英未2015

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

南京大学1ヶ月の想い出
2015/11/05

南京大学 日記

―2015.11.1日 一月(ひとつき)振りに戻って来た復旦大学から―emiより

自分の部屋のドアを開けるとき、嬉しさで手が震えた。自分の部屋があること、部屋の中にトイレやお風呂が付いていること、学生カードで図書館にすんなりと入れること、食堂でご飯が食べれること、そして何より、これまで友情を育んできた友達と、再会できること。

いままで当たり前のように過ごしてきた日々に、何気なく通り過ぎていたことに、限りない嬉しさを感じた。それは決して大げさなことではない。

それは、言葉で簡単に言い表すことができないほど様々な感情に満ちていた南京での日々が私に気づかせてくれた、大切なものだった。

7月20日に南京大学を初めて訪れ、次の学期から南京大学で学ぶことが決まってから、わたしはこれからはじまる南京での生活を心から楽しみにしていた。

一年間住み慣れた上海での生活から離れ、新しい環境、新しい友達、新しい学び、新しい生活が始まることにとてもワクワクしていた。

しかし、実際の生活は、わたしの想像していたような美しいものではなかった。

私は、友達の紹介で南京大学の目の前のアパートに毎月500元(日本円で一万円程度)の家を借りた。

南京大学仙林校区は、南京市内からは地下鉄で約40分と、離れたところにある。

この地区一帯は、ほとんどが大学で、「大学城」と呼ばれているほどだ。南京大学は三つのキャンパスがあり、2009年に建てられたこの仙林キャンパスが一番広く、ほとんどの学部がこのキャンパス内にある。

そんな南京大学に到着してすぐ、わたしは平和学会などに参加し、とても有意義な一週間を過ごした。

それは、私を受け入れてくださった劉成先生が下さったチャンスだった。

その一週間が過ぎると、中国は国慶節で一週間の休みに入った。

そして、『孤独―loneliness-の7日間』がはじまった。

観光地は人で賑わい、学生のほとんどは故郷の家に帰り、学校はシーンと静まり返った。そして私は、この七日間を上海に戻らず南京で過ごすことを決意した。

それは、まだ来たばかりの南京で、この7日間を過ごすことが自分にとって必要だと思ったからである。

それが、私の「孤独」との戦いになると分かっていたならば、まだ、覚悟が足りなかったように思う。

国慶節の半ば、私はそんな孤独に耐えられなくなってしまった。

2、3人しかいない友達もみんな実家に帰り、わたしはひとり、この広い大学城に残されてしまった。もちろん、やるべきことは山ほどある。

それは承知でも、一日中誰とも話さない、食堂でおかずを注文するときにこれとこれ」と話すこと以外、人と会話する機会が全く無くなってしまっていた

また、食堂で食券を買うたびに、この大学の学生ではないのだという疎外感も少なからず感じた。

復旦の食堂が寮から歩いて1分の距離にあるのに比べて、南大食堂は大通りを挟んでいるため、自転車で10分弱かかった。

私は、一日のほとんどを自分の部屋で勉強して過ごしていたため、食事のためにわざわざ一人で食堂まで行く気持ちも無くなってしまった。

また、わたしの住んでいるアパートはシェアルームで台所が共同のため、決して清潔とは言えず、とても料理なんてする気にはなれなかった。

そこで、5元で3日分の麺を買い、ステンレス製の鍋に入れ、麺を湯で、日本から持ってきた味噌汁をかけて食べることにした。

何日かすると味噌汁も底をつき、今度はスーパーで買った冷凍餃子を食べることにした。そんな生活が続いていた。

午前中は、イヤホンで英語の会話をひたすら聞きながら、自転車でサイクリングをした。仙林の通りは緑に囲まれ、とても気持ちが良かった。

何より、いい気分転換になった。南京漢方大学やスーパーや市場や湖のある公園など、毎日新しい発見があった。それからというもの、毎朝起きると7時には自転車に乗り、同じコースを辿った。

