
中国のこれからは、環境汚染問題を解決しないことには13億人民の大不幸につながるばかりでなく、近隣諸国に対しても大きな迷惑をかけることになる。
写真:この写真は冬休みに帰省したとき、熊本市のある川を写したものである。浮遊物をフェンスでせきとめ、町内会のどなたかが回収して適当な処分をするための仕掛。人口密集地であっても、川の水は透明で、ごみが流れないように配慮する民間の人々の日常的な努力が伺える。
写真2:九江学園近辺の排水が小川に流れ込んでいるさま。ここで一気に川の色が黄色みを帯びる。
写真右 九江市から長江に直接排水が流れ出している。長江はその広範な支流から近隣の生活排水、工場排水等が流れ込み、東シナ海に注ぎ、海洋にまでその影響を及ぼすだろう。排水は、きれいにして流すことが環境保全の基本の基本。
* 佐藤先生一行を迎えて* ……2006/04/02…
3月26日から一週間、もと九江学院の日本語科教師の佐藤正子先生と東京の一行が学院を訪問してくださった。学院会議室で日本語学科の生徒たちおよそ150名が集まり交流を持った。
一行からいただいた日本人形や教科書に一同興味深々。
写真左:佐藤正子先生(右)と在九江時に親交のあった婦人。一同は九江学院の教え子たちを交えて廬山に登る。
写真右:学生と談笑する一行。
* 九江のお墓参り* ……2006/04/02…
写真左:九江解放軍病院敷地内の桜
この桜は年期ものである。九江の解放軍病院はもと日本の陸軍病院の延長である。1930年代にここ九江には日本の民間病院、同仁会病院と陸軍病院があり、自分も幼少の折、学校からこの病院へ慰問に行ったものである。そのとき、日本人が植えた桜が今も咲いている。樹齢も進み風格もある。同様に、武漢大学構内の桜も有名である。ここも、日本人が植えたというので、最近ネット上で賛否の議論がある。方や、日本人が植えた桜に見とれて喜ぶのはどんなものかという意見、方や、そんなに肩肘はらなくても素直に桜を愛でたらよい。という意見。桜には何の罪もない。しかし、戦争という現実が、同じ桜を見ても、傷を思い出すきっかけになりうることを証明している。
学院キャンパスにも今年になってからサクラの苗を植え、早くも花をつけた。写真右は九江学院正門通りの並木にさいたサクラ。
4月は清明節の季節。日本の彼岸・お盆に相当し、中国人はいっせいに墓参をする。
春分15日後。先祖の墓参をする日。春分から数えて15日後。24節気の一つ。掃墓節とも呼ばれ、祖先を敬い祭る行事が中国各地で行われる。古来より、春を迎え、家族で郊外に散策に行く習慣もあり、「踏青」とよばれている。(中国総合ガイドより)
又、この季節は、墓参が出火の原因になることもある。死者がお金に困らないようにと黄色い紙(紙幣・黄金の紙)を墓前で焼く習慣がある。折から、気流が起こり、火のついた紙が舞上がり、付近の枯れ草に着火する。つい先日も九江学院近くの墓地で家事が起こり、約5ヘクタールの山を焼いた。墓前でお金に見立て紙を焼く習慣、もともと仏教の習慣ではなく、中国古来の道教から引き継いだものと思われる。それにしても、自然破壊につながる習慣はご先祖も喜ばないだろうに。
写真 墓の規模というか、金をかけた順というか、墓にも格差がある。銘碑だけのもの。屋根つきのものなど、経済力に応じて墓も仕上がっている。
銘碑もない墓にも、造花だけはささげられている。自分は豪華な墓より、こんな名もない墓に親しみを覚える
* 九江の4月の花* ……2006/04/02…
九江の甘棠湖と九江学院キャンパスにはサクラが咲いた。学院の桜は移植したばかりで、1メートルそこそのの高さに、花だけは精一杯咲いた。甘棠湖の桜は少し年齢がいっているが、これもせいぜい10年ぐらいの樹齢。1930年代に、日本人が植えた旧陸軍病院内のサクラは樹齢も進み、見事である
サクラはやはり日本。日本の桜前線は日増しに北上のことであろう。
**泡桐**
日本では桐は見かけるが、泡桐は見ない。学名はPaulonia玄参科Scrophulariaceaeに属し、花は花美供庭園現賞(つまり観賞用の意)、木は木材是家庭的良材(家具財の意)花は百合の花に似ており芳香を放ち、癒される香りでとても心地よい。木は家具材になるほどであるから、年々大きくなる。キャンパス内の木でも大きいのは直径50cmほど。桐という名がついているので日本の桐に似ているのかもしれない。桐ダンスと言えば日本では高級品である。
写真右:泡桐の近影。木は直径30センチ以上のものもあり、遠くから眺めると、満開のサクラのようにも見える。花の色は白、薄紫もある。
* 九江学院生徒のあれこれ* ……2006/04/02…
学生の生活、主に衣食住と学生生活について写真入で報告します。後ほど
* 九江のサクラ ……2006/04/02…
写真左:九江解放軍病院敷地内の桜
この桜は年期ものである。九江の解放軍病院はもと日本の陸軍病院の延長である。1930年代にここ九江には日本の民間病院、同仁会病院と陸軍病院があり、自分も幼少の折、学校からこの病院へ慰問に行ったものである。そのとき、日本人が植えた桜が今も咲いている。樹齢も進み風格もある。同様に、武漢大学構内の桜も有名である。ここも、日本人が植えたというので、最近ネット上で賛否の議論がある。方や、日本人が植えた桜に見とれて喜ぶのはどんなものかという意見、方や、そんなに肩肘はらなくても素直に桜を愛でたらよい。という意見。桜には何の罪もない。しかし、戦争という現実が、同じ桜を見ても、傷を思い出すきっかけになりうることを証明している。
学院キャンパスにも今年になってからサクラの苗を植え、早くも花をつけた。写真右は九江学院正門通りの並木にさいたサクラ。
中国の墓の研究 ……2006/04/14…
* 中国の墓の研究(2) ……2006/04/14…
* 学生会活動* ……2006/04/24…
