大石ケイジの長沙日記

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

大石ケイジの長沙日記

2004/03/04
長沙上陸4日目 歓迎会

今日が何日で、何曜日なのか、未だ自分の中ではっきりしていません。

いくつかの理由があるのですが、まず第一は体調が優れないことです。来る前に風邪を引いてしまいました。

実は2年前から僕の体の中に性質の悪い咳ウイルスが棲みついていて風邪を引くと出てくるのです。一番活発になるのが就寝中です。

二年前、三峡下りの遊覧船の中で同伴した平岡氏が「大石さん、大丈夫ナ、息が止まるかと思ったガ。」と言うほど、ひどい咳がでます。

今、毎晩これに悩まされています。特に1日目と二日目は長沙は雨で、とても寒かったのです。妻がホッカイロを五、六個入れてくれてたので助かりましたが、部屋には勿論暖房はなく、夜具も薄く、体温は上がらず、散々でした。

二番目は歓迎の宴が二晩、続きました。実は、今日もありそうなのです。かなり白酒(56度)も飲まされました。これも頭が朦朧としている理由のひとつかもしれません。

昨日から早速、授業が始まりました。10時10分から12時まで途中10分の休憩があります。「日本事情」という学科を、二年目の生徒に教えます。

かなりの日本語を理解しているので楽です。(続きは又後で書きます。今から範先生と昼食に行ってきます)

続きます。僕の授業はないのですが1年生の生徒たちが僕と話をしたい。「日本の話を聞きたい」というので学校に戻りました。

20名ほどの生徒達と僕のこと、日本のこと、鹿児島のこと、いろいろ話し合いました。日本語を聞き取れない生徒が多いので、僕にとってもカタコト中国語の出番が多く、とても勉強になります。

花見の話、得意の釣りの話、映画の話、ファッションの話と、尽きることがありません。

・・・突然、範先生が2,3人の方と教室を訪れ、皆に言いました。

「大石先生はこれから長沙市人民政府外事室の方とお話があるのでこれでお仕舞いです。」

ということで、今度は市の外事担当の温上達さん他、女性二人のインタビューを受けました。

17日にNHKから長沙市と鹿児島市との間でネーツトワークによる交流が始まるので日本から取材に来られるらしく、僕に対するいくつかの取材に協力してもらえないか?との申し出でした。

「僕でお役に立つのでしたら」と返事をしました。そのあと、僕の住まいを是非、見せて欲しいとの要望があり、案内し終えたところです。


2004/03/05
と千尋の神隠し

すっかり暖かくなってきたのと、こちらでは正午から2時半までは休みなので午睡の癖がついて、やや体調が戻ってきました。

今日は授業は朝8時から9:50分まで(途中10分の休憩)の100分です。作文を担当しました。いくつかの日本語の言い回しを使いながら自己紹介をする内容です。

原稿用紙という習慣がないのか、又、ほとんど横書きの習慣がついているらしく、教科書にある原稿用紙の使い方を説明してもぴんとこないようです。

何故、枡の中に字を入れなければならないのかから説明が必要です。

結局、原稿用紙の使い方・・・4文字開けてタイトルを、とか、途中で文が切れたら次の行は頭のひと枡を空けるとか句読点や括弧も一枡とするとか云々・・・多分必要がないと思うので教えるのをやめました。

実は、白状しますと1日から未だシャワーを浴びていないのです。勿論、洗髪もです。風邪気味なのと部屋のシャワーの湯圧も湯量も悪く、裸になったら震えが来そうで怖かったのです。

範院長に聞いてみましたら。「サウナが有ります。とても気持ちがいいですよ。僕も大好きです。今夜、行きますか?」「長沙には10軒ぐらいあります。僕の行くところは、最近出来ました。

日本の温泉サウナを真似しています。とても、人気あります。」聞いてるうちに僕の頭の中は、もう湯気で濛々として来ました。

久しぶりの温泉(湯)はまさに「千と千尋の神隠し」そのものでした。ロッカーで裸になり、大きな浴槽、バブル風呂、薬草風呂、露天風呂、5つ位の大きな浴槽に中国人たちがお喋りしながら入っています。特に、薬草が人気のようです。

日本の温泉センターとすこし違うのは、否、かなり違いますのは、タオルが全く供用されないことです。もう、全くのスッピン状態です。

それは、皆同じスタイルなので、手で隠すわけにもいかず(目立ちますから)いいとして、入る前に、まず、髪や体を洗うのに手しかないことです。

これには、ちょっととまどいました。手で汚れがとれるのか??

結局、湯船に浸かった後で「あかすり」をしましたから充分汚れはとれましたけど。

入浴後、備えのシャツとパンツに着替え、二階に上がり大きな休憩室(男女とも)でセルフスタイルの食事(夕食)を食べながら、ステージシヨーを楽しみます。

シンガーの歌を聞いたり、ゲームに参加したり、雑技ショーを見たりしてくつろぎます。ビールを飲んでいるうち眠くなりました。

朝方の3時までここは開いてるそうです。風呂は24時間だそうです。

ちなみに料金は入浴代48元、あかすり22元計70元、日本円にして1000円ぐらいです。食事はサービスとのことでした。

こちら、長沙市の平均月収が一万円に満たないそうですから、サウナはかなりの贅沢だと思います。でも、長沙人は自分が楽しむことにはお金を惜しまないんだそうです。

といっても、後の半分は寝て暮らす、と言うわけにも行かないと思うんだけど。

どうなっているんでしょう???長沙人の感覚は?


2004/03/06
天心閣

今日は休日。早速、1年生の生徒達からデートの申し出が来た。

図書館と天心公園に一緒しませんか?と言う誘いである。むろん、断るわけもなく、市内見学と相互学習の始まりである。

男一人・武漢出身の屈君は大学出の日本歴史に詳しい青年である。松本清張と司馬遼太郎のフアンだそうで、いろいろな勤皇の志士に詳しいのにはちょっとびっくりした。あと、4名の少姐たち。長沙弁の僕の老師になった黄玲さん、日本人美人タイプの陳さんは南昌出身。

歩いて20分のところに図書館はある。近道を行きましょうと、民家の中や路地を通る。表通りと裏通りの格差にはいつも驚かされる。

西安でも北京でもそうだったが、裏通りを歩くときは何故か身構えるきもちになるものだけど、この街を歩いていて、そんな気持ちにならないのである。

べつに治安の問題でもなさそうである。もしかしたら、今の自分に旅人意識がないせいかもしれない。住人になっている生徒達と気持ちが一緒なのかも、と思う。

図書館を出て又みんなでがやがやと街を歩くこと20分ぐらいで目的地の天心公園に着いた。

歴史にうるさい屈クンがしきりに僕に語りかけて来た。『太平天国』を先生は知っているか?と聞いてるらしい。「不知道」とこたえると、有名な話である。こここそがその蜂起した場所なんだ。と言いたいらしかった。僕の電子辞典にも書いてあった。

太平天国:1851年から1864年・洪秀全らによる中国史上最大の農民反乱で建てられた国家政権、キリスト教信仰に基づき“拝上帝会”を組織、広西で蜂起したのち北上して首都を南京に定め、“天京”と称した。

天心閣の説明を湖南省の旅行案内によれば・・・長沙市南東の高い一角に位置し登れば長沙市全容を鳥瞰できます。高さ17・5m全部で花崗岩の彫刻品で装飾され、湖南省唯一の古色蒼然としている奇抜な形の古城です。

・・・と、あまり上手い説明とは言えませんが、来て見ると、なかなかいいところです。下の公園内ではおびただしい数の人がなんと凧揚げをしていました。

竹岡健一氏のホームページ『見知らぬ街で』でなんとなく長沙の凧上げ好きは感じていましたけど今回、目の前で実体験しました。

帰りは学生たちと街中の食堂で面条(うどん)を食べて帰ってきました。

2004年3月7日
湘江・桔子洲

今日は日曜日。11時半ごろに、二年生の李湯竜くんが迎えに来た。李湯竜くんは洞庭湖の近くにある岳陽という街の出身である。男子生徒のリーダー格といった感じである。写真右の左側・李くん。

校門の前で、「4人の学生が僕をまっています。湘江・桔子洲に一緒に行きませんか?」との誘いである。

学校の前付近は市街地の中にある。

授業中に僕がそこに行きたいと言った、と言うのだ。

そう言えば授業中によく生徒から質問が飛ぶ。

「先生は長沙の何処が好きですか?」

「先生は未だ来たばかりなのでどこへも行っていません」と答えると、

「それでは先生はこれから何処に行きたいですか?」

「先生は何を見たいですか?」「見たいのがありますか?」とくる。

そんな質問の答えに「湘江・桔子洲」と言ったのかも知れない。もつとも、行ってみたい候補の一つではある。

「湘江・桔子洲」は長沙の市街地を二分する大きな川、湘江の中洲である。鹿児島の甲突川といったところか、と言っても規模は比較も出来ない。

とにかく広い中洲。蜜柑の木が多いので付いた名前なんでしょうか?

上写真は川で捕れる魚と何買ってますか?

端から端まで何百メートルと言った規模である。

生徒たちの質問の意図の一つは、学習した日本語会話の力を試してみたいのだろう。日本人を相手に、日本語でやりとりをする。そのこと自体が目的なのかもしれない。

質問の中身は「WHAT何が?」「WHERE何処に?」が一番多いのも未だ「HOWどのように?」とか「WHYなぜ?」といった会話まで至ってないのかも知れない。

もっとも偉そうなことを言って、こちらは単語の羅列と繋ぎは日本語まじりで、まともな中文にもなっていない始末。答えが返ってきたら何を言われたかちんぷんかんぷん。

彼らにとって、僕と行動することは会話学習なのだろう。もっとも、それはお互い様なのだが。だからぼくはこの頃気をつけているのは、なるべくみんなと公平に会話をするよう心がけている。

日本語の未熟な子も本当は僕ときっと何か話したいに違いないと思って。でも、そんな気遣いも、日本的な感覚なのかも知れないけど。

学院のある人民路を少し行くと詔山路という通りと交差する有名な通程国際大酒店のある通りである。

その近くからバスに乗って五一大路を山手に曲がると目的の一橋に着く。

一橋から「湘江・桔子洲」までの生徒たちとのハイキングはとても楽しいものだった。

ただ川辺や草むらのなかを30分ほど歩くだけの行軍にすぎなかったけど、僕にとっては何とも言い表しようの無い懐かしいものだった。

写真:長沙名物「臭豆腐」に挑戦。左は黄雪蓉さん右は竜習さん。

写真:洲の頭(端)にある桔洲公園内の毛沢東の若い頃(28歳)の像の前で、記念写真。

写真:長沙一大きな道路・五一大路(凧揚げしている人がいっぱい)

学校のあるヤオリンは市の交通の要点、人民路と詔山路の交差する所です。

近くにポケットパークがあったり、すぐ近くに は湖南省図書館、その隣には五つ星ホテル・ 通程大酒店もあります。同時に、沢山の按摩 ・マッサージ店や歓楽街になっていて、環境 面では学生にふさわしい場所とはいえません。


2004年3月17日
授業について少し

授業の話を少し、してみます。

もとより僕はにわか教師、でも日本語の一般論については、日本人であるから分かるし、正しい使い方かどうかは別にして、外国人が間違って使う遣い方はすぐに分かる。

しかし、こちらで教えている「日本語の使い方」教科書を見てみると、我々日本人がどちらでもごく日常遣っている日本語を二つあげて、どちらの遣い方が正しいか?との問いである。

解答にはその文法的違いまで丁寧に書いてあり、学生たちはそれをしっかり勉強する。

こちらでは、と書いたが日本の日本語学校でもこれは同じである。

それを覚えなければ日本語検定試験1級や2級に合格しないから皆必死なのだ。

今日も一人の生徒が質問してきた。

「先生!会社に行か(なくて、ないで)映画を観に行くつもりです。の(なくて、と、ないで)の使い分けを説明してください。

僕は数回、口の中で反芻してみるうちに分からなくなってしまい、うっかり誤魔化してもまずいと思い。とっさに、

「こんな場合、われわれは、会社に行かずに映画に行きます。」と言います。と言ったら、すかさず、

「“行かず。”は写文、つまり書き言葉なんじゃないんですか?」と返してきた。
 そんなこと僕が知るかい、と開き直りたくなったけど

「みなさんはそう習ったかも知れないけど普通に使いますよ」と言ったまではよかったが、自分でも段々自信が無くなってきました。

日本語をマスターすることと、日本語の日常会話を習得することとは同じではないんだ。われわれが英語を習うころ英文法の時間とリーダーはあっても英会話の時間は高校時代に無かった。

大学受験の時、英語の試験にデクテーションという外人教師による聞き取り試験があり、英文に直せず苦労したのを思い出した。

それと気づいたことですが、彼らは日本語を話す時と母国語である中国語を話す時の姿勢が違うことです。

中国語のときはしまりの無い姿勢で話しますが、日本語を話す時はなにやら姿勢が良く見えます。

余裕と緊張だけの問題ではない。他国語を話す時はその人の性格まで少し変わるのではないでしょうか。

あとで範先生や寺坂先生(ハーフ)とも少し教師としての日本語指導について話し合いましたが、お二人とも

「日本語の類義表現の使い分けはとてもおもしろい」といっておられました。

「~てもいいです。」「~なくてもいいです。」「~なくてはいけません」「~なければいけません」の違いはわかりますか?


2004/3/09
碧水藍天温泉浴場

(タイトル)・・というのが、今流行っている日本で言うところの(・・・温泉センター)と同じである。

浴場内を紹介出来ないのが残念だが、まあ、産業道路の何処やらに出来た、でっかい温泉センターと同じと思っていただけたらよい。

3階建てで,1階に各種の湯があって、日本式薬浴が一番の人気である。必ず日本にある、あの電気風呂はない。うたせもない。あとはたいていある。

露天風呂は室外温泉と書いてある。二度目だけどまだ一度も人が入っているのを見たことがない。

温泉と書いてあり、壁にそれぞれの湯のph値も記してあるので、温泉とは思うが、果たして本当に、地下から掘りあげた天然温泉とは疑わしいものだ。

一階には室内泳池、つまりプールもある。二階は、前も紹介したが、大ホール美食広場である。

いろいろなステージショーを楽しむことが出来る。他に子供の遊び場や大人の遊び場、つまりマージャンやトランプをする部屋、卓球場も備えてある。

三階は大きな休憩室(仮眠の出来るベッド風椅子が並んでいる)何と言っても3階の魅力は全身マッサージから指圧そして足浴(マッサージ)である。

ちなみに料金はかというと、最高の油全身が60分138元と言うから2000日本円。指圧は中国式が最初の45分が58元で続けてすると38元に下がる。

タイ式マッサージは少し高く50分で78元である。まあそれでも日本円にすると1000円程度である。

この頃、中国も料金設定が日本やアメリカのスーパーもどきになって来たの、8は何だろう?

日本人のお好みの足つぼマッサージは1時間45元である。700日本円といったところか。耳掃除は20分で28元。まだ一度も体験したことがない。こわいから。

今日は(白天)昼間に行ったので、さすがに客は少なかった。値段が高い(入浴基本料金48元、あかすりが付くと68元)は日本では多い熟年客では手が届かないだろうから。

ちなみに長沙の平均給与が8000円(日本円)とすると、ここの入浴代は1000円。ちょっと考えてしまう。

今、午後8時10分、竹岡健一氏(長沙大学日本語教師)が彼のホームページに書いてあったが、花火か爆竹か数分間なり続いている。サマーナイト夏祭りを思い出させる。何なんでしょう?

アッ!もしかしたら、今日は「働く女性の日」とか、リュ先生が言ってたようでした。それかもしれません。

温泉浴場のことでもうひとつ。

この前、二階の食事は全部、無料と言いましたが、本当は時間で違うらいいのです 。

昼は有料。6時から11時までは無料。11時から夜中の2時までは点心(お菓子類は)無料。ということらしい。

これって、ちょっとおかしくない。お客さんが一番多い時こそ有料にすればいいのに。日本だったら「土日祝日はご遠慮ください。」と無料客には但し書きが付きます。・・ここだけの経営方針と受け止めたい。

今日は範先生と区の公安局に外国人居住届けを出してきました。


2004/03/10
我が住居

昨年の話。鄭さんと国際電話をしました。彼曰く

「今、範さんは大石さんの住居を探しています。静かなところ、探しています」僕は応えた。

「鄭さん、範さんに言っててください。街の中がいいよ。その辺にお店がいっぱいあるような」・・・

そして今年の3月、初めての長沙、空港にて、範さん曰く

「大石先生、先生の家、とても古いです。でも一番のいいところは、学校に近い。すぐ隣です。街の中です。」

初めて見た我が家は45年前、初めて東京に行った時新しい学生生活を始めた時と、どう比較していいか?

