知恩報恩
吉永英未 2015.12.2(水)
11月16日、二つ目の自宅になる南京の家(住まい)に戻ってきた。
復旦大学で、論文の構成発表とバドミントンの試合に参加し、笑顔と元気を補給して、第二の家に帰ってきた。
私が南京に帰ってきたことを友達に告げると、「やっと帰ってきたんだね、短い間だったけど会いたかったよ。今夜ご飯食べに行こう!」と優しい言葉をかけてくれたのは、バドミントンで知り合った樊士庆である。
そしてひとり、またひとりと、再会の食事をする約束を交わした。食事は、コミュニケーションをとるためにとても大切な場である。とくに中国では、食衣住というように、食事に重きを置いている。それは食事の文化であり、人と人の交流に欠かせないものだからなのである。
顔見知りの友達、一緒に授業を受ける友達と、一度でも食事を共にしたことのある友達は、そうでない人たちとは距離感が全く異なる。
私たちは食堂で、1食7元程度の食事を食べながら、お互いの事について話をする。そこにはデザートも無ければ、お酒もない。しかし、向かい合って食べる目の前のこの友達と過ごす時間こそが何よりも意義があるのだ。
復旦でも南京大学でも、バドミントンを通して知り合った友達は少なくない。スポーツを通して知り合った友達だが、バドミントンの後は勉強の話もするし、家族のこと、恋愛の話もする。
バドミントンの強さ弱さはさておき、学問においては、二つの学校のどちらの学生も私にとってはお手本であり、彼らは先生である。
南京大学に来て、繰り広げられる日々の物語(つまり生活)は、復旦では全く想像もできないものだった。私は、南京大学をすごくすごく好きになった。当然、南京という土地自体もとってもとっても好きになった。それは、ここに住む人の温かさそのものだった。
11月20日、南京大学で行われたバドミントンの試合に参加することになった。
わたしは、南京大学第二チームに入れられた。そして、南京漢方大学や南京師範大学などと戦った。11月7日に復旦大学で行われた試合で優勝してしまった私は、自分に少なからず自信を持っていたに違いない。
そして、参加する一つ一つの試合で必ず、いい成績を残したいと思っていた。その思いを、他大学で参加する試合でむき出しにしてはいけないと思い気をつけていたのだが、ある出来事をきっかけに、わたしのバドミントンにかける熱すぎる情熱はむき出しになってしまった。そして、苦い思い出を残すことになる。
団体戦のチームリーダーは試合がはじまる前に、誰がシングルに出て、誰がダブルスに出るか参加項目を紙に書き入れ、提出しなければならない。私たちは午前中の試合はすべて勝ち、みんなでごはんを食べたあと、対戦相手のレベルも上がる午後の試合に備えた。
午後の試合の一回戦、これまで女子シングルスに出ていた私は、何も疑うことなく、今回もシングルスに出るものと思っていた。
しかし、コートに出て行ったのは私ではなく、別な女の子であった。対戦相手はなかなかの腕。こちらといえば、その相手に敵ないそうにない女の子。私は焦った。
「ちょっと待って。シングルスはあの子がでるの?」
しかし、提出した参加項目の紙は書き換えることはできない。試合は予想通り、女子シングルスは相手に余裕で勝たせる結果となっていしまった。
わたしは納得いかなかった。
一つは、同じチームとして、チームメイトに相談することなく参加項目を決めてしまったことが理解できなかった。
そしてもう一つに、シングルスで自分が出れば落とすことはなかったとこれまで経験したことのない悔しさとやるせなさで胸が熱くなったからである。
大人げないわたしは、3つも4つも年下のチームメイトを前に、はらけてしまった。
「なんでわたしに出させてくれなかったの?」
この時のわたしに、自分が復旦大学の学生で、チームメイトのお陰でこの試合に出させてもらっていること、リーダーはわたしの体力を考慮して、ほかの女子にシングルスを出させたことなど、考える余裕などなかった。
ただ、悔しさとやるせなさ、そしてこれまで試合に負けることのなかった私にとって、「自分の実力を発揮しないまま」負けた試合は、耐え難いものだった。そのやるせなさは、リーダーへの疑問と怒りへと変わってしまった。
コートの片隅でひとり、失望している私に、リーダーは近寄ってきた。