**日本文化の日**
2006・4・19日(水)九江学院学生活動室において、日本文化研究会主催の「日の韻桜祭」という行事が行われる。会は外国語科の学部長挨拶に始まり、カラオケ、踊り、はたまた日本人教師まで登壇させられて、挨拶したり、喉を鳴らした。また、コスチュ-ムクラブや漫才、寸劇クラブも競演し会を盛り上げた。
写真左:ゆかた姿で日本の踊りを披露*日本語学科生(
写真右:コスチュームクラブの競演(侍姿
* 孫九江へ※出迎え ……2006/05/08…
2006年4月28日(金)晴れ
**上海へ**
孫を迎えるために夜行バスで上海へ。全席、寝台車になっていて、走行時間9時間半、九江20時発、上海5時30分。これだと日本への往来時にも使える。朝の6時代に着けば、以後浦東国際空港発、日本のどの時間にも十分間に合うので、ホテル代が節約できる。乗り心地も快適。バスは予定通り上海駅の近くに着く。鹿児島―上海便まで十分時間があるので、まずは帰りのバス席を注文したが、既に売り切れとの事。現在のところ、往復券を発行してくれない。どうしてそうなのか、いまひとつ理解できない。それだけ、旅行計画には不確実性が伴う。現在の通信技術において往復切符の発券ができないとは一つのミステリーである。そういえば、発券はコンピューターで打ち出すが、計算はそろばんでやっていたので変だと思った。無いものは仕方がないので汽車(中国では火車)の寝台つきを買うため駅に直行した。幸い、3席手に入ったが、席は三者三様、幸い同じ車両であったことに安堵。ただし、17時間の長旅と相成った。
2006年4月29日(土)晴れ
**浦東国際空港へ孫たちを迎える**
午後2時30分、孫2人無事到着。出迎え口で、種子島の寺田氏に会う。彼は石材業を営んでおり、原石や半製品を中国から輸入しているので、よく中国出張がある。保護司でもあり、自分も保護司を拝命していたときの同志。久しぶりの出会いに感謝。
孫2人を連れ、浦東空港より上海中心部へ移動、上海駅(上海火車站)周辺でマクドナルドのセットを注文し夕食とする。18時25分の南昌行寝台車に乗る。南昌到着は翌朝11時前。ちと、時間がかかりすぎ。南昌で昼食を摂り、南昌からはバスで九江へ。宿舎到着は午後2時半。
料金を比較してみる。バスは乗車券が197元。保険料が3元で計200元。列車は同様に乗車券寝台券共に200元。南昌から九江のバスが40元なので、結局寝台バスのほうが安く、乗車時間も短い。これでは、バスに軍配が上がる。中国の列車利用も、やがてかっての日本の国鉄並みになり早晩大改革が必要になるのではと、よそごとながら、余計なな心配かな。
孫の名前と年齢は次の通り
圖師光基(14歳)ほやほやの高校1年生。圖師俊和・愛の長男(愛は池田公榮の2女)
圖師拓海(12歳)中学2年生
2006年4月30日(日)晴れ
**孫たちを迎える**
午後2時半。九江学院宿舎に落ち着く。4時過ぎには、学生たちがやってきて孫たちの相手。最初は多少戸惑った感じであったが、やがて慣れてくると、日本語がわかる学生だというので、緊張も取れ、会話が弾む。以後はゲームをしたり、学院キャンパスを案内してもらったりですっかり打ち解けた。
今日の聖日礼拝は、以上のわけで欠席した。欠席はしても、キリスト者の祈りと瞑想、賛美は何処ででも、どんな状況の元でもできるのでありがたい。「インマヌエル主われらと共に居ます。」である。
写真左:上海外灘地域を歩く
写真中:上海駅。九江は此処から寝台車で17時間のところ。
写真右:孫の拓海はなぜかアインシュタイン像の前に立った。
孫:九江の経験 ……2006/05/08…
2006年5月1日(月)晴れ
**孫たちと**
まず、九江学院のキャンパスを見学する。日本語科の生徒数名が同行してくれてキャンパス内の総ての施設をめぐった。総ての施設を巡るのにほぼ1日を費やした。孫たちが将来中国留学をしたいときの選択肢の一助となることだろう。
**中国のメーデー(労働節)**
中国では3日間のメーデー休暇があり、ゴーデンウィークと呼ばれている。日本のGWはみどりの日、憲法記念日、こどもの日と複合の祝日が重なっての連休であるが、中国は原則1日から3日までの祝日休暇。学院は特に木、金の授業を前週の土、日に振り替えて連続1週間の休みとなる。生徒も教師もこの間を利用し、帰省したり、国内旅行をしたりする機会としている。今年のGWは天候に恵まれ、みなよい1週を過ごしたことであろう。
2006年5月2日(火)晴れ
**孫たちと**
九江市内見物。タクシーなど使わずに、庶民と同じバスを使う。市内だったら距離に関係なく何処までも1元。煙水亭、甘棠湖、南湖、長江、長江大橋、歩行街、カトリック教会、九江市中心幼児園(妻がボランテアしている幼稚園)、旧師範専門学校あと(1月まで教鞭をとった場所)などを、巡りながら説明を加える。
昼食は甘棠湖近くのレストランでバイキング食を取る。唐辛子が利いた辛いものが多くて孫たちの口には合わなかったようだ。中国の食文化に触れて、実体験を積んだことに成る。辛いものも慣れてくると、辛さなしでは物足りなくなるものである。
カトリック教会では役員(デアコノス)の方が対応してくれて、しばらく会堂を見学させてもらい、短い祈りをする。最近、神父が交代されたとか。現在81歳の老神父がミサを執り行っておられるとの事。最近、此の教会へは、家庭教会や地方の小さな教会へ行くようになってからしばらく出席していなかった。かの役員氏、大変喜びの笑みを浮かべ、「あなたたちは、主にあって兄弟です」といって歓待してくださった。
2006年5月3日(水)晴れ
**孫たちと蕨採り**
中国の山野も歩かせたいと、蕨のある山にピクニック。学生たちも3人同行し、いい汗を流す。汗が出るほど気温が上がり、初夏の様相。途中には黄色い木苺や赤い山苺がある。山野の小鳥や小動物にとっては、これら木の実は格好の常食であろう。小鳥たちには横取りするようで気の毒だが、われわれもついばん食べながら散策する。また、道端には野生のバラがさいていてとても心和ませてくれる。他の植物と共生しながら咲いているバラは、つい、人の足を止めさせる。日本だったら、こんなバラも結構花屋の鉢物や切花になって商品になるはず。