いい言葉を見つけ出せないところです。

部屋は天井は高いし狭苦しさはないのですが、部屋に辿り着くまでの階段付近や窓の建て付けが悪い。鍵も日本では住宅ではあまり見かけません。

もう殆んど窓の錠は錆付いて化石化している状態です。まあ綺麗好きな人が見たら口を覆うかもしれません。僕は平気です。今日始めて、実は洗濯をしました。長沙の気温はなんと26度だったそうです。結構溜まっていた洗濯物を洗濯機を使って洗いました。わが家でしたことが無いのでダイヤル操作が分かりませんでした。

でも、何とか脱水まで上手くいきました。干そうと思って脱水機をあけましたが入れるかごがありません。ナイロン買い物袋に入れて干し場に行きました。

・・・なんと、干すロープが2メートルの高いところにあるじゃないですか。

「いったいどうするの?」答えは、ハンガーにかけて鍵棒で持ち上げるのでした。でも、シャツはいいとして10足もある靴下は「どうすればいいんだろう?」

ちなみに洗濯の排水はトイレのタイル場に流します。従って、いつも洗濯の度にタイル場は洗浄されるというわけです。

この家で一番困るのが台所の洗い場です。狭すぎて顔を洗うのに苦労します。中国の洗面所は・・・と言うわけではなく、これは、あくまで僕の今の生活環境のはなしです。今、長沙市も目覚しい発展の途中です。近辺にも日本に劣らない高層マンション群が一杯建築中です。

リカバリーこそが目的の僕ですから、バックトゥーザパーストこそ願ってもないことで範先生には感謝しているところです。

午後7時頃、角のパン屋に明日の朝のパンを買いに行ったら王俊クンに会った。

「先生、何処へ行くのですか?晩御飯は食べましたか?」僕は昼が遅かったので夜は抜こうと思っていたが彼とは一度話しをしてみたかったので、

「何処か美味しいところへ連れて行ってくれる?」と言うと、「いいですよ。」と言う返事だった。

彼の連れて行ってくれた食堂はテーブルが5つほどのお世辞にも綺麗とはいえないその辺の庶民の食べ物屋だった。

ビールを1本注文し、落花生をつまみにいろいろ語った。彼は湖南の出身でこの4月に本当は横浜の大学に留学するつもりだったらしい。

昨年から急に中国からの留学に厳しい制限がついた。バイトをしないでもある程度生活出来るだけの国からの仕送りが出来る生徒でないとビザが下りないと言うのである。彼は言う。

「中国人が日本で悪いことをするから仕方ない。中国人がわるいのだから・・・・」と、あの福岡での事件を知らない人は居ない。だから.と言って、この制裁?みたいな措置はどうかと、僕は思う。

もっと、条件外の人それぞれの選考方法があってもいいのではないかと思う。お金がなければ留学できない。これでいいのだろうか?

日本語学校に来ている生徒はそれなりの経費を親や自分で働いて貯めたお金で通っている。

年間6000元の学費に食事代月に200元、寮費が1年間700元というから、親の所得からいったら結構な金額である。

そこまで頑張って日本語の習得に励んでいる若者を蓄えが無いからという理由だけで留学を許可しない。

夢を描き励んでいるこれらの学生たちは、いつの日か 、必ず日本にとっても、良い人材として貢献する人達だと僕は思うのだが・・・・・。

王俊くんはとても真面目そうな学生だ。日本留学を諦めて、5月に韓国の大学に留学するそうだ。そして、卒業したら、必ず日本に行くと語ってくれた。

彼と、いつの日か日本で会いたい。と僕は思う。

余談だが、彼の書く文字は素晴らしい、お父さんは書の先生で、近所の人は何か有ると彼の父に字を書いてもらいに来るそうだ。厳格な家庭に育った彼の性格はひと目で分かるのである。
 
この他に8畳くらいの居間が有ります。TVに応接セ ット、団欒室といったところでしょうか。

トイレはちょっと紹介出来ません。

寝室兼書斎   リビングルーム

夏になるとゴキブリが出るそうです。

洗面も兼ねる。窮屈です。/僕の職員室机です。快適です。

王俊君は今、韓国の大学に留学しました。


2004/03/11
黄興路に想う

靴を買いに黄興路の歩行者天国に行って来た。

「黄興路」とは鹿児島に例をとれば、さしずめ「西郷隆盛通り」とでも言おうか。

彼の長沙出身の辛亥革命の志士「黄興」を讃えて付けた道路である。交差する長沙一の大通り「五一大路」はさしずめ「毛沢東路」といったところか。

近、現代の中国の二大英雄を生んだ湖南、長沙の風土とはどんなものだったのだろう?

若者や家族連れで賑わう歩行者天国「黄興路」を初めて訪れ、今からおよそ100年前、ここ長沙で生まれ、活躍した一人の男を想う。

身長は160センチ小太りで西郷を小ぶりにした感じから、中国の西郷隆盛と呼ばれていたという。

・・・(中村 義氏・資料より)すなわち湖南省系出版組織の一つに「湖南編訳社」がある。・・湖南は尚武を好み、薩摩の風がある。日本建国は薩摩に依存した。将来の支那も湖南に頼らんとするものである。日本は小さく、また薩摩は湖南にくらべて小さい。しかし、日本は変わってしまった。

中国は大邦であり、故に湖南は大薩摩である湖南には屈原、王船山等の人物が排出している。湖南が変われば中国はこれに続くと信じる。それ故、同士は団結してたちあがろう。・・・

湖南出身の当時の日本留学生たちの意気は高い。
・・・中村先生講演より・・・

2000年続いた中国の王朝体制を倒した辛亥(1911年)革命の指導者を一人上げれば孫文「孫中山」です。

こんにちでも中国革命の先駆者と呼ばれています。 台湾では国父です。

確かにそれは、彼の三民主義つまり、彼の政治思想といいましょうか、理念といいましょうか、それは、中国の誇るべき、いや、アジアの誇るべきものでしょう。

そういう孫文の輝かしいことは、言うまでもありませんが、同時に、辛亥革命は孫文ひとりでなし得たことではありません。一心同体といいましょうか、かけがえのない盟友、そういう存在が黄興でありましょう。

まぎれもなくナンバーー2です。お国柄と言いましょうか、二番目というと、影が薄くなってしまいます。

又、孫文はいろいろな文書を残しています。それに対し、黄興のほうは 大変少しです。

しかし、最近の研究と資料によれば、孫文は黄興に「2年間自分に任せ、あなたは静養し、もし私が失敗したら、次はあなたがやって欲しい」と頼んだ。と言われている。

講演:「辛亥革命の志士・黄興と西郷南洲」
中村 義東京学芸大学名誉教授
2002/12kagoshima/reimeikan

先日、こちらに来る前に中村先生に頂いた、湖南師範大学の「黄興」研究者・李主任宛の僕への紹介状と共に、去る1月に黄興の生存しておられた最後のご子息が亡くなられ、北京の革命墓地に埋葬された記されてあった。

ゆうべ、約束していた王俊クンに案内されての街ぶらぶら(中国語でガンガン ジェ)だった。

こちらに来て初めてマクドナルド(平和堂1F)でハンバーグを食べた。日本製に比べやはり辛い。長沙バージョンというのだろう。

歩行者天国の端にはドデカイモニュメントが置いてあった。帰りはタクシーで10元でした。


2004/03/12
黄興路その2

今日の長沙は寒い。朝の授業が終わる頃(10時)雨も降ってきた。寺崎先生の風邪も未だ治らないようで苦しそうである。実は今日も黄興路に行かなければならない。

昨日、買った靴が少し小さかった。店で試しに履いた時はちょうどいいと思ったのだけど、帰ってから靴敷きを入れてみたら入らないのだ。よくよく見ると24と書いてあった。店でもっとよく見ればよかった。

今日泡雪さんが一緒に行ってくれるそうで助かった。何とか一人で行けないこともないが交換なので細かい交渉になると未だ言葉が気になる。

でも、こうして頼ってばかりいたら進歩が遅れそうな気がする。最初、僕が話して、上手く行かなかったら手助けをもらおうか。

泡雪さんは張家界でしばらくガイドをしていた女性で日本語はもうかなりの程度である。まだ20歳というけど、とてもしっかりしている。

あの、授業の時「先生、ず、は書き言葉じゃないんですか?」と質問してきた女性である。気が強そうだけど頼りになる感じだ。

付いて来て貰ってよかった。なにやらまくしたてられた。長沙の言葉はくせがあるのか僕の習った中国語に聞こえない。人にもよるが。

「家に帰ってから履いたら少し大きかったので。」と言ったら、

「ここで試した時、丁度良かったのにどうしてか?」

敷き皮が入らない。が言えず、泡雪さんに替わった。定価は1万円(日本円で)の80%引きで2千円ちょっとでした。こちらでは高級品(中国ブランド)です。

彼女はまだ2時から授業があるとか、昼ごはんをご馳走?してあげよう。と言ったら、日本料理「火の国ラーメン」に連れて行ってくれた。

メニューの豊富さに吃驚!昼から寿司もと思い、牛丼23元、と彼女はカツ丼25元、ちなみにラーメンの種類も多く(15種ぐらい)値段は20元前後だから、こちらで学生達と行く麺類比べると5倍ぐらいの値段である。

さんまの塩焼きも美味しかった。大根おろしも醤油も日本と同じで、スライスレモンまでちゃんと付いている
当たり前が感動するから不思議である。

昼から青島ビールを1本とって彼女との初デートは終わった。話して見ると思ったよりやさしかった。日本人の友人(日本企業)が2人居るそうで、日本の現状にも結構詳しいのには驚いた。

面白い中国のことわざを教えましょうか?と泡雪さんが言った。

「男性は金持ちになると悪いことをします。女性は金持ちになるために悪いことをします。」

いずこの国も同じこと、「だからお金に惑わされないように、」ということなのか?

今日の昼ご飯代90元は久し振りの贅沢でした。帰りに10元の次回サービス券をくれたので80元(日本円で千円ちょっと、というところでした。)

写真は泡雪さん(ちょっとお店の重信さんタイプ)と食べてから思い出して写したサンマと店から眺めた黄興路の入り口付近。

湖南師範大学に留学しておられたヨージエさんのHPから長沙市の写真を、ここまでとても僕は作れそうにありませんのでお借りします。
http://youjie.cool.ne.jp/fengjing/changsha/changsha.html


2004/03/13
湖南省森林植物園

今日は長沙に来て2度目の土曜日。長沙と言えばまずここ岳麓書院が有名である。毛沢東ゆかりの愛晩亭や黄興の墓もあるという。

今日はそこに行って見ようかと、歴史家の屈クンに電話するが返答が無い。そうこうするうちに電話が鳴った。

「もしもし~先生ですか? わたし、呉義林と申します。先生、今日、植物園に行きませんか??桜花(イン ファー)綺麗ですよ~。」

2年の安徽から来ている女子である。

10時校門前で待ち合わすことになった。

呉さんを始め、黄雪蓉さん、李思玉さん、李碧雲さんがニコニコ顔で迎えてくれた。

「今天天気変好了!」良い天気になるのかナ?そんな空模様である。

近くでバスに乗り、詔山路を南へ向かう。30分ぐらい経つとバスは市街地を抜け道路沿いは瓦礫の山である。道幅を広げる計画なのか、街路樹を引っこ抜く作業が続く。

バスは、もうでこぼこ道を飛び跳ねるように、そして、突然の急ブレーキ、一番後ろの客が二回転して転んだ。一席あいた席に生徒達は僕へ勧める。

「先生、どうぞ!」年寄り扱いなのか?単に、年長者を敬う、中国の習慣と思い,いつも当たり前の顔で座ることにする。変に遠慮するのが日本の変(と思うらしい)習慣と心得ることとした。

1時間ぐらい南へ下る?それとも上る?かで植物園前に着いた。コンビニで飲料水とお菓子を買って植物園入口に来た。4人が言った。

「ここは一般の人の入口ですよ。ひとり10元です。私たちは学生だからここからは入りません。」

なに!それって「ただ入り!」じゃないの??

ニコニコ顔で4人は公園横の道路をどんどん歩く。30分ぐらい歩くと、そこはたどん工場や汚い民家が現れる。10元ぐらい、僕が払うから・・生徒たちは僕の話は無視。「私たちは学生」・・・と。

こんどは右の山道を登る。「先生、疲れましたか?」

「不累! 不累!」疲れてないけどさ、君たちは学生だけど、捕まったら、大人で、しかも外国人の僕はどうなるの?しばらく行くと、一人の女性がつきまとってくる。呉さんに訊いてみると、

「一人、1元払うと、抜け道を教えてやる。」と言っているらしい。結局、5元払って,案内してもらうことになった。抜け穴の紹介料、もしかしたら、そこに穴を開けたのは誰!?

脱走者のような気持ちで植物園に入った。木々の間を10分ぐらい駆け上ると
「ワーツ、先生、きれいよ、桜で~す。」の歓声にホッと胸をなでおろした僕でした。

へえ~っ!本当に、千本桜が長沙にもあるんだ。まあ、何本かあるぐらいに思っていましたけど、充分、花見が出来る広さでした。

これなら、日本だったら「桜の名所・??公園」と宣伝文句にうたっていいほどです。

もともとは竹がうたい文句のようで、モニュメントの柱も竹を模して作ってありました。

森林公園と言うだけあって、広い植物園です。変わったことと言えば公園内に自家用車で入って来れるようで、あちこちにマイカーが乗り入れてありました。

数年後は車社会も目前の中国、おそらく禁止されるでしょう。でも、もしかしたら、日本の常識が通らない中国のこと、公園内に大きな駐車場が出来るか?
それとも、平気でそこらへんは車だらけ、なんてことにならないよう願うばかりです。

(想)今日13日は、鹿児島では新幹線開通でさぞ賑わっていることと思います。「おめでとう!新幹線」


2004/03/14
銀園食堂

銀園食堂は詔山路を北へ100メートルぐらいのところにあります。も少し行くと湖南図書館があり、その隣は五つ星ホテル「通程大酒店」です。

今日は絶好の行楽日和、昨日、呉さんたちと岳麓書院に行こうと約束をしていたのですが、李湯さんからの電話で、彼女らは疲れたので来週にしたい。とのことでした。仕方が無いけどこの絶好の日和に暗い部屋にこもっていることも無かろうと屈クンに電話したら

学院の西郷くんこと屈クン。写真嫌いな屈クン。

「先生、図書館に行きませんか?」とのこと、
「何も、この天気に図書館も無いでしょう。博物館に行こう」と言いましたが、
「とても遠い、僕は勉強したい」と言うので「仕方ないか。」と、図書館へ出かけました。

案の定、図書館は面白くなく、屈クンも折れて,昼ごはんを食べたら博物館に行くのを承諾しました。

銀園食堂はこの近くの銀行の社員食堂と聞いたような気がしますがはっきりしたことは分りません。

大きな門があって検問もある横から入り150メートルぐらい先の7階建てのビルの二階にあります。

食堂の小姐も、もうすっかり慣れた様子で、僕が取りに行くと、ご飯の盛を少しにしてくれます。

いつも食べていた定食と青島麦酒/気の利く小姐服務員

僕がいつも

「我的米飯是一点点」ご飯は少しでいいです。というからです。7品ぐらいのおかずの中で僕の好みも分ったらしく上手く分けてくれます。

それにしても中国のご飯はまずいです。ここのは特にポロッポロしてます。今日は一つの発見をしました。

中国の食卓がなぜあんなに高いのか?

ツアーの時、いつも疑問に思っていました。今日、屈くんの食べ方を見て分りました。

あれはご飯を、あの取りにくい先の直角になった箸ですくう時に、顔を近づけ易いために高くなっているのです。

屈クンを見ていると、箸は添えてるだけで口が皿に直付けです。悪い表現をすると犬式食べ方です。思い切って僕も真似してみましたら結構食べ易かったです。

日本のレストランではとんでもない光景です。

何度も写真を撮ろう、と思いましたが我慢しました。

定食が4元(60円)缶ビールが5元の食事です。

結局、今日は博物館と烈士公園から4時に帰ってきて6時に又ここで夕食をとりました。ですから、今日一日の食事代はビール2本いれて270円ということになりました。


2004/03/15
中国の美容室

少し髪がうるさくなったのと白いのが多くなったので美容室に行って来ました。その辺の普通の美容室です。10人ぐらいの男女の美容師がいました。中国は男女兼用なので正確には理美容師と言った方が正しいかもしれません。

3,4日、髪を洗っていなかったので洗髪を楽しみにしていたのですが裏切られました。

「そうか、染める前だから汚れを取る程度になんだろう。」納得、納得、良心的。5分ぐらいで終わりカラーブースへ。

なにやら分けの分らない着衣を二枚ほど着せられ、最初20グラム位のカラー液を頭のあちこちに付ける。10分ほど放置して今度は20分ほど置く。
 
ほとんどマニキュア的塗布法と言える。各椅子の前にはテレビが置いてあって退屈はしないが隣のテレビの声がうるさい。

やがてスチーマーを被せられる。とても熱い。皮膚が心配になって身体を下にずらしたら美容師が来てスチーマーをまた下げた。

客は昼だけど混んでいた。でも、びっくりしたのは男性美容師の一人がヘアダイカップを持っているのかと思っていたら昼飯のどんぶりを持っているのだった。口に運んだので仰天した。立ったまま、しかも、店内・・・

やがて、店が空いてくると、スタッフの一人が、客待ちのソファで昼寝を始めた。二度びっくり。三度目、別なセット椅子で二人の美容師がテレビを見ながら按摩を始めた。のにはもう僕も慣れてしまっていた。

そう言えば以前、大きなレストランで受付の小姐が二人、キップを売りながら、どんぶりから麺を口に運んでいたっけ。驚くことは無い、ここは何事にもおおらかな中国大陸なんだ。

カラー施術が終わってシャンプー椅子に案内される。

「さあ、今度はマッサージ専門の中国のこと、たっぷり洗ってもらえるぞ。」

一度目は軽く、二度目こそゴシゴシと、と思っていたら、何やらタオルで頭を拭きだしたのだ。

シャンプーは5分足らずで終わった。ガッカリ。

ニッコリ笑って、手招きする男性スタイリスト。

カットも20分足らず。又、シャンプー小姐が手招きする。三度目の正直か?また、ガッカリ三度目。今度は2分。切った髪の毛を流しただけでした。

範先生と二人分のカラーとカットの料金は〆て75元でした。 二人で1000円!!安い! ほんと!