「相手がこんなに強いとは思っていなかったんだ。僕はえみの体力も考慮して、ほかの子に出てもらったんだよ。そんなに怒らないで。僕はえみに謝りに来たんだ。」
中国で、謝罪をすることは少ない。面子を重んじる中国社会では、よっぽどのことのない限り、正式に謝ることはない。それは、学生も、社会人も同じである。そんな中国でわたしは、自分の情緒をコントロールすることができず、彼に謝らせてしまったのだ。
彼が面と向かって謝ってきたとき、わたしは改めて自分の過ちに気づいた。そもそも、試合に参加したのは友情のため。友情第一、試合第二というスローガンのもと参加した試合で、わたしはなんと同じチームメイトに怒りをぶつけてしまっていたのだ。
次の試合が始まる前、わたしはリーダーに謝りに行った。
「さっきはごめんね。感情化して、自分の気持ちをコントロールすることができなかったんだ。」
私たちは、和解した。
今回の試合は私に、体力的、それ以上に精神的に大きなダメージを与えた。
それは、自分に対する失望と、反省であった。
「勝つ」ことに対する固執、傲慢、そして仲間を信じることができなかったこと。自分の情緒をコントロールすることができず、仲間を傷つけてしまったこと。あとから冷静になって考えてみると、自分が犯した過ちに深く反省した。
そして、わたしは、「バドミントンから距離を置こう」と決心した。
それからというもの、友達が「えみ、今夜一緒にバドミントンをしようよ!」と誘ってきても、様々な理由を探して断るようになった。
自分にとって、この休みが必要であると考えたからだ。そして、そんなわたしの気持ちに合わせるかのように、参加することが決まっていた学部対抗戦にも参加できないことが分かった。その理由は、私が他大学の学生だからであった。
わたしはこの現実をすんなりと受け入れることができた。というのも、当たり前の結果だと思ったからである。仲間からは、「試合には参加できなくても一緒にバドミントンは楽しもうね。」と励まされた。
しかし、わたし本人以上にこの結果に納得できない仲間たちがいた。それは、同じ歴史学部の学生であった。
彼らは、私が歴史学部の学生として試合に参加することを心から願っていた。そして、試合前日に知らされたその結果に、納得できないどころか、なんと主催者側に抗議を始めたのだ。
わたしは、「わたしは南京大学の学生ではないし、ほかの学部の学生にとって不公平になるなら、参加したくないよ。」と行って学部の主将を説得したのだが、彼は強く私が試合に参加することを望んだ。
彼らは、過去にサッカーの試合で留学生もひとつの学部を代表して参加したことを例に出し、また南京で行われた学校対抗の試合に私が南京大学の学生として参加したことのあることを強調し、主催者側を説得した。
そして、その主催者側の一人であり、わたしの大切な友達の天睿は、深夜にまで渡って先輩を説得して、この私を試合に出させてくれるように頼み込んだ。
その壮絶なやり取りを知る余地も無かったわたしは、試合前日に、わたしが試合に参加できることになったという知らせにただ驚きを隠せなかった。
それは、交換留学でも何でもない、なんの籍もない他大学の留学生が、南京大学の歴史学部を代表して試合に参加するという前代未聞のケースとなったのだ。
その背景は、歴史学部のメンバーの努力と、わたしの親友とも呼べる天睿が一生懸命先輩にお願いして叶った、「人情」の賜物であった。
本部からの最終決定は、「南京大学に籍があるなしに関わらず、いま南京大学で学んでいるのなら、南京大学の学生に変わりはない。国際友人の参加を大いに歓迎したい。」というものであった。私はその温かさに感動し、目頭が熱くなった。
いつものバドミントンの帰り道、樊士庆はいつものようにわたしを校門まで送ってくれた。彼は、私が南京に来たばかりのとき、夜の南京大学を案内してくれて以来、いつもわたしを見つけては、笑顔で手を振ってくれる。わたしのことを心から気遣ってくれる大切な友達の一人である。
私はバトミントンの帰り道、そんな彼に相談を始めた。
上海に戻って行った論文の構成発表では、前に進むどころか、私はゼロに戻ってしまった。
先生方からは、研究方法と研究方向を大掛かりに変えなければならないと指摘をいただいた。率直に言えば、もう一度書き直しなさいということであった。
