英未2015

JAPAN-CHINA FRIENDSHIP ASSOCIATION OF KAGOSHIMA CITY

平和学の中国における現状についてのご質問に答えて
2015/06/14

ご質問の、平和学の学術的組織化について、復旦大学の私の授業を担当している歴史学部の張翔教授に先日お尋ねしたところ、「平和学」という学問は中国ではあまり耳にしないとおっしゃっておりました。

クラスメイトの皆さんや、先輩の方々も、同様の答えがかえってきました。

しかし、平和学が浸透している場所ももちろんございます。華東師範大学の平和学の李巨潇先生は現在退職されましたが、平和学の研究を熱心になさっております。

わたしが7月に訪問する南京大学の劉成先生は、現在台湾大学の訪問学者で、同じく中国における平和学の発展に力を尽くされております。

また、劉先生は、5月下旬に東京でAALA会議に参加されたそうです。そして、日本平和学会と提携して、今年10月31日に北京で日中両国平和学学者による日中関係対話会議に参加されるそうです。

わたくし個人としては、中国における平和学研究及びそのもの自体について認識が浅く、現在勉強中であります。

確実なことを申し上げるほどの学識もございません。申し訳ございません。

これから一生懸命努力していく次第であります。

多方面に関して、ご指摘ご指導のほど頂けたらと存じます。

吉永英未

吉永さん
cc:木村先生ほかみなさま

近況ありがとうございます。
ところで、中国の大学における平和学ないし平和研究講座の開講状況
や学会作るのは常識化している中国にあって、「中国平和学会」の構
築現況はどのようなものか、逆に教えてもらえると助かります。平和
学との名を冠する講座が点在しているとの認識はあるのですが、学術
的組織化がどの程度進んでいるのか(日本でも韓国でもそれほどディ
シプリンとして確立しているわけではないのでしょうけれど……)、
吉永さんの現状認識を教えてください。
レポート頑張ってください。
取り急ぎ             sn

夏休みをまじかにして―期末論文のことなど
2015/06/14

今学期も、残り2週間ちょっととなってしまいました。

二週間後には、二ヶ月間の長い夏休みに入ります。

そして、その夏休み後には恒例の、期末論文を提出しなければなりません。

わたしは今学期、以下の論文があります。

1.馮玮先生 日本外交史 5千字。後日詳細告知。

2.国際関係学部博士課程の授業 1万字

3.夏先生 古代ギリシア史 5000字 これは再来週提出で、ほとんど書き終わりました。

4.李先生 歴史学理論と方法 5000字 自分の興味を持った分野で書く。2と関連する部分があってもよいと思います。

5.張先生 明治日本の歴史 古文読解 後日詳細告知。

ということで、一番問題なのが、国際関係学部博士課程の一万字の期末論文です。

10000字と聞いたとき、何かの間違いだと思いましたが、わたしが間違って博士課程の授業をとっているので、

周りの方たちは平然としていて、私だけが口を開けていました。

中国語で1万字の文章は、これまで書いたことがありません。

それぞれの論文は、9月の第二週目までに印刷したものを提出しなければなりません。

この国際関係の論文のテーマは、先日授業で発表した「世界平和の実現」と題して書きたいと思っています。

21世紀の国際社会、戦争、平和構築、武装解除、構造的暴力、貧困、(第三世界の貧困だけでなく、最近は日本の見えない貧困にも注目しております。)、世界で活躍するNGO、PKOなどをキーワードに資料を集めております。

中国では、平和学はほとんど普及しておらず、日本の資料はJICAのHP及び国境なき医師団、国際赤十字などのHPからPDF資料などを参考にしています。

わたしは今年の夏の前半は大学に残り、2週間は中国貧困地区の小学校にボランティアに行く予定です。

ということで、夏の予定と経済的理由から、日本に帰国することができません。

そこで、大変恐縮なのですが、日本にいらっしゃる方で、もし関連の資料がありましたら、お手数ですがメールの添付ファイルにて送っていただけましたら大変光栄に思います。

わたしは、7月に南京大学の平和学の教授にお会いするほか、こちらでもできる限り中国語の資料を集めたいと思います。そして上海で現実と向き合いながら、全部で3万字の論文を書きたいと思います。卒業と、なにより自分の成長のために、力を尽くしたいです。

