西安の旅3 越えられない壁は無い
2015/06/21
超えられない壁は無い
華山からバスで2時間のところにある華清池で、夜は長恨歌という歴史劇を見ました。
露天で見るステージの背景はなんと山。山にはライトが散りばめられてあり、夜を表現する時には山に月と星が浮かび出します。
玉先輩のお父さんの知り合いの関係で、前から三番目の真ん中で見ることができました。水あり、炎あり、迫力満点のステージでした。
最終日の三日目は兵马俑を見に行きました。
前日の山登りに疲れきってしまい、いつもは早起きのわたしも先輩の出発の電話でやっと目が覚めました。その日の朝食のとき、玉先輩が私に、大切なことを教えてくれました。
『昨日のえみの頑張りはすごかった。僕らの前で、天の階段を登りきったとき、僕らみんな本当に感動したよ。
あれは100回プレゼンテーションをして自分の成果を人に見てもらうよりも、ずっとすごい勇気をみせてくれた。そして、バドミントンや、夏休みのボランティアも、課外活動に取り組む姿、その体力は僕らみんなが認めている。
でも、 ここからわたしは深く考えさせられるのです。玉先輩とは関係がとても良いため、先輩の思っていることを率直に教えてくれました。
『でも、勉強については、本当に努力が必要だよ。』
『中国の古代皇帝の名前や、世の中で常識と呼ばれるもの、道端で肉まんを売っているおばちゃんだって答えることができる。えみは?』
「答えられない。」
『この前のえみのプレゼンの資料を見せてもらったけど、あの内容だと誰でも作ることができるよ。
本当は、A4一枚の資料を書くために、10冊の本を読まないといけないんだ。
そうして、自分が得たもの、感じたもの、発見したものをやっとたった一枚の紙にまとめることができる。
えみの発表した内容は、僕らがちょっと調べただけでもしることができる。
えみの発表を聞くまでもないよ。厳しい人なら、時間の無駄だというかもしれない。えみは、もっと真剣に本を読んで、しっかり研究する必要がある。
自分がどんな専攻であっても、歴史は必ず学ばなければならない。』
『平和を語るのは簡単だけど、なぜこれまで平和が築けていないのか。過去の人はなぜ成功できなかったのか、知っている?』
わたしは、自分が恥ずかしくなったことは言うまでもありません。
わたしは玉先輩からの忠告とアドバイスを、この日の朝から一日考えていました。夢にも出てきました。玉先輩は、私の核心をついていました。
私の欠点を見通していました。こんなに長い付き合いであれば、当たり前と言えばそうなのかもしれませんが、率直に私の学習面に対する不足を指摘されたのは、初めてのことでした。わたしはただ、頷くだけでした。
あとから、劉青先輩が励ますように私にこう言いました。
『えみは、中国人学生と比べる必要は無いよ。勝てっこないんだから。でも、えみには有利な点がある。
ふたつの丸が横に並んでいるとする。
その丸の交じり合うところ、そこに焦点を当てることができる。それは重要なところだよ。』
つまり、ふたつの円が交じり合っているその部分、日中の交じり合うその部分に焦点を当てて研究することに大きな意味があるということであるということだとわたしは受け取りました。
最終日の夜、4人の先輩方はこう言いました。『えみがどんな選択をしても僕たちはえみのことを応援してるよ。』
復旦に来て、興奮し、挫折を味わい、努力もして見せましたが、到底他の学生には付いていけなくて、かと思うと、自分はこの程度で良いのだと諦めて、そしてまた立ち止まって、ここまで歩んできました。
そんな私を、励ましてくれたのはやはり同じ大学で学ぶ先輩方やクラスメイト、そして指導教員の馮先生、日本にいらっしゃる方々でした。
修士一年生の終了を間近に控えたこの「卒業旅行」は、私にとってとても大きな意義のあるものでした。
それは、尊敬する先輩方と過ごす最後の5日間でもあり、自分の限界は自分で決めてはいけないのだということを身を持って学んだ5日間でした。超えられない壁は無い。