私はがっかりを、隠しきれなかった。前に進んでいたはずが、また振り出しに戻ってしまったのだ。そして現在、南京に居ながら、次の目標を見つけることができなくなってしまった。
言い訳を探すことは簡単だが、私の努力不足以外に何でもない。しかし、方向性を見失った今、努力する目標を見つけられずにいる自分がいた。
そして、生活面の問題。中国の大学では、図書館や食堂、全てにおいて学生カードが必要である。その南京大学の学生カードのないわたしは、どこに行くにもあまり便利ではなかった。
食堂では、注文をしてから食券を買いに行き、その券を手渡すことでやっと食事ができた。
図書館は復旦大学の学生証を見せるほか、本を借りるときは必ず南京大学の学生にお世話になった。そんな私のお願いを、みんな快く受け入れ、手伝ってくれた。しかし、そのこともだんだんとしんどくなった。
それは、体力的にではなく、カードが必要なその度に、自分がこの大学の学生ではないという疎外感を少なからず感じていたからだ。わたしは、気分が良い日に食堂で頼んだごはんをタッパーに入れて持ち帰っては、それを温めて食べていた。そうすることで、食堂に行く回数を削減することができた。
そんな日々の中で、3日前に詰めたごはんを食べてお腹を壊してしまったこともあった。
彼は私の話をずっと聞いてくれていた。
そして、勉強面のアドバイスから、一つ一つ丁寧に私に話をしてくれた。
ひとつ年下の彼は修士課程一年生だが、修士論文を学部時代に書き上げ、主席で同大学院に入った。
彼は、「誰もがきっと、英未のような問題にぶつかったことがあると思うよ。一つ一つできることからやっていくこと。まず、論文で何を書きたいのか明確に決めること。そして例えば、第一章が書けないなら、第二章、第三章から書く。そうやって繋げていけば、いいんだよ。」
私たちは理系と文系で専攻は全く異なるが、指導教員との接し方など、様々なアドバイスをもらった。
そして、私の学生カードについて彼は、「なんでもっと早く言ってくれなかったの?僕が明日思い当たる人に聞いてみて、えみのためにカードを借りるよ。」と言ってくれた。
彼は続けた。「自分ひとりでは解決できない問題も、友達に相談したらきっと解決することができる。たとえ解決することができなくても、話すだけで心がほっとするでしょ。大学で知り合った友達は、他の友達と全く違うんだ。困ったときはお互いに助け合うこと。何年後に集まったって、やっぱり昔のようにたわいのない話が出来るんだ。だからえみも、この大学の友達のこと、もっと頼っていいんだよ。」と。
わたしはその言葉を聞いたとき、涙が出そうになった。彼は、私のことをこんなにも理解してくれていたのだ。わたしはもう、ひとりぼっちではないのだと心から思えた。
私たちは、夜の歩道を照らすライトの下で、話し続けた。というより、彼がずっとわたしを励ましてくれた。
「カードが手に入ったらすぐに、えみに連絡するからね。」と言って手を振った彼は、二日後にはカードを使わなくなった友達から借りたカードを私に手渡してくれた。
南京大学にいる間はずっと使っていいという。わたしは本当に、南京大学の学生になった。
12月1日、復旦大学のクラスの担任の先生から、連絡が来た。
12月19日から21日まで、歴史学部で国際学術会議があり、日本語の通訳をぜひ私に担当してほしいということであった。
国際会議は聴きに行ったことがあるが、自分がマイクを持ったことはなかった。ましては、発表者の通訳を担当することなど想像したこともなかった。自分の学部で開催される国際会議、わたしはもちろんその仕事を引き受けた。担当の先生からは感謝の言葉と、応援を受けた。
しかし、この晴れ晴れしいチャンスのもう片方では、わたしが南京と別れを告げなければならないことも意味していた。
もともと一学期間、南京大学で学ぶことになっていたわたしは、12月末に授業が終わるとともに上海へ帰るつもりだった。しかし、この国際会議のため、10日早く復旦大学へ戻ることが求められた。
それは、南京でお世話になった愛おしい友達に、あと十数日で別れを告げなければならないということでもあった。
12月2日 南京大学仙林キャンパス図書館にて 吉永英未