2015 わたしたちの夏(1)
2015/08/19
2015年8月私たちの夏 はじまり
― 8月16日の午後―
私は20日間留守にしていた上海の部屋に帰ってきた。
鏡には、日焼けして真っ黒になった自分の姿が写っていた。手足は蚊に噛まれた跡が今でも残っている。
でも、決してがっかりはしない。鏡に映る、以前よりも一周り成長した自分を、わたしは誇りに思った。
「支教」とは―大学生が貧困地区の小中学校に短期間滞在し、学校に寝泊まりしながら子供たちに教育を提供するボランティア活動のことである。
かかる費用は派遣先の学校場所によって様々だが、私の場合、交通費と学校での食事や宿泊費を含めて、参加費は2000元弱だった。
都市に住む私達にとって、過酷な環境で過ごす上、費用も学生にとって決して安いとは言えない。しかし、この支教には、毎年たくさんの応募があり、書類審査と面接、訓練を経て選ばれた学生が10人ほどずつ、中国各地の貧困地区の学校に赴く。
私が参加しようと思ったのは、「変形計」というテレビ番組がきかっけである。2012年、当時大連に留学していた私は、初めてこのテレビ番組を見た。
変形計とは、都市に住む子供と、貧困地区に住む子供を7日間交換するというドキュメント番組である。
お互い見知らぬ土地で生活し、その土地に住む人々と出会い、成長していく子供の姿を描いたドキュメント番組は、湖南テレビ局で毎週土曜日に放送されている。
農村の純粋な子供達が大都市のマンモス校に通い、様々な人たちに支えられながら頑張る姿は、知らぬ間に大都市の人たちを感動させた。
大都市のこどもは田舎の暮らしに悪戦苦闘しつつも、だんだんと馴染み、7日後には涙を流しながら村を去る。ここでは長く書けないが、わたしは毎回涙を流しながら見ていた。
その変形計から学び取ることのできる中国の農村の現状は、私の想像を遥かに超えたものであった。
日本にも農村はあるが、全ての子供たちは義務教育を受けることができ、毎日3度の食事を食べることができる。
しかし、中国貧困地区の子供たちは、朝まだ夜が明けないうちに家を出て、薪を拾いながら3時間の道のりを歩き、やっと学校へ着く。
不十分な環境の学校で大好きな勉強をして、昼は芋や野菜の給食を食べる。一日のうち、その1食しか食べることのできない子供たちがほとんどである。
また、子供たちの両親は農村から離れた街に出稼ぎに出て子供たちの学費や生活費を稼いでいる。そのため、両親に会うことができるのは一年に2回だけという子供がほとんどである。
そんな現状を知り、私は、「中国へ留学したら、ぜったい支教に参加する。」と決意した。以下は、私の応募用紙の一部である。
「私は、中国人ではない。だから、国語を教えることも、大学受験に合格するための勉強も教えることはできない。
また、たった2週間の支教で、子供たちに十分な教育を提供することもできない。
でも、たったひとつ、私が子供たちに伝えたいことは、『ひとりの外国人が、あなたたちのことに関心を持ち、少しでも力になりたいと思っていること』。
農村に住む子供たちのほとんどは、両親が出稼ぎに行き、おじいさんやおばあさんと生活している。母を失った私は、子供たちの切なさが痛いほどに分かる。
私は子供たちに、私の伝えることのできる「愛」を精一杯に伝えたい。
そして愛や音楽、文化は国境をも超えることができること、努力をすれば夢は必ず叶うのだということを伝えたい。」
私は自らの支教に対する考えと情熱を、応募用紙いっぱいに書いた。「あなたの応募用紙を見て感動しました。ぜひ面接に来てください。」
復旦大学の2つの支教ボランティア団体から面接の知らせが届いた。
面接に合格し、2週間に一回の勉強会と体力テスト、様々な訓練を経て、
いよいよ7月27日出発の日を迎えた。
上海南駅―桂林駅 列車に揺られて
7月27日、登山リュックと二日分の食料と水を入れた手荷物バックを持って、私は上海南駅に到着した。
