吉永英未の復旦大學留学生日記
2015年の瀬に
2015/12/26
2015年の瀬に 吉永英未
年の瀬というのに、大学の中に住んでいると、全くその気配を感じない。というのも、ここ中国では旧正月を過ごすので、日本のようなわくわくとした慌ただしさはない。日本で見るクリスマスのイルミネーションを懐かしく思った。
12月18日、住み慣れた南京を離れる日が来た。9月25日に南京に来て、10月はホームシックになり、上海に帰る日を指折りに数えていた。
そんな日々を乗り越え、論文の構成発表を終えて帰ってきた南京には、待ってくれている友達がいて、帰る場所があった。
南京はすでに、わたしの二番目の家になっていた。そしていよいよ、上海に帰る日が来てしまったのだ。
もともとは、12月31日までいる予定だったが、復旦大学で行われる日中韓女性史会議のため、18日に上海に戻ることになった。それは、思いがけないことだった。
会議への通訳としての参加は、担任の先生からのお誘いがきっかけだった。11月の後半、
「来月歴史学部で女性史についての日中韓シンポジウムがあります。えみにぜひ、中日の通訳をお願いしたいのだけど」
わたしは、初めは戸惑った。アルバイトで中国人旅行客の通訳をした経験はあったが、学術的な会議での通訳をしたことは一度もなかった。
しかし、自分の所属する歴史学部から頼まれた仕事。きっと引き受けたいと思った。
その後、18本もの論文とその概要が送られてきた。会議までに目を通しておくこととのことだった。
テーマは、慰安婦問題から中国文学まで、多岐にわたった。
わたしは一つ一つに目を通し始めた。それは、大量の時間と、根気のいる作業だった。
一本の論文に目を通したあとは、南京大学の友達に分からない中国語の表現の意味を聞き、討論をした。
とても情けないのだが、中国に来て初めて短期間でこんなにもたくさんの論文と向き合った。なんですべて漢字で書かれているんだ!と拗ねたこともあった。
12月18日午前11時。南京大学の食堂の大きなテーブルを囲み、わたしはお世話になった友達と南京で最後の食事をした。
バドミントン、盲学校のボランティア、わたしの教えている日本語の授業などで知り合った友達同士は、この場で初めて顔を合わせた。
お昼の後は、そのままみんなでわたしの家に行き、家を出る手続きを済ませた。
午後1時半、復旦大学の学友の方、現北京科学研究所教授で現在南京支部にお勤めしている楊先生が車で迎えに来てくださった。
この楊先生とは、バドミントンで知り合い、お話をする中で、名古屋大学の修士と博士を出て、アメリカで14年間働き、また学部は復旦大学卒業ということで、様々な共通点も重なり、連絡先を交換させていただいたのだ。
その楊先生は、私が復旦大学に帰ることを知り、南京駅まで送って下さることになったのだ。
地下鉄の駅には、南京大学で知り合った大切な友達が見送りに来てくれた。
ひとり、また一人から手紙とプレゼントをもらった。
友達からの手紙には、「南京大学はえみの家だよ。また帰ってくるのをいつでも待っているからね。」と書いてあった。
また、バドミントンで知り合い、弟のように慕っていた後輩からは、「始めたあった日のことが昨日のことのようだ。
えみがいなくなると心の中に穴があいてしまったみたいだ。」と書いてあった。
南京で知り合った日本人の友達や歴史学部の友達。一人ひとりにさよならを告げるには、少なすぎる時間だった。あっという間に、車は出発しなければならなくなった。
わたしも準備していた手紙を一人ひとりに渡し、みんなとハグをして、車に乗った。
15時5分、高速列車は上海へと向かってゆっくりと動き出した。私を大きく成長させてくれた南京は、だんだんと遠くに、そして小さくなっていった。
12月19日、一息つく暇もなく、会議前日ということで、浦东国際空港に、翌日から始まるシンポジウムの報告をする日本人の先生方をお迎えに行った。
午後2時半に空港に到着してしまった私は、午後6時前にようやく成田から到着された先生にお会いすることができた。
