平和トレーニングの想い出(南京大学)
2015/10/09
国際青年平和学会
(南京大学)での英未の回憶
9月25日から、南京大学に来て、1週間が経ったばかりです。
でも、その収穫と感じたことは、その日数に比例しないものでした。
24日に南京に着いたわたしは、劉成先生に招待され、25日の夜食事会に参加しました。
さまざまな国の平和活動をしているNGOの方や、平和学の教授の方に囲まれて一緒に食事をしました。
わたしは、箸を握るよりも、両隣の先生に夢中になって話しかけました。日本でも上海でも、平和学、平和活動をしている外国人の方々と、こんなにも近くで話をすることは、今までありませんでした「こんな貴重すぎるチャンスはない」、とわたしは思い、つたない英語で必死に質問し、交流をしました。
その日の夜、わたしは劉成先生の家に招かれました。
そこで劉成先生とドイツ人学者Egonとの共著である(出版されたばかりの)平和学の本をいただきました。まだ店に出ていない、こんな貴重な本を頂けたことが嬉しすぎて、スキップをして家まで帰りました。
9月26日、南京大学で開催された国際青年平和学会。劉成先生がまさか私に、発言の機会を与えてくださるとは、思ってもいませんでした。
マイクを持たされて、同時通訳の付いている中で、自分の言葉を発しました。
緊張して、脚まで震えたのは高校時代の学生論文発表会以来のことでした。
そしてここで出会ったイギリスのアレン教授、その奥様の高子さまとの出会いは私にとってかけがえのないものになりました。
短い交流の時間に語り合ったことは、これから人生を歩む上で大きな糧となるような、そんな大切な事ばかりでした。そしてふと笑った高子様の横顔を見ると、お母さんのような気がしてなりませんでした。
28日から30日までの二日間は、平和トレーニングに参加しました。
平和トレーニングってなんだ、とお思いになるかもしれませんね。
この平和トレーニングは、American Friends committee というNGO団体が主催する、平和構築、平和維持のモデルを実践的に考える活動のことです。
模擬国連を想像していただけるとわかりやすいと思います。中国全土から、記者や公務員、大学教授など、選抜された20人の方々がここ南京大学に集まり、4日間の平和トレーニングを行います。使用言語は英語で、職業も年齢もバラバラな方々が朝9時から午後5時まで、そして食事も全てともにします。
そしてわたしもなぜか、このトレーニングに参加することになりました。というのも、「講演があるから見にこれば?」と言われて参加したものが、このような大規模なトレーニングだったということを、後になってやっと知ることができたのです。
講演を聞いた後に、「あなたは今日から来たの?」「はい。」と答えると、組み分けされたグループに入れられ、このトレーニングを受ける一人になってしまったのでした。
上海を離れてわずか3日目で、まさかこのような機会に恵まれるとは思ってもいませんでした。
わたしの周りの方々は新聞記者の方や政治学の教授、公務員と立派な大人の方ばかりなのに、わたしだけが最年少の学生ということで、最初はこれでよいものかと戸惑いました。
そんなとき、劉成先生が駆けつけてくださり、私をみんなに紹介をしてくださいました。こうしてわたしは、残り2日間に迫ったこの平和トレーニングに見学者ではない一参加者メンバーとして参加することになったのです。
このトレーニングで学ぶことは、紛争解決や平和構築の方法、それはまさにわたしが学びたいと思っていたことばかりでした。わたしは、始めて聞く内容に、わくわくし、目をキラキラさせて聞いていました。心から幸せに思いました。
しかし、いざ実践的になトレーニングに入ると、言語は全て英語での討論。わたしは、言語の壁にぶつかりました。
自分の専門分野で、討論に参加して自分の意見を伝えたくても、英語でそれを表現する力が私にはありませんでした。
周りの方々は、アメリカで修士課程を修了した方、海外をレポートする記者の方、国際関係の先生など、英語を自由自在に操ります。
わたしは、自分が悔しくなり、また、焦りました。トレーニングが終わって家に帰るとすぐに英語の勉強を始めました。学校までの行き帰りはずっとイヤホンで英語を聞くようにしました。夢の中でも英語を話していました。
30日、トレーニングが終わり、修了証書の授与式があり、みんな一人ずつ感想を述べました。
