辛亥革命の志士・黄興と西郷南洲
日中友好30周年・鹿児島&長沙市友好都市20周年記念
鹿児島市歴史資料館・黎明館ホール
主催:鹿児島市日中友好協会
講演に先立ち、鹿児島市日中友好協会会長、海江田順三郎氏より、20年前の長沙市との友好都市締結までの経緯、今回の講演の主題である、黄興のこと、講演者・中村 先生との出会いなどについてお話があった。・・・・講演紹介に先立ち、新聞紙上で紹介された案内記事を紹介して、内容ののあらましを述べてみたいと思う。(編集者)
“中国の西郷”黄興を語る
「中国の西郷隆盛 」とも呼ばれ、孫文とともに辛亥革命(1911年)を指揮した湖南省長沙市出身の革命家黄興(1874~1916)についての講演会が二十日午後二時から、鹿児島市の黎明館である。
日中復交三十周年と鹿児島、長沙市の友好都市締結二十周年を記念して鹿児島市日中友好協会が企画した。
黄興は孫文などとともに「革命の三尊」にあげられる。日本に留学中、宮崎滔天の紹介で東京で孫文と知り合い革命を目的とした中国同盟会を結成。 これは黄興と孫文をそれぞれ、西郷と木戸孝允になぞらえ「中国版薩長同盟」とよばれる。
黄興はその後、辛亥革命では革命軍を指揮した。
又、日本で明治維新を成し遂げた西郷を尊敬。「湖南は必ず中国の薩摩になるべし我は中国の西郷南洲たらん」と力説し、ずんぐりした体形からも「中国の西郷」と呼ばれた。1909年,南洲墓地を参詣している
・・・・・・・・・・・・・・・・
講演『辛亥革命の志士黄興と西郷南洲』
・・・中村でございます。私と海江田先生とのいきさつは先程、海江田先生のほうからお話があったとおりでございます。黄興についてのお問い合わせのお手紙やお電話はございましたが、お会いするのは、今回が初めてでございます。
鹿児島に参りますのも20年ぶりでございます。今回はまた、日中復興30周年、また長沙市との友好都市締結20周年記念の講演を私にということでございまして、高いところからお話しすることになりまして、大変恐縮している次第でございます。
さて、1950年前後でございましょうか?私の大学の卒論のテーマが湖南についてでございまして、その為中国の湖南省に行きまして黄興について研究したわけでございます。
そういういきさつでご当地、西郷隆盛と黄興の関連のお話を、という依頼があったわけですが、皆さん、よくご存知の西郷さんを語るのは大変おこがましい気持ちでございます。
私のつたない報告が少しでも、お役に立てればうれしいと思っています。
したがって、今日のお話は直接、西郷や明治維新について語るというよりは、『中国側からみた明治維新、そして、中国側がどういう風に西郷南洲を見ていたのか、』ということについてお話してみようかと、思っています。
いろいろ、私の偏見があるかも知れませんが、資料をもってきましたので、それにのっとってお話していきたいと思います。
さて、お話の順序としましては、まず最初に、「辛亥革命とか、明治維新とかについての歴史的状況をお話してから、その時代に登場してくる人物、勿論、黄興もそうですが、次には、黄興の経歴・プロフィールについて,お話をしましょう。その次には、中国と日本の両方側からの見方、捉え方、つまり、中国は当時の明治維新をどういう風に見ていたか?西郷を初め、当時の維新の志士たちをどうみていたのか?