それは山登りも学問も同じだということ。私は、これまでの自分を振り返り、深く反省し、もっと努力しようと決意しました。
それは本当に簡単ではないし、高く険しい壁であることは確かです。
でも、私はひとりではなくて、登る過程で、必ず誰かが下から支えてくれている。山の上では必ず誰かが応援してくれている。
山の頂上ではきっと、異なる景色を見ることができる。だから私は勇気を出して登ることができるのです。
私の努力が十分ではないということ。ならば、成長の空間がまだあるということ。
私はこれから一層、努力していきます。
そして、ここ復旦大学で一生の親友に出会えたことに、心から感謝し、今回の日記の結びとさせていただきます。
2015年6月20日 端午节 吉永英未
西安の旅2 西岳崋山
2015/06/21
華山登り
二日目の朝、私達は玉先輩のお父さんの運転で、華山へと向かいました。
目的はもちろん、登山です。華山は中国五大山のうちのひとつで、一番危険な山と言われています。ホテルで休憩を済ませ、山の麓で陕西で有名な麺をお腹いっぱい食べ、リュックを背負い、午後7時、小雨の中私たちは登山を開始しました。
山の麓から、チケットを買う登山口まで1時間近く歩きます。私たちは、同音漢字ゲームをしながら登り始めました。この中国語の漢字ゲーム、私は3つ同音漢字を思いつくのが精一杯でしたが、彼らは4人でその同音漢字が無くなるまでそのゲームを続けていました。
中国で一番危険な山と言われている華山は、毎年転落事故などが起きています。他の4人はしっかりと心の準備が整っていたのに比べてわたしは実感があまりなく、山東省にある泰山に登ったことがあったため、ほぼ同じレベルだと思っていました。
海抜2000メートルの華山は私の想像を遥かに超えたものだということを、実感したのは、90度の石の壁を目の前にしたときでした。天梯(天の階段)と呼ばれるこの石の階段は、90度で、小さな足の踏み場が一歩置きにあり、横に鎖でできた手すりがあるのみです。
ほぼすべて腕力とこの小さな足置きに頼り登って行きます。わたしはその壁を見たとき、開いた口がふさがりませんでした。これは人間が登っていけるものではないと思ったのが最初の感想です。
貴州出身の兴松が先頭に登って行きました。先輩方が私を真ん中にして、前後で援助する体制でした。わたしは4歩登った時点で怖くなり、また私の腕力では登ることのできないと判断し、泣きそうになりながら後退をし始めました。
玉先輩は私の足元で、「えみ、こんなとき勇気が一番大切なんだよ。この試練に耐えることができたら、他のどんな厳しい道も進んで行ける。本当に諦めるの?」と聞きました。
私は半分泣きながら「諦めるから降ろして。」と言いました。先輩方は残念がりながら、私を残して登って行きました。
私は、隣にある安全な道を登り、先輩方と石の壁の上で合流するつもりでした。
諦めて地上に降りたわたしは、私以外の全ての先輩が無事に石の壁を登りきったことを確認すると、トイレに向かいました。4歩登っただけでしたがその緊張で胸はまだ、どきどきしていました。私はトイレでじっと考え、トイレを出たときにある決意をしました。
「ここで諦めたくない。登りきるんだ。みんなと一緒に。」石の上で待つ先輩方に私は叫びました。
「わたしも今から登ってくる!」先輩方は思わず動揺してしまいました。「ちょっと待って。早まらないで。」先輩方はまさか私がトイレに行ってから考えを変えて登ってくるとは思いもしなかったようです。
「ひとりで登るのは危険だから、早まらないでちょっと待ってて!」と言って玉先輩が降りてきてくれました。
彼が私の下から登り、万が一落ちた時に支える役をしてくださいました。
私は一歩ずつ、一歩ずつ、天の階段を登り始めました。90度のため、石の上は全く見えません。下は怖くてもっと見れません。
私は深い息を吸って、ゆっくり、ゆっくりと登り始めました。上からは3人の先輩方が応援し、下では玉先輩が励ましてくれています。
