別れの七月、出発の七月
2015/07/26
別れの7月 出発(たびだち)の7月
「時が過ぎるのはあっという間」という言葉はあまりにもありきたりだから使いたくはない。
でもその言葉以外に今は浮かんで来ることばが見つからない。
本当に、あっという間の一年間だった。
中国の7月は、日本にとっての3月。別れの時期(とき)である。
7月3日は、大好きな先輩の卒業式だった。
朝8時、王章玉先輩から電話があった。「僕たち、卒業写真撮ってるから、えみもおいでよ。」
「今から? わかった!」まるでいきなりの電話に驚いたようなフリをしてみたが、連絡が来ることは分かっていた。なぜなら今日が、先輩と過ごす最後の日だから。
卒業服に身を包んだ先輩たちは、一段と大きく見えた。
私は、玉先輩のカメラを首にかけて、学内の先輩たちの思い出の場所を一緒に回った。
学部から修士まで7年間過ごした彼らの学園への思い入れを、私には想像することしかできない。
図書館、学内のバス停、24時間開放している徹夜の257教室、毎日ゆで卵を買う売店、復旦タワーの向かいの美しい緑の広場。
広すぎる学内を私たちは汗をかきながら回った。
お昼ご飯を一緒にしたあと、先輩たちは卒業式に向かった。今年から規制が厳しくなり、卒業式の会場には本人と保護者しか入れなくなっていた。
私は自分の部屋に戻り、着々と夜の準備を始めた。
卒業式のあと、先輩方は大学を離れてしまう。とくに玉先輩は深圳という上海から遠く離れた街に行ってしまうので、今日が本当に、最後の日だということをみんなは言わずとも分かっていた。
私は、お世話になった7人の先輩のために、卒業式の日は最高のおもてなしをするつもりだった。
部屋に戻ると、初めてピザの出前を取った。
外でご飯を食べるのも良いが、私が上海で最初の誕生日を自分の部屋でたくさんの友達に囲まれて迎えたように、卒業式の日も同じように、わたしの部屋で先輩たちを温かく迎えたかった。
6時になると先輩方が私の部屋に集まって来た。
私達はピザを食べ終わると、みんなんで丸くなってゲームを始めた。こういう時に仕切るのは、はやり玉先輩である。小さな部屋はたちまち笑いに包まれた。
8時になると、私たちはカラオケへと向かった。
今日は奮発して、すべてのおもてなしをしようと決めていた。
父とはあらかじめ打ち合わせ済みだった。「本当にお世話になった先輩なので、精一杯おもてなししてください。そのときはぜひ、お父さんのカードを使ってください。」
私は約束通り、父のカードを使って、カラオケルーム500元(1万円)の支払いを済ませた。
何度も乾杯しながら、私達は歌った。別れを惜しみながら。カラオケの最後、玉先輩が、博士課程一年の李颖先輩にこう言った。
「おれたちは卒業するから、あとはえみを頼んだぞ。えみが誰かにいじめられていたら、絶対助けるんだぞ。えみにいじめられたら、俺たちに言ってくれ。」
冗談交じりでそう言った玉先輩の言葉から、優しさと切なさが伝わり、目頭が熱くなった。
私は先輩方にスポーツ服と手紙のプレゼントを渡した。遠くに行ってしまう玉先輩には、自分で編んだミサンガを渡した。
別れ際、私は玉先輩と大きなハグをした。
「做好自己。」玉先輩は私にそう言った。玉先輩がいつもわたしにかける言葉である。Make yourself.日本語では、「自分の道を生きよ。」と訳すことができるかもしれない。私の誕生日の時に玉先輩が贈ってくれたのもこの言葉だった。
玉先輩が北朝鮮に旅行に行ったとき、そこから送られてきたポストカードにも同じ言葉が書かれていた。
「坚持做自己」。その簡単な一言に、先輩からの最大の励ましとエールが包まれていた。
厳しい指摘を受けることも、私の考えを鋭い論理で反論するときも、間違っていることを気づかせてくれたのも、玉先輩だった。
玉先輩は、私の言うことをすべて同意することはなかった。「えみの考えは素晴らしいと思うけど、ぼくは~だと想う。」いつもそう言っては私に立ち止まるチャンスを与えてくれた。
でも、そんな先輩が贈る言葉はいつも、「自分らしく生きなさい。」という言葉だった。それは、卒業して遠く離れて行ってしまうときも同じだった。
「僕らがえみを送るよ。」そう言って、私が寮に戻るうしろ姿を先輩方が見送ってくれた。
先輩たちに背を向けて横断歩道を渡ったあと、私はまた先輩たちのもとに戻ってきてしまった。
中国語には「舍不得」という言葉がある。「手放すのが惜しい。別れるのが惜しい。」という意味だと思う。私は、先輩たちが舍不得でたまらなかった。