(夜バージョン)NHKの記者・増田様からお電話を受け通程国際大酒店でお会いしました。しばらくこのようなデラックスホテルに入ってないので、馬鹿でかい玄関で少々気後れがしました。わずかばかりの間にすっかり現地人化してしまったのでしょうか?

いいコーヒーの匂いがしてきます。マクドナルドの匂いとは違う久方ぶりの香りです。横じゃなくて前が殆ど腰まで割れたチーパオを着た8頭身(死語)小姐が流暢なイングリッシュで問う。

「ハウ アバウト ブルーマウンティン?」中国なんだから「ゼンモヤン!!」のほうがいいのに、英語の方が上品に聞こえるのか?

だから、中国に来ている英語教師が絶対、中国語を覚えようとしない。とわが仲間、合肥市の日語教師・加治佐氏が怒っていたつけ。

初対面の増田氏だったけど、電話で何度も話していたので、旧知のように思えた。未だ来て少しも経たない僕なのに知ったかぶっていろいろ話した。

こんな僕の性格をいつも妻に叱られる。いつも、あとで後悔する。

増田氏を僕の学校の見える所まで案内して別れる。

横断歩道を渡ろうとしたら、教科書を脇に、噂をしていた屈 武クンが例の笑顔でこっちへ歩いてくるところだった。も少し早かったら増田氏に紹介出来たのに。


2004/03/15
烈士公園と湖南博物館に行きました。

実は昨日、図書館に行った後、湖南博物館に2000年前のミイラ美女に会うためにと春爛漫の烈士公園の散歩を愉しもうと、しぶる、屈クンを無理やり誘って行って来た。

一人、五十元と聞いた屈くんは僕の腕を引っ張る。

「高過ぎる、先生、止めよう、公園だけでいい。」

確かに高い、こちらの感覚では、でも、この美女がもし国立博物館に来たら恐らく5000円はするかも知れない。たかが750円ぐらいじゃないか。

「ここで見なけりゃ、何処で見る。」

というわけで二人分100元を奮発した。屈クンは今度は 「ミイラは怖いです。」とまだ何やらつぶやいていた。

もったいぶった館内は、あちこちに制服の監視人が立っていて、ものものしくさえもした。下ったり上がったり、2000年前の美女に会うまでは時間がかかった。

初めて彼女にお会いした時は「このミイラは彼女ではなく一緒に発掘されたお連れの方でしょう」と、屈クンに言った。僕の想像が出来すぎていたのだ。

何年か前、東京で見た、あのシルクロードの「楼蘭王国の美少女」も、ウルムチで見た何体かのミイラたちも、何かしら、ひからびてはいたけど悠久の昔の姿を想像させてくれた。

けれど、そういえば、彼女はミイラではない。身体もずっと大きい。まとった衣服から出ている手足も、そして口もはるかにリアルだった。にもかかわらず興奮しないのは何故なんだろう。 僕はこの人は彼女じゃないと思っていたからなのか?

他にミイラはなくやはり彼が彼女だと知り、僕はもう一度引き返したい思いにかられた。結局、それは果たさなかったけど、またいつか、今度は彼女と思って眺めて見たい。

烈士公園では、思いがけず革命の志士たちの中に黄興の写真と、彼の書いた書を発見した。写真に写した。

上手く撮れているといいが、中村教授がこのHPを見てくれるといいのに。

黄興はまだこれからいろいろ発見したいと思う。

でも、何故かこちらの人は自分の国の歴史上の人物より、今の方に関心が強いような気がしてならない。

写真をいっぱい撮ったので別バージョン(烈士公園写真集)で見てください。サムネイルもあります。

たっぷり撮りました

以下、烈士公園のスナップ


2004/03/16
僕の夢・私の夢

・・と言う題で作文の宿題を出しました。今回、三人の生徒・李湯竜クンと王俊クンと陳慧君さんの作品をノーカットで転載します。実は三人とも後で書こうと思っている僕の考えに沿った作文だったからです。

「僕の夢」/李湯竜(リトーリュウ)

あなたの夢はなんですかと聞かれたとき、僕ははっとしました。そうだ、僕の夢はなんだろう 考えたことがないとはいえないけど、なんか最後までのかわらない目標はないんだ 子供のとき 警察についてのテレビ番目を見ていて、とても僕はそのなかにでてきた警察のことにかんしんしましたのでそのときからもし僕は警察でしたら、犯人をたくさん捕まえたいというゆめがありました。

またもっとおおくなって僕の夢は変かつた

今度は お医者になりたいという夢でした、もし僕お医者さんでしたら自分の仕事に身を入れて病人のためいっしょうけんめ がんばって 多くの患者さんをつらい生活から救い出したいと思いました。

しかし夢は夢だ、時間の経つにつれて変わることがあるかもしれません。たとえば、僕のいまの夢はなんだなあ!やっぱり変わった。たしか翻訳家らしい。

翻訳家になるのはほんとうの夢だが この夢がかなうことができるのか、今 の調子からみてちょっと不可能かもしれない。

でも僕はあきらめると言う気持ちがない。自分の夢のため、もっとかんばりたい。

私の夢/王俊

人間はひとつ美しい夢があります。夢は現実になるために毎日そいう目標を努力しています。ひとつ名人はこいうことわざを言ったことがあります。

人生は船のようです。夢は船の航路標識です。もし航路標識がありませんでは 船は大海の中に迷っています。最後は大海にしんしょくされてしまいました。

もしあなたは教師だから、きっといい先生になりたいです。沢山いい学生をそだてたいですが、もしあなたは建築設計師だから、きっと世界では一番高い建物を設計したいんです。

私もたくさん美しい夢があります。こどものとき、本を見るのが大好きです。いつでも、時間が会ったら、本を読んでいます。本の中にいろいろな知識を得ました。

各国の歴史文化、風土を了解しました。そのとき、作家になりたいですで、いい作品を書きたいんです。

でも、時が経つにつれて、私はだんだん成熟になりました。小学校から中学校まで私はずっとがんばっていました。しかし、重点高中学試験に失敗しまいました。

失敗の味を初めて味わいました。とても哀傷です。

やがて、私の夢はいい大学を通りたいんです。でも2001年に高中を参加しました。もう一度浪人になりました。そのあとは私の前途は迷っています。どうすればいいでしょうか、わかりません。

両親と友達はがんばって諦めるなといいました。力付いてきました。

今私の夢は小さいです。将来いい仕事しかさがしたくないんです。家族のみんなたのしくくらしたいんです。それだけです。人生の進路は長いですから、困難沢山あります。でも私は自信がありますから大丈夫です。

きっと成功になると思います。

私の夢/陳慧君 チンケイクン

私は湘譚から来た女の子です。子供から好奇心が強くいろいろなことを体験してみたいと思うので、夢は世界の各国へ勉強に行きたいと思う。

私が初めて日本に興味を持ったのは中学校の二年生時でした。教科書に出ている日本の有名な山富士山の写真をを見て、日本経済に関心を持ちました。また日本には歌舞伎や相撲など伝統的なものが沢山あることをテレビで知りました。

発達した経済と古くからの伝統が同時に存在している日本と言う国はどんな国なのか知りたくて、卒業してから日本語を勉強することにしました。現在私の夢は日本へ勉強しに行きたいです。

将来機会があったら日本へ行って日本経済学を勉強するつもりです。21世紀中国はWTOに入ってから中国と日本は経済での交流するのである日私は中日経済での交流学者になりたいです。そしたら、これから私はこの大きな夢が実現するために一生懸命勉強しています。


2004/03/17
司馬遼太郎の話

僕は司馬遼太郎が亡くなった時思った。

夜の自由授業に参加した生徒たち。

「もう今後、僕が歴史小説を読む事はないかもしれない。」と、本屋にも、もう行かないのでは、とさえ思った。

これは僕だけではない。戦後に教育を受けたサラリーマン、知識人、のほとんどが「貴方の趣味は?」ときかれて読書と答えた9割の人は愛読書の中に司馬遼太郎の作品が無い人があるだろうか?

三月号の文芸春秋のなかでもどなたかが書いてあった。すなわち、「日本ではこの200年に三人だけ、「歴史を作る歴史」を書く人物を生んでいる。すなわち、

・・・『日本外史』の頼山陽、『近世日本国民史』の徳富蘇峰、そして司馬遼太郎 である。と話は変わるが、ここでの僕の授業だが「作文」と「日本事情」である。日本事情の教科書はもう10年ぐらい前の教科書なので「ここにはこう書いていますが、今はもう違います。」「今は、この問題は既に解決して、今度はこんな新たな問題が発生しましたネ」

・・・といった感じで授業はすすむ、マイホーム事情にしても、一向に授業が進まない。もっとも、そんな話をするのが現代日本事情と心がけているのだが。

昨日、作文の宿題を見ていて思った。それぞれ、考えてみれば、わずか1,2年の間に、これだけの外国語表現力がよくもついたものだと。僕など中国語も、英語も文章の繋げかたさえもまだまだで、助詞などの文法や、まして、気持ちの表現などはお恥ずかしいかぎりなのである。そんな僕が

「日本人ならこんな言い方が普通ですよ。」
なんて生意気に言っていいのかなと思うことでした。

さて、また話は変わる。実は、今こういうことを考えている。時間があまっているので学生たちに司馬遼太郎の講演の話を聞かせてあげたらどうだろうか?と、たまたま、来る前に朝日文庫の司馬遼太郎講演集1を持ってきていた。

日本事情を読んで聞かせるぐらいなら「日本の行く末」「日本のありよう」を本を通して語られている司馬氏の講演を読んで聞かしたい。独断と偏見であるかもしれないけど、僕流の解釈もつけてみたいと思った。

勿論、出席などとらない、僕の講話室である。

今朝、早速、範院長に提案してみた。彼はニッコリ笑って快諾してくれた。

「それはいいことですネエ。さっそく今夜から始めませんか?」と。

7時半から9時まで、生徒の自習時間なのである。

アインちゃん、姓名りぅこぅあぃん
クラスの、というか授業中のリーダー格でした。

さあ、どんな結果になるのか?今夜は楽しみである

本好きの王くんや1年級の作家志望の屈くんなどと本を通して語り合うことは楽しい。

この小さな中国の塾から明治維新を成し遂げた偉大な明治の賢君たちを輩出した松下村塾のほんの真似事でもしてみようか?

何か力になってあげたい。と思う。

またまた話が三転する。

今日、日本の東京で悪い会社が中国人留学生をまた騙して金を何億とか、稼いだ人もいる。・・・と、学校に文書が回ってきた。実は僕は赤塚氏からの昨日のメールで概略は知らされていたのだが悪い日本人もいるものだ。

悲しい現実の狭間で多くの善良な人々が犠牲になる。

今、9時半である。念願の夜の講話を今、終わってきた。100分の講義だった。「文化と文明は一枚の紙の表と裏」と言う話をしてきた。昼間に無い学生たちの目の輝きに満足してきた。自己満足に浸る。

「難しいけどとても面白かったよ。」そう言ってくれました。きっといつの日か生徒達は必ず司馬作品に出会うことだろう。そして、学生時代に日本人のおじさんが語ってくれた司馬遼太郎の話を思い出してくれるに違いない。


2004/03/18
鹿児島に長沙路を、長沙に鹿児島文庫を。

今日は「鹿児島市日中友好協会」の立場で考えていることを話してみたいと思う。

一つ目は鹿児島市の道路に『長沙大路』愛称:チャンシャールなんて名前のついた道路は如何だろう。

『ナポリ通り』を筆頭に『パース通り』に『マイアミ通り』とある。姉妹都市で無いのは長沙市だけである。

まさか語呂が悪い、とかしゃれた感じがしないとか、有るとも思えない。それとも、誰か、付けるのに反対する有力者がいるからだろうか?

今回の市町村合併を記念して赤崎市長に是非提案したい。長沙市の場合、天保山に『愛晩亭』があるじゃないか、と言う人もいるけど、『愛晩亭』が長沙市のシンボルであり、毛沢東が此処で書を読んだり、友人と議論を戦わせた。といっても余りピンとはこない。

もう一つは、此処に来て思いついたのだが、長沙市の図書館に『鹿児島文庫』なるものを設置出来ないか、と思う。詔山通りのある「湖南図書館」の3階には日本の小説、歴史書、文化、経済から最近の流行誌、ファッション誌まで取り揃えたコーナーがある。

この黄色い文字は今紙がはってある 所、修復中。手前の男は屈クン。

入口の上には立派な文字で『滋賀県友好文庫』みたいな文字が書いてある。友好県である滋賀県からの寄贈に違いない。多分、一般からの寄贈もあるのだろう。古い小説などページをめくってみると、鉛筆で傍線が引いてあったりする。

もっとも、こんなことも本当は鹿児島市の国際交流課あたりが中心になってやってもらいたいところだが、なかなか忙しい課であるから無理はいえない。

「鹿児島市日中友好協会」呼びかけて、・・・・とても、難儀なことである。

滋賀県はどうしたんだろう。まさか、長沙市に一番大きなデパートを出してる「平和堂」がスポンサーでもあるまい。

ともかく、中国の地方に小学校を寄付する人の話を聞くけど、高度成長を続ける中国にそこまでするのはどうかと思うけど、図書の寄贈などは、文化の交流にふさわしいアイディアと自分では思うのだが如何でしょうか?


2004/03/20
私の夢・作文2

昨日は悪天候の為、また体調をくずしました。

竹岡さんの仰った通りの天気です。三月に雨が多いなんて日本ではあまり考えられないことですから。

今度は正真正銘の中国風邪です。少し頭痛もします。昨夜はもう6時頃から床に就きました。晩御飯は銀園に屈クンと行きました。

実はもう少し生徒の作文を紹介したいと思います。

私の夢/竜習

人人が自分の夢がもっています。夢のため一生懸命がんばります。夢は時間のかわりについてかわることがあります。

私は子供の時ひとつ夢があおつたときがありました。一対羽根が欲しいです。そらで自由にとび、世界をみえる。だんだん成長しましたがはねが付くことが全然できないことです。

すると新しい夢がうまれた。

私の夢がいろいろあります。ことしも私がちいさい夢がもっています。一級日本語能力試験を合格することです。

またたとえば卒業してからいい仕事をつきたいです。かねもちになることなどです。

みんな孤独感がすることがありますが夢があればさびしくなくなりました。

みんな一生懸命ゆめを実現しましょうか。

私の夢/呉魏林

私の夢は福祉院を建設することです。これは私の専門学校からずっと夢です。

専門生のときまちに遊びに行くたびにいつもまちを?していて人人にお金をあいがんしたの子供がみえます。その時私の心が痛いです。

どうしてそんな小さい子供が家がない、どうしてそんな小さい子供が学校に通わない。

小さいことの時、お父親さんとお母親さんの愛育させられないとすればこの子供の心はぜひ温かいものを貰いたいと思います。

子供が勉強ないで大人になるとどうしたらいいですか。子供はたいぶん明盲です。

私は沢山お金をためて福祉院を建設したいんです。家がないの子供が私の福祉院に住みできます。ここでみんな愛育して成長してから社会にでます。

みんなは自分のよく未来があります。これは私のさいしゅうの目的です。

近くの将来私の夢は必ず実現できると思います。

私の夢/李碧雲

誰でも夢をもっていると思いますけど人によって夢は違います。今まで私はたくさんの夢を持ったことがありました。

農村で生まれた私は小さい時から金持ちになりたいと思っていました。あのとき家はとても貧困だからいろいろなものを買いたくても買えませんでした。

父の仕事がつらくて給料も低くて本当にこまっていました。だからずっとこんな夢を持っていました。でも、年齢の違いにつれて持っている夢も変わりました。

小さい時の夢は段々消えていき新しい夢が出てきました。新聞に載った金持ちとかテレビに出た金持ちとか彼らは困っている問題がたくさんあります。

これらを見て「金だけあれば必ず幸せになりますか』と言う質問が自分によく聞きました。人間にとって金が大切なものですが人間の一切ではないと考えています。

むなしい自分を埋めるためにしたいことをたくさんしていろいろな知識を勉強して充実の人間になりたいです。これは今私の夢です。人の一生はさまざるなることを沢山おこるかもしれませんからなんでも順調にいきません。