一方、日本人は湖南省をどう見ていたのかを紹介して、結びとしては黄興の書いた詩のいくつかを紹介して結びとしたいと思います。
さて、辛亥革命は辛亥、すなわち1911年に湖北省の武昌で挙兵、またたくまに広がって、それが当時の清王朝を倒しました。こうして、2000年続いた、王朝体制は終わりました。 そういう、歴史的に意義のある辛亥革命であったわけです。
こんにちでも、この日は中華人民共和国に於いては、国の革命記念日として「われわれは、この革命を引き継いできて、今日がある」と、国をあげてのお祭りがあります。
また、台湾においては、10月10日を双十節、つまり、建国記念日として位置づけております。
孫文が言った言葉が残っています。「明治維新は中国革命の第一歩である」そして、「中国革命は明治維新の第二歩である」と、1924年11月1日、孫中山が最後に日本を訪れ、神戸の帰りに長崎で新聞記者に語った、私は彼の遺言の一つだと思っています。
そのように、孫文は辛亥革命は明治維新を受け継ぐんだ、とそういう言葉で辛亥革命と明治維新のつながりを語っています。 このことを最初に指摘しておきたいと思います。
ところで、その辛亥革命の原動力と言いましょうか、指導者を一人あげれば孫文、「孫中山」です。
孫文はですから、こんにちでも、中国では、革命の先駆者と呼ばれていますね。毛沢東などもそう言っています。
台湾では国父、アメリカだとジョージ・ワシントンでしょうか。そう呼ばれます。
全中国の100人中100人が政治家で「あなたは誰を尊敬するか?」と言ったら孫文と言うんじゃないでしょうか。
確かにそれは彼の三民主義つまり、彼の政治思想といいましょうか理念といいましょうか、それは、中国の誇るべき、いや、アジアの誇るべきものでしょう。そういう、孫文が輝かしいということはいうまでもありませんが、同時に、辛亥革命は孫文ひとりでなし得たことではありませんし、一心同体といいましょうか、かけがえのない盟友、そういう存在が黄興でありましょう。まぎれもなくナンバー2ですが、お国柄といいましょうか、二番目というと、どっちかというと、影が薄くなってしまいます。
しかも、孫文はいろいろな文書を書いて残しています。それに対し、黄興の方は、大変少しです。
沢山書いています毛沢東と周恩来に似ています。
又、黄興に光の当たりが薄かった理由として政治的な理由もあったかと思います。
毛沢東が、1920年代、彼が湖南省で農民運動中でしたが、黄興は右派分子と批判しています。
その評価が、黄興にマイナス イメージとしてはたらいていたと思います。 1980年頃になってやっと再評価されました。
それではここで、黄興の経歴について、お手元の資料を見てもらいながらポイントだけ説明していきたいと思います。詳しいプロフィールは資料にあります。
・・・・彼は1874年に湖南省の長沙市に生まれました。恵まれた家庭に生まれ、よく勉強をしていますね。6歳の時に「論語」を学び、四書五経などの古典を学んでいます。
年少で科挙の試験にも受かっています。若い時に、ルソーの民約論なども読んだようです。その点、貧しい農家に生まれ育った孫文とは違い、お互いが補填し合うんですね。
黄興の在外年数は約8年ですが、その中の5年半が日本です。最初の来日は1902年、武昌にある張之洞の両湖書院から31名が選ばれて来日しましたが、湖南からはただ一人、黄興が入った。
嘉納治五郎の宏文書院が留学先でした。
黄興は教育と軍事に強い関心を持ち、とくに射撃は得意でピストルの名手でした。
いわば文武両道であり、また仲間の面倒をよく見て、信頼もされ、下宿には「平等居」という表札を掛けていて誰でも自由に出入りできたそうです。
彼は文武両道にすぐれ、体はがっちりしていました。身長は160cm位しかなかったけど体重は70~80キロ、西郷が180cmの100kですか?差はありますけど、タイプはにていたようです。
こうして、黄の周りには、湖南を中心とする反清の革新的青年が集まってきました。
1903年(29歳の時)、彼は一旦、国、長沙へ帰り、そこで、学校(明徳学堂)の先生をしました。
明徳学堂は今もあります。胡元淡が作った学校です。日本の慶応義塾をめざした学校で、学生に歴史や体操を教え、そのうち、彼の周りは若者たちの溜まり場のようになっていったようです。
やがて、この明徳学堂を場として、清王朝にたいして、何とかしなければという機運が高まりまして「華興会」の結成になりました。、ついに、1904年10月に,西太后70才の誕生日を期して、長沙で挙兵を図ったのですが、未然にもれてしまい、又日本に逃げてきました。
やがて、彼の周りには仲間が増えていきますが、そんな頃、孫文と会う事になります。孫文は、ロンドンに亡命していて、ハワイにも仲間を多く持っていました。
日本に来た孫文は宮崎滔天に「やはり日本がいいなあ、誰か俺と一緒にやってくれる人は居ないだろうか?」と尋ねたところ、「いる」「誰だ?」「黄興だ!」「すぐ会いたい。」ということになり、二人は会う事になり、やがて 意気投合した二人は中国同盟会を東京で結成しました。
彼,黄興はナンバー2の位置を占め庶務を担当していました。同盟会結成後、各地の指揮に当たっていました。
又、中国同盟会内の対立では必ず孫文を支持し「黄興がそうなら自分たちも従う」と、革命派の団結に努力しました。その間、黄興は1909年1月に宮崎滔天と共に鹿児島を訪れています。
港から、船で鹿児島に入り、西郷の墓参りを済ませた後、熊本に行っています。
日本人の同志は彼の人柄と風貌から「中国の西郷隆盛」と言ってたようです。
1911年4月27日:黄花崗挙兵で、決死隊百余名で総督署を攻撃したけど、失敗して、多くの青年を失いました。彼も重傷を負い、香港に逃れました。この時、看護に当たった徐宗漢と二度目の結婚をしまいた。
1911年10月10日、武昌挙兵による辛亥革命が勃発しました。その後の経過については、資料に詳しく書いてありますので、そちらをぜひ、参考にして戴きたいと思います。(編集部注)
この次は日本人が見た湖南および黄興像についてお話してみたいと思います。
黄興故居(故・中村義先生の生講演 声の説明入り)
2010年2月UP