資料の件につきましては、急ぎませんので、もしお時間ありましたら、ご協力いただけたらと存じます。

お忙しい中大変恐縮です。何卒よろしくお願いいたします。

上海もスイカが並ぶ季節になりました。日本の皆様のどうぞ暑さに滅入らないように元気で幸せな日々をお過ごし下さい。

吉永英未より

復旦大学110年(歳)バースディ
2015/06/04

夢のバトン

復旦大学の110回目の誕生日であった5月27日は、大学にとって、卒業生や、私たち在学生にとって特別な日となりました。

1905年5月27日、中国の著名な教育家馬相柏氏によって、復旦大学は創設されました。北京大学、清華大学に続く国家重点大学の一つとして、博学而笃志,切问而近思という校訓のもと、復旦大学の歴史は始まりました。キャンパスは合わせて4つあり、2014年現在,复旦大学の学部生は1万2千933人,研究生1万6千26人,留学生3千216人です。

2015年5月27日記念日の朝、6時20分から国旗掲揚に参加しました。

会場の広場では、朝早くにも関わらず、みんな大学シャツを着て、学長の登場と国旗掲揚待ちどうしそうにしていました。

私も国際関係学部の先輩に電話で起こされてから、眠い目をこすりながら、新しく買った大学のTシャツを着て会場駆けつけました。

7時から、そわそわした会場に力強い足音が響きました。

復旦大学武警班の青年たちが足取りを揃えて、大学の旗を掲げて行進してきます。

背景には合唱団による校歌が大学のオーケストラによる演奏のもとで歌われ、雰囲気は最大に盛り上がりました。

同じ5月27日の午後、上海日本人学校の学生44名、引率の先生4名が復旦大学の見学に訪れました。先輩に頼まれた私は、日本人留学生代表として、97年生まれの高校三年生を前に、プレゼンテーションと大学案内を行いました。

高校三年生の彼らに向けたプレゼンは、Story of My Lifeという、学部時代に何度も発表したことのあるものです。学生と先生方からは大きな拍手をいただきました。

夜は、正大体育館という大学で一番大きな体育館で行われた「校庆晚会」(記念イベント)に行きました。歴史学部にチケットが配られ、幸運にもそのチケットを2枚手にすることができた私は、国際関係学部の公为明先輩と一緒に見に行くことになりました。

いつもバドミントンを楽しむ体育館が、その日の夜は盛大なステージが設けられ、会場内はライトアップされ、普段の面影を少しも残さないように全く変身してしまった姿に、もうすでに圧倒されてしまいました。

舞台は片時も目を離せないほど、素晴らしいものでした。

同じ会場には、学長もいらっしゃっていました。

ライトと大学の旗が配られ、私自身も始終ときめきながらステージを楽しみました。

ステージに登場したのはすべて復旦大学の学生及び卒業生です。

復旦大学附属小学校の子供たちによる寸劇と歌から始まりました。

50年前に卒業された方々によるステージでは、復旦大学時代にであった二人が結婚して50年経ち、当時の学生恋愛の様子を語る場面もあり、会場は温かい笑いに包まれました。

私が一番感動したのは、世界から送られてきたビデオレターです。

世界各国で活躍する「復旦人」の方々が、この日会場に駆けつけることができず、ビデオレターに想いをのせて「復旦大学、誕生日おめでとう!」というメッセージを送ってくださいました。

