わたしの母
2015/02/18
私の母
母が入院したその日から、いつかはこの日が来ることを覚悟するようにと、医師から告げられていた。母との思い出が蘇ると同時に、空白の思い出もあることに気づく。それは、私が母から遠く離れていたときのものであった。
後悔していないかと聞かれると、完全に満足はしていないと答えるだろう。親孝行に、完全に満足することなど、永遠に無いように思う。
母は、物を書くのが好きだった。その「くせ」は私が受け継いだ。母は、入院した次の日から日記を書き始めた。毎日ではなく、気が向いたとき、書きたいことがあるときにペンを握っていた。一人の時に、ゆっくりと。その日記をいま読み返すと、母の感情がじわじわと伝わってくる。
母が厳しい抗がん剤の治療に耐え、そして死と向き合うことが、どれだけ辛かっただろうと思うと、いまでも胸が張り裂けそうな思いになる。
母は、どんなときも家族に弱さを見せなかった。夏のある日、母に笑顔で見送られ、病院を出た後にすぐ、私は忘れ物をしたことに気がついた。私が病室の入口に着くと、母が看護婦さんに泣きついて、子供のように泣いていた。「生きたい」と言っていた。私はその日、病室には戻らなかった。
私は、12月6日に上海から鹿児島に戻ってきた。
母はもとより、家族に内緒で帰ってきた。父と兄は、私が12月の期末テストを控えた時期に帰ってくるべきか否かでもめていた。私は、自分の意志で上海を飛び出した。ただ、母に会いたいという気持ちだけが、私をそうさせた。そのとき、このあと母を看取ることになるとは思ってはいなかった。
帰国したその日のうちに、兄に連れられ病室に行くと、母は私の期待するような反応ではなかった。前日にホスピスに移動したばかりの母の顔は、悲しげだった。
その日、母は私に3日前に書いた手紙を手渡してきた。それは、たった一枚の私に宛てた遺書だった。
『えみの結婚式に出たかった。
えみの子供の顔が見たかった。
でも残念。間に合わなかった。
でも、お母さんは天国でずっと見守っているからね。
お母さんはやっと、苦しみから解放される。
これからはお父さんに良くしてあげてね。
えみには世界中の友達がいる。きっと幸せになれるよ。
私はいい母ではなかったけれど、あなたは良く育ってくれた。』
「お母さんは、いいお母さんだったよ。」私は今、心からそう母に言いたい。
私の前ではいつも弱いところを見せようとしなかった母は、上海に旅立つ前も、涙は見せなかった。
しかし、私の友人がお見舞いに行くたびに、友人の姿に「えみを思い出す」と言って泣いていたそうだ。
私は、遠い上海で知る由もなかった。そのことを考えるたびに、母に寂しい思いをさせてしまったと、心に残る。しかし、あの日あの時あの時期に、夢に近づくチャンスを掴んだ私に、中国に行かないという選択肢はなかった。
母は、思いやりに満ちた人だった。祖母の家に行く途中、重い野菜を背負った見知らぬおばあちゃんを見かけては車を止めて、自宅まで送っていた。近所の叔母さんとお見舞いに行ったときのこと。
私が、「10日間しか日本に居れないから、今日は病院に泊まりたい。」と頼んだところ、「叔母さんは目が悪くて運転が思うように出来ないから、送って帰りなさい。」と母は言った。
それでも私が泊まると駄々をこねていると、「お願いだから、送って行って。」母は厳しい顔で私を叱った。自分が病気になっても、人のことを一番に考える母だった。
母は、私が帰ってきてから少しずつ意識が遠くなり始めた。一週間もすると、言葉が話せなくなった。母はそのことを分かっていたかのように、家族全員に手紙を書いていたのだ。
2013年5月2日に入院した母は、その日のうちに医師から「余命半年」と告げられた。半年後に母の姉から骨髄を移植し、姉から「希望」をもらった母は、前向きに病気と向き合うようになった。しかし、血液のがんは再発した。
そして母を、これでもかと言わんばかりに、苦しめた。私はそんな母を見ているのが辛くて、現実に向き合うことを避けていた。
やっと向き合うことができたのは、母が亡くなる一か月前だったように思う。今まで母と同じように、強気に振る舞っていた私は、電池が切れたように弱くなり、怖くなった。
赤ちゃんに戻ってしまったかのような母の姿を愛おしく思う一方で、母のいないところでは、涙が流れた。
ホスピスで迎えたクリスマスの日。高校生合唱団が病院に歌をプレゼントしに来てくれた。
「上を向いて歩こう」聴いたとき、その歌詞とは裏腹に、涙が止めどなく溢れた。
上を向いてみたが、涙はやっぱり流れた。隣の人も泣いていた。きっと、同じ気持ちなのだと思った。
2月4日、私が戻ってきた我が家に母は居なかった。ただ、母がいたという名残だけが残っている。
靴下を探すとき、料理をしているとき、私は母に話しかけたくなる。いつものように「お母さんと」。でも、母はもういない。
それでも母は、私の心の中に生き続けている。そう思うと、前よりもっと近くなったような気がする。
母は京都で短大を卒業すると、憧れの幼稚園の先生になった。私たちが成長すると、デイケアセンターで働くようになった。
ピアノや歌を練習してから職場に向かう姿は、若い時と変わらなかったに違いない。
母は手先が器用だった。私が幼いころ使っていたカバンは全て母の手作りである。また、トールペイントを趣味とし、資格を持っていた母は一時期、トールペインティングの先生にもなった。
母の実家を解放して教室を開くと、たくさんの人が集まった。午前中は絵を描き、お昼になるとみんなお弁当を持ち寄って、たちまち料理教室に変身した。
そんな母に着いて教室に行くことを、私は毎回楽しみにしていた。母の絵の才能は、兄が受け継いだようである。
母も昔は、わんぱくだったそうだ。ある日私は、家の鍵が無かったため、車によじ登り、そこから二階のベランダに飛び移り、泥棒顔負けの手口で家に入った。
そのことを母に自慢げに話すと、母は、「あなたの子供も将来車の上に乗るわよ。だって私も若いころ同じことしたもの。」と話していた。
母が亡くなってから、父は毎日仏壇の前に座っている。何を話しているのか分からないが、お葬式の翌日、父は私に「天国でもう一回お母さんに会って、プロポーズせんといかんな。天国でもう一回結婚せんと。今度はもっと良くしてあげんと。」と言っていた。
父と母の新婚旅行先は、アメリカだった。父と母が二人で踏んだアメリカ西海岸の土地を、私は大学四年の夏、一人で訪れた。ロサンゼルス、ラスベガス、サンフランシスコで過ごした日々は、父と母、私にとっても大切な思い出となった。
母は、「生きるとは、人の為に生きること」と言っていた。その言葉の書いた紙を、私はしっかりとパスポートに挟んでいる。これから踏み出す一歩一歩が、「人の為に生きる、世界平和」の夢へと繋がることを信じたい。そしてこの命を、かけがえのない命を、精一杯燃やして、周りの人たちを少しでも暖かくすることができたら、母もきっと喜ぶだろう。そして私も、人生に悔なしと言うことができると思う。母の分まで、一生「懸命」に生きたい。
吉永英未