わたしも始めて、みんなの前で英語を話しました。つたない英語で、でも感謝の気持ちをしっかりと伝えました。
「上海を離れて、一人で南京に来て、はっきりいってとても寂しくなるときがありました。でも、この2日間という短い間で、平和というひとつの、同じ目標を持った方たちに出会い、素晴らしい先生のもと一緒に学ばせて頂くことができて、本当に嬉しかったです。そしてこれからも、劉成先生のもとで平和学を学びたいと思います。こんなわたしを仲間に入れてくださり、本当にありがとうございました。」とお礼の頭を下げた途端会場からの思いがけない大きな拍手にわたしはおどろくと共に目頭がじーんと熱くなりました。
10月1日から、中国は国慶節で一週間の長期休暇に入ります。私は、上海に戻らずここ南京の小さな自分の部屋で過ごすことにしました。集中力の高まるこの部屋で、一人でこもって、英語の勉強と、平和学の勉強をすることに心を決めました。
弱音を吐くと、逃げてしまいたいと思うことも少なからずありました。住み慣れた上海の寮と、親しい友達、復旦の食堂、図書館。心地よい場所を離れ、一人で南京に来て、学校の前の小さなアパートに住み、ご飯は毎回「学生証を忘れました」と言って、歩いて25分かかる南京大学の食堂に向かう日々。まだ友達も少なく、これまで復旦で当たり前のように過ごしていた日々がとても恋しくなりました。
でも、わたしは平和学を学ぶために、ここに来たのです。その平和学を、精一杯に学ぶことのできる環境と、素晴らしい先生がここにいる限り、私は諦めません。どんなに寂しくても。
1月から、カンボジアにボランティアに行くチャンスをいただきました。そのチャンスをくださった、カンボジア在住のオーストラリア人EMMAとの出会いは、本当に貴重なもでのでした。彼女が中国を離れる前に言った,「Emi、今度はカンボジアで会いましょう! Keep make peace !」という言葉を信じて、これからも前に前に進んでいきたいと思います。
10月1日 国慶節1日目。すっかり空っぽになってしまった宿舎から
わたしたち8人の夏(2)
2015/08/19
2015年 私たち8人の夏がはじまった。
7月28日、学校に来て2日目の朝、私たちはこの小さな村で挨拶回りをした。
学校通常9月から始まるため、現在子供たちは夏休み真っ盛りなのである。
そこで私たちは私たち支教の先生が到着したことを知らせるために、4人ずつ2つのグループに別れ、この小さな村を回った。
最初に学校に駆けつけてくれた3人の男の子を先頭にして、村の人に出会うたびに、「私たちは上海復旦大学からきました。今年の支教の先生です。
もしうちにお子さんがいらっしゃいましたら、ぜひ学校に来てくださいとお伝えください!」と言って回った。
復旦大学からは毎年この学校に支教の学生(ここでは先生)が来ている。そのため、「今年も良く来たね」と歓迎してくれた。
午後は上海から持ってきた3つの血圧計を持って全員で検診に出かけた。
この村では、医者が一人しかいない。また医療費もかかるため、ほとんどの高齢者の方々は定期的に病院に検診に行くことができない。
私たちは、医学部の4人の学生を先頭に、鼓楼と呼ばれる木で出来た人々の集まる場所に行き、おじいさんやおばあさんに声をかけた。
「私たちは復旦大学の医学部の学生です。最近お身体の調子はいかがですか?血圧を測りますね。」私たちは、高齢者の方一人ひとりの血圧を測って周り、医学部の学生はそれぞれ健康に関するアドバイスを行った。お年寄りの方は方言しか話さないため、子供たちに通訳をしてもらった。
この検診は健康診断だけでなく、村の人たちとの警戒を取る大切な交流となった。
3日目の朝、校長先生に学校から離れた小さなスーパーのある町に連れて行ってもらった。私たちは生活に必要なものを買い揃えた。
明日からいよいよ、授業開始である。たくさんの学生たちが集まってくれるだろうか不安を抱えたまま、私たちは授業一日目を待った。
授業一日目
授業は午前中3コマ、午後2コマの5コマである。昼間は暑いため、11時半から14時まで長い昼休みを取るのは、この小学校の習慣に合わせた。
8時半になると、教室いっぱいに子供たちが集まっていた。子供たちが来てくれるか心配していた私たちは思わずほっとした。私たち8人は自己紹介をすると、自分が教える教科の特色などを説明した。わたしは、音楽と道徳を受け持つことになっていた。