先輩たちのいない日常なんて、想像できなかった。
でもこれからは、先輩たちのいない中で、成長していかなければならない。大好きな先輩たちの卒業は、私にとって大きな試練だった。
私は二度目のハグをすると、横断歩道の向かいに渡り、今度は走って振り返らなかった。
電話やメールでいつでも連絡ができるとはいえ、毎日会うことができないのは、やはり辛い。でも、それを乗り越えて強くなること。
先輩方が残してくれたのは、かけがえのない思い出だった。これからどんなことがあってもくじけずに歩いていこうと決意して、私は涙を拭いた。
上海の風
7月の第三週、私は風邪を引いてしまった。おそらく、クーラーからでてきたカビから感染した恐れがある、夏風邪にかかってしまった。
最初は、喉の痛みから始まったのだが、その後熱や頭痛が襲い、大学内の病院に行った。「風邪」と診断されたが、調子の悪さはその後一週間続くこととなった。
もともと行く予定だった杭州の研修も、欠席せざるを得なかった。
しかし、ひとつだけ、絶対に成さなければならないことがあった。それは、南京に行くことである。
私は、7月21日に南京大学の平和学の劉成先生に南京大学で面談をする約束をしていた。頭痛が治らないなか、私は7月20日12時の新幹線で南京に向かった。
駅に着くと友達の張くんが迎えに来てくれていた。荷物をユースホステルに置くと、張くんが南京の観光地を案内してくれた。
途中で咳の発作があったが、じっとしているよりも汗をかいたほうが早く治ると聞いていたので、そのまま歩き続けた。
そして何より、南京に来たら治るんだ、治さなければいけないんだという気持ちが足を動かした。
夜ご飯は南京大学老校区の食堂でで張くんにご馳走してもらった。南京大学老校区の建物はまるで、昭和時代にタイムスリップしたようだった。
市内の中心にある大学は、周りをビルに囲まれて、まさかここに大学があるとは想像もつかないところにある。
1902年に建てられた南京大学は、時の流れを感じさせない古い建物が立ち並んでいる。
時とともに瞬く間に変化していくのは、大学の周りの町並みの方だった。
21日、前日は咳で寝付けず、頭痛とともに目覚めた。
この日は、南京大学劉成先生にお会いする大切な日である。私は身支度を済ませ、地下鉄に乗った。
上海と異なり、南京は蒸し暑い。地下鉄に1時間揺られ、南京大学新校区の地下鉄駅にやっと着いた。
劉成先生と9時半にこの駅でお会いする約束をしていた。 私はというと、体調がすぐれない状態で、吐き気まで催していた。
「今日は会えないかもしれない。」ということが頭をよぎったが、ここまできて会わないという選択肢はない。
9時半、地下鉄の駅の前で初めて劉成先生とお会いした。
先生は、「よく来てくれたね。南京大学へようこそ」と言ってくださった。「いまから学内を案内しよう!」劉成先生の案内のもと、私たちは南京大学新校区を見学して回った。
中国の大学はとにかく大きい。その大きさといえば、学内にバス停があることを想像して頂ければ分かるだろう。自転車などの手段がなければ、授業に間に合うことができない。
きつい身体をじっと堪えて、わたしは笑顔でいるように心がけた。歴史学部は建てられたばかりで、すべての研究室も教室もからっぽだった。
「9月には研究室も教室もすべて揃っているよ。
授業が始まるから、すべて揃わないといけないんだ。」先生の研究室に案内され、何も空っぽの研究室の前で写真を撮った。歴史学部の見学が終わると、大学のホテルの下のレストランでお茶を飲むことにした。ここからが、私の重要なときである。
ボイスレコーダーのスイッチを入れると同時に、私の中のスイッチも入った。わたしはまず自己紹介をした。その始まりは、中国では必ず聞かれる質問「あなたはなぜ中国で勉強しているのですか?」という質問の答えからだった。
「2012年大連外国語大学に留学していたとき、尖閣諸島問題による日中関係の緊張を目の当たりにし、このままではいけないと考えて、中国の大学院に行くことを決意しました。」
私が自己紹介を終えると、今度は劉成先生が自己紹介をしてくださった。
劉成先生は、2003年にイギリスに留学した際、平和学という学問に初めて触れ、この学問を中国で発展させたいと思い、中国では初めて、南京大学で平和学という授業を開講した。
現在は国連平和学会に出席したり、中国国内で平和講座行っているほか、平和会議のために日本にも何度か訪問されている。