復旦の先生は、私に日本人の先生のお迎えを、そして韓国人留学生には韓国人の先生方のお迎えを頼んでいた。私たちは二手に別れ、それぞれの国から復旦に来られたお客様の接待に当たった。
12月20日、いよいよシンポジウムが始まった。この女性史シンポジウムは、一年ごとに韓国、中国、日本で行われている。
今年は中国の復旦大学で開催されることになった。私にとっては、初めての会議での通訳という大きな挑戦であった。
通訳は全部で4人。すべて復旦大学の修士、博士課程の学生である。日本人と韓国人の学生が一人ずつと、日本語と韓国語を専門とする中国人学生が二人である。私たち4人は当日に初めて顔を合わせた。
仕事分担として、中国人学生は、日本語もしくは中国語を中国語に訳す。そして、日本語はまず中国語に訳され、その後韓国語に訳される。韓国語も中国語を経て日本語へと訳される。
わたしと、韓国人の学生は、中国語をそれぞれの母語に訳す。この複雑な作業に、先生からは「あなたはとりあえず中国語に出会ったらそれを日本語に訳せばいいのよ。」とアドバイスをいただいた。
報告者が一言、もしくは一センテンス話した直後にそれを二人の学生がそれぞれの言語に訳す。そのため会議は普通の3倍の時間がかかる。
一日目の一本目で、私はいきなり窮地に陥った。一番目の報告者は韓国人の先生である。わたしは、韓国人の先生の発表する原稿を中国語に訳したものを当日発表開始10分前に手にした。
20日前に、すべての先生の論文はメールにて手元に送られてきていたが、韓国語で書かれた論文はさすがに目を通すことができなかった。
そもそも南京にいた私は、韓国語は担当ではないと思っていたからである。先生と通訳の学生同士で直接交流するチャンスが会議当日までなかったため、私は会議の流れをあまり理解できていなかった。
そのとき初めて、韓国語が中国語に訳された後、それを私が日本語に訳さねばならないことを悟った。
実際にプレゼンが始まると、私は頭の中が真っ白になった。みんなが注目し、マイクが目の前に用意される中で、韓国語はポカーンと聴いていたが、中国語が話され、周りの全員が私の日本語の通訳を待っているとき、私は動転した。
何を言っているのか、まったく聞き取れない。。。論文に目を通したことがなく、その内容も大変深く入り込んだ専門的なものであり、とても即席通訳などできなかった。私には、その能力がなかった。
私は、左側にある韓国語担当の中国人学生の用意した中国語で訳された原稿を必死で目で追い、できる限り話した。
緊張と戸惑いで、何を話していたか覚えていない。すると、見るに見かねたある大学の先生が、私の隣に座ってくださった。
日本語がわかる中国人の先生であったため、私が話した後に日本語で補足を加えてくださった。
正確に言えば、私の通訳できる内容はほんの少しに満たなくて、残りのほとんどをその先生が訳してくださったのだ。こうしてその修羅場はなんとかくぐり抜けることができた。
冷や汗をかいた私は、その後午前中の三時間は緊張で背中はかたまり、日本語も正しく話せなかった。ようやく午前の部が終了したとき、ふにゃふにゃになってしまった。
私は即座に日本人の先生方のもとへ行って、お詫びを申し上げた。「本当につたない通訳で申し訳ありませんでした。」先生方は、「大丈夫よ。お疲れさま。ありがとうね。」と言ってくださった。それが何よりも心の支えになった。
午後の部は、少しだけ慣れてきて、少しだけ自信をもって話すことができた。
しかし日本語のできる先生は私の隣に座り、引き続きわたしを支えてくださった。こうして一日目のシンポジウムは終了した。これまでに経験したことのない疲労で肩が下がった。
自分の中国語の力不足と、努力の足りなさ、精神的にも大きなダメージを受けた。私が戸惑っている間、韓国人学生はしっかりと一言一言を韓国語に訳していた。
学部から復旦大学の歴史学部であるという彼女は、リスニング力に長けていて、日本語の先生の報告の中国語の原稿もすべてあらかじめ手に入れてそれを韓国語に訳して準備していた。