世界各国の背景のもと、大学の旗を持った卒業生たちが大きなスクリーンに映し出されました。フランスはパリのエッフェル塔、ワシントンDC、ロンドンブリッジ、アフリカ、カナダ、オーストラリア、韓国、そして日本は東京大学を背景に、世界に散らばる復旦人からのメッセージがです。こんなに遠くに離れていても、どんなに時が経っても、大学を愛し、大学に感謝し、この日のために大学の110回目の誕生日を祝う姿にわたしはとても感銘を受けました。そして改めて、わたしも世界で活躍できる「復旦人」になりたいと心に誓いました。

ステージの最後には、子供からおじいさんおばあさんまで、華やかなドレスに身を包んだ復旦人の方々と、会場にいる私たちも立ち上がり、校歌を歌いました。当日はたくさんのテレビ局も来ており、その溢れんばかりの活気は会場に来れなかった人たちにも生放送で届けられました。

私と公为明先輩は、余韻に浸りながら、帰路に着きました。帰りにライトアップされた復旦タワーを眺め、私もこの大学のために何か残すことができたら、どんなに光栄なことだろうと思いました。復旦生であることを改めて誇りに思い、復旦精神を受け継いでいきたいと心から思いました。
 

金曜3限国際関係授業発表

5月29日は、私にとって忘れられない日となりました。

わたしはこの日、学科を越えて受けている国際関係の授業で、はじめてプレゼンテーションを発表しました。

ひとりで、1時間半の発表。はじめは、「一人で1時間半も話せるはずがない」と全く自信がなかったのですが、1ヶ月以上に渡って準備してきたので、プレゼンのページは自己最多の117ページとなり、内容的にも十分な量を用意することができました。

私はこの発表に、1年間の中で一番力をそそぎました。というのも、もともと学部の専攻が国際関係、平和学であり、これらはわたしにとって一番興味のある分野であるからです。内容は、私の卒業論文の序章の紹介から始まりました。ここでも少し紹介させていただきたいと思います。

全てのことを、当たり前だと定義してしまうとそれは「当たり前」になってしまう。全てのことを「変えられない」と諦めてしまうとそれは「変えられない」。

第二次世界大戦、そして冷戦が終結した現在もなお、世界では戦争や紛争が続いている。今日もまた、罪のない市民が死んでいく。住む場所も、食べるものもない人達は難民となり、自国すら追われる。そんな現状を知りながら、私たちはそれらの国から遠い日本という国に暮らしている。

果たしてこの現実は、「当たり前」なことなのだろうか?「変えられない」からといって諦めて良いのだろうか。もし私が戦争の脅威にある国にいたら、貧困や抑圧に苦しんでいたら、私は助けを求めるだろう。誰かが助けてくれるそれだけを希望に命を繋ぐだろう。それはもしかしたら、国連かもしれない。警察かもしれない。それはNGO団体かもしれない。いずれにしても、救いの手を差し伸べるのは、人間に変わりはないだろう。そして私は自分がその人間の一人でありたいと思っている。

もし我々がこの現状を変えられないとしたら、それは我々がこの現状を「当たり前」と決めつけているからである。我々には「変えられない」と諦めているからである。

この文の中国語訳から始まったプレゼンは、21世紀の世界、911、イラク戦争、尖閣問題、琉球処分、平和学、憲法第9条、暴力に対するセルビア声明、質疑応答という形で行いました。これらの内容の関連性は本文で触れます。
プレゼンの途中では、先生の解説が入ったり、中国語読みが分からなかったときは、直接目の前に座っていらっしゃる先生に尋ねて、プレゼンを進めました。

発表の後は、みなさんから大きな拍手をいただきました。

感想では、「新しい観点から見たあなたの発表がとても新鮮でした」「僕たちが知らないことも多くて、とても勉強になりました」「平和学という学問は、中国であまり発展していないから、あなたの発表はとてもいい刺激になりました」などの言葉をいただきました。

最後は、戦争はどうして終わらないのか、平和をどうやって築いていくのか。一番の安全保障は何か、国際関係学部博士課程の皆さんに問いかけ、先生の手引きのもと討論を行いました。