2時間後に自分の部屋に帰ってきた。

午前中は英語に時間を費やし、午後は研究計画書の作成に頭を悩ませた

しかし、気づいたのは、精神面の安定があって初めて、学問が成り立つということである。

復旦では、クラスメイトや日本人の友達、売店のおばちゃんなど、立ち話で5分も話してしまうことがほとんどだった。

しかし、このまだ慣れぬ土地では、そんなたわいない会話も生まれなかった。そして一人になると、考えてもどうしようもないことばかり考えていた。

上海の友達に勇気を持って電話をかけて、弱音を吐いても、結局は「がんばれ」と笑顔をもらえるだけで、会うことはできない。

気がつくと携帯を握りしめてベットの上で子供のように泣いている自分がいた。「こんな孤独はいやだ。上海に帰りたい」そう心が叫んでいた。

涙を流す日が何度もあったが、私はそのたびに、自分は何しにきたのかを自身に問い続けた。

いま思うと、この孤独との戦いは、しっかりと自分に向き合い会話する必要な機会であったのかもしれない。

7日間の休暇が終わり、私は初めて授業に参加した。平和学の授業は火曜日の夜6時半からである。

ついに『孤独からの脱出』が出来た。

100人以上もの学生が受けるこの授業で、劉成先生は私のことを紹介して下さり、質問をする際には私に発言をする機会を与えてくださった。

そのため2時間のその授業は、背筋が伸びっぱなしだった。

そして、新たな友達との出会いも私を勇気づけてくれた。

私は、休日が明けてすぐ、ラケットとシューズを持って体育館へ向かった。 目的はもちろん、バドミントンをするためである。

一人の友達との出会いがまた一人、ひとりと友達を呼び、そして一緒にバドミントンをすることで友達ができた。

そのことが、何よりも嬉しかった。そしてのちに、試合に誘われたり、南京大学のバドミントンチームの練習にも誘われるようになった。

高校時代に必死になって打ち込んだバドミントンが、今花を咲かせてくれたようである。

ある日、数学学部の樊士庆くんに誘われて、バドミントンの後、食堂で一緒に食事をした。

そしてその後、彼の案内のもと学校を見学した。

すでに外は暗くなっていたが、三日月と電灯の光が私たちの行く道を照らしてくれた。

南京大学の敷地内にはなんと、山がある。そして、大気学部や天文学部の研究室はその山の上にあり、まさに自然と一体している。

親切な士慶くんに案内されながら、私たちはその中でも一番低い大気学部の山を登った。

久しぶりに、星を見ることができた。広いキャンパスを見下ろし、南京大学の良さをまた一つ発見した。

バドミントンで知り合った士慶くんは修士一年生で、その優秀さは飛び抜けていて、学部時代にを修士論文をすでに書き上げてしまったそうだ。私たちは、お互いの話をしながら、夜の大学を探険をした。

南京に来て一ヶ月目の10月25日、私は、南京で出会った二人の友達天睿,赵昕と、一足先にささやかな誕生日パーティーを開いた。

小さなケーキを囲い、私たち三人は誕生日を祝った。95年生まれの天睿と、96年生まれの赵昕、そして91年生まれの私。

11月6日、7日、8日にそれぞれ誕生日を迎える私たちは、年齢の壁を越えて、大切な友達となった。

そんな二人は、わたしが論文の構成発表のために、一度上海に戻らなければならないと知り、誕生日会を提案してくれたのだ。

新しい環境で、衣食住を一から整え、人間関係を一から築くこと。それは、決して容易なことではない。

しかし、新しい土地でも、「平和学を学ぶために南京大学に来た」私のことをたくさんの友達が支えてくれる。

いまや、復旦と南大の両方で先生方や友達が支えてくれている。

そして、日本で応援をしてくださっている人たちがいる。

私に、夢を諦める理由なんて一つもないことに気づく。

南京大学で学ぶことのできるこの短い期間で、どれだけ成長できるか分からない。

しかし、今置かれている環境に感謝し、逆風の中でも努力を続けること、そして、逆風も自分の受け止め方次第で順風にさえ変わることを私は学んだ。

それは、わたしが南京大学で過ごしたこの一ヶ月で得ることの出来た、小さな、でもかけがえのない収穫であるのかもしれない。

上海で過ごす残りの二週間、そして戻った先南京で過ごす残りの貴重な学習期間を、大切にしたい。 

 2015年11月1日 一ヶ月ぶりに戻ってきた復旦大学から 吉永英未より