そしてついに、天の階段を上りきりました。
先輩方と手を取り合い、私達は喜び合いました。あの時の感動は、これからも忘れることがないと思います。もしもあのとき、上と下からの先輩方の支えがなければ、私はきっと90度の崖の階段など登りきることが無かったでしょう。
心から、励ましてくれた仲間を愛おしいと思うと同時に、言葉で現しようのない達成感を味わった瞬間でした。
その後、途中休憩を挟みながら私達は比較的速いスピードで登り続けました。登る途中は霧が深く、山の上では霧が足の下に見えました。暗くて下が見えなかったため、高所による怖さは感じませんでした。
やっと山の頂上についたのは、深夜3時でした。
私たちは、山の頂上で夜空いっぱいの星を見ました。教科書で見る北斗七星や、流れ星もはっきりと見ることができました。石の上に座りながら、綺麗な星たちを長い間じっと眺めていました。
日の出を前に、私たちは頂上の一番日の出の見える位置に移動しました。このとき、気温はとても低く、風もあり、みんなコートを着て肩を寄せ合って日の出を待ちました。
疲れで眠くなり、静かな夜にウトウトしてきました。そのとき、わたしは、眠ったら風邪をいてしまうと思い、物語を語り始めました。
『あるところに、女の子がいました。女の子には3歳年上のお兄ちゃんがいました。小さい頃から女の子はお兄ちゃんの後を付いて遊んでいました。女の子は、お兄ちゃんを兄として尊敬することがなく、いつもわがままを言っては喧嘩していました。
しかし、女の子のお兄ちゃんは思いやりに満ちた人でした。ある日女の子がまだ小学生だったとき、兄妹二人で歌手のコンサートに行きました。
そのとき、人ごみの中、兄妹二人は小さすぎてステージがまったく見えませんでした。お兄ちゃんは、自分は他のお客さんの背中だけを見て、2時間妹を肩車して、女の子にステージを見せてくれました。
女の子は大きくなって、お兄ちゃんの優しさと思いやりにやっと気づいたのでした。でもそのときお兄ちゃんは遠く離れたところで働き始めていました。』
私が物語を語り終えると、聞いていたみんなから温かい言葉をもらいました。すると玉先輩、劉先輩とみんな自分の家族について語り始めました。
そうしているうちにあっという間に、夜が明けてきました。残念ながらこの日、前日の雨で霧が厚く、日の出を見ることができませんでした。
しかしこの日の夜明けまで自分についてお互い赤裸々に語り合えたことは、一生の友情の宝物になりました。
周りが明るくなり、朝食をとり終えると8時から下山を始めました。
今度は命綱をつけて山の頂上からもうひとつの山に降りていくという試練が待ち構えていました。
わたしは、前の人の頭だけが見えて足元が見えないという崖を降りていく姿に腰が抜けてしまいそうになりました。
わたしはこんな命知らずな山移りなどしたくないと心の中で思っていましたが、好奇心旺盛な先輩方に挑戦しないという選択肢はありません。真ん中に挟まれて、わたしも同じように命綱をつけて降りて行きました。
今回は、夜も明けて山がはっきりと見えるので、一層恐怖心が増しました。そして2000メートルの山の上からはもはや地上を見ることができず、落ちたらどうなるかと想像するだけで生きている気がしませんでした。
前を降りていく先輩が次にどこに足を置いたらいいか教えてもらい、生まれて初めてつけた命綱の二本の鎖を一つずつ慎重にはめ変えて、降りて行きました。神様に無事を祈りました。
なんとか隣の山に着くと、そのてっぺんから雄大な山を見下ろしました。勇気を振り絞った人にしか見えない光景です。2000年前もこの山を誰が登り、この道を築いたのだと思うと、足は震えながらも、心から感銘を受けました。
8時から下山を始め、山の麓についたのは午後2時でした。
華山登りは、23年間の人生のうちで一番「険しい」に挑戦した山でした。足の筋肉痛の痛みは今まで経験したことがないものでした。