困難にあったときどうすれば言いか自分で決まります。我慢してもっと頑張ってぜひ困難に打ち勝つと思います。ですからなんでもチャレンジする気持ちが大切なことです。

みなさん 自分の夢に実現されるように努力してください。

りびうん


2004/03/21
世界の窓という。

社会の窓という言葉はズボンのジッパーのことで子供の頃先生に「オイ、社会の窓が開いてるぞ。」と言われたものですが、長沙市にもこんな変わった名前のテーマパークがあるというので行ってきました。

天気は相変わらずパッとしません。実はこの日は今日21日ではなく先週の火曜日かの昼からでした。生徒の1人が「世界の窓 今から 行ってみませんか?」と言う誘いにまんまと乗ってしまったのです。

火曜日は僕は授業がありません。天気も悪くなく、身体をもてあましていました好都合でした。ただ、女子学生一人との付き合いは他の生徒たちに余りいいことないんじぁないかな、とも思ったけど気にすることもあるまいと行くことにした。

長沙駅まで歩き、そこからバスで40分ぐらいかかる所にある。先週行った湖南植物園と反対方向つまり北側ということになるのか。

彼女はガイドカードを持っているので50元の入場料は無料だそうだ。

中は平日の午後ということで空いていた。中学生らのグループがわいわい騒いでいる程度である。園内を回る6人ぐらい乗れるゴーカートがあつたのでそれに乗ろうとしたら5人50元一人10元という、つまり、5人集まるまで待て。とのことである。

こんな時間からなかなか人は集まりそうもない。5分ほど待ったけど結局あと30元追加して二人でスタートした。『世界の窓』とはつまり公園の場所ごとに各国のテーマパークを配置しているだけのことである。

勿論、各国のパーク内ではそれぞれの国のスーベニールや中国風にアレンジした各国料理などが販売されている。日本は桂離宮や法隆寺などがあり、結構、すてきな公園に仕上がっていた。

疲れてベンチでコーラを飲んでいたらなにやらステージで踊りや歌のライブが始まった。中学生たちがきゃーきゃー騒いでいる。とつぜん舞台に飛び乗り若い歌手の横に並ぶと、すかさず別な娘がカメラで撮る。それを見て仲間が騒ぐ。どこでもよくある光景である。

時計を見たらもう5時半。余り面白くもなかった『世界の窓』ツアーは終わった。  


2004/03/21
範典くんと禹東くん。

昨夜は完全に酔いつぶれました。白酒は50何度あるらしいです。

「天気が悪いので今夜は私の家で食事しましょう。」範先生からお誘いの電話が入った

「鄭さんも呼びましょうか」そういえば彼とも暫く会っていない。

午後3時ごろ範先生が迎えに来られた。鄭さんの家に行き、それからお宅へと向かった。鄭さんは今、仕事がとても忙しいらしくて先週も又出張だったらしい。4月になったら少し暇が出来るので魚釣りに行こうと言う。

範先生は現在、椎間板ヘルニアで苦しんでいる。腰に手をやって顔をしかめることが多い。範さんは若い頃、東京に8年ほど住んでいたそうだ。学生生活だったろうと思うがまだ詳しいことは聞いていない。もともとは上海の人だと鄭さんから聞いた。

東京近郊以外は何処にも行ったことがないと言う。折角来たのだから何処へでも、という僕などとは思考機能が違うのかもしれない。

それでも日光の鬼怒川温泉には2回行ったと懐かしそうに語った。そのうち彼の日本体験談など、書いてみたいと思う。

それにしても彼は良く頑張る。月曜から金曜まで朝8時から夕方4時半まで、その他に夜7時半からの夜授業もこなす。スーパー先生である。一度、授業を覗かせてもらったけどその授業ぶりは徹底している。

生徒たちに妥協を許さない。徹底することが子供たちへの義務であり愛情と考えているのだろう。

さて、家はマンションの5階にあった。真新しいドアが付いていた。すぐ奥さんのリュー先生が迎えてくださった。子供さんは8歳の男の子で名前は典という。 お父さん似のきりりとした顔つきをしている。

「ようこそいらっしゃいました。私は範典と申します。」
恥ずかしそうに、でもしっかりした日本語で迎えてくれた。

鄭旗さんの坊やはもう2回目である。お名前を禹東くんと言う。 禹と言う字はいわれがあるらしく昔、紀元前600年ぐらい前夏という時代の初代の皇帝の名前らしい、この人は治水に貢献したと言われている。

禹東くんが生まれた年に中国は大洪水に見舞われたという。それを忘れない為にこの名を付けたと言う。

このように中国では人の名前を付けるときは、何かにちなむ場合が多いという。

最近の日本はかというと、流行なのか、わざと当て字で読ませることが多く、ルビ無しではとても読めない始末である。

「字はこうなんだけど、読み方はこうなのよ。

なにか勿体ぶった言い方で若い母親が答える光景が多い。

書いたとおり素直に読ませなさい。と思ってる人も多かろう。

範さんは手料理が本当は得意らしく

「私の腰が痛くなかったら焼き餃子をはじめ日本人好みの中華を作ってあげたかったのに。」残念と言われた。

近くに出来たという大きな海鮮レストランで宴が始まった。白酒の応酬が続き、だんだん朦朧としてきた。

正直いって僕は生まれてこの方本当に酔ったことは無かった。

ある限度でストップするからである。でも、今夜は違った。小さなグラスでの一気飲みである。5杯位まではまだ笑みも、意識もあったけど、そのあとは余り覚えていない。

夜中にとつぜん電話が鳴った。自分が家のベッドに寝ているのが不思議だった。上海の李黎からだった。

「ケイジさん。風邪はどんなですか?」

「我酔酒了!頭疼!痛苦!」答えるのがやっとだった。

電話を切ると急にムカムカしてきてトイレに急行した。  


2004/03/21
私の夢3

もう少し私の夢を続けます。

15名の生徒の語る夢を読んだ。勿論、作文の宿題なんだから正しい表現方法やその作文にふさわしいアレンジなども指導しながら読んだ。

とても翻訳の難しいそれでいて言ってることが痛いほどわかる文章にぶつかるとしばし僕の思考経路が狂ってしまいフリーズ状態になる。

彼らにしてももっといい表現方法を中国語のボカを使えばあるに違いない。日本語に転換できないので仕方無しに書いた文章だろう。

彼らの真面目さを思い、ひるがえって今の日本の学生たちを考えると気分が滅入ってくる。

私の夢/劉江阿いん

子供時代から沢山の夢を持っていました。でもつぎつぎにやぶれてしまいました。原因はそれらの夢は不現実です。今から考えるとちょっとおかしいなだと思います。

今の夢は母のようないい主婦になりたいと思っています。この夢は見るのは小さな夢かもしれませんが実は難しいです。

母は料理が上手いしかたずけるのも上手いし、なんでも上手です。私は今着ているセーターも母が手で編んだものです。同じ住宅地の子供にうらやましいです。

この夢はかなうかどうかはまだ分りません。でも母が心配しています。私に「亜韻ちゃん、あなたはうちでなんにもしなくて、自分の本もちゃんと片付けなかった。あなたの将来は心配してるよ」と言いました。

本当にひどい母親ですね。母は私のような年齢の時、何にもしなかったそうですね。おばあちゃんからきいたのです。

私の夢/ 張 麗

世の中で大部な人は夢がいろいろあります。私もそうです。わたしはいろんな美しい夢があります。たとえばすばらしい通訳になりたいんです。

中学時、いろんな日本のドラマを見ました。その時、日本人の女性は綺麗だし,やさしいし、日本の風景が美しいと思っていました。

もし日本へ行けばいいなあと思っていました。日本語を勉強するつもりです。いままで私は一年間ぐらい勉強しています。卒業してから日本語を使う仕事につきたいいんです。

すばらしい通訳になりたいんです。でも今は私のレベルがまだまだです。ときどき話したいことが日本語で話せない。困るなあ。自分の能力を疑う時もあります。

勉強の仕方が違うかもしれませんと思っていました。

早く自分の夢をかなう為に毎日勉強しています。自信があれば何でも出来ると私は思います。

通訳は上手な言語を身につけるだけではなく質もかならずいいです。上司から任せた仕事はまじめにしなければなりません。また上司の立場に立って問題を考えます私はそういう通訳はすばらしい通訳だと思います。

私の夢/ しゃ娟

私は現実主義です。夢というものは 一体どんなものなのか、私ははっきり分りません ですが 小さい頃からよく大人になったことを想像しました。

多分これは夢か?とすれば、夢は年齢によって、変わっていくのと思います。小学校には、私、早く大きくなって兄さん、姉さんみたいに大学に入って、いろんな知識を勉強して、将来自分の会社を作って経済界の実力者になりたかったのです。

しかし、少しづつ大きくなってから、新しいものを習って様々な形の人と知り合い、みんなと経験を交流するに従って、思いかたも段々変わっていきました。

それはきびしい現実をみて私は早く幻想からさめされました。生活のために、人間は一生懸命仕事をして、人格、尊厳でうりだすこともあります。

そんなことは、以前は理解出来ませんでしたが、いまはもう段々分るようになりました。

人間の一生はもともと短くて夢のようであり、夢を追うのはいいことですけれども、夢は描きながら、実際の行動をした方が良いと思います。


2004/03/22
陽はまた昇る。

カラオケで谷村新司の歌を2曲なんとか唄うことができる。一曲はだれでも中年なら唄う『昴』である。

もう一曲は『陽はまた昇る』である。歌詞がいいのと曲調が自分の琴線に響いてくるからである。

むかし大塚博堂が好きだった頃がある。『ピアノコンチェルトはもう聞こえない』という曲が好きだった。

博堂は若くしてとつぜん亡くなったが、二人のライブは割りと見に行った。どういう訳か、この二人に関しては僕と家内は共有のファンだったので、何度か一緒に出かけたものだ。

LPからCDにソフトが変わる頃、博堂は世を去った。なんとも声のきれいな、というよりやはり自分の琴線にふれる歌手だった。今日は博堂の話をするのではない。『陽はまた昇る』である。

2年級の学生たちの宿題『私の夢』を読みながら僕はある一つのフレーズが付きまとっていたのだ。

そう、あの谷村の唄う『陽はまた昇る』の最初の部分である。

《ゆめをけずりながら~年老いて行くことに、気がついた時、はじめて気づく空の青さに~》

今日の5,6時間目は作文の時間、僕は早速、一番の歌詞とその訳を電子辞典で調べ、学生たちに公開した。

一行一行書いていく、そして歌詞のイメージを下手な中国語で説明する。皆が熱心に僕の書く歌詞を書き写しはじめた。

《あの人に教えられた無言のやさしさに
    今さらながら涙こぼれて
           酔いつぶれたそんな夜》


《陽はまた昇る どんな人の心にも
  あぁ生きてるとは燃えながら暮らすこと 
    冬晴れの空 流れる煙  風は北風・・・》


僕がフレーズごとにハミングしたらすかさず

「先生!唄ってください」の合唱になった。「まあいいか、狂ってもみんな知らないんだから・・・」と唄い始めたら、何とカラオケで唄った時より乗りが良いのである。とうとう気分よく最後まで唄ってしまった。

すると次にまた催促が来た 
   「教えてください!!!」

というわけで今日の授業は谷村新司歌謡教室で始まったのである。

長沙の空は今日も冬空、そして、風は北風の吹き荒れる冷たい日でした。


2004/03/23
今日は雑文。

竹岡氏ご夫妻(彼のHPより無断で拝借)

ヤフーの《今日から一週間の長沙の天気》を見てみるとすべて雨である。最高気温15度、最低8度が今日からの一週間の予想である。時々は晴れ間もあるが、逆に寒風も吹く。夢も希望もない3月の長沙市。

と教えてくれた滋賀の方、竹岡健一氏に今日はお会いする日である。彼は奥様と共に今月で、一年間の長沙市での新婚生活を終え帰国される。長沙行きが決まってから、僕のこの町のイメージ作りに一番参考にさせてもらったホームページの持ち主である。
http://www.geocities.jp/t_a_k_e_o_k_a/

これで、途絶えてしまうと思うと寂しい。今時珍しい熱血教師だったようで長沙大学もいい先生を一人失う。

どんな話が聞けるか楽しみである。

竹岡氏と生徒さん(無断拝借)

それはそうと、この頃困ったことが起きた。というのは、僕が自慢げに

「皆さんの作文《私の夢》を僕のHPで僕の友人達に紹介しましたよ」と言ったら、皆がワンバー(インタネットカフェ)に行って見始めたらしい。写真入りだから、「誰は綺麗に写っている。」とか、ガヤガヤ声が聞こえはじめてきた。

なにしろ彼らは日本語が読めるのである。先日も、火曜日にシャケンと《世界の窓》に行ったのは他の学生には内緒だったのである。これから、隠し事が出来なくなる。誰が好きだなんて、ここで書いたら大変!

そうか、隠さなければいいのか、なんでも、おおらかな大陸のこと、先生は「来るものは拒まず来ないものは追わず」書きたいことは書けばいい。テクニックなんて言葉は捨ててきた筈じゃなかったの? そうですネ。

雑文ついでにもう一つ。余り好きでない食べ物の一つに野菜サラダがある。いつも、家の者に「生野菜をどんどん摂らないと・・」と言われる度に「ウサギじないのょ ボク~は。」と軽~く、あしらっていたものだ。

その野菜がこの頃目の前に浮かぶのである。フレンチドレッシングなどをたっぷりかけてバリッバリッと兎ならぬ牛にでもなりたい気持ちだ。

こちらのスーパーでも生野菜は新鮮なのがいっぱいでている。ただ、こちらの人は、生では食べないのである。必ず、煮るか、焼くか、揚げるか、炒めるかなのである。

美味しそうなキュウリ、真っ赤なトマト類、これにドレッシングかマヨネーズを付けてかぶりついたらと思うけど、農薬いっぱいだと聞けば躊躇する。

何年もの間、中国を旅行して来たが、考えてみると、食に関しては日本の国内旅行みたいなものだったのかもしれない。中国各地の五つ星の外国資本ホテルでの朝飯はもうれっきとした西洋バイキングなのだから。

昨日、ふと手の甲を眺めてビックリ仰天した。先日見た2000年前の美女ミイラの手じゃないか!これは。

しわだらけの甲に血管が黒く這って見えた。瞬間、思いもしなかったフレーズが飛び込んできた。

《ビタミン不足・ビタミンC・かっけ》
《ビタミンA・B 鳥目・くる病・》
《チオビタ・グロンサン・ユベラ・アリナミン》

今まで自分の?人生の中で不要と位地づけていた語句の数々である。そのすべてを「現在我要!」なのである。

今夜は久し振りに楽しい晩餐をさせて頂いた。最初に書いた竹岡健一さんご夫妻との長沙&中国よもやま話に花が咲いた。教えて頂くばかりで先方にとっては迷惑だったかもしれないが。インターネットの功罪のまさに功の典型のように思えた。

写真(中)は、竹岡さんに案内された有名な餃子店《松花江餃子館》の記念のティシュである。

ついでに写真上は昨日鹿児島から届いた荷の中に入っていたチオビタドリンク12本である。中は、朝粥にみそ汁、カイロ(現在必需品)。


2004/03/27
岳麓書院

長沙市といっても日本の旅行案内で目に付く観光地としたら、2000年前の女性のミイラが形が少しも崩れていないばかりか、皮膚がつやつやし一部の間接を曲げることさえ出来て、靭帯も弾力があり、死んだばかりの人の体と変わらない、と世界にセンセーションを巻き起こしたあの《馬王堆漢墓》と《愛晩亭》ぐらいである。

《岳麓書院》

日本で魅力ある旅行地として認知されない理由のひとつでもある。事実、この二ヶ所にして見ても、行ってみると、《馬王堆漢墓》に2000年前のミイラが居るかと言えばそこにはいないのだ。たい侯夫人のミイラとその副葬品の殆どは尖子公園の隣にある《湖南省博物館》に飾られてある。

一方、毛沢東が若い日に参謀たちと国家の展望について語り合ったという庵?《愛晩亭》は何の変哲もない屋根つきの門といったところである。観光客が訪れたとしてもあの三峡下りの際、立ち寄る鬼城にも及ばない。

西郷銅像前で写真を撮るようなものである。

やはり、長沙の最大の売りは《岳麓書院》でなければならない。地味な存在かもしれないが、岳麓書院は訪れるだけの価値と、訪れた後の満足感も充分得られる観光地?といえる。

宋の時代,四大書院の筆頭に数えられた。世界で最古の大学に数えられている。北宋の976年の創建以来、千年以上もの間栄え続けてこれたのは、有名な学者がここに集まって講義をし歴代の帝王が題字を贈ったことと大きな関係がある。

書院は湖南大学の広大な敷地の奥、岳麓山の麓にあり、入場料は18元である。ちなみに湖南大学生は生徒証を見せると無料とかで案内してくれた李先生は笑っていた。学生たちの寮が近辺に建っていて、この書院の庭園で読書をしたり語り合ったりするらしい。旧七高生の姿が一瞬だぶった。

ちなみに、ここにある湖南大学は中国国内で唯一、校門と敷地囲いのない大学だとのことである。湖南一の優秀校であるが最近では中山大学の方が生徒の質は上だと李先生は話してくれた。「私は中山大学院生」ですとのことだったが。