歩きながら自然の恵みを感じることは孫たちにとってもとても大事なことだと思う。自然を愛でる気持ちが醸成されて始めて自然を大切にし、護る意識を高めることになるだろう。いよいよ蕨が生えている場所に着く。日差しがかなり厳しく、暑かったが、みんな楽しみながら蕨を取った。これも自然の恵み。私は蕨の採り方、食べ方を昭和16年代に祖父から学んだ。今、祖父がしたことを孫に伝える喜びを感じる。自然と調和しながら、恵みにも与る。この知恵を子々孫々に伝える必要があると日ごろ感じていたことが今日実現したからだ。
持ち帰った蕨はアク抜きをし、一部は野菜炒めに、一部はモロヘイヤ風スープに、一部は漬物にし、日本の孫の親たちに土産物とした。参加した学生の中には始めて食べる者も居て、新しい発見をしたはずである。
午後は、学生を交え、トランプゲームを楽しむ。ゲームの効力は心を開かせることにある。互いに忌憚無く物が言える雰囲気が生まれる。
写真左:メインキャンパス事務局の石碑前で「敢為天下先難得大説明(天下の説明し難きことに先ず敢えて為す) 李鉄映」と建学の辞が彫られている。
写真中:孫を連れて蕨摂り。食べることのできる山菜を実体験させたくて。
写真右:図書館前で学生たちと。
2006年5月4日(木)晴れ
**上海へ帰途の旅**
さきの蕨の漬物を土産に持たせ、午後20時長距離バスにて九江を発つ。学生たちが5名バスセンターまで見送ってくれる。明日は上海。市内見物を計画している。よい天候に恵まれればよいがと思いつつ、いつしか眠りに着く。
2006年5月5日(金)晴れ
**上海市内見物**
目覚めると、はや、上海長距離バスセンター。目覚めて爽快な気分。そして、思う。眠ることは人間にとって、生物にとってとても必要なこと。よく眠れることが健康の証だと。
駅の手荷物預かり所に荷物を預ける。「1日か?」と聞いたので「対そうだ」というと、1個15元前払いで請求された。駅周辺ではこの種の商売が結構いいだろうなと思う。一日100個づつ預かると1500元、これは1日だけで、中国の平均的月収を上回る等々と、とらぬ狸の皮算用をする。
その後は、家内手製のサンドイッチと紅茶で公園広場の椅子に座って朝食。孫たちもバス旅行で空腹になっていたと見え、ペロリ。
さて、朝食後は地下鉄で人民広場へ行く。此処は上海市の中心部であり、市役所、博物館、芸術劇場、緑地公園などが集まるところ。まずは上海展示館を見る。上海の過去、現在の移り変わりや、上海の将来像などが写真、パネル、AV(オーデオーヴィジル)などで説明されていた。2010年の上海博覧会にむけての準備を進める姿があちこちで見られた。
少し距離はあったが徒歩で外灘公園へ。ここも上海の観光スポット。旧上海の町並みを今に残し、どこかヨーロッパ風の建物群が異国風を感じさせる。外灘公園は長江本流につながる黄浦江に面してあり、対岸に高層建物群が乱立している。この黄浦江は上海の良港として昔から栄え、昭和初期には世界の客船が此の港に着岸したものである。地図でみるとどうも入り江であった部分を上手く港湾化した運河ではないかと思量される。
次は豫園。明・清代の建物群が今に残り、上海でもっとも観光客が集まるところ。ここでレストランに入り食事を摂る。だが、食べ物は最高に不味いところ。上海で何十回も食事をしたことがあるがだだの一回もおいしいと思ったことが無い。淡白で、どうも腑抜けの味。日本人は少しから口なのか、塩で少し加減しないと口に合わない。五星級のホテルにしても同様。金の価値を満たしていないと思う。まず、水が最高に悪い。その悪い水で調理した食がおいしいはずが無い。
豫園では思いがけず九江学院の英語教師Mrアーサーに出会った。ご兄弟の来中とかで、一緒に休暇旅行との事。さきの浦東空港の寺田氏といい、偶然・ばったりとはあるものだとひとり感心する。
相当歩いて疲れたので早めのチェックイン。午後4時には駅の一時預り所から荷物を受けだし、予約していたホテルに。此処は三星級ぐらいだろうか。でも20階建てのホテルで少し古びた感じはしたが、蘇州川のほとりにあり、上海駅や長距離バスセンターの近くなので、行動に便利である。上海観光がなければホテルなしでもよかったのだが、孫たちにとっては上海は最初の経験。宿泊を含めた観光は必要であった。だが、此のホテル、食事場が改装中で、近くのレストランで摂ってくれとのこと。やれやれということで、洋風レストランに入る。日中晴れていた空が曇り、いつしか小雨がぱらついていた。傘なしで、少し濡れたが、たいしたことではなかった。
さて、メニューをみて牛のビーフ、鳥の毛羽焼き、チャーハン等注文。一応、スプーンにフォーク、ナフキン付の完全洋風タイプ。孫たちは不味いといいながらもの残さず食べたのでよかった。残すことは自分らの年頃にはもったいなくて気になる。3人で〆て150元(日本円で2200円ぐらい)。此の値段、日本ではそんなものかと思うが、中国人にとっては22000円ぐらいを張り込んだ感覚となる。もちろん、中国13億人のうちの7000万人は日本の富豪より金持ちだそうで、上海は片や高級ブランド品、輸入された高級食材で裕福な生活をしているが、90%以上の人はそんなの高嶺の花で、一食2元3元の世界で過ごしている。
明日は早いので、午後9時には消灯。眠りに着く。眠りは最高のご馳走。一日の疲れを癒し、時を短縮し、心に残る夢までも提供するのが眠りである。「イエス様も眠いときは寝なさい」といわれた。眠ることは人生で食べることと同じく高の神の恵みである。
2006年5月6日(土)雨
