大石慶二 黄興と西郷③

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

  
その時代背景はどうだったか?

大石慶二(鹿児島市日中友好協会)

中村先生の講演そして論文を勉強させてもらいましたが、知識不足の為、当時の時代背景とりわけ清朝側の対応、袁世凱の人物像が浮かんで来ませんでした。いろいろネットで調べました結果、

下記、横山彰人様のyokoyama’s homepageが気に入りました。ご本人の了解を得て転載させて貰いました。1905年に孫文、黄興らが作った中国同盟会から、辛亥革命を経て黄興、袁世凱の亡くなる10年間の流れが下記の「世界史ノート」で理解することが出来ました。 大石ケイジ

辛亥革命と中華民国の成立

(横山影人『世界史ノート』より)

洋務運動以後、先進国に多くの留学生が送られたが、特に日本への留学生が多かった。こうした留学生や華僑を中心に清朝の支配を打倒して漢民族の国家をつくろうとする革命運動が盛んとなった。その中心となったのが孫文である。また日清戦争の敗戦を機に、中国では紡績・製粉・製油・マッチなどの軽工業を中心に民族資本による近代工業が起こっていた。しかし、中国の半植民地化が進むなかで外国資本の進出が急増し、外国資本に比べて資力・規模・技術で著しく劣っていた民族資本を圧迫した。しかし、列強の意のままになる清朝には外圧から民族資本を保護し、発展させる力がなかったので民族資本は革命運動を支持した。

孫文(1866~1925)は広東省中山県の貧農に生まれ、移民として成功していた兄を頼ってハワイに渡り、高校に通ってアメリカ式の教育を受けた。帰国後、香港で医学を学び、マカオや広州で開業したが、まもなく革命を志し、日清戦争が始まると再びハワイに渡り、ハワイで華僑を中心に興中会という革命結社を創立した(1894.11)。

興中会は、日清戦争後に広州で挙兵したが(広州起義、1895.10)失敗し、孫文は日本・アメリカを経てロンドンに亡命した。さらに義和団事件による清朝の苦境に乗じて広東省の恵州で挙兵したが(恵州起義、1900)これも失敗し、日本・アメリカ・イギリスに亡命した。  義和団事件で列強に敗れた清朝はやっと重い腰をあげ、「外国の長所をとり、中国の短所を去って富強を図る」として新政を開始し(1901.1)、軍隊の近代化をはかって新軍(洋式軍隊)を建設し、会社の設立の奨励など実業の奨励、新型の学校設立と大量の留学生の派遣などに取り組み、1905年には科挙の廃止1905.9)などの改革を進めた。

日露戦争における日本の勝利は中国にも大きな影響を及ぼした。  孫文らの革命派は、日露戦争における日本の勝利に刺激され、1905年8月(ポーツマス条約調印の半月前)に東京で中国同盟会(中国革命同盟会)を結成した。

中国同盟会は、孫文の興中会・蔡元培(1868~1940)らの光復会(1904年に結成)・黄興(1874~1916)らの華興会(1903年末に結成)などを中心に組織され、孫文が総理に就任した。 そして孫文の三民主義(民族の独立・民権の伸張・民生の安定)に基づく「駆除韃虜(満州人の王朝である清朝打倒)・恢復中華・創立民国(民主共和国の建設)・平均地権(土地所有権を平均にす)」の四大綱領を基本方針とした。

中国同盟会は、1907~08年にかけて各地で武装蜂起したがいずれも失敗に終わった。  日露戦争における日本の勝利に刺激された清朝はやっと立憲準備にふみきり(1905.11)、1908年9月に憲法大綱を発表した。この憲法大綱は明治憲法をモデルとし、清朝皇帝の万世一系や神聖不可侵などを規定していた。

そして憲法大綱の宣布とともに、1916年の国会開設を約束し、翌年に各省に諮議局(地方の議政機関)を、1910年には中央に資政院(中央の議政機関)を発足させた。そして諮議局や資政院で国会の早期開設・即時開設の要求が高まると、1910年には1913年の国会開設を公布した(1910.11)。しかし、すでに時遅く1912年に清朝は滅亡した。

清朝は、1911年5月、軍機処を廃止して責任内閣制を採用したが、国務大臣13人のうち、8人は満州人(漢人は4人)であり、しかもそのうちの5人が皇族であった。また同月、鉄道国有令を公布した(1911.5)。この鉄道国有令では、まず粤漢鉄道(えつかん、広州と漢口を結ぶ鉄道)と川漢鉄道(せんかん、成都と漢口を結ぶ鉄道)が対象とされた。そして民営の両鉄道を国営に移すために、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランスの四国借款団(1910年成立)から600万ポンドを借り受けることとした。 清朝が鉄道国有化を名目に外国から借金をし、その資金を清朝の政権維持・権力強化に利用しようとしていることは明かであり、また国有化は民間の利益を奪ってそれを外国人に与えるものであったので、国有令に対しては湖広・四川・広東省などで激しい反対運動が起こった。

特に四川省では、広範な大衆から集めた資金で川漢鉄道会社が組織されていたので、10万余の会員を擁する保路同志会を中心に大規模な反対運動が展開され、運動は暴動に発展した。そのため清朝は四川の暴動を鎮圧するために武昌の新軍の一部を四川に派遣した。 しかし、当時湖北の革命派が新軍内に組織を拡大し、武昌の新軍(日清戦争後の中国で創設された洋式軍隊)1万5000中5000人余りが革命派で占められていた。 1911年10月10日、武昌の新軍と中国同盟会が武装蜂起し(武昌起義)、12日朝までに武昌・漢口・漢陽のいわゆる武漢三鎮を制圧し、湖北軍政府を樹立した。