岳麓書院は入口の門、広間、東屋、楼閣、窓つきの廊下や小屋、祠、廟などからなる。

特におもしろいのは毛沢東の若い頃の寝室や部屋、歴代の要人たちの訪れたとき書いた書、とその時の写真など興味深い。

表の門に「唯楚有材・於斯為盛」の対句がある。

《楚に人材ありて、はじめて書院の繁盛有り》なを看板の《嶽麓書院》の文字は宋の真宗の肉筆と伝えられている。また、奥の広間にある朱喜自らの筆による「忠孝廉節」の碑は有名。

杭州に行った時、深栖さんと訪れた南宋の武人《岳飛》廟を観た時も感じたことだが宋という時代、やがて北の騎馬民族《元》や東北《金》などに滅ぼされる《漢民族》の華やかな一つの爛熟の世代にいつも自分は惹きつけられる。もう一度、ここ、《岳麓書院》は訪れたい。お勧めポイントといえる。

ここ岳麓山は山自体が一大行楽コースになっていて半日コースでゆっくりしないと本当のよさは分らない。もし仮にツアーのコースとして、この山のポイント、《幾人かの有名な先達の墓(国民的英雄・黄興の墓も含め)を訪ね。麓山寺、白鶴泉、愛晩亭をもし仮にツアーバスで回ったとしたらフイルムに収められた記録の何十分の一も本当の頭の中の記録には残っていないに違いない。

やはり、心地よく歩きながら現れる場所、場所がその歩きを含めてよみがえってくるものだからである。その辺が博物館に何時間いて眺めても、数々の遺品、出土品などが何処の博物館で見た物なのか記憶に乏しい理由かも知れない。

さて、期待して行った《黄興墓》は余りにも立派??過ぎて、何の感傷も沸いてこなかった。あれは、墓とは言わない。日本では、モニュメント(記念碑)と言います。

そう言えば、湖南大学の中央にも巨大な毛沢東の像が建っていた。

背面に回って建立記録を見ようと思った。そこに書かれて いた黒マジックでのイタズラ書きが目に入った。心無い学生の書いたものか?旅行者の誰かが書いたものか?分らないが、ここで《その文字》を書く気になれない。

そういえば、案内してくれた李先生が語っていた。この山もこの頃、物騒なのです。この前も山中で人殺しがありました。ゆすり、泥棒はしょっちゅうです。
僕は答えました。日本も同じですよ。何処も危険は一杯ですね。それは、治安とか生活格差の歪からだけではなくて、人のこころの問題でしょうね。と答えておきました。

帰りのバスの中で学生と話しました。僕ともうひとり年老いた腰の曲がった老人がいたとします。あなたは、空いた一つの席にどちらを掛けるように勧めますか?

「わたしは先生にその席をすすめたいと思います。でも、もし、先生がその人に勧めたらそれはそれで理解できます」彼女は答えました。

11時からバスに乗って訪れた今日の《岳麓山一日ハイキング》も大橋1号を渡る頃はもう時計の針は6時を過ぎていました。バスを降りて歩く、皆の足もこころなしか引きずるような足取りにみえました。

帰る途中、一軒の餃子屋に立ち寄り餃子を主食に2本の冷えたビールを7人で「乾杯!」しました。


2004/03/31
長沙市対外友好協会副会長・雷楚珠氏の晩餐会

今、4月3日の朝、ちょうど5時です。

まもなく、王こうけん君からの電話が入るはずです。なんと朝6時の汽車で岳陽に行くのです。昨夜は早く寝ようと思っていましたら逆になかなか寝付かれません。

雷楚珠氏

皆も経験がある筈です。一種の興奮状態なんですか。

何も、こんなに早い汽車で行かなくても1時間半で岳陽に着くのに、と思いましたが、岳陽出身の王君にしてみれば次の汽車は9時だし、しかも、座席指定が売り切れとあっては仕方がなかったのでしょう。

なにしろ、週末の汽車は混むそうですから・・・・。

それにしてもよかつたです。

インターネット接続が可能になったからです。27日からこの日記が書けなかったのですから。

とりあえず、今から行ってきます。(二日後)

今日は本当は4月5日の月曜日です。詳しい岳陽紀行は別サイトでゆっくり書こうと思っています。

そこで、この日記欄では、このところパソコン不調で書けなかった(原因はどうやら、知人の送ったメールにウイルスが付いていたようです。下記の謝りが来まし。)

誠に申し訳ございませんが、僕のPCに「Netsky」が感染されたことを判明致しました。僕の油断で皆様には、近日、連続的にウィルスメールに攻撃されたと思います。

皆様に多大な迷惑をおかけしてしまったことに、心からお詫び申し上げます。このたび、本当に申し訳ございませんでした。ちなみに、ウィルスの再定義がすでに行われ、PCから問題の「Netsky」ウィルスを駆除していました。

・・・・・・・以上。名前は伏せときます。

そこで、それまでの、行動記録の主なものを振り返ります。

実は、大きな事がありました。長沙市の外事弁の人民対外友好協会・副会長兼秘書長の雷楚珠氏と副主任の湯さんに招待され《一路??》という長沙で一番大きなレストランで晩餐をうけました。

海江田会長を良く知っておられる方で髪は黒く若く見えましたけど若しかしたら、僕と同じように、見えるだけかもしれません。写真で見て下さい。と言いますのは今の仕事にもう17年も在職されてるし、貫禄から見て50台ではないでしょうか?

いろいろな話をしました。質問も受けました。日本に研修に来ている袁静さんのことも話題に上りました。通訳をしてくれた李さん(27歳、よりずっと若く見える女性)の素晴らしい日本語X中国語でとても、賑やかな楽しいひと時を過ごすことが出来ました。


2004/04/01
再度、天心閣へ登る。

3月30日(火)の記録です。

2年級の李湯竜くん、1年級の王志国くんと3人で、この前行った時に登らなかった天心閣の閣楼最上階まで登って来ました。

一人50元という入場料は学生達には少しどころか、とても高い値段です。

あの時は下から見上げて写真だけ撮ってきましたが、鄭旗さんが「上まで登りましたか?あの上から、長沙のまちが全部見えます。」と言った言葉が気になって火曜の休みを利用して再度挑戦しました。

天心閣の古城壁が最初に建造されたのは2000年前で、城壁の上に建つ天心閣は数百年の間に改築、移転を重ね現在の形に落ち着いたのは1983年のことである。建物には彩色の絵画や彫刻が施されている。

三重の楼閣からなり鳶色のレンガ、反り返った軒先が特徴だが、中国の城閣はその殆どが反り返っているので特徴と言えるかどうか?

実際に最上階まで上がって見ると長沙の街並みを一望するには長沙の街はここ数年の間に余りにも急変貌、発展を遂げたのではないだろうか?

ほんの一部が見えると言った方が正しいような気がした。それより、ここ天心閣の特徴は、やはり太平天国〔1851から64年)の時の大砲台跡と二基だけ錆びた状態で据えられていた当時の大砲だろうと思う。


2004/04/03
岳陽楼に登る

岳陽は古くは巴陵または岳州と呼ばれていました。

面積は84平方キロ。人口は78万、湘江の下流、揚子江が洞庭湖に流れ込むところに位置しています。

今回、まる2日のコースで一日目を南湖と岳陽楼と田舎(王紅軒君の実家)と市内めぐり。二日目を君山と洞庭湖という、ゆっくりコースで三人で出かけました。

先にも書きましたが朝6時の広州から岳陽行きの火車です。朝まだ暗い長沙駅で舎絹を待ちます。硬座しかないそうで「まいったナ」と思っていましたが軟座と殆ど変わらない綺麗な車両でした。口の悪いシャケンが「馬鹿にしないでよ!」怒ってました。

この後、バスの中の床のメチャ汚れを撮ろうとした時も怒りました。愛国心の強い女性です。

実は、彼女の実家はここより西にある「常徳市」です。常徳市は第二次世界大戦のさなか、日本陸軍がとても悪いことをした所です。空軍による爆撃の際、細菌を撒いたとされている街です。

だから、僕はシャケンがどんな悪口を叩いても許します。我々の父の代が彼女の祖父の代を、そして、父の代に与えた悪行は謝罪し切れるものではありませんから。

広州からの車両は、対面4人掛けのほとんどが寝台代わりでした。起きてる人はわずかで思い思いのスタイルです。旅も市内も交通機関をほとんど公共バスと普通汽車を利用しますが、マナーは未だ未だ、と言っていいのか?この先も変わらない国民性?というのか。

公共性という感覚はなさそうです。嫌煙権などおそらくあと数年はかかりそうです。

次の三つがどうしても気になります。「散らかす。(床は食べかすを撒き散らす。)まず、譲らない(老,子連れ関係なし)。車内喫煙」 良いのは、叫べば何処でも停めてくれること。(長沙市内は多分無理)

さて、《岳陽楼》はもともとは城を守る兵士たちの休憩場所でした。三国時代に呉の大将、魯粛がまずここで水軍を訓練する為建て、次に唐の時代、楼閣に建て直し南楼と言う名をつけました。

宋の1044年藤子京が《岳陽楼》を建て直しました。そして彼の友達であった範仲がここで作った「岳陽楼記」で《岳陽楼》は天下に名を知られました。

岳陽楼は《武漢市の黄鶴楼》《南昌市の藤王閣》と並んで江南の三大名楼と言われています。

高さは21メートル構造は柱4つ、三階建て、特徴は屋上のかぶと状建築です。歴代古建築では極めて稀と言われています。現在の楼は清代のものです。

   《岳陽楼に登る  杜甫》

    昔聞く洞庭の水
    今上る岳陽楼
    呉楚東南にさけ
    乾坤日夜浮かぶ   (天と地) 
    親朋一字無く    (一字の便りさえ)
    老病弧船有り
    戎馬関山の北   (軍の馬)(故郷をさす)
    軒に憑れば
    涕泗流る (涙)

王紅軒君のお父さんが作ったご自慢の青蛙(チンワ)20匹のうち3匹を食べました。味はハオ、ダンシ、ブハオカン。(見た目はグロテスク)


2004/04/04
君山銀針

君山は洞庭湖の中に浮かぶ小さな(と思って行ったらとても驚くほど大きな島だった。正直のところ、日本で考える小島とは全くイメージが違いますね。)でも、旅の案内にはそう書いてあります。

君山銀針とは・・・その島にだけ採れるユニークなお茶のことです。

これも正直なところ、中国は何処に行っても「ここはお茶の名所といいます」ね。

説明を聞いていると、買って見たくなるから不思議です。

食堂や、バスなどで応対される服務員(小姐たち)と土産売り場の小姐たちは

「ほんとうに、同じ中国人?ジェンダ!タシー・イヤンダ・ジョンゴレン・マ?」と訊きたくなりますね。

さて、君山銀針は芽の先が丈夫でピンとしていて綿毛が多く長さも太さも均一で、海のほうずきに似た感じです。

ガラスの長めのコップ(よくこちらの茶館で出る)に熱湯を注ぎます。湯気が逃げないように蓋をしますと、数分経つと一本一本の茶がスーッと底の方に沈んでいきます。全部底に沈んだ様子は正に奇観ともいうべき、今まで見たこともない美しさです。

又熱湯をそそぐと、今度は、一本一本の銀針状の茶が上に上がります。眺めているだけで楽しい茶ですね。

味の方はあっさりしていて、そして、少々苦味があって結構美味しいお茶です。
 いつか、上海で買った「一葉茶」のあの苦さに比べれば飲めるほうかも知れません。

もちろん買いましたよ。ここでだけしか買えないものですから、皆さんの中で「イャー、飲んでみたいなァ、眺めて見たいもんだなァ・・・・」と、思った人は僕が帰った頃メールをください。少し、試飲程度なら送って上げましょう。

ともあれ、お茶の味道については、日本人と彼らとは味覚が違いますので何ともいえませんが、これは、僕の持論ですけど、もし、日本茶(煎茶・抹茶・ほうじ茶・深蒸し茶)などの味を覚えたら、中国人もどちらを選ぶでしょう?

日本に来て緑茶に親しんだ中国人の殆どが烏龍茶と両方出したら緑茶の方を選びますね。慣れというのは怖いものですね。

何倍も飲むなら龍井茶ですね。僕は・・・

こちらの喫茶店(大きいのがありますよ)では茶がいいですね。少し減ると小姐が熱湯をすぐ注ぎ足してくれます。

全く違うのは飲むものに対して中国人は第一義に考えることは「それは体に悪い。その飲み方は良くない」こう言います。これは、子供の時からの洗脳でしょう。何千年続いている観念といえますね。

話が少しそれますが、まず食事の時、絶対、お茶や水やまして、アルコールなどは一緒にというか交互にはとりません。

かなり固め(慣れない日本人なら多分箸で取れないぐらい)のご飯に辛い(唐辛子や塩)おかずでも何も飲みません。食事のとき飲むと身体に悪いからです。スープは飲みます。まして、ごはんと一緒に冷たいビールを一杯など言語同断ですね。

僕はいつもこれをやります。こうしないと僕の喉を食べ物が通らないからです。

おまけに青島ビール350ミリ一本は3元(45円)ですから、日本人なら同じパターンをとると思いますよ。

中国の食堂は大きな菜館は別にして、冷やしたビールはありません。ビンダ!と言うとドン!15分。と答えます。「冷蔵庫で冷やすから15分待ってくれ!」夕べも長沙駅近くの餃子店で言われました。この頃は暖かいビールにも慣れてきました。

湯船に入る習慣のない中国人にとって「風呂上りにキューッと一杯は」ありません。可哀そうですね。でも、この頃少し変わってきました。例の南国雨林や碧水温泉です。

あそこでは風呂上りに休憩室で冷たいビールを飲みながら肴をつまんでいます。もう、日本と全く同じ光景です。「身体に悪いよ。」は何処に行ってしまったのでしょうか?ついでに書いときますが、ここの休憩室はチョットすごいですよ。

豪華ベッドやふわふわ椅子にフトンつき大部屋(セット椅子が30台並ぶ)は暗くて眠りを誘います。可愛い小姐たちがドアのところに立っています。(変な想像はしないように。健全サウナですよ)

この前はベッドサイドに冷えたビールをとって30分寝てました。

いやぁ、話が何処から飛んでしまったのでしょう?

君山の銀針の説明が脱線もいいところです。しばらく、インターネットが故障していたので、喋りたい事が溜まってしまいました。実は、ここ岳陽ではもっと楽しいことがあったのですがちょっと公表出来ません。

どうしても訊きたい人は、一緒に夜釣りにでも行った時、船の上から月や星を眺めながら、クーラーの中から冷えた発泡酒でも飲み合いながら、お話して差し上げましょう。

写真の説明かたがたお話しますと、僕はここで高貴な僧から運姓を見て貰いました。結果的には120元のドデカイ赤ローソクを買わされた?(などと佛時においては言ってはいけない)点けた火は100日燃え続けここの僧が拝してくれるそうですから安いものです。

僕は佛と強い因縁があるそうです。孫と貴方は縁が強く、又、祖父母との繋がりもとても強いのだそうです。

貴方は金や地位に今までの人生でこだわって生きてこなかった、これからも同じように生きてください。と僧は僕に語った。

その生き方の全ては貴方の孫に伝わり、お孫さん自身の心の支えになるのです。・・・金色の護身符と僕の尊者を一枚頂いた。帰ったら、孫娘・美宇ちゃんに早速、あげようと思う。

長沙の駅に着いたのは9時30分でした。

来週はこの駅から張家界へ向けて、二泊のたびに出ます。張家界から来ている王志国くんの案内で、費用はなんと往復の寝台列車代込みで2万円そこそこというからビックリします。


2004/04/06
開福寺と湘江を一人で散歩しました

開福寺は長沙で一番有名なお寺と聞いていた。


中国の重点仏教寺院の一つにかぞえられているらしい。岳陽から佛づいてしまったらしい。

通代ののが移ったのか、ここでも又、家族の御札を買ってしまった。一枚3元だから「思い切って」ということにはなるまいが。長沙いるうちに一度は行って見たいと思っていた。

先週の火曜日は天心閣に行ってきた。今日の火曜日も昼からとてもよい天気になって来た。折角ある休みだ残り少ない長沙での一日を暗い部屋に一人で居ることもあるまい。

一人で何とかなるだろう、とタクシーに乗った。観光マップを運転手に見せて,行き先を告げた。
カイフースーと言ったつもりだったが案の定、何度も聞き返された。僕の方が標準語で彼が長沙弁だと思うことにした。

開福寺は立派な山門があり、くぐると線香の大きいのを買わされる。それを右手の火葬場のようなところで燃やすらしい。人のする真似をすることにした。

コインをもらい(入場票を買った時)それを真ん中にある菩薩像に投げるらしい。下に落ちずに引っかかったら運がいいことらしい。何も分らない。やはり、生徒を一人連れてくるのだった。

何か古さからすると明か清の時代の建物に似ているけど中国の場合、よく分らない。日本だって同じことだ。中国ばかり悪く言ってはいけない。偽物だって、土産売りだって同じじゃないか。