**孫を見送る**
朝5時半起床。途中の万が一のことを考え1時間余裕を持って行動する。孫たちにも、計画、行動は常に余裕を持つべき事を身をもって教えたかった。チェックアウトを済まし、タクシーでリムジンバス発着所へ。しばらくして、6時始発のバスが到着。一路浦東国際空港へ。浦東空港は目下第二ターミナルビルの建設中で、アジア第一の輸送処理能力をもつ空港に成長することであろう。
空港レストランで朝食を摂る。サンドイッチとウーロン茶の注文2人分。140元(2100日円)。孫たちはペロリト平らげてくれた。約1時間前に出発ゲートへ。此処をくぐると、引率者はこれ以上入れない。ここで孫たちに各自、パスポート、出国カード、チケットを確認させ、「はい、此処でお別れだよ。さっき、言ったことを守りながら、一人ひとりトリパスポ-トのチェックを受けるんだよ。そのあとは、36番ゲートだよ。タラップでなくて、バスで飛行機まで運ぶんだから、注意してね。」とこまごま教える。孫は緊張したのだろうか。それとも、くどいなと思ったのだろうか。確かめる間もなく、手を振ってゲートのかなたへ消えた。
自分は孫たちと別れ、再びリムジンバスで上海市内へ。今朝チェックアウトしたホテルヘ。疲れを癒すために、長距離で九江へ帰るバスの出発間際まで仮眠することにした。ホテルに着く頃、次女の愛から電話が入り、孫たち無事鹿児島空港へ到着したとの事である。神に感謝!それにしても、空のたびは早いと思う。孫を見送り、バスで空港から市内まで走ってしばらくしてる間に上海から鹿児島に着くのだから。早い分、自然や環境を少しづつ蝕んでいるのかなとこれまた複雑な気持ち。
これで、孫を中国へ呼んだ爺さんの役目が全部終わった。あとは、彼らが、中国に抱いた印象、中国の学生たちと交わった経験、中国の教会で出会ったクリスチャンの印象などを整理し、将来に備えてくれることを期待する。願わくは、中国に学び、中国語をマスターして、日中を舞台に、日中共繁の成果を上げてほしい。
午後6時、ホテルをチェックアウトし、軽い食事を摂って午後7時30分、九江行き長距離バスに乗り込む。ここでもまた九江の教会でいつも礼拝を共にしている信徒の親子にぱったり。彼女たちも帰途のためだとか。はからずも隣同士の席であった。バスが動き出すと、程よい揺れに何時しか眠りに着いた。
写真左:出発前に九江学院のつるバラの前で
写真中:預園で 此処では世界中の言葉が飛び交う
写真右:路地で羊肉の串焼きを売っていた。上海で食べたものではこれが一番美味かった。一串2元
* 孫送迎事業終了 ……2006/05/08…
2006年5月7日(日)晴れ
**九江着**
午前6時前バスは長江大橋を渡り、まもなく九江バスセンターに着いた。空はすっかり明けていたが、昼間の九江市とは思えぬほど人がまばらで、こんな静かな早朝の風景は始めてみた。街全体がまだ眠っている感じだ。一番市バスに乗り九江学院キャンパスに着く。7時前の帰宅である。これで、一連の孫送迎事業は終わる。神に感謝!
写真左:孫たちと上海で記念写真
写真中:此の銅像、なぜか大作曲家バッハのもの。バッハと上海はどんなことで結びつくのかな?
写真右:宿泊した宮宵ホテルの周辺景色
* 上海の光と影 ……2006/05/08…
富の追及とバベルの塔
**上海の光と影**
上海は人口においてニューヨークに次ぐ大都市。東京は3番目。大都市には必ずといってよいほど光と影の部分がある。
上海の光の部分は経済的発展であろう。何万年の間に長江下流に形成された広大な洲には、所狭しと高層ビルが建ち、世界の主要国が中国との合弁会社、支社、支店、駐在所を置き、盛んに経済活動を行う中国経済の中心地である。建物、ファッション、住宅など眼を見張るものがある。また、くもの巣のように張りめぐらされた近代道路網は将来の発展性や効率性をアピールし、いやがうえにも世界の目を引くようである。
影の部分はどうだろう。貧富の差、道徳の退廃、スラム化、犯罪多発などのであろう。だから安心して道も歩けない。貧富の差は特に上海では大きいと聞く。高額所得のものが約8%ぐらいいて、生活も豪華。子弟の教育にも金をかけて外国有名校に留学させる。彼ら持てるものは益々豊かになり、持たざるものはその持てるものまで失う社会である。あとの90%は貧困層である。貧困層の者たちがいつまで格差社会に我慢できるか。我慢の限界を超えるとき、中国には暴動、騒乱が起きるかもしれない。
道徳の退廃も然り。小さな例だが、上海駅から宮宵ホテルまでタクシーを利用しようと頼むと、40元と言う。いつもタクシーを使い慣れたものにとっては割高感がある。実際は10元なのだが、40元と吹っかけてくる。反射的に「不用ブヨー」我出た。
また、豫園などの観光地の土産物は値があって無きが如し。2倍吹っかけは当たり前。慣れない人は余計な買い物をさせられることになる。いわゆる1発屋式商法である。
これでは、上海の魅力は無くなる。上海は一回行けばよいところかもしれない。少なくとも自分にとっては上海に何回も行きたいとは思わない。水は悪いし、食は不味いし、人は信じられない。これだけでも上海の魅力はうせるというものだ。リピート訪問なんて真っ平である。
上海はバベルの塔さながらの都市だと思う。旧約聖書創世記に人々が協力してバベルの塔を築き、人間の力で神の高さにまで到達できるとして高い塔を築いた。神はその塔をいとも簡単に破壊し、民の言語を乱された。以後、人々は言葉が通じなくなり多くの民族に分かれたと記している。上海は経済発展という一事にのみ眼がくらみ、伸びきってはじけるバブル現象を呈するのもそう遠くはないといわれている。
専門家の上海評は2010年の上海博を期に経済変動が起きると予測している。
上海の高層建築群もまた脅威である。地震はないとの前提で建てられているようだが、いつか地震は必ずある。地球が動いており、地底が流れているわけだから、造山運動などがあるはず。地震がきたら、関東大震災の比ではなかろう。怖い!怖い!