子供たちに、自己紹介したあと、午後からは本格的に授業が始まった。
わたしは、音楽の時間に森山直太朗の「さくら」を子供達と一緒に練習した。
子供たちにとって日本語に触れるのは初めてで、日本語で歌を歌えるものだろうか、と思われるだろうが、子供たちの耳は素晴らしく、歌いだすと全く、外国語で歌っているようには聞こえなかった。
わたしは以前に上海で子供たちに日本語を教えるボランティアをしたことがあったため、スムーズに授業を進めることができた。
子供たちは、歌詞を覚えることは難しそうであったが、授業が終わっても、「さくら、さくら」と日本を代表する花の名前はみんな言えるようになっていた。私の2週間の支教生活は、さくらの歌とともに幕を開けた。
支教生活
長い昼休みに、ほかのメンバーがお昼寝しているのをよそに、わたしは毎日子供たちと一緒に山登りに行った。
村を取り囲む山は緑一色で、登る過程で山の湧き水にも触れることができる。
子供たちはその水で喉を潤した。山の上からは、小学校や村全体を見下ろすことができた。
これまでに見たことのない、緑の美しい景色をみるために、わたしは毎回山に登った。
山登りでは、わたしが学生で、子供たちが先生である。「この実は食べられるよ」と言って、野いちごとってくれたり、(たくさん食べていたら、いつの間にか舌が紫になっていた。)
「この葉っぱは~の薬になるから、500グラム10元で売れるよ。」と教えてくれたりと、山に関しての知識は、子供たちの身体に身についていた。わたしは子供たちを先頭に、毎日山登りを楽しんだ。
午後の授業が終わると、みんなで近くの川に行って泳いだ。最初は足をつけるだけだったのだが、子供たちが2メートルほどの崖から飛び降りて川に入っていくのを見て、わたしも挑戦したくなり、2日目にして飛び込んでみた。
勇気を振り絞ってみると、本当に気持ちが良いものである。わたしは子供に戻って、こどもに戻り、無邪気に水遊びを楽しんだ。
夜のミーティングのあと、女子の宿舎に戻ると、おしゃべり会がはじまる。女の子は本当に、おしゃべり好きである。ここでの話の話題のほとんどが、恋愛についてであったため、彼氏のいないわたしはあまり付いていくことができなかった。
でも、一週間も生活を共にしていると、私たちは学年や専攻を越え、お互い信頼できる仲間になっていた。
また、私たち女子の5人部屋には、毎晩様々な虫が挨拶に来た。
たまにねずみも現れた。わたしはそれらのものに対してあまり恐怖心はないのだが、ねずみや特大蜘蛛を目にした部員の叫び声の方に驚いて起きることが何度もあった。
寝る前は女子全員でお手洗いを済ませ、ベットの至るところに虫除けスプレーを振って、タオルケットで身体を覆うようにして寝た。
それでも、毎朝新たな場所が蚊に噛まれていた。
そんな支教も後半一週間にさしかかった頃、 最初は何もかも新鮮であったこの学校での生活を、辛く感じるようになった。
わたしはとっても上海に帰りたくなった。この山の中では、インターネットもなければ携帯電話の電波もない。山の外にいる誰とも連絡が取れない。
かつて当たり前のように身近にあった様々なものが急に恋しくなった。
山の中の学校なので、停電や停水は日常茶飯事で、私たちはそれが同時に停まらないことを祈っていた。
一日三度の食事の他に、間食することはなかった。
というのも、食べる物が何もないためである。毎回の食事は、芋や青野菜などを中心に三種類の野菜と、おかわり自由の白ご飯である。
わたしは、男子学生がおとなしく一杯しか食べていないのをよそに、毎回2杯のごはんを食べていた。
ホームシックになり職員室で泣きべそをかきながらいつものように日記を書いていると、部員の郭继尧はわたしに、「この映画知ってる?」といって話しかけてきた。
それは、日本の映画で、都会から来た主人公の青年が田舎で植木の仕事をする物語であった。
都会との生活のギャップに悪戦苦闘しながらも、最後まで諦めず仕事を続ける青年の姿に感動し、村人たちはだんだん都会から来た彼を仲間として認めるようになっていた。
そして主人公は村の伝統行事に参加することになる。
わたしは主人公と今の自分を重ねた。郭继尧と一緒に見たこの映画は、ホームシックになっていたわたしに、もうひと踏ん張りする勇気を与えてくれた。次の日から、わたしは気持ちを入れ替えて支教に望んだ。