左右に大きな池があってなんと青亀(ウーグイ)が甲羅干しをしている。その数ざっと数百匹。壮観だった。

どうもこのところチンワ(蛙)とウーグイ(青亀)づいている。これにシャー(蛇)が加わったら長沙の三大げてもの(すべてとても美味しいらしいが)と僕は命名した。


2004/04/07
思いっきり日記風に書くと・・

昨夜は真夜中に突然閃光が光ったかと思ったら一瞬ここはバグダットかな、と錯覚しそうな爆弾攻撃・・実は大雷の音でした。

長沙に来てもう何度か目ですがびっくりさせられます。日記風に昨日の午後からを書くと次のようになります。思いっきり、日記風です。

(又、失敗をしました。先ほど、1000字位の文字を書き込んだのです。日記文を・・・一瞬のうちに消えてしまいました。

こんなことがもう何度あるのでしょう。

下書き無しの文章ですから泣きたくなります。気を取り直して再度挑戦です。)

新しくなったという湘江大道を散歩しました。

長沙の人は本当に凧揚げが好きですね。子供と若い人はやりません。

興じているのは以外の人です。別にぜんぜん違和感がないから不思議ですね。

テクニックがあるのでしょう。見ていると大きなリールを時々しゃくります。釣りと通じるところがあるのかもしれません。

空と海の違いだけなんでしょうか。やってみたくなりましたが勇気がありません。1メートル間隔に立って揚げているのですから。

さて、帰って来たのは5時前だったでしょうか。金庫のドアのような頑丈な入口を開けると中ドアが開いていました。慌てて出たものだ。

用心しなきゃ、と思い部屋に入ると、部屋の中にポンカンが袋ごと置いてありました。

「アレッ!範先生が来たのだろうか?」と思っていると、何やら外がゴソゴソします。すると、使っていない部屋が開いてそこから、年配の女性のニッコリ顔が現れました。大家さんでした。

つまり、大家さんが自分の部屋に何か衣類でも取りに来たのでしょう。

通じるような通じないような会話で、それでも30分以上はお互い椅子に座って会話をしました。

大体言っておられる事が理解できるようになったので僕も大したものですね。尤も、会話の内容が限定されていますからね。

お互い、あり合わせの物を交換し合ってお別れしました。結局、ひとやすみ出来ないまま夜の講義に出かけました。

ところが、かんじんの李クンと王くんが来ていなかったので、隣の1年生の教室に屈君が居たので遊びに行ったら、そこで一年生の女子生徒に囲まれてしまいました。

質問されるままに、日本の話、僕の中国の旅の話など、屈君をからかいながらの2時間がアッという間に過ぎてしまいました。

MDに内容を録音していたので帰ってから聞いたところ結構、中国語の勉強になりましたね。

九時が過ぎていましたが腹が減ったので屈君と近くの食堂に行ってワンタンを食べましたがそれがとても美味しかったですね。

値段を後で聞いたら3元(45円)だそうです。いい夜食の店を見つけました。

写真は湘江べりで凧揚げに興じる人.


2004/04/08
今夜は袁静と逢える

今日の長沙の天気は100点です。ここ長沙の一日は空模様で決まりです。

朝8時からの作文の授業を今、終えて、部屋に戻って書いています。多分、これから、一人で湘江の川べりの散歩か、遊覧船にでも乗りに行こうかと思っています。

5分ほど前にウルムチの馬麗春さんと電話を交わしました。5月は前半、新彊(しんきょう)ウルムチに10日ほど行くことにしました。馬さんがカシュガル、コルブト、カラクリ湖などを案内してくれるそうです。

範先生ご夫妻や学生たちには悪いけど僕の心は予定を一ヶ月早めることに決めました。ですから、出来れば湖南に居るうちに、南昌とろ山には行きたいですね。

明日の夜からは待望の《張家界》に行きます。

汽車で6時間ぐらいかかりますが1年の王志国くんが案内です。

日本からだと考えられない位安い費用で旅が出来ます。僕の日記を見ている方は「羨ましいなぁ。」と思っておられる方もおいででしょうが、個人旅行の醍醐味でしょうか。

と、威張ってみても、実は、いつも誰かのサポートつきの旅で威張れたものではありませんね。

さて、思いついた時に最近のこちらでの旅のチェックポイントを記しておきましょう。

今までも書きましたが団体での食事の場合は不要ですが、個人的に食事をする場合、日本人はスープのような飲み物をとる習慣があります。

そういう時、あのインスタントみそ汁(・お湯だけで出来上がる・)は便利です。是非携帯して、お湯を貰って作りましょう。言っておきますがこちらのスープはまず飲めませんよ。(少なくとも炒飯の時は必携です。)

それと、ポケットティシュは携帯不要と言っておきましょう。嫌というぐらい、何処ででも出ます。

財布状になっていて日本のポケティシュを二個くっ付けたようなのです。ですから、旅行バックによくティシュを沢山持つ手行く人が多いようですが必ずそのまま日本に戻ります。どちらかと言えば、「濡れティシュ」の方が役に立ちます。 

今夜、袁さん、鄭さん、範さん4人で食事をすることに決まりました。・・・・・と思って楽しみにしていましたら袁さんが会社の仕事が入り急に来れなくなったそうです。袁さんと会う為の集まりだったのに残念です。

食事のあと、三人でまたまた例のサウナ《碧水藍天》に行き、二階の休憩広場で若い男女の素晴らしい器楽演奏を聴き感動しました。


2004/04/17
好久不見!お久し振り!

もう「ケイジの長沙日記」は前回の《張家界紀行》で6月までサヨナラかと思いました。まあ、読んで下さってる方は余りは居られないでしょうが、最大の読者である本人が一番寂しい思いをしました。

いろんなことが起きていくのに忘れていくのは寂しいものです。これが連れでもいると、その人が覚えてくれているものですが、連れが中国人ではメイバンファーです。

ご安心ください。とりあえず、繋がりました。僕のPCに問題があったのではなく、やはり(よく、こちらに来ている人のPCがこうなるのを、HP上で見てはいたのですが・・)なにやら、長沙市のアクセス番号(ダイヤルの)が変わったとのことで、直してもらいました。

今回も学校の新婚ホヤホヤ美女・寺崎先生(中国名:ニエ・巧燕)さんのお陰です。もう諦めていましたから

(ワンバーにでも行ってポケスペ・hotmailのようなもの。だけでもみようかな、と思っていましたから)僕にとっては大恩人ですよ。(謝々)

さて、何から書いていいか分りません。《張家界紀行》は続きですから、思い出しますので、ちょっと置いときます。考えてみれば、忘れるほどの期間でもありません。とりあえず、目次だけ書いといて、あと入れ込んでいきます。

13日:3時頃から日語学院親睦のバーベキュー大会を烈士公園で開催した。

15日:袁静さんペアを交えて範院長・鄭さん、僕で晩餐会を《一路平和》で開催。

16日: 袁静さんと二人で華天ホテルのレストランで食事をしたあと、酒芭に行こう行こうと誘われたがあまり乗り気がせず、歩行者天国をブラブラ。

17日:今日は袁静さんの実家でご両親が昼、夜接待してくれるそうで、ワーゲン・パサートで迎えに来てくれることになっている。
 
18日:明日の日曜は鄭さんの実家で魚釣りを愉しむ約束で、参加者は《一路・・》のメンバー5人。市内から一時間ぐらいらしい。

20日:は学生の朱さんが「私の田舎に連れて行きたい。」バスで1時間ぐらいで、とてもいい所とのこと、「いってみてもいいかな?」「行ってもお食事は要らないよ」といっておいた。又、蛙や亀が出ても困るから。

以下、烈士公園でのバーベキュー大会


2004/04/17
5月の計画は変更になりました

まず、ゴールデンウィークの計画は四っありました。

 ①杭州まで汽車で行き、招興・寧波3泊4日。
 ②桂林の金さん宅を訪問する。
 ③南昌からロ山の2泊3日。
 ④鳳凰古城への4日の汽車の旅(780元)

一番希望は③だったのですが交通機関がバスしかなく6時間の普通の観光バスの旅は大変。Ⅰ日千元出したら個人タクシーを出すと旅行社に言われたが、そこまでして行くこともない。最初の①を加治佐 昭(合肥市)と一緒に行こうかと思っている。でもこのシーズンの中国は春節に劣らぬ混雑らしい。

上旬は新疆の方を10日ほどかけて前回行かなかった所をと思い、馬さんにプランを立ててもらった。以下のようなプランである。

大石さん:

こんばんは。

五月の旅行の件ですが、新疆にはカシュガルのほか、また行きたい所がありますか。以前行ったトルファンと天池にもまた行きたいのですか?

新疆南のところはちょうどういい気候なんですが、北の部分はちょっと寒いです。カシュガルだったら、カラクリ湖の見学は一日かかりますが、もし市内の観光とあ わせれば、二日間十分です。

そのほか お勧めすると、クチャ「庫車」キジル千仏洞も見る価値があると思います。一日ツアーです。カシュガルから列車でクチャへ行くと、九時間ぐらいかかります。ウルムチとクチャの間、航空便あります。

新疆以外はその時期に青海省の青海湖が一番いい季節を迎えるそうです。チベット風格のお寺も見学できます。ウルムチから西寧の航空便は二時間で1030元ですが、早めに要約すると割引があります。

月曜日だけあるそうですが、間に合わないと、まず ウルムチから飛行機で蘭州にいて(二時間で800元ぐらい手に入れると思う)、それから蘭州から西寧へ列車(三時間かかる)でいけます。蘭州から100キロに有名な炳霊寺石窟が見学できます。

西寧から西安までの航空便も列車もあります。航空便は590元ぐらいです。

以上の航空便は早めに予定するとすべて割引があるです。三ッ星ホテルはほとんど一部屋が300元/日以内、手に入れると思います。

私は大体五月の十五日まで、休みが取れますが、弊社のツアーは私も西安に行くかどうかまだ決まっていませんが、今月末までに分かるようになると思います。もし 西安にも行けるし、時間にも間に合えれば、西安まで御供になれるだろうと思いますが、言うまでもなく、大石さんのご希望に従うことは当たり前です。

また いろいろな詳しいことを打ち合わせなければなりませんが、メールでご希望をお教えください。メールを送ってくれてから、携帯メールでお知らせてくれれば一番いいです。

馬 麗春

右:馬麗春さん

●ほぼ、80%はシルクロード(新疆)カシュガル紀行を決めていたのですが経費の面というか、実は中国は今、ガソリンが不足していて、4月20日から全国内航空運賃が20%アップされました。

従って、割引も当然少なくなるので、まず、ウルムチ・長沙間が2090元になりました。日本円にして3万円弱です。カシュガル間を入れ、馬サンの分を加えたりすると、結構な額になりそうです。

長沙・上海が890元(1万2千円)長沙・西安も同じく890元ですから、交通費は考えてしまいました。次の機会に2,3人で持つと一般ツアーよりずっと格安なので、残念ですがその時まで延期します。

馬さんも、とても残念がってました。多分一人で、西海湖・西寧・蘭州などのチベット色濃い地方(今一番言い季節)を旅してみたいと思っています。時間と余裕があれば、九塞溝・黄龍あたりも欲張りたいです。

もっとも、九塞溝・黄龍は長沙からの中国人ツアーだと5日間で1800元(飛行機・ホテル込み)2万4千五百円ですから、ウルムチへの片道飛行機代より安いです。日本から、豪華五つ星に泊まって幾らだか分りませんが贅沢言わなければ安いものです。


2004/04/19
袁静さんと・その1:

15日、15日、17日の三日間はまさに、袁静さんとの毎日でした。

買い物、食事、市内見学、ご両親の実家に訪問と。「何処に行く?」「何を食べる?」「酒場(字がちがうジューバーと呼ぶ巨大なクラブとディスコ)行こうか?」。とか、「もういいよ」と言うと、「大石さんツカレマシタカ?」「いいや、別に」と言うと、「足マッサージしたいですか?」とくる。

あつかんは3日目でした。朝11時に学校前に迎えに来ました。ワーゲンポロを自分で運転してきました。このむちゃくちゃ運転の街で自分で運転するなんて無謀じゃないか!言いたい所でした。

一日に4,5件の交通事故に遭遇します。すごいと言うより呆れてしまいそうな交通状態です。主要道路上での、Uターン、信号無視、が車も歩行者もバイクも同時に行われる交響曲です。

案の定、袁静さんは下手(なれない)姫ドライバーでした。特に駐車時は冷や汗ものです。

袁静さんのご両親はとても穏やかな微笑をたたえた上品は方でした。美味しい家庭料理は最高でした。人民政府のお役人さんには。とても見えないお父様です。家も素敵なマンションです。

食事にあとは市内で有名な美味しい水の出る公園に連れていってくれました。昨年出来たという体育館の隣にあり、名前は「白沙古井」でした。あの長沙の地ビール「白沙ビール」の名の元だそうです。あとで、観光地図を見ても、何処にも記載されていませんでしたが可愛い小山のような公園と、水を求めてやって来た市民で賑やかでした。

写真は袁静さんのご両親と。次は日記に書いた「白沙古井」明朝からわき続けている水らしいです。勿論、飲んでみました。美味しかったということにしておきましょう。最後は「長沙市図書館」に行ってきました。

友好協会の雷副会長に招ばれた時、鹿児島市からの寄贈の文庫が有る,と言われたので、覗いて見たかったのです。残念ながら、何処のもコーナーはありませんでした。

2004/04/19
袁静さんと・その2

袁静さんは長沙市から毎年、半年間、鹿児島市役所に研修にくる一番新しい研修生でした。僕もこちらに来るのにいろいろ情報が欲しくて何度かお会いした女性です。スタイル満点(172センチ)の中国女性です。

休みの日に二度ほど映画(赤い月・ラストサムライ)を観に連れて行ったことがあります。食事や酒バーなどで日本人の友好協会会員や鹿児島大学留学生などとも交流し、今までの交換研修生の中では充実した滞在だったのでではないでしょうか。

特に「国際交流課」勤務だったので、市役所の中でも家庭的な所ですし、課員の方も親身になってお世話され《袁静あなたは幸せよ》と言ったことがあります。

写真は平和堂の6階にあるブラジル料理レストランに彼女のご主人と三人で行きました。又、三度目のチンワ(蛙)を食べました。

しかし、ここで食べた野菜サラダは「こころの底からしびれるよ~な、吐息がせつなく~」そんな感じの美味しい日本の生サラダでした。ステーキもおいしいし、値段は一人前、58元ですが、順番待ち2時間でした。

ところで、一日目の鄭さん、範さん、一緒の会食のさい僕は生まれて始めて蛇をついに食べました。切り身の数から僕はこの蛇は1メートルと思いました。

袁さんは黒い蛇の皮が好物だそうで、僕はそれだけは死んでもいやです。身のほうは結構いけます。


2004/04/19
中国で思うこと・・・

今日は本当に暑い!31度とのことである。街を歩いている人の服装はまちまちである。

無論、若者はTシャツだ。長袖のシャツも少ないが、ダーク系の背広姿が結構多いのが中国らしい。ファッションでいえば、靴の型に特徴がある。

ハリーポッターではないがトウが尖っているか、先の方が反り上がっているのが多い。日本では余り売れない。おしゃれ関係の仕事をしている人の靴の先は異常ともいえる。

歩行者天国を歩くと殆どの店が一軒で男女ものを扱っている。理美容院もそうだ。上海だけは違う。

さて、気になっている中国人気質について話してみよう。

このことは誰にも知られたくない。

このことは誰にだけは知られたくない。

日本ではこんな秘めごとに対する心配はあまり気をつかはなくてもよい。勿論、人によっては入り込んでくる人もいるが。

例外は無論多いが、かなりの人がしっっこいのだ、

 「誰、だれ、ダーレ!」と
 それほどの関係もないのにこれはもう妻か愛人の追及に近いのである。

もっとも彼女らからしてみればそれ程意味の深いことではないらしい。単なるお国気質だろうか?でも、20%ぐらいは日本の女性以上に謙虚で慎ましやかな女性も多い。

彼女らは日本ほど年齢の格差を気にしないので「危ない関係」のプロローグになるからご注意。僕の場合は未だ残念ながら、女朋友まで行った女性がいないので、あくまで好像の域を出ないけど。

少なくとも10名以上の中国女性に聞いたところでの話であるが・・・。

・・・・・・ここの文章チョット待ってください。

僕のEメールの機嫌が悪く受けられるのですが、送信が上手く行きません。ポケスペでこれから返事をします。僕へのメールも差し支えなかったら左の掲示板をご利用ください。

鄭さんご両親と範先生夫妻と
最高に旨かった取れたて地玉子と銀シャリ。

写真は18日に行った鄭さんの田舎での料理:地鶏の卵を二個、生で頂きました。一瞬、「鳥インフル」も考えましたが・・・久し振りにご飯に掛けていただきました。

2004/04/20
待望の中国での魚釣り

4月20日・日曜日

鄭旗さんの田舎に魚釣りに行く日が来た。

範さんご家族に鄭さん親戚2人に息子さん計8人での魚釣りである。

昨夜、袁静さんご夫婦と平和堂6階のブラジル料理店で食べながら、外は大雨、明日はまず、大雨だろう、「中止ですね。」と話した。結局、彼等は参加しなかった。

すばらしい快晴だった。約、35分位、北の方向へ車は向かった。

鄭さんの田舎は日本の田舎の風景と殆ど変わらなかった。」お父さん、おかあさんはとても気さくな良い人だった。王君、袁静さん、鄭さんとご両親に歓待されたけど、どこも、とても感じがよかった。