以上は上海だけに限られたことではない。ニューヨーク、東京、パリ、ロンドンでも同様な現象が起こるだろう。パリなどつい先日、雇用格差の問題で大きなデモがあったばかりである。
限度を超えたものには必ず歪が生ずる。総てはバランスを考慮して、「程ほどに」がよいのであろう。
池田公榮上海で感じたこと 2006・5・6
写真左:上海駅前広場には野宿するひともかなりいる。
写真中:昼間の駅前広場は多くの人の出入りで賑あう。
写真右:ビルの奥には一見してスラムと解る場所もある。
* 孫帰途につく(上海見物) ……2006/05/08…
* 家庭教会(地下教会) ……2006/05/09…
**日曜家庭礼拝**
8時朝食を済ませ、妻と家庭教会へ。此の教会は以前出席したことのある教会。
まず、「家庭教会とは」についてまとめてみる。日本では地下教会などといわれ、一般の教会と区別している。文化大革命当時は仏教といわず、キリスト教会といわず、宗教そのものを非科学的だということで迫害の対象にしたことは確か。文革後、中国は政府の示す宗教政策にのっとり、政府が認めるものとして二つの組織をつくり統括するように命じた。一つがカトリック教会の「愛国教会」、もう一つがプロテスタント系の「三自愛基督教会」である。ところが、此の二つの組織に入らない教会も実際には存在した。彼らは家庭集会として、非合法を覚悟で細々と礼拝を守ったわけである。
家庭教会の存続理由に二つがある。一つは地理的理由。政府は一市一教会主義であったため、教会までに距離がある地域に住んでいるキリスト者は教会への足が無かったりで、自然と家庭で礼拝を守った。他の理由は教義的理由。特に聖霊派の教会は政府の通達違反を知りながらあえて独自の礼拝活動を続ける決断をした。幸いなことに、2006年1月より、信教の自由の拡大解釈が政府から示され、家庭教会も認められる方向となった。しかし、東北地方は北朝鮮の脱北者を援助したり匿ったりするケースがあり、中朝間の政治的利害から、時々、脱北者を援助する教会の指導者が拘束されることは今でもあると聞く。中国は、外交儀礼として、時々北朝鮮に対するゼスチャーとして脱北者を匿った教会指導者を拘束するが、拘束してもすぐ開放するようだ。教会は武力革命とか、中国政府の当面の政策を妨害するものではなく、却って、教会を認めることが西側への信教の自由の実践者であることをアッピールすることになる。今、順風が吹き始めたとこころ。
今日、政府公認の教会信徒数はカトリック800万人、プロテスタント系1200万人としているが、教会独自の統計では愛国教会1200万人、三自愛教会2000万人、家庭集会5000万人以上としている。約1億人いるだろうとも言われている。願わくは神が中国の民を特に省み、信教の完全自由を達成できる道の開かれんことを。
今日の家庭礼拝は出席者約20名。集合住宅地の4階。プラスチック製の簡単なイスと小さな講壇が一つ。賛美を歌い、導かれるままに立ち上がって祈り、召命を感じたものが立ち上がって講壇へ進み、聖書を読んで所見を述べる。
第1人目の兄弟の証
聖書詩篇133:1節、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」兄弟(基督信徒を意味する)がともに礼拝で神を賛美している姿はなんと大きな恵みであり喜びであろうかの意。
122編3節「エルサレム、都として建てられた町。・・・」エルサレムは神の国完成の雛形の意。
第2人目の兄弟の証
ヘブライ書11章8-13「信仰によって、・・死んだも同様の一人の人から、空の星のように・・・多くの子孫が生まれたのです」参照創世記22章死んだも同全のおいたる100歳のアブラハムにイサクという世継ぎが生まれる。常識を破ってでも、神は約束されたことは必ず実現されるの意。
第1の証人は神の国の完成を望む信仰を表明し、第2の証人は信仰による実現は確かなものということで、アブラハムの信仰例を証言する。
* 母の日に寄せて ……2006/05/15…
2006年母の日に寄せて
私の母たち
私には四人の母がいる。いや、六人である。私はなんと果報者だろう。世には一人の母しか持たないものが多いのに、6人もの母に恵まれるとは。以下、各々の母について記録する。
最初の母、芳江(よしえ)
熊本県川尻、河北家のひと。父と結婚し朝鮮元山に赴く。公榮を出産し、公榮の生後100日を祝う写真を撮影に写真館に行ったとき、風邪に罹り、それが原因で死亡。生母の面影や記憶は全然ない。母の婚前の写真が手元にあるだけである。だが、公榮に命を与えてくれたのは此の母である。感謝しなければならない。
2番目の母 くに子。
昭和9年武明と結婚。たしか従妹同士の結婚と聞く。弟清久誕生。脊髄カリエスを患い死亡。メガネの似合う美女で、優しい母だった。悲しいかな、親子ともども昭和16年前後して他界した。清久は九江で。母は天草河浦で。
3番目の母ハルエ
熊本県砥用の出身。昭和14年父武明と結婚。一男一女をもうける。ハルエ母、父武明、弟清久、公榮の四名は昭和14年10月から昭和16年12月まで九江同仁会病院の宿舎で暮らす。公榮は九江で小学1年生と2年生の半ばまで過ごす。だが腸パラチフスという疫病に罹り、昭和16年12月長崎県小浜町諏訪の池の祖父のもとへ引き揚げた。弟畯平も同時に引き揚げ、弟は熊本県砥用の上田永松(ハルエの父)祖父に引き取られた。不幸なことに、父武明は肺結核を患い、再起不能の死地をさまようとき、親戚の反対に会い、離婚となった。その後ハルエ母はかって身に付けた養蚕産業の専門性を活かし、県の指導員となり、定年まで勤務して、畯平、カジ子の養育に当たる。2006年3月2日午後4時過ぎ逝去。行年88歳。3月9日で89歳となるところだった。2006年1月病院に見舞ったのが最後となった。葬儀にも九江からは間に合わず、親不孝をした。
ハルエ母の思い出
九江の2年間の生活でいまなお忘れられない思い出がある。母は勝気な気質だった。今にして思えば23歳で武明の妻となり、公榮、清久という先妻の子どもを養育しながら、家事万端をこなした。着物類は一切手造りであつらえてくれた。和裁もよくこなし、自分の着物も自分で気に入ったように仕立てた。味噌も自分で作った。公榮には音楽の指導をよくしてくれて、階名唱なども習った。おかげで、楽譜をみて新曲でも歌えるようになった。宿題のチェックもよくしてくれた。遠足の時には特別ご馳走をこしらえ持たせてくれて、学級の仲間がうらやむほどであった。秋には草原でバッタを捕まえて遊んだりもした。そんなときの母はまるで少女のようであった。
最後の母澄江のこと
四番目の母となった人は澄江である。澄江は鹿児島県川内の人。昭和20年前後熊本市で病院看護をしていた。今日で言うなら、訪問介護士のような仕事。そのとき、父は澄江の看護を受けながら、死地をさまよい、闘病に明け暮れていた。親戚一同も、上田家の皆さんも、武明はとっくに死亡したものと了解していたはずである。ところが、澄江の献身的看護のお陰で九死に一生を得た。当時、父のことを「いり豆に花」と表現されたものである。いり豆とは煎った豆、即ち絶対発芽しない豆のこと。それが生命を吹き返して花が咲いた、というわけである。