わたしは、あらかじめ用意していた質問をひとつずつ聞いていった。劉成先生は、分かりやすく丁寧に答えてくださった。
お昼になると、「僕にお昼をご馳走させてね」といって、食事を挟みながら交流を続けた。
優しくて親切な先生は、私の心の壁をも溶かしていった。
私が、自分の体調がすぐれないこと、いままで見られない症状があり、自分が重い病気になったのかもしれないと心配していることを話すと、「病は気からだよ」という言葉からはじまり、私を励ましてくださった。
「ガンかもしれない。と疑ってたら本当にガンになるよ。あなたの症状を聞くと、そんな重い病気にかかっているとは思わないよ。」その言葉を聞き、安心した。
7月14日に引き始めた風邪は、一週間後に腕の筋肉が痛くなる症状から、これは大変な病気かもしれない、と判断したわたしは、大学の友達の言うとおり、上海に帰ったら一番に病院に行こうと決意していた。
しかし、不思議なことに、劉先生と話していると、頭痛や吐き気、風邪の症状がどんどん和らんでいくのが分かった。
「病は気から」。湖南省での2週間の支教を迎え前のプレッシャーと、3万字の期末論文、大好きな先輩との別れ、バドミントンはする気にもなれず、毎日部屋に閉じこもって終わりのない論文と向き合う日々が続いていた。
奨学生として復旦大学に留学していることは、前者以上の責任として重く肩にのしかかっていた。気づかぬうちに自分を追い込み、風邪を引くと、メンタルの弱っていた私にはたちまち大きな負担となってしまった。
そんな自分の背景を、劉成先生と話して初めて客観的に見ることができた。そして、午後2時までに及んだ劉成先生の面談のあとは、なぜか肩がとても軽くなり、笑顔も見せられるようになっていた。
その変化に、自分でも驚き、嬉しくなった。
面談の最後、劉成先生は「9月26日南京大学で国際青年平和学講座があるので、あなたもぜひ参加しなさい。」と言ってくださった。
私は嬉しくてたまらなかった。その他にも、ここでは書き切れないが、中国で平和学を学ぶ私にとって、その大きな一歩となる今後のチャンスをたくさん頂くことができた。
駅まで送ってくださった劉成先生に9月に会いましょうと別れを告げて、私は大学を後にした。
一泊1000円程度のユースホステルは、世界各国にある。
その地域ごとの特色があり、バックパッカーたちが集まるホステルは、必ず仲間と出会うことができる。
私は、中国国内を旅するときはもちろん、アメリカでもユースホステルを利用していた。6人部屋に戻ると、昨夜出会った友達が「今日はどこに行っていたの?」とすぐに聞いてくる。
まるで家のような温かみを感じる。私が日本人ということを、全く気づいていなかった彼女たちに、「あなた(中国の)どこ出身?」と聞かれると、私はいつも「どこ出身か当ててみて」と言ってみる。
「発音を聞くと、たぶん南の方だと思う。海南島?」など、大抵の場合中国の南や台湾などと言われる。
どきどきしながら、最後に私が日本人だということを伝えると、びっくりして、今度は日本に移民した中国人なのか、家族に中国人がいるのかと聞いてくる。私が、生まれも育ちも家族も日本だと伝えると、彼女たちは口をあんぐり開けていた。
友達になると、相手がどこの国の人か、どこの出身か、そんなことはどうでもよくなる。
私たちは仲良くなると、美味しいレストランの話をするし、好きな男の人のタイプも聞き合う。困っていたら助け合うし、嬉しい時は一緒に涙を流して喜ぶ。友情に国境がないこと、愛に国境がないことは、身を持って学んだことである。
7月21日、劉成先生に励ましをいただいた私は、改めて元気を取り戻した。午前中南京大虐殺記念館を訪れ、午後は南京大学の友達と中山陵を訪れた。
地下鉄やバスでの移動中は立ってでも寝られるようになった。そしてなぜか目的地に着く一歩前で目が覚めることができるのである。
今回は、復旦のクラスメイトから南京大学の友達を紹介してもらい、私の南京の旅をサポートしてもらった。
一緒に観光地を回ったり、南京料理をご馳走してもらったり、「友達の友達」にとても親切にしてもらった。
大学付近で遊びに夢中になっていると、時計が午後5時15分を回っていることに気づいた。
午後6時上海行きの新幹線に乗らなければならなかった私は友達の付き添いのもと、急いでタクシーに乗り込んだ。
しかし、ラッシュアワーでタクシーは渋滞で動けなくなり、今度はタクシーを降りて地下鉄に乗り換えた。5時55分に新幹線に滑り込んだわたしは、ほっとして席に座ると列車が走り出す同時に眠りに落ちてしまった。