しかし、全身の疲労以上に大きなものを得ました。それは、勇気と、信じることです。これらふたつの言葉は、言うことは極めて簡単ですが、実行することは決して容易なことではありません。
一度登ることを諦めた90度の階段に、もう一度挑戦し登り終えたとき、4人の先輩は感動し、みんな「えみ、すごいよ。よくやったね!」と言ってくれました。
上と下にいる仲間を信じて登って降りた崖は、決して一人では乗り越えることのできないものでした。
でも、信じることで、自分の能力以上の勇気を発揮することができ、全ての試練を男子の先輩方と同じように完成することができました。この経験は、私にとって、とても大きな自信へを変わりました。
5人で手を取り合って登った華山のことを、これからも一生忘れることがないでしょう。10年後にまた登ろうと決めた私達は、きっと、この華山に戻ってくる日が来ると思います。
勇気と感謝 西安の旅
2015/06/21
勇気と感謝 西安の旅
6月14日から19日まで、わたしは西安の旅に出ていました。14日の午後4時半に大学の北門に集合し、他の先輩合わせて4人で上海駅に向かいました。
そして、午後6時半発西安行きの寝台列車に乗り込みました。
上海から西安までは14時間です。3段ベットのうち、私は真ん中のベットでした。
初めは4人でトランプを楽しんでいたのですが、シャワーを浴びてきてから来た私は習慣的にすぐに睡魔が来て、9時にならないうちに眠りに落ちてしまいました。
そして翌日の朝10時に、列車は西安に着きました。
本当に、「ひと晩寝たら西安に着くよ」という先輩の言葉の通りでした。西安に着くと、もうひとりの先輩、王章玉先輩が私たちを迎えてくれました。
これで、私たち5人すべて揃いました。
今回の旅は、「卒業旅行」です。
というのも、私以外の4人の先輩は大学院3年生で、7月3日に卒業式を迎えます。ということで、先輩方は、「西安→成都→貴州」に行く旅行を計画しました。
西安は王章玉先輩(以下玉先輩)の故郷で、貴州は李兴松先輩の故郷です。私は授業がまだあったため、西安のみに行きました。
卒業旅行のメンバーは、7月から正式に百度という中国の検索サイトで働く周帆,劉青、同じく上海の車関係の会社で働く李兴松、そして香港のとなり深圳で働くことが決まっている王章玉先輩と私の5人です。
王章玉、李兴松、刘青先輩とは、去年の9月に私が初めて復旦でバドミントンをした日に出会いました。
5年ぶりにラケットを握り、とっても嬉しくて興奮してバドミントンをしているとき、後ろのコートでバドをしている三人に出会い、一緒に楽しみました。
その日の夜に連絡先を登録し、それからほぼ毎週誰かがコートを予約すると一緒にバドを楽しんでいました。
そんなわけで、彼らとの関係は非常に緊密で、なんでも話せる、お互いに深く信頼する関係を築いてきました。
今回の旅行は、そんな彼らと一緒に弾けて遊ぶことができる、卒業前の最後の機会でした。
西安駅は、スリがとても多いと聞き、私はリュックを前にからい、注意していました。しかし、スリに遭う暇もなく、西安人の玉先輩にあるとすぐに駅を離れ、最初の観光地へと向かいました。
西安は、世界四大古代都市のひとつです。陕西省に位置し、3100年の歴史を有します。兵马俑,华清池,大小雁塔,法门寺などがその深い歴史を代表します。
私たちはまず「回民街」でたくさんの小吃を体験しました。小吃とは屋台や出店などで食べる安くて軽い食事で、中国全土にあり、その土地それぞれの美味しい食べ物が並びます。
西安はとくに有名で、辛いものから甘いデザートまで、たくさんの美味しい物を食べ歩きすることができます。私たちはこの通りで10種類以上の美味しい食べ物をみんなでつまみながら楽しみました。
論語の中には、「有朋自远方来,不亦乐乎」ということわざがあります。親友が遠いところから訪ねてきて、その嬉しさは言葉で現しようが無い。
中国人は、遠いところから訪ねてきた来た友達を心を込めておもてなしします。私は玉先輩の熱心なおもてなしに、このことわざの意味を心から実感し、中国のおもてなし文化を学びました。