待望の魚釣りに出かける。田舎道を歩くこと20分。ため池、沼地、何だろう潅漑用の溜池が正解だろうか?深さ2mぐらい、広さ30mx50mその程度の池である。

狙いは鮒と草魚(70cm)である。結局、鮒だけ50匹ぐらい釣ったか?大きさは20cmぐらい、餌はごかいである。

鄭さんの仕掛け通りで釣り始めたが、結局、ぼくは5匹ぐらい。難しい釣りでした。一日、のんびりと過ごしました。


2004/04/21
朱俊橋さんの故郷・株洲市は長沙の次に大きい湖南省の市です。

5月20日・火曜日

朱俊橋さんの実家・株洲市に遊びに行った。二人での高速バスの旅である。
長沙駅の近くのアポロデパートの横に近郊の高速バス駅はある。乗ってみると、なかなか快適なバスだ。エアコンにゆったりシート。時間にして80分である。

株洲市は湖南省の南に湘譚市とほぼ並んで位置している。湘譚市が毛沢東の故郷として名を上げているのに対して、株洲市は工業の町として有名らしい。と言うのは、僕は全く知らない町だからである。

彼女に何か名物か、名所はないの?と聞いたら即座に答えが返ってきた。

炎帝の銅像のある広場が中国で天安門に次いで、第二のスケールなんだそうである。

だいたい、炎帝なる人物が初めて聞く名である。

2000年も前の伝説の人物なんだそうである。なにやら、串木野市の「徐福」伝説を思い出した。


2004/04/21
株洲市街地と・・2

街は真ん中を長沙市と同じように湘江が流れ、炎帝広場の後方には巨大なテレビ塔がありました。

二人っきり、他に誰も見学者がいない。料金二人で60元は彼女が「ここでは、あたしが先生を連れてきたのだから、私が払います。」と言って、帰りのレストランの代金も含め、彼女が持ちました。

帰りには海南島の南の端の南山とかいうお寺で買ったという有名なDVDを貰った。

家(マンション)にも案内してもらいました。

ご両親は銀行を退職後、自分で起業され、今は、広州にすんでおられるとか、結構、大きなマンションに今は妹さんが一人で住んでいるそうです。

彼女は、週末、金曜日の午後にここに帰り。日曜の午後学校の寮に戻る生活をしているそうです。


2004/04/23
食についての私的意見

さて、ここらでここ長沙市の食べ物情報を書いてみよう。あくまで、僕自身の偏見と体験上の情報であることをお断りしてである。

滞在体験者からすればかなり貧弱な体験でお恥ずかしい。

忘れない為に書き留めておく、と、まあそんな感じと解釈して欲しい。

来る前に持っていた予備知識のうち、辛さ(唐辛子辛さと塩辛さ)はいつも,注文の際「不辛的!」「不辛的!」と注文するし、というより、同伴に、してもらっているので、さほど感じなかった。

また長沙人が口をそろえて「美味しいよ。」という蛇 も、チンワと発音する青蛙も試食はしてみた。いずれも、美味しかった。

蛇も元の形を想像しなかったら、「味口蛇」という料理は醤油味に煮て食べたけど不味くはなかった。でも、続けていくつも口にするまでは行かなかった。特に、料理の皿の中にあるクルッと丸まった黒い蛇の皮を、美味しそうに食べる袁静さんをみていて、異国を感じた。

鄭さんなど、食べ終わると、お皿の上には脊椎と糸のよう細いあばら骨だけが残っていた。

スーパーの食品売り場にごそごそしているウグイ(亀)は結局、食べなかった。こんな形でヘビを売っているのを見た事はなかった。もひとつ、長沙人は犬が好物と聞いていたが、これも大げさな表現のようだ。
 
もっとも、鄭さんは「犬も、猫も美味しいよ。」とウインクをしてみせたけど。

食堂についていえば、「松花江餃子店」はお勧め店ナンバー1である。

黄興路近くの解放路にある店(滋賀の竹岡健一さんご夫婦にお勧めメニューまで紹介して貰った店)と長沙駅から五一大路を西に向かって10分も歩くと右側にある「松花江餃子店」は共に10数回訪れた店である。

ベストメニューは焼き(ジャン)餃子(ジャォズ)に水餃子、中の具は何でも美味しい。

注文するとき注意しなければならないのが注文の仕方である。

日本のように一皿とか、一人前とかは言わない。一人前を2(アー)両(リャン)と、1両が約50g(5個ぐらい)最小注文単位が2両である。

竹岡さんに勧められたうちの3~4品をいつも注文する。一人前の料金が大体、20元ぐらいになり、学生3,4人で行っても60元を余り超えない。

今にして思えば、竹岡ご夫妻は、6種類ぐらいの注文をされたところをみると、僕に試食を勧められたのだろう。多分一番高かった牛肉の薄く切った醤油味は、その後は僕のオーダーからは除かれた。正式名は醤牛肉といい、一皿、25元ぐらいだったと思う。

白菜猪肉も美味しかったけど、その後は食べていない。恐らく、その時の料金は3人で100元は超えていただろう。気の毒なことをした。

さて、何といってもここの餃子に並ぶ人気メニューは「東北三糸」(糸の字はこれではない)という春雨、細切りキュウリに卵焼きをこれまた細く刻んだもの。酢醤油で混ぜる。

「小葱拌豆腐」という絹ごしトーフの上に小ねぎを載せ、醤油をかけてたべる。醤油の中に油が入っているのがなければ日本の冷奴である。僕は溜まった油をすてて上から醤油だけを又、かけて食べる。

これにねぎのお餅も美味しかった。正式名は香甜糖餅、これは中国人はよく注文する。形は違うけど味はどこも似ている。要するに甘い餅を薄く延ばしたものである。

回数多く行った店では歩行者天国(歩行街ブシンジェ)の入口角にある日本料理店「火の国ラーメン」は日本人には安心して行ける店と言える。5回ほど行ったけど、不思議と日本語はどこからも聞こえてこなかった。従業員小姐たちの、下手な「イラシャイマセ~」の日本語以外は。

ラーメンは一回食べて止めた。20種ぐらいあって20元と、まあまあだけど、焼き魚(サンマ、ししゃも)のほか、コロッケ、サラダ、寿司も二個10元と異常に高いが味は悪くない。

日本感覚で食べたら500円で充分なので、日本の寿司を食べたい向きにはお勧めである。みそ汁とキュウリのおしんこはサービスである。

もう、4年ほど前、ウルムチの日本料理店「平政」に馬麗春に連れて行ってもらった。

あのとき食べた寿司の味も忘れられなうほど美味しかったけど。実際は、期待感の薄さとの格差がないので,そう思うだけで、日本でだと、美味しい回転すしと違いはないのかもしれない。と言ったら、「平政」の美人おかみや「火の国」の調理師におこられそうだが。

何時か、「かつカレー」を食べたことがあったけど、ごはんとルウの比率が、ごはん7にルウ3、その上に薄いトンカツが載っている。これも、味は悪くない、でも、なんとなく変だ。ご飯をたくさん残してしまった。

日本ではカレーを食べて、こんなにご飯を残した経験がないので奇怪である。そういえば、炒飯もいつも三分の一は残す。僕が小食なのか中国人が大食いなのか?疑問は解けない。

ここの「黄興路」近くに平和堂がある。そこの6階にあるブラジル料理店はおそらく長沙では指折りの人気店だろう。竹岡氏のお勧めレストランにも入っていたので、袁静さんご夫婦に連れて行ってもらったことは先に書いたが、あの肉の味と、ボリーユームたっぷりのサラダに惹かれ数日後、また出かけた。

日本語も少し話せる人気ブラジリアン(堺駿二に似ている)の柔らかい肉を切ってもらいながら、彼と日本語で短い会話を交わすのも楽しい。彼はここの主人なんだろうか?二度目なのに、顔なじみになってしまった。

30分程に一度ぐらい回ってくるのでいつも皿の上には彼の柔らかい肉がなくならない。他の人より多めに切ってくれるからだ。

6名ほどのコックがシュシュカバを持ってテーブルを回る。湖南料理と果物やサラダ、それにアイスクリームはセルフになっている。1人50元、土日は58元である。日本人が来たら、まず、連れて行きたいナンバーワン・レストランである。

食べ歩き、というほど食べに行ってはいない。殆どは、ヤオリン近くの庶民食堂か会社の食堂での昼ごはんで済ましている。いずれも4元から6元、ビール3元を加えても日本円にして150円ぐらいである。

味にも慣れてきたし、空心菜など、気に入りの野菜炒めも分ってきたので、済まそうと思えば、一日の生活費は300円(20元)もあれば充分過ぎる。

範先生とは、週一回は必ず行く「碧水藍天温泉」でこれまた、何でこんな料理が無料なのと思うほどの食事を食べながら、長沙の生活水準や中国事情、過去と未来の展望などをいつも語る。

分りやすく今の生活事情を言えばこうである。まず住まいで言えば、日本の3LDKの各部屋を十畳程度にデラックスにした部屋で2万円足らずが一月の家賃という。

範先生の自宅(結構、豪華であるが、僕の家程度です。と、彼は言う)範先生は毎日、朝、9時から夕方6時まで、若い女性のお手伝いさん(一昔前の日本の女中さん)を月400元で雇っておられるそうである。

掃除、洗濯、料理(昼と夜)まかせで、食事は食べさせてあげてるそうである。それでも安い。一万円(750元)も出したら、お気に入りの若い女中さんが雇えると言う。「貧しい農村人口が中国は多いですからね」と範先生は言う。

1月の食料費や交通費、以外とかかる携帯電話代などを合わせて1万5千円(1200元ほど)会わせて4万5千円あれば、まずまずの快適生活は、今の中国では出来ることになる。範先生は言う。

「上海郊外の田舎に住む外国人の引退者(年金生活の夫婦)がとても増えてきています」と。ただし、マンションやマイカーを買うとなると日本と現状は変わらないという。むしろ、贅沢品に関しては日本より金がかかると言う。

情報、文化、娯楽、治安のいい、上海、大連、青島などの郊外に家を借りて老後を過ごす方が、アメリカやオーストラリア、スペイン、タイなど、いわゆる顔から違う国でのんびり老後を暮らすより、中国の方が溶け込みやすいと思うのは僕だけだろうか?言葉が分らない、通じないのはどこへ行っても同じこと、その個人の問題であろう


2004年4月24日(土)
南岳衡山へ行ってきた。 

衡山のことを何故、前に南岳と付けるのか山に登ってみて初めて分った。

衡山は中国の(五大名山)五つの岳の一つだからである。


東岳  泰山(山東省)
西岳  崋山(陝西省)
南岳  衡山(湖南省)
北岳  恒山(山西省)
中岳  嵩山(河南省)

信仰上の霊なる山である。戦国時代により五行思想の影響により生まれたと言う。

総面積184平方キロ。長沙を朝、8時ごろに出発。崋天国際旅行社の小燕が

「長沙ニイルウチニ イテタ ホウガヨイトオモウヨ。アタシ イショ イコカ ガイドリョウ イラナイ」というので二人でバスツアーも悪くないな、とOKした。

中国人8名の小ツアーに加えてもらった。費用300元の所を200元での特別サービスである。生憎の悪天候である。一昨日の35度が昨日は昼間に空が真っ黒になるほどの異常気象。今日も寒くトレナーを着込んでの出発である。

今週は二日、湖南省を南に下ることになる。湘江に掛かる橋を先日は株洲市、今日は湘譚市と湖南省も2ヶ月の間に西、北、と体験分布図が広がってゆくのは楽しい。

約2時間半は吉川「三国志」を読む積りでいたが、とんでもない誤算、マイクロから飛び跳ねそうな状態の連続、火曜日の高速バスとは大違いだ。

前の席のインテリ風男性は景秦から会議に出る為に来たので帰る前に登りたくて来たと言う。

丁度、5月に西安を中心に北西地区を訪ねる予定なので、行程や交通機関そしてお勧めの見所などを地図を見ながら聞きまくった。きつと変な日本人と思ったことだろう。

78歳の老人と25歳の中国銀行の小姐のカップルは不思議だった。近いうち、その老人とカナダの東側(と言うとケロッグ地方か?)に留学するのだと小姐は言う。

時々、恋人のような、愛人のようなしぐさをするので、ますます変だ。二人が話を交わす事は一番最後に彼女がバスを降りるときまで無かった。もちろん二人が話をしないわけではなく単に無口な二人、ということだ。

衡山一日ツアーは霧の中だった。

三年前、妻と娘と三人で黄山に登った時と同じ前の人が見えないほどの濃霧が覆っていた。衝山は仏教の聖地として多くの人が訪れる名山である。

道教のお寺も数えると寺廟・庵・など200箇所余りが点在していて、山全体が線香の煙と爆竹のすさまじい音で覆われている。

今日はとても寒い、霧が立ち込め恐らく10度ぐらいの寒さだろう。

沢山の登山者、グループ、修行者団体などひきも切らずに登る。

霧になかの黄山そっくりの光景である。

可愛い,わりにはどでかい声(正確にはハンドマイク)と早口(に聞こえる)中国語のガイドが奇妙な団体を引っ張る。

頂上まで4,5箇所の寺院や名所,古跡を案内する。

途中で10元出して、北方の軍服コートもどきを借りる。えらく重いコートだが寒いので仕方ない。こないだの35度の陽気と20数度の格差に体内異常が発生しそうだ。

一組のカップルは50歳代の男性と40歳代の女性、90%は夫婦に見えるが組み合わせは目立つ。女の顔は西系のウイグル美人に見える。髪を茶髪にして、ときどき男に密着しすぎる。このへんが中国人の中年夫婦と違う。

ところでぼくと小燕の組み合わせは皆にどう映っているのだろう?小燕も少しぼくにくっつきすぎる。特にぼくの耳たぶを触る癖がある。

「アナタ ミミ サワルト キモチ イイネ。」
   
一つの寺院の中には、たいてい10ヶ所以上の佛像と拝礼場所がある。そしてかならずそこには線香売り場があって、名前を書いて運勢判断をするようになっている。

立って三拝、ひざまずいて三拝。道教の拝み方はチョッと変わっているらしい。

「オナジホウホーイイヨ。」

小燕も結構熱心に拝んでいる。仕方がないので並んで参拝するけどはっきり言って面倒くさいと思っている。

「アタ(貴方のこと)ナニネガイアル 想念シナイトイミナイネ」とうるさい。疲れもするが、金もかかる。

ところで、かのウイグルカップル、二人して、特に熱心だ、そっとガイドが教えてくれた。

女が昨夜、腕をナイフで切って自殺未遂をしたとか。ノイローゼなんだそうだ。僕はわずらわしくて二人とは一度も話をしなかった。

天女の池、サルノコシカケか霊芝とかの場所を見たり、蒋介石総統と奥さんの居間&ベッド、会議の場所、抗日戦争の資料や写真、どういうわけか明朝の女性のミイラ(ミイラはそれ自体が気味が悪いのでたいてい美女と形容詞がつく)まで見せる。

結構、面白いツアーだった。南岳大廟は最後のスポット・忠烈祠と共にスケールの大きな見所であった。北京の故宮を真似た九つの中庭。大殿はとりわけ綺麗だった。

バスに戻り回家〈帰路につこう)というところで例のカップルが一向に戻ってこない。

なんてことか!門の前で大喧嘩が始まったのだ。

ウイグル女は大声でわめき、男に足蹴りを放つ。男は少し身体を引き、片手で制止する。

30分経っても一向に治まる気配は無い。メンバーの一人が行く

「おまえさんたち!迷惑じゃないか!喧嘩は家に帰ってからせえや!」

「イヤ!あたしは帰らない!この男は金も無いくせに献金をし過ぎたよ」

「私たち二人のためにした願い事じゃないか?」と男が制す。
女の感情は高ぶるばかりである。「この男は私のお金を使う。自分は稼ぎは無いくせに」

「そんなことはこんな所で言わなくてもいいじゃないか?」と男が制す。

矯正小姐が制止に行く。運転手が行く。勿論、ガイドはマイクを使って制止する。バスに残っているのは北から来た男性と、カナダの金持ちじいさんと、僕の3人だけになった。

黒山の人だかりである。結局、最後は男が車に荷物を取りに戻り、二人を残してバスは40分ほど遅れて出発した。

そして、なんとも奇怪な一日衡山ツアーは終わった。

あの二人の、喧嘩の本当の原因は何だったのだろうか?