それからの一週間はあっという間に過ぎていったように思う。道徳の授業では、虫や小動物を平気で殺してしまう子供たちに、命の教育を行った。
「私たちにお父さんとお母さんがいるように、虫にもねずみにも家族が居るんだよ。」たくさんの動物の絵を書いてわたしは、すべての命の尊さを訴えた。
また、アメリカの大統領の命の重さも、私たちの命の重さも同じで、命はお金や権利の大きさで図ることができない、すべてが尊いのだということを一生懸命にこどもたちに訴えた。
それから、子供たちと一緒に山に登るたびに、生き物を捕まえた子供たちは私に嬉しそうに見せてくる。
「えみ先生、カエルとったよ!」わたしは一瞬ぞっとするが、「すごいね。畑にに返してあげてね。」と言うと、「うん。お父さんとお母さんの元に返してあげる」といって畑に逃がした。教育の成果を、目に見て感じ取ることができた。
軍隊と平和学と 決して矛盾ではない
子供たちは、元気いっぱいでいつも騒がしいため、ひとりの先生が授業しているとき、だれかがサポーターとして入っていた。
ある郭继尧の中国の軍隊の歴史の授業で、わたしがサポーターを勤めていたときのこと。郭继尧の話す歴史をわたしも熱心に聴いていたのだが、授業も残り30分になったころ、彼はいきなり私の目を見て話しだした。
「みんなも知っているように、えみ先生は日本人だよね。昔、中国と日本は戦争をした。日本を憎いと思っている人もいると思う。
でも、僕はえみ先生のことを心から尊敬しているし、これからも良き友達、仲間でありたいと思っている。
政府間の関係がどうであれ、僕たち民間交流の絆は固くて尊い。切ることができないんだ。えみ先生が君たちに関心を持ってこの学校に来てくれたことをみんな感謝しようね。
そして、残り時間はえみ先生に宛てて、手紙を書いて欲しい。」
わたしは、思わず口をあんぐり開けてしまった。まさか彼が軍隊の歴史の授業で私を取り上げ、日本と中国の民間交流の平和を語るとは思ってもいなかった。
ましてや、最後に私宛に手紙を書いてもらうなんて、サポーターとしてたまたま教室に入った時には想像もしていなかった。
授業の最後、子供たち一人ひとりがわたしに手紙をくれた。心のこもった手紙には、
「えみ先生を一度も外国人の先生として見たことはありませんでした。わざわざ遠くから来てくれてありがとう。」
「過去の歴史がどうであれ、私たちはみんな平和を願う国民です。私たちの最初の日本人の先生になってくれてありがとう。」など、数々の手紙を受け取った。
子供たち一人ひとりにお礼を言うとともに、この授業を繰り広げた軍医大学の郭继尧の温かい言葉に胸が熱くなった。
音楽の授業のボイコット
ある日の音楽の授業のこと。筷子兄弟の「父亲」という歌の歌詞を黒板に書いていると、「その歌知ってる。」と言って、わたしが教える前に、子供たちは歌いだした。
「なんで知っているの?」と聞くと、歌詞がとても感動するからすぐに覚えたという。
私も嬉しくなって、それならば座って歌うのではなくて、後ろの方に全員並んで歌ってみようと言った。私自身が、小中学校の音楽の授業でそう学んできたように。
ところが、後ろに並んでくださいと指示を出したところで、子供たちはいっこうに動こうとしない。
普段木登りや逆立ちなど教室を走り回っているこどもたちが、「後ろに立って並ぶ」という動作をしようとしない。
わたしが何度かお願いすると、子供たちの大半は後ろに並んで「早く歌おうよ!」と言ってくれた。
しかし、ふだん大人しく成績の優秀な学生数名が、いっこうに席を立とうとしない。わたしは一人ひとり歩み寄って、なぜ並んで歌おうとしないのかと尋ねた。
すると、返ってきた答えは、「疲れたから」「並びたくない」であった。
わたしは、先生として盛り上がっていた気持ちが一気に冷めていくのが分かった。
一言で言うと、「ショック」であった。授業は止めることができないため、後ろに並んだ学生だけで引き続き歌を歌ったが、私の頭の中は「なぜ?」という疑問でいっぱいだった。
結局、私に一番なついていた女の子を含む10名弱の学生は、最後まで自分の席から動こうとしなかった。
わたしは音楽の時間を早めに切り上げ、教室の子供たちに話をした。
「今日の出来事は、先生にとって、とても驚いたし、正直、大きなショックを受けました。これまで、この何日間、わたしは、自分が本当の先生なのだと思い込んでいました。