西安に着いたその日から帰りの空港に着くまで、私はほとんど財布を開いていません。というのも、4人分の食事代、ホテル代、交通費などの費用は、5日間すべて玉先輩が負担してくださったからです。
私がお金を払おうとしても、「ここは僕のふるさとだから、僕に払わせて。」と言って、一度きりも出させてくれませんでした。
申し訳ないと思いつつも、一生懸命ガイドを努め、私たちに西安を思いっきり楽しませてくれた彼の精一杯のおもてなしに感動するばかりでした。
夜は、先輩方4人は玉先輩の家のすぐそばのホテルに泊まり、私は玉先輩の家にホームステイすることになりました。玉先輩のお父さんの目は、慈悲という中国語の言葉しか思い浮かびませんでした。彼のお父さんの目は、本当に優しい目をされていました。
玉先輩は、私が人間としてとても尊敬している先輩です。彼の思いやり、学習、研究に対する態度、道徳心などは、私が本当に心から学びたいものばかりです。
彼のうしろ姿から本当に多くのことを学ぶことができます。私はこの一年足らずで、彼からたくさんのことを学んできました。
それは学習に対する情熱だけでなく、友達への接し方、どのように自分の生活に向き合っていくかなど、数え切れません。
そんな彼と接することができる最後の機会だと思い、今回の彼のふるさとへの旅に参加することを決意しました。
王章玉先輩は、とても思いやりに満ちた人です。私が、母の病気のために鹿児島に帰ることになったとき、何も言わずにご飯に連れ出してくれました。
帰国の日、朝5時に起きて空港行きのバス停まで送ってくれたのも彼でした。
また、一緒にバドミントンをしていたときのこと。自分よりも上手ではない人たちが「一緒に打ってくれないか?」と訪ねて来たとき、私は彼の前でお断りしました。
心の中で、「自分より上手くない人と打っても成長できない」と思っていたからです。彼らがコートを離れて行くと、玉先輩は私にこう言いました。
「自分よりも強い人と打ちたいえみの気持ちは十分に分かるよ。僕は昔バドが本当に下手だったんだ。でも上手なひとが僕と一緒に打ってくれて、そしてここまで成長できた。」
わたしは、その言葉にはっと気づかされました。
そして恥ずかしさが込み上げてきました。わたしは、復旦に来てからバドミントン大会では3位、2位、2位という成績で、女子シングルスではほとんど負けたことがありませんでした。
普段も男子と競い合うことが多く、自分が天狗になってしまっていたことに気づきました。
玉先輩の言葉にはっと気づかされたわたしは、羞恥心を感じ、一緒に打ってくださいと誘ってくれた方に本当に申し訳ない気持ちになりました。
その日の夜深く反省し、これからはどんな人とも一緒に打とうと決心しました。
玉先輩は、勉強面でもとても尊敬している先輩です。西安で彼のお母さんにお会いしたとき、彼のいないところで玉先輩の中学、高校時代の秘話を聞きました。
中学時代彼は保健委員を務めながら、成績は毎回学年2位だったそうです。いつも二位なので、「老二」というあだ名が付いたほどです。それが悔しかった彼は、中二のときからまた一層努力し、二年生の後半から全学年で一位を取ったそうです。
高校は実家を離れ、西安で一番の高校で寮生活を送りました。
周りの生徒と違い、英語の塾に通ったことの無かった彼は、英語能力が足りないと思いました。そのとき幸いにも、担任の先生が英語の先生で、その先生にお願いし、教室の鍵を借り、毎朝6時に教室に着いて英語の朗読を始めたそうです。
英語の成績も少しずつ向上し、苦手科目から得意科目へと変わりました。
高校では班長も努め、自分に自信も付きました。そして18歳の夏、復旦大学に入学しました。
玉先輩の祖母(父方)は有名な科学者で、彼のとても尊敬している存在でした。
従兄弟は6歳年下で現在清華大学の一年生です。この従兄弟を彼はとても可愛がっており、従兄弟自身も幼い頃から優秀な玉先輩の影響を受けてきました。