武昌蜂起に続いて、湖南・陜西・江西・山西・江蘇・浙江・広東省で革命派が蜂起し、11月下旬までには24省中14省(中国本土の約3分の2を占める地域)が革命派の支配下に入り、清の支配から離脱して独立した。

これが辛亥革命(1911.10~1912.2)である。

独立した省の代表が南京に集まり、アメリカで革命の報せを受けて帰国した孫文を臨時大総統に選出し(1911.12.29)、翌1912年1月1日、南京で中華民国の建国を宣言した。その後、清朝の滅亡(1912.2)によって中国史上最初の共和国が成立した。中華民国はアジア最初の民主共和国であり、当時世界でも数少ない共和政の国家あった。  武昌で革命が起こると(1911.10)、清朝はこれを鎮圧するために当時隠退していた袁世凱を起用しようとした。

袁世凱(1859~1916)は河南省出身で、科挙試験に落ちると、呉長慶(李鴻章系の重要人物)の幕僚となり、呉長慶が朝鮮に派遣されると彼も朝鮮に同行し、壬午の変(1882)・甲申の変(1884)で軍功をあげて李鴻章の信任を得た。そして日清戦争後、新軍(洋式軍隊)の建設にあたり、実力者にのし上がった。

戊戌の変法(1898)を裏切って西太后の信任を得て山東巡撫となり、義和団事件が起こるとこれを弾圧する一方で自分の軍隊の温存に努めた。そして李鴻章が没すると、その後を継いで直隷総督兼北洋大臣となり(1901)、さらに軍機大臣にまでなったが(1907)、その翌年満州貴族に警戒されて罷免された。 しかし、辛亥革命が起こると清朝は袁世凱を再び起用し、彼を総理大臣に任命して軍・政の全権を与えた。

袁世凱は、革命派に戦争を継続する力がないのをみて革命派と取引きし、清の皇帝を退位させることを条件に臨時大総統になることを承諾させた。 孫文ら革命派も、中華民国を建国したものの、武力も財力も乏しく、袁世凱の軍に勝つ自信もなかったので、民主共和国を守るために袁世凱の取引に応じ、清の皇帝を退位させることを条件に、袁世凱に臨時大総統の地位を譲ることを密約した(孫袁密約)。

袁世凱は密約に従って、あくまで帝政を主張する満州人貴族を威圧し、皇帝の称号を廃しないで紫禁城に住むことを条件に宣統帝溥儀を退位させた。

1912年2月12日、宣統帝溥儀(ふぎ、位1908~12、醇親王(光緒帝の弟)の長子で2歳で即位した、後に満州国皇帝となる)は退位し、太祖ヌルハチ以来12代297年間続いた清(1616~1912)はついに滅亡した。

同年3月、袁世凱は臨時大総統に就任し、アジアで最も民主的といわれた臨時約法(仮憲法)を公布した。 袁世凱が臨時大総統に就任し、御用政党である共和党を結成すると(1912.5)、中国同盟会は共和党に対抗するために、他の4党と合併して国民党と改称した。

国民党は宋教仁(1882~1913)を事実上の党首として、1913年2月の総選挙で圧勝した。そのため袁世凱の弾圧を受け、宋教仁は暗殺された(1913.3)。 

袁世凱の専制と国民党弾圧に対して、江西の李烈鈞(1882~1946)らが討袁の兵を挙げたが袁世凱に鎮圧された(第二革命、1913.7)。  1913年10月、袁世凱は正式大総統に就任し、11月には国民党を解散させ、翌1914年には国会を停止し、大総統の権限を大幅に強化した新約法を公布した(1914.5)。

この頃、孫文は東京で中華革命党を結成し、第二革命失敗後の革命勢力の再建を目ざした(1914.7)。

1914年に始まった第一次世界大戦は中国をめぐる国際関係を一変させた。イギリス・フランス・ドイツ・ロシアの各国はヨーロッパ戦線に全力を注いでアジアをかえりみる余裕がなかった。この間に中国への独占的進出をはかった日本は、1915年1月に二十一カ条の要求をつきつけた。袁世凱は初めこの要求を拒否したが、結局日本の武力に屈して5月には要求の大部分を受け入れた。 その一方で国内で独裁権を強化した袁世凱は、1915年8月頃から帝政運動を展開し、12月には国会に工作して皇帝推薦を決議させ、即位を受諾して翌1916年1月1日に皇帝即位式を行うことを決めた。  しかし、この帝政計画に対しては内外から激しい反対が起こり、雲南の唐継堯らは帝政に反対して雲南の独立を宣言して討袁軍を起こした。この第三革命(1915.12)は各地に波及し、また日本をはじめとする列強も帝政に反対した。 内外から激しい反発を受けた袁世凱は、1916年3月に帝政計画を取り消し、まもなく失意のうちに病死した(1916.6)。

袁世凱の死後、地方では列強の援助を受けた軍閥(軍人の私的集団で、私兵を擁して特定地域を支配した)諸勢力が北京をはじめ各地に分立して相互に抗争を続けたので、以後10数年にわたって不安定な軍閥抗争時代が続いた。