戦後は澄江、武明、公榮の3名が一家をなし、一時熊本県上益城郡小峰(現在の蘇陽町)に薪炭を焼く会社の社員として勤務したが、病気上がりの父がそんな肉体労働に向くはずがない。結局昭和24年には澄江の故郷鹿児島県川内に厄介になることになった。以後24年間、家計の切り盛りをしたのがこの母であった。澄江は男に負けない気性で、どんな困難にも立ち向かい、粘りで困難を解決した。また、学歴はなかったが、智慧と積極性があった。生きる力を備えていて、食糧難、金銭難すべてを解決した。自身よく働き、家の修繕ぐらいは朝飯前であった。かくて、澄江は昭和46年肺がんに犯され、川内の病院で他界した。そのとき、看病に行ったのは妻久子であった。一番世話になった公榮は種子島で仕事の都合とはいえ、看病もしてやれない親不者であった。このことは天国で再会したとき、重々お詫びしたいと思っている。
5番目の母デットモア女史
霊的母親。公榮をキリスト信仰に導き、大阪の神学校へ送ってくれた人。彼女は1945年代、中国は雲南省リース族の間で夫とともに宣教活動をなし、成功するも、夫は現地でチフスに罹り死亡、D女史は共産政権に追われ、一人娘ジャネットとともにチベット越えで中国を脱出し、以後鹿児島で昭和28年から33年まで伝道した人。6年前にすでに他界されたが、その働きは一人娘のジャネット夫妻がタイを基点に今なお宣教を引き継いでいる。
D師との出会いなかりせば、公榮の人生はもっとかわったものになっていたであろう。現在よりはるかな無味乾燥な人生にだ。そんなわけで、D師は公榮の霊的な母。
最後のそして永遠の母
イエス・キリスト様
第六番目の母はイエス・キリストさまである。キリスト様は男性として地上に来られた。その生き方は子を守る献身的母親のそれに似ており、そんなわけで母性的イエスさまといいたい。この方は、私が生まれる前から私を導き、私の罪のために十字架に架ってくださった。おかげで、天地創造の神の前に罪なき者として受け入れてくださる約束を得た。今はこの約束をひたすら信じ、地上の旅を全うしたいと思っている。この方は、どの母にも勝って公榮を大切にし、ずっと共に歩いてくださる永遠の母である。
「母君に勝る愛や世にある」賛美歌の一節である。
終わりに、私の母だけでなく、世のお母さんたち。ありがとう。子供をもうけ、イエス様にならって子育てしてね。
写真左:今年1月帰省のとき母ハルエを見舞ったとき(前列左)。はからずも、此のときが今生の別れとなった。
写真中:九江でよき協力者の妻久子と学生。久子は5人の子を育てそれぞれに独立させた。彼女も世に誇れる立派な母親となった。
写真右:天地万物を創造された神は人となってこの世に来てくださった。それがキリスト様。そして永遠のわが母。
* 九江の花だより:五月の花 ……2006/05/15…
五月の花
九江の五月は1年中で最高に楽しめる季節と思う。若葉が萌え出で、道をある歩くとほんのりと花の香りが風に乗って心地よい。
日本も5月の花は九江にもまして咲き誇っていることだろう。バラ・しょうぶ・ダリアなどだろうか。
写真左:シャクヤク。中国では書画のなかの題材によく使われる。花は短命で1週間ぐらい。
写真中:バラはもっとも色が鮮やか。濃い赤、ピンクなど色も多様。
写真右:石楠花(シャクナゲ)の一種で、木は3メートルぐらいになり、芳香性の白い花が見事。
学名:Magnolia graudiflora 中国名:荷花玉欄 欄科Magnolia 鑑賞用木
* 九江五月の野生の花 ……2006/05/16…
郊外にでて野山を歩けば珍しい草木と花に出会う。野ばらは小柄の白い花を咲かせ、蜂がその蜜をあさっているのが心和む。
写真左:ガクアジサイに似た花。日本のアジサイのように蕚が寄せ合って大きな花に見せている。香りはしない。
写真中:田舎の街路で見る樹花。日本の栴檀の花に似ている。遠保から見ると雪を被ったように見える。
写真右:柑橘類の一種だろうか。色は白。ほのかな香りをはなつ。
* 田舎の風景 ……2006/05/18…
九江田舎の風景
川は洗濯場。
九江市から約30分も郊外へ出るとそこには一昔まえ(1950年代)の中国風景を残している。女性たちは川に集まり、洗濯をしている姿なぞその好例。彼女たちは井戸端会議ならぬ川端会議も兼ねているのだろう。様子をみていると十分その雰囲気が伝わる。
田植えの時期
田んぼには水が張られ、水牛で田をすき興し、田植えの準備をしている光景があちこちに。中国江南地方(江西省、湖南省、広東省、福建省、浙江省)は平地と水が豊富で米産に適し、耕地も広い。中国13億人の胃袋をまかなう台所でもある。食料自給問題は中国の大きな国家的課題でもある。
日本も例外ではないのだが。
肥溜め
畑道を歩くと、あちこちに肥溜めがある。1960年代までは日本の田舎でも見られた光景。あの肥溜め。人糞、家畜の糞、残飯を腐敗させたものなどが溜めに放り込まれており、天然の肥料工場である。一種独特な臭いがするにはするが、なんとなく田舎にきたなと懐かしい。
日本でも屎尿処理にはお金をかけているのだが再利用されているのだろうか?いないとすればもったいない話しだ。
写真左:廬山麓の田舎で洗濯をしている婦人たち
写真中:五月も末になると、あちこちで田植えが始まる。水を張り、水牛の力を借りて田植えの準備が始まる。
写真右:畑の一角に肥溜めがある。日本でも昔は見られた光景。
* 玉蘭について ……2006/05/19…
荷花玉蘭(ギョクラン)
学名:Magnolia graudiflora Magnolia科 観賞用木
玉蘭は九江学院キャンパス内に多く植されており、今が開花の最盛期。キャンパス内にはこの花が放つ甘酸っぱいほのかな香りがとても心地よい。樹木は3,4mぐらいで、木と葉は枇杷に似ている。花は一本の木にせいぜい5,6個。つぼみは固く、筍型でつぼみになると丸みを帯びた白色。開花すると、直径10センチ大となり、10程度の花弁を中心に円錐型の花粉をもった雄しべが雌しべを取り巻くように並ぶ。期が熟すと、雄しべは落ち雌しべだけが残る。同時に純白の花弁は徐々に土色となり落下する。
写真左:開花前のつぼみ
写真中:3分先の玉蘭花
写真右:満開の玉蘭花 純白の花弁、薄黄色の雄しべは雌しべを包むように取り巻いている。
* ゆかたブーム ……2006/05/22…
九江学院にゆかたブーム
「日の韻さくら祭り」をきっかけに、九江学院日本語学科では「ゆかたブーム」に沸いている。学生たちが、ゆかたを縫ってくれるように家内に懇望し、おかげで家内は大忙し。感心なことに、家内は頼まれれば断らないで対応している。これもまたささやかな日中友好事業であろう。家内に感謝!