そのためほぼ完ぺきに、自分の仕事をこなすことができていた。それに比べてわたしは、、、。私は自分が情けなくなった。
もちろん、準備をしていなかったわけではない。しかし、こんなにたくさんの論文をたった20日間で読めるはずがない、、、と弱腰だった自分のことが否めない。
自分に甘えて、完ぺきに準備を整えることができなかった。私の昔からの「なんとかなるさ」精神は、逐次通訳の場ではなんとかならないことを改めて深く実感した。
会議二日目。最終日であり、復旦大学の先生の報告ということで、私も気合を入れなおした。
今回の論文はしっかりと目を通してあり、また南京で討論も重ねてきた内容であったため、最初から最後までほぼ一人でしっかりと通訳をすることができた。
しかし韓国語での報告の即時通訳は先生方の助けを貸していただくしかなかった。
こんな半人前とも言えない私を、様々な方が支えてくださった。
そして会議の終わりには、「通訳大変だったでしょう。お疲れさま。」と温かい声をいただいた。
最後の主催者側の挨拶からも、「通訳のみなさんは本当にお疲れ様でした。」という言葉をいただいた。
こうして一日と、半日の日中韓女性史会議は幕を閉じた。
私たちはその報酬として、3千元、日本円で6万円をいただいた。私は、会議が終わるまでまさかこんなにたくさんの報酬があるとは思ってもいなかった。
この二日間は、全力を尽くしたが、やはり自分の力不足を痛感し、この大金が独り歩きしているような感じがした。
先生方は、韓国人の学生を褒めたたえた。私も、同じ年である彼女を尊敬のまなざしで見ていた。
復旦人は、与えられた任務は、絶対にやってこなす。たとえ通訳する内容が前日にメールで送られてきても、それにしっかりと目を通し、訳した文章を持ってくる。それは私以外の三人の通訳に共通したことだった。
この二日間の会議を通して、一番の収穫は、自分の弱点、実力のなさに改めて気づくことができたことである。
私はまだ、周りのレベルに達していないことは明らかだった。それなのに私は、本当に自分に甘い。
少し努力すると、その気になって、まだ任務を完成させていないのに、平気であきらめてしまう。つまり自分の中で限界を決めてしまっているのである。
本当に、情けない限りである。これから一層の努力が必要であると身にしみて感じた。
もう一つの収穫は、この韓国人の彼女との出会いである。復旦に来てから、初めての韓国人の友達である。
同じ91年生まれの彼女は、将来東アジア共同体を研究したいという目的があり、日本語も勉強するつもりということだった。
そこで、私たちはこれから毎週一時間ずつ韓国語と日本語の相互学習をすることを決めた。同じ目標を持つよき友達、ライバルができたことは、私にとってとても心から嬉しいことだった。
さて、クリスマスをさみしく一人で過ごした私だが、いよいよ冬休みの旅に入ることになる。
1月8日、上海からタイのバンコクに飛び、それからカンボジア、ベトナム、インドネシア、台湾を周ることになる。東南アジアは初めてで、不安も多少はあるが、またとないこの機会を精いっぱい大切にしたいと思う。
カンボジアでは、平和活動平和教育を行っているオーストラリアのNGO団体を訪問する。
これから始まる一か月以上に及ぶ東南アジアの旅に、まだ心の準備は整ってはいないが、学部時代に続き一人旅は初めてではないので、心を決めて、勇気をもって、熱帯の東南アジアへ飛び出していきたいと思う。
最後になりましたが、日本の皆様、2015年は大変お世話になりました。三歩進んで二歩下がる。一歩ずつゆっくりでも、確実に前に進んでいけるようにこれからも努力していきます。
そして、年の瀬に学ぶことができた自分の弱さ、まずは正直に受け止めて、そして少しずつ周りの方たちに追いついていけたらと思います。
2015年は決して平和な年ではありませんでした。2016年が一人でも多くの人にとって幸せな年になれますように。そして、平和な年でありますように。
2015年12月26日 復旦大学留学生寮にて 吉永英未より