国際関係学部クラス会

発表の後、先輩と一緒に歩いていると、「今日は僕たちのクラス会があるから、えみもよかったらおいでよ。」と言われました。

私は思わずびっくりしてしまいました。「私は国際関係学部じゃないけど、それに博士課程じゃないけど、いいのですか?」と聞くと、「こんなにたくさん一緒に授業を受けてきて、もうえみは僕たちのクラスメイトの一人だよ。」と言ってくれました。その言葉がとても嬉しかったです。

そんなわけで、私は復旦大学国際関係学部博士課程一年生の方々と一緒に、クラス会に参加することになりました。一度寮に戻ってから着替えを済ませて、5時に集合すると、先輩方と自転車でレストランに向かいました。

先輩の中には、学部を卒業すると働いて、その後また修士、博士過程を履修している方や、働きながら論文を書いている方などで、年齢は私より大きく離れています。

6時頃から乾杯し、食事を始めたのですが、ここでは中国のお酒文化を存分に勉強することになりました。机には2本の白酒と、8本のビールが並べられました。
私は、この日初めて、アルコール度58度という白酒を飲みました。皆さんが、私を歓迎して一杯、というときに私が飲まないわけにはいけません。

とても小さなグラスのコップに、3センチだけ注がれた白酒に、最初はこんなちょっとしかないのか、へっちゃらだ。と思ってぐいっと飲み込んだのですが、あまりの度数の高さにわたしはむせ返ってしまいました。

食事の途中で、男性の先輩方が一人一人私と乾杯をしに来てくださいました。グラスの位置は私が下げても下げても彼らが下がり、私に 「ひとくちでいいよ。」と言いました。わたしは顔を歪めながら、一口飲んでみせました。

すると彼らはグラスに入った白酒を一気に飲み干しました。彼ら曰く、それが私に対する尊重と歓迎の意であり、お酒を一緒に飲むことで、友人関係がぎゅっと近くなるそうです。

周りでは先輩同士がお酒をそそっています。普段あまり外食をすることがなく、ましてやお酒なんて日本でも飲まない人間であったので、復旦に来て初めての正式なお酒の席にわたしは少し戸惑ってしまいました。

そして、一番驚いたのは、授業中はいつも真面目な彼らが、こんなにも弾けて、愉快な一面があることを目の当たりにしたことです。わたしは以前想像もつきませんでした。

学部、修士ともに他大学で学び、博士課程を復旦大学で取っているという先輩がほとんどでしたが、中には学部から復旦で、もう10年になるという先輩もいました。

国際関係博士の授業を受け始めたのは、3月。わたしは履修登録の際あまり注意せず、誤って博士課程の授業をとってしまいました。わたしは、1回目の授業に参加した際、初めてなのに周りの方たちがやけに団結しており、一体感があると不思議に思っていました。

そしてあとで初めて、私以外の全ての人すべてが博士課程の同じクラスメイトだということが分かったのです。わたしは修士一年のうえに他学科で、留学生で、ということで、違うものづくしでした。

初めのうちは、教室では一番前の席にみんなと離れて座っていたのですが、ひとり、またひとりと友達になり、食堂で会うと一緒にご飯を食べたり、一緒にバドミントンをしたりするなどして、だんだんと周りに溶け込んでいきました。

そして、今回の私の1時間半のプレゼンを通して、彼らと私の間の壁が、ほとんど無くなったように思えました。

みなさんが、「発表よかったよ。」との温かい言葉をくださいました。そしてその日の夜、クラス会に誘ってくださったのです。

わたしはこのお酒の席で、お酒を共にした13人の先輩方の名前を全て覚えました。皆さんが「とってもいい記憶力だね」と褒めてくださいました。

わたしは以前、人の名前を覚えるのが苦手で、顔と名前が一致しないということが度々ありました。

しかし、中国に来てから、名前を覚えることがその人たちに近づく第一歩だと改めて実感し、人と会う度に必ず名前と名前の漢字、出身地を聞くことにしていました。中国は広いため、出身地はほとんどみんなバラバラで、その区別が印象深く名前とともに頭に残ります。わたしはそんな方法で、以前は一緒に山登りに参加した30人の名前を一日で覚えました。