写真左;英語学科の浴衣姿
写真中;ウコウ(写真右、日本に日中交流員として滞在経験がある人)さんと日本語学科生徒の浴衣姿。
写真右;日本語科生の浴衣姿
* 九江田舎の教会で説教 ……2006/05/22…
2006年5月21日(日)礼拝説教
九江市九江県沙河という街で礼拝の講壇を引き受け、聖書の解き明かしをする。
概要以下の通り
九江県三自愛教会で説教
コリント第2書1章より 「万事益となるの人生」について説教。通訳:日本語学科の紀珂姉
一、慰めに満ちたる神 コリント後書1;5
慰めと翻訳している原語はコイネーギリシャ語のパラカレオー(Παρα καλεω)がキーワード
基本の意;Παραは「傍」。καλεω「呼んでいる」の意。神がいつも人間と共にいてくださるという意。ゆえに「助けられることを信じるものにとってはおおきな慰めとなる」ことから転じた訳。
二、助け主なる神 ヨハネ福音書14;16,17
「助け主」と翻訳された言語もやはりコイネーギリシャ語のパラカレオー(Παrα καλεω)がキーワード。前項のキーワードから「共にいて助ける」という意味となる。
三、凡てのこと相働きて ロマ書8;28
Πανταがキーワード。パンタと読み意味は「凡て」凡てとは「一つの例外も無くの意」。人が判断する好いと思うもの、悪いと思うものすべて例外なくという意味。
好いと思うものの例;無病息災、高学歴、高地位、家庭円満、高権力、高収入、順風満帆、万事意如など。
好ましくないと思うもの例;病弱、落ち毀れ、下積み、できない、切れない、病弱、臆病、事業失敗、倒産、理不尽と思える人間関係、不治の病そして最後は死。
神は人が求める好ましい事も、好ましくない事もすべてひっくるめて受け止め、これを最終的に人類の益へと変えてくださる方である。だから、平安であり心強い。
賛美歌
十字架に架かりたる 救い主イエスを見よや こは汝が犯したる 罪のため
ただ信ぜよ ただ信ぜよ 信ずるものは誰も 皆救われん
聖書の箇所は本文は割愛しているが、興味のある方は聖書を開いてください。
写真左;講壇で説教を担当する筆者。隣は通訳をしてくれた紀珂嬢(日本語科学生)
写真中;九江市九江県沙河の通り。九江市から訳20キロ南西。この辺は60年前の九江の雰囲気をそのまま残している。
写真右;教会の近くの民家の庭に咲いていたつるバラ
* 花壇つくりで汗流す ……2006/05/27…
2006年5月27日(土)晴れ
花壇整備
いい汗流す。外教(外国人教師)住宅の入り口にスペースがあるのだが花木類がまったく無いので淋しかった。このスペースを利用して花など植えれば、入り口も気分よくなるのではと思い、事務局の許可を受けてまず耕すことにした。自分にとっても朝晩の適当な運動にもなるので格好の汗を流す手段にもなる。
というわけで、学園内の樹木の落ち葉を集め下部に敷きこむ。落ち葉を堆肥とすることで粘土質の中国の赤土が植物の生育に適した土壌になる。米袋20袋ぐらいを敷きこんだあとは、上部に土を入れる。土入れの作業には事務局から応援の生徒を派遣してくれた。また、いつの間にか家内や上階の外教の家族も親子連れで土運びに参加してくれた。このようなわけで、近くの土取場から米袋につめて50袋ほど運び込み何とか畑の体を為してきた。
夕方、生徒から花屋が来ているとい電話を受け、早速植え込みの花を買いに言った。花は百合の鉢物だった。既に開花しているので、こんなものを植えても1日か2日で花はしおれる。今日のところは常緑を保つ観葉植物を買って、まず花壇の雰囲気を創ってみようと思った。あとはマリーゴ-ルドやペチュニアなどで色付けをすればよい。
楽しい、土曜の午後であった。
写真左;土に敷き込むために生徒たちは落ち葉を集める
写真中;荒地が花園に変わった。
写真右;土運びで汗を流す
* 家庭教育のこと ……2006/05/28…
2006年5月28日(日)曇り
意見「教育の根本は家庭教育」
いま日本の教育が危ない。戦後60年を経て、教育力は地に落ちた。特に家庭の教育力が無くなった。箴言に曰く。「父を呪い、母を祝福しない世代。自分を清いものとみなし 自分の汚物を洗い落とさぬ世代。目つきは高慢で、眼差しの驕った世代。箴言30;11-13」。またロマ書にいわく、「みな迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行うものはいない。一人もいない。彼らののどは開いた墓のようである、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は呪いと苦味で満ち、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの眼には神への恐れが無い。(ロマ書3;12-18)」の言葉はあたかも今日の日本の社会状況ではあるまいか。
いま国会では戦後初めてといわれる教育基本法改訂が議題に上がり、愛国心が盛り込まれようとしている。だが、家庭に教育力が復帰しない限り、法の力だけでは実はあがらないだろう。
また食育という言葉が教育現場では叫ばれるようになった。食育とは栄養のバランスもさることながら、食事をとおして心を養うことに重点が置かれた言葉。ならば、一家団欒で食事をとることのいかに心の栄養になることか。特に、朝食を一緒に摂る時間を確保したい。複雑な勤労社会の今日、家族が朝食を共にするということは、努力と意識なしでは確保できまい。家族が食を共にするとき、互いの心は開き、耳も開くというものだ。そのとき、父は人の道の良し悪しをきちんと教え諭す。母は手作りの料理でもてなし、互いがかけがえの無い存在であることを共感しあう。こんなわけで朝食をともに摂ることのできる家庭設計を多少の犠牲を払ってでも確保するのが家長の責任。
いじめ、虐待、不登校、ニート、反社会的犯罪など、枚挙にいとまない時代はこれ以上増進させてはならない。これより、今後60年100年をかけても、家庭の教育力を回復することが肝要である。家庭教育の場は一家が共に食事を摂ることから始まる。
「有能な妻は夫の冠」箴言12章4節
「 知恵ある女は家庭を築く」箴言14章1節
「孫は老人の冠、子らは父の輝き。」箴言17章6節
「乾いたパンの一片しかなくとも、平安があれば 生贄の 肉で家を満たして争うよりもよい。」箴言17章1節
「若者を諭すのを控えてはならない。」箴言23章13節
参考;サンケイ主張28日も一部参考にした。
写真左;礼拝後の食事「見よ、わたしは戸の外に立って叩く。もし、戸を開けるなら、私も中に入って食事を共にしよう。」ヨハネ黙示録3;20
写真中;孫と朝食を共にする。幼い頃、筆者も祖父の下で育ち、食事をしながら、時勢の話、歴史的人物の話、勤労の尊さなどを聞いたことを思い出す。
写真左;筆者の宿舎にはよく学生が訪れ、食事を共にする機会が多い。食事をしているうちに、孫みたいに思えてくる。心を割って話し合えるときでもある。
* アヒルと遊ぶ ……2006/05/29…
学院池のアヒルに餌をやる日課