駅までは、先輩のみずきさんと博士課程の公為明先輩が送ってくださった。これから始まる支教の旅に、どきどきワクワクしながら、ほかのメンバーの到着を待った。
最初に着いていたのは第二軍医大学の郭继尧である。わたしは彼と一緒に切符を取りに行った。
午後4時半の発車時間を前に、仲間たちが次々と駅に到着した。
ここで、2週間の支教を共にした女子5名、男子3名合計8人の仲間たちを紹介したいと思う。
リーダー 劉昭 復旦大学医学部5年制(9月から4年生)
副リーダー 吉永英未 復旦大学歴史学部修士3年制(9月から修士2年生)
経理 郭继尧 第二軍医大学8年制(9月から3年生)
カメラ 丁佳琳 復旦大学学生物化学学部 (9月から2年生)
部員 阿晔岭 復旦大学8年制臨床医学部(9月から2年生)
部員 朱容惠 復旦大学医学部5年制(9月から3年生)
部員 朱奇苗 上海NY大学 国際貿易学部(9月チェコに留学)
部員 Donnie(US) 復旦大学国際関係学部修士(9月から修士2年生)
ご覧いただけたように、私たちグループの最大の特徴は8人の部員のうち、4人の部員が医学部ということである。
このことを活かして、私たちはのちに、農村で医療活動も行うことになる。
私たちを乗せた列車は、予定通り午後4時16分にゆっくりと動き出した。
上海から桂林までは、約21時間である。私たちは、列車の中でお互いについて語り合った。
リーダーであり、医学部の中で一番年上の劉昭は、後輩たちに授業や実験の際の様々なアドバイス行った。
医者の卵の三人はとても熱心に聞いていた。わたしは、上海NY大学の奇苗と、彼女の行ったことのある国、わたしの行ったことのある国について語り合った。
イスラエルやエジプトにもいったことのある彼女の経験は、私にとってとても新鮮だった。
彼女は、自分の大学である上海ニューヨーク大学の特色に似合ったように、これから大きく羽ばたこうとしていた。
また、これから行う日程や教案についても、全員で打ち合わせをした。
のちに一番仲良くなる第二軍医大学の郭继尧は、心配そうに私にこう言った。
「僕が教えるのは中国の軍隊の歴史について、えみが教えるのは平和学。僕たちもしかして矛盾しているのかな?」一瞬気まずい空気が流れたが、その空気も「私達はみんな平和を願ってる。
二人の夢も、自らの願う平和のためだもんね。」というリーダーの言葉でかき消された。
ありとあらゆる揺られる乗り物に乗るとすぐに寝てしまうのが私の癖である。
消灯前に列車の3段ベットの真ん中に横になった私が、次に目を開けた頃、空はすでに明るくなっていた。
桂林駅で 外地人として
私たちはお昼前に桂林駅に着いた。朝目覚めると緑いっぱいの、上海とは全く異なる景色に、メンバー全員が「わ~!」と声を上げた。
喜びもつかの間、私たちは駅を出るとたくさんの「黒車」の運転手たちに囲まれてしまった。
中国各地の駅の前には「黒車」と呼ばれる正式ではないタクシーの運転手が、待ち伏せしている。
その土地に慣れない旅行客に「どこへ行くんだ?乗せていくよ!」と言ってくる。
大きなスーツケースと登山リュックを背負った私たちは彼らにとって絶好の顧客である。
私たちは彼ら黒車のおじさんたちの合間を逃げるように、抜け出した。
そして自分たちで公共機関を利用して学校へ向かおうとした。
しかし、おじさんたちはしつこいほどについてくる。私たちは、ボランティア先の校長先生に教えてもらった住所をもとに歩き出したが、おじさんたちは私たちを取り囲んで
「そっちに駅はないよ。」
「おれの車に乗ったら目的地まですぐ連れて行ってあげるよ。」
としっこく言ってくる。
わたしは最後までこの黒車に乗ることに反対していたが、おじさんたちに前を封じられ、炎天下のなか、見知らぬ土地で荷物を持ってバスを探すのも困難と判断したリーダーの決断のもと私たちは仕方なくこの黒車にのり、汽車駅に行くことにした。
幸い、全員同じ大きなワゴンに乗り込むことができたのだが、私たちはまんまと、このおじさんに騙されてしまうことになる。