たった1時間40分で上海と南京を結ぶ高鉄。上海の夜景を見ると改めてひとつの都市を越えてきたことを実感する。私は今、世界で有数な経済大都市上海にいるのだ。上海の風が、「がんばれよ。」と言って私の背中を押しているように感じた。
吉永英未という存在
中国では、Wechatが日本で言うLINEかつブログのような存在で、ほとんどの中国人が使用している。
そのWechatで、わたしは今学期の終わりに自己紹介と自ら書いたエッセイを載せて投稿した。
すると、たくさんの方にシェアしていただき、2015年7月25日の現在で閲覧数3328、いいね!127、シェア数22となっている。コメントもたくさん頂き、「あなたのブログを見て感動しました。ぜひ応援させてください。」と中国各地から友達申請が届く日が続いた。
自分の予想以上にたくさんの方に吉永英未という存在を知っていただくことができた。
夢を叶えるために、たくさんの人に自分について知っていただき、自分の夢についてより多くの人に知ってもらうことは、とても大切なことだ。
いまでは、私が「私の夢はね、、、」と言うと、「世界平和でしょ。」と初めて会った人も私のブログを見たひとはそう答えてくれる。
Yahooで「復旦大学」と検索すると、自分の日記が出てきたり、百度(バイドゥ)で「吉永英未」と検索すると私の書いたエッセイが表示されたり、目に見えない様々な方々に支えられて、応援されて生きていることに気づく。
自分の夢は、自分にしか追いかけられない。(ジタバタと)地面を足踏みすることも必要。
そこから一歩踏み出すことでチャンスを生み出し、それを掴み取ることができる。それがいちばん肝心なことなのだと思う。
チャンスを掴めるか否かで、その後の人生も大きく変わってくるにちがいない。でも、ジタバタ足踏みをしている間はとてもつらい。
自分が成長しているのかどうかが分からなくて、このままではいけない、と自分を何度も責める。
・・・・・・私はこの半年、この足踏みにとても苦しんだ。
しかし、いつか必ず、その泥沼から抜け出すことができる。蓮の花は、その水が汚ければ汚いほど、濁っていればいるほど綺麗な花を咲かせる。
はまってしまった泥水が濁っているほど、そして深いほど、次の一歩の可能性は限りなく大きい。
苦労の上に努力を重ねて、その辛さを人に見せることなく、綺麗に前を向いて咲く蓮の花は、美しい。
私は、夢を叶えるために、この世に生まれてきた。だから、夢を叶えるために全力を尽くしたいと思う。
湖南への出発を前に、私は一生夢を追いかけ続けることを決意し、言葉にしておきたい。人生はどれほど長く生きたかではなく、どんなに真剣に一生懸命に生きたかである。
それならば、私は、泥水の中で美しく咲く蓮の花のように生きたい。
7月26日 吉永英未
《今後の予定》
7月27日 寝台列車で19時間湖南省怀化支教地区(貧困地区)へ
7月28日~8月12日 支教
8月12日~8月14日 湖南省見学
8月15日~長沙から列車で上海へ
8月18日 テレビ収録 在中国日本大使館 日本人留学生と日中関係
日本人留学生として日本領事館で日中学生による討論会のテレビ
取材を受けることになりました。
8月19日 鹿児島へ帰国
9月2日 上海へ戻る 研究生2年生一学期開始
7月27日からの半月は、中国語では「支教」と呼ばれる、中国の貧困地区で子供たちに教育を提供するボランティアに参加します。学校の宿舎に子供達と住み、一緒に過ごします。
私の支敷場所は国家重点支教地に指定されている、中国で最も貧しい地区のひとつです。
支教に参加し、中国の貧困地区の子供たちのために微力ながら自分の力を尽くすことは、中国に留学中に行いたい事のひとつでした。
厳しい体力テストと面接を通過して、復旦大学代表として毎年支教を行っている小学校に派遣されます。
私達は全員で8人のグループです。私は副リーダーになりました。過酷な環境の中で過ごす2週間にある程度の覚悟は出来ていますが、どんなところなのか、行ってみなければわかりません。
でもきっと、どんな困難も8人で乗り越えていきたいと思います。
また、現地ではインターネットに繋ぐことが難しいかもしれませんが、チャンスがあり次第ネットに繋いでみたいと思います。
それでは、鹿児島にいらっしゃる方は鹿児島でお会いしましょう!日本の皆様、暑さに負けずに、一日一日幸せな日々をお過ごしください。
吉永英未より