一月ぐらい前からキャンパス内の池にアヒルが12羽放たれている。このアヒルに餌をやることにした。アヒルは雑食なので、炊事場の残飯や果物の皮など何でも食べる。食べやすいように小さく切って与えている。かくてアヒルたちとすっかり仲良くなり、餌やリが日課になってしまった。
写真左と右;餌を求めて集まるアヒル
写真中;筆者とアヒルの交流
* 九江の工人たち ……2006/05/29…
2006年5月29日(月)晴れ
底抜けに明るい工人たち
街角には必ずといってよいほど工人たちがたむろしている。彼らは土工(レンガ積み技術者)、水工(上下水道設置、修理工)、電工(電気工事)などで、専門技術の看板を立てて招聘待ちなのである。
看板といっても写真でみるように手書きの50センチ角程度の厚紙を道路の段差のところに立て、往来の人が目に付くようにしている。日本なら電話帳で専門職を探して仕事を依頼するところだが、九江は路上で直接頼むことができる。「ちょっと、何何通りの何号住宅、5階の16号の水道を直してくれ。水銓がゆるくなったから」などと立ち話で交渉成立。
彼らは何処かの企業の職員では無く、独立職として仕事を待っている。一日にどれほどの仕事が得られるのか不明であるが、彼らの表情は実に明るく何の憂いも無いような顔つきをしている。時には、気のあった者同士で賭けトランプをしている。こんな風景、昔と変わっていない。マンマンデの世界である。
写真左;明るく屈託の無い工人たち
写真中;「仕事承り」表示は自作の小さな看板
写真右;トランプ遊びをしながら仕事のお呼びを待つ工人たち
* 端午節 ……2006/05/30…
5月31日(陰暦5月5日)は中国では端午節といわれ、学園の生徒たちも、ちまきを食べて楽しんでいる。事務局の呉さんも「どうぞ」といって、ちまきを差し入れしてくれた。端午節句は日本でも守られている季節の伝統行事となっている。
そこで、端午節について。以下引用文
・楚(そ)の国の国王の側近に、屈原(くつげん)(前340頃~前278頃)という政治家がいました。詩人でもあった彼はその正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上、不朽の名作と言われています。故国の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。
・楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。
その日が中国の年中行事になり,へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。
・これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始 まりとも言われています。
・これがちまき(肉粽=ローツ ォン)の起源です。このようなエピソードから、毎年命日の5月5日の屈原の供養のために祭が行なわれるようになり、やがて中国全体に広がっていったのです。 国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行きます。
・そして、その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました。
◆ところで、歴史の上ではどちらかと言えば些細なこの事件が、このように盛大な祭に発展していったのでしょうか?それは、次のような理由だと言われています。
・急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多かったそうです。
その為、5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、 薬用酒や肉粽を飲食して健康増進を祈願します。
・人々の生きるための切実な思いによるものが、端午の節句が生まれた理由なのでしょう。
◆端午の節句とは?
・日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。
・当時の日本では季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習がありました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式もおこなわれたようです。
・五月五日の端午の節句に「鯉の吹流し」を立て、「武者人形(五月人形)」を 飾って男の子の前途を祝うようになったのは、徳川時代からです。
五月五日の節句は、五と五を重ねる事から「重五」、菖蒲を用いる事から 「菖蒲の節句」などと呼ばれています。「五」と「午」が相通ずることか ら、初節句を「端午」「端五」(端ははじめの意)と書きました。
・ 菖蒲は薬草で、邪 気を避け、悪魔を払うという昔からの信仰があり、節句 にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。
・武家時代となると「菖蒲」が「尚武(しょうぶ)」と音 が通ずるために、さかんとなりました。
・平安朝のころから、子供らはショウブで飾った紙のかぶとをつけ、石合戦な どの遊びをしていたそうです。元禄時代(一六八八~一七○四)になって紙や木でつくった 菖蒲人形を庭先に立てるようになり、それがいつしか室内に飾るようになり、人形美術も発達して種類も増えた。
・室町時代から武家では五月五日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」 を立ててましたが、
江戸時代になって町人階級も紙で作った「鯉のぼり」を竿につけて高く掲げて対抗して楽しんでいました。
コイはもともと威勢のいい魚で、昔から「鯉の滝上り」などと伝えられ、子供が元 気に育つようにという親の願いが「鯉のぼり」にこめられている。
◆端午が男の子の節句になった訳は?
古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。
やがて江戸時代にはいると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。
このような時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられます。やがてこの風習は武士だけでなく、広く一般の人々にまで広まっていきます。はじめは、玄関前に幟や吹き流しを立てていたものが、やがて厚紙で作った兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども飾るようになっていったのです。さらに江戸時代の中期には、武家の幟に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。
写真左;学生たちが兜をかぶり端午節を祝う
写真中;幼稚園でも兜をかぶり端午節を祝う
写真右:学生から差し入れをうけたちまき。種子島にも郷土の食べ物としてそっくりのものがある。種子島では角巻という。