地図上では近い距離なのに、車はいっこうに目的地につかない。
それどころか目的地から外れているようにも思う。
しかし、メンバー全員が天津や河北など桂林出身ではないため、「これが近道だよ」というおじさんの言葉を疑うことはできない。
やっと着いた汽車駅で私たちはほっとして高額の100元を支払った。
これで終われば、まだよかったのだが、私たちが汽車駅から次のバスに乗り込もうとしたとき、この黒車のおじさんはまた私たちのもとに走り寄ってきた。
バスに乗り込もうとする私たちの前にはだかり、「お前たち、このバスには乗らせないぞ。絶対に逃げさせない!」私たちは思わず、おじさんの言葉を疑った。
「一体どういうことですか?」二人の男子メンバーが尋ねると、片手にタバコとライターを持ったおじさんはこう言った。
「いまタバコを買いに行ったら、この100元札が偽札だと言われて突き返された。一体どういうことだ!?」
私たちはすぐに反論した。
「そんなはずはありません。私たちは上海から着いたばかりです。このお金が偽札であるはずがありません。」
しかし、激怒したこのおじさんはバスに乗ろうとする私たちをの前にはだかり、一歩も譲らない。
私たちは分かっていた。このおじさんの持っている100元札こそが偽物で、おじさんはまた、私たちから100元を騙し取ろうとしていることを。
バスの出発を前にもめているため、バスはいっこうに動くことができない。バスの運転手さんは、「早く新しい100元札と交換してバスに乗れ。」と急かしてくる。
メンバーの阿晔岭は仕方なく、新しい100元札を渡し、私たちはようやくバスに乗り込んだ。
「なんてひどいひとだ。」
悔しい思いをした私たちは、次々と不満をこぼした。
中国には様々な騙し人がいるが、このような手法に出会ったのは私たちみな初めてである。
私が、「警察を呼べばよかったのに。」と言うと、リーダーの劉昭が分析を経てこう言った。「あの場所全体は彼らの領域。
騙してきたおじさんも、バスの運転手も、警察もみんな顔見知り。そして私たちは外から来た右も左も分からない人たち。
私たちはこの土地の方言もわからないし、彼らがグルになって騙してきたら、私たちはどうすることもできない。
彼らがこうやって騙してきた人たちも少なくないよ。」と教えてくれた。
ボランティアのためにやってきた見知らぬ土地で、着いてすぐ騙されてしまった私たちは、「これからは絶対に黒車に乗らないようにしよう。」と誓い合った。
バスとバスを乗り継ぎ、私たちは支教先の小学校を目指した。学校といっても、駅から何分という距離にあるわけでは決してない。
5時間凸凹道を上り、また乗り換えては3時間緑一色の道を進んだ。
ボランティア先の学校は、農村地区の中の中にある。山を越えて緑のトンネルをくぐって、私たちは山の中へ中へと入っていった。
その緑だけの景色に、私たちは、「いままで私たちが想像していた農村というのは、本当の農村ではなかったね。これこそが、本当の農村だよ」と口を合わせて言い合った。
本当に、此処こそが想像を超えた「田舎のなかの田舎」だった。
学校までは、校長先生の友人の運転するワゴンで向かった。
下ろされたのは小学校へと続く急な坂道の下、私たちはスーツケースと、支教のために用意した子供たちへの文房具や授業で使う材料を両手いっぱいに持って、最後の坂を登った。
やっと学校へ到着したとき、時計はすでに午後7時を回っていた。
校長先生と奥さんの歓迎を受けながら私たちは夕食をとった。
現地で食べる最初のごはんは、地元で採れた野菜と温かい白ご飯だった。
肉や魚は一切なかったが、小さなテーブルに8人で丸くなって食べるご飯は、上海で食べたどんな高いレストランで食べるご飯よりも美味しく感じた。
ケータイの電波もなく、インターネット環境もないこの山の中の学校で、これから、始まる2週間に様々な期待を乗せて、私たちは宿舎の硬いベットに横になった。時計はまだ、10時にもなっていなかった。