名前を呼ぶことで、いつの間にか相手も、私のことを「Emi」と読んでくれます。これは私事ですが、私が名前を紹介するとき、「えみEMIです」と言うと、みんな「日本語の名前はなに?」と聞いてきます。中国の皆さんは「English Name」を持っているため、私の名前がそれだと思うそうです。

度々聞かれますが「Emiは英語の名前でもありますが、日本語の名前でもあるんです、」と答えると、皆さん驚いて、その後すぐに覚えてくださいます。

食事のあとは、みんなでカラオケに行きました。仲の良いメンバーが集まって食事をする場合は、その数が多かれ少なかれ、必ず誰かひとりがご馳走します。それが中国の文化であるのです。決して割り勘をしません。

わたしは大連に留学していたときそのことを学び、いまではお世話になった人にはわたしもご馳走をします。しかし、このような10人を超える人たちを招待したことは未だにありません。

カラオケでは、「日本の歌を歌って!」とみんなから言われて、彼らのリクエストした曲はKiroroの「長い間」でした。中国語版もあるこの歌は、皆さんが知っていたようで、大きな拍手をいただきました。

そんなわけで、先輩方と話しながら寮に帰ってきたのは深夜でした。帰る途中、わたしは国際関係学部の先輩方に自分の夢と、現在の目標と計画を語りました。先輩方からは様々な意見と、研究に対するアドバイスをいただきました。

国際関係を専攻する上で、英語は絶対に欠かせないということ。わたしが、「英語と自分の専攻を研究すること、どちらを優先したほうが良いですか?」と尋ねると、「同時にできたら一番いいね。英語はどうしても避けて通れないよ」とアドバイスをくださいました。

そう教えてくださった先輩は、9月からアメリカのオハイオ大学に留学するそうです。

ほんの少しの間準備しただけで、TOEFLは102点、わたしは決して真似することはできませんが、勉強方法についてしっかりと教えていただきました。

また、修士課程の研究の経過や研究方法など、先輩方から学ぶことは尽きることがなく、こんなにたくさんの先輩方に手引きをいただけることを心から嬉しく思いました。

「これから僕たちのクラスで集まるとき、またえみも呼ぶからね。」と言ってくださったのは、今回クラス会に招いてくださった、班長の王凯さんです。わたしは嬉しくてたまりませんでした。

国際関係学部の研究生は他学部の学生には近づきがたい存在という噂をよく耳にしていました。ある先輩から聞いた話によると、「彼らが他学部の授業を受講するときは全く発言しない。国の秘密を握ってるから、簡単に発言できないんだ。でも論文を書くときは、5000字ぎっしり自分の観点を書いてみせる。」と言っていました。

そんな近づきがたい彼らのクラス会に参加してしまったわたしは、国の秘密こそ聞いてはいませんが、彼らの弾けたプライベートの姿を目にすることができました

そして素晴らしい先輩と知り合うことができ、今後も自分の研究についてたくさんのアドバイスをしていただき、ときには共同で日中民間世論調査に基づく研究を行おうという話も、一人の先輩とすることができました。

私にとって、夢のような一日でした。

ということで、毎回のことながらあっという間に6000字を超える日記を書いてしまいました。これまで読んでくださった方、お忙しい中本当にありがとうございました。

後期もあっという間にすぎ、あと一ヶ月で二ヶ月間の夏休みを迎えます。今回の夏は日本に帰国せず、湖南省の貧困地区の小学校に2週間のボランティアに行きます。

大学のボランティア活動の一環として行くため、現在は毎週末一回ミーティングを行っています。かけがえのない経験をきっと積むことができるでしょう。

それでは、日本の皆様も健康に気をつけて、幸せで充実した日々をお過ごし下さい。

月31日早朝 上海の夜明けに  吉永英未