でも、、、私はあなたたちの面倒を2週間しか見ることができない。無責任な先生と思われても仕方がない。
私に対して今日のような態度をとっても、構わない。でも、9月から新しい学期が始まったら、先生に対して、同じような態度をとらないで欲しい。
なぜなら、先生はとっても傷つくだろうから。」私は、思ったことを率直に子供たちに話した。
教室は静かになり、私も静かに教室を出て行った。
誰とも話す気にはなれず、先生をしていた自分がバカバカしくなって、泣きたくなった。
職員室に戻ると、部員に今日あった出来事を話した。ひとり、またひとりと慰めとアドバイスをくれた。
「こういう時には美味しいものを食べて元気を出して。」といって1元のアイスを買って来てくれた部員もいた。
ベットに横になっていると、子供たちがいつものように山登りに行こうと誘ってきた。私は、気持ちを切り替えるために、外に出た。
すると、座って一向に動かなかった学生のひとり、私に最もなついていた女の子も寄ってきた。
「先生ごめんなさい。わざとじゃなかったの」そう言い、私たちと一緒に山に登りたいと言った。
私は、「大丈夫だよ。気にししなくて。」というと、何事もなかったように学校を出発した。
山登りの間、彼女はずっと私の手を握っていた。内気な彼女は本当は山登りなど好きではと以前話していた。
なのに、今日は私たちと一緒に汗びっしょりいなりながら、高く高く登った。
それが彼女の精一杯の誠意だということを、私は心から理解した。
この経験は、これまで順調に授業を進めていた私に立ち止まるきっかけを与えてくれた。
わたしは深く反省した。
いきなりふりだしに引き戻されたような気持ちで、先生としての役割を改めて考えさせられた。
この出来事に悲しみを隠せなかったのは事実である。だが、この経験が、私と彼女を、成長させたことは間違いないだろう。
別れと旅立ち
授業最終日、私はリーダーにもう一度授業をさせてもらえないかと頼んだ。
最後に道徳の授業をしたかった。私は、ボイコットの出来事も含め、これまでの授業で伝えきれなかったことを子供たちに真っ直ぐに伝えたかった。
10歳未満の子供たちには、すこし難しかったかもしれない。でも、いつか大きくなってその言葉の意味が分かるようになったとき、思い出して欲しいと思った。
道徳のある人になること。人のために尽くすこと。すると知らぬ間に、自分が幸せになっていることに気づくでしょう。
命を大切にすること。トンボもねずみも、命あってこの世に生まれてきたということ、そして彼らにも家族がいるのだということ。ありがとう、ごめんなさいをきちんということ。
黒板いっぱいに書いた私から伝えられる子供たちへの最後のメッセージを、子供たちはノートに書き留めていた。
最終日の夜、たくさんの学生が、「先生、私の家にご飯に食べに来てください」と誘ってくれた。私たちは、最後のごはんを8人それぞれが違う家で食べることにした。
子供達の住んでいる「家」は、木で作られている。
この「家」の様子は、言葉で表現しがたい。というのも、私たちは、この村の「家」にとにかく驚いてしまったからである。
木で作られたこの「家」は、一階が牛や豚などの動物で、薄い板を挟んで二階に人々が暮らしている。
ベットもなければ、電気すらない。
料理をするときは懐中電灯を持って野菜を炒める。コンロもないので、集めてきた薪で火を起こす。
電気がないので火がくれないうちにごはんを済ませるのである。原始時代にタイムスリップしたような感じがした。
上海からきた私たち部員は、なんの悪気もなく、ただ一言思わず口から出てしまったのは、「これが家。。。?」であった。
それほど、この農村の家は私たちの想像を遥かに超えたものであった。
わたしが招待された女の子の家では、彼女の両親もちょうど出稼ぎから帰ってきていて、精一杯のおもてなしを受けた。
この村で過ごす最後の夜を、温かい家族に包まれて過ごした。
8月11日、早朝の出発だったにも関わらず、たくさんの子供たちが見送りに来てくれた。私たちは、涙をにじませながら、二週間過ごしたこの村を後にした。
2015年夏。湖南省怀化通道县上岩完小学で過ごした支教生活。8人の仲間の支えと、子供たちの笑顔に支えられて、わたしはここまで歩いてこれた。
子供達の笑顔を、仲間たちの優しさを、わたしは一生忘れることがないだろう。
みんなありがとう。