中国語のわからない僕が知る由もないが。

もし僕があの男性の立場だとしたら、僕はどうしていただろう。

たぶん、同じようなことをしていただろう。唯一つ違うとしたら、もっと早くに、バスのガイドに言うだろうナ。

「スミマセン!お恥ずかしい所をお見せしました。どうぞ、私たちを置いてお帰りください。」・・・と。

老人と小姐南岳衡山


2004/06/04
中国滞在3ヶ月(1ヶ月は旅)の終わりに・・・

又、又、今朝、長沙に戻ってきました。明日朝から、最後の湖南・村州へのアドベンチャー旅行へ行って、9日には久し振りの鹿児島空港へ戻ってきます。

三ヶ月間、日本の情報(政治、経済、スポーツ、芸能)は全く知りませんでした。 

あれほど興味のあった、プロ野球や大リーグも、衛星放送のあるホテルなど無関係の3星ホテル廻りで、見ようと思えば見れるインターネットも覗こうという気が湧きませんでした。

中国から最後の「ケイジの長沙日記」をしたためたいと思います。

・・・・貴陽で三日泊まったホテルは、それまでのホテルと外観も部屋も変わり映えはしないところだった。

でも、サービスの点では一番よかったように思う。

お湯の出も申し分ない。湯沸かし器も充分、作動する。

室内の電灯類も、全部点く(この三点が完璧なのは旅行中、ここだけだった。

おまけに、靴に塗るスポンジもあった。(これも、ここだけ)感激したのは、毎晩、服務員の女性がお盆に、果物を届ける。

リンゴに桃に、梨にスイカなど、日替わりに届く。親切なことにかわいい果物ナイフが付いてくる。このナイフはとても便利なので、持って帰ることにした。

・・・今朝、貴陽竜洞空港で、このお気に入りの果物 ナイフが検問で引っかかってしまった。

その前のボデイチェックのときポケットに入っていたガムを包む銀紙がピーピーと反応して嫌な予感がしていた。

係官が「刀(ダオ!ダオ!)」と言い、中を空けろといっている。

二個(刃の部分が3センチぐらいの)ちゃちな果物ナイフなのだが

「君は刃物類を機内に持ち込んだら犯罪になることを知っているのか?」と言ってるらしい。

「いや、知らなかった。便利そうなので持って帰ろうと思って・・・」と答えると。

「それなら、荷物で別に送れ、」と言う。

この前の紹興の時の紹興酒と一緒だ。面倒になってもイヤなので

「我不知道! 不要。」と言ったら、僕のパスポートをチラッと見ながらそのナイフを取り上げ仕事に戻って行った。

ところで、「中国、ひとり旅」をよく聞くけど、バックパッカー達の行動は、よく分らないけど、観光地を要領よく、効率的に周ろうと思ったら現地ツアーを利用するのがよい。

何故なら、単独で目的地に行くのは不可能に近い場合がある。市街地に近い寺や博物館ならともかく、昨日、行った識金洞・鍾乳洞のような所は公共バスやタクシーをチャーターして行く所ではない。

なにしろ、巨大な岩が崖から崩れている箇所が3箇所、道路の陥没(外は千尋の崖)生々しく、又、近くで巨大ダムの工事中らしく、大型トラックはセメントを載せてひっきりなしに通る。

ダムの横の仮トンネルの中は真っ暗である。地獄の底に突入するように小型マイクロは走る。出口の光が近づくとホッとした。
 
そうして、やってきた鍾乳洞には感動した。東京ドームのような(そんな気がするくらい巨大な地下ホール)である。張家界こそ見損なったっけど、桂林、鳳凰などよりスケールが違う。

それにしても、よく歩く、昨日はアジア一の大瀑布を5キロぐらい一周し、今日は石階段を上がったり、下がったり。少し出ていた僕のお腹は、すっかり凹んでしまいました。

帰りのバス中は窓のスクリーンを下ろし、外が見えないようにして眠っていました。

僕の、このページでの旅行記は今日でお終いです。

5月いっぱいの「中国・気ままな旅紀行」は左のメニュー「ニーハオ!中国」から、ご紹介したいと思います。再見!!


2004/06/01
儿童節

お久し振りです!

今日はアルトンジェと言って、中国ではこどもの日です。久し振りの長沙は晴れです。

昨日朝「鳳凰」から夜汽車で帰って来ました。
範先生が主催の「僕の送別会」でした。
長沙市に新しく出来た本格的日本料理店「京都」でありました。体育館の近くの金?大酒店(4星)の二階です。

今日の2時発の飛行機で「貴陽」に2泊で行ってきます。
僕の旅も、あと少しです。帰国後、いっぱい貯めた原稿を書きまくりたいと思っています。


2004/06/15
ケイジのチャイナテーブル(1)

折角、ここに、日記風のフォルダがあるので、ときどき思いついたときに、思いついたことを、書き綴ってみようと思う。

早いもので、明日で日本帰還後、一週間になる。

100日前の生活習慣が戻ってくる。捨ててしまった(忘れていた?)もろもろが我が脳の襞を急速に埋める。最大の原因をTVとみた。

こだわりや、しがらみや、不要な情報を捨ててしまった生活が、どんなに自然で、人間らしいものか、いまわかったような気がする。

ところで、昨日も、一昨日も、たぶん毎日、夢の中では、まだ住まいは中国に居るようだ。

もっとも、昨夜の夢は帰国直前の夢だったので、近いうちに帰国後のシーンになるだろう。

昨夜の夢はびっくりした。僕が中国で知っている女性(小姐)が4,5名、一度に上海に来た。日本に帰る前の3日間、僕の立てたプランに合わせて小旅行をすることになっている。

それぞれは名前は僕の口から聞いているけど、会うのは初めてという。それぞれに気を遣って、隠したり、嘘を言ったり、・・・と、あの、昔の東宝映画「三等重役」のドタバタ・シーンの復元である。

ホテルには誰と泊るか?行く所は《朱家角》に《新天地》と架空でないのが不気味である。

今夜、続きが見れるのか?

さて、まだ、中国茶を飲む習慣がとれないでいる。あの、でかいジョッキ風のコップを5元で買ってきた。中国茶にはクッキーが合う。朝ごはんには合わないけど、でも、つい、注いでしまう


2004/06/29
加治佐 から

大石 慶二 様

謹啓 梅雨の真っ最中です。ここは緯度がだいたい九州とおなじくらいですから、梅雨があるとは聞いていました。しかし、中国の梅雨は、ずいぶん違うような気がします。

土砂降りになり100メートル先が見えなかったり、横殴りの台風のようであったりします。

でも日本と同じで陰陰滅滅たる日が多く、気分が滅入ってしまします。
 
学校は只今、後期の期末考査をやっています。6月25日で終わり、26日から夏休みです。8月末までたっぷり2ヶ月あります。試験の採点を終えたら、「黄山」に一週間ばかり遊びに行ってきます。

黄山は安微省の南部、長江の南側にあり、山水画そのままの風景が広がっているといわれます。

1990年、国連ユネスコ世界遺産委員会によって、世界文化及び自然遺産に登録されました。水墨画は実景であると当地の人は言っています。この目で確かめ、感動を味わって参ります。

7月20日に合肥を発ち、上海に一泊して21日の12:30ごろ着の飛行機で帰国の予定です。上海・鹿児島間の直行便があり便利です。

一年間でここを引き上げるつもりでしたが、生活に慣れたことや、学校の幹部や生徒たちから引き留められ、家族とも相談して、もう一年頑張ってみることにしました。

とは言っても老体のことゆえ、無理はできませんので、大陸的雰囲気である慢慢的(マンマンデー・ゆっくり)と鹿児島のてげてげ精神及び将来の横着さで暮らしてみます。
 
およそ十ヶ月の中国での教師暮らしは、悲喜交交でした。安微省唯一の外国語専門単科大学をたちあげることに参画できたことは、私の教師生活の中で画期的なことでした。

北京や上海の大学の日本語科を卒業して、日本に留学したり、何度も日本での語学研修を経験し、私よりもきれいな標準語を話す教授達とともに、日本語をどのように教えるかについて討論したり、工夫することはとても楽しいことです。

学生達は人懐っこく、さまざまな質問をぶつけてきます。農家出身の生徒が多く、慎ましい生活の中で希望を持って、日本語と格闘しています。
 
御無沙汰ばかりで申し訳ありません。何とか生き長らえています。上記日程で一時帰国します。一ヶ月ぐらいいる予定。またさらに一年続けることになりました。酔狂にもほどがあるといわれています。

会いたいですね。あなたの中国での武勇伝を肴にして、冷奴と枝豆で冷えた生ビールをガバーッとのみましょう。為了日中友好。シェシェニン。再見。

平成16年6月20日   加治佐 愰


生徒たちから貰った別れのコトバ集

大石先生:

時間が経つのは早いものですね。そろそろ2ヶ月間も終わります。先生と会えるのはよかった。本当に。楽しかった思い出はいっぱいあります。

遊ぶとか、食事するとか。先生いままで いろいろお世話になりました。

どうもありがとうございました。また中国に来るのは楽しみです。

3月前、先生は来る前に、範先生の話によると、大石先生は日本で2軒の美容院を経営しています。やさしいし、熱心だし、真面目な先生です。実は初めて会った時、私はそう思いました。

それに先生が元気だし、素敵だし、45歳ぐらい見えますね。

先生は遊ぶ時子供みたいですが、授業をする時厳しいし、真面目だし、本当にいい先生だと思います。

私の日本語あまり上手ではありません。

これから先生の指導をもらえないですが、大変残念ですね。先生、帰国しても、これからも連絡してよろしいでしょうか?お願いします。

私は夢をかなうために一生懸命頑張ります。

先生はいつも「張麗さんはかわいですね」って言いました。私はそれを聞くとほんとうに嬉しいです。先生の授業を受ける時ときどき、いたづらをしたり、あまり真面目ではなかったり本当に申し訳ございません。

今更後悔してももう遅いですけど。

先生、中国滞在中楽しくおすごしになるように。ご健康とご多幸をお祈りします。また、今度会えるように楽しみです。

Bye Bye Best Wishes for my dear teacher

2004 4 29  張麗  zhang li ちょうれい。

張麗

大石先生:

お土産ありがとうございます。大好きでした。

2ヶ月だけ滞在しましたがこの2ヶ月の生活はいつまでも忘れません。

先生と一緒に食事するとか、湘江へ一緒に遊びに行ったとか、とても楽しかったです。

ゴールデンウイ-クはいろいろなところへ旅行するそうですが多幸を祈っています。

先生のおかげで日本語もだんだん上手になりました。

この間たいへんお世話になりました。ありがとうございます。

付き合っていて先生はとてもやさしいし学生の勉強に熱心だと思っています。

チャンスがあったらぜひ日本へ行って、お宅をお尋ねいたしたいです。いつも元気で運がよいのを祈ります。

しゅうより

竜習(りゅうしゅう)

龍習(追伸)

時間は流氷のようです。流れていくともう二度と来ません。知らないうちにもう2ヶ月たちました。

わたしは先生に会えて嬉しかった。たぶん一番印象を与えてくれたのはやっぱり先生のやさしさ、それと、仕事への真面目さだと思います。
 

大石先生

盛夏のみぎりいよいよご活躍のこと心からお喜び申し上げます。

時間がたつのは本当に早いものだ。3月1日に先生に初めてあってから2ヶ月過ぎました。

もうすぐ先生とお別れすることになりますから、大変名残り惜しいです。これから、私は先生の授業を受けられないと思うと本当に悲しくてたらないのです。

この学校にいlらっしゃった間、先生は私にいろいろ丁寧に教えてくださってありがとうございます。

2ヶ月の先生との一緒の生活はとても楽しかったです。

先生が仕事に対しての強い責任感を持っていることは私は見習うべきだと思いました。

内の学校にこんなすばらしい先生がいたことを誇りに感じます。

さて、私は来年、日本へ行くつもりです。日本に行ったとき、先生のお宅を伺いたいと思います。

日本での日々も早くお会いできるよう楽しみにしております。

話したいことは他に沢山あります。でも、私は今日本語が余り上手でないのでこれからもっと一生懸命勉強しています。

これから中国の天気はだんだん暑くなります。

どうぞお体を大切になさってください。

長沙までいつもようこそいらっしゃい。

2004・4・30ちんけいくん  

陳彗君

大石先生:

この間いろいろお世話になりました。本当にありがとうございます。2ヶ月もうすぐ終わりました。先生と初めて会ったことはまるで昨日の事でした。

先生のやさしさが忘れられません。どんな時でも、みんなやさしいです。一生懸命私たちに知識を教えてくれました。先生のおかげ様で日本語らしい日本語を習いました。沢山の日本文化も勉強しました。

日本のことを良く分かるようになりました。
 
先生の体が強いのに私は感心しています。こんなに年をとったとは思えなかった。

先生と一緒に過ごした日々はいつでも目の前に浮かんできます。(浮かべると思います)また中国語をならう意志に感心しています。

先生は授業をする時とか、一緒に遊ぶ時とか。食事をするときとか、よく皆にお聞きになりました。

真面目な人だとよく考えます。

先生の中国語はだんだん上手くなって、今後ぜひ自由に話せるようになると信じています。

先生と離れるのは悲しいですが先生と巡り合えたのはほんと良かった。これから旅行に行く予定ですがぜひ私たちと連絡してくださいね。

また先生にお会いできることを今から楽しみにしております。

先生も私たちのことも忘れないでくだいね。

りびうん

        
李碧雲さん

大石先生:

暑い日が続いていますが先生はひとりで初めての都市へ行きます。トテモ心配です。楽してお元気でね。

今年の三月に先生は中国へ来てから2ヶ月が過ぎました。時間が速いね。先生の日本語の授業はとてもおもしろいでした。

授業中にはいろいろなことを習いました。

先生は私たちに本を読ませ手文法を覚えさせ作文も書かせます。たいへんむずかしい事があったら、よく説明をしてくださるのですぐわかります。いろいろ教えていただきましたありがとうございました。

先生は今60歳ぐらいと、聞きました。信じられない!そんなに元気ですね。特別に先生と一緒に遊んだとき先生の体力は私より強いです。

本当に感心しました。

先生と一緒に遊んだり、食べたり、いろいろ楽しいお話を聞かせていただいたことを思い出しています。

先生はもうすぐ帰国へ行きます。いつかお会えですかほんとりわかりませんがこれからも先生とお連絡したいていかがでしょうか、先生。

この2ヶ月としてみれば、先生はそんなにまじめに中国語の勉強に夢中しました。先生ことから私はいろいろいい勉強しました。

たとえば日本人のまじめ、日本人民の友好、日本人の考え方もちょっとわかりました。これは私にとても大切になります。

私も日本の経済、文化、政治、風土などのことに趣味があります。

これからもっと沢山日本に関係する読物を読みたいです。

考えにくいこともあったら先生に聞いても宜しいですか。

先生はもうすぐ旅行が終わったら帰国しますね。

道中のご無事をお祈りします。ご家族によろしく。

2004・4・29     ごぎりん

呉魏林さん

大石先生

お元気ですか?おかげさまでわたしは元気にすごしています。

日本語の授業はとてもおもしろいです。

授業中にはいろいろなことを習います。

先生は私たちに本を読ませます。漢字を習うし文法も覚えなければなりません。

大変むづかしいです。しかし、先生がよく説明をしてくださるのですぐ分かります。

先生はいつもとても熱心だし,親切だし、それに経験もあります。

本当に心から感謝します。

今はまだ日本語が上手に話せません。だんだん上手になると思います。

読むのは少し出来ます。将来、私は日本人のような日本語を話したいと思います。

お体を大切にお元気で。

りしかく

李思玉さん

時間が経つのは本当に早いものです。知らないうちにもう二ヶ月たちました。

そろそろ先生は僕たちと離れていくんです。残念だと思いますけどしょが無い事です。

李湯竜

李湯竜くん

大石先生:

日本人にとって、中国語を勉強するのはとても難しいです。

しかし先生がいつも真面目に中国語を習っていますね。

私はその精神に感心しています。

二ヶ月そろそろ終わります。

いままでいろいろお世話になりました。

本当にありがとうございました。

黄雪容

黄雪容さん

大石老師:

あっという間に月日が過ぎてしまいました。

でも、先生が私たちに与えてくれた深い印象はいつまでもここに残ることでしょう。

先生の私たち生徒に対する情熱や親切、また仕事に対する真剣さ、本当に私達は感動しています。

またいつか先生にお会いできることを信じています。

先生も健康に気を付け中国での残りの日々を楽しんでください。

王俊

王俊くん

(王俊くんは現在、韓国に留学しています。先日、鹿児島の僕に自宅に近況報告の電話が来て、懐かしかった。)

大石先生

光陰矢の如し、二ヶ月間もうすぐ終わります。

大変お世話になりました。どうもありがとうございました。

私たち、先生とめぐり合ってよかった。幸せの思い出いっぱいあって、先生の一言一行、特に先生の私たちへのやさしさ、 皆、一生忘れない。

中国滞在中は愉快にお過ごしになられますように。

夏体健康!

お旅楽しく!

左から:張みんさん、王紅軒くん、余けんさん

大石先生:

短い間でしたけど、いつも、みんなに日本語を教えてくれてどうも有り難うございました。

これからも身体に気をつけてくださいね。

株洲の朱俊橋

朱俊橋


忘れられないヤオリンの風景集

毎日過ごした学校近辺

教室風景

左から陳嬌(ちんぎょう)黄星銘(こうせいめい)黄 玲(こうれい)

せんせい

この間、一緒に天心閣へ行きました。本当に楽しかったです。 いつも優しくお話して下さった。どうもありがとうございます。